第8話 紅沈香(中編)
羞恥によって赤面し、宗也を真正面から叩いたかなめは、怯む彼の隙をついて廊下へ降りた。
宗也の隣でこの光景を眺めていた椿には、一瞬だけ、かなめが、迫る宗也に怯えているように見えた。この二人は、噂に聞くほど相思相愛ではないのかと、椿はひとり思案する。
「紅沈香を寄越せ…‥!」
しかし自分たちを食おうとしている妖に囲まれている今、浮ついた話をしている場合ではない。お前達付き合ってるんじゃないのだとか、松浦お前実は野坂のこと嫌いなのだとか、そんな言葉を飲み込んで、椿は襲い掛かる大蛇の攻撃を避けた。
「紅沈香を隠し持っているのはおまえか?」
大蛇は真っ赤な舌をのぞかせて椿を向く。数メートルある巨体が、じりじりと距離を詰めるが、椿はにべもなく言い放つ。
「操られてるだけあって、頭が悪いな。」
椿の妖気が瞬間的に高まった。
高めた妖気で、鬼の爪は一層固く、鋭くなる。鉤爪のように変形した椿の手が、大口を開けて飛びかかる大蛇を細切れにした。ばらばらになった大蛇の体は、煙のように消えていく。
その煙の中から、手のひらに乗るくらいの小さな白蛇が逃げ出した。取り込んだ瘴気を祓われて、元の姿に戻ったようだ。
「松浦、お前は経験ないと思うけどさ。」
椿は、戦闘に邪魔と判断した上衣を脱ぎ捨てる。ついでに、襲い掛かる獣型の妖を上衣で絡め取ってぶん投げた。
「関守は、妖を殺すことが多いんだ。浄化のしようがないほど堕ちたやつとか、浄化してる余裕がないくらい強い妖とか。…多分関守は、お前の想像よりずっと、命懸けで、血生臭い仕事だよ。だから野坂みたいに、殺す覚悟を持っておくべきだと思う。……人間を守るためには。」
瘴気を纏った獣は、上衣を爪牙で引き裂いた。
そして恨めしそうに、涎を撒き散らして椿へ突進する。椿はその牙を、上へ跳んで軽々と避けた。涎の飛び散った床や壁は、酸をかけたかのように溶けている。
椿は妖の脳天へ踵落としを食らわせて、フギャ、と鳴いた妖を鬼の手で斬った。すると妖の体内に巣食っていた瘴気が打ち祓われて、妖は猪のような形になった。
「…でもお前は、妖のことも守る気でいる。妖のことを、得体の知れない何かじゃなくて、ひとつの生き物として捉えてる。だからこんな術を使うんだろ?…大昔のお前も、そうやってその憑き物を守ろうとしたんだろうな。」
絶え間ない妖達の猛攻を、椿は全て避けている。鬼の血を引く椿は、身体能力がすこぶる高いのだ。人並み外れた動体視力で、妖の攻撃を全て見切り、絶好の隙をついて妖達を浄化する。瞬く間に、気絶した妖達が彼の足元へと積み重なった。
「かっこいいじゃん。」
椿は、足元に転がる猫又をひと撫でする。
かなめには彼が安堵しているように見えた。混血の彼にとって、妖は葬るべき敵ではないのだ。
「そういうとこ、玄宗さんに似てるよ。」
「…ありがとう。」
礼を返すかなめは、妖の攻撃を全て避け、傷を負わされていないはずの椿が、身体中に傷を作っていることに気付いた。
ついでに言えば、彼の背に流れる黒髪が妖の襲来時よりも伸びている。それと、彼の華奢な背中にひとつ、大きな呪いが施されている。かなめは心配そうに、椿と目線を合わせた。
「鹿嶋君それ、」
「鬼の力を制御するための
「…髪伸びてない?」
「容姿が妖力に比例するんだ。」
「傷増えてない?」
「鬼の力を使えば使うほど、内側から破裂する。」
「破裂!?」
「肉体と妖気が釣り合ってないんだと。だから玄宗さんに稽古つけてもらったり、トレーニング考えてもらったりしてんだけどさ。玄宗さんがいない時にやらされる体力強化のトレーニングあるじゃん。あれ、お前が俺の倍こなしてるって聞いて、正直引いたわ。あれ俺キッツイ。」
「宗ちゃんは私の倍だよ。」
「お前らなんなの?」
椿は呑気に胡座をかいている。
かなめがふと当たりを見渡すと、あれほど沢山ひしめき合っていた妖が見当たらない。皆逃げ出したか、椿によって気を失っているかのどちらかだ。
それに加えて、宗也が割れた窓から、外の妖目掛けて浄化の矢を放っている。おかげで三階フロアには、害のある妖が一匹も居ない。
「屋上の祠が活きていれば、校舎を覆う結界は張れる。…けど学校の敷地ぜんぶ覆うもの、ってなったら、関守じゃないと厳しい。」
そう言いながら、宗也はまた弓を引く。矢は彼の霊気で青白く光っていた。
「かなめ、この術すごいね。呪符の形変えちゃったけど継続してる。」
「同じ呪符を使い続ける以上は、効果が続くよ。」
返事をしながら、かなめは漆黒の着物に付いた埃を払って立ち上がった。
「屋上に行って結界を張り直そう。もし祠が壊れていても、私、やり方を知ってる。」
「なら妖は俺が引き受ける。」
「関守の到着まで持ち堪えよう。鹿嶋君はここで少し休んでて。」
「…そうも言ってられない。」
椿の視線は二人に無い。
階段を登ってくる、ひとつの妖気に気を取られているようだ。
かなめも其方へ目を向ける。その妖気は、心なしか椿に似ている気がした。
「鹿嶋君あれってもしかして、」
「………俺の妹。」
椿は大きな鬼の手で自身の顔を覆い、これまた大きなため息をついた。
「あいつ一晩中暴れて、昼にやっと寝たんだよ。」
「妹さんいくつ?」
「小学一年。通えてないけど。」
「…もしかして鹿嶋も今日補講だったの?」
「渚が来いってうるさかったんだよ。じゃなかったらわざわざお前ら宛の伝言なんか伝えに来ない。来てみりゃ
「巡ちゃんっていうんだね。かわいいね。」
「…松浦って危機感ないよな。」
椿は姿勢を低くして身構える。
それと同時に、階段を上がりきった妖気が、爆発的に高まった。
「お兄ちゃん!!紅沈香って、知ってる!?」
嬉々として叫びながら飛び出したのは、まさしく小鬼だ。地面につくほど長い黒髪を振り乱して、四足獣のように駆け回っている。
小鬼の強い瘴気と妖気に、危険と判断した宗也はかなめを守るように前へ出た。その前方で、椿が妹と対峙している。
「巡、お前それどこで知ったの。」
「みんな言ってた!それあるとねぇ、強いんだって!」
「お前はじゅうぶん強いから要らないよ。」
「えへへへへへへじゃあ遊んで!!勝った方が紅沈香もらえるのね!!」
「要らないんだって!」
巡はキャタキャタ笑いながら椿へ飛びかかった。狂気に満ちたその爪は、椿と同じくらいに鋭く、椿以上に速かった。
「ッ、」
「お兄ちゃん知ってる!?紅沈香を取ったらねぇ、りゅうはくのところに持っていくんだって!!そうすると、強くしてくれるんだって!!」
「知らない人と遊んじゃだめなんだよ。」
「えええじゃあやっぱりお兄ちゃん遊んで!」
背中によじ登る巡を、椿は引っ掴んで床へ投げる。しかし巡はぐるりと体を捻らせて、椿の足元に絡みついた。ガジ、と足に噛みついては、滴る血液に声をあげて笑った。
椿は空いている足を軸にして、巡を壁へと蹴り飛ばす。壁に打ちつけられた衝撃に、一度は床に伏せた巡だが、すぐさま椿へと文字通り食ってかかった。兄妹のやり取りは、遊びなどではない。紛れもなく戦闘である。
「鹿嶋そのまま。」
椿の背後から聞こえた宗也の声。
間髪入れずに放たれた矢が、椿の頭部を紙一重でよけて、椿を食らわんと跳躍した巡の口内へ突き刺さった。青白い光を纏った矢は、清らかな風を巻き起こして、巡を数メートル後ろに吹き飛ばす。
宗也はすぐさま次の矢を構え、巡の左肩を射抜く。巡は廊下に倒れ込み、うめき声をあげた。
「
「だっていつまでもそんな瘴気にあてられてたら苦しいでしょ。…楽しそうに見えるけどさぁ。」
「巡、起きてるか。」
「…お兄ちゃん、その人誰?」
矢は巡の中に燻る瘴気を祓って消えた。
巡は琥珀の双眸で辺りを見渡し、不安そうな顔で椿を見上げる。
「お兄ちゃんの友達だよ。痛くしてごめんね。」
宗也はそう言って、首を横に振りかけた椿の肩へ肘を乗せた。牽制である。
椿が渋々頷くと、巡はほっとした表情を見せた。
「ここどこ?後ろにいるのは、誰?」
巡の瞳が、宗也の背後に居るかなめを見つけた。
すると巡は、みるみるうちに瘴気を取り込んで、再度狂気じみた笑みを浮かべた。
「紅沈香みいっけ!!!!!一緒にりゅうはくのとこ行こ!!!!!」
巡が駆け出すのと同時に、椿は巡へ足をかけて転ばせた。その一瞬の隙に、宗也はかなめを担ぎ上げて駆け出す。
「だめだ。隔離。」
「早く結界張らなきゃ。巡ちゃん戻れなくなっちゃう。」
椿は二人へ「助かるわ」と相槌を打ちながら、起きあがろうとする巡の首根っこを掴んで廊下へ伏せさせた。顔面を廊下へ強打した巡は「いたぁい!」と叫びながら、兄の拘束を解こうともがく。
「結界頼んだ。」
「分かった。」
短く答えた宗也は、振り返らずに屋上へ続く階段を駆け上る。階段は紅沈香を狙う妖でひしめき合っていたが、宗也が邪魔になる者を全て斬り伏せた。かなめの術の効果もあって、彼の鋭い太刀筋は妖達から瘴気を祓い、皆の戦意を喪失させていった。
二人が屋上に続く扉の隙間から周囲を覗くと、そこには大型の、獣の姿をした妖が大勢いた。
「紅沈香は何処だァ…。」
「早く劉伯様へお渡しせねば…。」
「気配は近いぞ…何処だ…!」
彼らも例に漏れず、劉伯によって操られている。
「巡ちゃんもそうだったけど、知性の高い妖ほど劉伯に従ってるね。」
「紅狐は?」
「無理矢理寝かせてる。」
「無理矢理?」
「今見つかったら紅沈香どころか、紅狐も持っていかれちゃうよ。」
普段の穏和な顔つきは何処へいったのか、かなめは眉間に皺を寄せていた。宗也は、玄宗を彷彿とさせるほど険しい表情のかなめを横目に、扉の隙間から屋上の状況を窺っていた。
大型の妖が数体、小型の、獣のような妖が十数体。妖たちは屋上の七割を埋めていた。
「劉伯と紅狐ってすごく仲が良かったはずなの。どうしてこうなっちゃったんだっけ…。」
かなめは必死に思い出そうとするが、それを拒絶するかのように、強い頭痛と眩暈に襲われた。よろめくかなめの肩を抱きながら、宗也は十数メートル先の祠を確認する。祠は無傷だ。
「無理して思い出さなくていいよ。…俺が見せてもらった記憶じゃ、紅狐は劉伯に監禁されていて、前世のかなめは紅狐を助けるために謀反を起こして、劉伯に殺された。…でもそのあと、紅狐は劉伯と対立することを選んだ。」
「……そうなの?」
「紅狐が劉伯から逃げ続けているのは、自分が食われない為っていうより、かなめと会いたかったからじゃないのかな。いくら待ってろって言われたからって…紅狐って言いつけを頑なに守るタイプでは無いでしょ?俺の推測だけど。」
「…確かにそうだね。」
「だから単に劉伯と紅狐を再会させても、解決しないと思う。それじゃどっちも死ぬ。」
「劉伯を祓わなきゃいけない。けど今は無理。…私とんでもない約束してたみたい。」
「でも劉伯にはまだ祠から出られる程の力は無いし、祠の周囲にいた妖しか操れてないんだと思う。…それでこの数、っていうのもなかなか手強いんだけど。」
「…祠は多分どこかの山の中だね。街中じゃこんなに集まらないよ。」
「劉伯は紅沈香に溜まった妖気を使えば、封印を破って外に出てこられるのかもしれない。…封じられてるってことは、やったのは関守だと思うんだよね。これ以上は、聞いてみないと分からない。」
「どのみちパパ達が帰ってくるまでは、私たち無理に動いちゃだめだね。」
「…そもそもこれは、かなめひとりでどうにかしちゃダメなんだよ。」
宗也は再度刀を弓矢へと変化させていく。
「なんで約束が、
妖達はまだ二人に気付いていない。宗也が気配を消す術をかけているからだ。宗也は静かに弓を引く。そしてその照準を、空へと定めた。
「光を知らぬ不浄のものよ
元在る場所へ還るがいい。」
青白い光は、雨矢となった。
大型の妖達は一瞬にして瘴気を祓われ、小熊や瓜坊の姿へ変わった。
「かなめ舞える?」
宗也は額の汗を拭いながら問いかける。
弓は呪符で出来ているが、矢を創り出すのは宗也の霊気そのものだ。先程から大量の矢を放っている宗也は、息が上がっていた。
「……。」
かなめは返事をするより先に、祠に触れていた。
そして呟くのは、聞き取ることのできないような、古い言葉の数々だ。
「……。」
祠に、透き通った青の光が満ちていく。
祠から溢れた光は、校舎の外壁を流れるように伝い、外壁に染み込んでいった。校舎そのものを結界に変えたようだ。
「…終わったよ。」
「……俺、今の言葉、聞いたことある気がする。」
「…昔、私と泉で会った時じゃない?」
「…泉?」
「宗ちゃんのこと、泉の中に帰したじゃない。どぼんって。その時じゃないかな。」
宗也は「滝に落ちた時、前世のかなめらしき人物と会った」としか話していない。
落ちた先が泉になっていたことと、宗也がどうやって戻ったかを彼女が知っているということは、あの時宗也があの場所で会ったのは、間違いなく前世のかなめだということ。
それにしても、前世の話をするときのかなめはやたらと聡明な顔つきをしていて、宗也にはまるで別人のように見える。松浦かなめという人物の輪郭が色濃くなったような、それでいて、彼女が薄れてしまうような、言いようのない居心地の悪さが、宗也にはある。
彼女の存在を確かめようと、宗也が手を伸ばす。すると、条件反射のように、かなめが一歩後ずさった。
「っわ、」
「かなめ!?」
かなめは自分が履いていた下駄につまづいて、派手に転んでしまった。
彼女の、足元が隠れるほど長い裾から現れたのは、高さが二十センチもあるような高下駄だ。
「なんか今日、変だなと思ってたんだよね…。」
「俺と目線並んでたもんね…。」
「確かに……。」
「…前世のかなめ、小さかったんだね。」
「えっ?」
「わざわざ裾で隠してるんだから、バレたくなかったんじゃない?」
かなめを助けようとした宗也も巻き添えを食らっていた。もつれるように転んだ二人は、宗也を下敷きにして、かなめが上に覆い被さっていた。
「もう怖くないの?俺のこと。」
至近距離で、宗也を見下ろすかなめの瞳は、もう彼に怯えていなかった。
宗也の、此方を伺うような表情に、かなめは観念して切り出した。
「私多分、前世を思い出すと、無性に人が怖くなるの。宗ちゃんのことだけじゃないの。…思い出そうと思って思い出せるなら良いんだけど、話の流れとか、ちょっとした拍子とか、そういうのじゃないと思い出せないみたいで。ハッキリとした原因は、まだわからないの。」
かなめの言葉に、宗也はひとつ息を吐く。
なんだそういうこと、と呟いた言葉は、かなめの耳に届くことはなかった。
「前世のトラウマじゃない?あんだけ壮絶な終わり方したんだから、一つや二つあってもおかしくないよ。」
そう言いながら、宗也は少し考え込む。
「例えば自分より大きい人が苦手、とか?かなめ、鹿嶋のことは怖がらないから。それか、上から来られるのが怖いとか?俺のこと、今の今まで平気そうだったし。…あとこの間、こうやってても大丈夫だった。」
宗也はかなめの太腿と首筋へ直に触れる。
添い寝のことを思い出したかなめは、宗也の顔面をべち、と平手打ちした。
「宗ちゃんの意地悪。」
「仕返し。」
宗也はかなめごと体を起こす。
「装束解いたら?それじゃ戦いにくいでしょ。」
「…そうだね。」
かなめは宗也に乗っかったまま、装束を解いた。
制服姿に戻ったかなめが、反射で閉じていた目を開けると、宗也が目の前で呆れたように笑っていた。
「かなめって本当危機感ないよねぇ。」
「えっ?」
「普通男の上で着替えなんかしないんだよ。」
「……!」
かなめが振り上げた右手は、宗也の顔面ではなく左手を打った。
宗也の手のひらには装束用の鬼灯が乗っていて、彼は紅の装束を纏ったかなめに「かなめって案外すぐ手が出るよね」と言いながら笑った。
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