第22話 形代(後編)


 小鳥の囀りにつられて、宗也の意識は浮上した。


 体は憔悴しきっていたが、倒れた時よりもずっと具合は落ち着いている。胸から胃までの、抉られ続けるような感覚は消え失せていて、体内には鈍痛が残るばかりになっていた。


 ひとつ息を吐いたところで、宗也はここが蓮沼でないことに気付いた。視界に入る天井は、見慣れた自室である。そして、斬られたはずの瞼が完治していた。


「……。」


 ふと、胸元に感じる温もり。重みを伴うそれに目線をやると、自分に覆いかぶさって眠るかなめがいた。


 ひとつに結えた髪が、さらりと黒の装束の上を流れている。こうやって髪を纏めるのは、彼女が気合を入れる時の癖だ。


 体を起こそうと動かした両手は、かなめにがっちりと握られていた。宗也はなす術なく、再度天井を見上げる。


 かなめが突然、がばっと顔を上げた。


「一瞬ねてた…。」


 かなめの視線は目を覚ました宗也と合うことなく、すぐさま彼の襟元へと移った。彼女は宗也が意識を取り戻したことさえ気付かぬまま、流れるように、彼の首筋へと顔をうずめる。体に染み付いた動作だった。


 すぐさま感じる傷の痛み。それをぬる、と絡めとるかなめの舌。小さく漏れ出た宗也の呻き声に、かなめはようやくその瞳を彼のそれへと向けた。


「……宗ちゃん?」

「……なに、してんの?」


 恥じらいより先に代赭の瞳が潤んで、宗也の額にはかなめによる口付けが降り注いだ。そして間髪入れず、宗也の首元に強く、つよく回されたかなめの腕。


「よかった……!!」

「待ってかなめ首…、苦し……。」

「えっ?あっごめん!」


 抱きしめる力が些か緩まっただけで、かなめは宗也から離れなかった。仕方がないのでかなめごとその身を起こす。華奢な体を支えるために手を回した。その手に触れた彼女の呪詛は、服の上からでもその不自然な脈を伝えている。


「蓮沼でね、宗ちゃんを見つけたの。宗ちゃん気を失ってるし、凄く弱ってたし、死んじゃうんじゃないかと思って…。」


 蓮沼で、朱雀という妖から受けた得体の知れない攻撃。瀕死の自分を、彼女は付きっきりで看病してくれた。かなめの隣にある血塗れのサラシが何よりの証拠だ。


 首筋の傷口と、吸い取るように這わせられた唇。宗也の中で、点と点が繋がっていく。


「……もしかしなくても、この術って佳直…カナさん?」


 ちら、と、黒檀の瞳がこちらを見る。かなめはまさか、宗也が確信めいた見当をつけるとは思っていなかった。となれば霊気を送るために口付けを交わし続けたことも、彼は理解しているのだろう。かなめは耳まで赤くして、ぎこちなく目線を逸らしながら、そうだよ、と答える。


「…体なんともないの?」

「えっ?」


 宗也は一緒に照れてくれなかった。

 表情を緩ませることなく、自分の膝の上に乗るかなめを見つめている。


「だってあの人、片目が見えなくなるほど……ねえかなめ怪我は?」


 宗也は慌てて、かなめの襟元へ手をかけて、呪符を押し付けた左肩を露わにした。こういう時、宗也は配慮というものを忘れるのだ。


「待ってそうちゃん、」


 肩口から鎖骨まで、焼け爛れたような痕がある。呪術で負った外傷というものは、下手をすれば一生残る傷跡になってしまう。自分の看病などしている場合ではないだろうに、と、宗也はかなめの傷口へと触れた。


「傷より呪詛の方が酷いね。」


 傷口を取り巻くように畝った呪詛は、かなめの首元まで及んでいて、青痣はより一層濃いものとなっている。


「………宗ちゃ、」

「これ、全身に回ったらかなめは死んじゃうんだよ。」


 分かっているのかと言いたげに、宗也は空いている右手をかなめの背へと滑らせて、呪詛をなぞっていた。どこまで広がっているのか、確かめなければ宗也の気がおさまらない。


 呪詛は服の上からでも、拒むように脈動を強くしていた。それは太腿を余裕で超えて、ふくらはぎを侵し初めている。状況はますます悪くなっていた。そんな状態で、かなめは身を粉にして自分を救ったなんて。宗也は後悔をぶら下げて、目の前のかなめへと目線を合わせた。


「……。」

「……。」


 しかし彼女の表情は、宗也の心に不釣り合いなほど真っ赤で、恥と動揺を隠せないようだった。


「…なに、」


 呟いたところで、宗也はかなめが緩んだ襟元ごと、自身の胸元を隠していることに気付く。


 かなめは今、素肌に薄手の襦袢一枚というあられもない格好なのだ。強く脈打つ呪詛を捉えられていたのは、薄布が畝りを遮らないからだった。


 半ば放心状態の宗也が傷の確認のために襟を広げたせいで、呪詛に侵食されたかなめの肌が暴かれていた。左肩は襟を腕まで落としていて、浮き出た鎖骨に、宗也は滝で出会った前世の彼女の面影を見る。


「……かなめってそんなに痩せてたっけ。」

「そっ……もう…!」


 かなめは身を丸めて、こちらを凝視する宗也の懐へと飛び込んだ。ゼロ距離なら、まじまじと見られることはないと踏んだらしい。かなめの挙動に心がついていかない宗也は、薄布一枚纏っただけの体を、強くつよく抱きしめる。


「……宗ちゃん?」

「………。」


 ぴったりと抱き寄せたかなめの頭。指に引っ掛けてしまった紅の髪飾りを、宗也は静かに解いた。そして彼が大きく息を吐く。


「……そんなつもりは無かった、なんて、加害者の常套句だ。」


 言葉選びはいつも通りでも、小さな子どもみたいに抱きついて離れない宗也。彼の一挙手一投足が、かなめの動きを止めさせる。あからさまに、いつもと様子が違うのだ。


「かなめを、決定的に傷付けたのは俺なんだ。」


 かちこちに固まったかなめは、きっと自分を怖がっているのだろう。そう推測しながらも、宗也はかなめを離さなかった。


 距離を取り、拒絶を滲ませた瞳を向けられるくらいなら、このままかなめを抱きとめていたかった。


「……ずっと、蓮沼に放っておけば良かったのに。」

「…なんてこと言うの!」


 顔を上げたかなめは、言葉を飲み込んでしまう。

 今にも泣き出しそうな宗也に、更なる怒りをぶつけることは出来なかった。


 かなめが言葉を飲んだ一瞬の隙を突いて、宗也はまた幼馴染を懐へと仕舞い込む。


「一番大事な人を殺そうとした奴、ここまでして助ける必要なかったんだよ。」


 とことん沈んだ声音。

 耳を寄せた彼の胸から蟲の羽音にも似た、不可解な雑音が聞こえていた。

 半ば強引に胸へと瞳を向けた。かなめの睫毛は装束の襟元を擦る。装束の黒に溶け込んで、宗也の胸元には、心臓に根を張らんと勢力を伸ばす深淵が見えた。


「宗ちゃ、」

「だってほら、こうしてまた、どうせお前を傷付けるんだよ?」


 まるで知らないひとの声だった。

 彼の口から発せられた、耳元に重く響く言葉の意味を、かなめは身をもって理解する。


「っ!」


 腕を掴まれ、体は強引に反転させられて、かなめはマットレスへと沈められていた。


 自分を組み伏せる宗也の、黒檀色をした瞳。いつもなら涼しい眼差しとともに、ほんの少し、優しい光を帯びる瞳。それが今、艶のない黒に塗りつぶされ、瘴気を反映させていた。


「ねえ、蓮沼で、なにがあったの…?」


 箍が外れていくように。

 どうしようもなく緩んだ思考が、彼女へ向かって牙を剥いていた。それを焚きつける激情は、内腑を重く駆け巡り、宗也の自制心を食らっていった。


「かなめが皇の、俺の、敵に回ってしまうなら……。」


 宗也が蓮沼で浴びた、朱雀の言葉。

 かなめが遠く、手の届かない場所へ行ってしまうのなら、今すぐここに閉じ込めてしまいたかった。どこにもいかないように、自分だけを見ていてくれるように。


「どうしちゃったんだろ、俺……。」


 虚ろに呟かれる言葉。体は次第に、自分ではない誰かに掌握されていくようだった。

 どろどろに溶ける理性が、守りたいものを傷つけようとする。


「………かなめ、お願い、」


 続く言葉は、宗也の矛盾した行動によってかき消されていく。


「いッ、…たい……っ!」

 宗也が、かなめの首筋に荒く噛み付いていた。

「…宗ちゃん!」

 唇は次第に下がり、呪符によって焼け爛れた皮膚を裂く。

「宗ちゃんっ、てば……!」

 何度名前を呼んでも返事など返ってこなかった。掴まれた腕が持ち上がることもない。

 

 彼は喉の奥から、くつくつと笑う。


「お前はいつもこうだね。」

 唇が離れて、彼の瞳がこちらを向いた。

「こうして踏みにじられるんだ。お前が心を寄せた者たちに。」


 その黒檀の中に燻る、朱色。


「……あなた、」

「なあに、僕のこと忘れちゃったの? 僕はお前を忘れたことなんて、一度もないのに。」


 彼の声と重なって聞こえるのは、弦楽器を鳴らしたような声だ。流々と、緊張と不安を掻き立てる笑い声が、彼の部屋へ響いていた。


「……宗ちゃんに何をしたの。」

「ちょっと細工をしただけだよ。……ねえ知ってた?この少年には、人間じゃない血が流れてるよ。だからこうして、今、僕はお前と話ができてる。」


 かなめは夜通し宗也の看病をする中で、彼の体内で幽かに燻る気配が、ひどく懐かしいと思えていた。そして今、自分を見下ろす朱色の瞳。その朱と、かなめは大昔の記憶から、妖の正体を悟り始めていた。数千年の時を超えて、今生に降り立ったのは、自分や紅狐達だけではないようだ。


「別に僕が操ってる訳じゃないよ。僕はこいつの感情に、ちょっと寄り添っただけ。」


 乱れた襟から覗く鬱血痕。彼は冷たく笑って言った。かなめには、尚も宗也と妖が重なって見えている。


「かわいそうに。でもそれがこいつの本性だよ。」

「そんなはずないでしょ……!」


 湧き上がる怒りに任せて、かなめは肩を押さえる妖の手を握りしめた。


「宗ちゃんは、いま、私に、逃げてって言ったんだよ!」


 宗也が制御の利かない体で、かなめの白い肌を裂く前に囁いた言葉。それこそが本心だとかなめは確信していた。


妖は一瞬だけ、冷めた視線を送ってから口角をつり上げた。

「じゃあ逃げてみせなよ。堕ちるだけのこいつから。……逃げた先で、待っててあげる。」


 ふっ、と、揺らめいて消えた妖気。


 急に力が抜けたと思ったら、宗也の体はまた強張って、襦袢ごとかなめを鷲掴んだ。加減なく握り締められた腕に、かなめは思わず顔をしかめる。


「……ゆるしてね。」


 かなめは四肢をばたつかせて、宗也の注意を拡散させた。暴れに暴れて、自分と宗也との間に隙間を作る。隙間で折り曲げた膝をそのまま宗也の鳩尾へと食らわせた。


「ッ!」


 怯んだ宗也の胸ぐらを両手で掴み、彼が横へとふらついた力を利用した。力の流れるままに、咳き込む宗也をなぎ倒して馬乗りになる。ベッドは大きく音を立てて軋んでいた。


 こちらへ伸びる宗也の腕を往なし、その掌を捕まえる。そして冷えた彼の手を自身の頰へと添わせて、かなめは、至極柔らかい声音で言った。


「どうかあなたが、清かな心で満ちますように。」


 宗也の長い前髪をかき上げて、かなめは顕になった宗也の唇へ、自分の唇を重ねた。


 瞬間爆ぜる清らかな霊気。


 二人を中心に巻き起こった清風が、宗也の体内に燻った瘴気を祓い出していく。窓が音を立てて揺れ、次第にひび割れて外へと散った。


 絡めた宗也の指の力が抜けると同時に、部屋の扉が開いた。


「大丈夫?」

「ごめんなさい麻美さん、窓、割っちゃった。」

「それくらい、なんでもないわよ。紀明なんて屋根壊すんだから。」


 くすくすと笑いながら、麻美はかなめへと鬼灯を軽く投げた。鬼灯は緩い弧を描いて、かなめの手中へと収まる。すると指の間から光がこぼれて、肌へ触れた部分から、鬼灯はみるみるうちに紅の装束へと姿を変えていった。


 黒の襦袢に重なった紅は、きめ細やかな花模様に満ちている。長く垂れた袖から覗く籠手に、短く整えられた袴。脚は太腿までを黒の脚絆で覆われていて、帯は紅によく映える、金の丸帯で締められていた。


「っこれ、」

「私が昔着ていたデザインなの。色違いだけどね。」


 優しく笑いながら、玄関に履物があるからね、と付け加えて、麻美は静かに道を空けた。


「あとは私に任せて行ってらっしゃい。」

「…ありがとう麻美さん!」


 かなめは一度、麻美へ抱きついてから、部屋を出て左手にある階段を下りた。階段は軽やかな音を立てていた。下りた先の玄関にあるのは、金の鼻緒の、艶やかな草履だった。かなめはその意匠に感嘆の息さえ漏らしながら、引き戸を開けて駆け出した。

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