第6話 回向返照(後編)
昼食は、音緒と女子生徒を中心に進んでいた。
音緒は卵サンドを頬張りながら、適当に会話を続けている。
ここから少し遠い町の出身で、麦色の髪は異国の血が入っている故で、そんな両親の仕事の都合があって、高校は母方の祖母の家から通うことになったんです。白々しい嘘だった。
会話に参加しない宗也を心配して、皆の手が止まる。彼の前には弁当箱すらない。
実は遅めの朝食を、登校直前までかかって、やっと平らげたところだった。宗也は食が細いわけではないが、気分次第で食事量に差があった。今朝の宗也には、昨日の疲労感と、夜中の満足感とが入り混じり、その体に食事が入るスペースなどなかった。
皆の視線に気づいた宗也は苦笑する。
「ごめん考え事。なんだっけ。」
「考え事って?私で良ければ相談にのるよ。」
須藤百華だ。小学生の頃から今まで、かなめに散々当たり散らした人物だ。宗也はじっと彼女を見た。宗也は彼女へある違和感を覚える。
「幼馴染のことなんだけど。」
「松浦さん?私達とあんまり話してくれないからなあ。」
「……話してくれないから?」
「松浦さんってずっと勉強してるし。話すとしても野坂君とだけでしょ?」
かなめに非があると言いたげな表情。その瞳にちらつく敵意。
「須藤さんって昔かなめと仲良くなかったっけ。」
「小学生の、しかも低学年の時でしょ?みんなと仲よかったよ。」
鬱陶しい喧騒の中、あくまで善人を貫く彼女に、宗也は煽るようにして満面の笑みを貼り付けた。
「俺と仲よかったっけ。」
皆の箸が止まる。
宗也の冷笑が、少女達の言葉すら奪っていた。
凍てついた空気の中、音緒だけが心底どうでも良さそうに最後の一口を頬張っている。
その静寂を破るように教室の引き戸が開いた。
「なんで起こしてくれなかったの宗ちゃん!」
かなめだ。もつれた足で宗也へ詰め寄った。
神社そばの野坂家から学校まで走り、とどめと言わんばかりに三階分の階段を駆け上がったせいで、かなめの足は悲鳴をあげていた。よろめく体を宗也が支えている。
「だってかなめ何回呼んでも起きないから。」
「起きるまで起こしてよ……。」
宗也の肩へ頭を預けているかなめは、彼の目線が須藤百華にあることを知らない。勝ち誇ったような、満足そうな顔をして、宗也はさらりと流れるかなめの黒髪を手櫛で整えた。
「どうしたのこの髪。」
「……おぼえてないの?」
宗也は首を傾げて、すぐ確かめるようにかなめの首筋へ手をやった。その最中にも、彼女を挑発するかのような小憎たらしい笑みを浮かべていた。
「ごめんわかんない。」
「会話は?」
「会話?」
「嘘…。」
「うそ。外でも構ってくれるんでしょ?俺のこと。約束だもんね。」
「そっ、も…っ、信じらんない……!」
がばっ、とかなめは頭を起こす。広がった視界で、ようやくかなめはこちらを凝視する女子生徒に気づいた。ついでに頬杖をついている音緒も視界に入っていた。
「仲の良いことで。」
ゆっくりはっきり油を注ぐ音緒。
音緒には視えている。夜中の二人のやりとりも、宗也が今、同級生の中からあぶり出そうとしている正体も。
それは簡単に釣れた。
かなめは、背後から体に刺さるほどの憎悪を感じた。思わず顔をしかめるほどの、濃い瘴気を放ったその生徒に、宗也はかなめを抱き寄せながら低く笑った。
「やっぱり。生き霊を作る程の執着と攻撃性。それを餌にした妖に飲み込まれたんだね、須藤さん。」
「…えっ?」
「素の性格もあるんだろうけど。あと霊媒体質なんじゃない?」
宗也は即座にかなめを抱えて上へと跳んだ。すぐに聞こえる衝撃音。ふわりと翻る黒の羽織の下で、教室の床から壁にかけて、四本の、爪痕と呼ぶにふさわしい破壊の痕跡が残っていた。
かなめは、いつのまにか紅の装束を纏っていて、着地する宗也に抱えられながら、瘴気の中心にいる須藤へと視線を向けていた。目の合った彼女はひしゃげた顔で、黒々とした攻撃的な瞳をかなめへ向けていた。
「…どうして、いつから、隣はあんたって決まったの?」
開こうとしたかなめの口を、宗也の掌が覆った。
「取りあうな。どうせ何喋ってるか自分でも分かんないんだから。」
「……百華ちゃんが泣いてる。」
かなめは宗也の腕をすり抜けて、自らの足で彼の側へ立った。そしてかなめは凛とした眼差しで、宗也の右手を包んで言った。
「よく、泣いてる百華ちゃんを家まで送ったの。帰り道、途中まで一緒だったから。大丈夫。ちょっと行ってくるね。」
宗也の返事も待たずにかなめは駆け出した。
襲いかかる瘴気の中心へと突っ込んで行く。その最中、かなめは手元でいくつも手印を結んでいて、紅の背越しに見ていた宗也は度肝を抜かれることになる。
かなめが用いたそれは、相手に燻る邪を打ち払い、安息をもたらすためのもので、限られた者にしか扱うことのできない呪術書に載るような、半ば禁じ手で最高峰の術だった。
瘴気の中はまさしく暗闇で、目を凝らせば空気中にはノイズのようなちらつきがあった。轟々と耳を打つ嵐のような風の音。その中に、すすり泣くひとりの少女がいた。
「だれか、たすけて……!」
百華だ。
その場にしゃがみ込む彼女の足から、無数の根が生えていた。彼女は闇へとその根を下ろし、自身を養分に成長し続けていた。背中には針のような突起物が無数に生えていて、突き破られた彼女の肌は痛々しく血を滲ませていた。
そのすぐ背後に、実りを待つ一匹の妖がいる。
見上げるほど大きな妖は、その逞しい腕を組み、針のように硬い毛に覆われた体を揺らしながら、目の前の少女へ問いかけた。
「何故だ?お前はお前の望むまま、憎い人間をその棘で刺し続けたのに。何故助けを乞うのだ?辛いことなど、ありはしなかっただろう?」
低く唸るような声。
百華は耳を塞ぎ、首を横へと振っていた。瞳から止めどなく溢れる涙が、更に根を深く深くへと成長させている。
「その子を離して。」
凛とした声が闇を打った。
妖はようやく侵入者に気づき、あからさまに顔をしかめた。警戒するというよりは、不可解そうな顔をしていた。
「人間の小娘が何故ここまで来られるのだ。ここは
「…あわい?」
「お前体はなんともないのか。」
やはり妖は根が親切なのだろうか、なんて考えるかなめだった。首を傾げながらも、大丈夫だよと答えた。緊張感のない小娘と妖は、ほとんど同時に足元で泣き続ける少女を見た。
「…この子、美味しい?」
「いやまったく。」
「じゃあ連れて帰ってもいい?」
「好きにしろ。」
「ありがとう。」
かなめは静かに百華の正面へ膝を折る。紅の袖が、ふわりと揺れていた。
「迎えに来たの。」
「……どうして?わたし沢山意地悪したのに…。」
泣きじゃくる百華は、まるで小学生の頃のまま。
かなめは体育座りをしながら、闇へと伸びる根を手で千切り始めた。日曜日の朝に校庭の草むしりへ駆り出された時みたいに、どこか呑気な調子で百華と対峙していた。
「私知ってるよ。百華ちゃんが優しいこと。」
彼女がかなめへ悪意の棘を刺す時、一瞬だけ悲痛な面持ちを見せるのは、感情をコントロール出来ずに踏み外す足を悔いている証拠だと、かなめは分かっていた。子どもの多くないこの町で、昔は仲の良かった百華が、いつかその足で戻ってくるのではないかという甘い期待を、願いを、かなめは捨て切れなかった。
妖は首を傾げながらかなめへ問う。
「何故よりによってお前が助けにきたのだ。この小娘に散々痛めつけられたお前が、なぜ、手を差し伸べるのだ?」
かなめは一瞬だけ百華を見て、溌剌とした笑みを妖へと向けた。
「もう良いの。自業自得で苦しんでるところも見られたし、このまま連れて帰るからあなたは餌を失うし、二人とも…そうだね、相手が悪かった。だからざまあみろって思ってる。」
「……はぁ!?」
怒りに顔をあげるのは百華だった。
その反動でいくつも根が千切れた。仕上げに残った根を手で払い、かなめは百華を立ち上がらせた。
その瞳に込められた優しい光。百華はかなめが敢えて柄にもない罵倒をしているのだと悟る。これ以上、自責の念にかられた百華の心が潰れないように、喧嘩両成敗の流れをかなめが作り出していた。
こうなればヤケだと、引き上げられた勢いに任せて、百華の口からぽんぽん文句が飛び出してきた。
「もとはと言えばあんたが二股かけるから!」
「えっ?」
「祭りの日!あんた浴衣着て野坂君と回る予定だったのに!全然しらない男子と手なんか繋いで行っちゃったでしょうが!踊子の衣装の子!」
「…あれ宗ちゃんだよ?」
「……えっ!?」
「あの年の
勢い余って突進する百華を抱きとめると、呆けた彼女の背にあった針が抜け落ちた。針はがらんがらんと音を立てて闇へと溶けていく。
百華は自身の大きな勘違いを自覚して、みるみるうちに羞恥で顔を赤くしていった。顔を覆って、さいあく、とその場に再度しゃがみこむ。項垂れながら、これまた小さく、本当にごめん、と消え入りそうな謝罪をした。
妖はぽかんと人間二人を眺めていた。
しばらく間が空いて、腕を組んだ妖は閃いたような顔をした。
「全て小娘の勘違いか?どおりでこいつはおかしな味がするとおもった。育てば育つほど不味くなる。全く大損だ!時間返せ小娘!」
暗闇に響くかなめの笑い声。明るく朗らかなそれに、百華の赤面は怒りへと変わっていく。
彼女が挑発に乗りやすいのは昔からだ。男子のくだらない揶揄に真っ向から立ち向かうのは、かなめを含め、そんなちょっかいに泣きだす女子を守らんとしていた故でもあった。
「ふっざけんじゃないわよ好き勝手暴れといて!このずんぐりむっくり!」
「うるさい小娘つっかかるな!さっさと消えろ!」
百華という養分を遮断された妖は、瞬く間に小さくなっていき、薬局前によくある置物みたいな姿になっていた。恐怖と縁遠くなったポテポテでクリクリの妖に、百華の言葉は止まらなかった。
「なによ馬鹿にして!散々人のこと栄養にしといて不味かったなんて!最低!美味しくないならとっととどっか行けば良かったじゃない!」
「腹が減ってたんだよおれは!」
「人なんか食べるから馬鹿みたいに図体ばっかりでっかくなるのよ!今の方がよっぽどお似合い!いまなら皆ご飯分けてくれるわよ!カリカリとか!」
「もうおれが消えた方が早いな!じゃあな!」
「待って待って待ってお清めはしないと。」
てちてち歩く妖のちまっこい肩を掴むのはかなめだった。
「瘴気を取り込みすぎるとだめなんだよ。」
「どおりで最近ぼんやりすると思った。」
「低い知能はもとからじゃないの?餌の見極めも出来ないんだから。」
「こんの小娘がァ!髄まで喰らうぞ勘違い娘ェ!」
「うっ…うるさいハリネズミ!もちもち!」
「はいはい喧嘩はおしまい。…百華ちゃん。きっと忘れちゃうから、お別れだけしておいたら?」
「食い物にされてたのにサヨナラするの?私が?」
「…それもそ、」
「じゃあなクソマズ小娘!」
「ばっ…ばいばいずんぐりむっくり!」
威嚇しあう小娘と妖に、かなめは思わず笑ってしまう。口元を緩く結んだまま、妖の四つ指を包み込むように握った。濃度の薄くなった暗闇のなか、清らかな霊気が、妖の持つ瘴気と暗闇を晴らしていく。
「どうかあなたが、清かな心で満ちますように。」
百華はこの言葉をよく知っていた。
もうずっと前のこと。
寺の前を流れる川へ折り鶴を放した。道徳の授業で作った千羽鶴だった。
祈りを込めて折りましょうと言う教師を鵜呑みにして、不器用な二人で、四苦八苦しながら折ったのだ。二人がひとつずつ折り終えたところで、宗也がかなめと百華の分までこなしたことを知った。彼は昔から手先が器用だった。
行き場のない二羽が、橋の上から川へと羽ばたいていく。
茜に照らされた鶴に、彼女が祈った言葉。
大人びた祈りに敵わないと思った。彼の隣は彼女こそふさわしいのだと、自ら身を引いたあの日。
その後すぐに夏祭りが開かれた。
同級生の誰よりも愛らしい浴衣姿のかなめが、踊子の衣装を纏った少年の元へと駆け出した。二人は手を繋いで人混みへ消えていく。そんな光景に、ひとり裏切られた気分になった。
だって彼の目はいつだってかなめを追って、振り向くのを待っているのに。その寂しさをよく知っている。こんな思いを、彼にさせるのか。
しかしそれも勘違い。
ああなんて恥ずかしく情けない。ひとりで怒って友人を爪弾きにするなんて、一生背負うべき罪ではないか。
ぐるぐる考え込んだ百華の手を包む温もりがあった。
「私も意地悪言ったからおあいこ。」
晴れていく闇。雲の切れ間から見える日差しのような、きらきらしたあたたかさがあった。百華は瞳を閉じて、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
あの日放った鶴のように、心の憂いは光を浴びて悠々と流れていった。
百華が目を開くと、握っていたのは水筒で。
視界に飛び込むのはいつもの教室。時刻はお昼真っ只中。最後の一口を頬張る転校生を横目に、百華は机へ頬杖をついた。
横へとずれた視野で、まず見てとれるのは、仲睦まじく痴話喧嘩する目の前の同級生ふたり。次に彼女が左手首にしている控えめだけど可愛らしい髪飾り。そして最後。それと同じく控えめな紅の花が、一瞬だけ見えた彼女の首筋に咲いていた。
やはりあの日の選択は正しかったのだ。
ただ一つ間違っているとすれば、身を引くなんてしおらしい真似ではなく、馬鹿らしいほど盛大に二人の背中を押すべきだったということ。
どうせ彼女は周りに遠慮して、幼馴染という立ち位置に妥協して、彼の隣を空けようとする。お前以外つり合わないのにどういうつもりだと、私が詰め寄る未来なんてはっきり見えていたのに。まあそれも逆ギレと逆恨みなんだけれども。
ああほんとに、性に合わない決心なんてするもんじゃないなぁ。
「珍しいね。遅刻なんて。」
宗也に体を支えられながら、へらっと眉を下げて笑うかなめ。百華は呆れたように笑いながら、自分の手元の巾着を開けた。
「食べる?かなめの好きなおかかだよ。」
差し出したのはおにぎりと野菜ジュース。
彼女の前でなく、彼の前に置いたのは、持ち寄った椅子に余りがなかったことと、もうそのまま膝の上で食っちまえという、百華のちょっとした意地悪だった。
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