第13話 ひきあう
昨日の私が情緒不安定だったのは、体調不良のこともあったけど。原因は何よりも、迫るマスコットキャラクターの原案〆切だった。
私はグラフィックデザインがド下手くそ。それは自他共に認めている。パソコンがすぐに扱える環境で育ったものの、パソコンで絵を描くなんていう発想は私に無かった。高校でもなんとなく逃げ続けたツケが今、ここで出ている。
焦りに漬け込むかのような体調不良。私は絶望を覚えていた。ハルが顔を見せたときから正直ずっと泣きそうだった。理由は一つに絞れないけれど。
どうにか涙を逃すための与太話が結局涙を連れて来て、情けなくハルの胸を借りた。それだけで済めば良かったのに。そのまま私はハルの懐で寝落ちした。あり得なくない?
律儀なことにハルは私を離しもせず、ベッドで一晩抱えていてくれたらしい。ハルは私の背中に添っていた。ハルの家に泊まるのはしょっちゅうでも、同じベッドで夜を明かすことは無かった。
起き抜けに混乱する私の挙動でハルの意識は浮上した。寝起きのハルなんて慣れているのに、小さく顰められる眉も痙攣する瞼も、見るのは初めて。それは普段私の寝起きが悪い所為。
「……ごめん俺邪魔だったでしょう。」
体を起こそうとするハルが、ずる、と後ろへ落ちる。それほどまでに、この狭いベッドを明け渡してくれていた。
「はっ、はる、」
慌てて胴を掴んだものの、成人男性を引き留める力は私にない。芋づる式とはまさにこれ。二人で床に落っこちた。ハルの右手は私の後頭部に、左手は体に添えられていた。
「大丈夫?」
「ごめん助けられなくて…。」
「…いっちゃん本当に細いねぇ。」
後頭部を軽く撫でながら、ハルはため息混じりに呟いた。まだ冴えない声音が、私をこそばゆくする。
「よくこれで制作続けてるよね。…もしかしてしょっちゅう倒れてるの?」
「そっ…んなことないからそろそろ離して。」
ぎこちなく半身を起こす私に向いたハルの瞳。
黒髪によく映える、案外色素の薄い茶色。緑っぽく見えるのは光の加減なんだろうか。こんな色を確か和名では、なんていう思考が、羞恥からの逃げだと言うことくらい分かっている。
頬に一点集中する熱と、離すどころか腕を掴むハルへ舌打ちをくれてやった。眉ひとつ動かさずじっと私を見上げる彼は、覚醒という言葉がよく似合う。本当に私の知っている佐々谷春彦かと疑うほど、みるみるうちに表情が冴えていった。
「その顔描きたい。」
「ひっでぇ殺し文句。」
「…に、殺されそうなのは誰でしょうか。」
「………うっさい。」
いつもの、見守るような優しい眼差しではない。少し好戦的で、活き活きとした瞳。緩く結ばれた口角が一層腹立たしい。
どすんと、私はせっかく起こした体をハルへと落としこんだ。胸板の奥から聞こえる心音がひとつも早くなっていないことにも苛ついて、私は適当に掴んだハルの上腕に爪を食い込ませる。いてて、とこぼすその声も余裕が残っていた。
「……あのさぁ。」
ああもう八つ当たり。最低。そう思いながらも言葉は止まらない。
「あんまり揶揄わないでくれない。」
ハルにしてやられたことが悔しい。まんまと茹で蛸になってる自分も馬鹿。どうせ今睨みつけたところでハルは、ほら。クスリと笑って私を撫でた。
「怒る元気は出てきたみたいだね。」
「……おかげさまで!」
弱っているところを助けられて、普段見せない顔を見せられただけで、人間はこうも簡単に落ちるのか。そして私はそれを認めたくもなく、悪あがきがてら本人相手に拗ね散らかすのか。素直に照れてみせればいいものを。
可愛くないな、と、ハルの胸元に埋もれて唸った。すると彼は穏やか且つ意地悪な声で言った。
「ねえいっちゃん。」
「……ハイ。」
「知ってる?いっちゃん、俺にキスしたことあるんだよ。」
「…………なんでいま、このタイミングでそれ?」
「畳み掛けておこうかなと思って。」
窮鼠は猫を噛む。私はハルの鳩尾を殴った。ところが急所は外れて、ハルはくつくつと喉を鳴らした後、高笑いをしやがった。覚えていないことも全てお見通しだったのだろう。
ぐうの音も出ない私は顔を洗うためにハルの上から退いた。水をパシャパシャ掛けてやったところでこの熱が収まる気はしなかった。時間稼ぎで歯磨きをしてついでに寝癖もなおす。ドライヤーを終えて、返そうと洗って畳んでおいた服を持ち、体を起こして伸びをするハルの元へ戻った。
「シャワー浴びるならどうぞ。」
「ありがと。」
「…こちらこそ。」
ふわりと、いつも通りに笑うハル。もうからかって遊ぶ気はないんだろう。ハルが促されるまま脱衣所に消えるのを見届けて、私は着替えて朝食を作るべくエプロンをした。体調はすっかり全快。
パンをトースターへ突っ込んでお湯を沸かす。卵を割って砂糖を少々。私もハルも卵焼きはほんのり甘い方が好みだった。
ベーコンを熱したフライパンに投入したところで、換気扇の存在を思い出す。ああもう手際が悪いなと、料理中も制作中も思っていた。昔先生が、絵を描くなら料理もした方がいいと言っていた。きっとこういうことなんだろう。完成からの逆算で考える工程だとか、手先の器用さだとか、リズム感とか。そういうものが、料理と美術は共通している。ハルが料理上手なことも肯けた。そもそも彼に苦手があるのかは分からない。苦手だとか嫌いだとか、そういうのをハルはあまり言葉で表さないのだ。
「……キスってなんだよ。」
ベーコンを裏返しながら呟く。正直料理と美術の共通点とかどうでもよかった。え、いつの話だ?でもぐるぐると考え込むとせっかくのベーコンを焦がすので、私は思考を反復横跳びさせている。
湯沸かしポットが鳴る。ちょうど焼き上がったベーコンを大きめの平皿へを移して、私はストック棚から即席のコーンスープを出した。マグカップ二つに顆粒とお湯を入れて、くるくる混ぜていると、今度はトースターからがしゃんとパンが顔を出す。それをベーコンの隣へ移してバターを塗る。焼き立てにやられて指先がじんじんした。
フライパンをサラッと拭いて、今度は卵を入れる。このじゅわ、というおいしい音が好きだった。
「…えっ最初の頃?春とか?」
「いや夏休み入ってすぐ。」
「結構最近じゃん……。」
まあるい卵焼きを半分にたたんで振り返る。フェイスタオルで髪を拭くハルと、しばしの無言。
「……なんでもっと早く言わねえんだよ、と、急に後ろに立つんじゃねえよ、って顔してるね。」
「大正解だよ。」
「久々にいっちゃんのご飯食べる気がする。」
「たいしたもん作ってないからワクワクしないで…。あとテーブル出して…。」
「はぁい。」
小さなテーブルを挟んでハルと朝食。心拍数は上がったままで、食欲は完全に失せていた。にこにことパンを食むハルを眺めて、私はため息混じりに呟いた。
「なんでそんな平然としてられるわけ。」
「俺もいっちゃんくらい照れた方が良かった?」
コーンスープは顆粒が底に沈殿していた。もたつく液をかき混ぜながら、私はハルと目を合わせる。
「とにかく昨日といいその件といい、迷惑をかけたので埋め合わせはさせて欲しい。」
「別に迷惑じゃないよ。」
「どっちも?」
「どっちも。」
「……わっかんねぇ…。」
普通友達に唇を奪われたら怒らないか?なんのつもりだとぶん殴るのはわたしだけ?やっぱりハルがぽやぽやしてるだけ?
頭を抱えてため息をつく私の肩を、ハルが突く。
「罪滅ぼしの気分ならお門違いだけど、その提案には乗りたい。」
顔をあげれば、至極真顔の佐々谷春彦が居た。
「いっちゃんを俺にちょうだい。十五分を四回。」
「………分かった。」
カーテンを閉め切ったワンルームで、ハルが少しだけ笑った。
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