第25話 折りえても
目玉を刺した短剣が、蓮沼の水面へと落ちた。
朱雀は水面を打った刃の音を後ろで聞きながら、音緒によって仰向けに倒されていた。
「お前の核は壊したはずなのに…!」
朱雀が背中の目玉を貫いた瞬間、音緒の体がどろりと溶けた。朱雀の手には、確かに核を破壊した手応えがあった。故に百目鬼を仕留めたのだと、口角をつり上げたのも束の間。
己の背後で、液体と化した百目鬼の体が、圧倒的な妖力を持って急速に再生されていく。
「ッ、」
すぐに短剣を翻し、百目鬼の胴を横一線に斬り込む。しかしその太刀筋は見切られていた。鋭く旋回した真紅の槍は、硝子細工のような短剣を、朱雀の手から弾き飛ばした。
がら空きの胴を叩き伏せられ、朱雀は恨めしく百目鬼を見上げていた。彼の上半身には藤色の目玉がいくつも見開いていて、瞳は仄かに紅の光を帯びていた。
「お前、紅様と同等の力を持つ者だったんでしょう。国の守護を務めるほどに。…よくもまあ、ここまで落ちぶれたものですね。」
草の上には、どろどろに溶けた音緒の体が点在していた。人の形を失って、もったりとした滴となっている。
音緒の脇腹や右腕はうまく形成されておらず、皮膚の所々が溶けていた。空間の歪みへ触れた右足も再生していない。槍の柄で朱雀を叩き伏せながら、槍を杖代わりにして体を支えていた。
「…よく言うよ。瘴気から成り成りた下賤な百目鬼が!」
朱雀の妖気が跳ね上がる。瞬時に短剣を繰り出して、音緒の左足へと突き刺した。一瞬の隙をつき、朱雀は音緒の拘束を振り解く。
風に舞う音緒の髪。戦闘の最中に解かれた麦色は、彼がいつもの姿を保てないほどに消耗しきっている証だ。
虚の体から無尽蔵に湧き上がる、狂気に満ちた妖気。朱雀は瞬く間に間合いを詰めて、音緒の頰へ触れる。
「そっか、お前も人間に惚れ込んだって訳。」
頰の目玉を握り潰されると同時に、強い眩暈が音緒を襲う。
「ひとりの人間に拾われて、そこからずっと人の姿で生きてきたんだね。ずいぶん長いごっこ遊びだ。…ねえ、つらくないの?もう二度と会えない人間の、痕跡だけを頼りに生きるなんて。……妖は人になれない。どうしてそれが分からないんだろうね、紅狐も、お前も。」
生白い親指は目玉の裏の頬骨を撫でている。音緒は眉ひとつ動かさず、朱雀を睨みつけていた。藤色の瞳が、燃ゆるような紅へと染まる。呼応して高まるのは、勿論音緒の妖気だ。
「……お前には分からないでしょうね。」
朱雀の脇腹を貫く、真紅の刃。
それは音緒が、最愛のひとから譲り受けたもの。
「百鬼夜行もこの槍も、この瞳や髪の色も…僕を作る全てが、彼女と生きた証だ。だから守る。それだけのこと。」
刃は触れた部分から、朱雀の妖気を吸い取っていた。もがく朱雀の腕を掴み、音緒は至近距離で柄を捻る。槍は音緒と朱雀の妖気を食って、煌々と刃の輝きを強めた。
「っなんだよ、お前の核は、」
「核?…ああ、これですか?」
音緒は舌を出す。真っ赤なそれの中央に、藤色の目玉があった。
朱雀がすぐさまその舌を鷲掴みにする。掌の中で、目玉が弾けて潰れた。滴る赤に、朱雀は口角を歪ませる。
「ねえ、そんなに恋しいなら、お前も死んでみたらどう?」
もう片方の手には短剣が握られていた。
しかしそれは、音緒の右肩を突き刺すより先に弾かれて空中を舞う。煌く刃を掴むのは、音緒の右手だ。
音緒は朱雀を刺したまま、地面へとなぎ倒す。そして朱雀の左の掌と地面を、短剣で貫き固定した。
「百目鬼お前……!」
「ええ、僕は百目鬼ですから、お前のこともよく見えるんですよ。」
朱雀へ馬乗りになって、その喉を片手で握りつぶすように力を込める。
「同じ穴の狢でしょう。お前も、僕も、紅様も。」
暴れる朱雀の右の掌を、真紅の刃が突き刺した。
「ぅ…っ、離せ、この…ッ!」
「
音緒が取り出したのは、皇の呪符。刀や弓に変えて使う代物だ。どさくさに紛れて、音緒は宗也の懐から抜き取っていた。
「ッやめろ!なんだそれ、おい、おいってば…!」
「物理攻撃が効かないなら、こうするしかないでしょう。お前の妖気をこれに吸わせ続けるのも癪ですので。」
音緒は槍を抜いて、自身の中に仕舞い込む。束の間の自由を取り戻した朱雀の掌だったが、すぐに音緒によって拘束された。
「あと僕には、ねおっていう、愛する人間が付けてくれた名前があるので。百目鬼百目鬼と、他の奴らと一緒にしないでもらえます?」
音緒は呪符を朱雀の額へ貼り付ける。
家具の差し押さえをするみたいに、べち、と音を立てる呪符。
それをグリグリ押し付けながら音緒が笑った。すこぶる意地の悪い笑み。覗いた犬歯は、空いている手の肉を噛みちぎり、その血を呪符へ滴らせた。
音緒の血で、呪符が発動する。
朱雀の額から、妖気が急速に吸収され始めた。
「…やだッ!!離せ!離せってば…!!」
呪符は見境なく妖気を吸収していく。音緒は青ざめる朱雀も、溶け出す自分の手も気に留めず、無表情のまま朱雀の動きを封じていた。
「人に化けている力も惜しいでしょう。いい加減元の姿に戻ったらどうです?」
「お前……だっ、て……!」
「ああ可哀想に、無駄口叩く元気もないみたいですねぇ。」
朱雀の妖気が不安定に揺らぐ。ガス欠だ。青髪の毛先や袖口が透け始めていた。
突然、ひび割れる空。
それと共鳴するように、朱雀の右手が砕けた。
「ッ、なんで!」
ひび割れた空から、風が巻き起こっていた。
清く大きな風は、空を覆っていた薄暗い雲を全て吹き飛ばす。その中心にいるのは、翼を広げた少年。音緒は空を見上げてふっと笑った。
「なんで帰ってこられるんだ…!あそこは間だぞ…!」
少年の腕に抱かれた、紅の装束を纏う少女。
金の丸帯が、風になびいて煌めいていた。
「あれはお前の探していた女官じゃない。彼女の記憶を継いだだけの別な人間。そう思っていた方が、きっとお前も楽ですよ。」
砕けた右手に、地面へ貼り付けられた左手。のしかかる音緒で動かない足。何一つ自由にならない体に、朱雀はじたばたと胴を捻る。その姿はまるで駄々っ子だった。
「なんで!お前の弱点は潰したはずなのに!」
「弱点?」
音緒が前髪をかきあげた。その額に浮かぶ、紅い瞳をした目玉。
「そんなものを易々と見せる馬鹿がどこにいるんですか。」
ぽかんと間抜けな顔をしてすぐ、朱雀はありったけの力を込めて叫んだ。
「お前なんかだいっきらいだぁ……!!」
尚も暴れる朱雀の体は、もう人の姿を保っていられない。足先が透けて、砂のように形を崩した。
音緒は朱雀の心臓を強く押して、意地悪く笑う。
「ほら早く変幻を解かないと死にますよ。」
「音緒!やりすぎ!」
スパンと、後頭部に走る衝撃。
恨めしそうにくるりと向けば、かなめがじっとこちらを見ている。隣には翼の消えた宗也がいた。
音緒はため息を吐いて朱雀を指差した。
「貴女も宗も殺されかけたんですよ。どこまで甘いんですか。」
「女の子相手にどこまでやるの?」
その言葉に宗也がぽかんとする。
「は?」
「宗ちゃん気づいてなかったの?」
呆れたように鼻を鳴らすのは音緒だった。
「生物学が神獣に適応されると思ってんですか。」
「でも朱雀、なにか足りない気がするね。」
「妖力と知能と思考力じゃないですか?」
「ちょっと。」
かなめは朱雀の額から呪符を剥がしてちぎる。
左手の短剣を抜いて、ぐしゃぐしゃになった青髪を梳いた。透けていた毛先は夕暮れのような茜を取り戻す。
「ごめんね。朱雀のこと、どうでも良くて忘れてた訳じゃないんだよ。あの夜のことを思い出すのが怖かったの。でもね、もう大丈夫だから。宗ちゃんが大丈夫にしてくれたの。敵じゃないから、もう争わないで。」
かなめへ抱きつこうとする朱雀の手。それは宗也によって止められた。
「かなめを人質に逃げようって魂胆?」
朱雀の生白い手に仕込まれた小さな刃。
朱雀はへらっと笑って宗也を見る。
宗也が返すのは笑みではない。
「……。」
「……。」
蓮沼に鈍い音が響いた。
「宗ちゃん!!」
「手は出してない。」
「そういう問題じゃない!」
ヘトヘトの体に食らったとどめの頭突き。
朱雀は蒸発するように、みるみるうちに小さくなっていった。
残ったのは一羽の鳥。
青く艶めく羽根に長い尾を地面へ垂らして、ぐったりした様子でかなめの腕へ収まっていた。尾には点々と朱色が見える。黄昏が宵へ変わっていく空のようだった。
穏やかな表情で朱雀を撫でるかなめに、宗也は怪訝な顔をする。
「かなめその鳥飼うの?悪趣味だよ。」
「…二人まとめて飼ってあげるよ。」
朱雀はかなめの肩へ乗る。
長い尾はかなめの髪と混じって流れていた。朱雀はその頰をかなめへ寄せた。その表情は憎たらしいほど得意げで、音緒は頰をひきつらせる。
「全くどこまで調子の良い…………。」
ゆらりと朱雀へ近づいて、音緒はその手を伸ばした。しかしその手がどろりと溶ける。音緒の足はもつれて、傷だらけの体がかなめへ降りかかった。
「音緒!?」
どさ、と音を立てたものの体に重みはない。
彼もまた、限界をとうに超えていた。
あっという間に、どろどろに溶けた体は霧散して、音緒はかなめの両手へ収まる程に小さくなっていった。
最終的に残ったのは、どどめ色の球体。
その中央には紅い目が一つだけあって、その下に線を一つ引いたような口らしきものがある。
「笑えば良いでしょう。」
鞠から音緒の声がした。
感じる妖気も彼そのもので、かなめは少しほっとする。大きな紅い目は次第に藤色へと変わっていった。
「……ちょっと宗ちゃん。」
かなめと対照的に、くるりと後ろを向いて肩を震わせた宗也。まるでテーマパークのマスコットみたいな姿に、宗也は次第に声を大にした。大爆笑である。
「……かっこわる。」
ぽつりと呟くのは朱雀。
かなめは左肩に乗る朱雀を嗜めた。
「百鬼夜行の一番槍が聞いて呆れるな。」
「お前も大概でしょう。」
朱雀の長い首から繰り出される嘴。
音緒は攻撃を避けて体当たりした。ぼよんと顔面に直撃する球体に、朱雀は甲高い声で威嚇する。
「人の上で喧嘩しないで!」
顔にかかる朱雀の羽根を撫でながら、音緒を掌に乗せて朱雀から遠ざける。尚もいがみ合う二人に、かなめは宗也へ助けを求める。宗也はやっと笑いが引いたところだ。片腕で腹を抱えて、人差し指で涙を拭っていた。
「俺あんまり犬とか猫とか…鳥も得意じゃないんだけど……。」
宗也はそう言いながら、朱雀の長い首を鷲掴んでかなめの肩から引き剥がした。かなめはもっと丁寧に扱えと注意したが、彼がそれを聞き入れることはなかった。
ふと、かなめは内側から湧き上がる妖気を感じた。そして紅く染まる黒髪と、黄金の光を放つ瞳。
紅狐の瞳は宗也に吊るされている朱雀を捕らえた。
「すっかり毒気を抜かれたな、朱雀。」
「うるさい厚化粧。」
「べつに厚くない。」
「元はといえばお前がカスガイを誑かすからだ!本当ならお前なんかを王宮に入れるわけなかったんだ!」
朱雀は甲高い声で駄々をこねるように羽をばたつかせていた。相変わらず突拍子もなく、滅裂な言葉。紅狐は呆れたように朱雀を眺めている。ちっぽけなその姿に、もはや怒りも湧かないらしかった。
「あいつが寝不足だっただけだ。徹夜明けのあいつはポンコツだからな。」
「分かってるならたっぷり寝た後にするべきだったんだ!」
「お前が放棄した仕事を、あいつが肩代わりしていたんだぞ。」
「僕はやめろって再三言ったからな!!」
周りを置いてけぼりにしながら、二人の会話はしばらく続いた。内容のほとんどが、カスガイについてのことだった。彼女が聞いていようものなら、ため息を吐きながらとっとと仲裁しそうな、些細な口喧嘩だ。
口論の最中、紅狐が大きく咳き込んだ。
その場に膝を折り、その体は宗也に支えられる。
「大丈夫ですか。」
「……あいつの話をしているせいだ。」
融合し、垣根の薄くなった二人。記憶の共有は容易かった。強く思ったせいで流れ込む彼女の記憶は、紅狐の知らないものばかりだ。
「宗お前、あいつのことをどこまで知っている?」
「…始めは女官の端くれで、その後劉伯の教育係になって、恩師亡き後、国の舵取りを少しだけ。それくらいです。」
宗也が抱える紅狐の体は、呪詛による激しい脈動に襲われていた。
「……不思議だったんだ。死際のあいつが、なぜ数千年と言ったのか。」
まるで生まれ変わる周期を知っているかのように、彼女は確信を持って紅狐に告げていた。
「…野坂宗也。お前に頼みがある。」
真っ直ぐに合わせられた黄金の瞳。
荒く息を吐いた紅狐が、黒檀の瞳を見つめて少しだけ笑った。
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