第9話 紅沈香(後編)


 小童共から姿を眩ませた音緒は、三つ並んだ掲揚台のひとつを足場にして、校庭の魑魅魍魎を見下ろしていた。

 彼等は皆、かなめが張った結界に行く手を阻まれている。劉伯の洗脳によって、諦めることも許されず、瘴気に狂った体を引き摺って、尚も紅沈香を目指していた。


馬頭めず牛頭ごず。」


 音緒が呟くと、両隣に二匹の妖が現れた。馬頭、牛頭と呼ばれた彼らは、羆を優に超える巨体で器用にポールの上へ立ってみせた。


「よお音緒。」


 音緒の左隣は、馬の頭と人の体を持つ鬼だ。馬頭と呼ばれた彼の、半襦袢のはだけた胸元には、人の頭ほどある数珠が提げられている。左耳につけられた金色の耳飾りと共に、風に揺られてしゃらんと音を立てていた。


「何が起きているんだ?」


 右隣の牛頭は、牛の頭に人の体を持つ鬼だ。黒衣こくえを纏い、馬頭と同じように規格外の数珠を首から提げていた。ぎょろりとした目玉の馬頭とは対照的に、杏仁形の眼で校庭の様子を眺めている。


「劉伯に操られ、紅沈香を奪いにきた連中です。」

「かわいそうに。ああも堕ちてしまったら、自分が何者か思い出せやしないだろう。」


 牛頭の目には、紅沈香奪取という目的を忘れ、共食いに走り始めた連中が映っている。彼は連中へ同情の眼差しをくれつつも、右手に大斧を構えて「紅沈香は無事なのか」と左隣の音緒へ問う。音緒は風に踊る麦色の髪を掻き上げながら、校舎の屋上を指差した。


「あれが紅様のうつわです。前世の記憶を有し、優秀な術の使い手であるようです。」

「一緒にいるあの小僧、皇じゃねえのか。」

「そりゃあ、ここは皇の管轄ですからね。」

「相変わらず面倒なことに首突っ込んでんなぁ。」


 馬頭は呆れた声で続けた。


「しかもあいつら、ひと暴れしたあとだろ。」

「ええ。校庭までは手が回らないでしょうね。」

「それでお前、わざわざ俺達を呼んだのか。全部食えって。」

「健啖家の夕餉に打ってつけでしょ?」

「相変わらず可愛くねえや。こんな瘴気、胃もたれで済む訳がねえだろ。」

「馬頭以外ならね。」


 馬頭は「違いねえ」としゃがれた声で笑って、拳を鳴らして舌なめずりをした。音緒はそれを眺めながら、どこからともなく槍を取り出す。鈍色の雲をかき分けて降り注ぐ西日に照らされるそれは、柄から刀身まで、真紅に染まった妖槍だ。


「ただ、もうじき関守が到着します。」

「捕まると厄介だな。馬頭、迅速且つ行儀良く済ませろよ。」

「ったく飯ぐらいゆっくり食わせろよな!」


 「ははは」と愛想笑いを溢した音緒が、ポールを蹴って降下する。両隣の巨体も地上へ降り立った。三匹の着地は縦揺れを起こし、瘴気にまみれた地面と大気を震わせた。


 着地と同時に、牛頭は大斧を横一線に振るった。豪快な一撃が周囲の妖達を真っ二つにすると、音緒はすかさず槍で強風を巻き起こした。

 浮き上がった妖達を、大口開けた馬頭が待ち構えている。彼はそのまま、鯨がオキアミを食らう時のように、一切合切、空きっ腹へ流し込んでいった。


「不味い!もう一杯!」


 がははと笑う馬頭は口をあんぐりと開けながら、魑魅魍魎へ突っ込んで行く。周囲を丸呑みしては駆け出し、また食らい、あっという間に半数を平らげた。しかし馬頭の腹は満たされない。それどころか当人は「やっぱ走ると腹減るなぁ」と呑気に金色のたてがみを搔きあげている。


「音緒!」


 屋上から小娘の声が降る。音緒は自身に飛び掛かる妖を斬り伏せて、声のする方を見上げた。


「そこに居なさい。食われたくないでしょう。あの馬頭バカ見境ないんですから。」

「聞こえてるぞオイ!」


 そう言われて大人しくしている小娘ではない。

 即座に走り出したかなめと、それを追いかける宗也に苦笑しながら、音緒は真紅の妖槍を振るう。


「貴女に今死なれては困るんですよ。紅沈香を貰うのは僕なので。」


 槍は斬った相手の妖気を奪い、瘴気に満ちた骸を作った。馬頭がすかさず食っていくので、音緒の足元には骸から漏れた瘴気だけが残った。


「おお、良い食いっぷりだなあ。」


 音緒の背後から男の声がした。音緒はぴたりと動きを止め、視線だけをそちらへやる。


「これはまた、お早いお着きで。」

「なんだ。その言い草じゃあ、俺達は見られてた訳だな。」


 僧衣に漆黒の羽織を纏った大柄の中年坊主が、ゆっくり音緒へ近づく。坊主頭を掻きながら百目鬼を見る男こそ、関守にしてかなめの父、玄宗だ。


「椿の奴が、紅沈香がどうのって言ってたな。お前達は……便乗して飯食いに来たってところか。」「ご名答。」


 音緒は淡々と玄宗へ拍手を贈る。真紅の槍はいつのまにか消え失せていた。玄宗は、音緒の緩んだ口元に気づいて「何笑ってんだ」と言う。


「てっきり怒られるかと。殺すなとね。」

「ん?…ああ、かなめか。お前らのは食物連鎖だ。別に止めやしねえよ。なあ、紀明。」


 玄宗の後ろには、もう一人男が立っていた。

 白衣はくえに、坊主と同じ羽織を纏った男。玄宗の相棒にして宗也の父、紀明だ。彼はくるりと辺りを見渡した。その背には、白色で、皇という一文字が書かれている。


「ああ。好きなだけ食わせてやると良い。百鬼夜行の鬼頭おにがしら。」


 紀明は涼しく答えて、懐から取り出した煙草に火をつける。

 皇と相容れない妖集団であることに加えて、目前の百目鬼が事実上の頭領と見抜いておきながらも、さして焦りの色を見せない関守の二人。音緒は「うちに頭は居ませんよ」と白々しく返した。


「お前達を捕らえられた関守は居ないらしいな。」

「捕まえてみます?」

「生憎手柄に興味が無い。」


 尚も駆け回る馬頭を眺めながら、紀明は煙を吐いた。紀明は馬頭そのものではなく、彼の背に織り込まれた大きな紋を見ていた。雨雲混じりの夕焼けに反射するそれは、裏菊と、それを守るように這う蔓が特徴的な紋だ。


「夜の都を闊歩する、蔓裏菊つるうらぎくの妖行列。お前達が通った道は、もれなく浄化されていたはずだ。」


 紀明は牛頭の装束にも蔓裏菊の紋があることを確認する。彼が手にした斧の螺鈿細工は、菊花模様が散りばめられていた。


「百鬼夜行が練り歩かなくなったのは、浄化のすべを持つ人間を失ったからだろう。」


 紀明は確信めいた表情で音緒を見た。その双眸は蛋白石のように多色性を持っている。音緒は余裕綽々だった表情を一変させ、眉間に皺を寄せた。紀明は警戒する百目鬼をよそに悠々と煙草を喫んでいる。


「とりわけを愛でたのはお前だな。」

「…あなた本当に人間ですか。」

「皇をよく知るお前が、それを聞くのか。」


 音緒の返事を待たずに、紀明は己の霊気を大幣へと変えた。彼のように呪符を持たず、己の霊気のみで霊能の仕事をこなす術者はそうそう居ない。


「その目、何処まで何が見えていますか」と音緒が問いかけたが、紀明は大幣を握りながら「お前には劣るさ」と笑った。大幣には幾つも鈴が付いていて、紀明はシャン、シャン、と一定の感覚で打ち鳴らしながら、校庭の中央へと歩みを進めた。


「残念ながら今日は時間が無い。」


 鈴の音が波紋のように広がり、瘴気を打ち祓っていく。その様子を見た牛頭は、大斧を一層強く振るった。心なしか嬉しそうだ。


「懐かしい音色だな。都を清めて回った日々を思い出す。…あれからもう千年以上が経った。」


 牛頭が斬り、馬頭が食らう。残った瘴気を紀明ひとが打ち消している。この光景を懐かしく思うのは、牛頭と馬頭、そして音緒の三匹だ。


「腹は膨れたか。」

「おう。礼を言うぜ、イシモリ。」

「セキモリだ。」

「あ?お前らが守ってるのは石じゃねえのかよ。」

「…だから百鬼夜行は皇に追われるんだな。石は機密事項だ。」

「でもお前は見逃してくれんだろ?」

「次は正装で来ると良い。」

「よく分かったな、百鬼夜行のハレとケ。」

「蔓裏菊の紋が薄い。」

「がはは、何でもお見通しってか!」


 音緒が呆れた顔で馬頭と紀明のやりとりを眺めている。その横で、同じく呆れた顔の玄宗が手印を結び始める。そして玄宗はあっという間に、学校の敷地全てを覆う巨大な結界を張った。


「改めて聞くが、皇と因縁深い百鬼夜行おまえらが、わざわざ何の用だ?」

「…それは、」

「私が説明します…!」


 音緒と玄宗の間に割って入ったのは、紅の装束を纏ったかなめだった。階段を駆け下りて息が上がったかなめは、意を決した表情で玄宗を見上げている。玄宗は、ちょっと見ないうちにガラリと雰囲気の変わった娘にも動じない。


「ようやくお目覚めか。傾国の大妖さんよぉ。」


 じっ、っと自分を見下ろす父に、きょとんとするかなめだった。かなめの背後から「やっぱり知ってたんですね」と声をかけるのは、疲れ切って眠る巡を抱えた椿だ。巡からは瘴気を感じない。椿は無事に妹の浄化を終えていた。


「椿か。巻き込んで悪かったな。」

 かぶりを振る椿の、血塗れの体を見た玄宗が続けて言う。

「お前、渚に背中の呪詛軽くしてもらった方が良いんじゃねえのか。」

「あれ、渚は?てっきり玄宗さんと帰ってくるんだと思ってたんですけど。」

「向こうに残ってる。まだ他に調べるもんがあるらしい。」

「そうですか。」


 いつもは気怠げに話す椿だが、玄宗を前にすると心なしかハキハキしている。かなめは年相応に少年らしく見える椿と、至って平常運転の父とを交互に見た。すっかり説明のタイミングを失っている。


「あの、玄宗さん。」


 遅れてやって来た宗也が「何処から話したらいいのか、あと何処から聞いて良いか分からないんですけど」と言いながら、かなめの背中を押した。宗也の後押しを受けたかなめは、緊張の面持ちで再度玄宗を見上げた。


「私の霊力と、あと憑き物が目覚めました。」

「見りゃ分かる。」

「音緒達は紅狐を守る為に来てくれたの。」

「憑き物を狙った妖達の襲撃があって、憑き物と関係ある封印に異常が起きていることが分かりました。…封印は玄宗さんによるものですか?」


 玄宗は腕を組みながら宗也を見る。


「今この町に残っている封印は、俺達がこの町に赴任した時からあるもんだ。もう何十年も、何百年も前の代物だ。かなめに霊力があることも、憑き物があることも、ついでに前世の記憶があることも、関守は把握していた。…ただ諸々厄介でな。見習おまえにも説明できなんだ。今まで黙っていたことへの謝罪が欲しければするが、要るか?」

「それは別に要らないです。」


 即答する宗也の頭をわしゃわしゃと撫でながら、玄宗はかなめを見る。


「かなめ、蘭子がどうして全国を飛び回っているか分かるか。」


 急に母の名前を出されて、かなめは間抜けな顔で首を傾げた。

 母の蘭子は考古学者で、かなめが物心つく前から発掘調査で家を空けていた。その頻度はすこぶる高く、年に一度会えるかどうか、という程だ。


「お前の憑き物だの前世だの、それを調べて回ってんだよ。」

「……言ってよ!」

「知ってたらお前、ひっついて回っただろうが。蘭子に高校はちゃんと卒業しろって言われたの、忘れたか。」


 最終学歴は中卒だという父に習って進学せずに修行を、と願い出た中学三年の夏。母は諭すようにかなめの両肩に手を置いた。かなめは渋々進学を選び、自宅から一番近い凛盟高校を受験した。偏差値の高い学校ではないので、勉強に時間を割かれないことだけが救いだった。


「お前の性格考えたら、自分で気付くまでそっとしといた方が良いだろうってことになってな。此方もできる範囲で調査をしてきた。が、収穫は多くない。今日のも空振りだった。だから何か思い出した時はすぐに言え。といっても俺も忙しくなる。…宗也、引き続きフォローしてやってくれ。」

「はい。」


 即答する宗也に、玄宗はふっと笑う。

 そしてその分厚い掌を、かなめの肩へ乗せた。


「お前のことは、目覚めた時に困らないように鍛えたつもりだ。……紅狐といったか。こいつの事はそう簡単に食えねえぞ。」


 玄宗の言葉に、かなめは俯いた。黒髪がつむじから紅く染まる。紅狐が表へ出てこようとしているのだ。


「こいつを食う気はない。」


 玄宗を見上げる黄金の瞳は猛獣のよう。彼女と遭遇する場所が場所なら、この圧倒的な眼力と気配に、畏怖さえ覚えるだろう。しかし玄宗には、彼女が決して本調子でないことはすぐに分かった。身の丈にまるで合わない小さな檻に押し込められ、呪詛によって蝕まれ続けているのだ。


「おい、こいつが皇とかいう人間だな。」


 紅狐は宗也と目を合わせて言った。助けを乞うような黄金の瞳に根負けした宗也は、弁明の肩代わりを始めた。


「紅狐は呪いを解いて、早くかなめの体から離れたがっています。紅狐の呪いは恐らく、人の姿であり続けることです。耳のない狐、って、元の姿に戻れないことを指しているんだと思います。」


 人に化けた妖というのは、疲労が限界を超えた時、元の姿に戻ってしまうものだ。しかし憔悴している紅狐が、それでも人の姿を保っていられるのは、彼女自身の力ではないと宗也は推測していた。根拠は、彼女が見せた記憶にある。


 人として生きたいと望んだ紅狐へ、前世のかなめは変幻から作法まで、人として生きるための全てをたたき込んだ。それが国王へ露呈して、紅狐は呪術をかけられた。それは数千年経った今でも解けないまま、紅狐を蝕み続けている。国王のそれが、自分を騙したことへの罪だとするならば、とっくに紅狐を殺していておかしくない。しかし彼は死ぬ間際まで彼女を取り戻さんとしていた。


 ならば考えられるのは、呪いをかけてまで愛する者を側に縛りつけたかったという彼の思惑と、その方法としての呪詛。


「呪いを解けば、本来の姿へ戻るんだと思います。そしてその術者はこの町に眠っています。…かなめの悲願なんです。少し時間をください。」


 渋る玄宗は、相棒を探して校庭を一瞥する。相棒はこちらへゆっくり歩いていた。

 合流した紀明は、じっと紅狐を見つめた後に「いいんじゃないか」と言った。


「この程度、解決出来なきゃこの先やっていけないだろう。」玄宗の言葉も待たず、紀明は「初仕事だな」と呟きながらくるりと背を向けた。玄宗はその背にため息をつく。


「祭りまでになんとかしろ。」

「…あと十日で?」

「出来なきゃ強制的に祓うからな」


 玄宗の分厚い大きな手が、呆然とするかなめと宗也の頭を雑に撫でた。視界を揺さぶられて、思わず目を閉じた二人が次に瞼を開けた時、玄宗の姿はおろか、音緒達までもが姿を消していた。



 その晩、宗也は大神宮の境内にいた。


 境内の左手にある駐車場代わりの空き地は、ひとりで鍛錬をしたり、思考を整理する為によく使っている。今日は後者だ。大神宮と名のつく割にこじんまりした旧懸社は、さざめく木々と濃紺の空に包まれていた。


「あと十日で、どうしたら良いんだよ…。」


 宗也は大きなため息をついた。

 本当ならば、かなめを交えて作戦会議をしたいところだが、彼女は日中の戦闘で消耗していて、見兼ねた宗也が布団へと押し込んできた。玄宗が松浦家にも寺にも居なかったので、かなめは野坂家の客間で眠っている。目覚めた霊力に体が慣れていないことに加えて、紅狐の呪いが思いのほか体力を削るようだ。かなめは始めこそ渋っていたが、五分と経たないうちに夢の世界へ旅立った。


「呪いを解くには、劉伯を祓わなきゃいけない。…封印の場所を突き止めるのが先だな。状態を確認して、俺達だけでは無理だろうから関守にも頼んで…。」


 宗也はぶつくさ言いながら境内の三ノ鳥居の周りをうろうろしている。 


「封印は恐らく何処かの山の中…。山の中っていったって、この町って山だらけだからな…。今日感じた劉伯の気配が分かれば……紅沈香と似たような匂いがしたんだよな…。」


 紅狐と対峙する時、宗也も紅沈香の匂いを嗅ぎ取っていた。香水というよりは香木に近く、気品に満ちた香り。


「…。」


 そうだ、ちょうどこんな匂いだった。落ち着いた香りの中に、花のような華やかさがある。そこまで思考が巡って、宗也はピタリと動きを止めた。


「…は?」


 宗也は三ノ鳥居をくぐって石段を降りていく。途中にある踊り場をひとつ超え、ふたつめの踊り場で勢い余った自身の体を制止した。


 踊り場の隅にある九つの小さな祠。石造りのそれには苔が生していた。その中には地元で作られた狐や七福神など、様々な焼き物が入っている。

 しかしひとつだけ、右から四番目にある、ひときわ苔に覆われた祠は空っぽである。よく見れば、真新しい亀裂が入っていた。


「…でもこれ、内側からの傷じゃない。神宮にも結界は張ってあるのに、気付かれないで壊せる奴って……。」


 宗也は祠の前ですん、と鼻を利かせる。間違いなく匂いはここから香っていた。そして微かに混じる瘴気と妖気。宗也は確信する。この封印こそが劉伯であると。


「今のお前じゃ手に負えないぞ。」


 突然の声。宗也は振り返るより先に真上へと飛んだ。繰り出される刃を避ける為だった。息子相手に容赦なく脇差を振るうのは勿論紀明だ。


「なんだよ急に!」

「声はかけた。」

「ふざけるな!」


 脇差で繰り出された逆袈裟斬りを紙一重で避けて、宗也は紀明の数歩先で着地した。

 宗也は嫌悪の表情さえ浮かべて父を見る。父の双眸は暗闇の中でも薄い光を放っていた。


「それを弄った奴の検討は?」

「まだついてない。」


 ヒュ、と暗闇を裂く紀明の刃。宗也は咄嗟に左へ飛び、袂の呪符を打刀へと変えた。


 降りかかる刃をいなし、宗也は紀明へと斬り込んだ。お互い峰打ちなどという選択はない。宗也はすぐに刃を返し、横一線に振り抜いた。首を落とす気だった。


 紀明は何食わぬ顔で後ろへ引き、数ミリの前髪と、握っていた刀の柄を宗也の鳩尾へとくれてやる。


 宗也の丸まった背へ踵落としを喰らわせて、脇差で打刀を絡め取り、その刃を倒れた宗也の喉元へ振りかぶった。


「ッ!」


 呼吸さえままならない宗也は、顔を横へずらすだけで精一杯だった。間一髪避けた刃は宗也の左頬を掠める。紀明は、踊り場へ突き刺したままの脇差を握ってしゃがみ込んだ。


「まだまだだな。」


 起き上がろうとする宗也を助ける気は毛頭ないらしく、紀明の左手は宗也の胸元へと叩きつけられた。軽い痛みとともに紙切れの音がして、宗也は目線を自身の胸元へとやる。父は見慣れない呪符を寄越したようだ。


「百鬼夜行に紅沈香。そしてこの封印。お前の初仕事は難航する。」


 厚手の和紙に、真紅の文字を施してあるそれは、宗也が普段扱っている代物ではない。怪訝な顔で握った呪符は、手が痺れる程に禍々しい気配を放っている。宗也が呪符に込められたこれを殺気だと理解するまで、そう時間はかからなかった。


「殺せ。引き剥がせないならあの子ごと。」


 呪符越しに見た父の瞳は、酷く冷徹だった。

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