ルパンの大財産
南野洋二
N.I.P.
「実際の所どうなんだね? 彼女はアルセーヌ・ルパンの実の娘なのかい?」
ニューヨーク市にある新聞社〈アローポリス〉の社長室へと呼び出されたパトリシア・ジョンストンはその質問に困惑した。
目の前にある本革で作られたゆったりとした椅子に腰を下ろしているのが、アメリカ合衆国でもっとも支持されている犯罪専門新聞である〈アローポリス〉の創業社長、ジェームズ・マッカラミ―である。実際の年齢は六十歳を超えていたが、まだまだ精力的に仕事をこなす気力と体力を兼ね備えていた。
「記事の結論でも書きましたが、本人が母親から聴いただけですから本当か嘘かはそのロシア系の母親に訊かなければ解かるはずがありません。万が一ルパンに訊く機会があったとしてもおそらく否定するでしょうね。ボス、一体どうしたって言うんです?」
パトリシアは質問に対して抱いた不可解な印象を隠そうともせずに問い続けた。
「確かに我が誌でもルパンの特集を組んだ事はありますが、もうすでに過去の人物でしょう? 私の書いた記事なんて三文程度の価値しかないゴシップ記事に過ぎません」
パトリシアは二十代後半の背が高く健康的で明るく、誰しもが好感を抱くタイプの女性であった。その瞳に宿った知性と情熱は男たちを魅了するが、一方で頑なな自我の強さも見受けられた。
「まあまあ、そう言うなよ。好奇心という奴さ。何しろルパンという男の人生は、果たして本人ですら把握し切れているのか疑問に思うくらい壮大で謎ばかりだからね」
マッカラミ―は葉巻煙草を取り出すと、パトリシアへも一本勧めた。
「いえ、私は──」
「ああ、君は紙巻派だったね。儂はどうもあの安っぽい感じが好きになれなくてね」
「ではなくて、止めたんです。息子に悪影響がありますから」
彼女の言葉を聞いて、マッカラミーは点けたマッチの火を吹き消すとそのまま灰皿へと捨てた。それから葉巻をケースへと戻す。
「そいつは立派な心掛けだ。儂も見習いたい物だが、この歳になると嗜好を変えるくらいならいっそ死んだ方がマシだと思うことが多くてね」
「社長に居なくなられたら、アローポリスは廃業しますわ」
マッカラミーの冗談とも思えぬ言葉を、パトリシアはあえて笑い飛ばした。
「まあ、確かに副社長がアレだからな。君には本当に申し訳なかったと思っているのだよ。いつも言っているが、もっと援助をさせて貰えないか。君には不要かも知れないが、ロドルフにはいずれ必要となるだろう?」
「そんなお気遣いされなくてもあの子はお爺ちゃんの事が大好きですわ」
パトリシアは朗らかな笑みを浮かべながら答えた。
「パトリシア──」
突然、マッカラミーが真剣な表情を浮かべながら切り出した。
「今、私とフィールズは大いなる野望を実現する為に動いているのだよ。それは犯罪を暴いて記事にしているこの仕事以上に危険な活動だ。だが見返りも大きい。君にその分け前を得られる権利を与えたいと思っているんだ」
「まあ、ジェームズ! 何て恐ろしい事を言うの? 今だって新聞社で充分な利益を上げているではないですか。これ以上一体何を求めるというのです?」
パトリシアの指摘に対してマッカラミーは興奮気味に熱弁する。
「浪漫さ! 我々男たちは浪漫の為に生きているのさ! そしてこれは我々の当然の権利の追求でもある。この機会を逃したら儂はロドルフに男子たる者のあるべき姿を語る事が出来なくなってしまう」
マッカラミーは最後に表情を緩めて冗談めかして笑った。
一瞬呆気に取られていたパトリシアもすぐに気を取り直して皮肉で答えた。
「あら、ロドルフには男を語る必要はないですわ。日頃から父親を反面教師にするように言っておりますから」
「そいつは手厳しい指摘だね」
マッカラミーはおどけながら返答すると、机の引き出しから一通の封筒を取り出した。
「これを持っていてくれたまえ」
「何ですか?」
受け取ったパトリシアが中身を確認すると、彼女自身の顔写真が貼られた認識票のようなものと、封蝋された手紙が入っていた。手紙の表には『九月五日フランスにて開封せよ』と指示が書かれている。
「N.I.P.ナンバー十二、パトリシア・ジョンストン──どういう意味ですか、これは?」
パトリシアが認識票に記載されている文字を読み上げた。
「今はまだ何も知らなくていい。だがその認識票は手紙と一緒に大事に取っておくんだ。ただし手紙は絶対に指定日前に開けてはいけないよ。君とロドルフの安全に関わるからね。お膳立ては儂とフィールズで全て整えるから、君は半年後にフランスへ行き、その手紙に書かれている指示に従うだけでいい」
これ以上は伝えるつもりはないというマッカラミーの意志を感じ取ったパトリシアは毅然とした態度で了承した。
「解かりました。あなたには拾っていただいた御恩がありますので、これらはお預かり致します。あなたは私にとってロドルフの次に大事な方ですから」
「光栄だよ、パトリシア。儂も君とロドルフを愛しているよ」
マッカラミーは立ち上がるとパトリシアを抱擁し、優しく部屋から送り出した。
翌日、ジェームズ・マッカラミーは遺体となって発見された──。
一晩泣き暮れたパトリシアが新聞社へと出社すると社長室から呼び出しが掛かっていた。
重い足取りで社長室の扉を開けると、先日先代社長が座っていた椅子に副社長が腰を下ろしていた。彼はパトリシアの来訪を知り、顔を輝かせた。
「パトリシア、久しぶりだね! この哀しみを共有する為に君を抱き締める事を拒否する事は無いだろうね?」
立ち上がった男ヘンリー・マッカラミーが近づいて来ると、パトリシアは手を伸ばして身振りで彼を押しとどめた。
「冗談はやめて。そんな気分じゃないわ。慰めて欲しいなら奥様に甘えなさい」
「アレが結婚した目的は僕ではなく金だよ。僕は今になって君にどれだけ愛されていたかを知ったんだ。君さえ良ければ──」
「ヘンリー──いえ、マッカラミーさん」
パトリシアはウンザリとしながら溜息を吐き、彼の言葉を遮った。
「あなたには感謝しているわ。何も知らなかった田舎娘を大人にしてくれた事、ロドルフという生き甲斐を与えてくれた事。でもこれからの私と息子の人生にあなたは不要だわ。奥様から愛される努力をしなさいな」
昔の恋人からの完全なる拒絶を受けて、ヘンリーは衝撃を受けたかのようによろめいた。そのまま社長の椅子へと座り込む。
「──解かった。僕たちのプライベートに関しては横へ除けておこう。それよりも差し迫った問題は、僕がこの会社を引き継いだという事実だ。知っての通り副社長としての僕の肩書きなんてお飾りに過ぎない。一体これからどうしたらいいと思う?」
普段は長身で快活で根拠のない自信に満ち溢れているヘンリーが、肩を落として小さくなっている姿を見てパトリシアの中でなぜか使命感のような物が膨れ上がってきた。
「──追うのよ」
「追う? 何を」
「ジェームズが何故殺されなければならなかったのか。あの日、彼は私にこう言ったわ『フィールズと大いなる野望を実現する為に動いている』と。顧問弁護士のフレデリック・フィールズなら何かを知っているに違いないわ」
今にも動き出しそうなパトリシアの姿を見て、ヘンリーは驚きに目を見張った。
「──君は変わったね」
「そうかしら? だとしたらそれもあなたのおかげじゃないかしら」
パトリシアの言葉を受けて、ヘンリーは失くした宝物を諦める決断をしたかの様に大仰に両手を広げて肩を竦めた。
「僕は何をすればいい?」
「事件の核心はフランスにあるのよ。必要経費だけ持って頂戴」
ロドルフを叔母であるババスール夫人に預けたパトリシアは、単身ジェームズの遺体が発見されたリバティー広場近くの商店街を訪れていた。警察の見立てでは、マッカラミーは商店街に出入りしているマフィアの取材をしている最中にマフィア同士の抗争に巻き込まれて被害に遭ってしまったという事であった。
勿論パトリシアはそんな説は微塵も信じていなかった。
遺体が発見された建物内の封鎖された一室へと入って行く。当然すでに遺体は無いが、パトリシアは黙祷を捧げ、尊敬していた友人へ犯人逮捕を誓った。
その瞬間、視界の隅を何かの影がよぎったのを感じてハッと振り返る。
すでにそこには誰もいなかったが、確かにこの部屋へと入って来ようとして彼女の姿に驚き、咄嗟に姿をくらましたのだ。
(どういう事だろう?)
すでに遺体も何も無い部屋。警察だって調査・検証を終えている部屋に一体何の用があるのか?
パトリシアの脳裏に生前のジェームズの言葉が蘇る『警察と同じような調査をしたところで所詮情報の後追いに過ぎない。新しい発見をするには奇抜な発想こそが肝要だよ』。
(奇抜か──)
室内を見回して何処かに不自然な点がないかを確かめる。
すると壁掛けの止まった時計が目に付いた。
近づいて良く見ると、弾痕が残っている。警察はこの時刻に犯行があったと考えて壁に残った銃弾を回収したのであろうが、もしも時計が止まっている理由が銃撃に因る物ではなかったとしたら──。
パトリシアは時計を壁から外して中を開いてみた。填め込まれた駆動部を分解してみると、そこに見知った認識票が挟まれていた。
『N.I.P.ナンバー一、ジェームズ・マッカラミー』
(ジェームズの写真だわ! どういう事かしら? 彼がここに隠したのだとしたら、この部屋はジェームズが借りていたという事なの?)
驚きながら認識票を手に立ち上がるパトリシア。その背後から突然男の手が伸び、彼女の口を塞いだ!
「その認識票を寄越せ」
背中がチクリとし、パトリシアはナイフを突きつけられているのを感じ取った。
頷くと、左手に握った認識票を自らの肩越しに背後へと差し出す。
男は認識票を奪い取るとパトリシアを床へと押し倒し、部屋から飛び出して行った。
その姿を目で追おうと振り返ったパトリシアであったが、すでに男は消えていた。
グリニッジ通りにあるフレデリック・フィールズ邸を訪れたパトリシアは門前の呼び出しベルへと手を掛けたところで思い留まった。
門が開いているのだ!
先程襲い掛かって来た男の影を思い浮かべ一瞬躊躇したが、懐に入れたコルト・ニューポケットを握り締めると、意を決して屋敷の中へと入って行った。
案の定、玄関の扉にも鍵は掛かっておらず、パトリシアは足音を忍ばせながら一つ一つの部屋を覗いて行く。
結局一階には誰もおらず、二階へと続く階段を昇って行くと、丁度正面の扉から男が出て来る場面に出くわした。
「動かないで!」
パトリシアがその男へと向けて拳銃を構えると、彼は抵抗する様子も無く素直に両手を上げた。その指の隙間から認識票が垣間見えている。
「何てこと──」
フィールズの死を推察したパトリシアがショックを受けてよろめく。
「良ければ説明させて貰えるかな?」
男は困った様な表情を浮かべながら彼女へと呼び掛けた。
「僕の名前はアマルティ・ディ・アマルト伯爵、フィールズは僕の顧問弁護士なんだ。今日は彼から火急の用事があると聞いて急いで来たんだけど──」
青年貴族は整った顔立ちを不安げに歪めながらパトリシアの反応を窺う。
「フィールズは無事なの?」
「無事も何も屋敷はもぬけの殻さ。書斎の机の上にこれだけ残っていたんだ」
アマルティが懐へと手を伸ばすと、パトリシアが拳銃を構え直した。それを見てアマルティは一瞬動きを止めたが、不意に相好を崩した。
「ねえ君。拳銃を撃つ為には撃鉄を起こさなくてはいけないよ」
パトリシアはハッとなって視点を拳銃へと移した。だが、ちゃんと撃鉄は上げられている。目線を戻すと目の前ではアマルティが拳銃を構えていた。
「さあ、これでイーブンだ」
銃を構えながらアマルティが近づいて来る。パトリシアが二、三歩後ずさると背後は階段となっていた。踵が支えを失くしてバランスを崩したパトリシアが階下へと倒れ込んで行く!
その体を、素早く飛び込んだ伯爵が抱きとめた。
「──ズルい人ね」
パトリシアは礼ではなく、男を非難する言葉を述べた。
「信頼とはこうやって積み重ねて行くものさ」
青年は魅惑的な笑みを浮かべながら快活に笑った。
二人が書斎へと場所を移すと、アマルティが釈明を始めた。
「さっき見せたかったのはこれさ」
アマルティが取り出した封筒には『アマルト伯爵へ』と書かれている。
「そして中にはこれが入っていた」
パトリシアが彼から差し出された認識票を確認すると『N.I.P.ナンバー三、アマルティ・ディ・アマルト伯爵』と刻まれていた。
「あなたもメンバーなのね?」
「メンバー? なんだいそれ。君はN.I.P.について何か知っているのかい?」
彼女の質問に対して、アマルティは逆に好奇心旺盛な様子で問い返した。
「私もそれを知りたくてフィールズへ会いに来たのよ」
パトリシアはマッカラミーから受け取った自身宛ての手紙の件だけを伏せて、ここ数日に起きた出来事の全てをアマルティへと話して聞かせた。
「なるほど。君を襲ったその男が〈ザ・ラフ〉だろうな」
「ザ・ラフ?」
「以前フィールズから聴いたことがある。マフィアの為に働く清掃人だそうだ。フィールズも職業柄マフィアとの接触が多いからね。無事でいてくれれば良いけど」
「彼が唯一の手掛かりなのに──」
ショックを受けて肩を落とすパトリシアへとアマルティが悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「言い忘れていたけど、封筒にはこれも同封されていたよ」
アマルティが取り出したのはフランス行きの船舶のチケットであった。
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