第21話 形代(前編)

 

 街灯要らずの夜空の下、蘭子はピンヒールをコツコツと鳴らしながら帰路についていた。


 玄関の鍵を開け、静まりかえった我が家の廊下をまっすぐ進む。突き当たりを左に曲がると、紫檀で作られた仏壇の前に、玄宗が居る。


「帰ったのか。」

「応。」

「かなめは?」

「宗也のところに一目散だ。」


 玄宗は目を瞑り、坐禅を組んだままでいる。

 蘭子はそんな玄宗の隣へ座り、小さく笑った。


「かなめに任せておけば良い。」


 蘭子は玄宗の無骨な左手に、自身の手を重ねて続けた。その声音は、至極穏やかだ。


「解決策はあいつの中にあるんだ。途方もない時を超えて、ここなら果たせるって、私達の元へきたんだろう。なら、やってやれることはひとつじゃないか。」 


 彼女には人を鼓舞する力があると、養父である章太郎がよく言っていた。玄宗はただの子煩悩だろうと思っていたが、案外事実なのかもしれない。


「なにも手ぶらで帰ってこんな提案をしているわけじゃない。」


 ふと、蘭子が玄宗の背中をグーで叩いた。その手には一枚の和紙が握られている。玄宗は背骨に響いた一撃に、眉を顰めて蘭子を見た。彼女は悪びれもせず、悪戯っぽく笑っている。


「祭りの日までに、という約束をしたのだろう?その辺りで本部の監査が入るぞ。今回は恐らく猪尾の人間だろうな。それまでに片付けておかなければならないのは、紅狐のことだけじゃない。」


 玄宗が和紙を開く。その中身は、彼女が音緒から預かった滞在許可書だ。


「墨は合っているが字が違う。」


 通常、関守が作成する書類には、霊力の籠もった特殊な硯と筆を用いる。この許可書にも使用されているが、道具は同じでも、肝心の筆跡に差異があった。

 玄宗も紀明も達筆ではあるが、許可書にあるほど流れるような美文字ではないのだ。蘭子はそれを、音緒が許可書を見せた時点で見抜いていた。


「お前にはそっちの対応をして欲しいんだ。たかが二匹の妖ではなく、えらく厄介な人間の相手を。」


 蘭子の、蜜色をした瞳と、その艶やかに伸びた睫毛が、酷く好戦的に瞬いた。



 土竜が調査員に手厚く世話をされているのを見届けながら、かなめは母と共に町へと戻ってきた。

 泊まっていけば良いのに、と惜しむ蘭子だったが、「宗ちゃんに会いたいの」とまっすぐな瞳で呟くかなめを見て、少しの間をおいてから頷いた。

 夕暮れに出発した二人が町へ着いた頃には、すっかり月が昇っていた。


 野坂家を訪ねてみると、麻美は息子と旦那の不在を告げた。キッチンから漂う美味しい匂いと共に、食べて待っていたらどうかと言う麻美の誘惑にも負けず、かなめは星の照らす田舎道を、道なりに歩き出す。


「……宗ちゃん、どこにいるんだろう。」


 彼に探されることは多々あるが、探すことはほとんどない。一人になった彼がどこに行き着くのか、検討もつかないかなめは、ただあてもなく歩く。


 スーパーへ続く道を抜けて、町のメイン通りともいえる道路へ出た。先日音緒と二人で妖花と退治した道だった。暗くて何もわからないし、メインというには寂しいところ。暗い道につられてほんの少し心細くなる。


 音緒は寄るところがあると言って、発掘現場ですっかり人間に懐いた土竜を一瞥したのちに姿を眩ませていた。彼が用心棒の仕事を放棄したのは、蘭子が「帰路のおともだ」と持ちだした強力な魔除のせいに他ならなかった。


「何やってんだこんな時間に。」


 振り返ると、そこには佳直が立っていた。

 伸びた髪を雑に括って、くわえ煙草をしてこちらを見ている。かなめは誰だかわからずに、首を傾げながら余所余所しい会釈をした。


「……あっそうか俺今化粧してないんだわ。」


 その声に聞き覚えがある。

 かなめは少し考えこんで、ハッと顔を上げた。


「カナさん?」

「うん。」

「宗ちゃん見ませんでしたか?あと髪飾り!」


 先日の謀略を気にしていないというよりは、そこまで気が回らないらしい。かなめは暗くて顔もよくわかっていない佳直へ詰め寄っていた。


「ちょっと待って。」


 佳直はそう言うと咥えていた煙草を勢い良く吸った。肺を煙で充満させて、閉じた唇の上から指を当てて目を閉じる。指を離すと同時に煙を吐くと、煙は不自然に揺らめいて、ある方向へ流れていった。


「……蓮沼のほうだな。」

「ありがとうございます!」

「おう待て待て待て。」


 駆け出すかなめの肩を掴む。佳直は吸い殻を携帯灰皿に突っ込んで、改めてかなめの横へ並んだ。


「俺も行くよ。ああ、あと髪飾りは宗也に渡しちゃった。」


 夜風が頰を撫でる。湿気を含んだ重い空気が肺を埋めた。湿気と共に、濃い瘴気が二人を襲っていた。かなめは母から借りた紺のワンピースとサンダルで草を踏み、がさがさ音を立てながら宗也を探した。その後ろを佳直がついて歩いた。

 

 そうして辿り着いた蓮沼。


 瘴気は一層濃くなって、かなめは思わず眉間に皺を寄せた。倦怠感に加えて、重く湿った空気に、深い咳が出た。


 幽かに宗也の気配を感じる。進めば進むほど、どんどん強くなる気配。それは、彼の命の灯火が消えかかっていることをかなめへ知らせていた。


 かなめは佳直の後ろをついて歩いていたが、次第に彼を追い越して、呪詛の及んだ足で駆け出した。


「……宗ちゃん!!」


 濃紺に融けた黒の羽織。紛れもなく宗也だった。

 体は冷え切って、辛く吐き出される息は弱々しい。体内に取込んだ瘴気が、宗也の命を食い荒らしていた。かなめはひとつも動かない彼の体へ寄り添う。微かに残る妖気を気にしている余裕はなかった。


「ねえ、大丈夫?」


 かなめは宗也の顔へ手を添えた。ざら、と手に残るのは、冷え固まって肌へこびりついた血液だ。瞼の切り傷が原因だと、かなめは月夜の中、目を凝らして宗也の状態を確認する。しかし心臓が喚くのにつられて震える手と、唇が痺れるほどに血の気が引いた頭では、何の判断もつかなかった。


 かなめに追いついた佳直が、すぐさま危篤の宗也へ寄る。首筋へ指をやり、脈を確認したところで、その腕にかなめの体重がのしかかった。


「どうしたら助けられますか!」

「おい落ち着けって、」

「交換条件があるのなら、全部飲みます。私なんてどうなったって良い。だから、宗ちゃんを助けてください……!」


 佳直はその震えた声に大きなため息をつく。


「なんで女の子って捨て身が利くんだろうなぁ。」


 呆れた口調が自分以外の誰に宛てられているのか、かなめには分からない。小さな舌打ちが聞こえたかと思えば、佳直の大きな手が、かなめの両肩へと降りかかった。


「今から俺がやること全部覚えろ。いいか一回しか見せねえからな。」


 かなめの返事を待たずに、佳直は宗也へと向き直る。すぐさま高揚していく佳直の霊気。それは柔らかく、繊細で、至極洗練されていた。


 体を包むその霊気が、次第に佳直の口元へ集まっていく。彼の薄い唇が仄かな光を帯びたかと思えば、彼は人工呼吸のように唇を宗也のそれへあてがって、静かに息を移した。呼吸と共に、霊気が宗也の体へ循環し始める。その流れに巻き込まれるようにして、宗也の体を蝕む瘴気が、少しずつ体の外へと追い出されていた。


「首筋を噛め。この傷から瘴気を抜く。別に深傷にする必要はねえから。」


 そう言いつつも、宗也の首筋からはブチ、と皮膚を噛みちぎる音がした。


「お前が形代かたしろになってこいつの穢れを引き受けろ。一晩すりゃ落ち着くだろうよ。でも俺じゃ無理だ。お前の桁外れな霊力がなきゃ出来ない。ただお前の呪詛に影響がないとは言い切れない。……どうなってもいいんだろ?」


 宗也の首筋からは、既に血液がぽたぽたと滴っていた。数滴ずつ、傷口に滲んでは首を伝って、襟元へ滴れている。


 かなめはすぐに宗也の首筋へ口付けて、溢れ出した血液を口内へ受け止める。鉄の味と共に、舌が痺れる感覚があった。かなめは祈るように、宗也の左手を握っている。片手は彼の肩へと添えていた。


「その調子。瘴気だから飲み込まずに吐き出しときな。もし傷が塞がったらもう一回噛めよ。」


 佳直は口内に残った血液を唾液ごと地面へと吐き出していた。行儀が悪いだのというのは、緊急時にはどうでもいい。かなめも彼に倣って、宗也の首筋から瘴気混じりの血液を吸い取っては、草の上へ吐き捨てた。


「こいつを家まで運んだら、お前は白の襦袢を着ろ。下着も何も付けずに。そしたら一時間に一度、さっきみたいに霊力を補給してやれ。傷口から勝手に血液と瘴気が流れ続けるから吸い取り続けな。大丈夫だよ死ぬような量は流れないから。そうだな…宗也の目が覚めるまで。終わったらお前はシャワーで穢れを洗い流せばいい。」


 かなめが抱きしめている宗也の体は、依然温もりを失ったまま。弱々しい鼓動の音に、かなめは宗也の頰へと手を添えた。


「お願い、どこにも行かないで。わたし、宗ちゃんに会う為に帰ってきたんだよ。」


 交わす口づけは、先程の比では無い量の霊気を宗也へ送り込んだ。彼の頭の先からつま先までが、清らかな霊気に満ちている。青白い光が、彼の横たわる草を照らす程に。


「…やっぱすげえなお前。」


 引き気味に笑った佳直は、気を取り直すように伸びをした。そして息を吐きながら、ぴたりと寄り添う少年少女を引き剥がして、首筋をかなめの方へ向けた状態で宗也を担いだ。道中何度か立ち止まり、宗也の穢れを受け止めながら、かなめは麻美の待つ野坂家へと向かった。


 玄関で三人を出迎えた麻美は、一つも動揺を見せなかった。


 それどころか佳直へ「カナちゃん久しぶりねぇ」なんて呑気に挨拶をして、かなめへ向かって感謝を述べて笑ってみせたのだ。


 佳直から意識のない宗也を受け取る表情は、まるで遊び疲れた子どもを眺めるもので、母親というものは、ここまで肝の座った生き物なのかと、かなめはきょとんとしながら麻美を見ていた。


 彼女はその視線に気付くと、言ってなかったっけ、と、はにかみながら言葉を続けた。


「私も昔、皇にいたの。だからこれくらいはね、大丈夫。」

「……えっ!?」

「殉職扱いになってるから、もうぜったいに顔は出せないけどね。」


 宗也を担ぎ、流石に重たそうにしながらも、麻美は階段を登っていく。かなめは慌ててそれを支えて、一緒に宗也の部屋に入った。

 

 麻美は装束姿の宗也をベッドに寝かせると、すぐさま白の長襦袢と、使い古しのサラシをかなめに手渡した。


「ごめんね、これしかなくて。お祭りの準備で全部社務所に移しちゃったの。吸い出したら、サラシに吐いて構わないから。」


 薄手の襦袢を受け取ったかなめを抱き寄せて、麻美はその背を優しくさすった。


「大変な役目を負わせてしまってごめんね。でも、かなめちゃんさえ居てくれたら、あの子、とんで帰ってくると思うから。」


 何かあったら呼んでね、と笑って、麻美は部屋を後にした。


 かなめは、宗也の懐に見つけた紅の髪飾りで、黒髪をひとつに高く結う。そして白の襦袢に身を包み、ベッドに横たわる宗也の隣に腰掛けた。


 枕元の時計は天を仰いだ頃で、かなめはそこから一時間毎に宗也へ霊気を送り、滴り続ける血液を吸い出した。

 数時間に一度、戻りつつある回復力のせいで首筋の傷は塞がり始めるので、そのたびに犬歯で噛み付いた。

 生温い血の香りが鼻腔に満ちて眩暈を起こすたびに、宗也の肩へと顔を埋めて自身を奮い立たせた。

 一時間毎の口づけが、殊の外体力と霊力を消費する。佳直の濁った瞳の理由が分かった気がした。


 一晩中、指を絡めて、手を握っていた。


 初めは冷え切っていたその手も、何度も何度も血を抜くたびに、少しずつ体温を取り戻していった。

 白み始める空に、とくとくと揺れる彼の鼓動。

 ああ、よかった。いつものあたたかい宗ちゃんだ。そう安堵の息を吐くかなめは、ぴくりと動いた指先に気付きはしなかった。

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