第18話 触れる、ふれる
兄貴がどこで彼女を知ったのか、やっと腑に落ちた。喫茶店ルノン。開店当初頃に接客要員として駆り出されたことがあった。桜季さんと京平さんはとても穏やかな人で、あの無愛想で底意地の悪い兄貴にも愛想を尽かさずにいる。凄いことだと思う。
戸を引いて中に入れば、店内はディナーのピークが過ぎ去ったところだった。
「あれぇハル君、珍しいじゃない。」
近江京平さん。彼は俺にとってまさに理想の兄で、こんな兄貴が欲しかったと嘆いたことがある。実の兄は「兄ちゃん悲しい」と言いながらヘッドロックをかましてきたので余計に嫌いになった。
「あ、伊月ちゃん!」
片手に持っていた空き皿を下げて、京平さんはパタパタとこちらへ歩み寄ってきた。
「この間、スズにキスされたんだってねぇ。大丈夫だった?」
聞いてない。
「クソ兄貴いま厨房にいる?」
「スズはランチ終わりで帰っちゃったよ。」
「ぶん殴ろうと思ったのに。」
京平さんは柔らかく笑いながらどうどう、と俺を宥めた。そして笑みを崩さないまま、俺にしか聞こえないボリュームで言った。
「そういうのは彼女をものにしてからやりなさい。」
「あの子はものじゃない。」
「屁理屈。」
ぽん、と肩を叩いて、京平さんはこっちへどうぞ、といいながら俺達を二人席へと案内した。いっちゃんは首を傾げながら俺の後を付いて歩いた。
向かい合わせに座る。いっちゃんは気まずそうに伸ばしっぱなしの前髪を左へとよけて、違うんだよ、と弁明を始めた。
「ほら、ハルがスパンってやった反動でさ、ちょっと掠っただけなのほんとに。」
「…じゃあ俺としたみたいなキスではなかったんだね。」
「私覚えてないからうんって言えないしその件に関しては本当にごめんってば。」
耳まで赤くして、テーブルへと突っ伏すいっちゃん。いっそ殺せと言い出す前に、俺が怒っていないことを伝えた。顔だけを持ち上げて、ちらっとこちらを伺う彼女の目の下には隈。
「だいぶ忙しいんだね。」
人差し指を目の下へあてがえば、いっちゃんはまあねと苦笑した。
「地域創生プロジェクトのことで頭がいっぱいで、芸術科生みんな今月の文化祭のこと忘れてて。文化祭用の作品作ったり、ブースの企画したり、そっちがバタバタしちゃって。文化祭自体は月末だからハルも来てよ。プロジェクトの関係で、ハルのサークルの人たちも来るって教授が言ってた。」
久々に会う彼女はどうみてもやつれていた。学業とバイトで疲れの溜まったところに今日の親子喧嘩ときて、相当こたえているのだろう。気弱ではないけれど、基本的に争いごとが苦手。円に啖呵を切ったあの日だって、繋いだ手は震えていた。人助けという大義名分のない諍いが、彼女にどれほどの傷を残すのか。
「……いっちゃん。」
「………ん?」
手を取って握ると、いっちゃんはつり目がちの目をまんまるにした。
「頑張りすぎ。」
「………そう?」
「出来ないことはできないって、言って良いんだよ。」
「……身の程を弁えろ的な?」
「違う違う違う。爪先立ちと駆け足ばっかりじゃ疲れちゃうでしょって。もう少しゆっくりでも良いんだよ。」
彼女は昔から学級委員だの生徒会だのと、人一倍忙しい学校生活だったという。行事の運営や事務作業に追われる日々の中で、人に頼られることにばかり慣れて、人を頼ることは覚えなかったんだろう。そのせいか、質問への回答は大抵「私やっとくから良いよ」だ。やり方や流れを教えてしまえば、次は自分でやってみろと言えるのに。
そうやって不必要なタスクを抱え込んだ結果、常に手一杯。どうこなしていくか、そんなのは自己犠牲のほかにない。でも本人はそれが当たり前だから、状況を問題視することはない。ついでに言えば、身を削って応えていることを周りへ悟らせない。
そんな彼女が、泣きながら俺に電話を寄越した。それがどれほどの意味を持つのか。彼女は気づいているのだろうか。
「でもちゃんと毎日楽しいよ。」
「……充実してる、って思えるなら良いのか。」
やつれて見えても瞳に宿る光は消えない。夢を駆ける彼女の止まり木でいられるなら十分だと、まるっこい彼女の指先に残る油彩絵の具を見て思った。
握る手を遮ったのは、看板メニューのオムライスだった。いっちゃんは目を輝かせて、出来立てを掬っては一生懸命さまして口へと運んでいた。
食べないの?と聞くので夕飯はとっくに済ませてしまったと返す。じゃあ試食お願いしちゃおっかな、と、パフェを持った京平さんが俺のすぐ後ろで笑っていた。
試食は一品にとどまらず。俺が二つ、いっちゃんが三つのデザートを平らげたところで、ようやく厨房の桜季さんが京平さんを諌めて終わった。どれもこれも美味しかったことは事実だけれど、詰め込みすぎて正直胃がつらい。いっちゃんちまで歩いて帰るのが丁度いい腹ごなしだ。
「ありがとうハル。わがまま聞いてもらっちゃった。」
「もっといっぱい聞かせてくれてもいいんだよ。」
満腹の彼女はご機嫌で俺の隣を歩いていた。大通りを一本入った、街灯もまばらな路地。たまに使うと言うので、一人の時は絶対に通るなと念を押した。
「電話で話聞いてくれるだけでもよかったのに。…でも嬉しかった。」
頭ひとつ小さい彼女がはにかんでいる。けれど目は合わない。元々人の目を見て話すのは得意ではないらしい。それが少し勿体ないというか、気に食わなくて、わざわざ足を止めていっちゃんの頰へと触れた。
「声を聞けば会いたいと思うでしょう。」
街灯は数歩後ろで、彼女の、仄かに赤く染まった頬を照らしていた。
「会ったら触れたいと思うとこまで一緒?」
目を見たいだなんて思わなければ良かった。
ぎこちなく、上目遣いで俺を見上げた瞳には、星が瞬いている。抱きしめる以外の選択肢を、跳ねる心臓が攫っていった。
くぐもって聞こえた彼女の照れ笑い。小さな両手が置き所を探して、俺の背を何度か行き来した。
「でもいっちゃんが最優先なんだ。俺のこと、今は考えなくて良いよ。」
「なんでそんな慈善事業みたいな…、」
「俺が大学入るって決めたの、瀬川伊月のマユールを見たからなんだ。」
「………はっ!?」
がばっと、俺から離れようとするので力尽くで止めた。今の表情がいっちゃんに見つかると、また雄の顔をされそうだ。
「最初からわかってたの?」
「自己紹介してくれたじゃん。」
「なっ……んでもっと早く言わないかな!」
「だって言ったらこうやって弱みを見せてくれなかったでしょ。ファンの夢を壊したくないとかなんとか理由付けてさ。」
「…確かにファンと一緒に授業受けないわ…。」
「好きな画家の邪魔したくないの。」
「画家も何もただの学生だよ。」
「画家に資格も年齢制限もないでしょう。」
まだ反論しようと足掻く彼女を抱えて、俺は夜道を歩きだす。
「だから心ゆくまで学生を謳歌してほしいの。…あと今日はとりあえずゆっくり休んでほしい。いっちゃん目の隈ひどいし。」
「ちょっと頭が追いつかなくて眠れそうにない。」
「……何も考えられなくなるくらい、くたくたにしてあげようか?」
抱えるついでに腹部をなぞれば、察したいっちゃんは茹で蛸になって俺の顔を真正面から叩いた。
「どすけべ!」
「先に触れたいって言ったのは貴女です。」
「自分で歩くのでおろしてください!」
「俺が触れていたいので却下です。あと御近所迷惑なのでお静かに願います。」
わなわなと茹で蛸の唇が震えている。根が真面目なので御近所迷惑にならないように口をつぐんで、大人しく抱えられていた。
「話を戻しますけど。」
「………………ハイ。」
「いっちゃんに余裕が出来るまで待ってるから。だから今は、いっちゃんの道を進んでね。」
「…おとなだなぁ。」
「……。」
「……えっなに?」
「いっちゃんに呪いをかけます。」
自由に夢を駆けたその先で、ちゃんと俺のところに戻ってくるように。
正直そんな必要なかったな、と、唇を離してすぐの彼女の表情を見て思った。瞬く星が俺を捕らえて放さないので「前にいっちゃんとしたキスもこれくらいだったよ」と教えると、覚えてないって言ってんじゃん!と胸元に一発ゲンコツをくらった。
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