第14話 喫茶店ルノンにて


「…で、スケッチのモデルになったと。」

 頷く伊月に、私は馬鹿じゃねえの、と呟いた。


 伊月がひっきりなしにアルバイトを入れて学費を稼いでいることは勿論知っている。疲れているだろうからそっとしといてやろうだとかいう思考は私にはなく、そういえば今夜はバイトがないと言っていたから、夕飯付き合えよと連絡を取ったのが昼頃。伊月は佐々谷さんと会っていて、ちょうど見送るところだったらしい。


 そして今、私は伊月の家から程近い喫茶店で、伊月と夕飯を食べている。夜はお酒も出すという喫茶店ルノン。一度ここのオムライスが食べてみたいと言ったのは伊月のほうだった。


 そういえば佐々谷さんに課題見てもらえたのかよ、と話題を振ると、伊月は珍しく赤い顔できいてよ、と自分から話し始めた。


「…で、お前的に散々迷惑をかけた佐々谷さんには本題のグラフィックデザインを見てくれと口に出せず、私に見せる気でマスコットのラフを持っていると。」

「助けてください乃ノ夏せんぱい。」

「…そういう甘え方をなんで佐々谷さんに出来ないんだよ。」


 うう、と唸る伊月は年相応に見える。こいつが周りから一目置かれることを快く思わない私は静かにほくそ笑む。


「ちょうだい、っていうから何事かと身構えた結果?正直抱かれるよりずっとことされたってわけだ?」

「ほんとやめて言葉に出さないで死にそう。」

「十五分を四回、ねぇ。お前は察しがつくわな。…佐々谷さんも考えたな。」


 人物をモデルにクロッキーなりスケッチなりをやるなら、モデルの負担を考えて時間を区切る。伊月は授業内でモデルをやった経験がある。結びつかないわけがない。


 運ばれてきた古き良きオムライスにスプーンを入れながら、伊月が赤い顔のまま言葉を絞り始めた。


「スケッチしながらハルがずっと私に喋りかけてくるの。私ロクな顔しなかった。」

「お前のその顔が描きたいからだろうな。」

「…は?」

「その阿保みたいに動揺しきった顔。だからわざわざ揺さぶり続けたんだろ。佐々谷さんが最初にお前を描きたい、って言った時もおんなじ顔してたんだろうよ。」

「……乃ノ夏、エスパーみたいだね。」

「お前よりはその辺の勘が良いんだよ。」


 しおらしくオムライスを口へと運ぶ伊月。普段の飄々とした外面が剥がれている。これに目をつけたあたり、佐々谷さんとは仲良くなれそうな気が、いや、逆に腹が立つくらいだった。


「でもまぁ本人が迷惑じゃないって言うんだから良かったじゃん。お前が謝り倒すことでもない。」

「…キスされても平気、が…さ、よく分かんないんだけど。」

「佐々谷さんと知り合ってどれぐらい経ったよ。」

「……四ヶ月?」

「その四ヶ月で見てきた佐々谷さんは誰とでもキスする奴に見えたかよ。」


 伊月は首を横へ振る。それが次第にゆっくりになり、伊月は私を凝視して固まった。虎視淡々と狙われていることに気付き始めたんだろう。だからこその混乱。


「……ハル、って、私のこと好きなの?」

「……本人に聞かなきゃ分かんないことよりまずお前の話をしようか。」


 にっこり笑うと、伊月は小さな悲鳴をあげた。


 私はとっととオムライスを平らげる。古き良きオムライスは熱いうちに食わねば。伊月はちんたら口に運んでいた。次に予定を控えていない時の伊月はなんでもかんでも行動がゆっくりで、段取りも手際も悪くなる。ああ多分こっちが素なんだろうな、と私は思っている。


「伊月は好きでしょ佐々谷さんのこと。」

「…決めつけないでくれる。」

「顔に図星って書いてあんだよ。踏ん切りがつかない理由を教えろっつってんだよ。」

「やだこのヤンキー……。」

「何、元カレに重いって振られたことまだ根に持ってんの?」

「そういうとこだよ重いって言われんの、って、乃ノ夏は言う。」

「ご名答だよ。」


 追加で頼んだ自家製のジンジャエールをちまちま飲みながら、伊月はずっと唸っている。ので、私は発破をかける。


「元々ハマってたのが昨日今日で完全に落ちたんだろ。で、お前はそれを認めたくないと。同じ志を持った学友の存在は、お前の中で恋人より尊い位置づけ。だから易々と惚れた腫れたで済ませたくない。……名推理じゃん?」

「占い師か探偵になりな…。」


「もっと言えば、短期大学芸術科特待生のお前は恋愛にかまけている暇はないと思っているし、実際夏休み明けから忙しい。来年の夏までかかるプロジェクトに、秋の美術展に教員免許取得のための勉強に?年明けからはまた別の美術展の準備。あと特待生を維持するために成績はトップであり続けたい。だから邪魔されたくない。恋人に、だけじゃなくそれで浮つく自分自身に。なぜなら、」


「美術のために短大ここに入ったから。」


 じ、とこちらを見据える伊月の目。ヤベ、と思ったのも束の間。伊月は普段の聡い眼光を取り戻してしまった。


「………。」

「ありがとう乃ノ夏。…で、これを見て欲しいんですけど。」


 ニコリ、と据わった目で微笑まれては、これ以上茶々は入れられない。私もひとつ息を吐いて、伊月の差し出すクロッキー帳を受け取った。


 元々分厚いクロッキー帳は、一枚一枚が筆圧を受け水彩を吸い込み嵩を増していた。半分に差し掛かるあたりに、件のラフがあった。


「………。」


 ちら、と伊月を見やる。その表情には微塵の隙もない。人を惹きつけつつも、関わり難い印象を与える勿体無い顔。


 一目置かれるということは、彼女に差し伸べられる手が減ってしまうということ。周囲の称賛が同じだけの孤独をもたらすことを、伊月も分かっている。その上で、彼女は模範生であろうとしていた。


「……伊月、お前は今回手を引きな。」

 グラスの氷が、カシャンと音を立てた。


「リーダーとして、取り纏めに専念する方がいい。苦手分野で戦うな。」


 伊月は頷きもせず、ただ私の言葉を聞いている。


「ラフのクオリティじゃない。そもそものこと。これに時間を費やすくらいなら、美術展の制作をした方が有意義だ。…お前の強みはさ、やっぱり筆だよ。液晶じゃない。私は唸りながらポチポチやってる伊月じゃなくて、きらきらした目でキャンバスに体当たりしてる伊月が見たい。」


 一度も目を逸らさないまま、伊月はふわりと笑った。その瞳の晴れやかなこと。


 こうして伊月の荷を下ろせる人間が、せめてあと一人くらい現れてくれないものかと、私の脳裏に浮かぶのは、やっぱり佐々谷春彦という男。


「…佐々谷さんと一回サシで飲むかなぁ。」

「あれぇ、もしかしてハル君の友達?」


 突然降ってきた声に振り向けば、店員と思わしき金髪の男。


「佐々谷、って、佐々谷春彦君でしょう。建築学科の三年生。」


 金髪の男は穏やかな声音でニコリと微笑む。胸元のネームを見れば近江と書かれていた。

 彼は厨房へ向かって声を投げる。


「ねえスズ、鈴彦!」

「京平早く戻っ、」

「ハル君の友達だって!」

「……いらっしゃい。」


 厨房とホールを区切るのれんを避けて顔を出したのは、脳裏に浮かんでいた男を極限まで無愛想にしたような、でも彼によく似た人物だった。

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