第7話 紅沈香(前編)
放課後、湯川柚愛は意気揚々と窓際の席へと歩みを進めた。目指すは松浦かなめである。
「かなめちゃん一緒に帰、居ない!」
ホームルームが終わってからまだ五分と経っていないのに、彼女の席はすっかり片付けられていた。
「かなめなら、野坂君と補講だよ。」
後ろから声をかけるのは須藤百華だ。
柚愛はあらそうなの?と呑気な相槌を打つ。
「一緒に帰ろうと思ったのになぁ。」
「今日、二人とも遅刻したでしょ。吾妻先生の授業だから、逃がしてもらえないみたい。」
柚愛は百華をじっと見る。
「須藤さん、なんか雰囲気優しくなったね。」
「……肩の力が抜けただけだよ。」
「……なるほどね!確かに今朝まで肩に、」
「ちょっとやめてよ怪談話!」
百華は自身の両耳を塞ぎながら、柚愛と距離を取った。柚愛はにんまり口角を上げて、逃げる百華を捕まえる。
「一緒に帰ろ。ひと雨降りそうだしさ。」
「確かに今日天気悪いよね。」
「…。」
「…なに?」
「…肩に憑いてただけあるなあって思って。」
「やめてって言ったのに!」
「ごめんごめん冗談!帰ろ!」
半泣きの百華の肩を抱きながら、柚愛は足早に教室を後にした。
時を同じくして、三階。空き教室付近。
補講に向かうかなめを、
「
「吾妻先生が?」
「玄宗さんから急ぎの依頼がどうとか。」
かなめのぽけっとした顔に、椿は首を傾げた。
「お前もしかして知らない?」
「なんの話?」
「……なんでもない。補講は中止。それだけ伝えに来たんだ。」
黒の長袖に制服の半袖シャツを羽織った椿はくるりと踵を返す。釈然としないかなめは、彼の背中へ問いかけた。
「パパからの依頼って?」
「渚の専門分野だよ。」
「社会科?」
「……。」
椿は呆れたような、困ったような、なんとも言えない顔をした。その表情に、かなめは見当違いを自覚する。
「玄宗さんが戻ったら自分で聞けよ。状況は伝えてあるし、多分すぐ戻る。」
「町の状況を?」
「
「…私のことも?」
かなめはいま、町で起こっている問題の元凶だ。
町の守護者とも言える玄宗への負い目が、かなめにはある。
八の字眉のかなめにつられたのか、椿も眉間の皺を伸ばして答えた。
「お前のこと話す前に通話が切れた。だからそうだな…瘴気が濃いことと、今朝から妖たちが
「紅沈香?」
かなめには聞き覚えのある言葉だった。
「特徴を聞く限り、昨日お前が憑き物と喋ってた時のだと思うんだけど…。」
椿は、かなめの首元ですんと鼻を利かせる。
間近で見る椿は、案外可愛らしい顔つきをしていた。大きな一重に琥珀色の瞳。赤茶色の髪は、廊下から差し込む光に照っている。
そんな椿が、眉を顰めて首を傾げた。
「野坂の匂いで上書きされてて分かんない。」
「……昨日、宗ちゃんのベッド取っちゃったから、そのせいだよ。」
椿は「ああそう」と言って、かなめの首筋を指で突いた。そこには宗也による鬱血痕があって、かなめは大層気まずそうに目線を逸らす。
急に、かなめの体が後ろに引っ張られた。
「鹿嶋は混血だから鼻が利くんだよ。普通の生徒には分からないから安心しな。」
椿は宗也と目が合うと、大層気怠げに降参のポーズを取りながら数歩下がった。
「俺もかなめのことは話してないよ。…母さんから話がいってる可能性はあるけど。」
何か言いかけたかなめの唇へ、宗也は人差し指をあてがう。かなめが馬鹿正直に口を噤むので、少々強引に話題を移した。
「紅沈香の心当たり、かなめはあるの?」
「…うーん……。」
かなめは少し上を向きながら、眉間に皺を寄せて考え混み始めた。手がかりを掴もうと、前世の記憶を辿るつもりのようだ。
しばらくの沈黙のあと、かなめはゆっくり瞬きをした。
「あの子、霊木と金細工で出来た耳飾りしてるの。それが紅狐の妖気を取り込んで、香木みたいに香るの。だから紅沈香って呼ぶんだよ。」
前世の彼女を彷彿とさせる、凛とした表情。
宗也は思わず密着していた体を離した。
「
かなめは宗也と視線が合うと、至極申し訳なさそうに眉を下げた。
「私、知識はあっても経験がないから駄目だね。」
かなめは悪霊一匹に全力を出して、易々と気絶したことを恥じているようだ。宗也は日中の、百華を救ったかなめを思い返しながら、首を横に振った。
「かなめ、知識があるだけじゃ出来ないはずの術を使ってた。…玄宗さんが鍛えた成果なのか、前世の記憶を引き継いで出来たことなのか、どっちかは分からない。」
「前世の?」
「夜中に一回起きた時、平然と難しい術を使ってたから。」
「…どっちもあるだろうな。」
二人のやりとりを聞いていた椿は、口元に手を当てながら言った。
「俺が真っ先に松浦のことを伝えなかったのは、玄宗さんは既に憑き物のことを知ってると思ったからだよ。」
「どうして?」
「…目覚めた時の為だ、って言ってたんだ。松浦のこと鍛えてる理由。」
「単純にかなめの霊力の話じゃないの?」
「……松浦は俺の倍近く修行やらされてるって、気付いてないだろ。」
椿はかなめを見やる。
かなめは後ろに立つ宗也へ視線を移す。
宗也は代赭色の瞳を見下ろしながら苦笑した。
「鹿嶋が玄宗さんに稽古つけてもらってて、俺がたまに混じってる感じかな。」
「……。」
「野坂の師匠はあくまで紀明さんだから、ほんとにたまにだぞ。」
「…鹿嶋、かなめがむくれてる理由、そこじゃないと思うよ。」
「……次からお前も来りゃ良いじゃん。もう霊力あるんだろ。」
「………そうする。」
話戻すけど、と、椿はため息混じりに言う。
「霊力が目覚めることは大前提。その後で、元の知識が活かせるような体を作ってた、ってとこだろうな。出るかわからないような芽を育てる時間が、関守にあるとは思えない。」
「…もうちょっと直接的なフォローしてあげて鹿嶋。」
「………俺はあくまでサブ。お前はちゃんと期待されてんだよ。これで満足か?」
「最後で台無し。」
「めんどくせえ甘やかし方すんな。」
椿は舌打ち混じりに踵を返す。
「
「…そうだね、紅狐の大事なものだから、他の誰かには渡せない。」
かなめはふと立ち止まる。
「……あれ、耳飾りって……誰から贈られたんだっけ……。」
考え込むかなめは、つま先を床に打つ。
トン、トン、と、リズムに混じる不吉な音。
椿と宗也はほとんど同時に窓を見た。
「そうだ、
かなめが呟いた瞬間、ガラスの割れる衝撃音が響き、百を超える妖の群れが押し寄せた。
「いたぞォ!」
「紅沈香だぁ!」
「耳のない狐はここにいるぞォ!」
派手な音を立てて崩れたのは窓だけでない。
昨日宗也が貼り直した結界も、瘴気で凶暴化した妖によって壊されていた。
「あーあ。人の苦労が台無しだよ。」
宗也は瞬時に三つ鬼灯を破る。かなめと椿、そして自分へ放ると、鬼灯は戦闘用の装束へと姿を変えた。
「俺の分は要らないって、」
「割れた窓のそばに不良がいたら、あとあと面倒になるでしょ。」
装束を纏うと、霊力のないものから姿を隠すことができる。悪い噂を立てられずに妖の対処が可能になるのだ。漆黒の羽織と袴を纏った二人の出立ちは、まるで剣豪のようだ。
宗也は手に打刀を持ち、飛びかかる妖を峰打ちにしながら、視線をかなめへやる。
「…かなめ?」
かなめに投げた鬼灯は、漆黒の装束へと姿を変えていた。それは宗也達とは違う、前世の彼女が纏っていたであろうもの。
射干玉の黒髪が風と踊り、彼女の瞼が開かれる。
「やはりこの町に居るのですね、劉伯。…妖を嗾しかけたということは、貴方自身は動けない。大方、封じ込められているのでしょう。」
彼女は妖の群れを一瞥し、澄んだ眼差し一つで妖の動きを制止した。
「この町から離れなさい。欲に目を眩ませて、良いように使われては駄目。」
諭すような、優しい声だった。
彼女は代赭の瞳を椿と宗也へ向けて、少しばかり微笑んで言った。
「刀を貸していただけますか。…君は手を。」
彼女は左手で宗也の打刀を受け取り、右手で椿の両手に触れた。
彼女が小さく呪詛を呟くと、彼女の両手が青白く光った。その光は打刀と、椿の手へと伝播する。
「術をかけました。貴方達が手を汚さずに済むように。…とくに
「へえ、驚いた。命を奪わず、内に巣食う瘴気のみを祓う術でしょう。人間で扱える者がいたんですね。」
気付けば、音緒が割れた窓を足場に、こちらを見物していた。
「
「…今の貴女のほうが、よっぽど賢そうですね。」
「……私がこうして術を使えるのは、かなめちゃんの鍛錬あってのことです。」
「早く引っ込んだ方がいいですよ。座標が割れます。」
「……
彼女がその場に倒れ込むのと同時に、音緒は槍を旋回させた。
近くにいた妖は皆、槍が起こした旋風に吹き飛ばされた。
「おい松浦しっかりしろ!」
最も近くにいた椿がかなめの体を抱きとめ、宗也は臨戦体制を取る。
「宗、普段通り、殺すつもりでどうぞ。」
「馴れ馴れしく呼ぶな。」
宗也は飛びかかる妖を逆袈裟斬りにした。
斬った方向に吹き飛んだ妖の体内から、一瞬で瘴気が消えた。斬られた妖はきょとんとした顔で着地し、脱兎の如く逃げ出した。
宗也は次々に妖を斬り、瘴気を祓った。
廊下を埋め尽くしていた妖達は次々と理性を取り戻し、その場から逃げていく。
宗也が視界の端に見たかなめは、未だに意識を取り戻さないでいた。
かなめを抱える椿は、扉より大きな体躯の妖と対峙している。
「寄越せ、よこせ…紅沈香はおれのものだァ!」
妖の爪が振りかざされた瞬間、椿はかなめを抱えたまま横へと跳んだ。
窓の枠を足場にして、空中でかなめごと体を反転させる。
妖の背後を取った椿の爪が、まるで鉤爪のように、妖の首へと鋭く振り下ろされた。妖の大きな体が床に叩きつけられ、廊下はぐらりと揺れる。
他の妖達が揺れに気を取られている隙に、宗也は次々と妖を浄化した。
「おい野坂、眠り姫返す。」
「……。」
「……なんだよ。」
「意外だなあと思って。」
宗也は椿からかなめを受け取る。
妖気を感じる椿の手は、人間のものより大きく、鬼の手と呼ぶに相応しい形をしていた。
両手が空いた椿は、鬱陶しそうに自分の髪を括り始める。彼の赤茶の髪は黒く染まり、短かった襟足は肩につくほど伸びていた。
鬼の手で器用に髪を括った椿の額には、一寸程度の赤い角が二本生えている。宗也はかなめを抱えなおしながら、興味深そうに一連の動作を見ていた。
「なんで皇って混血ダメなんだろうね。」
「得体の知れないもんは誰でもよく思わないんだよ。」
「皇自体、得体が知れないのにね。」
「…言えてる。」
二人は辺りを見渡す。
「さっきの百目鬼は何処だ?」
「知らない。」
「……仲間じゃないの。」
「……同じ鬼なら鹿嶋のほうが良いなぁ。」
「一緒にすんな。あいつ相当強いよ。」
「そこが尚更嫌い。」
呆れたような椿のため息。
宗也は乾いた笑みをこぼして、近づく妖を返り討ちにした。
「…かなめ、いい加減起きて欲しいんだけど。」
霊力が弱まっているわけでもなく、苦痛の表情を浮かべるでもないかなめを覗き込みながら、宗也はかなめの体を揺する。
「強引にスイッチ切り替えた、みたいな感じなのかな。」
「憑依の経験無いから分かんないよ。」
「俺も無いからなぁ……かなめ、起きないとちゅーしちゃうよ。」
「……。」
「……。」
「……。」
「……起きたな。」
「わあよかった。」
首筋の鬱血痕を上書きするかのように、宗也は唇を這わせる。顔を離した瞬間に、耳まで赤いかなめの平手打ちを真正面から食らうとも知らずに。
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