第19話 君のいない町で(前編)
朦朧とする意識の中、宗也には水の音が聞こえていた。
瞑っていた目を開くと、ぼんやりと見えるのは山中の水辺。側には音の正体である滝が流れていて、気怠い体は水に浮かんでいるのだと分かった。
「…大丈夫?」
宗也の体を支えて、顔を覗き込む女性がいた。
彼女の他には誰もおらず、きっと彼女の秘密基地なのだと、宗也は回らない頭で納得する。
彼女は軽々と宗也を抱きかかえる。華奢な彼女のどこにそんな力が、と思ったところで、水面に写る自分の姿が小さな少年であることに気付いた。それと同時に、これは幼い頃の記憶なのだと、まるで明晰夢でも見ているみたいに頭が理解した。
あまりに細く不健康な彼女。彼女は咳を抑えて問いかけた。
「ここまでどうやって来たんです?」
宗也は首を振る。声はうまく出なかった。
すると彼女が、自分の額を宗也の額と合わせて目を閉じた。頰を包む両手はひんやりしていて、その瞳は澄んだ代赭の色をしていた。彼女が前世の幼馴染だと、宗也は確信を得る。
「……女の子を助けて滝に落ちたのですか。勇敢でしたね。怖くはなかった?」
宗也はまた首を振って応える。彼女はクスリと微笑みながら、自身が羽織っていた羽衣を宗也の肩にかけた。
「元いた場所へ帰してあげます。」
そう言って、彼女は宗也の肩を掴む。
その後ろで、数人の童女が手を繋いで彼女を呼びに来ていた。彼女はそれに応じる前に、少年の額へ口付けをひとつ落として、掴んだ体をゆっくり川の中へ押し込んだ。
ざぶん。
頭まで水面の下へ潜る。水面に揺れた、彼女の名前。宗也がそれを呟く時、瞼の裏にあった情景は静かに消え失せた。
寝言のように呟いた彼女の名前で目を覚ました。
暗闇の中、行灯の明かりが天井や梁を照らしている。目線だけを動かして、宗也はここが社の中だと理解した。
百目鬼に刺され、気を失ってから数時間が経っている。そう推測し、即座にその体を起こそうと力を入れた。かなめを迎えに行かなければならない。
しかしそれは骨張った掌によって制止された。
「まだ寝てたほうが良いぜ。応急処置しかしてないんだよ。お前も俺も。」
隣に一人の青年が座っていた。
宗也は掌に抗おうとしたものの、渋々ながら断念する。刺し傷が悲鳴を上げていた。傷口へ手をやれば、彼の言う通り応急処置の包帯が巻かれていた。勿論包帯の中には、霊能者の間で使用されている霊薬が塗布された湿布が貼ってある。微かに青い草の香りが漂っていた。
「どうせあいつらは戻ってくるよ。目的全部、町に置き去りだ。」
纏う霊気は昼間の巫女と同じ。しかし彼は黒の長袖とズボンを履いていて、伸びた襟足を雑に括っていた。捲った長袖から包帯が覗いていた。
「……カナさんって、偽名でしょ。」
「本名で仕事できるほど恵まれてねえんだよ。」
昼間とはうって変わった姿の佳直は、宗也へ向かって姿勢を正した。
眼前の、警戒心に満ち満ちた少年が、自身の立場を明かさないことには話を聞かないと踏んでのことだった。
「黒崎稲荷神社宮司兼、関守案内役。
関守案内役。
赴任する関守に対して、先達を務める宮司や僧侶のこと。この町のように瘴気が極めて濃い場所に多く見られる彼等は、皇が統治するよりも前にその土地を清める立場にあった者達だ。
佳直はすぐさま宗也の額を平手で叩く。
「ったく取り乱しやがって。冷静さを失った方の負けだぞ。」
ここは山の大神宮ではない。床の上には宗也の見慣れない、狐の像がいくつも置いてあった。行灯に揺らめく黒檀の瞳は、尚も厳しく青年を見ていた。
「あの呪符は皇本部で作られた、滅殺に特化した代物だ。」
行灯の火が、大きくうねって燃え上がる。
それはまるで、宗也の心情に呼応するようだった。
宗也の中にあるのは、父への憤怒は勿論のこと、我を忘れた自身の失態への落胆だった。
戸を蹴り破った頭にあったのは、かなめに迫る危険がどうだとか、邪を祓う使命だとか、そんな大それたものではなかった。
もっと幼稚で浅はかな感情。ざらりと砂をかむような、どろりと焼けて爛れていくような、黒く渦巻く腹の中。
宗也は煮え切りそうな腹わたを抱えながら、目の前の青年へ静かに謝罪を述べた。
「…焦る気持ちはよく分かる。何もできないできない歯痒さも。」
宗也は居心地悪く佳直を見る。
同情される筋合いはないと、内心強い反感を抱いていた。
「お前と同じだよ。俺の場合は狐憑き。」
宗也の態度などお構いなしに佳直は話を続ける。
「
佳直は半ば愚痴のように続けた。
「傍若無人なあの馬鹿狐に、大事なゆきひが取り殺されちまう。俺が絶対に野狐を祓ってやるって、そう思って、もう十年が経った。」
彼は姿勢を崩し、その長身を丸めていた。
「野狐に喰われた力の補填。それしか俺にはできない。俺が治した体で、野狐はまた徘徊する。でも治療を止めればゆきひは死ぬ。…憎くて憎くて、首を絞めた。でもそれで死ぬのは人間だけだ。狐はまた宿り主を変えるだけ。」
骨ばった佳直の手に残る、ゆきひの細い首の感触と、一生抱える罪悪感。
「俺はお前みたいに優秀じゃないからな。狐を祓えるわけじゃない。あいつを構ってやる時間もない。何もしてやれないのに、受け取る愛は馬鹿みたいにでかい。にっちもさっちもいかなくなって、当てつけみたいにあいつと正反対の女を捕まえたりして。でもあいつ本当にめげなくて。……あいつ以外、どうしても愛せなくて。」
諦めと呆れを含んだ長いため息だった。
「惚れた弱みっていうやつは、本当に厄介だな。」
長い前髪から覗いた彼の右目。
霊力を消耗し続けると体に影響が出る。佳直の白く濁った瞳は、限界を超えて霊力を駆使している証拠に他ならなかった。彼はそうまでして、南条ゆきひという少女を救わんとしていた。
「でもお前は俺と違って、殺すことが目的じゃない。松浦の望みを叶えてやるんだろ。そこだけは、もう間違えるなよ。」
宗也自身、腹を割って話をしてくれる大人は初めてだった。ふちの白んだ彼の右目を、宗也は真っすぐに見つめていた。
黒檀の眼差しに満足そうに笑った佳直は、全身を脱力させてその場へ大の字に寝転がった。
「松浦のこと相当怖がらせちまったなぁ。会ったら二人で謝ろうな。」
宗也は苦い顔をしながら、戸を蹴り破って見た光景を振り返る。紅狐が、我を忘れて文字通り食ってかかった相手。そして生まれる疑問。
「……かなめに何したんですか?」
冷静に考えて、紅狐があんなに怒るようなことをこの青年はしたわけで。
「やだよおまえ絶対怒るもん。」
「どの方面での恐怖ですか?」
「お子様にはまだ早えなぁ。」
「…犯罪じゃないですか。」
「うっ…るせえな手しか握ってねえよ!」
「は?手?」
じり、と詰め寄る宗也に、寝転がったまま万歳する佳直。
「ちなみに」と彼は冷たい床に体を預けながら、幾分柔らかい口調で言った。
「その霊薬作ったのがゆきひだよ。あいつは薬師の家系。皇と関係がない薬屋だけどな。」
皇以外の霊能組織はごまんとある。ただ皇が、この界隈で幅を利かせているというだけのこと。宗也はそれを理解していた。
「その薬も、あいつの代で終わりだそうだ。…まあ俺だって、俺の代で終わるだろうけどさ。」
「関守案内役が?」
「…まだ覚えてるよ。あの二人が来た時のこと。」
昔から妖も霊も他と比べ物にならない程多く、類を見ないほど瘴気の濃い町。凶暴化する悪霊や悪鬼の相手など、並の霊能者に勤まるはずがなかった。故にこの町は精鋭揃いの皇へ助けを求め、黒崎稲荷神社の宮司には、関守案内役という役目が回ってきた。
関守は基本、管轄地区を一人で守る。任期は己の命が続く限りとされていて、他への異動も無い。黒崎家が町を案内した関守も皆、例に漏れず皇としての使命を全うしていた。そして、数年のうちにその命を散らすのだ。濃度の高い瘴気は術者の内腑を侵し、狂気に踊る妖は彼等を蹂躙した。天下の皇でさえ、この町を死地と呼んだ。稲荷神社の裏山にも、この町で殉職した関守の墓石が並んでいる。
しかし玄宗と紀明は、たったの三日で町を荒らした悪鬼共を滅して見せた。
朝靄のなか、漆黒の羽織を肩にかけた二人。蔓延る瘴気を晴らし、町に降る朝日を浴びて笑う彼らは、まさしく英雄だった。
語りながら、軽快に体を起こす佳直だった。紅狐に散々痛めつけられただろうに、と、宗也は隣の青年を眺めていた。
「………なんで女装なんですか?」
巻きの緩い腕の包帯を直しながら、佳直はその問いに答える。
「神様の世話をするには、まるっきり正体隠してな、何もかも悟られないようにするしかないんだ。神主とはまるっきり違うことするから。…神様相手に丸腰で、なんていう暴挙、紀明さんだけだよ。荒魂が怖くないんだあの人。息子で慣れてるって言ってたけど、お前見てたらなんとなくわかった。」
父の名前を聞くだけで、腹の虫は居所を悪くする。宗也は父親への敵意剥き出しな瞳を佳直へ向けていた。彼はヘッと笑って反抗期真っ盛りの少年を撫でくりまわす。
宗也の頭を揺さぶりながら、佳直は思い出したように声を発した。
「なあお前、ちょうい、って奴の話、聞いてる?」
骨張った手を払い退けながら、宗也は首を横に振った。
「ちょうい、おねがい、もうやめて。前世の松浦がそう言ってた。…登場人物は三人だけじゃないみたいだな。」
「だとしても、そう簡単に時を超えてここに集結するなんてあり得ますか。」
「松浦が特殊中の特殊なんだろうな。前世を覚えてる上に、その続きを、って、普通不可能なんだよ。間で掻き消されちまうはずなんだ。前世の記憶なんていうもんは。」
一定の距離をとって、宗也は首を捻りながら青年を見ていた。
「……あわいって、なんですか。」
佳直はひと息ついて、そこからか、とため息混じりに呟いた。
「間はな、魂がたどり着く場所だって言われてんだ。極楽浄土でも、地獄でもない。肉体を離れ、霊体もない。魂だけっていうのはひどく消耗するらしい。自我は薄れて、存在そのものが掻き消されていくんだと。……心を映す精神世界だともいうが、間から帰ってくるやつなんかほとんどいない。だから半ば言い伝えみたいに、曖昧な場所なんだ。」
宗也がこれまでに読んだ呪術書の、どのページにも記載のない情報だった。
「この町に浸透してる妖封じの術っていうのは、大抵間に繋がってるんだよ。大人しく地中に眠ってる訳じゃない。劉伯とかいう奴の祠も、その術のひとつだ。皇じゃ禁じ手になってる。理由は簡単だよ。
肩に手を当て、腕を回した佳直から関節の鳴る音がいくつも聞こえてきた。
彼は次に首を回して、大きく息を吐く。
「さらに厄介なのは、放り込んだ妖がただの木偶じゃなくて、術使いだった場合だ。大抵の呪詛は術者が死ねば消えるが、間じゃそうはいかない。術者が消えて、呪いだけが残っちまう。…俺の言いたいこと分かるか?」
薄闇の中合わせられた真剣な眼差しは、彼女らに猶予がないことを語っていた。間へ放り込んだ劉伯が潰えた時、紅狐にかけられた呪いは解決策を失う。既に四肢へ及んだ呪詛が、かなめの命を喰い尽くすまで、もう時間がないのだ。
「だからとっとと松浦と妖を引き剝さなきゃいけない。が、もう融合は始まってる。あいつらを分離させる方法がないわけじゃない。…一応聞くか?」
宗也は静かに頷いた。
「妖ごと、松浦を間に放り込めばいい。」
心底信じられないと、宗也はその眉を顰め鋭い視線を送る。佳直は乾いた笑みをこぼして、胡座を掻き直した。
「そしてお前が松浦を迎えにいけ。妖は、こっちに戻ってきた松浦が呼び寄せればいい。…でもなぁ、それをやるには町の状態が悪すぎる。いまはな。」
「……絶好の機会は祭りの日ってことですか。」
「察しが良いねぇ。」
夏至に開かれる祭り。その盛大な祭りで、関守二人が音頭を取って、町の穢れを一気に祓うのだ。いわば一年で一番町が澄み渡る日である。
「祭りまで、なんだかんだ日は無えからな。…でもお前は休めよ。そんな状態じゃ、出来るもんも出来なくなっちまうからな。」
事実宗也は満身創痍だった。関守不在の町を守り、かなめの護衛に妖の掃討。連日気を張り詰めて、疲労と受傷は回復しないまま、百目鬼に刺された脇腹がとどめとなっていた。
佳直はおもむろに立ち上がって、社の出口へと歩みを進めた。
「煙草。俺も疲れた。」
煙草という言葉に呆けたらしい宗也。
ぽかんとしている少年に、佳直は首を傾げる。
「そんなに珍しいか?煙草を吸う二十五歳。」
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