第10話 皇(前編)




 遡ること二日前。玄宗は早朝の澄んだ空気の中、大神宮の麓を歩いていた。

 町の駅から約二キロ離れた小さな温泉街の、古びた旅館や食堂、電気屋や車屋が並ぶ大通りから一本入ると、小川に掛かる橋の先に、石造りの大きな一ノ鳥居が姿を見せる。これを潜らず右に進めば玄宗が住職を務める、数年前に改修したばかりの白壁に囲まれた寺がある。


 玄宗は鳥居の奥、正面の緩やかな石畳を進んだ。数十メートル歩くと、右手に手水と丹塗りのニノ鳥居がある。それを潜って石段を数十段登ると、これまた立派な石造りの三ノ鳥居が参拝者を出迎える。境内を囲む樅木や楓たちは文化財に指定されており、豊かな木々が荘厳な社を守っている。社の向かって左側には神楽殿と白馬舎があって、その向かいには茅の輪が置かれていた。此処が、紀明が宮司を務める大神宮である。


 関守として鍛え抜かれた体を持つ玄宗は、息ひとつ乱さず山頂の社に到着する。社の前、年季の入った賽銭箱の前で、紀明が咥え煙草をしながら待っていた。白く吐かれる煙と、風に乗るジッポのオイルの香り。朝の新鮮な空気が台無しである。


「境内で吸うなっつってんだろ。」

「ここには退火の陣がある。」

「そういう問題じゃねえ。」


 紀明は平然とまた白い煙を吐き出して、七難を優に隠す端正な顔面で、玄宗へ向かって煙草の箱を傾けた。玄宗が顰めっ面を見せたのは、無粋な喫煙もさることながら、彼の薬指に嵌められた結婚指輪の所為だった。


「お前それ付けていく気か。」

「既婚も子持ちも、去年の宗也の試験で割れてるんだ。もういいだろう。」

「相手を探られて困るのはお前だろうが。」

「どうせ靖三せいぞう以外、誰も麻美には辿り着けない。」

嘆願書これ出しに行くんだ。綴さんも穏やかじゃねえと思うぞ。」


 玄宗は相棒の前へ書状を突き出す。紀明はそれを、左の薬指と小指で挟むように受け取った。そして親指と人差し指で支えていた煙草の箱から、玄宗が一本煙草を抜き取るのを確認してその手を引っ込めた。


 二人がこれから出向くのは、皇本部である。

 年に一度、任務の状況報告や生存確認も兼ねた会合が開かれるのだ。この会合の他に、総勢百五十名が一堂に会することはない。その為、全員必ず参加せよと圧をかけられるが、二人は「忙しい」と言って滅多に顔を出さないでいた。


 津々浦々、皇が管理する土地を清く保つ為に、関守せきもりという役職がある。彼らは本部で作成された担当地区表に沿って、各地区、原則一名ずつ配属される。玄宗と紀明は特例として、二名での赴任を許されていた。


 二人の任務地であるこの町は、皇が管理するどの土地よりも瘴気が濃い。たたでさえ霊力を消耗する町の浄化と並行して、他の管轄地区と比にならない量の悪鬼や悪霊の対応をする。この厳しい土地に赴任した関守の消耗は激しく、数年のうちに殉職してしまう。本部は此処を死地と呼んだ。

 しかし二人はこの二十年、町を清く保ち続けている。死地を清める関守の多忙は、麻美に預けられて育ったかなめと宗也を見れば理解に容易い。


 多忙ゆえに断り続けた会合に、今更どうして参加する気になったのかと言えば、玄宗の書状に動機がある。


 二人は赴任後すぐに異常の原因を探った。多忙ゆえ調査には数年の月日を要したが、結果、妖を封じた呪いから、摂理の範疇を超えた瘴気が漏れ出ていることを突き止めた。町の治安維持のためには妖の封印を解き、対処し直さなければならない。これが判明してすぐ、二人は本部へ封印の解放・妖の再封印を提案したが、彼らは首を縦に振らなかった。それから月日が経ち、今、紀明が手にしている書状は三度目の嘆願である。


「もう壊して良いんじゃないのか。」


 紀明はすっかり痺れを切らしていた。


「勝手やって処罰を受けるのは俺達だ。それじゃ本部の思うツボだろ。通せる筋は通す。」

「そうやってちまちま、自力で封印を解いた奴等の対処をして二十年だ。残っているのは、考えなしに封印を破るような三下じゃない。」

「だからまた文字にしたんだろうが。わざわざ会合に顔出す理由が、それ以外にあるかよ。」


 玄宗の、ため息とともに吐かれた煙が空気中へ消えた頃、紀明はその蛋白石のような瞳を相棒へ向けた。


「玄宗お前、作文上手くなったな。」

「作ったのは蘭子らんこだよ。」


 調査報告書や論文をいくつも仕上げる蘭子にとって、原稿用紙五枚相当の嘆願書は朝飯前だった。しかし彼女は今月忙しいようで、今朝がた松浦家のポストに届いた茶封筒にはこの嘆願書と「かなめによろしく」とだけ書かれた一筆箋が入っていた。


 二人は吸殻を指先で燃やし、そのままくるりと後ろを向く。賽銭箱の前で、開手かしわでがてら掌を打ち、塵を落とした。すると空間が波打って、賽銭箱の足元に石造りの階段が現れた。透けて見える賽銭箱を突っ切って、石段を下る。それから二人は辛うじて並び立てる程度の、細く暗い洞窟を進んだ。


 洞窟の中、玄宗はどこからともなく取り出した錫杖で地面を突き始めた。

 シャン、シャン、と、清らかな音と二人分の足音が洞窟へと飽和する中で、玄宗と紀明は合図も無しに声を揃えた。


「我が人生ひとせみことと共に。」


 錫杖の、最後のひと突きが強く洞窟に響いた。

 二人の前には、いつのまにか洞窟の天井と地面を繋ぐほどに長い暗幕が垂れ下がっている。玄宗が鬱陶しそうに分厚いそれを手で避けると、開けた空間に無数の蝋燭の灯りが揺れていた。此処が、決まった手順と漆黒の羽織を鍵として開かれる、皇本部の大広間である。


 大広間の奥には人がひとり入れるくらいの小さな御堂が建てられていて、入り口には紫紺の御簾が垂れ下がっている。その奥には棟梁の霊仙りょうぜんが座って居るとも、がおわすとも言われているが、幹部以外は知る由もない。


 御堂の前に、三人の男が立っていた。

 安斉章太郎あんざいしょうたろう野坂巌のさかいわお猪尾綴いのおつづり。彼らは皇の幹部として、霊仙を支えている。


 幹部の三人が紫紺の御簾へ向く。そして、幹部を含めその場にいた全員が御簾へ向かって傅いた。会合開始の合図である。


「我ら皇。巡る一年ひととせを、葦原之国と御上みかみの御為に。」


 この場に居る全員が唱えると、壁際の蝋燭達は大きく揺れた。分厚く垂れ下がった御簾は沈黙を貫き、中の者が顔を見せることはなかった。


 玄宗と紀明が一足先に立ち上がる。すると、二人の存在に気付いた術者達で大広間が淀めき始めた。


「まだ生きていたのか。」

「あの地に飛ばされるということは、流刑も同じでは無かったか。」

「今更何の用で此処まで来るのだ。」

「死地の穢れが移るわ。」

「ああ、穢らわしい。」


 周囲は二人を見上げながら罵り始める。

 玄宗は至極怠そうに、手にしていた錫杖を波打つ雑言の中へ放り投げた。


 真鍮の錫杖が、甲高い声をあげて群像を割る。

 

 割れた群像は末席の連中だ。彼らは玄宗の反撃を予想していなかったのだろう。立ち上がって錫杖と距離を取るものもいれば、片膝つきながらすくみ上がる者も居た。二人は怯える連中を鼻で笑うこともなく、涼しい顔で開かれた道をゆく。それに安斉章太郎が気付いて、呑気に片手を挙げた。


「やあ、息災で何より。」


 肩まで伸びた白髪を後ろへ流し、薄葉色の着物の上に漆黒の羽織を纏っている。穏やかな顔立ちの中に、猛禽類のような鋭い眼光を秘めていた。


「あら、あんた達が来るなんて珍しいじゃないの。」


 猪尾綴は、齢六十と思えない程に若々しく、美しい出立ちをしている。ロングカールの睫毛をはためかせながら、彼はハイヒールを上品に鳴らして巌の側へと歩みを進めた。玄宗が巌の前へ嘆願書を差し出した故だった。


「数年振りに姿を見せたかと思えば、またこれか。」


 巌は上下黒の袴を纏い、黒染めした髪をきっちり固めた仏頂面で、玄宗を睨んだ。


「必要ないと言っているだろう。」

「妖を壺に封じると見せかけて、あわいへ放っている。禁手でしょう。」

「ただ古い術というだけだ。間へ放った妖は消える。時間が解決するものを、いちいち掘り起こす必要はない。…前回もそう言った。」


 綴は巌の左肩へ肘を置き、嘆願書の表紙を覗いてああ、と察した顔をした。


「あんた達も懲りないわね。あの地の異常は呪いに因らない。あんた達が封印を全部解こうが、悪鬼どもを全部消そうが、清浄化はあり得ないのよ。」

「やってみないと分からないだろう靖三。」

「その名前で呼ぶなっつってんでしょバカアキ!」


 綴は大きなため息と共に前髪を掻き上げた。その横でバカアキが「アンガーマネジメントだな」などと呟いたせいで、綴の眉間の皺は伸びなかった。


「あんた達は禁手の効力が消えるまでの、時間稼ぎを命じられているのよね。誰も土壌改善を頼んだ覚えはないわ。」

「いや、皇の大義名分を果たすにはぴったりだと思うがね。」


 ぽん、と巌の右肩に手を置く章太郎。巌はあからさまに眉間の皺を濃くさせた。そんな拒絶はお構いなしに、章太郎がにこりと笑う。


「全管轄地区の清浄化。あの地を正すことができれば、大きな功績だ。」

「それが不要だと言っている。」

「霊仙は期待しているはずだ。皇初の外様と、野坂随一の術者にね。」

「雑種とうつけにか。」

「はて、血統書付きのうつけに噛まれたのはどこの誰だったかな。」


 笑みを崩さないまま、章太郎は続けた。


「この二人は死地と呼ばれたあの土地を清く保ち続けている。他の連中が数年で死ぬような場所を、だよ。」

「ならば一生掃除をしていろ。」


 巌は話を断ち切るように嘆願書を玄宗へと投げた。

 玄宗が地面へ散らばった書類を拾っている間に、巌は綴と章太郎の手を振り払って人混みに消えてしまった。


「ちょっと章太郎。」

「いやあ、頭が堅くて嫌になっちゃうねえ。」

「あんた、この子らの師匠ならもっとちゃんとなさいよ。」


 綴は章太郎の背中を叩く。玄宗は「この子って歳でもないんですが」と坊主頭を掻いた。紀明は一連のやり取りにさして興味が無いらしく、五年振りに訪れた皇本部の大広間をぐるりと眺めていた。


「それで?わざわざ嘆願書を持ってきたってことは、五年前とは状況が変わったってことでしょう。何があったの?」

「靖三には教えられないな。」

「あんたそれが目上にものを頼む態度?」


 綴の長い手指が、紀明の顔面を鷲掴んだ。


「公平に話聞いてやろうって言ってんのよ。」

「聞いた上で反対するのが、靖三の常套手段だ。」

「どうせなら正当に棄却されなさいな。」


 玄宗は、ギチギチに掴まれておきながら平然と会話を続ける紀明を横目に見ながら、綴へ嘆願書の最後の頁を差し出した。


「あの町で眠るだくの一覧です。」


 濁とは、皇が独自に定める規定のひとつである。管轄地区において、無害な妖をせい、人間に危害を加える恐れがある妖をちゅう、既に人間へ被害を及ぼしている妖をだくと区別している。濁と判定された妖には、実力行使による排除が認められている。


「至急案件の奴等と面子が重なるわね。」

「こいつらの対応の為にも、封印を弄る許可が欲しい。」

「……やっぱり嫌よ。」


 綴は紀明の顔面から手を離して、腕組みをした。


「あんた達はこれを取っ掛かりに、町にある呪術全て直す気でいるでしょう。そんなことさせられないわ。どれだけやっかまれていようが、あんた達は優秀なんですもの。人手が足りない今、あんた達を失うのは此方も困る。」


 綴は二人の功績を認めている。

 認めた上で、幹部として保守的な意見を見せた。

 

「あの町でどれだけ多くの関守が死んだか…玄宗、あんたの寺に墓が山ほど並んでるんだから分かるわよね。……章太郎。ニコニコ聞いていないで何か言いなさいよ。大事な婿でしょう。」


 章太郎は蘭子の父である。玄宗が綴のいうように婿贔屓で甘やかされているかといえば、章太郎の命令で死地に赴任している経緯があるのでなんとも言えなかった。


「玄宗は出来もしないことを言い出すほど馬鹿じゃないよ。」

「あんた師匠のくせに放任すぎるのよ。」

「自分は弟子を取らないのに、綴ちゃんは過保護だねぇ。」

「アンタもひとり亡くしてみなさい。そしたら分かるわよ。」

「あいにく生きている者のほうが少ないよ。」


 綴は敗北めいた溜め息を吐いた。


「あんた達は死地で運良く生き残ってるのよ。だったらわざわざ死に急ぐようなこと、しなくてもいいじゃないの。」

「何処の関守にも、明日の保証は無い。」


 そう言いながら紀明は、綴の前に左手を掲げた。

「あんたってば……!」

 綴は歓喜の表情を浮かべて指輪と紀明とを交互に見る。


「あの町で、明日を生きる者が居る。」

「……。」

「……。」

「……濁以外の封印には手を出さないって、約束できる?」

「できない。」

「じゃあ駄目よ馬鹿!」


 綴は目頭を押さえて「やっと一人前になったかと思ったら!このバカアキ!!」と言いながら猪尾家の集団へ消えてしまった。


「惜しかったねぇバカアキ。」

「靖三に嘘はつけない。」

「おや?嘆願書の頁はまだあるんじゃないのかい?」

「黙秘と虚偽は違う。…これは師匠の教えだ。」

「食わせものの師匠が居たもんだ。」


 紀明は「どの口が」と笑いながら、大広間の隅へと歩き始めた。交渉決裂と見て、さっさと帰るつもりのようだ。相棒を追うべく踵を浮かせた玄宗の右肩へ、章太郎の左肘がのしかかった。


「宮様に会いに行きなさい。」

「宮様に?」

「頼みごとがあるそうだ。」

「…交換条件にしちゃ、こっちの案件がでかくないですか。」

「彼の頼みが些細だったことがあるかい?」


 雑な耳打ちを終えて、師匠は背筋を伸ばして手を振った。

 玄宗と紀明は御簾に背を向けて人混みを進んでいく。御簾から離れるほど、談笑による喧騒が広がっていた。


 玄宗は懐の呪符を錫杖へと変え、迫る石壁の前でそれを地面へ突き立てた。

 ゆらりと陽炎のように大広間を後にする二人。そばに居た安斉家の数名だけが、彼らに別れの挨拶を投げかけた。


「有名税みたいなものだな。」


 最初に通った階段が見え始めた頃、紀明が呟いた。

 玄宗は溜め息を吐きながら、埃を払うような仕草をする。すると羽織から煙が立ち昇って、玄宗の周囲に漂った。これは出発前に吸った煙草だ。玄宗は、相棒が傾けた煙草が呪術であることを見抜いていた。

 紀明は自分の煙をくるくると人差し指で巻いて玄宗へ見せる。玄宗は顰めっ面をした。


「野坂はやることが中途半端だ。昔から。」

「貸せ。祓ってやる。」

「返してやればいいものを。」

「綴さんも言ってただろ。人手不足なんだよ。」

「優しいなぁ玄宗は。」


 涼しい顔で、紀明は煙草に火を付ける。玄宗による、本日二度目の「境内で吸うなっつってんだろ」が飛び出したことは言うまでもない。


 

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