第18話 わがまま(後編)



 瞼を開けたかなめの視界に飛び込んでくるのは、まぶしく澄んだ日光と、青々と茂った草木だった。


「町、ではないよね…。」

「…ここ何処ですか?」

「えっ嘘でしょ?」


 音緒もまた、眉を顰めて辺りを見ている。

 針葉樹と黒い土壌が広がっていて、数十メートル先にはビニールシートや一輪車が散乱していた。ここはどうやら発掘現場らしい。かなめと音緒は針葉樹を背後に、少しひらけた所に立っていた。 


 二人はここら一帯を見渡して、妖達がざわめいていることに気付いた。

 耳のない狐の再来だと、無数の声が聞こえる。

 かなめは徐に紅狐へと話しかけた。


「紅狐って、狐じゃないよね?」

「お前はそう思ってたみたいだけどな。」

「だって何も言わなかったじゃない。」

「お前が聞き流しただけだ。徹夜のお前は大体ポンコツだったな。」

「忙しい時に部屋に来る方がわるい。」

「忙しくないときなんかあったのか。」

「……なかったね。」


 小さく息を吐くかなめの、いつもより凛と伸びた背筋。随分利発な顔つきで、周囲の騒めきに耳を傾けていた。

 その声は紅狐を鬱陶しがるものだったり、大妖に怯えていたり、まるで前科者の再犯を恐れているようだった。

 かなめは自身の中の紅狐へ問う。


「ここで何したの?」


 叱る前の聴取のような、毅然とした声。紅狐はウッと言葉に詰まる。昔から、彼女にこういう態度を取られると、いやでも背筋が伸びていた。


「覚えていないか?あの国にひとり、いや一匹いただろう。」


 その問いかけにかなめが頷くことはなく、腕を組み眉間に皺を寄せていた。

 必死に記憶を辿っているのだろうが、その様は玄宗を彷彿とさせるほど険しく厳ついものだった。


「…あぁ。此処って、僕が紅様と会った場所ですね。様子が変わりすぎてて、気付きませんでした。」

「…紅狐が全力出したっていう?」

「ええ。紅様が暴れたせいで全員逃げ出して、草木も滅茶苦茶でしたので。」

「…社務所無事かなぁ。」

「巫女男が張った結界がありましたから。」


 答える音緒に首根っこを掴まれて、かなめは無理やり前を向かされた。彼は助け舟の出し方も、話の腰の折り方も雑だった。


「どうしたんだい二人とも、こんなところで、そんな恰好で。」


 草を踏み分けて寄るのは、副担任の吾妻渚あづまなぎさだ。

 彼は普段きっちり固めている焦げ茶の髪を下ろし、紺のシャツに白衣を羽織っている。足元は黒のスニーカーを履いていて、靴にも白衣にも泥が跳ねていた。右のポケットからは、汚れた軍手が顔を出している。おかげでかなめは眼前の男が副担任であることをしばらく理解しなかった。


「…ここはどこですか?」


 そう訊ねるかなめの眉は綺麗な八の字になっていて、先程の厳しい態度はすっかり消え失せている。


「町からそんなに遠くはないよ。」


 町を出て、電車を二つ乗り継いだ場所だと渚は言った。そして音緒をとらえた彼の瞳は、爛々とその鳶色を輝かせる。


「きみ、百鬼夜行の一番槍だね。噂はかねがね聞いているよ。」

「……うつわ、試しにこの人間へ、経緯を説明してみなさい。」


 急に振られたかなめは、訳もわからず、音緒の指示に従った。


 音緒との邂逅から霊力が目覚め、知己である紅狐と再会し、呪いを解く為に奮闘したものの、自分を助けるために紅狐が暴れ、彼女との融合は始まっており、町を守る皇との溝が深まったこと。そして紅狐の落とした耳飾りを探していること。かなめはなるべく主観的な言葉を挟まず簡潔に済ませた。宗也に会いたくて町へ帰るのだとは、どうしても口にできなかった。


「君の呪詛はもう、ほとんど全身に回ってしまったんだね。」


 彼の言う通り、呪詛はかなめの肘や膝まで色濃く侵食している。不自然に脈打ってはいたが、それよりも肩の傷が痛んでいた。

 渚がくるりと背を向けた。柔らかい土を踏みながら、彼は歩みを進めていく。


「君達、のこのこ町へ帰るわけにいかないだろう。拐かしに殺人未遂。音緒君は間違いなく濁。排除対象だ。」


 皇では妖を三つに区分していた。せいちゅうだく。濁と指定された妖は、悪質な妖として実力行使が認められていた。


「今回の件で分かったと思うけれど、彼らはあくまで組織の人間として冷徹に対処するよ。」


 かなめは渚の背を追う。その後ろを、音緒がついて来る。


「父親という肩書は二の次。…だったら一つ、後ろ盾が欲しいとは思わないかい?」


 背中で話す渚に戸惑いながら、かなめは平屋の玄関をくぐった。

 玄関を左へ曲がると、そこに広がるのは和室。十数畳ある部屋には、長机をいくつか並べてあって、傍に座布団が詰まれている。最奥に座る人物に、かなめの瞳は大きく開かれた。


「久しぶりだな、かなめ。」


 艶やかな黒髪を一つにまとめ上げ、長い睫毛をはためかせて笑うのは、まぎれもなくかなめの母・蘭子らんこだった。


 蘭子は玄宗の四歳下で、四捨五入すれば四十路である。それなのに、蘭子と並んで歩くと姉妹に間違えられるくらいで、かなめは母を不思議に思いつつも誇らしかった。


「クーから大体聞いているよ。」


 クーというのは玄宗の愛称だ。蘭子以外が父をそうやって呼ぶところを見たことはないし、かなめが愛称の由来を尋ねたこともない。


「この件は、お前が自力で解決しなければ意味がない。その為なら喜んで力を貸すよ。例えば耳飾りの捜索とか、クーの説得とか。」


 悪戯っぽく笑う蘭子。その白衣の胸元にはトランシーバーが入っていて、渚も同じものを取り出して見せた。彼と話した内容は、忍ばせていたそれを通して筒抜けだった。

 音緒がそれを見込んで話を振ったことを、かなめはようやく理解する。


 蘭子は嬉しそうに微笑んだまま、世間話の一環であるように、朗らかに音緒へと話しかけた。


「きみ、宗也を刺してきたんだって?」

「おかげさまで滞在許可は反故でしょうけど。」

「滞在許可?」


 音緒はどこからともなく一枚の和紙を取り出して、蘭子の前へ差し出した。

 和紙には流れるような墨の字で、滞在を許す代わりの条件が並べてある。

 抗争や私闘の禁止、祭りへの貢献、そして百鬼夜行の持つの引き渡し。


「……これを関守に渡されたのか。」

「あの町の関守は、こんなに重要なものを式神を通して寄越す程、礼儀知らずなんですか?」


 かなめは蘭子の傍から許可書へと目を通しながら、代赭の瞳を見張った。

 許可書の終わりは、この約束を違えた場合、百鬼夜行に属する全妖の死を以て償うこと、そしてその骸さえ皇へ捧げよという文章で締め括られているのだ。


「…他の皇はともかく、玄宗さんと紀明さんに限って、こんなものを渡すはずがない。」


 険しい表情を見せるのは、和室の隅の渚だ。 


「渚先生の出張って、」

「そう。ここの発掘調査。」


 かなめの視線に気づいて、渚が声音を少しだけ柔らかくして答える。


「彼はうちの研究員だよ。…あれ、お前に説明したことなかったか?」

 蘭子は自身の腕を指差して言った。

「文化財保全・遺跡発掘調査機関、玄武。そして私が組織責任者の松浦蘭子だ。」


「学校へは欠席の連絡を入れておいたから、今日はゆっくりしていくと良い。」


 蘭子は娘へ仕事現場を見せて歩いた。

 見事に三角の形をした山々に、青く澄んだ空。結界のない空というのが、これ程までに清々しいとは。かなめは思ってもみなかった。あの町には常時、関守による結界が張られている。


「調査をしていると、まじないを掘り当てることがある。それを研究し、皇へ提供しているんだよ。霊能も一種の文化だからな。受け継がなければならない。…なるべくクリーンな方法で。私はその為に玄武を立ち上げ、近年民間の警備会社と合併した。今流行りの、えむあんどえーというやつだ。」


 調査員は十名程で、小さなシャベルと刷毛を持ち、いきいきとした様子で、田畑であろう一角を掘り下げていた。


「ああやってな、少しずつ、均等に掘っていくんだよ。土器の破片が出たり、昔の住居の名残が出たり、瀕死の河童が出たり、色々だな。」

「…河童もでるの?」


 蘭子は朗らかに、それでいて溌剌と笑って調査場を見つめている。


「…今日はそうだな、大きめの土竜もぐらかな。」


 蘭子の言葉とほぼ同時に、掘り下げられた田畑が蠢いた。

 黒々とした畑から、乗用車と同じくらいに大きな土竜が顔を出す。


 それを見た調査員が一斉に避難を開始した。しかしその顔つきはどこか嬉々としていて、しきりに蘭子と渚の名前を呼んでいた。蘭子は片手を挙げて応えている。


「鉢合わせた妖はな、渚がどうにかする決まりなんだ。」


 降りかかる日差しを呑気に片手で遮って、蘭子は後方に控えていた渚を見やった。すると彼は苦笑しながら、白衣を翻して歩みを進めた。


「殆ど兄さんだけどね。」

「お前達じゃないと現場が荒れるからなぁ。」


 渚は、蘭子の言葉を背中で聞きながら手元で手印を結ぶ。

 指先は幾何学的な陣を書いていた。

 白昼の、空中に浮いた青白い光。幾何学模様は渚の指から離れて、彼の周囲で輪となっていた。


「みんな避難したね?」


 彼の声に呼応するいくつもの歓声。研究員によるものだ。

 彼らは、渚が繰り出す術を楽しむ観客と化している。事実彼の呪術は、目を奪うほど洗練されていた。


 九字切りとも違う手印は続いていた。

 はらはらと、渚の手からこぼれ落ちていく青白い光。それが足元へ到達すると、まるで氷のように地面を覆った。


 続けて渚は白衣の胸ポケットから、小さなガラス瓶を取り出した。

 そしてコルクの栓を抜き、中の水を自身の頭へとかける。空き瓶は彼の足元へと転がった。かなめは、これが神降しの儀式であることに気付いた。

 多少の相違はあるものの、かなめは確信を遠い記憶の中に持っていた。前世の古い呪術が、彼らの研究によって現代へ継承されている。

 蘭子は、真剣な顔で呪術に見入るかなめへ、耳を寄せて囁いた。


「渚には、妖の兄がいるんだ。これは兄のるいを呼び出すための、皇では禁じ手とされている呪術だよ。」


 渚の様子が急変する。


 彼は至極鬱陶しそうに、きっちり閉じられていたシャツのボタンを三つ外した。その爪は不自然に鋭く、掻き上げた茶髪から滴る水を弾かせていた。

 彼から発せられる妖気に、威力を増した歓声。


「ったく見世物じゃねえんだぞ!」


 荒々しく、且つ、情の滲んだ声音が辺りへ響いた。彼の双眸は朱鷺色の光を帯びている。しかし瞳は周囲を一瞥した後、哀愁を含んで伏せられた。


「ここには何も無いな。蛍の手掛かりも、お前達が探している耳飾りも。…ああでもその右側。状態の良い土器がある。」



 彼の指差す土壌は、土竜の大きな手による衝撃に脅かされていた。ぺしんぺしんと、愛くるしい動作と共に地中へ返せと土竜が訴えていた。

 地面の揺らぎに、泪はゲンコツをくれてやる。


「土器が壊れるだろうが豚っ鼻ァ。」


 泪は軽々と土竜を担ぎ上げた。

 研究員達は泪の挙動全てに歓声をあげて眺めている。


「お前の縄張りィ?荒らしはしねえって。ちょっと調べるだけ。」


 土竜が人間の言語を発することはない。

 だが泪は当然の如く土竜の主張を理解し、会話をしていた。


「要はふかふかで?薄暗くて?閉塞感がありゃいいんだろ?」


 泪は調査員へ目配せをして、平屋の中からありったけの掛け布団を持って来させた。そしてそれをビニールシートの上に敷かせて、土竜を布団の上へと下ろす。


「これでどうよ。」


 泪は土竜の豚鼻だけを外へ出して、掛け布団で包む。さらにビニールシートの端と端を固く結んだ。ぐるぐると梱包された土竜は、ふがふがと鼻を鳴らして喜んでいるようだった。


「お?気に入ったか?案外なんでも良いんじゃねえかよお前。」


 泪はぐるぐる巻きの土竜を、発掘現場から少し離れた畑に置いた。

 そして体についた土を払う。浴びた水は乾き始めていて、潮時だな、と呟いて片手を挙げた。それは様子を見ていた調査員へ向けた別れの挨拶だ。


「泪は本来、海辺の妖らしい。渚の肉体と、清めた海水を以て顕現する。…彼へその術を教えたのが蛍という鬼で、椿の母なんだ。」


 泪の合図を皮切りに、調査員は土竜の元へと駆け出して、その豚鼻や、布団から少しだけ覗いたごわごわの毛並みを撫で始める。皆妖に好意的で、かなめが想像していたよりずっと平和的な解決方法だ。


「私達の持つ権利や義務というものは、結局の所お前達の為にある。私達が守ってやれるうちに、成せるだけのことを成せばいい。」


 母の、蜜色をした瞳が、慈しむように細められた。娘の肩を抱き、頭を優しく撫でていた。


「私もクーも、数々の死戦を潜り抜けたよ。その果てにお前がいる。これしきのこと、お前が超えられない筈がないんだ。」


 だから、必ず生きて終わらせろ。

 母の言葉に、かなめは力強く頷いた。

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