第21話 研究室にて


「あれぇ、今日は早かったね。」


 今日は佐々谷が隈女へ講義に行く日。

 講義後は大抵瀬川さんと会ってから、研究室へ帰ってくるのに。


 席に着いて、デスクトップのパソコンを立ち上げる佐々谷は神妙な顔をしていた。


 これは怒、とまではいかないけれど腑に落ちない時の顔。三年もつるんでいれば、穏やかなポーカーフェイスも見破れるもんだ。


「いっちゃんの目が死んでたんだよね。」


 そう呟くなり肘をついて考え込む佐々谷。ちなみに瀬川さんとのことを教えてくれたのは顔合わせの後。俺は首を傾げながら問う。


「心当たりは?」

「あるっちゃある、けど多分違う。…あれ真弘お前講義は?」

「今日はサボりィ。あの講義って五回まで休めるじゃん?」

「そういう意味じゃないと思うけど。」

「真面目だねぇ。」

「そう見えるなら良かった。」


 佐々谷は決まってそう返す。含むものがあるくせに、その理由は教えてくれない。変なやつ。


「俺が直接の原因だったら多分隣に座ってくれないだろうし。ずっと上の空っていうか、講義終わってすぐ学祭の準備があるからって言ったけど誤魔化す時の下手な笑い方してたし。手が真っ黒だったから多分直前までクロッキーかスケッチかやってたんだろうけど、そんなに切羽詰まってて大丈夫なのかなと思って。」

「本当によく見てるねぇ瀬川さんのこと。」

「何かあったんだろうけど、…やっぱり黙っとくべきだったかもと思って。案の定、相談相手じゃなくなった気がする。」

「ああ、マユールの話したの?」

「ついうっかり。」


 口元を隠しながら、反省混じりの後悔を見せる佐々谷。眉間にはどんどん皺が刻まれていく。


「付き合っちゃえば良いのに。」

「あの子が多分グズグズになる。……正直そっちの方が俺は有難いけどさぁ。」


 穏やかに見せているだけで、多分本来の佐々谷はそんなことないんだろうな、というのがここ三年見てきた感想。俺は笑いを堪えて、ポーカーフェイスの剥がれた佐々谷を見た。


「どういうこと?グズグズの瀬川さんが見たいの?」

「…俺以外眼中に無いという意味では。」

「佐々谷って実は嫉妬深い派?」

「それだけ瀬川伊月が特別ってこと。」

「言うねぇ……。」

「でもそこじゃないんだよ。この違和感、俺多分知ってるんだよね。」


 側から見れば心配性の迷宮入り。コーヒーでも買ってきてやろうか?と聞けば、気分じゃないから大丈夫。ありがとう。と返ってくる。断る時に礼まで言う丁寧な奴を、俺は佐々谷以外知らない。


 パソコンのログイン画面に手早くIDとパスワードを打ち込む。同時に引き出しからスケッチブックと年季の入ったクレヨンを出す。聞けばこれは水彩クレヨンというらしく、もう十年以上使っている代物らしい。ついでに出てくるのは水の入った小瓶と大中小の筆。佐々谷はいつもこれで着彩をする。ってことはこれから図面を見ながら内装を描くんだろうな。そして佐々谷が内装ばっかり描くのは何かに詰まったとき。今日の原因は瀬川さんの態度。我ながら、野暮な推測ではある。


「蒸し返して良い?あの瀬川さんがグズグズになる?しっかりしてるように見えたけど。」

「あれは…外面っていうか、頑張らざるを得ない状況に置かれてるだけなんだよ。多分人並みに、っていうと語弊があるんだけど、脆いんだ。絵を見てるとわかる。」

「…多分佐々谷しか分かんないと思うよ?」

「だったら尚更、やれることはやりたいんだよ。あの子の重荷にならない範囲で。」

「重荷ィ?」

「…お前友達から急に学費も家賃も全部払ってやるから学業に専念しな、って言われたらどうする?」

「めちゃくちゃ引く。」

「そういうこと。」

「佐々谷めちゃくちゃヤベェ奴だよ。」

「分かってる。流石に本人には言ってない。…まだ話してないことも多いしね。それはお互い様だろうけど。」


 真顔の佐々谷が怖いと、建築科の間では割と噂になっている。本人も承知の上らしいけど、今マジで怖い顔をしている。そこまで彼女の何が気になるというのだろう。


 研究室の隅から物音がした。てっきり俺と佐々谷しかいないものだと思っていた。二人で隅の席を凝視すれば、同じ学年の春川陸斗はるかわりくとが顔を見せる。机に突っ伏して眠られると、デスクトップのせいで死角になる。学んだ。


「意外だわ。佐々谷でもそんなに悩むんだな。」


 春川はアイドルにでもなれそうな顔立ちとスタイルをしている。そして何かと佐々谷に突っかかる。


「まあ佐々谷は優秀でしょうから?自分の研究より女のこと優先する余裕があんだね。羨ましいわ。」


 なんでこいつこんなに刺々しいんだったかな、なんて発端を考える俺に負けず、佐々谷も嫌味を気にしていない。愛想笑いだけを溢して、スケッチブックとクレヨンを広げる。


「俺は佐々谷ほど余裕も元気も無いんでぇ、ちょっと息抜きしよぉ。」


 狸寝入りだった春川は通りすがりに、佐々谷の頭にペットボトルを乗せる。


「それあげるね。ちょっと頭冷やせば?」


 封を切っていない、すっかり冷たくなったホットのレモネードをくれた。佐々谷が受け取る暇を与えず手を離し、ペットボトルがクレヨンのケースを巻き込んで床に落ちていく音を背で聴きながら研究室を出ていきやがった。


「なぁんであいつあんなに毛嫌いしてんだっけ?」

「……あれじゃない?去年の授業でディスカッションあったでしょ。」

「…あぁ!佐々谷があいつに馬鹿は気楽で良いね、って言ったやつ?」

「それ。」


 身も蓋もない案ばかりを提示して、全く話がまとまらず、本人は悪びれもせず。佐々谷のまともな話を「俺馬鹿だから分かんない」と一蹴した春川に、流石の佐々谷もキレた時のやつ。


「まだ根に持ってんのかあいつ。暇だな。」


 床に散らばった水彩クレヨンを二人で拾う。金属でできたケースは本当に年季が入っている。海みたいな絵が描いてあって、内側にはローマ字で小さく名前が書いてある。俺は首を傾げた。


「これ佐々谷の?」

「そうだよ。」

「立花、って書いてあるけど。」

「…ああそっか、それだ。」

「……ひとりで納得してないで教えてくんない?」


 腑に落ちた顔。穏やかさを取り戻した佐々谷は俺からクレヨンを受け取って、机の上で色順にケースへ仕舞っていく。


「いっちゃんの違和感。あのままだとすぐに描けなくなる。」

「…まだ分かんないんですけど。」

「いっちゃんみたいに頑張りすぎて絵を描けなくなった人、良く知ってるから。」

「この立花って人?」


 俺はもう一度名前を見る。油性マーカーで、小さく書かれた名前は、Tachibana Haruhiko.


「…俺、今、サスペンスドラマの主人公の気分なんですけど?」


 佐々谷はクスクス笑う。


「俺の旧姓。」

「…既婚って推理!俺当たってたじゃん!」

「結婚はしてません。」

「じゃあ何ィ?」

「佐々谷になったのは高一のとき。…なったというか、戻ったんだけど。」

「俺より複雑じゃん…。」

「真弘の両親も再婚なんだっけ?」

「も、ってことは佐々谷もかぁ。」

「再婚してるところに俺が帰った。」

「ハァ…ややこしいな…。」

「そんなもんでしょ。」


 俺は頬杖ついて佐々谷を見る。ついでに視界に入るのは、ケースにならんだ水彩クレヨン。


「そんな綺麗におさまりますかね。」

「…努力はしたかな。」

「今度飲みに行こうよ佐々谷。」

「サシなら良いよ。」

「…普通二人っきり、って言わない?」

「…そのほうが手短に伝わるから。」


 くすりと笑う佐々谷は、今日はもう良いや、とスケッチブックと水彩クレヨンを仕舞い、冷や冷やのレモネードを一気飲みしてゴミ箱へ捨てた。

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