第15話 交錯する心(前編)

「遅くなってごめんなさい。」


 かなめの謝罪に、カナと呼ばれた巫女はゆるゆると首を横に振った。三日月のように弧を描く口元も、紅を引いた涼やかな目元も、しなやかに大幣を持ち直すその所作も、すらりと背の高い巫女はとにかく麗しい。


「挨拶回り、今からでも間に合いますか?」


 頷くカナは、じゃあ行こう、と、手話らしきジェスチャーをする。この時点で宗也と音緒は巫女に違和感を覚えた。しかし「式神ですか」「生身の人間っぽいけど」「妖でもないですよ、あれ」と耳打ちし合う二人に、かなめは気付かない。巫女に魅入っている所為だ。


 パタパタと駆けるかなめを目で追って、宗也は初めて背中の負傷に気付く。洞窟内の甘い香りと妖達が燃える煙で、宗也の鼻はすっかり麻痺していた。


「かなめ待ってその傷、」

「大丈夫!」


 下駄を高らかに鳴らしながら、かなめは音緒と宗也へ手を振った。巫女もゆるりと笑って背を向ける。取り残された二人が心底訝しげな表情をしていたことを、かなめは知らない。


 黄昏の中、かなめは巫女と並んで歩いた。

 細い坂道を下って、小さな肉屋の前を通り過ぎる。すると狭い車道の向かい側に、百基を超える鳥居が見えた。松の木だらけの山の斜面に作られた、黒崎稲荷神社だ。


 鳥居の中、少々急な石段を登り切る頃には、カナの息が上がっていた。

 かなめは心配そうに巫女の背へ手を添えた。


「カナさん、大丈夫ですか?」

「うん……やっぱ煙草辞めねえとだめかなぁ。」


 カナから聞こえてきたのは、鼻炎持ちであろう男の低い声。かなめは歩みと共に、カナの背をさすっていた手をピタリと止めた。


「やっと気付いた?」


 悪戯っぽく笑うカナ。その背を流れていた黒髪は、かなめもよく知る祭事用の付け毛だ。丈長たれながと呼ばれる和紙の飾りをつけて、長い前髪は耳へとかけていた。

 かなめはカナが年上の男性だろうと推測したが、化粧は特殊な呪術でもあるようで、男の素性は何一つ分からない。


「………あっ、祭り専用の衣装ですか?」

「お、女装男のそれっぽい理由探してくれてんの?」


 彼の女装は決して趣味ではなく「お前達の装束と同じことだよ」と返ってきた。クツクツと愉快そうに笑うカナを、かなめは尚も美しいと思いながら眺めている。

 それ以上の推測を許さずに、カナは左手の社務所へと入っていった。社務所には結界が張られているようで、かなめは社務所に流れる清らかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「玄宗さんから話は聞いてるよ。」

「父から?」

「そ。さっきの騒動も憑き物関係?」

「さっきのは違うんです。…浄化、ありがとうございました。」

「…お前って、憑き物の正体分かってんの?」

「正体、ですか……?」

「だってなんか、やたら呑気じゃん。」


 かなめは空を見上げて思案する。


「みんなは狐だって、言ってるんですけど…。」

「みんな?」

「この町の妖達です。王宮であの子のことを知っていたのは、私と劉伯だけですから。」


 カナの、一筆で描かれたように端正な眉がピクリと動く。王宮という言葉に反応したようだが、巫女は聞く姿勢を崩さなかった。

 

「私もちゃんと正体を見たわけじゃないんです。布に包まってたから。」

「布?」

「でも抱きしめるとあったかくて、瞳はきらきらしてて、あの子がいれば、なんでもできるって、劉伯の言う通りでした。あの子のためなら、って、思っていました…。」


 自分の口ではないみたいに、言葉が出てくる。

 今、かなめの中で、古い記憶が巡っている。


 あれは恩師を亡くしてすぐの頃。彼の遺志を継ぎ、多忙を極めていた。

 そんな中、「妃にするぞ」と劉伯が連れてきたのは、まさしく人間離れした美しさを持つひと。

 紅葉を浮かべて流れる秋の川のような紅髪に、夕日のような黄金の瞳。このひとに賭けてみても良いのかもしれないと、三徹目の頭で結論を出した。


「…人でないことくらい、初めて会った時から分かっていました。…きっと、あの子が人ではないから、きっと、あの人に似ていたから、私は力になろうと思ったんです。…いや、あの人も、人では無かったけど…。」


 恩師とともに、姿を見せなくなったひと。あのひとはどうして居なくなってしまったのだろう。そういえば、恩師の死因は何だっただろう。

 そう考え始めたかなめは、霞む記憶を必死に辿ったが、カナによって止められた。両肩に置かれた彼の手は骨ばっていて、彼の身長は宗也よりも大きい。


「お前のそれは前世の記憶だな。」

「そうです……。」

「記憶持ったまま生まれ変わって、憑き物のために動いてるってこと?」

「……はい。」

「そりゃあ舞手なんかやってる場合じゃ無いよなぁ。」


 わしゃわしゃと、カナはかなめの頭を撫でる。


「安心しな。俺が代わってやるから。…ただ、そんな格好じゃ神前には立てねえな。」


 カナはかなめの肩を引き寄せる。そして骨張った右手でかなめの切り傷をなぞった。大幣を振るっていた、白くなめらかな手が嘘みたいだ。


「これは痛かっただろ。ちょっとじっとしてな。」


 かなめはくるりと後ろを向かされて、千早を脱がされる。

 そして襟元に手を掛けられた瞬間、するりと背中を露わにされた。


「えっ!?」


 かなめがその場にしゃがみ込むのと、カナがかなめを捕獲するのは、殆ど同時だった。膝を抱えるかなめは、カナの左腕を抱き込んでいて、つられて床へと座り込んだカナは、右手の二本指をかなめの傷口に充てがっていた。


「じっとしてなって。」


 かなめは白衣と膝を抱えて、ピタッと固まっている。かなめの困惑もお構いなしに、二本指に唇を寄せて、小さく呪文を唱えたカナの声。かなめはすぐに治療だと気付いたが、背中をなぞる男の指に、羞恥で耳まで赤くした。


「俺は治す方が得意なんだよ。妖と戦うよりも。」


 傷に触れられているというのに、痛みは全くなかった。痛みどころか、清らかな風とともに、傷が塞がっていくのを感じていた。体の呪詛まで静められていて、少し冷えた彼の手が、心地よく背中を撫でていた。


「カナは偽名なんだよ。俺は皇の連中みたいに先祖の加護がある訳じゃない。妖に名前を知られるわけにいかないんだ。ついでに顔も。」


 外は日が沈み始まっている。高い木々に光を遮られた社務所は、次第に冷えた空気が流れ込むようになった。


「…カナさん、皇の人じゃないんですか?」


 抱き込んだ腕が引き抜かれる。

 カナは新しい襦袢と白衣、それから緋袴を取り出して、当たり前のように着付けを始めた。慣れた手つきで締められていく白帯に、かなめはされるがままだった。


「皇とは関係ないよ。先祖代々、ここの宮司をやってる。……ああ俺、佳直よしなおっていうんだけどな。」


 緋袴の帯を結びつつ、鬱陶しそうに黒髪を後ろへ払う佳直。

 彼はかなめが抱いた麗しい巫女の印象を、真っ向から崩しにかかっていた。


「しっかしお前の体、酷いな。そんな強い呪いかけられてちゃ、いつ死んだっておかしくないぜ。」


 呪詛は蔦のように、かなめの体へ絡みついている。

 カナはそれを間近で見て、顰めっ面をしていた。


「俺には気休めの治療しかできないわ。…ああでも、傷は治したから安心しな。」


 かなめには、体が軽くなったような感覚がある。親切にかなめの髪まで結び直す佳直に、かなめは心を許し始めていた。


「松浦お前、皇の血筋じゃないんだってな。」


 佳直は紫がかった瞳をかなめへと向けた。右目の縁が白く濁っているが、長い前髪をそちらへ流しているせいで、かなめにはよく見えない。


「あんまり無茶しない方がいい。犠牲を払うことになる。玄宗さんだってそうだったろ。」

「父が?」

「…やっぱ何も聞かされてないんだな。」


 髪を結び終えて胡座を掻く佳直の前へ、かなめは改まって正座をした。

 彼は数秒考えた後に「話して良いって言ってたしな」と、ため息混じりに呟いた。


「玄宗さんは俺の右目より、よっぽどでかいもん投げうってるよ。」

「投げうってる…?」


 彼の真剣な表情に、かなめは思わず背筋を伸ばして、続く言葉を待った。


「お前、玄宗さんから、妖に名前を教えるなって言われて育ってるだろ。」

「はい。」

「おかしいと思わなかったか?父親は平気なのに、自分は駄目なんて。同じ血を引いてるのに。」

「それだけの修行を、父はこなしたんだと思ってました。私も精進しなきゃなって。」

「………お前、疑うって知らないんだ?」


 すると佳直は薄ら笑いを浮かべたまま、かなめの頭を雑に撫でた。


「皇は、天皇家の血を引く霊能組織だよ。でも玄宗さんはそうじゃない。そうじゃないのに、名前を隠す必要がない。」


 佳直は、乱したかなめの黒髪を直しもせずに、その骨張った手を引いた。呆ける代赭の瞳が、次第に聡い光を持った。


「さっき、祖先の加護って言ってたのって、」

「詳細は古事記ご参照ってとこだな。」


 古事記。言わずと知れた神々の物語である。

 重要なのは、最後の部分だ。

 神々は愛憎の物語を繰り広げた末、この国を治める立場についた。皇を担う三家には、その血が流れている。それこそ、彼らが霊能に長けている所以なのだ。


「玄宗さんが入ったことで世襲制は崩れたし、入門試験が出来た。それさえ突破できれば、一応、皇に入門できる。お前が目指してるとこだな。」

「一応?」

「重要なのはその先だ。皇の仕事は、他の霊能組織とは比べ物にならない程、高度な技術と霊力が要る。外様は皆、三年くらいで死んじまうんだ。皇には殉職以外、抜ける道はないからな。…お前ほんとに入る気か?」


 到底理解できないとでも言いたげな、佳直の表情。そんな顔のまま、彼は更に問答を続ける。


「じゃあなんで、玄宗さんは皇のなかでも一番危険な、関守なんかやってられると思う?」


 かなめは首を傾げる。

 やはり彼女の頭には、それだけ父が優秀だという結論しか出ないらしかった。


「あの人にはもう、妖に取られる名前が無いんだ。」

「…それってどういう…。」

「あの人、生家じゃ既に死んだことになってるんだと。」

「……えっ!?」

「松浦玄宗、って、後からこさえた名前らしいよ。」

「…そんなことできるんですか?」

「そんなことできちゃうような、薄暗い組織だってことだよ。皇は。」


 かなめはポカンと口を開けている。


「まあ、章太郎さんとこの修行場で会ったのが蘭子さんらしいしな。」

「えっ。」

「蘭子さんはそこで修行者の世話をしてたって聞いたけど。だから掃除に洗濯、炊事に裁縫、全部完璧だろあの人。」

「母とは年に二回も会わないので…。」


 たまに帰ってきたと思えば、地元の宴会に連れて行かれてしまう母。仕方がないのでひっついて歩いて、かなめは蘭子の隣を陣取るのだ。ついでに母へ酌をするのだが、母は何升飲もうが顔色ひとつ変えずに、ピンヒールで颯爽と田舎のでこぼこ道を歩いていた。

 かなめが思い浮かべる母は、父より豪胆で、いつも溌剌とした笑みを浮かべている。


「んで、お前が生まれてるからな。後悔は微塵も無いっつってたな。」

「…父がそう言ってたんですか?」


 かなめは至極意外そうに問う。

 玄宗は昔の話を一切しない。人の話にも適当な相槌を打って、煙草をふかすような父だった。


「玄宗さんって酔っても調子変わんないけど、普段答えてくれないことにも答えてくれるんだよね。本人気付いちゃいないけど。」


 したり顔で笑う佳直。

 かなめはしばらく呆けた後、大きく息を吐いてから笑った。

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