第30話 君を知る
深夜を過ぎると常連客だけが残った。それも徐々に帰っていき、Club Utopiaは丑三つ時を過ぎてやっと閉店した。
パッと明るくなった店内のテーブルに、店長によって沢山のおにぎりとサンドイッチが並べられる。
「みんなお疲れ様!好きなだけ持って帰りな!」
ワイワイと湧く先輩とは対照的に、飲みすぎてソファに沈む円さん。円さんは毎日シャンパンを数本開けている気がする。
「円さん、あとで食べたいものは?」
「いちごホイップサンド。」
ほとんど呻き声。
水を求めて振り返った円さんの手に、ペットボトルのミネラルウォーターがちょうど収まった。
「お疲れ様でした。」
「あんた凄いわね。どこの店の子………は?」
瀕死の円さんはやっと、明るくなった店内でそれが春彦だと認識した。
「何やってんの!?」
「手伝いだよ。今日だけ。」
「ああ、姐さんこいつと知り合いなんだっけ?」
「姐さんって呼ばないでくれる。知り合いも何も、元彼よ。」
即座に爆笑する店長と、居心地の悪そうなハル。
「なんでいっちゃんは彼氏の元カノと友達でいられんの?神経がわっかんねぇ〜!」
「ゲラゲラ笑えるアンタの無神経の方が分かんないわよ馬鹿威親。」
店長の馬鹿でかい声に、先輩達は何事かと振り返る。店長は尚も笑いながら送迎の都合から着替える順番を指示して、さっさと車を取りに行った。
着替えの終わった先輩が、据わった目でハルを見た。めちゃくちゃ酔ってる。
「マジで円の元彼で、伊月と付き合ってんの?」
「…ハイ。」
「円、勿体ないことしたんじゃない?」
更衣室へ呼びかける先輩。返ってくるのは円さんの「何年前の話してんのよ。もっといい男を捕まえたからご心配なく」の言葉と高笑い。ハルは苦笑しながらグラスを仕舞っていた。
「あんたよく平気でいられんね。」
今度は私を見る。
「円さんもハルも、どっちも好きなので。」
「お子様すぎて好きの区別もつかないかぁ。」
「そういうんじゃないんですけど…。」
円さんは更衣室から出てくるなり、先輩を引っ掴んだ。
「ちょっと付き合いなさいよ酔っ払い。たつみ屋、今月で閉まっちゃうんだから。鴨そば食べられなくなっちゃうのよ。」
「ウソ?!行く!!」
二人はハイヒールをカツコツ鳴らして帰っていく。静まった店内で私とハルが着替えているうちに、送迎を終えた店長が戻ってきた。
「遅くまで悪かった。今給料出す。さっきの客のは別に良いよ。お前らのせいじゃないし。」
煙草を片手にレジを開ける店長はさっきまでの愛想をどこかに置いてきたようで、眉間に皺を刻みながら計算をしていた。
「お前は視野が広いから助かる。」
店長は茶封筒にお札を入れてハルへと渡す。そりゃどうも、と言いながら受け取ったハルはそのまま鞄へと突っ込んだ。二人ともいつもの雰囲気ではなくて、多分昔に戻っているんだろうな、と思った。
「あれお前煙草やめたの?」
「…ハルいつから煙草吸ってんの?」
ニコリと、ハルは笑って店長をどついた。それを受けて店長はハハン?としたり顔をする。
「お前めちゃくちゃ猫かぶってんじゃ〜ん!」
「いっちゃんかえろ。」
ハルは私の手を掴んでとっとと店を後にした。
少し歩いたところの駐車場に、ハルの黒い大型バイク。バイク自体乗るのが初めて。私の動揺を察して、私にヘルメットを被せて手を取った。
「ちゃんと俺に捕まってて。大丈夫だよ落とさないから。」
手を引かれるまま後ろに乗ってハグをする。それを合図に、ハルはゆっくり夜の闇へと滑り出した。
冷えた空気が首元を通り抜けて、ハルの温みが体に伝わる。抱きついた背は広くて、やっぱり今日のハルは知らない人みたいだ。
私は佐々谷春彦を何も知らないんじゃないかな。甘える場所として彼を選び、守られているようでは何も対等ではない。ただ寄りかかるだけなんて。
考え込んでいるうちに、ハルの部屋へと着いてしまった。ハルに支えられてコンクリートへと降りて、手を引かれるまま部屋の中へ入った。
あかりをつけたキッチンで、ハルは伸びをする。
私は絆創膏を剥がして、無防備なハルに後ろから抱きついた。
「もう平気だよ。」
「治ってきたねぇ。」
「…ハル良い匂いするね。」
「香水じゃない?先輩のやつ。」
「男の人みたい。」
「男の人ですが…。」
苦笑しながらこちらを向いて、ハルは私を抱きしめ直す。触れる唇を許容すると、キスはすぐに深くなる。初めて、微かに煙草の味がした。
大型犬にじゃれられてるみたいだ。よろける私の体をハルが支えている。苦しくなって、ゆるく制止すると、彼は大変名残惜しそうに唇を離した。
「どうしたの?」
「やきもち。」
「えっ?」
「俺嫉妬深いみたい。こないだ狩野に言われるまで自覚がなかった。…それだけいっちゃんが特別なんだけど。」
心がふわふわする。
耳元で大きく息を吐いたハルが、私の脇腹へと直に触れた。
「痛い?」
「全然。…はる、こっち向いて。」
かきあげた前髪をなぞるように、私はハルの頭を撫でる。額と額を合わせると、彼は触れるだけのキスをした。
「…いつにも増してかっこよかったよ。」
「…いっちゃんもね。」
ハルが服を捲って、アザの有無を確認する。
「いっちゃんはかっこいいよ。俺が女でも惚れてると思うもん。」
「…返事に困る。」
「色気がないこと気にしてるんでしょ?いっちゃんのは分かりやすくないだけ。こうやって気付いて寄ってくる男もいるわけだし、あんまり気にしない方がいいよ。」
「返事に困るってば。」
「まあこれ以上寄られても俺が追い返しちゃうんだけど。今日みたいに。」
ハルが片膝をついて、脇腹を甘噛みする。くすぐったくて、私は笑い声を漏らす。
「甘え方がワンちゃんみたいだね。」
「なに、ご主人様になってくれるの?」
「そういうところが可愛くない…。」
「俺を可愛いものだと思ってるの、いっちゃんだけだからね。」
「不良だったんだね。」
「威親先輩には負けるよ。俺は殴り合いの喧嘩までしなかったもん。」
「殴る前に降参させてたんじゃないの?」
根岸色した瞳がじっと私を見る。
「怖がらないの?」
「…怖くはないけど、店長が羨ましい。…あと円さんも。」
思わずため息を吐いてしまうほどの悔しさが胸の奥から込み上げてきた。そっかこれ、やきもちか。
「私も知りたい。春彦のこと。」
素直になるのに、ここまで勇気が要ると思わなかった。震える声の私を一度抱きしめてから、ハルは裾をゆっくり捲り上げていった。
出勤した私の、ドレスが着られそうにないので黒服にしてくださいという情けない申し出に、店長は速攻でハルに電話して「ちっとは考えろバカ」とキレ散らかしていた。
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