第23話 雛(前編)
沼の蓮が生い茂っていた。
青々とした葉は狂気を孕み、何倍もの大きさへと伸びていた。茎は幹のように太く、轟々と沼の水を吸い上げている。
薄桃や薄紫をしていた花弁が、幹や葉につられるように巨大な極彩色の花へと変貌を遂げている。
それが妖の仕業であると、蓮沼へと足を踏み入れたかなめは確信していた。
「思ったより早かったね。」
極彩色の蓮を背に、ひとりの妖が立っている。
凛盟高校の制服だ。半袖のシャツにスラックス、そしてサマーベストを纏っている。右目を隠す黒髪は、緩く吹いた風にびくともしない。
「その様子じゃ、紅狐は出てこられないほど弱ってるんだね。」
静まり返った水面が揺れていた。強い日差しが、妖の足元に陽炎を作る。目眩さえ起こす風景に、かなめの記憶は揺さぶられていた。
「どうせ思い出せないんでしょ、ぼくのこと。」
「…名前なんて、一度も教えてくれなかったでしょう。」
妖の口角がつり上がる。
その黒髪が、流れるような青の長髪へと姿を変えた。朱く染まった毛先はまるで、夕暮れから宵へと移ろう空だ。
「僕ね、朱雀っていうの。はじめまして、かなめちゃん。」
かなめはじっと朱色の瞳を見据えていた。どうして今まで忘れていたのかと、少しの後悔と、罪悪感を抱えて。
それは紅狐と出会う前。
あの国で、度々朱雀を見かけていた。話しかけると、朱雀はいつでも青い髪を梳きながら、屁理屈混じりの憎まれ口を叩いていた。
はじめは鬱陶しそうに誘いを断り続けた朱雀も、いつしか、王宮の中に姿を見せるようになっていた。傭兵や踊り子、女官に文官。人に扮しては、外野による悪手に苛まれる女官へ助言をくれていた。
芋蔓式に、記憶は次々と蘇る。
自分ひとりの政務室。
押しかけた師匠・
殺された方がどんなに楽だっただろうかと嘆いた言葉を、駆けつけた朱雀が聞いていた。
その日を境に、恩師と朱雀が宮中から消えた。
自分以外に、朱雀を知るものはいない。故に朱雀の失踪は一切話題にあがらない。そんな折、恩師の後継は女官だと、戴冠式で国王は言った。
幾度か季節が巡り、国王は妃を連れて来た。彼女を見て、懐かしいと思った。今度こそ、この地に降り立つ存在の、力になろうと決意したのだ。
「一人でどうするつもり?」
朱雀の声で、一気に現実へ引き戻される。
長い前髪から覗く朱色の瞳。朱は煌々とした光を帯びている。挑発的な笑みを浮かべて、弦楽器を掻き鳴らしたような声で言葉を紡ぎ続けた。
「紅狐も、劉伯もあの国も、自分さえ!何一つ守れないで。今だってそうだよ。馬鹿な人間守って、本当に守りたいものを蔑ろにして!」
次第に強まる朱雀の語気。支離滅裂になって降りかかる言葉に、かなめは耳を傾けていた。
「昔からそうだ。誰にも助けてって言えなかったくせに、差し伸べられる手なんかなかったくせに!どうしてそんな奴らのために……!」
「……本当によく見ていたんですね。」
眉を下げて笑うのは、朱雀のよく知る女官。
彼女の手が朱雀の頰へ触れる。びくりと体を震わせて、朱雀は代赭の瞳を見た。
「人は自分より大切なものに出会ってしまうんです。この命など惜しくないと思えるものに。…もちろん貴方も、そのひとりだった。不甲斐ない私は、嫌われてしまったのだと、思っていました。ねえ、朱雀。貴方、体はどこに行ってしまったの?」
嗚咽を堪えて言葉を振り絞る彼女は、その大きな代赭の瞳に、めいいっぱいの涙を溜めている。
朱雀の白い手が、今にも溢れてしまいそうな涙へと伸びた。
突如二人を割いた、一閃の煌めき。
その銀の光が太刀であると瞬時に見切った朱雀が、雫へ触れようとしたその手で、彼女を突き飛ばしていた。
「かなめに触れるな。」
よく知った温もりに抱かれていた。
かなめは驚いて彼を見る。
「っ、なんで!?」
「…もっと他にないの?」
ふわりとかなめを抱き上げた宗也は、どう見ても満身創痍。肩で息をしながら、じっと朱雀を見据えていた。
「…この手の奴と、まともに会話するなって、俺、この間言ったばっか。」
朱雀から目線を外さないまま、宗也はボソリと呟く。彼がどれだけ平静を繕おうとも、荒く吐いた息は彼の努力を無に帰していた。
かなめの返答を待たず、宗也はかなめを自身の背後へと庇って立つ。静かに構えられた白銀の太刀は、薄雲に覆われた空の光を一身に受けていた。
「今のお前に何ができるの?」
「……借りは返すよ。」
宗也は朱雀の懐へ踏み込む。
いつもと変わらない、鋭く速い太刀筋。
しかし宗也の斬撃は、朱雀によって防がれる。
甲高い衝撃音を響かせて、太刀を往なしたのは朱雀の両手に握られている二本の短剣だ。一尺にも満たない小さな刃は、まるで硝子細工のようだ。
「死にかけにしては元気だね。」
「お前もな。」
宗也にとっては想定内。
刀を滑らせると同時に、体術を繰り出していた。
「っ、!」
宗也が朱雀へ触れる。するとその部位は靄のように実体をなくし、空気へ散れていくではないか。
「妖気と瘴気で実体に見せてるだけだ。全て晴らせばお前は消える。」
宗也は真っ向から右腕を突き、そのまま穴だらけになった朱雀の胴を蹴る。引き抜いた切っ先を左の瞳へ突き立てると、朱雀は目を押さえながら後ろへよろめいた。
「…へぇ、やっぱり普通の人間じゃないね。」
笑みを崩さないまま、朱雀は瞬時に間合いを詰める。瞳に食い込む刃の痛みなど感じていないようだった。
「でも術は解けてない。残念だけど、お前、死んじゃうんじゃない?」
朱雀の袖から見えた刃。
白く光ったそれは何重にも重なって、至近距離で宗也を襲う。
「ッ!」
体を極限までしならせても尚、短剣は宗也の喉を捉えて離さない。
危機的状況で、突如感じた強大な妖気。
短剣が真上から地面へ叩きつけられる。
いくつも硝子の割れる音がして、周囲は粉砕された刃で煌めいていた。
「全く幼稚な術をかけてくれましたね。」
地面に降り立つのは音緒だ。彼は即座に朱雀へ斬り込んだ。朱雀は悠々とそれを避けてみせる。刃で引き抜かれた瞳が再生していた。
「あれ、誰も追いつけないようにしてきたのに。」
「子ども騙しが、この僕に効くとでも?」
頰の目がいくつも開いていた。無数の瞳が、威嚇するように朱雀を捕らえる。朱雀はそれを気にも留めずに、体を揺らしてかなめと目を合わせた。
「よかったねぇ、今生はいっぱい助けてもらえる手があって。」
陽炎がゆらりと揺れるように。
かなめの眼前には、口の端を歪ませた朱雀が立っていた。
「でもあいつ、お前の嫌いな劉伯そっくり。独占欲の塊だ。」
瞬きと共に移ろった朱雀の拳が、宗也の鳩尾に埋まる。
「ああ、ちゃんと孵るね。思った通りだ。」
噎せ返った宗也は、朱雀によって一瞬のうちに地面へ伏せられていた。
「宗ちゃん!」
彼の胸元を取り巻くように瘴気が根を張り、宗也を養分として、なにかが育っていた。
「どうして…私、全て祓ったはずなのに…!」
口角を釣り上げたまま、朱雀は続ける。
「種明かしをしようか。あいつの心を現す術なんだよ。僕、化物が生まれるって確信した相手にしか使わないんだ。」
降りかかる槍の切っ先を躱して、朱雀は宗也へ触れた。
「簡単なことだったんだよ、飲み込まれないほどの精神力。それだけだ。あの化け物はお前さえ食い尽くすよ。……ねえ、あんな人間の、何が良いの?」
かなめに向かって、朱雀は首を傾げた。
立ち上がろうとしたかなめの足は、地面に生茂る草によって拘束されていた。朱雀の術だ。畝って伸びた草は、かなめの両手さえ絡めとる。
「ねえ、朱雀、どうしちゃったの?私の知ってる朱雀は、もっと…、」
かなめの叫び声は、腹の底から湧き上がる咆哮へと変わっていく。内側から溢れる清らかな妖気が、かなめの毛先を紅く染めた。
「貴様…体ひとつ散らされただけでは懲りないようだな…!!」
大気さえ揺らす怒号。
怒りに身を任せ、紅狐は腕に絡まる草を引きちぎる。
「ああ、なんだ。まだそんな元気あるんだ。」
至極愉快そうに歪んでいた朱色の瞳が、一瞬で冷めたものへと変化した。
「体ごとき、って、お前もわかってるでしょ。」
朱雀の生白い指先が、空中で円を描く。
「ばいばい紅狐。僕、お前なんて大っ嫌い。」
朱雀が描いた円は、紅狐の下に穴を作った。そこから発生する空間の歪みに、体は容易く吸い込まれて、否、落ちていく。
「かなめ!」
叫ぶ宗也の背に、朱雀の踵が振り下ろされる。地面へ叩き伏せられた宗也は、再度酷く咳き込んだ。
朱雀の目線は瞬時に音緒へと映る。
「残念だったねぇ百目鬼。お前程度じゃ、
真紅の刃が朱雀を襲う。
全てを紙一重で避ける朱雀の、青い髪が風と踊っていた。
宗也の内腑にせりあがるものがあった。
「…ぅ…、ッ…!」
背筋を走った悪寒と共に、彼の口から吐き出されたものは、地面に落ちたと同時に、グシャリと音を立てた。
地面の上で、人間の口からは到底吐き出し得ない大きさの、不完全な生き物がもがいている。割れた殻が張り付く薄い皮膚。その皮膚には、羽毛らしき物体が点々と生えていた。
「がはっ……、!」
宗也の喉は、灼けたような痛みに溢れていた。
その激痛こそ、この生き物が自身の体内から排出されたことの証明だ。
「ほら醜い。」
生え揃わない羽毛が、まだらに皮膚を覆っていた。赤子ほどの大きさで、頭の重いその生き物は、滑る液体に足を取られながらも立ち上がろうと二本の足をばたつかせる。口元は嘴のように鋭く、その瞳は薄皮に覆われたままだった。
宗也の肩を貫く短剣。
朱雀は二本の短剣を一纏めに持って、それを宗也の肩に突き刺していた。
「あいつもひどいよねぇ、自分の都合だけでお前を振り回して、信用なんかこれっぽっちもしてないの。あいつ人間が嫌いなんだよ、昔から。自分だって人間なのにね。だからずっと頼りたくなかったんだって、君のこと。君がいなくてもあいつは生きていけちゃうんだ。あーあ、可哀想なソウヤくん。」
宗也は生白い手を掴み、朱雀の胴へ刃を突き立てた。
「…ぴーぴーうるせえな……。」
宗也は舌打ち混じりに呟いて、刀の柄を強く握り直した。黒檀の瞳が捕らえるのは、もたもたと立ち上がることすらできない未完成の雛。
「……おかげで頭がすっきりしてるよ。」
内なる負の感情を、あの化物は全て抱えて出ていってくれた。
「殺す。かなめの害になるなら、自分でも。」
呪符を縄へ変え、得体の知れない生物へ投げつけた。縄は雛へ巻きついて動きを封じていく。生物は喚きながら地面をのたうち回っていた。雛へ与えた苦痛は宗也へ跳ね返っている。
宗也は太刀を振りかざす。
狙うのは悲鳴をあげる化物だ。
「そうはさせない。」
再び歪む時空。
雛は歪みへ引きずりこまれた。
深淵を湛えたそれが消える瞬間、音緒が宗也を掴んだ。
「っおい音緒、」
「全部連れ戻してきなさい!」
持ち上げきれない体を足で蹴りながら、音緒は宗也を歪みへ押し込んでいく。
「あなたの弱さが撒いた種でしょうが!」
歪みの閉じ目に触れた音緒の足先が、どろりと融けて落ちた。
「ほらね、
融けた右足を浮かせて、音緒は左足のみで立っていた。
尚も構える真紅の槍。朱雀の興味は、消えた宗也から眼前の百目鬼へ移っていた。
「百目鬼って、ひとつだけ核になる目玉があるんでしょ? ねえ、どこ?」
朱色の瞳を爛々と輝かせながら纏わりついていた。音緒は朱雀の心臓めがけて槍を突き出す。朱雀が上へ跳んで避けると、音緒は柄を跳ね上げた。
「もしかして君、あの百目鬼か…!」
音緒は槍へ触れようとする朱雀の手を叩き落とす。痛がる様子もなく、朱雀は腕を組んで口角を釣り上げた。
「きみ、百鬼夜行の一番槍でしょ?」
繰り出される短剣を往なし、音緒は舌打ち混じりに朱雀の腹へ斬り込んだ。霞むばかりで、肉体を斬った感覚は無い。短剣は報復と言わんばかりに身体中の目玉を突いた。ぼろ切れになった上着を放って、音緒は槍を持ち直す。
「君自身が鞘として、君の妖気を餌として、刃は一生を共にするって聞いたよ。…いや、君はその槍に食い尽くされる運命って話だ!」
「…どこまでも捻くれた馬鹿ですね。」
朱雀の瞳が捕らえるのは、音緒の髪で隠れた背中の大きな目玉。
「それが核かぁ!」
嬉々として叫んだ朱雀の短剣が、音緒の背を貫いた。
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