オートゥイユ・ロンシャン公爵
ニューヨーク港から出帆した〈イル・ド・フランス号〉での船旅は、ここ数年女性として生きる悦びを放棄してきたパトリシアにとって夢の様な濃密な時間となった。
同行者であるアマルティは紳士的でもあり情熱的でもあり野性的な一面すらあった。旅の途中、二人は親密さを増して行き、イギリスのポーツマス港へと寄港した際にはすでにパトリシアは長旅の目的すら忘れかけていた。
ポーツマスからル・アーブル港へと向かう船内でいつもと同じように夕食の席に着いていたパトリシアは、正面に座るアマルティの様子が普段と異なっている事に気がついた。
「何か気になる事でも?」
「君の背後、壁際に座っている男──おっと、振り返っちゃダメだ! 彼はイギリスの秘密勤務局員だよ。名前はアンドリューズ・フォーブ。参ったな、イギリスの国家特務機関まで乗り出して来るなんて」
苦虫を噛み潰すアマルティの姿を見て、パトリシアは急速に現実世界へと引き戻された。
「あなたは一体何者なの?」
「どうしたんだい、いきなり?」
「アメリカ滞在中のフランス貴族なんて大嘘よね。あなたが船内にいるフランス人との接触を意図的に避けていたのは気づいていたわ。でもそんな事はどうでも良かった。私はきっとあなたを──」
パトリシアの言葉のさなか、突然アマルティが立ち上がった。
「奴の姿が消えた! 僕らの部屋を家捜しするつもりだ。あそこには認識票が置いてある! 君はここから動くんじゃないよ!」
それだけ言い残してアマルティは船内レストランから出て行った。パトリシアは一時的にアマルティの勢いに呑まれて彼の指示に従っていたが、すぐに事件への立ち会いこそが自分の本分だと思い出し、船室へと駆けて行った。
船室へと辿り着いたパトリシアが扉を開けるとそこには誰もおらず、アマルティの認識票も彼の荷物の中に残されていた。狐につままれたような気分になったパトリシアであったが、突然甲板上で起きた騒ぎを聴き付け、慌てて部屋から駆け出して行く。
「どうだ! 見つかったか?」
「いえ! この暗闇の中では無理ですよ!」
船員たちが懐中電灯を片手に海面を照らし出して何かを探している。手にしているのは瞬間的に光を放つフラッシュライトであった為、捜索は絶望的な様子であった。
「何を捜しているのです?」
解かっている答えを確認するかの様に恐る恐るパトリシアは近くの船員へと問いかけた。
「男が二人揉みあって海へ落ちたのさ! 一人はポーツマスから乗船したイギリス人らしい。もう一人はフランスの貴族だって話だが──おや奥さん! あなたの御主人ですよ!」
長旅の間、アマルティと夫婦の様に寄り添っていたパトリシアの姿を見ていた船員はどうやら勘違いをしているようであった。それを指摘する余裕すらなく、パトリシアは甘い夢からの目覚めを知った。そして甘美な夢こそが悪夢への序章であるという現実を受け入れられず、打ちひしがれた。
ル・アーブル港へと着いた船から降りたパトリシアであったが、旅先案内人として期待していた伯爵を失い、正直途方に暮れていた。
(ジェームズが指定した日はまだまだ先だし、手紙には頼れないわよね──そうだ! ガニマール警部はどうかしら?)
ガニマールにはアローポリスの記事の為に幾度か取材に応じて貰っていた。直接の面識はないが、パリ警視庁を訪れれば彼とコンタクトを図れるだろうと安易に考えたパトリシアはル・アーブル駅からパリ行きの列車へと乗り込んだ。
乗船中はアマルティへの未練を引きずっていたパトリシアであったが、独り電車に揺られている内に当初の使命感のような物が再び燃え上がって来ていた。
なぜ認識票を持った者たちは殺されたり姿を消さなければならなくなったのか?
パトリシアは女の直感でアマルティが死んでいない事を感じ取っていた。あれはおそらくイギリス諜報機関を撒く為の猿芝居だったはずだ──そう考えると気が休まると同時にやり場のない怒りが込み上げて来た。
(私はまたしても男に捨てられたんだわ!)
自身の男運を呪うべきか、見る目の無さを自省すべきか、悶々としつつも当面この問題よりも先に考えなくてはならない事柄があった。
(フィールズは生きているのかしら? ザ・ラフは今何処に? アマルティとは何者なの? なぜイギリスの諜報機関が彼を追っているの?)
様々な疑問が答えを出せないままグルグルと彼女の脳内を駆け巡り、いつしかパトリシアは穏やかな眠りについていた。
「ガニマール主任警部はとっくに退官されています」
パリ警視庁を訪れたパトリシアは、受付の女性に一蹴をされても持ち前の記者根性を発揮し素直には引き下がらなかった。
「そんなことは判っています! 警部に面会したいのです。今どちらにお住まいか教えていただけませんか? わざわざこの為だけにニューヨークから来たんですよ!」
「ニューヨークからいらっしゃろうが、ニュージーランドからいらっしゃろうが同じ事です。退官した警察官の住所を教える訳には参りません」
初老の受付女性は澄ました表情で意志の固さを示すと、威厳を持って断言した。
「まあまあ、マーサ。まあいいじゃないか、せっかくのアメリカからのお客人だぞ」
背後から呼び掛けられた言葉を聞いてパトリシアが振り返る。
そこに立っていたのはズボンの折り目を誇張したり、ネクタイの結び目を気にしたり、カラーを蠟引きした、およそ警官らしくないお洒落な男であった。顔色は不健康で目付きには聡明さが欠け、長身で痩せぎすで弱そうなくせに、やたらと自信ありげな態度を示している。一言で言えばパトリシアの嫌いなタイプの男性であった。
受付女性はわざとらしく大きな溜息を吐くと、男へと挨拶をする。
「おはようございます、巡査部長。今日はお早い出勤ですわね。ところであなたが寛大なのは彼女がアメリカ人だからですか? それとも魅力的な若い女性だからですかね?」
「どっちだって同じことじゃないか! 初めまして、マドモアゼル。テオドール・ベシュ巡査部長です。気軽にベシュとお呼びください」
ロビーの一角にある応接用テーブルへと場所を移すと、パトリシアはベシュにアメリカでの殺人と失踪、それに纏わる「N.I.P.」という謎の言葉を伝えた。ついでにアマルティという青年貴族が事件に関わっている事を匂わせる。
「アマルト伯爵ねぇ。まあ、フランス人であるのならばパリ市警に調べられない国民はいませんよ。問題はN.I.P.か──」
ベシュはしばし黙り込むと、突然何かを決断したかのように顔を上げた。しかしすぐに黙り込んで悩み始める。そして突如顔を上げ、次の瞬間には再び黙り込むのを繰り返していた。それを目の前で見ていたパトリシアは募る苛々を押し隠しながら、気持ち悪いほど優しげに彼へと言葉で伝える様に促した。
「ベシュ、思い付いた事があるのなら言って下さい。あなただけが私の頼りなのです」
頼り──この言葉に過剰反応したベシュは勢い込んで立ち上がった。
「そうさ! 私個人の感情なんか、あなたを助ける事が出来るのならばどうでもいい! そうと決まれば行動あるのみだ! 行きましょう!」
先に立って歩き出すベシュを奇異な視線で捉えながら、パトリシアは彼の後を追った。
ベシュは公用車を運転しながら助手席に座るパトリシアへとこれから会いに行く人物に関して説明をしていた。
「奴はフランスで──いや、おそらく世界にとって最も危険な男なのです。今は表立った活動を控えて悠々自適な隠居生活を楽しんでいる様子ですが、全く持って信用ならない! 引退すると宣言した次の瞬間にでも金と女の為ならば撤回して〈新しい冒険〉を始める、そんな男なのです」
「それって──もしかしてアルセーヌ・ルパンの事ですか?」
パトリシアが目を輝かせながら興奮して、ベシュへと詰め寄る。
「その名前で呼ぶんじゃない! 刑事が盗っ人とつるんでいるなんて世間に広まったら信用ガタ落ちだ!──オホン! 失礼。我々は奴の事を〈マサン〉と呼んでいます」
動揺の余りに怒鳴ってしまったベシュは取り繕いながらフォローを入れる。
「マサン?」
ベシュの動揺などそっちのけでパトリシアが問い返した。
「英語で言う処の〈ジョン・ドウ〉や〈ジョン・スミス〉みたいなものです」
「ああ、『誰かさん』ということね」
「実際には今は何て名前を名乗っている事やら。悔しい事にパリ市警、いやフランス警察は奴と不文律の契約を結んでいるのです」
「契約?」
「そう。見ない、触れない、追及しない。警察だけでは手に負えない事件を解決する為に手を貸す代償として、奴が新たな悪事を行わない限り過去の出来事には一切言及しないというルールなのです。これをフランス警察の敗北と言わずになんと言いましょう!」
ベシュは悔しげにハンドルへと両手を叩きつけた。
「持ちつ持たれつ、という訳ね。でも制御の利かない無数の悪よりも、自制出来る統制された悪の方が警察にとっても都合が良いのではないかしら?」
「悪はどんな形を取っていようが悪なのです!」
力説するベシュの姿を見ながら、パトリシアは融通の利かない頭でっかちなこの刑事と上手くやって行くのには相当苦労しそうだと実感して、大きな溜息を吐いた。
フォーブル・サンジェルマン地区にある豪華な建物の前へと車をつけたベシュは、パトリシアをエスコートしながらアーチ型の門をくぐった。二つの棟の間にある中庭は広大で、パーティーが行われている現在は多くの屋台や見世物小屋が立ち並んでいた。
「今日はアンゲルマン銀行の感謝祭が行われているのです。奴の性格上、こういった社交的な遊びの場には必ず姿を現すはず」
周囲の喧騒に掻き消されない為にベシュがパトリシアの耳元で囁いた。
パトリシアは彼に不快感を与えない様にさりげなく、その熱い鼻息のかかった髪を掻き上げて空気に晒した。
「でも彼は変装しているのではなくて? ル──マサンは変装の名人だと聞いているわ」
「確かに。でも私には奴の変装を見破る自信がある。なぜなら──」
自信満々な様子のベシュがパトリシアの反応を窺うかのように言葉を止めた。
「なぜなら?」
嫌々ながらパトリシアが合いの手を入れる。
「なぜなら──奴は目立ちたがり屋だからだ!」
パトリシアは心の中でズッコケた。
「一番目立つ男がマサンだ! 間違いありません。例えばほら、そこの拳闘場。壮年のくせしてやたらと強い男がいれば、それが奴ですよ」
「そんな簡単に彼が見つかる訳が──」
そう言いながらも覗き込んだ見世物小屋のリングには、圧倒的優勢な状況に立っている壮年の逞しい男性がいた。
「彼がマサン?」
雄々しく凛々しいその姿に魅せられたかの様に、パトリシアはリングから目を離せないままベシュへと問いかけた。
「ええ、多分──」
ベシュはじっと男の顔を見つめていたが、今一つ確信を得ない様子であった。
「おい君! あのリングで戦っている男の名前は何て言うんだね?」
ベシュが隣りで観戦している観客の男へと呼び掛けた。
「名前? このプログラムに書いてあるよ」
ベシュは差し出されたチラシをひったくるかのように奪い取り、凝視した。
「えーっと──これだ! 黒きチャンピオン対オートゥイユ・ロンシャン公爵。公爵の名前はニューぺン・セイラー〈Nupen Sailer〉か! ワンパターンな奴め。アナグラムで丸わかりだぞ!」
「アナグラムですって?」
「ええ、奴は以前も〈Paul Sernine〉や〈Luis Perenna〉と名乗っていたのです。これらの文字を入れ替えると──」
「〈Arsene Lupin〉だわ!」
興奮したパトリシアの大声を耳にして、一瞬周囲が静まり返る。パトリシアは恥ずかしげに肩を縮こまらせ、ベシュは他人の振りを決め込んで離れていた。
「すみません──」
申し訳なさ気にパトリシアが肩を竦めると、周りに喧騒が戻って来る。気のせいか、彼女の目にはリング上の公爵も微笑を浮かべているように見えた。
「やあ、ベシュじゃないか!」
パトリシアを連れて楽屋へと向かおうとしていたベシュは、宿敵から先に声を掛けられて地団駄を踏んだ。
「随分久しぶりじゃないか! パリ市警に戻って来たのならば声を掛けてくれればいいのに。全く水臭い奴だ」
ニューベン・セイラー公爵は自身の正体を隠そうともせずに旧友へ向かって挨拶をする。
彼はすでに壮年を通り過ぎている年齢のはずであったが、鍛え上げられた肉体に衰えは見えず、無垢な子供の様な笑みはこれまでと変わらず多くの女性に好感を与える武器となっていた。
「さあ、こちらの魅惑的なお連れさんを紹介してくれないか? まさかベシュの彼女という訳ではないだろう? マドモアゼル、悪い事は言わないから今からでもこの男から私へと乗り換えた方が良いですよ。私も自分が完璧だと自負する訳ではないですが、欠陥だらけで嫁さんに逃げられたこの男の百倍、いや千倍はマシだと思いますよ」
「ふざけるなよ、バーネット!じゃない──セイラー!」
戯れ合う二人の男たちの姿を見て、パトリシアは心の底からの笑い声を上げた。
「本当にお二人は仲が良いのですね──」
『全然っ!』
ベシュとセイラーの言葉が被った。
アンゲルマン邸の一室を借りたセイラー公爵は、ベシュが聴いた内容と同じ話をパトリシアから聴かされた。
「N.I.P.ですか。確かそんな名前の秘密結社があったような噂を聴いた事がありますね」
「秘密結社ですか?」
パトリシアがセイラーの返答に驚きの声を上げる。
(ジェームズが秘密結社のナンバー一ということは、彼が作った組織という事?)
「ちょっと確認してみましょう」
セイラーは壁際に設置されている電話を使って誰かと話し始めた。しばらくして電話を切るとベシュとパトリシアの元へと戻って来る。
「〈Near Impulse〉──鼓動に近いという意味ですかね。何を目的とした組織かまでは存じませんが、最近裏社会で急速に勢力を増しているようです」
「さすが! 餅は餅屋と言う訳だ」
ベシュが軽蔑するかのように吐き捨てた。
「この程度の情報はイギリスの秘密勤務局でも把握しているさ。我がフランス警察が無知・無関心なだけだよ、ベシュ巡査部長」
いがみ合う二人を尻目に、パトリシアは深刻な表情を浮かべながら呆然としていた。
「どうしたのです?」
セイラーが優しく問いかける。
「解かったんです。N.I.P.の目的が──」
「ほう、そいつは凄いや! ベシュ様もセイラー様も必要なかったようですね!」
ベシュが茶化すとセイラーが窘めた。
「やめろよ──それで、彼らの目的とは?」
「〈Near Impulse〉なら略称は『N.I.』でなければ不自然なのです。『N.I.P.』と表記しているという事は〈Near In Pulse〉の略なはず。この言葉を組み替えると──」
パトリシアの言葉の続きはセイラーが引き継いだ。
「〈Arsene Lupin〉か」
パトリシアの目には、不敵な笑みを浮かべるセイラーがなぜか喜んでいるかの様に映っていた。
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