第31話 立花春彦のこと
「ハル、この傷どうしたの?」
真夜中の部屋。
艶っぽい流れに乗って、これから電気を消そうという時に、私は呑気に話の腰を折った。
首と肩の境目に、間近で見なければわからない傷痕。大体十センチくらいで、多分切ったもの。
「…引かない?」
「…不良時代の勲章?」
「喧嘩はしてません。」
少し息を吐きながら、私の両手を握るハル。
しまった。打ち明けるのに随分覚悟がいることを、無神経に聞いてしまった。
かと言って安易に撤回するのも良くないだろうと、私はハルの言葉を待つ。
「昔、自分で切ったんだよ。」
手首を切るだけでも勇気がいるのに。
私はつい、握られている手を捻ってハルの手首を確認した。
「
「ご、合理的だね?」
「…ははっ。ありがと。」
私の拙いフォローに、緊張の糸が解けたハルは目を伏せて、穏やかな口調で続けた。
「佐々谷の家に来てすぐの頃かな。最初は父親、次は母親。人生で二回も親に捨てられることってあるんだなぁって。なら俺も、立花春彦を捨てようって思ったんだよ。」
ほとんど反射的に溢れた私の涙が、ハルの手首を打った。ハルは少し驚いた顔をした。けれどすぐに笑って、私の涙を拭った。
「目が覚めたら病院のベッドにいて、隣に美和子さんがいた。…継母ってさ、意地悪だと思うじゃん。美和子さんは大喜びで俺を拾ったんだよ。ずっと会いたかったのよ、立花春彦くん、って。母親としてじゃなくて、まずは佐々谷美和子と仲良くなってね、って。絵を描くことも、美和子さんだけが応援してくれた。…美和子さんのそういうところ、六花そっくりなんだよ。美和子さんを見てると、なんで六花じゃ駄目だったんだろう、って思っちゃうんだ。美和子さんが良い人であればある程、俺は父さんを恨んじゃう。あの家に居ると、自分の弱くて醜いところばっかり目につく。だから高校卒業と同時に家を出た。…そんな時にね、瀬川伊月の絵に会ったんだ。」
ハルは涙でぐしゃぐしゃの私へ口付ける。
「俺が瀬川伊月のマユールにどれだけ救われたか、わかる?」
私の頭を撫でながら、ハルはそっと力をかける。私はその緩やかな流れに身を委ねた。二人でベッドに沈み込んで、触れるだけのキスをした。
「マユールを見た時、この人が見ている世界を知りたいと思った。もしかしたらこの人は、鳥達と同じ景色を見てるんじゃないかって。人間よりもずっときらきらしてて、色とエネルギーに溢れたところにいるんだろうなって。…あの時終わらせなくて良かったって、本当に思ったんだよ。」
「……私も、会えて良かった。」
美術科に通った高校三年間で、何度死のうと思ったか分からない。
思うように描けない癇癪ではない。至らない自分と向き合い突きつけられる無力感に、何度も心を折られてきたのだ。
もし私が本当にキャンバスごと飛び降りていたら。終わらせなくてよかったのは、私も同じだ。
「でも私、そんなにきらきらしてないよ。」
「…夜の蝶は十分きらきらなんじゃない?」
「…そっち?」
両手を絡めて、ハルの傷痕を唇でなぞった。
すぐに彼のキスが降る。
「ドレスのいっちゃんも綺麗で好きだよ。」
「……。」
「……なに?」
「……伊月って呼んで、春彦。」
どうせ理性を保つための予防線なんでしょ?と問えば、春彦はしばらく呆けたあと、シーツに顔を埋めて笑い始めた。大爆笑だ。
「この間先輩に怒られたのに。」
「私しばらく黒服専従。穂塚さん長期休養。」
「なんだ、俺行ってもよかったのに。」
「客追い返しといてよく言うよ……。」
「ああそっか、俺、やきもちで煙草捗っちゃうからだめだ。」
「ヤニまみれの春彦さんが見られなくてとっても残念ですぅ。」
「…この状況で悪態つくんですか伊月さん?」
「……おっまえ私が大人しく抱かれると思うなよ!」
べち、と背中を叩いて首元へ噛み付いた。そのままぐるんと形勢逆転して、私は春彦の上に乗る。拭ききれなかった涙を雑に拭って、ニヤつく彼の両頬をつねった。
「私は立花春彦を知らないから、どっちが良いとか無いけどさ。こっちに戻ってきたってことは、向き合う覚悟が出来たってことなんでしょ?…ごめんこれは鈴彦さんの受け売りなんだけど。」
「……
「分かりにくい心配の仕方してたよ。」
「……そう。」
春彦は私の左手をとる。もう絆創膏が要らないくらいに治っていた。
「ねえ伊月、このまま一緒に住まない?」
私を見上げる根岸色。
突拍子もなく、でもないこの申し出に、私は馬乗りのままキスをひとつ返した。
「良いけど、卒業してからね。」
私がこの甘い提案を丸呑みすると思っていたのだろう。彼は驚いた顔をしていた。
「なんだっけ、私がぐずぐずになったほうが、春彦としてはありがたいんだっけ?」
「…春川から聞いたね?」
「大正解。」
左手を包んでいた彼の片手を、私は握り返す。
「でもそれじゃ駄目だって分かってるから、待つって言ってくれたんでしょ?…私が先に泣きついたからあんまりあの…強気なこと言えないんだけど……。」
春彦は少し笑ってから、私を力強く抱きしめた。
「じゃあ次は俺が泊まりに行くよ。」
彼は耳元で呟きながら、私の髪を払う。指先はそのまま私の輪郭をなぞり、眼鏡を奪って枕元へやった。ついでにリモコンのスイッチを押して、部屋はやっと薄暗くなる。私は春彦の古傷を撫でた。
なんの躊躇もない、一直線の切り傷。
もし、ハルがもっと深く首を掻き切っていたら。今の私達は、どうにか命を繋いで出来ている。
それが私には、愛おしく思えて堪らなかった。
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