第12話 追憶(前編)
かなめが紅狐と再会して三日が経った。
今日は短縮授業で、いつもより放課後の訪れが早い。こんな日は一目散に帰って、麻美の夕飯が出来るまでの時間を鍛錬に費やすのが、かなめのルーティンだ。しかし今日は予定がある。九日後に控えた祭りで使用する衣装の修繕や小道具の制作は麻美に任せて、挨拶回りいうものをしなければならない。これもまた、祭りのための準備である。
かなめは帰りたい気持ちを抑えながらもまだ席についている。帰るに帰れないのは、後ろの席の二人に原因がある。
「音緒って暑さに弱いんだねえ。」
今朝のニュースで梅雨入りを知ったかなめは、自分の下敷きを使って音緒を仰いでいる。梅雨らしく雨が降るでもなく、本格的な夏が到来したでもないのに、最高気温が三十度近くにまで上昇する気候は、この地域独特のものである。教室にはクーラーが付いていない為に蒸し暑い。
「都はもっと過ごしやすかったんですよ。」
「都会っ子だ。」
「うるさい田舎娘が。」
机に突っ伏した音緒から聞こえた、くぐもった悪態。高校生に擬態した彼の、短い髪が風に揺れている。かなめはくすくす笑いながら宗也を見やるが、彼は神妙な顔で虚空を見つめていた。
「宗ちゃん大丈夫?」
「……。」
「……。」
宗也はかなめに話しかけられたことにも、帰りのホームルームが終わったことにも気付いていないようだった。かなめは苦笑を浮かべながら席を立ち、近くの窓を開けた。外からは微かに、花の甘い香りがした。
「なんの花だろう。ねえ宗ちゃん、心当たりある?」
返事はない。かなめは呑気に宗也を指差しながら「こんな銅像あったよね」と音緒に話しかけるが「近代芸術に興味はないです」と返ってきた。宗也はまだ動かない。が、涼しい顔にも汗が滲んでいるのをかなめは発見する。ハンカチでも濡らして渡そうと、廊下にある水道へ行くと、ばったり椿と出くわした。
「二人とも様子が変なの。」
かなめは教室内を指差す。椿はちらりと見て「本当だな」と呟いた。
「これからお祭りの準備があるんだけど、二人とも大丈夫かな。」
「大丈夫じゃないなら手を貸す。俺も玄宗さんに呼ばれてる。」
「本当?わたし今日、挨拶回りがあって社務所に居られないから助かるよ。」
「挨拶回り?なにするんですか、それ。」
横からぬっと割り込んだのは音緒だ。
どうやら顔を洗いに来たらしい。
「今年のお祭りって、舞手が私だったんだけど、ほら私、紅狐のことがあるじゃない?だから舞手が出来なくて。代わりにカナさんって人が舞ってくれるらしいんだけど、その報告を神前でね、しなきゃいけないの。うちの大神宮じゃなくて、ほら、学校の近くに大きな稲荷神社あるじゃない?そこに行くの。」
「じゃない?って言われても。知りませんよ。」
「読もうと思えば読めるって言ってたから。」
「全部読む気はありませんよ。悪趣味な。」
かなめは相槌を打ちながら、白のハンカチを取り出した。その隣で、椿が窓の外から流れてくる甘い香りに気が付いた。
「なんだこの匂い。紅沈香じゃないな。」
「私も思ってたの。なんだろうね?」
「…
「それどころじゃないみたい。」
「二人が頼りになんなきゃ言えよ。」
音緒はこのやりとりにも気付いていない。濡れた前髪を掻き上げて、しれっとかなめのハンカチを横取りした。
「あっこらっ。」
「どうせ濡らして絞るんでしょう?」
「…まあ今日の宗ちゃんなら気にしないか。」
「ぼうっとしてますもんね。」
「音緒もね。」
かなめが冷やしたハンカチを持って、音緒と共に教室に戻ると、宗也の姿は見当たらなくなっていた。
「あれ?先に行っちゃったのかな。」
「どうせ目的地は一緒なんでしょう?」
「一緒に来てくれるの?」
「宗が付いていないあなたを放るわけにいかないでしょう。」
音緒は案外宗也を認めているようだ。かなめの無警戒と違って、音緒には鑑識眼がある。
「それと、関守に話があるので。」
「パパ達に?」
音緒は関守から、町の滞在許可と引き換えに、祭りに貢献するよう言い渡されたらしい。昨日、一瞬の隙に姿を消した関守と百鬼夜行の間で、かなめの知らないうちに交わされた約束だ。「納得のいかないことがあるんです」と、音緒はそれ以上言及せずに教室を出る。かなめは足早に音緒を追いかけた。
一方宗也はというと、副担任の吾妻渚に呼ばれて、廊下の端にいた。水道のかなめ達からは死角になる位置だった。
宗也は昨日の玄宗と椿のやりとりから、渚が霊能関係者であると推測していた。案の定、渚は宗也がポケットに忍ばせている呪符に気付いたらしい。
「何を持ってるんだい?」
宗也が呪符を取り出すと、渚はその温厚な顔つきを極限まで険しくさせた。
「どうしてそんなものを?」「父に渡されました」「………紀明さんかぁ」渚は掌で顔を覆った。
「あの人なら、最悪の事態に備えて用意するか……でも子どもにそれを渡すのは………ううん紀明さんのことだから君を信じて、だよねえ……相変わらず何を考えているか分からない人だねぇ……。」
もにょもにょと独りごちている渚へ、宗也は首を傾げた。
「先生は父と仲が良いんですか?」
「僕はどちらかというと玄宗さんと動くことが多いんだ。…でも僕の兄は紀明さんを気に入ってるね。あのひと、人間以外にすごく好かれるんだよね。」
「人間以外に?」
「あれ、言ってなかったかい?僕の兄は、妖なんだ。」
「…えっ?」
「今度ゆっくり話すよ。とにかく
宗也が口を開くと同時に「吾妻先生!会議が始まりますよ!先生いつも遅れるんですから!急いで!」という教頭の発破が廊下に響いた。
渚は「じゃあね」と焦茶色の髪を揺らしながら、足早に職員室へと向かってしまった。
「でも父は殺せと言いましたよ。かなめごと。」
そう呟く宗也の声は、誰にも届かない。
ため息まじりに教室へ戻った宗也は、かなめと音緒がいないことに気付く。それと同時に、後ろから椿の呼ぶ声がした。
「松浦なら先に帰った。お前がいないからあの鬼がついて行ったぞ。」
「ああそう………。」
「……お前なんか思い詰めてる?」
「……それなりに。」
返答と共に、宗也は大きなため息をついてその場にしゃがみ込んだ。普段は感情をなかなか表に出さない宗也である。只事ではないと察した椿は、自分もしゃがみ込んで宗也と目線を合わせた。椿は見かけによらず面倒見が良いのだ。
「ていうかお前何持ってんの?悩みの種、それじゃ無いの。」
「…やっぱりわかる?」
周囲は部活動へ急ぐ者、帰る者、放課後を謳歌する者で賑わっている。二人のコソコソ話は誰に聞き留められるでもない。宗也が呪符を取り出すと、椿も渚同様、ものすごい顰めっ面をした。事情を掻い摘んで話すと、椿は「なるほど」と呟きながらため息を吐いた。
「お前はそんなもの寄越す紀明さんのこと、血も涙もない冷徹人間だって思ってる?」
「………。」
「………。」
「………そう言い切れないのが面倒くさい。」
顔を覆った両手の奥で、黒檀色の瞳が揺らいでいる。椿はしばらく考えた後に「俺も紀明さんのことは嫌いじゃないよ」と呟いた。
「紀明さんは妖に好かれるから。」
「…それさっき吾妻先生も言ってたよ。」
「…ああそう。」
椿はどこか不愉快そうだ。宗也は彼が似通った感情を抱いていると察するに易かった。
「吾妻先生って鹿嶋の親戚?」
「後見人。」
きょとんとする宗也を他所に、椿が立ち上がる。教室の壁に掛かった時計を見ているあたり、この話を広げられたくないというよりは、他のことに気を取られているようだ。
「野坂おまえ急いだほうがいいよ。変な花の匂いがしてるのに、百目鬼もお前も気付いてない。たぶん今日のお前らじゃ、松浦の護衛は無理だ。あの二人が出てから時間経ってる。」
宗也は血相を変えて駆け出す。鞄も置きっぱなしで、正門を出た瞬間、鬼灯を破って戦闘に備えた。目指すは先に社務所へ向かったであろう、かなめと音緒だ。
戦闘用の装束には、霊力のない者から姿を眩ませると同時に、術者の身体能力を向上させる能力がある。人知の及ばない者たちを相手にする以上、この装束は必須である。
黒の羽織を翻す宗也は人並み以上の速さで駆けているが、鬼の血を引く椿には敵わなかった。椿は制服のままで宗也を追い越すと同時に、偵察がてらコンクリート造りの花屋の上へ登った。
「野坂、大通りのところ。争った後がある。」
「分かった。…鹿嶋も装束着なよ。」
「めんどい」と言い放った椿が花屋の屋上から、大通りへ出た宗也の隣へと軽々着地した。
「「うわ」」
そこにあったのは、コンクリートを抉って出来た穴の数々。おかしいのは、その穴の直径が人間ひとりが簡単に収まってしまう程大きいことと、穴の中に見えるのが砂利や土などではなく、常闇であることだ。
宗也はため息混じりに周囲を見渡す。この事態を防げなかった自分自身に苛立っているようだ。
椿は余裕なく索敵を続ける宗也の隣で、古びた歯科医院に目をやった。
「…野坂、あれ。」
二人の視線が、歯科医院の隣に集まる。そこには空き家があって、空き家の軒下で、かなめがひとり佇んでいた。
「何してるのこんなところで。」
「あんまりにも暑いから、ちょっと休んでたの。」
「音緒は?」
「先に行くって。」
手招きするかなめに従って、宗也は肩で息をしながら空き家へと近づく。するとかなめはわざわざ宗也を出迎えて、その右手を宗也の頰へと当てがった。
「ほら冷たいでしょ。」
「……体ぜんぶ冷え切っちゃったんじゃないの?」
口元を緩く上げて宗也が言う。その目はひとつも笑っていないが、かなめはお構いなしに間合いを詰めた。かなめは呑気に、両手を伸ばして宗也の頰へと触れる。頭ひとつ分の身長差を、彼女は背伸びで埋めようとした。宗也はそれを抱いて支えた。
椿は、安心し切って身を委ねるかなめに違和感を覚えた。昨日の、宗也に対して怯えた表情を見せたかなめが、強く印象に残っている所為だ。
「…随分都合の良い夢を見せてくれるね。」
低く冷たい声。
宗也は呟くと同時に、懐刀をかなめの背中へ突き立てた。
「体に呪詛が無い。…お前の目的は?」
「教えない」と笑う偽物に、宗也は眉ひとつ動かさずに刃を深く刺す。すると偽物の背中から、地面を打つほどの血液が滴った。
「もう一度だけ聞く。目的は何だ。」
切先が偽物の核を捕らえる。それは妖が心臓の代わりに持つものだ。心臓と同じように機能を停止させれば、どんな妖も事切れてしまう。
「…ねおは落ちた。この娘といっしょに。」
偽物はかなめの見てくれのまま「おまえも来るか」と呟いた。密着している偽物の体から、血と混じって甘ったるい花の匂いがした。
「百目鬼と娘の骸は、わたしが溶かして喰らうのだ。そうしてできたわたしの蜜を、
ふと、偽物の瞳に映る宗也の背後に、鬼の姿が映り込んだ。
「よく喋る花だな。」
椿の大きな鬼の手が、偽物の頭を薙ぎ払う。
宗也から強制的に剥がされた偽物は、灼けたコンクリートに打ち付けられた。
「こいつら確か、幻覚を見せて巣穴に引き摺り込むんだ。人間も妖も、何でも食うんだよ。……悪い。名前が出てこない。」
「それだけ分かれば十分だよ。」
宗也は呪符を弓矢に変えていた。矢尻に青い炎を纏わせて、間合いを取った妖花の胴体に容赦なく打ち込んだ。
「ギェェ…!」
妖花はたちまち燃え尽きる。
二人は怪訝な顔でそれを見ていた。
「…今、弓が当たるより前に燃えなかったか。」
「俺も思った。」
眉を顰めたまま、互いを見やる宗也と椿。
宗也はその手に残った偽物の血と弓矢を振り払う。弓矢はただの紙切れになり、散り散りになって風と踊った。
「…この手の妖って、巣穴に大元が居るんじゃなかったっけ。」
「だな。」
「…鹿嶋、あと任せる。」
宗也は懐から新しく呪符を取り出す。それを錫杖へと変え、自分の一番近くにあった穴を突いた。
穴は衝撃に揺らいで、誘うように広がる。宗也は躊躇うことなく、その中へと飛び込んだ。
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