第20話 君のいない町で(後編)


 泥のように眠った。モノトーンの自室で、窓もカーテンも扉も、何もかもを締め切って。それでも回復は四割といったところだった。


 枕元の時計は宗也に登校を急かす。

 無言で散々愚図ついた結果、宗也は制服へと袖を通した。


 顔を出すんじゃないかと思ったのだ。この間みたいに。肩で息をして、さらりと黒髪を流して。なんで待っててくれなかったの、なんて言って。

 

 そんな希望は、教室の喧騒が掻き消した。

 誰が話しかけても生返事で、机に突っ伏したままの宗也。クラスメイトは、きっと祭りの準備でくたくたなのだと推測した。それぞれ労いの言葉をかけた後、宗也へ声をかける者は居なくなった。


 昼休みになってもその端正な顔は机に隠れたままで、周囲はがやがやと昼食を摂り始めたというのに、宗也は依然不貞寝の姿勢を崩さなかった。


 そんな一年一組の教室の扉が、乱暴に開く。


 後方の入り口に、三年生が立っていた。

 凛盟りんめい高校は学年ごとにリボン・ネクタイの色が違うため、青のリボンを着けたその生徒の学年は一目で分かる。加えて彼女は、初夏だというのに厚手のカーディガンを羽織っていて、その一風変わった出で立ちが、クラス中の視線を集めている。


 コツコツと机をノックされ、宗也は渋々顔を上げる。周りは上級生に釘づけで、まるで芸能人でも見つけたかのように囁き合っていた。宗也は鬱陶しそうに教室を一瞥してから、眼前に迫った上級生を見た。


「野坂君ってきみね?」


 かなめより童顔。上瞼で切りそろえられた前髪によって、その大きな目はより一層魅力を増している。灰色がかった黒髪は鎖骨あたりで揃えられていて、体の前で組まれた両腕はいかにも華奢な少女のそれだった。


「少し話があるんだけど。」


 彼女は購買で購入した焼きそばパンを両手に持っていて、それを一つ宗也へ差し出した。


「俺は無いです。」


 間髪入れずに返答した宗也は無表情。教室中の視線が自分とこの上級生に集中していて、不愉快極まりないのだ。


「………カナのおつかいなの、私。」


 小声で囁いてにこりと笑う。宗也は少し間を置いてから、ああ、とだけ呟いた。


 この、教室中が騒めくほどの美貌を備えた少女こそ、南条なんじょうゆきひだ。彼女の笑みに隠された青筋など知る由もないクラスメイトは、食い入るように宗也の返答を待っている。このまま体育館裏にでも連れ出されるんじゃないかという邪推に他ならない。


 しかし下級生の返事など待つ気がないのはゆきひのほうだった。すぐさまパンを片手で持ち直し、彼女は宗也の首根っこを掴んで颯爽と教室から連れ出した。


 ゆきひは宗也を引っ掴んだまま、一階の中庭に移動した。

 日陰で人通りの少ないそこには、古びたベンチが置いてある。ゆきひは構わず座り込み、渋々連行されてきた宗也へ座るように促した。宗也は座らなかった。


「カナがね、これ、返しといてくれって。」


 ゆきひの手に乗っているのは、小さな紅の髪飾り。宗也がかなめへ贈ったものだった。宗也はゆきひを見下ろしながらそれを受け取る。もはや睨み付けているのと同じことだった。


「あんたすごいね。GPSでしょ、それ。」


 ゆきひは足を組み、愉快そうに口の端をつり上げていた。手足が細く、小さい頭に艶やかな髪。雑誌の表紙でも飾れてしまいそうな容姿だった。


「私そういうの好きよ。カナは引いてたけどね。」


 佳直の話から宗也は勝手に、南条ゆきひという人物は、虚弱で気弱な少女だという先入観を抱いていた。それが今、真っ向から崩されている。言葉の圧から表情の作り方まで、彼女はひとつも奥ゆかしくない。しかしその麗しさは人を惹き込み、魅了する力がある。同級生が鼻の下を伸ばしていた意味を宗也は理解した。勿論同じように惚けるかといえば、話は別だけれど。


「傷の具合は?」

「…おかげさまで。」


 ゆきひは宗也を無理やりベンチへ座らせた。渋々従ったのは、ゆきひの手が腹の傷を圧迫しているからだった。


 彼女は勝手に触診を済ませ、宗也の手に焼きそばパンを握らせて、自分はスカートのポケットから、いくつもの薬包紙を取り出していた。


「カナってば行灯一つしか用意しないで薬作れなんて言うから。当たり障りのない塗り薬しか作れなかったのよ。…本当だったら、創部をちょっともらって、この体を使って製薬するんだけど。カナから聞いたでしょ?野狐やこのこと。憑物がある状態で、そんなリスク冒せない。だから出来る範囲で、追加の薬を作りに来たの。どうせ治ってないだろうと思って。」


 自分と目線を一切合わせず、彼女はひたすら薬包紙を広げては、空の薬包紙へと匙で掬って調合している。宗也はただ流されるまま、薬の完成を待つしかない。


 横髪を耳にかけて露わになった彼女の首筋には、噛み傷があった。まだ赤く滲んだ新しい傷に、宗也はなんだか見てはいけないものを見たような心地で目線をずらす。先日同じようなことをかなめ相手にしたせいで、諸々察しがついていた。


 ゆきひは宗也の視線に気付いたようで、ふっ、と吹き出して笑った。


「カナの治療。日曜日にね、体に霊気を循環させて、溜まった瘴気をここから逃すの。手首とか、色々場所は試したんだけどね。」


 みるみるうちに、宗也の治療に特化した粉薬が出来上がっていく。


「私ね、あの人の名前、呼べないの。」


 世間話のように切り出された会話。一心不乱に薬を調合するゆきひが、少し目を細めて続けた。


「私がカナの、本当の名前を呼んでしまったら、野狐が真っ先に呪い殺してしまうのよ。私の先祖が、体の一部を野狐にあげるっていう取引をしたみたい。反故にした報復ね。愛しい者か己の体か、どちらかを差し出せって。でもその部位は教えてくれない。……私ね、あの人の名前が呼べる日を、夢見てるの。」


 彼女の膝には、いくつも薬が完成していた。それを宗也へ手渡しながら、ゆきひは意地悪く笑った。


「あんたは耐えられる?好きな人と、週に一度、必ずキスするの。」

「……はっ?」

「人命救助はマウス・トゥ・マウスだって。馬鹿にすんなって、カナのことぶん殴ったよ。」

「犯罪じゃないですか。」

「でも本当にそういう治療の術なの。だから私、こうやって生きていられるの。……そういえば最近、野狐が外に出たがらないの。町が怖いって。今日は特に怯えてるのよね。混沌がどうのって、震えてるんだけど。」

 

 突如、中庭を囲う窓ガラスに亀裂が走った。


 周囲の生徒が身を屈め、何事かと辺りを見渡している。霊感のないはずの人間にも、この怪奇現象は降りかかっていた。


 そして、宗也の鼻を掠める香。ざわ、と、悪寒がするほどの妖気を携えて、まるで誘導するかのように空気中を漂っていた。


「…薬、ありがとうございました!」


 宗也は即座に駆け出す。人混みを抜けて、校舎を飛び出し、薬包紙を噛みちぎりながら中身を飲み込み、鬼灯を破る。口内に広がる苦味と、鼻を抜ける独特な薬草の香り。咽せながらも、宗也は黒の羽織を翻した。


 香を辿って駆け抜けた先は、蓮沼だ。


 沼に青々と茂る蓮は見頃を迎えていて、薄紫や薄桃の花弁が競うように咲き誇っている。薄気味悪ささえ感じるその光景と、隠しきれない妖気。宗也は周囲を警戒する。


「誰を探してるの?」


 知らない声だ。

 耳元できこえたその声は宗也を臨戦態勢へと移行させる。ヒュ、と瞬時に繰り出した剣撃は、紙一重で避けられた。


「僕も、探してる人間がいるんだけど。」


 黒檀色の双眸は、人間に化けた妖を見る。

 凛盟高校の夏服を纏っていて、顔の輪郭に沿った長い前髪は右側に厚く流れていて、左目のような朱色は見えない。

 まじまじと観察する暇を与えずに、妖は一瞬にしてその間合いを詰めた。


「僕の大事な大事な玩具だったんだ。脆くて弱くて、寂しくって可哀想で。ちょっとずつ爪で引っ掻くとね、心って勝手にどろどろになるんだよ。知ってた?」


 静まり返った沼に、脈絡のない言葉だけが響いていた。弦楽器のような声が、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。


「その玩具がさぁ、埋まってたの。掘り返そうと思ったら、間なんかに繋がってるじゃない。あれじゃ探せないよ。でも、あの封印だけじゃないの。みんな苦しんでる。あんな閉じ込めかたしたの、だあれ?」


 宗也は確信を得ていた。大神宮にある祠を弄ったのは、眼前の妖に間違いない。そして妖の探している玩具というのは、劉伯その人だ。


「きみ、僕の玩具に似てる。」


 そう呟いたのも束の間、妖の爪が鎌鼬かまいたちのように、宗也の右瞼を斬りつけた。


「こういうのなんていうんだっけ、先手必勝?」


 宗也はぐるりと刀を振り回した。滲んだ視界の戻りは悪く、半ば闇雲だった。


「あはは、なあんにも見えないよね。僕には見えてるよ。きみのぐちゃぐちゃな心。僕そういうのだあいすき。」


 ぐい、と首を持ち上げられる。強引に額を合わせられ、強い妖気が宗也を襲った。何かを探られているのだと理解した頃には、額は離れて、妖の生白い手が、宗也の両頬を包み続けていた。


「……きみ、本当に人間?」


 呟いたかと思えば、急に上がる妖の声量が、眩暈と共に宗也の頭を揺さぶった。


「可哀想に!きみ、このまだと愛しい人を殺しちゃう!彼女はきみの敵になる。あの小憎たらしい百目鬼と一緒に!」


  声量に不釣り合いな、慈しみの手。神経を逆撫でする声に、かき乱される心。悪寒とともに怒りが湧いてくる。揺らぐ心を押さえつけるように、宗也は目の前の妖を睨みつけた。尚も妖は宗也の頭を離さない。どれだけ負荷をかけても、その生白い手はびくともしなかった。


「…お前、ちょういとかいう、」

「ちょうい?…なあに、お前、寵懿ちょういのこと知ってるの?はは、残念だけど、あの塵屑ごみくずは僕がとっくの昔に殺しちゃったよ。魂ごと。……ねえ、おまえさ、どうしてあいつの名前、知ってるの?」


 のらりくらり、狂気を孕んで飄々としていた妖が、急にその鋭い眼光を宗也へ向けた。地雷を踏み抜いたらしい朱色の瞳に、深淵が見えている。


「お前もどうせ、あいつを踏みにじるだけなんだろう。寵懿とおんなじだ。どうしてお前たちは、いつもいつも……!」


 鳩尾から体の内側をえぐり取られるような感覚が襲う。猛烈な痛みとともに、その生白い手が宗也の中を探る。妖術だった。


「…ほら結局、お前はあいつを傷付けた。返せだって?あれは誰のものでもない。お前も災いに他ならない。…あいつの一体何を、守るつもりなの?」


 腹部に強い痛みが走る。宗也は苦痛に顔を歪めた。治りきらない刺し傷は握り潰されて、絶好の弱点となっていた。


 突如、妖の薄い唇が、宗也のそれへ重なった。


「……ッ!」


 触れた場所から痺れていく。麻痺していく感覚を凌駕するのは、焼け付くような痛み。それに気を取られた瞬間、喉を滑り落ちる液体。飲み込む以外の選択肢はない。どろりとした感触が、舌の根から内腑までを伝っていった。


 宗也が妖を突き飛ばすと同時に、用の済んだ妖がその体を離した。宗也の手は空を切る。咳き込みながら、口内に纏わり付いた液を吐き出した。


「何を飲ませた……!」

「じきにわかるよ。何が孵るかはきみしだい。」


 地面に膝をついたまま、宗也は口を拭う。息は荒く、意識は朦朧とした。


「僕は朱雀。またね、ノサカソウヤくん。」


 妖はにんまり笑って、揺らめく陽炎のように姿を消した。


 陽炎は収まることを知らない。波紋のように広がって、ぐらぐらと体まで揺れた。痺れは指先にまで及んでいて、熱と冷気が体中を駆け巡っていた。


 体を蝕む毒を飲まされたのだとしたら、早急に対処しなければならないのに、体はうまく動かない。思考はばらけて四肢に力は入らなかった。術を使うどころか、仰向けに倒れた体を起こすこともままならない。妖相手にここまで遅れを取るなんて。唇を噛み締める。加減の効かない力と、口内へ広がる鉄の味。


 空は移ろい、朱色は薄雲を貫く。迫る夕闇は視界を横切る。そのうち天地も分からなくなって、宗也は意識を手放した。

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