第15話 佐々谷家
私は今、ハルが昔使っていた部屋にいる。殺風景な部屋で、マットレスに体を投げて、彼が来るのを待っていた。顔を合わせた第一声がどんなものか、少し怯えながら。
先日、乃ノ夏と夕飯を食べた喫茶店で偶然にもハルのお兄さんと会った。極限まで目つきを悪くしたハルみたいな鈴彦さんは、私達を見て「お代はいいから次の休憩まで待ってて」と言った。その一時間でソフトドリンクやらデザートやら、相当な量のメニューが私と乃ノ夏に運ばれていた。
運んでくるのは穏やかに笑う金髪の青年。近江京平さんというらしい。少し伸びている髪をハーフアップにまとめた京平さんは、私の前にガトーショコラを、乃ノ夏の前にチーズケーキを置いた。
「これ試作なんだけどさ、感想聞かせて?」
「京、あんまり困らせないでよ。」
嗜めるのは焦茶色の髪をした青年。これまた穏やかそうな風貌で、キッチンから顔を覗かせていた。
喫茶店ルノンは今年で開店二年目。佐々谷鈴彦さんと、
「佐々谷さんって兄弟いたんだな。」
知らなかったと、乃ノ夏と私の声が重なった。
「なんだ伊月も?」
「ハルってあんまり家の話しないから。踏み込むのも悪い気がして。」
「っていうのは建前でどうせ二人で芸術談義しかしてないんだろ。」
「まあそうだけど…。」
「逆に不健全だわ。」
「なんだ別にツレって訳じゃないのか。」
降ってくる低音。鈴彦さんは咥え煙草で私の後ろへ立っていた。愛想皆無の鈴彦さんに、私は失礼ながら本当にハルの血縁か?と疑っていた。
「ツレじゃないけど伊月は仲良いですよ。」
そう答えるのは乃ノ夏だ。鈴彦さんはへぇ、と相槌を打ちながら私を見下ろす。
「次の連休、日曜の夕方空いてる?」
「夕方なら……。」
「迎えに行くから最寄りの商業施設を教えて。」
「ちょっとスズ、横取りは良くないよ。」
「悪いがダシになってもらうよ伊月サン。」
「話がみえないんですが。」
乃ノ夏は鈴彦さんにガンを飛ばしている。私も気弱な方ではないけれど、乃ノ夏はもっと強かった。
「あいつとことん帰らないんだよ。別に毎月来いって訳じゃない。盆と正月くらい顔出せってだけ。」
もくもくと、煙を纏う鈴彦さん。ああそうかここはお酒も出すんだから煙草もオッケーなのか、なんて私は考えていた。
「伊月サン、肉好き?」
「人並みに。」
「じゃあ犬は?」
「大好きです。」
「よし決まり。」
乃ノ夏の顔をみやると、呆れたように行って来いと手を振った。
土曜の夜は黒服だった。目標の売上を達成したオーナーは、上機嫌で私を家まで送り届けてくれた。
そこから私は昼まで眠り、シャワーを浴びて支度をした。鈴彦さんはハルを実家に呼ぶために、私を人質にすると言っていた。それを聞いた時点で、ハルがあまり家の話をしない理由をなんとなく悟った。悟っておきながら断らなかったことを、私は後悔する羽目になる。
私を迎えにきた鈴彦さんは、巻き込んでごめんとか、そういうことは一切言わなかった。クッション言葉というか、緩衝材が極端に少ないけれど、わざわざ私の分の飲み物を車内に用意してくれていた。飲み物を受け取り手土産を渡すと、鈴彦さんはそこの美味いよねと言って、少しだけ口角を上げた。
ハルの実家は、彼の母校である工業高校の近くにあった。大きい道路から一本入ったところの、庭のある一戸建て。焦茶の外壁に、片流れの屋根。ハルのお父さんは住宅メーカーに勤めていて、そこと提携している工務店で建てたお家だそう。お洒落だな、というのが感想だった。
玄関を開けると、お母さんが出迎えてくれた。私の挨拶より先に、お母さんが嬉しそうに言った。
「お父さんが急遽仕事になっちゃってねぇ。伊月ちゃんが来てくれて助かった!」
ふくよかで穏やかで、ほっとするようなお母さん。後ろから、ゴールデンレトリバーが顔を出す。
「この子ねぇ、春彦と入れ替わりでうちに来たの。ね、バアム。」
リビングから見える庭はほとんど一面にコンクリートが打ってあって、左端にバスケのゴールが立っていた。コンクリートの手前半分に人工芝が敷いてあって、その上にはバアムの小屋と、バーベキューのコンロが出ていた。鈴彦さんが肉は好きかと聞いた意味がやっとわかった。
「鈴彦そろそろ火おねがいね。」
「あいよ。伊月サンは適当に遊んでやって。」
「あっはい!バアムおいで、」
「残念母のほう。」
「母のほう。」
台所でお母さんの笑い声が聞こえた。
「春彦と学校は別なの?芸術科ってことはそっか、あの子の憧れだわね。」
食材を竹串に刺しながら、お母さんは朗らかに言った。
「美大の話、お父さんが名一杯反対しちゃったからねぇ。別に春彦が自分で稼いだお金なんだから、って言ったんだけど。あの人、了見が狭いところあるじゃない?だから駄目だの一点張りでねぇ。未だに大学の話だって自分で振っといて叱るんだから。口出さなきゃ良いのにまったくね。最近じゃ喧嘩する元気も失せちゃって。顔出す代わりにお中元とお歳暮だけ送って寄越すのあの子。今日は帰ってくると良いけどね。」
壁のない口調。ハルのお父さんの了見が狭いかどうかは、会ったことがないのでわからないけれど、私は相槌を打って聞いていた。
「伊月ちゃんは反対されなかったの?美術。」
「…はじめは工業高校の建築科に行こうと思ってたんです。父の塗装屋を手伝いたくて。そこまで受験勉強頑張りたくなかったし。でも父が、そんなに絵を描くのが好きなら美術科に行ったらどうだって。なにも現場に出なくても、建築デザインの道だってあるだろうって。母はもともと姉を隈女に入れたかったらしいんですけど、姉は通信制の高校に行ったので、残るは末っ子の私しかいなくて。学校説明会で教育理念も気に入ったし、特待生に成績が足りていたから勉強頑張らなくて良かったし。だから隈女の美術科を受けました。卒業後、両親は就職希望だったんですけど、短大行かせてくれって頼み込みました。」
穏やかな相槌が返ってきた。
「どっちかって言うと鈴彦に似てるね。スズは料理人になるって聞かなくて、お父さんと殴りあいの喧嘩してまで大学決めたの。」
庭の鈴彦さんを見る。バアムと戯れながら、炭火の加減を見ていた。
「そしたら途中で酷い腱鞘炎になっちゃって。鍋振れなくなってねぇ。料理人の道が絶たれたと思ったら、今度は経営学びたいって言い出したの。大学入り直すって。また喧嘩よ。テレビ横の壁、レンガがいい感じについてるでしょ?あれね、その時の喧嘩で空いた穴のカモフラージュ。」
ははは、と乾いた笑みを溢すお母さん。私は苦笑を返す他なかった。
「そんなの見てたからかね、春彦はあれやりたいこれやりたいって言わなくなっちゃって。お父さんが反対しい、っていうのもあるけどね。だから大学入りたいって言い出した時、来たな、って思ったわよ。今度はどこに穴空くかなって。」
空かなくて良かったぁ、と笑うお母さんにつられて、私はつい笑みを溢す。
「でも良かった。建築学科でも、伊月ちゃんみたいな絵を描く友達がいたら気分が違うでしょう。」
「…春彦さんは本当にいい学友です。たくさん助けてもらってます。」
あらそう?と笑いながら、下ごしらえした野菜やお肉を庭へと運び始めた。すると鈴彦さんが携帯を取り出して、食材と私を写真に収める。
「肖像権が、とか言うタイプ?」
「そんな込み入ったこと考えません…。」
鈴彦さんが写真を送信して一時間。
ハルからの返事はない。珍しいな、と思った。ハルはいつももっと早く通知に気付いて連絡をくれる。それは人によらないのだと思っていた。
「相変わらず気付かねえなぁ。」
舌打ち混じりに呟いて、鈴彦さんはテレビ電話をハルへとかけた。そしてそれを私に持たせる。何度か呼び出し音が鳴って繋がると、どうやら自宅で何かを描いているであろうハルが映った。
「いっちゃん?珍しいね電話なんて。」
相手を確認せずに出たのだろう。ハルは私がかけたものだと思っていた。
私の背後から、鈴彦さんが顔を出す。
「よう春彦。」
ハルは苦虫を噛み潰したような顔で笑った。
「……
「うちにいんの。」
「なんで知ってんの?」
「早く来ないと全部食うぞ。」
ブツリと切れる通話。暗転間際のハルは、酷く険しい表情だった。
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