第16話 交錯する心(後編)


「ま、失った分、得るものがあるって話。」


 佳直は胡座を掻いたまま、大きく伸びをした。


「…カナさんも?」

「俺?」

「失ったのは、その右目ですか?」

「……………知りたい?」


 彼はにこりと笑ったまま、かなめの肩へと手を置いた。

 かなめは意気揚々と頷いた。


「交換条件でどお?」

「条件って?」

「俺が得るための、練習台になってくれよ。」


 視界がぐるんと揺さぶられた。

 いとも簡単に組み敷かれたかなめを見下ろして、佳直は笑っている。巫女の姿に不釣り合いな、男の声だった。


「お前の硬いガードは外にある。本人は驚くほど無警戒。こりゃ守る側はくたびれるな。こうやって知らないところで手玉に取られちまうんだもんな。」


 佳直の骨張った指が、かなめの頬に触れた。

 かなめは呪詛が波打つより強く、触れられたところから全身まで、一気に鳥肌がたった。


「…なにを、」

「鈍いねぇ。男と女が一つ屋根の下で、二人っきり。やることといえばひとつだぜ?」


 怯える代赭の瞳。そんなものはお構いなしに、佳直はかなめの髪飾りへ手をかける。


「お守り?残念ながら対妖用だな。俺には効かないよ。」


 佳直が放った髪飾りを拾わんとしたかなめの手は、彼によって阻止された。

 そしてわざとらしくゆっくりと、絡められる指と指。かなめは一気に血の気が引いた。


 社務所の小さな窓から差し込む茜色が揺らめくのと、薄暗い部屋で不気味に笑う男の姿を、なす術なく見ているしかない。これは彼女にとって、既視感のある光景だった。


 佳直は、自身が着付けたばかりの白帯に手を掛ける。それが引き金となった。

 かなめの中に、怒涛の如く押し寄せる記憶達。

 それは決して、うつくしいものではない。


「…寵懿ちょうい。おねがい、もうやめて……!私はただ、あなたの潔白を、証明したかっただけなのに…!」


 小刻みに震える少女の体。佳直の動きは完全にフリーズした。

 目の前で錯乱する少女は、松浦かなめではない。

 

「お前は誰だ?」


 低く問いかけた声。

 代赭の瞳が、ようやく佳直を見る。


「………私はまた、愚かに人を信じてしまったのですね……。」


 彼女は絶望をのぞかせて、その唇を震わせている。

 少女は瞳を瞑り、両手で顔を覆って


「おい。何を気安く触れている。」


 唸るような声がした。

 少女の華奢な指の合間から黄金の瞳が覗く。

 目が合ったと認識した瞬間、佳直の視界は強く揺さぶられた。


「ッッ!」


 佳直は、少女によって冷たい床に打ちつけられたのだ。

 頭を鷲掴んだまま馬乗りになった少女の髪は、紅に染まっていた。


「この体は果たさねばならないことが山積みだ。汚してくれるなよ、人の子。」

「やっとおでましかよ遅えんだよ!犯罪者になっちゃうだろうが!」


 佳直はそう叫びながら紅狐の手を掴んだ。

 が、彼女の手は一向に頭から離れない。


 妖の外見と腕力が比例しないことは佳直も知っている。しかし瀕死の妖から、こんな力が発揮されるとは。床の上でいくら足掻いても、佳直は紅狐の拘束を解くことが出来ない。


「依代に危険が迫っちゃ困るよなぁ。」


 かなめへの仕打ちは、紅狐を誘き出す為の罠だ。

 紅狐は鼻を鳴らして、組み敷いた女装男を見下した。


「気味の悪い化粧で素性を隠しているな。」

「おうおう絶世の美女捕まえといてよく言うぜ。」

「その少ない霊力で何ができる? 貴様、守役の小僧より数段劣るぞ。」

「場数じゃ負けてねえんだな、これが。」


 低く笑う佳直。彼の袂から飛び出したのは、夥しい量の式神。

 人型に切り取られた和紙たちが、一瞬で紅狐の動きを封じた。


「大人しくその体を離せ。」


 身体中にまとわりつく式神に翻弄されて、紅狐はよろけながら後ずさった。

 紅狐がもがけばもがくほど、体が式神の白に埋もれていく。


「ふざけるな…!」


 紅狐の妖気が跳ね上がる。

 式神は一瞬にして、紅狐の鋭い爪によって粉々にされた。勢い余った紅狐は、自身が纏う白衣や袴まで切り裂いている。まるで癇癪を起こして暴れ狂う幼子のようだ。


「今度は私が、こいつを守る番なんだ…!」


 紅狐の手に、足に、頰に、浮かび上がる獣の模様。

 白い肌に良く映える、黒の縞。黄金の瞳と、縦に入った鋭い瞳孔。

 毛並みが逆立つように、紅髪が揺れていた。


 それが何を意味するか、佳直は分かっている。


「馬鹿!融合が始まっちまう!!二度とその体から出られなくなるぞ!!」

「お前の言葉など信じられん。」

「じゃあお前の大事な松浦が狂っても良いんだな。」

「大きなお世話だ。こいつは、お前のような三下ではないからな!」


 紅狐は佳直めがけて一直線に突進し、喉元に食らいついた。

 鋭い牙など人間にあるはずがない。それなのに佳直には、牙が皮膚を裂き、肉へ食い込む感覚がある。激痛に声を漏らしながらも、佳直は紅狐の両手を掴んだ。


「性根が人間臭えわりに、あり得ねえくらい澄んだ妖気してやがる。お前狐なんかじゃないだろ。もっと清らかな存在だ。……残念ながら俺の得意分野だよ。」


 短く呪文を唱えた佳直。すると彼の指先が、青白く光った。

 光は電流のように迸る。紅狐は堪らず両手を引いたが、佳直の骨ばった手はそれを逃がさない。


「貴様、何のつもりだ…!」

「殺しはしないから安心しろ。俺だって神殺しの罪は被りたくないからな。」


 佳直は、紅狐の手を握りつぶさんばかりに力を込める。

 苦痛に歪む黄金の双眸は、まだ闘志に満ち満ちている。


「大人しく体を離した方が良いと思うぜ?あわいに送られたくなければな。」

「……貴様、なぜその場所を知っている。」

「ただの三下じゃねえってことだよ。」


 佳直は紅狐の憑依を引き剥がしにかかる。

 しかしその手はすぐに止まった。


「……遅かったか。」


 佳直は直に触れて気付いた。二人の融合は既に始まっていたのだ。これでは、かなめの霊体ごと引き剥がす羽目になってしまう。そうなれば残るのは、持ち主のいない虚の体のみ。


「おい松浦しっかりしろ。これはお前の体だぞ!」

 佳直はかなめの肩を揺さぶった。

「助けたい気持ちは分かるけどな、全部譲るのは間違ってんだよ!」


 佳直の声に、かなめが応えることはない。

 紅狐は紅髪を振り乱しながら、再度佳直へ襲いかかった。


「邪魔するな!全てが終われば、」

「全てが終わる頃には!松浦がどうなってるかわかったもんじゃねえだろ!…お前らはいつもそうだ。自分の都合で人間を振り回すな!お前と人間は違うんだよ!」


 紅狐はピタリと手を止めた。

 その瞳に溢れた涙が、床に転がる佳直の頰をいくつも打った。


「お前にわかるはずがない…。」

 佳直の胸ぐらを掴んだまま、紅狐は泣きじゃくり始めた。


「お前に分かるのか?愛する者が堕ちていくのを止められず、寄り添うこともできず、ただ指を咥えて見ているだけの気持ちが……!」


 紅狐の背後に、尻尾のようなものが見えた。


「こんな呪詛など痛くない!劉伯はもっと苦しんでいるんだ!たったひとりで、何千年も、ずっと…!………劉伯を置いて、私ひとりではゆけない………かなめが私の…、私たちの為にしてくれたことを、無駄には出来ない……!!」


 ぐしゃぐしゃに泣き腫らした紅狐が、佳直の胸ぐらを頼りなく握っている。

 そこに突然、社務所の扉を破る音が響いた。


「紅様無事です、か…。」


 降り注ぐ茜のなか、動揺の隠せない音緒がいた。

 引き戸を蹴り破ったのは、隣の宗也だ。


「……!」


 宗也の視界に飛び込むのは、巫女服の男にまたがる少女。

 男のはだけた襟から覗いた胸板は血に染まっている。


「やっと来たか。音緒、小僧。手を貸せ。」


 言い放つ紅狐の脚には、獣のような縞模様。

 それに加えて、見覚えのある呪詛が色濃く浮き出ている。


 社務所の床は搔き傷だらけで、どちらが吐き出したかわからない血溜まりが点在する始末だった。加えて、ちぎれた紙屑や服の布糸が散乱している。宗也は思わず壁へと寄りかかった。


「おいお前なにぼうっとしてんだ!松浦がどうなっても良いのかよ!」


 佳直は小さく反動をつけて、紅狐ごとその体を起こそうとする。しかし音緒が即座に地面を蹴った。佳直めがけて繰り出した槍は、紅狐を盾にされた。


「宗、いつまで突っ立ってるんです!」


 槍を旋回させる音緒へ、おびただしい量の式神が襲いかかる。佳直は紅狐を抱えたまま、式神を切り裂く音緒と距離を取った。


「分かりませんか!紅様がうつわを守るためにいかっていること!」

「……かなめ、」


 彼女の体に重なって見える妖の姿。

 尻尾のように留まる白い光。鋭く光る黄金の瞳。

 かなめの面影など何一つない、紅髪の獣。


「かなめ……ッ!」


 彼女が応えることはない。

 紅狐の圧倒的な妖気を盾に、自身の最奥へ逃げ込んでいる。


 宗也の中で、崩れるものがあった。


「…かなめを返せ……。」


 一瞬で間合いを詰めた宗也の、左手に握られた打刀。師匠から教わった型通りに戦う宗也が、戦闘において利き手を使うことは殆どない。普段から十分俊速である宗也の剣撃は、正確さを犠牲にして、より一層速さを増す。

 襲いかかる連続攻撃に、佳直は紅狐を手放さざるを得ない。


「ッおい!」


 佳直と紅狐を割いた打刀が、紅狐の白衣と床とを突き刺した。

 左脇腹を掠めた刃に、紅狐は自分にのしかかる宗也を睨みつけた。


「血迷ったか…!」

「お前は災いでしかない!結局こうして、かなめを危険に晒すだけだ!」


 咄嗟に動いた音緒を、佳直の式神が拘束した。


「かなめから出て行けよ…!」


 衝動的に取り出した呪符。厚手の和紙に、真紅の文字が描かれたもの。

 宗也の手にあるそれが、佳直の顔色を変えていく。早熟の術者は、その呪符が何から出来ているか、知る由もない。


「やめろ!今そんなもん使ったら、」


 佳直の制止も聞かず、宗也は呪符を紅狐の左肩へ押し付けた。本来であれば、呪符の発動には術者の血液を必要とするが、宗也は霊能において稀有な才能の持ち主である。呪符は一瞬のうちに、宗也の命を聞き入れた。


 真紅の文字が蠢いて、呪符はたちまち獣へと姿を変える。

 禍々しい四足獣は、即座に紅狐の首元へ噛みついた。


「小僧…!かなめを殺す気か……!」

「煩い…!」

「松浦とそいつは融合が始まってる!松浦まで死んじまうぞ!!」

「うるさい…!」


 頭に血が上っていた。


 徐々に黒く染まっていく彼女の髪や、消え失せていく獣の縞模様に気づかないほど。黄金の瞳が代赭に染まって、かなめの手が、自分の頬へ触れたことも分からないほど。


「……宗ちゃん……。」


 あぁ今、かなめと目が合った。

 そう思った瞬間、宗也は鋭い痛みに襲われた。


「ッッ、っう……!」


 宗也の背後には百目鬼がいた。頬の目をいくつも見開いて、その紅い刃で宗也の左脇腹を刺していた。


「だから僕一人でいいと言ったのに……。」


 音緒はため息と共に、宗也を横へ蹴り飛ばす。宗也の体は、血液と共に床を転がった。

 佳直の加勢すら許さない。音緒は立ちあがろうとした佳直の右肩を躊躇なく突き刺した。


 そして間髪入れずに、かなめの喉元に食らいつく獣を薙ぎ払う。

 煙のように揺れた体の底に、呪符が見えた。音緒はそれを剥がして破る。散り散りとなった呪符は床へ焦げ付いて、音緒の指先を爛れさせた。


 音緒は無言のままかなめを抱き上げる。


「……かなめ……!」


 宗也は霞む意識の中、必死に手を伸ばした。しかしその手は空虚を掴む。

 黒檀の双眸が百目鬼の目玉を捉えたが最後、宗也は気を失った。

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