第31話 鵺(後編)

 

 椿の跳躍は、泪の比ではなかった。


 驟雨の中、助走もなしに軽やかに跳ぶ。平屋の屋根などとうに超え、泪の立つ水へ向かうその最中、椿の妖気が高揚した。そして彼はみるみるうちに様相を変えていく。


 赤茶の髪色が漆黒へと移り変わった。


 その黒髪は伸びていき、鎖骨へ到達する程度で髪の伸長が止まった。


「三割も出てねえじゃねえかヒヨッコが。」

「うるせえな玄宗さんが来るまで時間を稼げば良いんだろ。」


 野次馬を飛ばす泪の隣へ降り立つ椿。

 足場は泪が作った妖気混じりの水だ。


 漆黒の前髪を掻き上げたその額には、二本の角が現れていた。先端に進むにつれて紅く染まるそれは、二寸ばかりの短いものだ。


「なぁにぬるいこと言ってやがる。蛍ならその場で全部片を付けるね。」


 泪が手を掲げる。

 すると水は鵺めがけて椿をぶん投げた。


「てめぇ覚えてろよ!」


 ほくそ笑む泪を睨みつけ、椿は空中で身を翻す。


 鵺を正面に捉えた椿は、舌打ち混じりに両手を振り上げた。


 その爪は鋭く、硬化している。

 角と同様、先端に進むにつれて紅く染まっていた。これは以前かなめを助けた際にも用いた鬼の力だ。かなめに説明した通り、鬼の力を使えば使うほど呪詛によって全身に激痛が走る。その証拠に、鵺へ斬りかかる椿は苦悶の表情を浮かべていた。


 しかし痛みに怖気付く椿ではない。


 彼の紅い爪が、一気呵成に尻尾の大蛇を斬り落とした。耳をつん裂く悲鳴と共に、大蛇は地響きを上げて地面に落ちた。その体が黒煙と化し、舞い上がった瘴気は雨に打たれて土へ流れていく。生い茂る雑草が目に見えて萎びていった。


「地面に降りるなよ。悪鬼に堕ちるぜ。」

「さっき聞いたよ馬鹿。」

 

 椿は空中で鵺の獣毛を鷲掴む。

 間近に迫る瘴気は鋭く、肺を刺すような痛みが起こった。椿は咄嗟に息を止めながら、鵺の腰へとしがみついた。


 すると猿面が首を捻り、腰に乗る椿を捉えた。

 捻れに捻れたその赤ら顔は、真っ逆さまになって纏わりつく小僧を威嚇した。鋭い眼光と瘴気混じりの咆哮を、椿は至近距離で食らった。


 全身が痺れるほどの瘴気を浴びながらも、椿は眼前の猿面から目を離せないでいる。


「…これ、」


 咆哮する猿面の、喉奥に見えた無数の釘。

 喉自体を刺されているのではなく、鵺は釘まみれの何かを飲み込まされている。


「椿お前なに遊んでんだよ。」

「煩え何か引っかかってんだよ!」


 椿は足と左腕で鵺の口をこじ開けて、右手を喉へと突っ込んだ。すると辛子色した鵺の目玉が苦悶に満ちて、次第に憤怒の形相へと移っていった。


 鵺は椿の腕ごと口を閉じる。


 猿に獰猛な牙は無いが、揃った前歯で小僧の腕を噛みちぎることは容易だ。


「…要らん苦痛を与えて作るのは禍呪かじゅだけだ。椿、それ取れるか。」

「今やってる!」


 椿は骨の軋む感覚を堪え、痺れる指先で釘を一つ抜き取った。


 泪は鵺の目玉に水鉄砲を食らわせて、振り切られた椿を回収する。幸い椿の右腕は失われていない。白い半袖の袖口に血が滲んだ程度で済んでいた。

 痛む腕に鞭を打って、椿は泪に釘を手渡そうとする。が、彼は微動だにしない。


「……。」


 泪は椿にも鵺にも目をくれず、ただ空を覆う雨雲を見上げていた。


「なるほどな。禍呪の材料は怨念と瘴石しょうせきだ。じゃなきゃ水を起爆剤にはしない。雨も術の一環だ。………椿、しのごの言っていられないかも知れない。」


 水上に座り込む椿は違和感を覚える。


 この兄弟は物腰が対極なのだ。見上げた朱鷺色の瞳に混じるのは瑪瑙の光。その色は、渚のものだ。

 彼の体を離れて浮遊する泪の姿が見えない椿にとって、瞳の色が唯一の判別材料だった。


 椿は渚によって無理矢理立たされた。

 ついでに右手の釘も抜き取られた。渚はそれを見て、あからさまに顔を顰める。


「五寸釘だ。瘴石に怨念なんて、出来上がる呪術は最悪だよ。」

「…しょうせき?」

「瘴気は水に溶けて、一定の濃度を超えると結晶化する。結晶化したものを瘴石と呼び、関守以外扱ってはならない決まりなんだ。皇以外、浄化のすべを知らないからね。さて、皇しか扱えない石で作られた刺客が、皇以外から向けられるなんて、あると思うかい?」

「お前皇を敵に回すようなことしたの?」

「椿はいつでも真っ先に僕を疑うね。」


 至極にこやかに、渚は椿の右腕を握りしめる。

 それでも椿が怒らず、心配そうに渚を見上げるのには理由があった。


 泪の憑依は、神降ろしを応用した術である。


 術の途中で依代である渚が表へ出るというのは、流れに逆らうということ。呪詛返しを喰らう危険性さえあると、椿は渚本人から聞いていた。


「お前体は、」

「なあに心配ないよ。三日か四日、寝込むくらいで。…無事に帰れたらの話なんだけど。」


 虚勢を張る渚の額には汗が伝っている。果たして冷汗か、それとも脂汗か。呪術の専門家と言えど、渚の呪術耐性はそう高くない。泪の顕現に、海水の乾くまでという制限があるのはその為だ。


 しかし今、驟雨は本降りに変わりつつある。

 これでは渚の体は一向に乾かない。際限のない泪の憑依が渚にかける負担の重さを、椿は案じていた。


「禍呪というのは、人の手で作られた強力な呪いだ。滅多に出回らない。玄武ぼくでさえ、お目にかかるのは初めてなんだ。」

「…あいつの鳴き声、聞き覚えがある。」

「いつ?」

「母さんが消えた時だ。」

「…彼女はお前達をこの禍呪から守るために消えたのかも知れない。」


 鵺は虎爪を剥き出しにして此方を凝視している。血走った目玉を見開いて、シャァ、と威嚇した。


 渚は椿の背中へ触れる。

 激しい脈動は、大人の掌さえも押し返した。


「この術をかけた時、解く言葉も教えたね。あとは椿、お前次第なんだよ。お前の力は人を傷付ける為にあるんじゃない。それさえ忘れなければ、昔みたいに暴走することは無い。」


 激励じみた平手打ちが椿の背中へ走る。

 前へつんのめる椿を、足元の浮遊する水が掬った。そのままぐるりと椿を反転させ、渚へと向き直させる。土壌へ流れる瘴気をこの水が遮っていた。


「出来るのにやらないなんて、蛍さんなら夜通し説教だよ。」


 体の右側で、泪の妖気が静かに燃える。呼応するように水は増幅して鵺を覆った。


 鵺は鬱陶しそうに水を斬る。しかし水は虎爪を避け、また鵺の視界を奪う。翻弄される鵺は、苛立つままに水を追いかけていた。


 渚はその間に片手でいくつも手印を結び、青白い光を足元へ溢した。

 左目の瑪瑙と、右目の朱鷺色。二人が笑う。


「やれ、椿。」


 強まる雨足の中、椿は鵺の元へと駆け出した。


 渚の作った光の足場を幾つも飛び越えて、血走る鵺の目玉を切りつける。


 身軽な椿の機動力は高く、すぐさま体を捻って今し方傷をつけた目玉に追撃を喰らわせた。すると猿面の右側が崩れ、瘴気へと戻っていく。雨に打たれた瘴気が土壌へ流れるのを、椿は顔を顰めて見た。


 琥珀の瞳はすぐさま鵺へ焦点を当て直す。


 椿の推測では、このまま切り落としてゆけば全て瘴気に戻り、ひとまず鵺は消滅する。流れ出た瘴気が瘴石の結晶化に足り得る濃度かは知らないが、そこは合流した玄宗がなんとかしてくれるはずだ。


 となれば玄宗がこちらへ来るまでに、片をつけなければ。恐らくそう時間はかからない。あの出来の悪い転送術があるからだ。


 次に左の後脚を斬り落とす。が、椿は驚愕に目を見開いた。真っ先に斬り落とした大蛇の尻尾が、再生を始めていたのだ。


「斬れば斬るほど瘴気が出る。妖達まわりを狂わせ加勢させるも瘴石作るも好き放題。作り手の思うツボだこのド素人。」

「分かってんなら最初に言えよ馬鹿!」


 なんとも的外れな推測を打ち出した自分を恥じながら、椿は鵺の背へ乗る。


 燻んだ雨水を浴びながら、じっと雨雲を見つめる朱鷺色の瞳。瑪瑙の光が消え失せて、泪の妖気が上昇した。


「鵺退治っつうのは弓矢とトドメが要るんだよ。」


 瞬間、泪の妖気が空へと爆ぜる。


 分厚い雨雲を貫いたそれは、鈍色の水蒸気と混ざり合う。耐えきれず落ちてくるその水滴の一つひとつが、煌めく矢となり鵺へと降り注いだ。


 泪はそれを見届けながら後ろへと下がった。双眸は入れ替わるように朱鷺色を失っていく。


「潮時だ。」


 掃き出し窓から室内へ。

 長机を巻き込んで、長身痩躯が倒れ込む。渚は汗を拭いながら、晴れ間の覗く空と、鵺へ斬りかかる椿を見上げた。


 空中の椿は、数珠を握りしめていた。黒の房は強風に揺れ、伸びた黒髪もまた、瘴気混じりの風と踊っている。


 椿の頭に、呪詛を解くための言葉が反芻する。


 震える唇を噛み息を吸い込んだ椿と、鵺の目が合った。鵺は微動だにせず、ただ真っ直ぐに椿を見上げていた。


 辛子色の瞳の奥に、椿は愛憎と悲哀を見る。


「…お前、」


 数珠と共に、自ら斬り捨てた鵺の顔へ触れた。

 鵺は椿の掌へ、今は亡き右頰を擦り寄せた。


 そこから伝わる記憶は、呪術の材料にされる前のもの。人間に愛しまれて暮らした者達が、理不尽に嬲られ殺された。人への思慕、絶望、未練、憤怒、全ての感情が怨念となって骸に残る。それを小さな石に閉じ込め、砕き、墨を練る。磨った墨で呪言を綴って、彼らは生み出されていた。


「……苦しいな。」


 鵺へと呟かれた言葉が、立ち込める瘴気へと消えていく。しかし目玉が焦点を失い、鵺はすぐに自身へ触れる椿の掌を噛みちぎらんと牙を剥いた。

 

これじゃ殺すことしかできない。それじゃお前は、救われないんだろ。」


 鵺の額を足場に、椿は空中へと跳ぶ。

 その最中、彼の妖気は二本の角や紅の爪と共に消えていった。


 赤毛を揺らして、椿は鵺の正面近くの足場へと降り立った。足元の青白い光が、琥珀の瞳を淡く照らしている。


 椿は掌の数珠を握り直し、ひとつ、ふたつと手印を結ぶ。すると仄かに温い彼の霊気は数珠へと溢れた。数珠は霊気を纏いぶつかり合って、淡い光と共に清らな音を奏でた。それは漂う瘴気を薄れさせて、眼前の鵺へと伝っていく。


「光を忘れし不浄の者よ、

      在るべき場所へ還るが良い。」


 数珠ごと、椿が鵺へと触れる。

 すると淡い光が鵺へ移って、複雑に絡み合った呪いを解き始めた。


 鵺を形作っていた瘴気は四肢から霧散して、気流と共に流れたが、流れた先で儚く消えた。


 最後まで残った辛子色の瞳は、虚空を見上げていた。その眼差しが椿に向けられることはなかったが、片目から零れ落ちた一滴の涙が小さな結晶となって、椿の掌へ残った。


 小指の先ほどの結晶を握りしめるその背後で、漆黒の羽織がはためいた。椿が振り向き下を向くと、椿を見上げながら坊主頭を掻く玄宗が土壌へと立っていた。


「まさかお前一人で聖石ひじりいしにしちまうとはな。」

「……ひじりいし?」

「浄化した瘴石をそう呼ぶんだ。聖石と書くんだが、紛らわしいから呼び名を変えている。…そしてその浄化は関守にのみ許されている。」


 椿が玄宗につられて青ざめていると、平屋の掃き出し窓から蘭子がやってきた。彼女は靴も履かずに、意気揚々とぬかるむ土を踏んでいた。


「クーの顔色が悪いのは転送術のせいだから、椿は気に病まなくて良いぞ。…クーお前、椿にしれっと皇の術を教えているだろう。しかも難しいやつ。」

「良いだろ別に。出来ちまうんだから。」


 わしゃわしゃと、蘭子は赤毛を撫でる。

 椿は照れ臭そうに俯いたまま「道具が良いだけです。」と数珠を片手に言った。


「母の形見です。……こう言うと、渚は怒るんですけど。」

「全くだよ。」


 椿の頭上に降りかかる低音。

 すぐに両肩に置かれる手は、紛れもなく渚のものである。


「今回で確信した。蛍さんは生きてる。彼女に目をつけた連中へ骸を渡さない為に。」

「お前体は?なんともないの?」

「もう少し僕の話に興味持ってほしいな!」


 話を遮るように、玄宗は椿へ掌を差し出した。


「椿、その数珠少し貸してみろ。ついでに石も。」


 椿は数珠と聖石を玄宗へと渡す。

 大ぶりで、椿が持つとそれなりの存在感があった数珠も、玄宗の分厚くて大きな掌の上では華奢なアクセサリーに見えた。


 玄宗は自分の傍で「綺麗なペグマタイトだな」と笑う蘭子を横目に、数珠の糸を千切った。

 目を丸くするのは椿だけで、蘭子も渚も、宙を舞う鬼御影石を朗らかに眺めている。


 瞬間、玄宗の人差し指から青白い光の糸が紡がれた。糸はみるみるうちに空中の石を繋いでいき、最後に聖石を包んで固く結ばれた。


 光が失せて、糸が白色透明になったことを見届けてから、玄宗は椿へ数珠を返した。


「初めてにしちゃ上出来だが、純度はそう高くない。お前の手助けに丁度良いくらいだな。」


 お辞儀と共に礼を言う椿へ、玄宗はほんの少し口角をあげた。


「礼なら小鬼にすると良い。お前の強さは、夜な夜なあいつの相手をしているおかげだ。」


 玄宗の視線の先には、掃き出し窓からこちらを覗く巡の姿があった。眠り足りないらしく瞼を擦って、転倒予防として研究員に手を握られていた。


「俺は戻るぞ。町の浄化をぶん投げてきちまったからな。」


 くるりを背を向ける玄宗は、どこか決死の表情をしていた。彼の後ろを歩く蘭子は「コツを掴んだからさっきより上手くやるよ」と笑っていた。

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果ての黎明 あずまなづ @zumanadu

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