第17話 季秋、宵にて。
会えなくなるのが怖いと言った割に、誘いを断るのはいっちゃんの方だった。
心底申し訳なさそうな声音のまま「私だって埋め合わせしたいわ」と唸る彼女は、夏休み明けからひたすら学業とアルバイトをこなしていた。だから合間合間で電話をかけてみるけれど、いくつかやりとりをしただけで通話は呆気なく切れてしまう。そんな調子で身が持つのかと、彼女を思い返してはため息が漏れた。
それがひと月続いた日曜日、珍しく彼女から着信があった。
「あ、はる?…別にこれといって用事は無かったんだけど。」
一瞬で分かる涙声。震える声を必死に押し込めて、へへ、と笑っている。
「…いっちゃんいまどこにいる?」
「いま?私の家。」
「すぐいく。」
既に秋だというのに今年は残暑が例年より厳しい。宵闇の中に昼間のぬるい空気が残っている。財布と携帯と鍵だけを持って、俺はバイクを走らせた。
チャイムを鳴らしてすぐにドアノブに手をかける。施錠はされていない。
「いっちゃん俺だよ。入るよ。」
一声かけた玄関も、その先のワンルームも、電気が付いていなかった。
「……はる、」
振り向く彼女の泣き顔も、その周りを埋め尽くすコピー用紙も、側に置かれた間接照明だけが頼りなく照らしていた。月を模したそれは彼女のお気に入りで、よくこうして部屋に灯りを浮かべていると、前に雑談の中で言っていたけれど。恐らくこんな使い方をする日は少ないだろう。
散らばるコピー用紙には、スケッチらしき黒の線。やけに強い筆圧の、震えたぐちゃぐちゃの塊ばかりだ。平常心を保とうと足掻いた痕跡で、今の彼女がまざまざと描かれている。ファインアートが全裸で人前に立つことだなんて、よく言ったものだ。
「……よかった、電話くれて。」
踏みしめる訳にもいかないので、ぺたりと座り込む彼女の手を取り引き上げた。
「何があったの。ゆっくりでいいし、話したいところだけでも良いから。」
不可抗力で俺の懐へ収まったいっちゃんから、涙が堰を切ったように溢れ出した。
泣きじゃくりながら彼女は、実家で喧嘩して帰ってきたことを教えてくれた。
今月の下旬に彼女の誕生日が控えていることは俺も知っている。彼女の多忙を気にかけた母から実家で早めのお祝いをしようという提案があった。近況報告を両親へしていたところ、些細なことで父から小言を食らい、嫌味を往なす余裕さえない彼女は真っ向から反論した。火種はあっという間に勢いを増して、いっちゃんは家を追い出されたらしい。
「現状が本末転倒なことくらい私だって分かってる。でもそうしないと学生続けられないんだから仕方ないじゃん。だったら高校に入学した時から進学するなって、言ってくれてたら良かったのに。そうしたら諦める心算だってできたのに。学業を優先させるって、好きなことやりなって、夢を見せたくせに、って、思ってたこと全部ぶちまけたら、お父さんにお猪口投げられちゃって。」
涙が退き始めて、いっちゃんは大方いつもの調子に戻っていた。まだ立ち直るまでに時間を要さないあたり、俺は内心安堵する。
「…どおりでいっちゃん日本酒くさいわけだ。」
「やっぱり?さっきから頭がクラクラするんだよね。」
「じゃあまず着替えよっか!」
月の照明が、部屋の隅に畳まれた洗濯物をほのかに照らしていた。あれは恐らくこの間デッサンモデルをやってもらった時のワンピース。俺はいっちゃんごとそちらへ進む。急に担がれたいっちゃんは輸送本能でも働いたのか、俺にしっかり捕まっていた。
いっちゃんをおろして、支えたまま空いた手でワンピースを掴む。今日のいっちゃんは白のTシャツに膝丈のスカートなので、華奢な体を支えていた手を服と肌の間に滑らせる。流石のいっちゃんも体をびくつかせた。
「えっ着替えくらい自分で、」
「着地がふらついてたので。どうせ暗くて分からないので介助されてください。」
白のTシャツを脱がせている間、いっちゃんは俺にぴったりくっついて小刻みに震えていた。そしてキャミソールを整えるために腹へ沿った指先に、ふへっと笑って大きく身を捩った。
「いっちゃんもしかしてくすぐったがり?」
「首から下がだめ。」
「全部じゃん。」
「ほんとやめて!ふふッ…は、はるっ、勘弁して力抜けるってば…!」
言ったそばからいっちゃんは床へと座り込んだ。その最中にも俺が脇腹をくすぐっていたのでふひひと笑いが漏れていた。
「全部笑い飛ばしちゃえ。まだ可愛い喧嘩だよ壁に穴とかあかないし。」
「この間ハルのお母さんに鈴彦さんに似てるねって言われっ、……もう降参……!」
悔しくなったのか、いっちゃんは俺へ仕返しを企んだ。が、あっけなく失敗に終わると、彼女はなんで効かないの?と心底驚いて俺を見た。
「うち全員くすぐりなんて効かないから、こうやって笑ってくれるの新鮮でさあ。」
「もうやめてください……ッ!」
逃げようと身を捩った結果、いっちゃんは冷たい床へと転がっていた。俺も覆い被さるように寝そべっていたし、手から離れたワンピースは薄闇にとけてしまった。
「元気出た?」
「出たように見えますか…。」
「お腹は?空いてない?」
「ほとんど食べずに追い出されちゃった。」
「食べたいものとか、いきたいとことか。」
「…怒らない?」
「…うん?」
「…ルノンのオムライスが食べたい。」
「………良いよ。」
じゃあ私に服をくださいと、冷たい床から逃れるようにしていっちゃんは俺の首へ手を回した。薄灯りに浮かぶ彼女の体躯を、出来ることなら描き留めておきたかった。けれど掌に残る感触で、ひとまず諸々を我慢しなければと思ったのは、抱きつく彼女の腹の虫が大きく鳴いた所為だった。
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