第13話 追憶(中編)

 遡って数分前。

 音緒は、玄宗が住職を務める寺の前に居た。


 寺の前には小川がある。小川に架かるコンクリート造りの小さな橋を渡ると、五段の石段の上に立派な正門がどっしりと構えていた。門の両脇から、白い漆喰の塗られた塀がぐるりと境内を囲っている。音緒が改装したばかりの美しい正門と快晴の空を恨めしそうに見上げていると、門の中から、かなめが「お待たせ」とパタパタ走ってきた。音緒は、社務所に寄る前に着替えたいと言い出したかなめを待っていたのだ。


「宗ちゃんは?」

「まだ来てませんよ。」

 

 かなめは白衣に巫女用袴、そしてその上に千早を纏っている。祭り当日に着る衣装だ。寺から巫女が出てくる違和感を、百目鬼が指摘することは無かった。


 玄宗がタイムリミットとした祭りは九日後。夏至の日に開かれる。毎年、関守二人が主催者となって、神々への祈祷も、慰霊祭も鎮魂祭も、すべてをひっくるめて盛大な祭りを開催している。故にこの季節は、専ら準備に追われているのだ。


 音緒が男子高校生の変幻を解きながら踵を返した。かなめは去る音緒を見送るつもりで手を挙げたが、彼は「は?」と首を傾げた。


「神社まで送りますよ。一人にできません。」

「音緒って優しいね。」

「自惚れないでもらえます?紅沈香の為です。」


 二人は寺を背に進み、信号の点前の道を右へと曲がった。小川沿いに舗装された細道を歩くと、すぐに大神宮の一ノ鳥居が右手に見えた。しかし目的地はこの神社でない。かなめ達は、荘厳な石造りの鳥居に目もくれず直進して行った。


 無言のまま歩いていると、不意に音緒が「うつわ、あれ」と空き家を指さした。


 かなめは素直に空き家を見る。そこには淀んだ空気と一緒に、瘴気が凝縮されている。


「あれが次第に意思を持ち、体を持つ。妖はそうして成り成りていくんです。」

「紅狐もそうなのかな。」

「まさか。」


 音緒が鬱陶しそうに自分の髪を後ろへ払う。かなめはそれを見て、男子高校生の形をしている方が涼しかっただろうに、とも思ったが、暑さにやられている百目鬼では、変幻に使う妖力も惜しいのかも知れない。黙って彼の言葉を待った。


「紅様は瘴気などではなく、もっと清らかなものからできている。」

「清らかなもの?」

「人間はそれを神気と呼ぶようです。…貴女、よく正気を保っていられますよね。」

「えっ?」

「その呑気が幸いしているんでしょうよ。」


 音緒は狩衣のような装束の襟元をパタパタと仰ぎながら、頭ひとつ小さいかなめを見下している。


「音緒はどうして紅沈香が欲しいの?」

「……貴女には教えません。」

「なぁんで……。」

「私怨です。」


 音緒の言動にかなめが怒ることはなく、彼女の視線は道端の草花に移っていた。どうやらかなめには、もっと気がかりなことがあるらしかった。


「今日起きた時からずっと、花の匂いがしてるの。紅沈香とは違う、もっとべたっと甘い感じの……なんなのかな。」

「…起きた時から?」


 怪訝な顔の音緒は、一人の少女とすれ違う。


 少女は前髪を中央で分けて、艶やかな黒髪を後ろへ流していた。小柄な体に纏った装束は、音緒のものとよく似ている。


「……キク?」


 かなめは音緒の視線を追うが、周囲には妖も人間も居ない。「菊の花はこんな匂いじゃないよ」と呟くかなめに、音緒は空返事を返した。


「まって音緒、私には何も見えてないよ。」

「貴女の目が節穴なのでは無くて?」

「節穴なのではないよ。」


 右手をぎゅっと握って、かなめは音緒をその場に押し留める。音緒は尚も遠ざかる少女の背に目を奪われていた。


 その手へ、さらに重なる体温がある。


「どこ行ったのかと思ったら…。」

「宗ちゃん!」


 ゆったりした白の半袖と、黒のスキニー。

 宗也の普段着である。


「あのね、音緒が、」

「放っといても平気だよ。行こう。」


 宗也はかなめの右手を取る。かなめはこの態度と力加減に、違和感を覚えた。

 そして、左手首に付けていた花飾りから、悪寒にも似た震えが伝わってくる。宗也から贈られたそれは、かなめへと危険を知らせていた。


「……宗ちゃんじゃないね。」


 かなめが見上げた彼の瞳は、まるで漆で出来た作り物だった。

 見破られたと知るや否や、偽物はかなめの華奢な手を握り潰さんばかりに力を込めた。かなめは痛みに顔を歪めながらも、毅然とした態度で偽物の手を振り払った。


「宗ちゃんは私を乱暴に扱わないよ。」


 細かいことを言えば、宗也がかなめの手を取るのはいつも下からで、手を引くのなら最初に指先で合図をして、それから至極緩やかに力をかけるのだ。不躾に手を鷲掴むこともなければ、それを荒く握ることもない。


 振り払った手が、再度かなめを捕えようとした。上から降りかかる男の手に、かなめは自分の意思とは裏腹に体が強張るのを感じた。


「ッ、」


 懐に忍ばせた呪符を取り出す暇などない。

 かなめは強張る体を精一杯鼓舞して、左手で偽物の顔面を掴んだ。


「光を知らぬ不浄の者よ、在るべき場所に…………わっ…!」


 かなめが唱え終わるよりも先に、左手首の花飾りから光が溢れた。思わず目を閉じてしまう程に眩しく、清らかな光は、偽物をいとも簡単に掻き消してしまった。


「…宗ちゃん、こんなことも出来るんだね……。」


 その場にぺたりと座り込みながら、かなめは花飾りを日に透かす。宗也が自身の霊気を糸として編んだお守りには、少しの解れが見て取れた。術者として尊敬すると同時に、かなめは思わず頬を緩めてしまう。


 しかし浮ついている場合ではない。かなめは緩んだ頬を叩いて、後ろに居るはずの音緒を見上げた。

 

「ねえ音緒、やっぱりこれ、」


 音緒はとっくに背後から消えていた。

 息を切らして駆けつけて、今まさに少女の肩を掴んでいる。


「キク……ッ、百瀬ももせ!」


 いつも余裕の面持ちで、淡々と話す音緒からは想像もつかないような、悲痛な呼声が上がっていた。


「僕のこと、もう覚えていませんか……!別れの挨拶も無しに居なくなったのは、また僕と会うためでしょ…!」


 音緒が必死に振り向かせた少女に、顔はない。


「引ッカカッタ!」


 辺り一帯に金切り声が響くと同時に、少女の顔に無数の穴が空いた。一つひとつが深い闇を湛えていて、まるで花びらを落とした蓮のようだった。

 かなめは、呆気に取られている音緒の腕を掴んで少女と距離を取った。二人を追うように漂うのは、噎せ返るような甘い香り。かなめは、朝から鼻をついていた香りの正体を知る。


「ほらやっぱり敵の術だよ!」


 少女の体が、みるみるうちに溶けていく。その体はコンクリートを侵して、溶け残った顔にある穴と同じ深淵が、地面にも広がっていった。コンクリートへ落ちた少女の首は、したり顔で笑っていた。


「本当に節穴じゃなかったよ!」

「分かりましたって!」


 音緒はバツが悪そうに、かなめを抱えて上へ飛ぶ。助走も無しに、いとも簡単に空中へ逃避した。


「貴女、装束は?」

「鬼灯落っことしちゃった。」

「馬鹿。」

「今日の音緒には言われたくない。」


 二人を追うように、地面から無数の槍が飛んでくる。柄から刃まで漆黒の、光を吸収したそれはまるで鋳物のようだった。


 音緒は漆黒の槍を手早く掴み、ぐるりと旋回させた。そして自分達めがけて発せられた次鋒の槍を払い落とす。輝き一つ無い槍は、折れることもなく、鉄のような音を立てて地面へ衝突した。


 槍を飛ばした穴から、今度は黒く煤けた無数の手が襲いかかる。音緒は近くの屋根へ、かなめを放り投げた。


「待って音緒、」


 空中で体を捻った彼は、敵の飛ばした漆黒の槍を握って、無数の手と対峙した。


「音緒ってば後ろ!」


かなめは間髪入れずに彼の懐へ飛び込んでいた。その手には両刃の打刀が握られている。かなめは、音緒の背後を突かんとした手を仕留めていた。


「今日ほんとにどうしちゃったの?」

「…………弓を射るとか、あったじゃないですか。一緒に落ちてどうするんです。」

「宗ちゃんみたいに上手くないんだよ…。」


 敵が開けた穴へと、結局二人で落ちていた。

 深淵の中、一度ぐるりと天地を失ってから、二人は固い地面と衝突した。


「なにここ…。」


 かなめが上を見上げても、そこは岩肌の天井。通り穴はない。どうやら敵の術によって、薄暗い洞窟に辿り着いたらしい。こうして幻覚で惑わせ、巣穴に攫う妖は少なくないと、かなめは玄宗から教えられていた。父の「お前、ホイホイついて行っちまいそうだな」と不安そうに呟いた顔をよく覚えている。


「無事ですか。」


 わざわざ下敷きになってかなめを受け止めた音緒の、その手に伝わる生暖かい感触。かなめの背中の切傷だ。鼻腔をくすぐる血の匂い。彼は引きつった笑みを浮かべた。


「用心棒を庇って怪我をする馬鹿がどこにいるんですか!」

「いっ痛い痛い痛い……!」


 音緒は舌打ち混じりにかなめの傷口を抑える。

 止血の為、抱きしめるように力を込めた。そのぎこちなさは、彼が治療に不慣れであることを物語っている。


「巻き込んだことは謝ります。」


 荒々しくため息を吐く音緒。藤色の双眸には、敵への憤りというよりも、見え透いた策にまんまと嵌った自分への苛立ちが滲み出ていた。


「音緒が冷静じゃなくなるなんて、よっぽど大事なひとだったの?」


  音緒はとても不本意そうに、かなめから目線を外して言った。


「僕が唯一愛した人間です。」


 危機感のないかなめが目を輝かせることなど、音緒にはお見通しである。音緒は目を合わせないまま、かなめの傷口をギュッと握った。


「いっっったい!」

「うるさい。」


 音緒はかなめごと体を起こす。どこからともなく紅の妖槍を取り出して、かなめを後ろへ退けさせた。穴に落ちた衝撃で、高く括っていた音緒の髪留めは解けている。麦色の長髪を掻き上げながら、頬の目を幾つも見開いて、洞窟内に響く足音に耳を澄ませた。


「お前は愛しい人の子ひとり守れなかったなあ。」


 ずるずると片足を引き摺りながら、湿った声でそう笑うのは、口の裂けた人型の妖だった。痩せ細った体に、樟脳しょうのうくさい着物を纏っている。煤けた朱色の襦袢が覗いていて、束ねた黒髪は古びた竹箒のようだった。


「…命が惜しくば、二度と姿を見せるなと言ったでしょう。藤霜ふじしも。」


  藤霜は自身の潰れた右目尻を吊り上げて、裂けた口でニヤリと笑った。


「私の目と足を潰し、花々を奪い取った忌々しい百目鬼を、忘れることが出来ようか。」

「…うちから疫病草えやみぐさを盗んだのはお前だろう。」


 洞窟の中で、葉の擦れる音がしていた。

 かなめが周囲を見渡せば、岩肌には植物が群生していた。竜胆にも似たそれは、伸びた葉を手足代わりにして、ケタケタと笑いながらこちらを見ている。かなめは呑気に、幼少期によく遊んでいた、太陽光発電の玩具を思い浮かべていた。


 藤霜は音緒の背後に居るかなめに気づき、その細い鼻を鳴らした。


「なんだ、奴の生まれ変わりを見つけたのか?いや、それなら妖花の幻覚には引っかかるまい。全く愚かな百目鬼よ。千年前に死んだ小娘を、今だに探し歩いているなど。…まさかお前、人間が本当に生まれ変わると思っているのか?」


 藤霜を睨みつける音緒は、まさしく鬼の形相をしている。


「奴が誂えた化けの皮など、脱ぎ捨てよ。」


 そう言い放った藤霜の左目に、真紅の槍が突き刺さる。その衝撃で後ろへ吹き飛び、藤霜の体は岩肌へ叩きつけられた。


「百瀬の恩を、仇で返したお前だけは許さない。」


 音緒は槍の柄を捻る。左目に走る激痛と裏腹に、藤霜が笑った。


「お前が千年以上、あの小娘を想っていたように、私もお前のことを思っていた。悲哀に満ちた百目鬼の蜜は、さぞ美味かろうと。それを食らう為ならば、この命など惜しくない。」


 藤霜が槍を握る。刀身から音緒の手元まで、瞬く間に霜が降りた。


「やはり私の餌となれ百目鬼。さすれば、極楽浄土とらやで、愛しい人の子と落ち合えるだろう。」


 音緒の手元から全身までが、一気に凍てついた。そして群生していた妖花が、藤霜の合図で一目散に音緒へ絡み付いた。


「ッ音緒!」


 何重にも纏わり付いた妖花のせいで、音緒は見えなくなっていた。巻きついた部分から酸が溢れて、酸に触れた彼の装束や指先が、どろりと落ちた。


 しかしかなめは気付く。

 藤霜の死角で、ぼたぼたと溶けて落ちた音緒が、みるみるうちに再生していくのを。


「音緒ごめん!」


 洞窟に反響するかなめの叫び声。

 藤霜がかなめへ目線をくれるよりも先に、かなめの放った矢尻が妖花へ突き刺さる。刺さった部分に火花が散った。


「小娘きさま!」


 かなめは間髪入れずに藤霜へ弓を放つ。矢は足元を掠めただけに過ぎなかったが、藤霜は火花に慄いて後ずさった。


「ギェェ……!」


 火花は業火へと変わり、妖花はたちまちに燃え尽きた。しかし、灰の中に音緒の姿は無い。


「どこへ逃げたのだ百目鬼!百鬼夜行の一番槍が聞いて呆れるな!」


 足を引きずり、ぐるりと洞窟を見渡す藤霜の胸を、紅の刃が突き刺した。

 音緒だ。妖花によって溶かされた体は復元されている。藤霜の核を突き、息の根を止めていた。


「貴女ほんとうに上手くないんですね、弓。」

「音緒って本当は液体なの?」

「はあ?」


 煤を拭う音緒は、右頬の切傷に顔を歪めた。かなめが妖花目掛けて放った弓矢による傷だ。音緒は鼻を鳴らして、刃を力任せに振り上げた。


「うつわ、それ貸してください。」


 かなめの懐から雑に呪符を抜き取り、音緒は自分の切傷から血液を拭って呪符へ塗りつけた。

 すると呪符は炎を発して、音緒はそれを真っ二つに裂けた藤霜へと放った。妖花同様、勢い良く燃え上がる藤霜に向かって、音緒は大きく息を吐いた。


「さすが皇製。よく燃えますね。」

「…どうして使い方知ってるの?」

「百鬼夜行は、昔から皇と折り合いが悪いんですよ。……あおいが居たころはまだマシでしたけど。棲み分けを図る為に、嫌でも詳しくなったんです。」

「…百鬼夜行、って、昨日の?」


 ぽけ、っとしたかなめに、音緒は心底呆れた顔をした。「迷惑料です」と呟いて、音緒はかなめの前髪をかきあげる。そして額と額をピタリと合わせて、藤色の瞳を閉じた。


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