第22話 雉
規模のでかい事象に心が追いつくのは、いつだって数日後。
此永さんの剣幕に全てを放棄したのに。日を追うごとに彼女の冷たい眼差しや、首に触れた冷たい指の感触が私を襲った。
言われたこともうんざりするほどリフレインして、胸のあたりをショベルカーで削り取られているみたいな感覚がずっと消えない。抉られた断面で、あの鞣した双眸がこちらを睨みつけている。小さな物音で身は竦み、女子大にいないはずの彼女に怯えて歩いた。迷子を引きずるような小心者の私である。急にまた彼女が現れて、罵倒と共に絞殺されるんじゃないかって、そればかりが頭にあった。
手元のクロッキー帳は真っ黒。何を描こうとしていたか分からないくらい。どこかの国ではこういうぐるぐるの落書きを妖精の迷路っていうんだったかな、この頁はもはや悪魔かな。
そんなことを思っていると予鈴が鳴って、私はクロッキー帳を自分の作業スペースにぶん投げる。勢いそのまま、舌打ち混じりに教科書とノートを抱えて油彩室を飛び出した。
授業を投げ出す訳にいかない。
真面目さ故というよりこれは意地なんだと、近頃は思う。親の反対を押し切り、少額の奨学金とアルバイトで繋ぐ現役短大生という肩書き。ついでに伯父に借りた入学金を返すために生活費をやりくりしたりして、とにかく我を通すために動き回っている。足元を指差し、もう一人の私が鼻で笑う。
そうだよ何が悪い。言い返せば彼女は、地方の大学の、他科に押され下火になった芸術科で、なにを躍起になるのだと首を傾げる。その口角は歪だ。おまけに嫌厭する色恋に足を突っ込み、要らない攻撃をうけて凹んでいるではないかと、また指を差す。臆病になって手を伸ばせないお前よりもよっぽど、此永綾香は強く彼を求めている。譲ってやれば良いじゃないか。そうすればこわい思いなんてしない。煩わされることもない。望んだ通り、学業に専念できるのに。
振り切れない頭でハルに会う。案の定、上手くは笑えない。
ここまで積み重ねた時間も、関係性も、ここで打ち切れるか?ニタニタ笑ってまた私が顔を出す。講義室に響く教授の呑気な声さえ苛立たしい。横目で彼を見やれば、心臓は新鮮に跳ねる。あの夜、口づけを交わす前の勝ち誇ったような彼の顔を思い起こしたせいだった。
待っていると言った相手を切り捨てる?私の意を汲んで、大人の振る舞いをしてくれたひとを?そんな恩知らずにはなれない。
そうだ彼には恩がある。この短い期間で、心を何度も救われた。この恩を返すまでは、いやまずどうやって返すというのだ。背反していく思考。赤の万年筆はノートの上を滑らない。ただぼうっと黒板を眺めているうちに、九十分の講義が終わっていた。これではサボった方がマシだ。それは私と私の意見が合った。
「大丈夫?」
春彦の優しい声がした。
大丈夫じゃないよ。素直な言葉は下咽頭に縫い付けられる。
「きょうは、学祭の準備が立て込んでるの。だからちょっと急ぐわ。」
ここ数日表情筋が死んでいるので、笑い方はど下手くそだった。流石のハルも怪訝な顔をして、口を開こうとしたんだけれども、私はその言葉と彼の右手を躱し、他の学生に紛れた。
駆け戻る油彩室。どうせ誰もいない。一年生で自主的に美術展に出品するのは私を含め三割の学生。ちなみに片手で足りる人数。田舎の芸術科は同級生も少ない。同じ熱量、同じ知識量で話ができるのもまた、片手で足りる人数。
サルエルを脱ぎ、モスグリーンのつなぎを着る。袖を腰で結び、上に着ていたシャツは捲るだけ。なぜなら既にこのシャツは油絵具で汚してあるから。
F50号の前に胡座を掻く。これは学祭用の絵。
高校に在籍する美術科生が、短大の芸術科生の展覧会を見て先輩は短大に行ってから作風がおかしくなっただの下手になっただのと噂することはよく知っている。実際私もそっち側だった。あれだけ写実的で綺麗な絵を描く人だったのに、どうしてこんな子どもの落書きみたいなことになるのだと、高校生だった私は首を傾げていた。
でも油彩の講義を受ければよくわかる。写実では行きつかない境地みたいなものがある。何枚も何枚もモチーフを組んで描くうちに、私もそれを追いたいと思っていた。高校までに叩き込まれたお利口さんな作風を、ようやっと壊せるのだと思うと、確かに心が躍った。
現実から逃げるように筆を走らせる。ペンキとボンドを混ぜて作る下地には砂が入っているから、時折濃い青が掠れた。ついでに擦った指もじんじんする。この痛みが、私を捉えて離さない。乃ノ夏はキャンバスに体当たりしている私が良いと言った。それは比喩でもなんでもない。こうやって、キャンバスが太鼓のように低音を響かせる行儀の悪い様を、彼女は面白がっているのだろうと思う。
描くのは雉。前にハルが見せてくれた図鑑から、インスピレーションが沸いたもの。
ハルの図鑑は年季が入っているけど、とても大事にされていた。本の裏には名前シールが貼ってあって、恐らく彼が書いたであろう「ひこ」の文字が残っていたくらいには。多分小学一年生くらいだろうな。はるひこ、って書けなかったんだろうな。私は思わず笑い声を漏らす。
一度キャンバスから離れて、絵の全体をみる。
雉はまるで鳴く寸前。
「……雉も鳴かずば撃たれまい。」
ああ私、いつのまに鳴いたんだろう。
キャンバスを見つめる自分の目から、ぼたぼたと涙が落ちていく。
「意気地なし。」
こんなことなら、あの時すぐに、返事をしてしまえば良かった。深い口づけでも交わして、触れたいと思うままに体でも重ねて、彼女が付け入る隙など塞いでしまえば良かったんだ。そうすれば私と彼の間だけで、誰も入り込まないままで、下手くそな作り笑いなど見せずに済んだのに。
そんなことを思う自分の浅ましさを、彼が知ればどんな顔をするのだろうか。
こうやって勝手に思考を巡らせるくせに何一つ言い返せず、答えも出せず、一人涙する馬鹿みたいな私を、彼は笑ってくれるだろうか。
「……はるに会いたい。」
流石に私も呆れたのだろう。情けない嗚咽が油彩室に響く中、何も言い返しては来なかった。
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