第24話 雛(後編)


 どぼん、と、水へ落とされたみたいだった。


 ゆっくり沈んでいく体。

 水底へたどり着いただろうか、なんて考えたところで、かなめは息ができていることに気づいた。


「……。」


 ゆっくり瞼を開けると、そこに広がるのは暗闇。

 深い深い藍色に、自分だけが白く浮かび上がっている。輪郭は薄く、気を抜けば前後さえわからないこの空間に溶け出してしまいそうだ。閉じた瞼の裏側のような非現実。それが間と呼ばれる場所だ。


 ゆらゆらと揺蕩う体で、かなめは振り返る。

 誰かに呼ばれた気がしたのだ。


「……あなたは?」


 指先に触れたのは、膝に乗るくらいの雛鳥だ。

 かなめの手のひらへ擦り寄る頭。まだ開かない瞳と、臓器の透けて見える体。羽毛の生え揃わない体には、刃の切っ先が掠った傷と、縄で締め付けられた痕がある。

 きっとこの子は、わざわざ私のもとへ逃げてきたのだろう。かなめは雛を優しく撫でてあやした。


 まだらに透けた痛々しい皮膚と羽毛の内側で、とくとくと揺れる心音。そうして触れる体温に、かなめの心が確信した。これは、平熱の低いかなめにとって、一番心地よい温もりの、彼自身であると。


「…自分を傷つけちゃだめなんだよ、宗ちゃん。」


 ひどく痩せていて、身体中の骨が浮き出ている。

 かなめは惨い姿の雛を抱きしめた。


 ああ、やっぱり宗ちゃんだ。

 人より少しだけ高い彼の体温に、目頭が熱くなる。抱きしめていたはずなのに、いつのまにか抱きしめられていた。


 握った羽先が手のひらへと変化するのを感じて、かなめは静かに自分の指を絡めた。かなめの温みに、閉じていた黒檀の瞳が、ゆっくりと開かれた。


「……そうちゃん。」


 かなめの腿へ食い込む鋭いあしの感覚。

 人と雛とを行き来するようなみてくれの体から伝わるのは、宗也が今まで蓋をし続けた感情だ。

 溢れる想いに、かなめは静かに瞳を閉じた。


 耳を打つのは、教室の喧騒。


 与えられた環境に胡座をかいて、受け身の愚痴を零すばかりの生徒達。嫉妬や羨望、品定めの、横暴極まりない言葉達。


 かなめの話もよく出ている。無愛想で綺麗な子。

 この間落し物を拾ってもらったとか、実は笑うと可愛いだとか。交わされる言葉は次第に卑しさを含んでいって、偶然目が合っただけの同級生に、軽蔑の眼差しをくれてしまう。かなめをそんな目で見る奴らと、どう仲良くなれというのだろう。


「……大事で大事で仕方がない。最初は、それだけだったんだ。」

 

 いつからだろう。どろどろと濁った感情に足を取られるようになったのは。

 思い通りにならないなんていうお門違いな苛立ちに気を取られて、自分の心が、わからなくなっていた。


「かなめは誰のものでもない。なのに縛り付けようとして、命までも、奪おうとした。」


 そんな自分が恐ろしかった。彼女のいない世界で、生きられるはずがないのに。


 露わになる彼の本音に、かなめは思うままの言葉を返すほかに選択肢はなかった。


「…私も、宗ちゃんのこと、大事に思ってるよ。」


 昔から下手くそな言葉選びが、この場で急に上達するはずもない。黒檀の瞳は苛立ちを映した。


 天地のないこの場所で、どさ、と音がする。


「俺は結局、同じなんだよ。かなめを食おうとする妖達と。」


 渦巻く感情に抗えず、体の制御が利かない。

 かなめの細い首に食い込んでいく嘴の感覚。苛立つままにかなめを喰む体。


「いいよ。」


 このまま食べて良いと、かなめは呟く。


「何千年もの時を超えてきたくせに、最後は俺に食われて終わる気なの?」


 華奢な腕へ食い込む鋭い爪は皮膚を裂き、肉まで到達していた。


 それでも、かなめは黒檀の瞳を捕らえ続けた。

 今、逃げてしまったら、宗也は二度と戻ってこないと思った。


「宗ちゃんが欲しいっていうならこの力だって、体だって惜しくない。」


 揺らぐ黒檀。

 顔を歪ませて、今にも泣き出しそうな宗也が声を絞り出した。


「欲しいのは力じゃない。かなめはきっと知らないだろうけど、もっとたちの悪い望みなんだよ。自分本位の、ただの欲だ。」


 肩を押さえていた彼の手が、首筋から襟元を辿って、鳩尾まで滑った。古い記憶と重なるそれに、かなめはようやく理解する。


「そのうえ心までも求めてる。俺の中に閉じ込めたいって、誰にも触れさせない深い場所に仕舞っておきたいって、ずっと思ってたんだ。」


 制止しようとしたかなめの手さえも巻き込んで、彼の指先が臍を過ぎ、内腿へ触れて止まった。


「……嫌いになってよ、かなめ。俺のこと突き放して。これ以上かなめを壊す前に、俺が化物になっちゃう前に、いらないって言って。」

 

 宗也の視界を奪ったのは、頭を抱き寄せたかなめの両手だ。


「ごめん。それだけは、絶対に叶えられない。」


 宗也の背中へ添えられるかなめの手。

 黒の装束に混じって皮膚や羽毛の感触がある。


「考えるのは自由なんだよ。それを言葉に、行動に移さなかった宗ちゃんは凄いよ。…私が怖がると思って、黙ってたんでしょ?」


 彼の憂いた指先が、肩の傷へと触れた。

 ひどく脈打つ呪詛と、水膨れのように腫れた傷。指を絡めたかなめの手が、襟を広げてそこへと導いていた。


「あの時ね、宗ちゃんだったらいいやって、思ったの。宗ちゃんに殺されるなら、わたしきっと、本望なの。」


 彼の整った鼻梁を伝って、黒檀の瞳から溢れた涙が、かなめの頰を打つ。


「……ばかなの?」


 しばらく言葉を選んだ宗也だったが、結局口から溢れ出たのは、酷くシンプルな罵倒だ。


「何のために前世の記憶まで持って、ここまで、って、言うんでしょ?だってしょうがないじゃない。他でもない、宗ちゃんの望みなんだから。」

「なんでそんなに甘いかな……!」

「だから、それしかないってば。理由なんて。」


 盛大な宗也のため息が、深い藍色に溶けていく。


「色々考えてた俺が馬鹿みたい……。」

「一周回って私より宗ちゃんの方がよっぽどお馬鹿さんだよ。」

「はぁ?」

「……そういう怒った顔も、泣いてるところも、いっぱい見せて欲しいの。」


 かなめが背中を撫でるたびに艶めいた羽毛。

 深い藍のなか、真白の翼が伸びていく。


 代赭の瞳が今、こんなにも真っ直ぐ自分を見つめている。それだけのことなのに、くすんだ心が嘘のように清められていた。


「へんな人。」

「おたがいさまでしょ?」


 二人で肩を震わせた。次第に共鳴した哄笑が、互いの涙を泣き笑いへと昇華させていく。


「……宗ちゃん、お願いがあるんだけど。」

「なに?」


 かなめは少しだけ首を傾ける。


「あのね、もう、消えちゃったの。」


 首元を差すかなめの細い指。

 宗也は思わずぽかんと口を開けた。抗議どころか消えたそれを願われるとは、思ってもみなかったのだ。


 じっ、と見つめる宗也に、かなめは真っ赤な顔をして、代赭の瞳を四方八方へと泳がせ始める。宗也はとうとう吹き出した。


 羞恥に満ちたかなめが拗ねだすより前に、宗也はかなめの首筋へ唇を這わせた。絡めたかなめの指先が反射的に強張るのを感じて、包み込むように握り返した。一度大きく食んで、彼女の望むまま、白い首筋に紅の花を咲かせた。




 突如、間が蠢いた。


 宗也はかなめを抱きしめたまま身構える。

 揺れ続ける空間に、地を這うような低い声が響いた。そして漂う香の匂い。


「っまさか、」

「社務所の前の祠。あれ、あわいに通じた劉伯の封印だったんだ。」

「…早く言ってよ!!」


 かなめの内側から、一気に湧き上がる妖気。


「出てこないで……!今、見つかるわけにいかないの……!」


 かなめは、表へ出ようとする紅狐を無理矢理押さえつけた。今の紅狐にとって、かなめの体は檻のように感じられた。


「お前まで私を閉じ込めるのか!!」


 かなめだけに聞こえる紅狐の叫び。

 共鳴するように痛む胸を押さえて、かなめはじっと前を見据える。

 視線の向こうに、間違いなく劉伯がいる。


「きさま…!私を裏切り、国を裏切り、紅を私から奪った!貴様は何度殺しても恨みは晴れぬ……!」


 体が痺れるほどの瘴気が二人を襲った。

 間に広がる常闇全てが、劉伯そのものに見えた。


 彼から感じるのは、圧倒的な瘴気と殺意だ。

 黒い影がこちらを向いているのが分かる。深淵を湛えた瑠璃色の瞳。彼が持つ唯一の輪郭だ。


 ふと、大きな翼がかなめを包む。

 宗也は劉伯から放たれる瘴気を翼で遮って、かなめごと旋回した。 


「……俺、あれに似てるのかぁ。」


 宗也は引き気味に、闇と同化した劉伯を見ていた。しかしどこか清々とした面持ちで、真白の翼を悠々と羽ばたかせる。かなめは今更ながら、そんな宗也の風貌を凝視した。


「………似合、ってるね?」

「……その装束もね。」


 真白の翼のなか、宗也はかなめの襟を正した。

 何食わぬ顔で額へと口づけを落とし、宗也は至極真面目な顔で言う。


「絶対に俺から離れないで。…ついでに口も閉じててくれると、助かるんだけど。」


 かなめの返答を待たず、翼の音が響いた。


 一気に開けるかなめの視界。

 深い藍は常闇に飲み込まれ、目を凝らせばそこには塵芥のような有象無象がひしめき合っていた。


 その中央に劉伯がいる。


 耳を寄せていた宗也の胸が、空気を取り込み一気に膨らんだ。

 そしてすぐに、空気は滅多に声を張らない宗也の、よく通る言葉へと変わった。


「全部俺が持ってる。紅狐も、カスガイも。」

「……っ!」


 彼がどこで知り得たのか知らないが、その名前は霞がかった記憶を鮮明にした。日記を次々と捲るように、心に蘇るカスガイの一生。


「……どうして、」


 宗也を見上げる代赭の瞳。壁を感じさせるほど、ひどく澄んだ彼女の眼差し。


「…これであなたも立派な仇敵ですよ。」

「貴女一人に背負わせる訳ないでしょうこんなこと。それに一人じゃどうにかできないって分かったから、ここに来たんじゃないんですか。」


 ぐ、と言葉に詰まるカスガイだった。

 宗也は彼女の言葉を待たず、抱く力を強めて言った。


「かなめとあなたが地続きだっていうなら、俺はどちらも守ります。かなめが大事にしている紅狐のことも。」

「……大した少年ですね。」


 盛大なため息。

 カスガイは悩ましい表情のまま劉伯を見た。


「彼自体は、ほとんど残っていませんね……念だけが、劉伯を動かしている。」


「カスガイ…!許せぬ…、許せぬ…!!私に刃を向けた貴様は……ッ!紅を私から奪った貴様だけはァ……!!」


 劉伯の表情が、ぐしゃりと潰れていく。

 憎悪に満ちたその感情が、瘴気と共鳴して放射線のように拡散された。


「……良かった、俺、ああなる前で。」


 宗也は錫杖を手にして、襲いかかる瘴気を全て反射させていた。一定の間隔で錫杖を鳴らし、間はその金属音を長く響かせている。


「…あいつに文句ぶつけるなら今のうちですよ。」


 宗也は腕の中のカスガイを見て笑う。彼女の怜悧な瞳には、沸沸とした怒りを理性で押さえ込んでいるような、そんな兆しがあったのだ。喜怒哀楽を易々と表現して見せないあたり、周囲と打ち解ける前のかなめを見ているようだった。


「……よくもまあ、何千年も駄々をこねていられますこと。紅を貴方から奪ったですって?私が?勘違いも甚だしい。そもそも紅にうつつを抜かし、国を傾けたのはどこの誰ですか。貴方のお守りをしながら妃として立派につとめた紅を見習いなさいと、何度言えば貴方は理解するのでしょう。…全く、貴方には国王の才能がまるでない。ま、過ぎた話ですけれど。」


 辛辣極まりないカスガイの言葉。宗也は笑いを堪えながらも、錫杖を鳴らす速度を早めていた。


「良いですか、劉伯。どんな経緯があるにしろ、こんなところでいじけている腑抜けた貴方に、あの子を引き渡す訳にはいきません。紅に会いたければ、相応の覚悟をなさい。」

 

 錫杖の音が渦を巻き、中心へ誘うようにと空気の流れが生まれていた。


「…本当に嫌いだったんですか?あの人のこと。」

「……貴方のように、大切な者の為に力を尽くせる人間であれば、言うことはないのですよ。」


 カスガイは悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 砕けたはずの表情さえ、近付き難い印象のある人だった。


「かなめちゃんの前で、もう二度と私の名を呼ばないで。私は所詮記憶に過ぎない。けれどあの子はその境界線を容易く見失うでしょう。」


 彼女の手が、優しく宗也の頭を撫でた。相変わらず子ども扱いを受けている。


「だから貴方は、かなめちゃんと帰ってね。」


 ふっと笑った代赭の瞳が、いつもの柔和な光を帯びる。腕の中にいるのは、急に起こされて、夢と現を行き来するような、蕩けた表情のかなめだった。

 

 錫杖の渦が力を増す。

 かなめと宗也は、常闇を刺す清風と光の中心へ、吸い込まれるようにして間を後にした。

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