第17話 わがまま(前編)
瞼の裏に、蘇る記憶があった。
天蓋のついた寝台。敷布を重ね、羽毛に満ちた柔らかな枕をいくつも並べて、極上の寝心地を追求した二人分の寝床。これは紅狐の記憶なのだと、かなめが理解するのに時間はかからなかった。
「
寝台に横たわる紅狐の頭上から降る、劉伯の悲痛な声。
動揺しきった彼の視線は、紅狐の耳を、尻尾を、白い肌に浮かぶ黒の縞模様を捉えていた。
黙って劉伯を見上げる紅狐の頭には、女官の言葉が蘇っていた。
極度の疲労から変幻が解けてしまった自分に向けて「彼に本当の姿を見られたら、それが終わりの合図ですよ」と忠告した代赭の瞳。つい先日のことだった。
紅狐の口から出たのは女官の名前。助けて、と、震えた声で続けた。
「…こんな時でも、お前が呼ぶのは奴の名か。」
王妃の世話を買って出て、国の舵取りを行う才女。
誰もが恐れをなす国王へ、眉一つ動かさずに苦言を呈すその姿勢。心の揺らぎを見透かすかのような、怜悧な代赭の瞳。
「奴の名前など、二度と呼ばなくていい。紅、お前には私がいるだろう。」
彼の筋張った手が、紅狐の細い首に触れた。
力を掛けられた紅狐の喉が、細い呼吸を漏らす。
「お前なしでは、生きてゆけないんだ。…それなのになぜ、お前は私に、その姿を晒したのだ……!」
獣と人間を行き来するような見てくれの彼女を、瑠璃色の双眸で捉えてしまったこと。それが幸福の終焉の合図だと、劉伯は誰に言われずとも分かっていた。
「…なあ、紅。一生、私の側に居てくれるのだろう?…そう、誓ったではないか。」
劉伯の指先が、紅狐の腹へと触れた。
これは呪いだと、紅狐は直観的に理解した。しかし回避するには、体が追いつかない。
「……あつ、い、!…痛い…ッ!……劉伯…っ!」
激痛に悶える紅狐の体。
劉伯は覆い被さるようにして、彼女の小さな体を抱きしめた。
「私を置いて行かないでくれ……!」
紅狐が逃げられないほど疲弊しきっていることに劉伯は気付かない。秘密を守る為、気丈に振る舞っていたことが裏目に出てしまった。
「…劉伯、っ、りゅうはく……!」
体を駆け巡る灼熱が、次第に青い痣へと変わっていく。
蔦のような呪詛が、黒い縞模様をかき消していた。紅狐は強制的に、人間の姿へと変化させられていた。
「…そうだ。そうして、私だけを求めて…私だけを、愛して欲しいんだ…!」
のたうち回る紅狐の細い腰を抱いて、筋張った手でその紅髪を梳く。
暴れた紅狐によって付けられた首筋の掻き傷や腕の擦り傷に、劉伯は蕩けた顔をした。
それは彼女が、人間と同程度の抵抗しかできないという、何よりの証拠。
「ゆっくり休むといい。私の愛しい紅よ。」
口付けと共に、冷たい重みが、紅狐の四肢にのしかかる。
劉伯は鎖で寝台と紅狐とを繋いだのだ。
「……か…、っい…!」
彼女の名前を呼ぼうとする紅狐の喉が、きつく締め付けられていた。
いくらもがいても、彼女の名前は、紅狐へ窒息をもたらすばかりだった。薄れる意識に、紅狐は抗えない。
誰の邪魔も入らせないために、王宮の最奥を愛の巣とした劉伯。
彼の施した口付けによる血溜まりが、紅い唇から漏れて、白の敷布へ滲んでいった。
代赭の瞳が映すのは深い藍。
薄闇の中にいることだけは分かったが、かなめは正直、此処がどこだろうがどうでもよかった。
「……。」
悪夢のような彼女の記憶。
ふつふつと湧き上がる劉伯への苛立ちを、かなめはため息に逃した。
追い出したそれと代わって心に満ちるのは、紅狐の内面へ触れて、共感してしまった感情だった。
「……ずっと不思議だったんだよ。劉伯に傷付けられて、閉じ込められたのに、どうして怒らなかったの、って。」
呟く言葉が、紅狐へ届いているかは分からない。
「嫌いになんてなれない。…あんなに辛い顔されたら、こんな傷どうでも良いって、思っちゃうね。」
肩へ触れる指先。呪符の宛てられた左肩は焼け爛れて、今も熱を帯びていた。
閉じた瞼に浮かぶのは、ただひとり。
ふと、前方で布の擦れる音がした。
「………ねお?」
彼は静かに頷いた。藍色の部屋の中、音緒は長い髪を解いている。
それを右肩へと流して、壁にもたれて座っていた。左にある井戸から瑪瑙色の光が漏れているお陰で、彼を認識できた。
「ここは?」
「ダムの底です。」
「町の?」
「ええ。ここは皇の手が届かない場所です。」
窓から見える景色は水底そのもので、かなめはここが、別な層であると理解する。現世はいくつもの層から成ると、かなめは玄宗から教えられていた。
「宗ちゃんと、カナさんは?」
「……命に別状はないでしょうが、しばらく動けませんよ。」
藤色の瞳を伏せたまま、彼は続けた。
「初めから僕一人で、あなたを攫ってしまえば良かった。そうすれば、決裂の道など歩ませなかったのに。」
まるで懺悔。そんな彼に、フラッシュバックする記憶。
紅狐が自分を守るために表へ出て、佳直を組み伏せたことも、我を忘れた宗也が、紅狐を葬ろうとしたことも。気を失う寸前に見た、涙を浮かべた黒檀の瞳も。紅狐の記憶が、今は鮮明に思い出せる。
「……どうしよう、音緒。宗ちゃんのこと、泣かせちゃった。」
そう呟くかなめの頰に、一筋の涙が伝った。
「…宗ちゃんが泣かなくなったの、私のせいなんだよ。小学校の遠足の時、私がクラスの子にお弁当取られちゃって、宗ちゃんに助けてって言ったの。宗ちゃん、その子と喧嘩になって、その弾みで滝に落っこちちゃって、全然見つからなくて……夕方にやっと見つかったんだけど、会った瞬間、宗ちゃんにつられて泣いちゃって…俺が泣くとかなめも泣くから、泣かせないように強くなるねって、宗ちゃん言ったの。」
かなめの涙は、堰を切ったように溢れてくる。
「宗ちゃんが妖のこと好きじゃないって、分かってたの。なのに私ずっと、バディになろうって、宗ちゃんの優しさに甘えて、辛いことばっかりさせてきちゃった。…あの呪符だってそうだよ。…私、紅狐のことで関守の敵になるかも知れないって分かってたの。でも猶予をもらえたことで、許された気になってた。一番そばにいる宗ちゃんが、その役目を負わされることくらい、想像出来なきゃだめだった。私がもっとしっかりして、宗ちゃんにこんな事させちゃいけなかったんだよ……。」
「分かっているなら話は早い。」
そう言って涙を拭う彼の手は、想像以上に温かい。
破れた巫女服を包むように、彼の上着が肩へ掛かっていた。音緒は白の半襦袢姿で、おろした長髪が床を撫でている。
「……………ねお、わたしね、どきどきしたの。洞窟で。」
かなめは、自白のように切迫した表情で続ける。
「昔ね、学校の女の子達に、どうしていつも宗ちゃんの隣に居るのって、聞かれたことがあるの。……わたしうまく答えられなかった。」
二人でいるのは同じ夢を持っているから。同じ仕事に就くためだと何度も周囲に説いた。羨望の的である彼を独り占めするのは、優秀な彼に追いつきたいという、向上心のせいにした。
「宗ちゃんと仕事したいって言ったって、信じてもらえなかったけど、一緒にいたいって、それだけじゃ、誰も納得しないの。でもそれしかないの。皇のこと抜きにしたら。わがままだよ、こんなの…。」
涙を拭う親指が止まり、その代わりに、音緒の堪えきれない笑い声が部屋に響いた。
「貴女…っはは、馬鹿ですね本当に…!」
藤色の瞳にうっすら涙を浮かべるほど笑った音緒が、両方の親指で、力強くかなめの目尻を拭った。
「そのわがままを、人がなんと呼ぶか知っていますか。」
「……やっとわかったの。」
代赭の瞳に浮かぶ涙は、波が引くように、幽かな煌めきをもって消えていく。
「その我儘を、あの少年が待っていることも?」
「…………えっ。」
大きく重心を動かしたせいで、かなめの体は悲鳴を上げた。
言葉だけそれらしく、棒読みで心配してみせた音緒に、かなめは首を振って答える。
「宗ちゃんはもっと痛いだろうから。」
ぱちりと合う瞳。
かなめの目力による訴えに、音緒は両手を掲げながら鼻を鳴らした。
「命に別状はないですって。」
「刺されるのほんとに痛いんだからね。」
「…へぇ、随分思い出せるようになったんじゃないですか?」
平然と前世の死際を思い出す小娘の胆力に、音緒は緩く口角を上げていた。
「…過去の自分が結局他人だってこと、忘れてはいけませんよ。」
ただでさえ憑依した妖と融合するほどお人好しなかなめである。前世と今生が記憶によって強く繋がった今、人格が上書きされてしまう恐れがある。
「あなたはあなたのままで。でなければ意味がない。」
藍色に染まった薄闇の中、音緒の両目が仄かに紅く色付いていた。
「……音緒ってどこまで見えてるの?」
「知りたいですか?」
音緒は至極雑に、かなめの肩へと手を置いた。
それによって蘇る、佳直の不敵な笑み。
「やっぱりいい。」
「学習能力はあるみたいですね。」
恨めしそうに藤色の瞳を睨む。
彼は憎たらしく笑っていた。
「この先、その我儘が、貴女を貴女たらしめる所以になる。…僕がそうであるように。」
立ち上がった音緒は、かなめに背を向けて長髪を手早く纏めた。そして、何処から取り出したのか分からない、白銀に光る棒差しを使って、いつもより低い位置で艶やかな髪を留めた。
音緒が、背骨に沿って流れている後ろ髪を梳く。
すると彼の装束は、その意匠を変えていった。
高い襟に、所々黒の切り返しが付いた純白の身頃。その背には、静かに高まる彼の妖気に呼応して、ひとつ、大きな裏菊の紋が浮かび上がっていた。
いつもより格式ばった装いであることは、かなめでも一目瞭然だった。呆けた顔で音緒を見ると、彼はわざわざ膝をついて目線を合わせた。
「今、町では、僕が貴女を拐かしたことになっています。皇の見習いと下請けを刺した悪鬼として。」
丸く見開かれる代赭の瞳。
「音緒は悪くないじゃない。」
「さあてそれはどうでしょうねぇ。」
くつくつと、至極好戦的に笑う音緒。
かなめはいつもの淡々とした彼とのギャップに驚くばかりだった。
「貴女を町に返します。」
「えっ?」
町で拐われた小娘と悪鬼の捜索が始まっていることくらい、鈍いかなめでも安易に推測できた。それこそ、飛んで火にいる夏の虫。
「わがままは貫いて然るべきでしょう。」
パチリと合う瞳と瞳。
音緒はケロッとしている。
「音緒はどうなるの?」
「僕が御縄にされるとでも?」
強引に担ぎ上げられるかなめの体。
音緒がどこからともなく鬼灯をひとつ取り出した。かなめが聞けば、どさくさに紛れて宗也の懐から抜き取ってきたのだと返した。
「音緒って思ったよりお行儀が良くないよね。」
「うつわ、非常事態って言葉知ってます?」
音緒は雑に潰して鬼灯を破る。
すると鬼灯は紅の装束へと変わった。
が、いつもの、宗也が顕現するものとは様子が違う。
それに気づいたかなめは、袖を持って装束をまじまじと眺めた。
「うん……?」
光が薄いせいで見てとれないのではなく、いつもは生地に織り込まれて見える花紋が、まるっきり無地になっていた。とどのつまり、デザインが単調且つ質素なのだ。
「顕現させる為の呪術で肝要なのは想像力です。刀にせよ、服にせよ。」
「…つまり?」
「貴女に興味が微塵も無いもので。宗と違って凝ったこと考えませんよ。」
ぶわ、と染まるかなめの頬も構わず、音緒は瑪瑙の光を放つ井戸へと飛び込んだ。
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