第29話 繁忙


 予定入りまくりの週末に、黒服の穂塚さんがぎっくり腰で動けない。


 私の左手は絆創膏で足りるくらいには癒っているので黒服専従でも、という私の提案を、店長は真剣な顔で断った。


「今日はいっちゃんがキャストでいてくれないと回んないのよ。みんな自分のお客さん来ちゃうから。」


 ホステスと言っても私に指名客などおらず、他のキャストのヘルプに入り、時たま団体様から場内指名を頂くくらいのもの。これは店長と円さんからの提案だ。学費の為に夜の世界に入った私が、いつでも昼に戻れるように。破格の待遇だと私は思っている。


 店長は凄い勢いで煙草を一本吸いあげて、もくもく煙を吐きながら言った。


「まあ助っ人呼ぶなり分身するなり、なんとかするんで。みんなは遠慮せずガンガン稼いでね。」


 開店とほぼ同時に指名客が二組。そのあとフリーが入って、また指名客が来る。あっという間にテーブル席は埋まって、キャストも皆お客のもとへ。


 そこからしばらく目まぐるしく席を回った。視界の端に助っ人であろう黒服らしき人影が見えたんだけども、それを気にしている暇はなかった。円さんから叩き込まれた接客術を駆使してこなし、待機席に戻ったのも束の間。いぶきちゃん場内指名です、と店長の声がする。


 何で今日こんなにクソ忙しいんですか?と店長に八つ当たりしそうなのを抑えて客席へと戻る途中、未だに慣れないハイヒールが床へと突っかかった。ヤベ転ぶ。そう思ったら腕を誰かに掴まれた。


「いっちゃん大丈夫?」

「すみません店長大丈夫で…。」


 黒服を見上げて私は固まる。

 これは店長ではなく、佐々谷春彦だ。


「何やってんの?」


 いつもはセットなんかしないふわっとした黒髪を、何だかすごくおしゃれにかきあげて、シャツもベストもバッチリ着こなして、すました顔で笑っている。


「先輩の頼みは断れないじゃん。」

「十年連絡絶っといてよく言うな!五番テーブルにキティとウーロン割り!」

「ハイハイ。…いってらっしゃい、いぶきさん。」

 

 私は完全に動揺しきったまま、場内指名をもらったお客さんの元へ。彼は一部始終を見ていたようで、怪訝な顔で私とハルとを見た。


「なに、ああいうのがタイプ?」

「だったらここに戻って来ませんよ。」


 愛想笑いを携えて、お酒を作るべくグラスを持つ。両手が塞がったタイミングで、お客の手が私の膝上のハンカチへ置かれた。


「タイプなんだよね。いぶきちゃんみたいな子。」

「あははよく言われます。」


 うわ久々に来たこの手の客。しかしこれに怯む私ではない。下卑た会話を適当にあしらいながら、膝上の手に冷やっ冷やのグラスを握らせる。お客さんはそれを一気に飲み干してテーブルへと置く。加速する会話。私は嫌な予感がして、膝の上でお酒を作る。すると一瞬ムッとした顔を見せて、私の腰へと右手を回して自分の体をくっつけた。


「ねえ、ちゃんと聞いてる?」


 客の呂律は若干回ってない。そういえば早い時間から飲み屋を梯子した末にここへ来たと言ってたな。三人で来店したのに一人残って、場内指名をくれたようだけど。緊張するような相手と飲みに出て、ペースを間違えて飲んだパターンか?ぱっと見気弱そうな人だもんな。そもそも一人残ったというか置いてかれたんじゃなかろうか。私は適当に相槌を打ちながら体同士の距離を空ける。ちなみに腰はまだ掴まれている。


「…わ、このドレス可愛いね。」


 するすると、裾を持ち上げようとする左手を両手で包む。


「あらちょっと飲みすぎちゃいましたかね。」


 水を用意しようとテーブルの空いているグラスを取る。この態度が面白くなかったようで、客は私の脇腹を力加減なしに握った。本人はくすぐっているつもりらしい。甘え下手か。アザ出来そうなんですけど、労災おりますかね店長。


「申し訳ありませんお客様。」


 ピシャッと、まるで冷や水を浴びせるみたいに冷たい声。聞こえた方を向けば、テーブルの側で、床に片足をつくハルの姿があった。


「そろそろお時間ですが、たくさん飲まれているようですので本日は、」

「延長しますぅ。ねぇ、いぶきちゃん。」

「それ以上飲んだら帰れなくなっちゃいますよ。」

「じゃあ一緒に帰ってうちに泊まってぇ。」


 抱きつく泥酔客。手が私の頬へと伸び、馬鹿力がかかる。


 それを阻止するハルの掌。盛大なリップ音にも動じず、しれっとお客の顔を押しのけて笑った。その顔の怖いこと怖いこと。


「今日のところはお帰りください。」


 傍目には、千鳥足の客を介抱する優しい黒服なんだけれども、割と強引に立たせて歩かせて帰らせている。私も追いかけて外へ出る。店長の笑いを堪えているような「ありがとうございました」が店内の喧騒に紛れていた。


 ハルは至極丁寧に客を乗せたタクシーの出発を見送って、一息つきながら髪をかきあげた。流行りのかっこいいをなぞらえたハルにチープさはなく、もとの良さに改めて感服する。


「お腹痛くない?握られてたでしょ。」

「明日アザになってそう。割りに合わない。」


 そこで私は、あのお客さんがお会計を済ませていないことに気付いて慌てる。が、ハルはちょっと荒んだ笑い声と共に大丈夫だよ、と言った。


「あの人たいした金額使ってないから。三人で飲んだ分のお代はもう貰ってるし。一見の迷惑客なんて出禁で良いでしょ。威親先輩には俺の日当から引いてって言ってある。」

「ハル、黒服の経験が…?」

「ないよ。」


 ハルは胸ポケットから煙草を一本取り出して火をつける。え?ハルって煙草吸うの?

 驚く私と目が合うと、彼は気恥ずかしそうな顔を作ってみせた。


「苛々すると我慢できなくて。」


 先に戻りなとハルは笑う。

 戻り際に盗み見た、ネオンと共に煙を纏う彼は、まるで知らない男のようだった。

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