第26話 微睡のなかで(前編)



 蒼空の翼が、ばさりと羽ばたいた。


 大河に沿って広がるのは、強い日差しに包まれた夏の国。河が運ぶ肥沃な土壌は、この国に多くの実りをもたらす、はずだった。


 今年は特に日照り続きで、滔々と流れる大河さえ萎れていた。おかげで土壌は酷く乾いている。ごく僅かな水分を必死に蓄え、やっと伸びた作物はぐったりとその葉を地面へつけていた。


 鳥瞰の視線を少しばかり奥へとやれば、同じく萎びた人の群れがある。王宮の正門前から続く大通りにはバラックがいくつもあって、旅の行商から自国民まで、多様な民族が往来していた。うだるような暑さに、いつ膝が折れてもおかしくない様子だ。その影には、滲むように瘴気が広がっている。


 澄んだ青の羽根先で、朱雀は大河に煌く雫を掠めた。ついでに朱色の尾もばしゃりと水面を打って、高く高く舞い上がる。


 次に羽ばたいた時、それは国中に降り注いだ。


「ひと月振りの雨だ!」

「ひと月できくもんか。もう長いこと雨なんて降ってなかった。チーシャンの井戸が溢れただけだ。」

「なんでも宮仕えの嬢ちゃんが井戸を直したんだと。おかげでなんとか作物が採れてよ、チーシャンの店は大繁盛だ。」

「嬢ちゃんの方が国王様よりよっぽど俺たちのことを想ってくれてるよなあ。」

劉伯りゅうはく様が国王になっちまえば良いんだ。正統なご嫡男さまだって、とっくに証明されただろうに。」

徐伯じょはく様は可哀想だったけどなあ。なにも殺すこたぁなかったろうに。」

「あっ、あれ、あの嬢ちゃんだよ!」

「何、どこだって?」

「ああ、嬢ちゃんったら小さすぎて人と荷物に紛れちまった。」


 霊気に満ちた雫に打たれ、影に潜む瘴気は空を舞う。それを掠めた羽ばたきを、彼らはいい旋風だと喜んだ。


 空を駆る朱雀に、白壁が迫る。


 国の西南に位置する王宮は、堅牢な城壁に守られていた。城壁の正門には民が押し寄せ示威運動に勤しんでいる。国王を名乗るぼけ老人が善政とのたまい世迷言を吐く様は、朱雀から見ても滑稽だった。


 正門を軽々越えて王宮内に入ると、蒼鳥を相生の大樹が出迎える。伸び伸びと枝垂れた青葉が瑞々しく繁っていた。ここへ帰ってやっと、朱雀のつとめが終わるのだ。


 相生の幹の上で、朱雀は決まって人の姿で休息を取っていた。だらりと四肢を投げ出すのなら、人間の体は好都合。国を見て回るのなら翼が便利。山を歩くのなら鋭い爪牙が有利。それだけのこと。どんな形をしようとも、自分には気高く満ちた威厳がある。故に朱雀は見てくれに執着しなかった。その証拠に、風と踊る青髪は艶めき、透き通る白い肌に朱色の瞳はよく映えた。大変麗しいこの姿が見えない人間どもが可哀想だと、朱雀は遠くに聞こえる喧騒へ鼻を鳴らした。


 おもむろに右手をあげる。その白い指先には果実の感触があった。国王でさえ採ってはならぬと言い伝えられた、朱雀の為の潤いだ。これを楽しむためにも、やはり人の姿は良い。踊る心のまま、朱雀は果実へかぶりつく。


 口内に溢れる、甘く豊潤な蜜。鼻に抜ける芳しい香りと、みずみずしい果肉。体内に集めた瘴気を浄化するのは、やはりこの果実でなければならない。


 朱雀は果実の美味さに頷きながら、去りし同胞を想う。彼らは人という脆弱な生物にこの地を明け渡してしまった。おかげで割りを食うのは、日毎に痩せゆくこの国の、最後の砦となった自分だ。朱雀はたったひとりで誰の目にも止まらずに、もう何百年も国の浄化を担っていた。


 そんな朱雀に、呼びかける者がいた。


「そこでは暑いでしょう。」

 ぱっちりした代赭の瞳。びっしり揃った睫毛。

 きっちり結えられた葡萄色の長髪は、彼女が王宮に勤める女官であることを証明していた。


「…お前どうして僕が見えるの。」


 朱雀は人間と関わるべきではないと、細心の注意を払っていた。払っていたのに。


「皆には見えないのですか?」

「お前にも見えないようにしたんだけどなぁ。」


 自分が抜かったのではなく、彼女が軽々と超えてきたのだ。代赭の瞳に宿る清らかな光が、朱雀にそう教えていた。


「何か、お手伝いしましょうか。」


 疲労困憊であることすら見抜かれている。朱雀はため息混じりに、最後のひと口を頬張った。


「ちっぽけなお前に何ができるの。」


 彼女がこれを拒絶と捉えることはない。質問に答えるべく、その小さな掌を差し出した。朱雀は嫌な予感がした。


 彼女がゆっくり両手を握る。


 細いというよりはまだ幼い指の隙間から溢れるのは、彼女と同じくらいに清らかな雫。

 少女はいとも容易く、何もないところから水を出してみせたのだ。

 朱雀はすぐに気付く。彼女こそが町で噂になっていた女官であると。彼女は技術的に井戸を直したのではなく、自分と同じ超自然的な方法で、枯れかけた井戸を復活させていたのだと。


「もう二度とその力を使うな。」

「どうして?」


 首を傾げる少女は王宮の誰よりも若かった。

 女官となる者は幼少期から宮中へ入り、十五年の見習い期間を経て仕官する。しかし彼女は通例よりも数年早くそれを修了していた。


「この力が、人の役に立つのではないのですか?」


 言葉と裏腹な無表情。少女には愛嬌というものが欠落している。育ての親に叩き込まれた完璧な作法が、素直で無垢な本性を匿っていた。


 緩衝材を持ち合わせないこの清かで非凡な少女が、果たして人間に受け入れられるのか。朱雀はすぐに木から降り、しゃがみこんで代赭の瞳を真っ直ぐに見た。


「苦労して手に入れたものじゃなければ大事にしないんだ。人間っていうのは。…利益は特に。」


 青髪が背を流れていく。

 地面を擦る前に、少女は艶めく毛先を掬い上げた。


「だからあなたは見守っているんですね。人が自らの手で道を拓いてゆけるように。」

「お前もきっと、見守る方がいいよ。」

「それでは役に立てないのです。師も…父も、この国を照らすのはお前の才だと、お前が夜明けを連れて来るのだと、笑ってくれたのです。」


 朱雀からこぼれ出た盛大なため息。

 少女はまた首を傾げた。


 朱雀には、彼等がよくのだ。

 生みの親に売られ、育ての親の野心の為にこの王宮へ仕官していること。勤めてまだ日の浅い彼女には既に昇進の話が持ち上がっていること。皮肉にも、養父の野心を満たすだけの才が彼女にあること。


 彼女は己の生い立ちも知らず、養父のような野心も持たず、ただ誠意を尽くし務めを果たさんとしている。眩しいくらいに純粋な心。


 この清純な光は、陰をゆく者の目を潰してしまう。現にいま、そんな輩が出始めている。奴等に巣食う魔がお前へ牙を向けた時、お前が責めるのは、そんな奴等を信じた自分だろう。お前の涙が奴等を潤してしまうことなど、想像もつかないんだろう。

 少女はこのまま、手折られるために生きるのか。


「……?」


 眼前の、性別さえわからない麗人が作る沈黙の終わりを、少女は静かに待つ。手元で掬った青髪の毛先は、艶やかな朱色にっていた。それはまるで暮れゆく空のよう。同じ朱を湛える瞳が悲痛に歪む理由も、その名前さえ、麗人は教えてくれなかった。


 教えてくれなかったけれど、文官や行商人、時には傭兵など、宮中を行き交う人間に扮して様子を見に来るようになった。少女にとってどれほど心強く、嬉しいことか。

 

 朱雀は、初めてひとりの人間に執着した。


 彼女の様子を見に行っては、秘密裏に彼女の災厄を摘んで食った。国ひとつ回って集める瘴気よりもずっと重く、胃もたれがする。

 そして食えば食うほど、朱雀は焦燥に駆られた。


 彼女の、最悪の結末だけが拭えないのだ。何も知らずに、自分を見つけるなり嬉々とした瞳を向ける少女。その光を容易く飲み込む闇こそが、彼女を待ち受ける運命だとでも言うのか。


「………構いすぎたんだ。たかが人間ひとり。」

 呟く声を聞く者は居ない。

 朱雀は相生の樹の上で、夜に体を投げていた。


 朱雀の力は、人間には強すぎる。


 いくら彼女が自分に近い力を持っていても、所詮は人間なのだ。関わり合うべきではなかった。ましてや救おうなどと、考えてはいけなかった。数百年前、全盛期の自分ならまだ成せただろうが、今の自分では、彼女の闇を払ってはやれない。これ程までに歯痒い思いをしたことも、不甲斐ない自分を詰ったことも無い。


 出ていこうと思った。

 降り出した雨に紛れて、日の出と共に起きてしまう彼女に見つからないように。


 その重い足取りを止めたのは、頭によぎる彼女の悲鳴。彼女は朱雀へ一度たりとも弱音も吐かず、助けも乞わなかった。そんな彼女が「助けて」と、名前も知らない自分を呼んでいた。


 ぬかるむ土を踏みつけて、窓を飛び越え蝋燭の消えた廊下を駆けた。冷えた全身で扉を打ち破れば、既に少女は踏み躙られていた。

 少女を組み敷いていた男は、朱雀の顔を見るなり逃げ出した。目撃された事実に怯える程度の、小さな男だった。


 黎明の来る前に、朱雀は初めて人間を殺した。


 彼女が師とも、父とも慕う、痩躯で幸薄顔の男。

 生かしておけば、彼女は自分を貶めた相手さえ救おうとしただろう。ああ、彼女が養父を赦す機会さえ奪ってしまった。


「あの子を傷付けたのは僕だ。」


 驟雨は本降りへと変わっていた。

 雫は蔓延した瘴気に満たされている。膝をつく泥溜まりには死んだ木偶の血が染み込んでいる。


「…僕こそが、あの子の災いだったんだ。」


 衝動に火照った体を打つその雨は、いつしか芯の温さまでも奪っていった。




 胸糞の悪い夢を見た。


 舌打ちを飲み込みながら開いた瞼の先には、思わず「さいあく」と呟く程に忌々しいあの百目鬼の姿があった。お互い、人の姿を保てる程には回復していた。


「いい荒療治だったようで。」


 怪我の功名とでも言うべきか。皇の呪符が、妖気とともに朱雀の中に満ち満ちた瘴気を殆ど吸っていた。狂気じみた妖気が奪われ、元来の朱雀へと戻りつつある。


 音緒はひとまず安堵した。

 この泥酔明けの二日酔いみたいな阿呆の鳥を自分に預けたのは、紅髪の雇主に他ならなかった。頼まれた以上、易々と死なせるわけにもいかないのだ。


「ここは?」


 朱雀が寝転んでいるのは板間だ。右には板張りの廊下が伸びていて、その奥には畳の間が見える。

 左の廊下を挟んだ奥にも部屋があるようだが、その全貌は、すぐ側にある眠りかけの囲炉裏で隠れていた。


「百鬼夜行の菊屋敷。」


 棟梁の百瀬が所有していた、平屋造の公家屋敷。

 いくつもの層で構成されたこの世で、皇の手が及ばない層にある根城だ。朱雀は蓮沼での戦闘後に力尽き、音緒と共にここへ担ぎ込まれていた。どどめ色の球体と首長の鳥を運んだのは馬頭牛頭だった。


「お前達のことは知ってたよ。」

「狂気の沙汰でも噂は耳に入るんですね。」


 音緒は至極どうでも良さそうに返事をして、体を起こした朱雀の顎を掴んだ。


「おい。」


 麦色の前髪に、紅の光が透けていた。音緒は詮索を続ける気だ。抵抗するのも面倒で、朱雀は居心地の悪いまま観念していた。


「お前をはじめ、多くの妖で保たれていた国が妖の排除を決めた。国が揺らぎ、お前は清めきれない瘴気に飲まれていった。狂気の決定打は寵懿ちょういの殺害ですね。」

「寵懿を殺してからの記憶が曖昧なんだ。でもずっと、カスガイに探されてたの、それだけは覚えてる。あいつを想った先に紅狐がいた。…僕、紅狐と喧嘩して体を失くしたんでしょ?」

「お陰で紅様も満身創痍で、お前が暴れた土地はしばらく何者も住めませんでしたよ。」

「とんだ災厄じゃん。」

「お前がそれを言いますか。」


 朱雀の髪が、冷えた床を撫でていた。そして暫時に舌打ちとため息を吐き、眉間の皺ごと音緒の掌へのしかかった。


「やっぱり僕は、人間と関わるべきじゃなかった。僕さえ絡まなければ、あいつは何千年も休まらない魂なんて持たずに済んだ。非業の死だろうと、忘れて生まれ変わってしまえば良かったんだ。」


 音緒は朱雀から手を離した。微かに荒いその所作に、朱雀は否定の色を見る。


「人間は巡るんだ。僕らと違って。かなめは間違いなくカスガイの生まれ変わりだよ。」


 音緒は眉間に皺を寄せて聞いていた。朱雀は反論を覚悟し身構えたものの、すぐに肩の力は抜けていった。音緒がひとつも言い返さない故だった。


 音緒は湧き上がる感情のまま言葉を紡がない。

 変幻自在の百目鬼が人間の姿でいるのだ。ならば理性的であるべきだと、常時自分を律していた。それに小憎たらしい聖獣と口論している時間など無い。


「お前、紅様の耳飾りを知りませんか。」

「……あぁ……。」


 朱色の瞳がよく泳ぎ、最終的に視線は床へと落ちていった。


「べきょべきょにしてぶん投げました…あわいに…。」


 この聖獣は間へ行けないくせに扉を開くことは出来る。音緒は特大のため息を吐いた。


「え、でもあいつの呪いを解くのに要る?」

 朱雀は小首を傾げながら顔を上げた。

「紅様とうつわの融合が始まってしまったので。」

 淡々と答えた音緒と対照的に、朱雀の表情が、たちまちに憤怒へと変わった。


「昔っからそう!やんなくて良いっつってんのに浄化ぼくの手伝いするし!困ってるひとに有金ほとんど配っちゃうし!自分の飯を迷い犬にぜんぶ食わせた日もあった!」

「よっぽど馬鹿じゅんすいなんですね。」

「カスガイはほんとうに変な子だったよ。」

「…それは今も変わってないようですけど。」


 百目鬼は存外素直に話を受け止めるようだ。

 目線を合わせないで呟く音緒に、朱雀はふふふと笑った。

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