第5話 回向返照 (前編)
真夜中の自室。
宗也は自分のベッドの横に座り込んでいた。
マットレスの上にはかなめが眠っていて、今し方目を覚ました彼女は、呆けたままくるりと部屋を見渡した。
「…ここは?」
「俺の部屋。」
宗也は、豆電球の薄闇のなかで顔だけをかなめへ向けた。この状況で眠気に襲われる訳もなく、宗也はこの数時間ただひたすらにかなめへ寄り添っていた。
「あなたは?」
そう言って首を傾げるその人は、かなめにしては大人びた眼差しをしている。宗也はすぐに、別な人格が憑依していることに気付いた。
彼女に妖気はなく、かなめと同じ清らかな霊気だけを感じていた。
その人は自分の隣に置かれた髪飾りを手に取って、ふわりと笑った。
「私、この髪飾りを知っています。」
「……あなたは、」
「残念ながら名乗ることができないのです。ここには彼の気配がある。今、私の存在を悟られてしまっては、全てが水の泡です。」
宗也は彼女へ向きなおって、両手で手印を結んだ。最後に
青白い光が収まっていくなかで「これなら話せるでしょう」と宗也が提案すると、その人は少しだけ驚いた顔をして、小さく礼を述べた。喜怒哀楽を易々と表情へ出さない辺り、なんだかかなめに通じる気がした。
「あなたは術者ですか。よくその歳で…稀有な才能をお持ちなのですね。」
彼女は指先で結界に触れていた。
とても丁寧な所作だった。
「彼というのは、劉伯という人物で間違いないですね。」
その人は至極穏やかに頷いた。
その眼差しには、子ども扱いされているような居心地の悪さがあった。
しかしその目が合い続けることはなかった。
その人は豆電球の幽かな光の中で、辺りを見渡すようにくるりと視線を一周させていた。その細い指で丸く輪を作り、そこから覗き込むようにして、結界越しにこの町を眺めていた。
「不思議な町ですね。他の土地よりも瘴気が濃いのに、温厚な妖が多いようです。誰かが土地を清めて回っているのでしょう。…なんだか、まるで昔のあの国のようです。あの子が来る前の。」
「あなたは、その国の中心人物だったんですか。」
少年の問いに彼女はしばし迷ってから、少しだけ笑って身の上話を返した。
「始めは女官の端くれだったのです。その後彼の教育係となり、恩師亡き後、国の舵取りを少しだけ。まあ彼が王となってからは、私の話など聞く耳を持ちませんでしたけれどね。でもその中で、あの子は国を想い続けてくれた。縁もゆかりもないあの国を、民達を、私と同じように考えてくれたのです。」
遠い記憶に想いを馳せながら、彼女は穏やかな口調で語った。自身の胸に手を当てて、彼女は宗也へ確信めいた問いかけをした。
「紅狐は、この体の中にいますね?」
宗也が頷くと、彼女は安堵の息を吐いた。
宗也はこの人物に対して既視感がある。
「名前を教えてくれませんか。あなたの。」
「あなたを巻き込むわけにはいきません。」
「紅狐はあなたの遺志を継いだんです。その果てに今がある。」
「……あなたもしかして記憶を、」
「見せてもらいました。話すより早いって。」
安堵の息は、紅狐へ向けたため息へと変わっていった。最後に舌打ちをしそうなほど長く吐いた息の終わりを待って、宗也は言葉を続けた。
「俺の幼馴染なんです。その体。」
薄闇の中、黒檀の瞳がじっと彼女を捉えた。
「もう既に巻き込んでいるのですね。」
「呪いを解きたいのは俺も同じです。早くしないと、かなめの夢は叶わなくなる。」
「この子はかなめというのですか。」
「俺の大事なひとなんです。」
「……そうでしたか。どうか許してね。紅狐があなたに見せた記憶が全てです。教えられることは、そうね…私の名前くらいでしょう。」
彼女は宗也の手を取った。ヒヤリとした感触に、宗也の記憶が呼び起こされていく。昔、この手に触れられたことがある。
彼女はお構いなしに、宗也の掌へ指で名前を書いていった。しかしそれは、現代の言葉ではない。知らない時代の、知らない文字だ。宗也はただくすぐったいだけの掌に耐え、自身の記憶をひたすらに辿る。
「……あっ!」
確信を得て、彼女に話しかけようと顔を上げた頃には、彼女は既に文字を書き終えてしまっていた。
宗也の手を取ったまま、少しだけ上を向いて目を瞑る彼女は、次第にその顔つきから聡明さを失わせて、代わりに温厚な、ちょっと眉を下げた頼りない表情を見せた。
「……宗ちゃん、の、部屋だよね。」
「……タイミングが。」
「えっ。」
「ああでも帰ってきてくれたなら良い。おかえりかなめ。」
繋いでいた手を勢いよく引いた宗也は、かなめごと、濃いグレーのラグマットへ転がった。
抱きしめるかなめの体は、相変わらず不自然な脈を伝えていた。
宗也は結界を解きながら、かなめの背や腹に触れていた。呪詛がどこまで及んでいるのか知りたいだけの純粋な動機。薄いシャツ越しに、指先の感覚だけを頼りに探っていた。
「宗ちゃ、」
「脇腹から背中に回って首筋か。変則的だね。あとは…右足に巻きついてる?ほんと蔦みたい。」
「宗ちゃんってば!」
かなめは宗也を下敷きにしながら、右太腿と首筋に触れる宗也の両手をそれぞれ掴んだ。
上下黒のルームウェアを着た宗也と、制服姿の自分。真っ赤な顔で凄んでも、豆電球はかなめに味方してくれなかった。
宗也は少し笑いながらごめんと言って、首筋に当てていた手でかなめの頭を撫でた。
「久しぶりに見た。かなめの怒った顔。」
「途中から記憶がないの。宗ちゃん何か知らない?」
「全部知ってる。」
教えてくれとせがむかなめに、宗也はかなめごと体を起こして向き合う。端正な顔立ちの彼が見せる真剣な表情というのは、どんな言葉よりも、かなめの動きを止める力があった。かなめは宗也の膝の上で、大人しく彼の言葉を待つ以外の選択肢を奪われる。
「このままかなめが帰ってこなかったらどうしようって、そればっかり考えてた。…ねえかなめ。俺のこと頼って。もう滝になんか落ちないから。」
「…どうしてそれ、」
「紅狐が。…あと俺、あの滝で前世のかなめと会ってる。」
「えっ!?」
「だからひとりで抱え込まないで。バディ組むんでしょ?だったらこれが俺たちの初仕事だよ。」
そう言いながら、宗也は軽々かなめを抱き上げた。宗也の腕の中から見渡す彼の部屋は、机とベッドとクローゼットがあるだけの、モノトーンでシンプルなものだった。
「あとはそうだな…もう避けてる場合じゃないっていうのと、その辺に関しては多分諸々手遅れっていうのと……。」
頭の追いついていないかなめをベッドの奥、つまり壁側にやり、自分はその隣へ横になった。
「どういうこと?」
「すやすや眠るかなめをこの家まで運んだのは誰でしょうねぇ。」
宗也は自身の左腕を枕代わりにして、空いている右の手でかなめを抱き寄せた。宗也の言葉を待っているのに、本人は瞼を閉じ始めるではないか。
「待って待って宗ちゃ、」
「ごめん限界ほんと眠い。」
張り詰めていた糸がやっと解けたのだ。
いつになくとろんとした声音の宗也に、かなめはなす術なく腕の中に収まっていた。
大人びた顔つきに似合わず、子どものような体温の宗也。その温かさと、とくとくと揺れる心地の良い心音に、かなめの瞼も次第に重くなってくる、はずがない。
宗也の言葉が頭の中を駆け巡り、かなめは次第に理解していく。眠りこける自分を、彼が担いで帰ったのだろう。それを誰にも目撃されないなんて奇跡は起こらない。確かに手遅れ。
しかし初仕事をするならば、今までのように宗也を避ける学校生活ではだめだ。
ああそうか、彼はそのために一石を投じたのだ。これをただの賭けとするか、打開の決め手とするか。それは自分にかかっている。
霧が晴れるとともに、これまで積み上げたものが崩れるような感覚があった。しかしそれは、いつのまにか出来ていた殻が破れるみたいに、かすかな光と風を伴っていた。
あどけない少年の寝顔に、ふと、意識を手放す直前の問いを思い出す。
その答えが見えた。でもそれを一気に伝える勇気はなく、かなめはまずひとつ、出来ることから始めようと決心をする。
「…宗ちゃん。」
宗也の瞼が少しだけ開く。
「あのね、」
かなめが宗也の左腕へ手を添えると、彼はわざわざ顔の向きを変えて、かなめが耳打ちしやすい姿勢をとった。
天井を仰ぎながら、その囁きに耳を傾ける宗也は、聞き届けたあとにふっと笑った。
「約束?」
「…うん。」
頷くかなめを、後生大事そうに抱えて、ついでにかなめの頰へかかる黒髪を払い、その細い首筋へ吸い付くような口付けを落として、宗也は深く深く眠り込んでしまった。
宗也が昼に登校すると、クラスの女子は皆口々に彼の安否を問うた。まるで問診のような彼女らの言葉に、宗也は適当な言い訳をして席へ着く。
「うつわは?」
音緒は教科書を閉じながらこちらを見ていた。
授業が終了したばかりで、教室は喧騒に包まれている。廊下は一層騒がしかった。
「次の授業には間に合うんじゃない?」
先に目を覚ましたのは宗也の方だった。何度揺すっても起きなかったかなめは、今ごろ慌てて準備をしているだろう。その焦る表情が目に浮かぶ。宗也は上がる口角を抑えていた。
「野坂君、笹原君、今空いてる?」
女子数名が二人の元へ詰めかけた。
一緒にお昼を食べないかと、頰を赤らめながら言う。宗也の視線が鋭くなるのを、音緒は見逃さなかった。彼女らがかなめを敵視するように、宗也もまた彼女らを快くは思っていなかった。ましてや進学して学校も変わったというのに、尚もねちっこくかなめと自分を追い回す厄介な存在。
音緒は、逃げようと席を立つ仏頂面の裾を掴んで止めた。
「少しは打ち解けなさい。うつわの為に。」
「……笹原にとやかく言われる筋合いなんてないんだけど。」
じろ、と相手を見やるのはお互い同じ。黒檀と薄紫の瞳は、まさに一触即発。
教室一帯が静まり返っていた。皆が二人の顔色を伺いながら、聞き耳を立てている。廊下から聞こえる笑い声や談話が、二人を匿うことはなかった。
「お構いなく。笹原の手を借りるつもりはないから。」
「なら貴方に構わず攫うとしましょうか。」
「やってみろよ叩っ斬ってやるから。」
殺気のちらつく黒檀の瞳。苛立ちに任せて放たれる霊気は酷く冷たい。衣替えの終わった涼やかな夏服で、不可解な悪寒に見舞われた生徒達は、その体を震わせた。
音緒は至極愉快そうにクツクツと喉を鳴らし、釣りあがる口角を片手で隠していた。
「座敷童を怒らせるのは終いにしましょう。」
藤色の瞳に敵意はない。一人で勝手に納得して手を引いた音緒。肩くらいの高さで掲げられた両手が一層腹立たしかった。
彼は降参のポーズをとりながら、勝手に女子生徒の提案を快諾してしまう。退路を絶たれた宗也は、至極不本意そうにその輪の中に留まった。
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