第12話 介添


 はあい春彦。

 電話越しの声は、妖艶という言葉が相応しい。

「何の御用でしょう。」

 円だ。すると今回ばかりは、真面目な声で手を貸せと言った。

「伊月の具合が悪いの。」

 眉を顰めてもこれは電話。こちらの疑問が伝わるわけもなく、円はてきぱきと伝達を続けた。

「朝から起きられないんだけど私これから仕事なのよ。ついててあげられないの。本人は病院行きたがらないし親にも頼りたくないとか言ってるし。あんた幹線に去年できたコンビニわかる?そこからすぐのところなの。伊月の家。あんたどうせ明日会う約束してたんでしょ?」

「…美容師の友達が出来たって円のことか。」

「納得したならさっさと来なさい。」

 一方的に切られた電話。ひとつ息を吐いて、僕は晩夏の夕暮れに駆け出した。


 家からバイクで十五分。大通りを突っ切って細い路地へと入ると左手にコンビニが見えた。入り口には円が立っていて、その手には中身の詰まったレジ袋が提げられていた。

「思ったより早かったわね。」

「…なにその格好。」

「仕事だっつったでしょ。」

 記憶にあるよりずっと化粧が濃く、露出の多い服。円は折れそうなヒールでつかつかと歩み寄り、僕に袋と鍵を持たせた。

「これ伊月の鍵。家はあそこの一〇五号室。さっき起きたから食べたいもの聞いたらなんか…デンプンって言ってたからまだ寝ぼけてんのよあの子。あとよろしくね。」

 雑に肩を叩いて、円はさっさと大通りの方へ歩いて行った。今更思うところもないので、僕はとっとと教えられた部屋へ向かう。茜の退いた空には一番星と三日月だけが浮かんでいた。


「いっちゃん大丈夫?」

 鍵を開けると中はワンルームで、右奥のソファに横たわるいっちゃんを見つけた。左に敷かれた布団から抜け出て、そのままソファで力尽きているようだった。

「…えっハル?」

 晩夏とはいえ、まだ暑さの残った夜が来るのに。いっちゃんは長袖の寝巻きで毛布に包まって、顔だけをこちらへ向けていた。

「円から連絡があって。風邪?」

「…………好転反応らしいんだけど。」

 恨めしそうな声で答えるいっちゃんは、ため息とともに毛布へと埋れた。


 聞けばここ一ヶ月あたり、両親が薦めるサプリメントを飲んでいたそうで。しかし体調が悪化するばかり。今日はとうとう倒れたのだという。

「効果も権利収入も興味ないんだけど、断れば波風が立つでしょ。親子でいがみあったってしょうがないし。」

「……いっちゃんは本当に優しいねぇ。」

 毛布越しに頭を撫でると、いっちゃんはおずおずと顔を出した。

「…呆れてる?」

「ちょっとだけ。今の体調は?」

「吐くだけ吐いてやっとお腹すいたとこ。」

「いっちゃん、円にデンプンが食べたいって言ったらしいよ。」

「…うそ?」

「だからとりあえずおかゆとフライドポテトとマカロニサラダが入ってます。円から。」

「うわぁぁ円さんありがとう……。」

「起きられる?」

「……その辺に眼鏡落ちてない?」

 眼鏡って落ちてるものなのか。目は良いほうなので感覚がわからない。探せば枕元から少し離れた床に、鼈甲柄の眼鏡が落ちていた。

 いっちゃんの部屋は冷蔵庫とオーブンレンジと洗濯機と、画材とソファくらいしか無い。壁に折り畳みのテーブルが立てかけてあって、ワンルームは思いの外広く感じられた。

「あんまり物を置かない主義?」

「全部クローゼットにぶち込んでるから広く見えるだけだよ…。管理能力が無いので…。」

 目眩がするのかいっちゃんは頭を押さえていて、差し出した眼鏡を何度か取り損ねてからやっと耳へとかけた。

「…本当に春彦さんじゃん。」

「いっちゃん眼鏡も似合うね。」

「褒めても何にも出ませんけど…お茶は出すけど…。」

「場所教えてくれれば自分で出すよ座ってな。」

「あのそれ、そこの…それです。」

「…これは冷蔵庫っていうんだよ。」

「それです……。」

 動こうとするいっちゃんを制止して、折り畳みのテーブルを広げる。天板には色とりどりのアクリルガッシュが沢山付いていた。一度乾くと落ちない特性が見事に発揮されている。だから食事はランションマットを敷いて食べるんだそうで、冷蔵庫の上に丸めて置かれた生成りのそれを広げて、その上にマカロニサラダを出した。

「ハル食べるのある?冷蔵庫適当に漁って良いよ。」

「いや、これ全部二人分みたい。」

「おかゆまで付き合わせちゃうね。」

「俺おかゆ好きだよ。」

「…じゃあいっか。」

 へら、と笑ういっちゃんは頼りない。壁というか、いつも無意識に張り詰めている部分が緩んでいるようだ。ずるりと落ちる眼鏡を押し上げて、温め終わったおかゆをゆっくり口に運んでいた。泊まって行くけど良いよねと聞けば、彼女はどこか嬉しそうに頷いた。


「そういえばこの間の此永さん、可愛かったね。」

 呑気な口調で世間話を繰り出すいっちゃんは、緩やかなペースでおかゆを食べ終えたところ。

「…いっちゃんが好きそうなタイプだね。」

「ハルは好きじゃないの?」

「残念ながら。」

「もったいな…。」

「彼女は引く手数多でしょうから。なにも俺が引かなくても。」

「共学って楽しそうだよねぇ。」

 高校からずっと女子校に通っているからか、いっちゃんは少なからず興味があるようで。珍しく饒舌に、たわいもない話をする彼女の気が済むまで付き合おうと思った。

「いっちゃんは共学だったら人気出そう。」

「駄目だよ人望ないもん。」

「次期リーダーがなにを…。」

「誰もやりたがらなかっただけ。推されてつとめたものは殆どないよ。」

 ソファで膝を抱えて、後ろへもたれかかった。華奢な体はそれでもふらつくので、静かに引き寄せる。すると彼女は大人しくこちらへ身を委ねた。

「きっと私じゃなくても良い。…私じゃなきゃ駄目なことの方が少ないのは分かってるけどさ。たまに怖くなるの。私が張り切ってでしゃばってて、みんな優しいから邪魔って言わないだけで、実はずっと鬱陶しがられていて、いつか背を向けられてしまうのかなって。」

 猫背を更に丸めたいっちゃんは、弱々しい瞳で弱々しいため息を吐いた。

「でもいちばん怖いのは自分の疑心暗鬼で、相手の真心が見えなくなることなの。今回のことだってそう。お母さんは本当に私の為を思っただけで他意はない。体が弱いのは事実だし。」

 至誠と呼ぶには気弱で後ろめたい。相手とではなく、自分の心と折り合いをつけるための言葉だ。


 不意に、彼女の瞳から一粒だけ涙が溢れた。掬い損ねてしまったことが悔しくて、涙を吸った服ごと、僕はいっちゃんを抱きしめる。

「その時、その場所で、それを出来る人はいっちゃんしか居なかったんでしょ。なら、いっちゃんじゃなきゃ駄目だったってことだよ。皆、お鉢が回って来なくてほっとしたんじゃない?だからいっちゃんを責める人は居ない。大丈夫。…大丈夫だよ。」

 僕に埋もれた彼女から、鼻をすする音がした。

「真心だけ貰って、あとはさよならしちゃえば良いよ。じゃないと疲れちゃうから。…それとも、さよならするのも怖い?」

 気丈さと脆さが一進一退の彼女は、絶不調でも手放しで助けを乞わないらしい。でも首を横に振らないということは、きっと肯定なんだろう。

「…じゃあ怖くなくなるおまじない。」

 彼女は首を傾げて僕を見た。目は赤く腫れていて、ずれた眼鏡のレンズには涙がぽたぽたと伝っていた。

 前髪をよけて額に口付ける。小さなリップ音が響くと、彼女は呆けた顔で額を抑えた。

「………佐々谷家のポピュラーなやつ?」

「………佐々谷家のポピュラーなやつ。」

「……。」

「……。」

 沈黙を破る彼女の笑い声。

ここがまじないならここは呪いだね。」

「いっちゃんてたまに感覚と脊髄で喋るよね。」

 返事をしながら両手を広げると、彼女は何度か目を泳がせた。大丈夫呪いはかけないよ。そう伝えると、すこしだけ上がった体温を僕へ預けて笑った。

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