第16話 もちをやく
リビングで到着を待てば良いものを、鈴彦さんは私を二階へと案内した。私を隠してハルに探させるつもりなのだ。そこまでする必要があるのかと問えば、可愛がり方は人それぞれだと返ってきた。
荷物が粗方運び出されていて、ベッドと勉強机とクローゼットだけ。椅子がないので私はマットレスへと体を投げる。ぼよん、という衝撃ついでに盛大なため息を吐いた。マットレスにかかっていたカバーと私のワンピースが同じ明るめのグレーだとか、そういうことはどうでもよかった。
あんなハルを見たことがない。以前円さんと鉢合わせした時よりもずっと厳しい顔をしていた。私はとんでもない悪巧みに加担してしまったんじゃなかろうか。
彼は怒るだろう。怒るだろうけど、相手に感情をぶつけるよりもまず自分が立ち去る性分。こうして実家に帰らないことが何よりの証拠だ。私からも同じように、遠ざかってしまうだろうか。吐いたばかりのため息がまた出る。酷く重い体を起こして、私は部屋を一瞥した。
勉強机の横。壁にかけられた額縁には、高校の卒業式であろう集合写真が収まっていた。
「……。」
まだ美術と向き合う前の佐々谷春彦。軟弱な笑みを浮かべて、巻き込まれるまま卒業証書を掲げていた。
「今の方がずっと素敵だよ。」
「本人に言ってやれば。」
降ってきた低音に振り向けば、真後ろに鈴彦さんがいた。無造作な黒髪から覗く彼の瞳は、どこか揶揄うような色を持っていた。
「伊月サン、春彦とはただの学友なの。」
壁と鈴彦さんに挟まれた私は身動きが取れない。そうですよと呟くと、鈴彦さんは鼻を鳴らした。
「お絵描き仲間が出来て嬉しいだけか。なら絆されてるのは春彦の方だな。」
「……何が言いたいんですか?」
「別に?談笑したいだけ。」
微塵も笑わないくせに。鈴彦さんは距離を取るわけでもなく、写真のハルを眺めて言った。
「あいつはなんでも遅かった。百メートル走も声変わりも、やりたいことやりだすのも。だからあんたのことも、まだ仕留めてないのかとおもって。」
耳元に響く声がほんの少しだけハルに似ている。でも兄弟といったって、同じように優しくない。鈴彦さんには乃ノ夏みたいな口調の荒さではなく、意地の悪さが端々にある。
「あいつは昔から、好きなこともやりたいことも、手を伸ばす前に離しちまうんだよ。俺は良いやが口癖で、本気で笑ったところも、怒ったところも見たことがなかった。だから俺が大学入り直すって言った時も真っ先に賛成したんだ。あいつの分の学費だったのに。」
意地の悪さを滲ませるのは、心配の裏返しなんだろうか。そう思えるような口調だった。
「やっと言い出したと思ったら絵を描きたい、だ。でも親父の猛反対を食らってもめげなかった。俺は拳で解決したけど、あいつはちゃんと言葉で黙らせた。全部が全部許されたわけじゃなかったけど。」
言葉に聞き入って、鈴彦さんが至近距離にいることを忘れていた。忘れたまま少し後ろに重心を傾けると、鈴彦さんは私の髪を嗅いでから、炭の匂い移っちゃったな、と呟いた。ぎこちなく固まる私を鼻で笑って、鈴彦さんは話を続ける。
「あいつは逃げるように上京したからな。大学なんか向こうに幾らでもある。なのにわざわざ家族会議の末に地元に戻ってきたんだから、少しは向き合う勇気が出たのかと思ったんだけどな。ちっとも帰ってきやしない。」
「心配してるなら素直に言えばいいのに。」
振り返った私に、鈴彦さんは予想外と言いたげな顔をした。
「ハルなら大丈夫だと思います。」
「……根拠は。」
何処の家だって大なり小なり問題は抱えているもの。鈴彦さんがそれとなく濁す家庭の事情を深掘りする気は無い。それよりも、伝えておきたいことがあった。
「ハルは勇気のある人だと思います。社会人から大学生になるって凄いことです。夢に気付くのが遅くても、ハルは自力で歩き直してる。学部が違ったって、わざわざ女子大にまで通って、美術を突き詰めようとしてる。それだけの熱意を持ち続けていられる人、そうそういないでしょう。」
「………大好きなんだね春彦のこと。」
鈴彦さんがゆるりと笑う。なんだ、そんな穏やかな顔出来るんですかと、言いかけた言葉を飲んだ。
鈴彦さんはジーンズのポケットから煙草の箱を取り出した。するとライターがこぼれ落ちる。煙草を咥えてから拾おうとする鈴彦さんに先駆けて、私はライターを拾い上げた。
拾い上げたライターで私は煙草へ火をつける。それはもう、慣れた手つきで。これだけで分かる人は分かるのだ。そして鈴彦さんは、分かるほうの人間だった。
「源氏名は?」
「黒服です。」
鈴彦さんは半笑いを浮かべたまま私からライターを抜き取った。
「春彦は知ってんの?」
「言うタイミングを逃しました。」
「お兄サンが可愛いドレス買ってやろうか。背中ガラ空きで深ぁいスリット入ってるやつ。」
「黒服だっつってるでしょ!」
壁に追い詰められている。ついでに言えば大きな両手が肩から腰まで行き来して、鳩尾あたりで止まっていた。羞恥からくる赤面に、私は唇を噛む。小娘が滑稽に照れる様を、鈴彦さんはまじまじと見ていた。
「なぁるほどねぇ俺とあいつでも女の趣味くらいは似てんだなぁ。」
「なんの話ですか…!」
左手が内腿に、右手が頬へと移る。混乱しつつも両の肩を押し退けてみた。けれど鈴彦さんはびくともしない。それどころか長い腕でとっとと煙草を灰皿へと突っ込み、抵抗する私の腕を一纏めにして、改めてこちらを凝視した。
「春彦が夢中になるのも分かる気がするって話。」
「ひっ…、」
わざとだ。この人はわざと弟を怒らせて遊ぶタイプだ。証拠に今、口角を吊り上げて、悪戯に私の唇を奪おうとしている。
「何やってんだクソ兄貴!!」
スパンと、軽快な衝撃音とともに聞こえたハルの怒鳴り声。横殴りに机へ雪崩れる鈴彦さん。
ぐい、と腕の引かれるまま、私はハルの懐へと仕舞われた。ハルはスリッパを片手に持っていた。
ゆらりと、鈴彦さんが体勢を立て直す。癪なことに大変満足そうにこちらを見ていた。
「人質作戦大成功。」
「二度とやるなよクソ兄貴。」
威嚇する犬みたいだ。確かにバアムは、ハルの入れ替わりで家に来ただけあって、少し彼に似ているのかもしれない。
そんなことを考える私の体は浮いていた。そのまま私を抱きかかえて、ハルは階段を駆け下りた。
階段の左奥に小さな和室があった。ハルは私をそこへ下ろして襖を閉める。至極優しい所作だった。
「何もされてない?」
「うっ…うん。」
じっ、と、瞳がこちらを向いている。ああそうだ、これは確か根岸色というんだ。光の加減ではなく、彼の生まれ持つ色。
「…ほんとに?」
「………ハイ。」
体をまさぐられた上にハルのスマッシュが仇となって唇が掠ったなどと誰が言えよう。それよりも笑みの失せた佐々谷春彦に背筋が凍っていた。
「いっちゃん嘘つくのがヘッタクソ。」
ハルはすぐに私を真正面から抱きしめて、あやすように撫でた。ハルが扉を開けて見た光景から考えれば、何をされていたかなんて火を見るより明らか。怖かったでしょうと呟くハルは、私の襟元に赤い斑点を見つけたらしかった。
「なにその赤いの。」
「えっ?…あぁ昨日蚊に、ッ……!」
顔を顰める程に感じた、舌と唇の吸い付く感触。
「……えっ虫?」
ぱっ、と顔を離すハルは呆けていて、すぐに反省の色を浮かべて眉を下げた。早とちりも良いところだと文句を言えば、重ね重ねごめんと返した。
「……私が怖かったのは鈴彦さんじゃなくて。」
胴へと手を回して、ハルの頰へと触れる。
「悪巧みの片棒担いじゃったから、ハルがもう会ってくれなくなったらどうしよう、って、思ってたんですけど…ハルいま何に怒ってんの?」
「いやあのこれは……あの……。」
しどろもどろの彼を初めて見た。伏せ目がちに瞳を泳がせて、真っ赤な耳で。
「……。」
「……。」
「……ハル今すっごく可愛いよ。」
「いっちゃん頼むから雄の顔しないで。」
ふと視線を感じて横を向けば、襖からお母さんと鈴彦さんと、バアムが顔を出していた。
こんなことがあったので、ハルは尚更実家に帰らなくなってしまった。でもお母さんと電話をする機会は増えたので良しとする。鬱血痕が消えた頃、乃ノ夏とルノンへ遊びに行ったとき、鈴彦さんがニヤリと笑っていた。
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