第14話 追憶(後編)

 流浪の百目鬼がいた。

 人に化けては童と草遊びをしたり、行商の荷物持ちをしたり、百姓と稲を刈る。百目鬼は人間というものを好いていた。好いていたからこそ、情が移る前に姿を眩ませた。

 百目鬼は、ひとつの形を保てないのだ。同じ人間に何度も会うと、ボロが出る。人間を怖がらせまいと、百目鬼は各地を転々とした。


 そんな半人前の百目鬼は、うっかり少女とぶつかった。猛暑の都の、とある辻。暑さに項垂れた百目鬼の、前方不注意であった。

 問題は、ぶつかった拍子に変幻が解けてしまったことだ。少女、及び周囲の悲鳴を覚悟したものの、少女はとろけた百目鬼の体を帛紗に包んで、何事もなかったかのように歩いて帰った。ぼうっとする頭に響いた「心配しないで」という優しい声を、百目鬼はよく覚えている。


 彼女は自分の屋敷に妖を集めていた。否、彼女のもとに集まる妖の為に、屋敷を開放していたというのが正しい有様だった。彼女は妖達から、キクと呼ばれていた。キクは百目鬼の手を取って言った。


「ここにいなさい。ひとつの形を、保てるようになるまでは。」

「ぼくにはきっと無理です。」

「諦めないの。じゃあ…そうね、まず名前よね。」


 音緒という名は彼女が付けた。寝坊助の彼女を起こすのは、いつしか音緒の役目となっていた。

 あなたの声で私の一日が始まるのだと、彼女はよく笑っていた。


 音緒を鍛えるのは、馬頭牛頭の役目だった。

 骨と皮だけの非力な百目鬼が、巨体二人がかりでも敵わない槍使いになるまで、そう月日はかからなかった。


 そしてある日、音緒は彼女から、ひとつの槍を託される。紅の刀身を持つそれは、持ち主を鞘とする妖槍だった。


 儀式の日。出会った頃より幾分大人びたキクは、持ち前の溌剌とした笑みで、その妖槍を音緒のでこへと突き立てた。


「あなた本当に盲目ですか。」

「見えなくても分かるわよ。音緒、あなたのことだもの。」


 恨めしそうに、潤んだ瞳を向ける音緒。痛みで涙が出るのは初めてだった。キクはクスクス笑いながら、その手で彼の頬を包んだ。


「それを持って、好きなところへ行きなさい。」

「………何処にも行きたくない。僕は、キクの傍に居たい。」


 真直ぐに見つめる藤色を、盲目の彼女が捉えることはない。それでも、細い手に伝わる温もりと、彼の想いは確かだった。


「私、百瀬っていうの。百鬼夜行の人頭ひとがしら。あなた、今日から一番槍よ。」

「はっ?」


 塞がれる唇と、どっと湧く屋敷の妖達。

 三日三晩のどんちゃん騒ぎは殆ど馬頭によるものだった。片付けて歩く牛頭のため息は、四日目には迎え酒を煽る馬頭に向けた怒号へと変わっていた。


 百鬼夜行は、人間の少女を棟梁とした妖の集団なのだ。夜を闊歩する彼等は、人々の畏怖を集めながら、都の浄化を担っていた。度々皇と縄張り争いをしたが、その度に、うら若き棟梁は和議を成立させてきた。


 そんな日常が崩れ去ったのは、何度か季節が巡ったある冬のこと。


 不治の病だと、名医と呼ばれた人間は言った。

 医者も妖も、彼女のために手を尽くした。しかしいつから悟っていたのか、彼女は見計らったように皆を病床へと集めた。

 話せるうちに、と弱々しく呟く彼女の言葉を止めるのは音緒だった。


「まだひとつ、方法はある。」


 それは、以前屋敷から奪われた疫病草えやみぐさという妖花。犯人の藤霜という妖は、依然姿を眩ませたままだった。


「ヤツの居場所は分からねえんだろうが。いいから座れ音緒!」

「ねお、」

「諦めるなと僕に教えたのは、百瀬でしょう!」


 音緒が屋敷へ戻った時、そこには雪より冷たい彼女がいた。握り締めた疫病草は、千切れる寸前まで、その口をケタケタと歪めていた。



「彼女の盲目は、政の道具にされたくないと、父親に逆らって自ら毒を煽った所為だったそうです。病もきっと、後遺症だったんでしょう。彼女は、自分の命が一際儚いことを知っていた。」


 洞窟に、かなめのすすり泣く音が響いている。


 音緒が額を合わせたのは、記憶を共有する術の為だ。その成功率は、受け手の霊力に比例する。霊力が強ければ強いほど、記憶はより鮮明に、主観的なものとなる。かなめには、彼の中にあった恋慕や悲哀が、惜しみなく伝播されていた。


「彼女以外に、僕らの頭は務まらない。永久欠番というやつです。」


 彼女亡き後、音緒はずっと彼女を探していた。

 彼女は「行くところがあるから」と言って、最愛の百目鬼に別れの挨拶も告げずに、魂だけで飛んでいってしまったと、最期に立ち会った者達から聞いたのだ。ついでに人間には輪廻転生という概念があることも、その時に教わった。

 もしまた、彼女に会えるとしたら。百目鬼の望みは、千年以上の月日を経ても叶えられずにいた。


「紅様はまだ、愛する者のところへ帰ることができる。彼女はまだ間に合うんです。」

「…だから力を貸してくれてるんだね。」


 かなめは大粒の涙を溢しながら、音緒へ何度も礼を言った。その姿は前世と重なるところが大きい。


「音緒の言う通りだよ。…あんなことになっても、紅狐は劉伯が大好きだった。大好きだから、受け入れようとしてた。でもそれじゃ紅狐が傷付くだけ。だから劉伯と引き離すしかなかった。どの道をとっても、良い結果にはならなかった。…呪われた体で、何千年も待たせちゃった。」


「いくら紅様が死にかけていると言ったって、妖と人間とでは命の尺度が違う。貴女の寿命が尽きるほうが早い。…だからと言って悠長に構えている暇はありませんよ。」

「大丈夫。わたし絶対に、呪いを解いてみせるから。」


 頷くかなめの後ろに、少年が立っている。


「その解き方、分かってるの?」

「宗ちゃん?……本物?」

「本物は本物だよって言わないからな……。」


 紛れもなく宗也だ。黒の装束を身に纏って辺りを見渡している。しかしその眼差しには、不機嫌が滲んでいる。


 洞窟に辿り着いた宗也が真っ先に見たのは、斬られた妖の残骸を燃やす炎。その炎に照らされ浮かぶのは、触れ合った額を離す百目鬼と、肩を震わせて涙を拭うかなめだった。

 以前紅狐がしたように、記憶の共有を図っていたのだろう。その検討は容易につくが、くつくつと煮え返るはらわたを抑えておくには、宗也はまだ青かった。


「呪いを解くって、どうやって?」


 その言葉に、かなめは静かに後ずさる。冷静を装う彼から、俄かな苛立ちを感じとっていた。

 かなめが一歩引けば、宗也が一歩進み出る。二人の距離は、かなめが望むようには離れなかった。


「それは……。」


 みるみるうちに、かなめは洞窟の端へと追いやられていった。燃やし尽くした疫病草はひとつも笑うはずがなく、薄闇は重く二人を包んでいる。

 音緒はその場にあぐらを掻いて、頬杖つきながら二人を眺めていた。かなめがちらちら自分へ目線をやっているのに気づいていたが、音緒が助け舟を出してやることはなかった。


 その視線さえ、宗也を煽る原因だったようで、かなめはぐい、と強制的に、宗也へと瞳を向けさせられた。宗也の指が押し上げた彼女の頰は、至極情けない表情を作り出している。


「まさか御伽噺みたいに、こんな方法で解けると思ってる?」


 宗也の伸びた前髪と、すっと通った鼻梁が、かなめの鼻先へ触れた。宗也は少しだけ屈み、かなめが怖がらないような体勢をとっている。


「…良かった、本物の宗ちゃんだ。」


 かなめは千早の右袖で宗也の口元を覆って、安堵のため息を吐いた。ついでに、耳まで赤い自分の顔を、左の裾で隠そうとしている。


「……何その反応。」


 何を仕掛けても滅多に動じないかなめである。

 宗也は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


「さっき偽物に会ったから。…それに今ちょっと、音緒に色々見せてもらって、あの…。」

「色々って?」


 じっと音緒を見やる宗也。音緒は胡座を掻いたまま、膝の上で頬杖をついて「さあね」と憎たらしい笑みを浮かべた。


「誤魔化し効かなくなってきたんでしょ?」

「音緒うるさい。」

「…何の話?」


 話を断ち切るように、かなめがぎこちなく咳払いをした。それから千早の両袖で手元を隠して、ひとつ深い息を吐く。すっと伸びた背筋と利発そうな眼差し。頬の赤みは消えていて、まるで前世の彼女のようだ。


「それで、質問の答えなんだけど。」

「…うん。」

「私、分かってるよ。呪いの解き方。だから紅狐に待っててって言ったの。こんなの、紅狐ひとりに背負わせたくなかったから。」


 かけられた呪いは大概、術者を葬ることで消える。宗也が問いたかった部分を、かなめは理解していた。


「そのために、紅狐と劉伯を会わせなきゃいけない。でも今会ったところで、紅狐は何も出来ない。それじゃここまで来た意味がないの。」

「…紅狐を体に留めておきたいのって、紅狐を回復させるため?」


 かなめが無言で頷く。


「なら依代を用意して、回復の陣の中で紅狐を休ませるとか、その方が良いんじゃないの?」


 目から鱗。そう言わんばかりに、宗也を見上げた代赭の瞳が輝いている。横槍を入れるのは音緒だ。


「紅様ほどの大妖の依代なんて、余程強い霊力を持った人間か、思い入れの強い何かでなければ成り立たない。うつわがうつわでいられるのは、どちらの要件も満たしているからでしょう。代替を探すのは、骨が折れますよきっと。」


 立ち上がりながら、音緒は自身についた砂埃を払っている。


「紅狐の思い入れがあるもの……。」


 かなめは眉間に皺を寄せていた。

 かなめが最近見た紅狐といえば、蓮沼に落ちた時の姿だ。艶やかに流れる紅髪と、感嘆の声さえ漏れるその美貌。あの頃と変わらないようで、確実に足りないものがある。


「ねえ紅狐。紅沈香…っていうか耳飾り、片方失くしてない?」


 紅狐の瞳と同じ黄金に煌く、劉伯とお揃いの金細工。月の満ち欠けを、花の移ろいと、愛しい貴女と共に。そう言って、手先の器用な劉伯が、自ら拵えてくれたのだと、耳にタコが出来るほど聞かされたのだ。うんざりしながらも、人の寝室で蕩けそうなほど幸せを噛み締めていた彼女の笑みに、自然と顔が綻んでいた。


「…落としたんだ。お前を見つける前に。」


 頭に響く紅狐の声。


「ひとり、どうしても蹴散らしておかなければと思ってな。ちょっとばかり本気を出したことがあって。」

「……その体で?」

「呪いが進んでな、私は瀕死のおおごとになって。その時、偶然通りかかったのが音緒だった訳だ。」

「そうなの…。」


 ひとりで相槌を打つかなめに、宗也は首を傾げていた。音緒はなんとなくの察しがついて、かなめへ視線を向けた。


「この十年、馬頭牛頭にも探させていますけど、まだ見つからないんですよ。」

「…音緒は許してくれる?」


 音緒が紅沈香を欲しがる理由は、おそらく百瀬にあるのだろう。詳細は分からないものの、かなめには漠然とした確信がある。

 音緒はしばらく代赭の瞳を眺めたあとに、少しだけ笑って言った。


「半分こしましょうか。」

「どっちも足りる?依代と、音緒のほう。」

「ええ。…ただ、あなたと紅様の融合が始まったら、代替があろうと厳しいですよ。」

「融合?」


 かなめと宗也は、ほとんど同時に首を傾げた。


「長く憑依を続けると、人間と妖が融合することがあります。人間側が妖を好意的に思っている場合、起こる確率が高い。…紅様相手とはいえ、気を許しすぎないことですね。」


 地面へ落ちていた錫杖を拾って、音緒は宗也を見る。「宗がいるなら心配ないでしょうけどね」と呟いた音緒が、錫杖を頭上で旋回させた。

 何を始めるのかと目を丸くする二人に、音緒は鼻を鳴らして言う。


「戻りましょう。」

「…音緒が術を使うの?」

「妖が直感的に行うことを形式化、体系化したのが皇というだけです。呪術は彼等の特許じゃない。」


 一定の間隔で、金属音が洞窟を打ち始める。

 錫杖を振るう音緒の瞳が、仄かな赤みを帯びていた。頭上で円を描くように、柄を持って回しては、手首を捻って錫杖を鳴らす。


「すこし目を、閉じていてもらえますか。」


 素直にかなめは視界を閉ざす。鼓膜に響く甲高い反響音が、次第に速く強くなっていった。


 重力がかかったように、臓器が浮く感覚。思わずかなめは口を抑える。その瞼越しに、夏の日差しが降り注いだ。酷く眩しい光に、今まで薄闇にいたかなめは一層その目を固く閉じた。


 錫杖の音はいつの何か消え失せていて、代わりに辺りに響くのは、大幣の乾いた音だ。


「……。」


 三人は川沿いの空き家の前へ戻ってきていた。

 妖花が開けた無数の穴を、ひとりの巫女が浄化で塞ごうとしている。


「………カナさん?」


 穴の塞がった頃、おずおずと話しかけるかなめへ、長身の佳人はにこりと微笑んだ。沈みかけた夕日が、巫女の紅い袴と唇を照らしていた。

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