第11話 策士


 まだ黒髪だった頃の瀬川伊月を知っている。

 私が大隈女子大学附属高校の三年生にあがると、黒の前髪を目蓋の上で切り揃えた、ちょっと生意気そうな一年生が入ってきた。その学年には学業特待生が二人いて、そのうちの一人だと噂されていた。

 いうて上下の交流が少ない美術科。油彩室の隣にひとりひとつロッカーがあって、伊月とはそこで顔を合わせる程度だった。辛気臭いとか根暗そうとか、そういうことではないんだけれど、伊月はひとり歩きした肩書も相まって、どこか人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。


 夏休みの短期講習会。デッサンを三日間と、油彩を二日間。学年関係なく、美術科全員で受けるものだった。その初日にあいつは遅刻した。

 朝会が終わって、一限目が始まる少し前にロッカー室へ駆け込んできた。伊月は私の顔を見るなり、ぼろぼろ泣き出した。大号泣の下級生をほっとくわけにもいかなくて、私は背中をさすりながら事情を聞く。


 どうやらこいつは通学のバスの中で寝て、うっかり終点まで乗って、知らない土地から一生懸命学校目指して走ってきたらしい。携帯の地図アプリを片手に。

「バスの車庫前って言うからもう…私も仕舞われるかと思って…。」

 幼稚園児のようにべしょべしょな泣き顔。なんだこいつ普通の子じゃん、と思ったところで、私はこみ上げる笑いを抑えられなくなった。

「頑張ったなぁ…フフッ…とんだ寝坊助さんなぁ…はははっ、たかだか十分起きてらんなかったのなぁ……それでお前そんな…そんな泣いてんのか…あっははっ……!」

 一生懸命走ったせいでぐちゃぐちゃの三つ編み。整えてやろうとゴムを解いても、伊月はひとつも抵抗しなかった。

「私ならもう丸一日ばっくれてやるけどな。真面目なんだな。…そりゃそうか特待生だもんなぁ。」

「…あとバスの中にお弁当を…置き忘れちゃって…財布は家に忘れたし…。なんか走るの楽だなぁと思ってたら…。」

「…お前実はポンコツだな?」

 あまりにもゆるい編み目と結び目。ゴムを伸ばせば一瞬で切れた。私は手首につけていた太いゴムで、伊月の黒髪をひとつに結えた。可愛くしてやる暇がないのは残念だった。

「まあでもなんとかなるもんだろ。あんまり気にすんなよ。」

「ありがとうございます清水先輩…。」

「乃ノ夏でいいよ。」

 

 二階の講義室、通称デッサン室に移ると、伊月はすぐにデッサンを始めた。今日のお題は人物。三年の有志がモデルを買って出た。この高校はバイトが禁止されている。なのでモデルには、お駄賃がわりに弁当を買ってくれるらしい。


 紙の端から端を、鉛筆が駆け抜けていく。ざかざかと書き進めているのはおそらく柔らかい芯の鉛筆。お前それ、あとでどれが必要な線か分からなくなっちまわないのか、もう少し冷静にモチーフを見てからにしろよ、と言いたくなるほど、闇雲に思えた。


 その有象無象が、一気に意味を持っていく。

 伊月は持つ鉛筆を変えて、画面の要所要所を決めにかかっていた。あれだけ雑多で、曖昧なモチーフが、急に正しく鎮座し始める。


 そこで気付いた。あいつがものの輪郭をとらえるよりまず、空気感や明暗を見ていたことに。だからあんなにぼやぼやと、さっさと線を重ねていったんだと思った。

 皆の画面がまだ白く、モチーフを捉え始めた線が往来している最中、伊月だけがその存在を写し取っていた。

 

 そうして出来上がった伊月の人物デッサンは、優しい空気に溢れていた。

 上手く描こうとしたわけではない。線は決してシャープではないし、人体の構造も、シャツのシワのつき方も、多分あんまり理解はしていないんだろう。それでも時間が許す限り、それをひたすらに追いかけていた。柔らかな線で、ふわりと差し込む光を描いていた。この絵だけでなんとなく、私は瀬川伊月という人間が分かったような気がした。だから卒業まで、なにかとちょっかいを出し、あいつはいつのまにか先輩とも呼ばず、敬語も使わなくなった。そう仕向けたのは私なんだけどね。


 卒業後、私は適当に就職をした。美術と無縁の業種。伊月は勿体無いと言った。

 絵を描き続けると、時折どうしても全部嫌になる。一生懸命やっても、出来上がるのは理想とかけ離れた塵みたいな作品。あれだけ好きだった美術が、憎くてたまらなくなった。だから試しに、この三年間をぶん投げてみた。

 そうしたら贅沢なことに、つまらなくなった。高卒止まりの経歴も、雑務の繰り返しも。


 ああそうだ、短大くらい出てみようかな。そう思った年の秋、伊月がまたぼろぼろ泣いて私のところに来た。


 三年の、センター試験三ヶ月前。

 あれだけ肯定的で、他県への教育大学への進学を許していた両親から、進学を諦めて欲しいと頼まれた。伊月は反抗期をすっ飛ばしているような奴だから、話が違うと喚くこともなく、ただただ困惑して泣いていた。

 伊月が、中学校の先生になりたいと言ったのは高校二年の夏だった。美術科という、普通科のカリキュラムの三割以上を専門分野に割くような、特殊な学科では勉強が追いつかないと、伊月は授業で習う以上の勉強をしていた。

「じゃあさ、隣受けなよ。二種だけど教員免許は取れるじゃん。隣なら特待生で入れるかもしれないじゃん。そしたら授業料かかんないよ。二年しかないけど、私と一緒にもっかい学生やろうよ。」

「……ののかと?」

「ちょうど冬に受けることにしたの。隈女の芸術科。受かったら教えようかと思ってたんだけどさ。」

「…ほんとに?」

「本当。だからそれだけは土下座してでも殴り合ってでも貫いて来なよ。」

「…殴りたくはないなぁ。」

「お前のお母さん元ヤンなんだっけ?」

「そうだけどそこじゃない。」


 土下座も殴り合いもしないで済んだよ、と数日後に電話がきた。あいつは本当に嬉しい時、それこそ本当に、小さい子どもみたいな、辿々しく無防備な言葉で喋るのだ。


 そして伊月は晴れて短大生になった。授業料は県から借りる比較的少額の奨学金と、あとは自力でどうにかすると、覚悟を決めた顔をしていた。お前は頼るってことを知らないね。そう言うと、好きなことやる為だから、と返ってきた。そして少し間を置いて、髪染めてくれない?と言う。伊月なりの甘え方なんだろう。彼女はどこまでも不器用だった。

 


 不器用に加えてとても鈍い。

 ついでに人の悪意にすこぶる疎い。お前もうちょっと考えろよ分かるだろ、と突込みたくなる。

 目の前の女子大生が、お前の好きな佐々谷とかいう男を狙ってるよ。魅入ってる場合かよ。狙われる張本人さえまとわりつく女子大生を牽制して、お前の方を見てるのに。

「此永っち、さっきから座敷で呼んでるけど良いの?熱烈ラブコールみたいだけど。」

 退散させても尚、伊月は分かっていない。あの可愛らしさが、作り上げられたものだということも。そういえば伊月は刺身の天然と養殖も、違いを把握できて無かったな。


 首を傾げる伊月を、此永綾香は道連れにして行った。始まってもいないプロジェクトの打ち合わせがそう長く続くわけもなくて、私は引き止める理由も持ち合わせていなかった。


「佐々谷さんが伊月を囲わない理由は何なの?」

「…言い方悪いねぇ清水さん。」

 苦笑するのは狩野真弘の方で、佐々谷春彦はひとつも表情を変えなかった。

「あの子がそれを望んでいないから。」

「なんでそんなこと言えんの?」

「見ていれば分かるよ。いっちゃんはもっと深いところで…恋愛よりももっと人間的なところで、信頼できる人を見つけたいんだと思う。だから今は逆効果。」

「……今は?」

「いまは。」

 ハルとかいう奴は、聡明に見えてトンチンカンの伊月とはまるで対極の存在に見えた。


「捕まえ損ねて恨まない?」

「俺が大学生になるきっかけは瀬川伊月のマユールだよ。捕まえられなかったとしても、十分。」

 まだ何か、根拠を隠している余裕の顔。

「その心は?」

 彼はしばらく間を開けて、ニコリと微笑んだ。


「彼女の性格上、寝ぼけ眼とはいえ、好きでもない男の唇を奪うでしょうか。」


 酔いからの慢心じゃない。佐々谷春彦という人間は、伊月がいう程ふわふわのぽやぽやではない。というか伊月の頭が一番ふわふわだろうが。

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