第30話 鵺(前編)


 町から西へ、電車を二つ乗り継いで一時間半。

 針葉樹林と三角の山が連なるここは、自身の後見人である吾妻渚が発掘調査に赴いている土地だ。


 まだ新しい平屋の玄関を潜った右手には、トイレと簡易なシャワー室がある。最新式トイレの床に玉石タイルが敷き詰められているのは改築前の名残だ。このちぐはぐな空間で、鹿嶋椿は吐いていた。


 昨日から町は狂っていた。


 突如町中に濃い瘴気が溢れ出し、蓮沼の方角では桁外れの妖気を察知した。椿は松浦かなめに関係した戦闘だとすぐに気付いたが加勢はしない。正直それどころではなかった。


 瘴気につられて妹のじゅんまで暴れだし、椿は一晩かかって巡を宥める羽目になっていた。


 母に鬼を、父に人間をもつ鹿嶋兄妹である。


 呪詛で鬼の血を封じた自分とは違い、まだ幼い妹は他の妖と同じように瘴気にあてられてしまう。玄宗から対処法を教わり、稽古を付けてもらっていた椿だが、手加減を知らない小鬼の相手は骨が折れるものだ。幸い家は小山の中にあり、隣人もいない。どれだけ小鬼が暴れようと、警察に通報されることはなかった。


 明け方、やっと眠りだした巡の隣に倒れ込む椿。床に広がるのは自分と同じ赤茶色の髪。父譲りの赤毛を何度か撫でると、巡はくすぐったそうにして椿のほうへ寝返りをうった。


 傷だらけの五体をぶん投げて、今日は絶対に学校を休んでやる、いや今日は土曜日か、と独りごちた。


 そもそも高校は渚に無理矢理通わせられているのだ。出席率はすこぶる悪く、これについて渚と口論になったのも記憶に新しい。椿は溜め息混じりに琥珀の瞳を固く閉じる。


 しかし突然、無機質な着信音が部屋に響いた。


 電話の主は想像に容易い。椿は画面を見ずに大きく舌打ちをしてから通話ボタンを押した。


「何だよ渚。」

「巡は?」

「今寝たとこ。」

「巡を抱えて動かないで。」

「なんで。」

「避難。」

「は?」


 渚はいつもより真剣な声音だった。

 只事ではないのだろう。椿は巡を抱えて、一方的に通話を切られた携帯電話をスウェットのポケットへ仕舞った。


 椿の視界がぐらりと揺れ、眩暈と共に体が落下する感覚に包まれた。反比例して浮き上がる内臓に、椿は一気に血の気が引いた。瞼を透かす青白い光に、電話口の渚がろくな説明もしないままに転送術を展開させたのだと知った。

 

 発掘現場に着いた椿は完全に酔っていた。


 椿は妹を渚へ預けて、すぐそばにあった平屋のトイレへと駆け込んだ。比較的酔いやすいことを渚に指摘されたのは、彼が後見人として児童養護施設へ兄妹を迎えに来た日の車内だった。


 絶不調の椿に誰かの掌が触れて、背中の呪詛が脈打った。ここまで追いかけてくるのは奴しかいない。椿はその手の主が渚であると早合点した。


「状況を説明しろ研究バカ。」

「すまない。何せ緊急事態でな。」


 椿は振り返り硬直する。

 呪詛で脈打つ自分の背に触れていたのは、渚ではなく松浦蘭子だった。


 これまでも、渚に呼ばれて調査場へ赴いたことは何度かあった。しかし責任者である蘭子は忙しい人で、いつ来ても顔を合わせることが無い。お目にかかりたいと思っていたわけではないが、まみえる日がくるとも思っていなかった。


 不良のなりこそすれど、椿に初対面の人間に悪態をつく趣味はない。椿は謝罪と挨拶の混じった会釈をした。


「君達の避難を薦めたのは私なんだ。町の呪詛が掘り返された挙句、派手な戦闘が始まった。麻美…と言っても知らないか。宗也の母から連絡があってな。瘴気の濃度だけで言えば、町の具合は現関守の着任前に戻ってしまった。」


 眼前の蘭子は、化粧と声で見分けるしかない程に松浦かなめとよく似ていた。すると椿は、緊急事態の起きた町へ取り残されている彼女の安否が気になってくる。

 そんな椿の表情を見て、蘭子は微笑んだ。


「心配いらないよ。クーが側にいるから。」


 颯爽と踵を返した蘭子を追って、椿も和室へ入る。室内は十数畳ほどの広さがあって、畳の上には長机が二列に並べられている。


 部屋の奥には古びた書物が山積みになっていた。蘭子は和綴の山に首を傾げたが、さして気にせずに視線を椿へと移した。


「渚からお前達の話をしょっちゅう聞いているせいで、初めて会う気がしなくてな。トイレに押し入ったことは謝るよ。」


 バツが悪そうに頬を掻く椿。蘭子はまた笑う。


「君の呪詛は制約に近いそうだな。経緯は渚から聞いた。…悪く思わないでくれ。玄武の研究者にとっては、お互いの事情も貴重な情報なんだ。だから共有と協力は惜しまない。無論外部へ漏洩しない。」


 彼女の白衣に付けられた黄色の腕章には文化財保全・遺跡発掘調査機関・玄武の文字とともに、聖獣を象ったマークが、黒の糸で刺繍されている。渚がよく泥だらけにして帰ってくる腕章だ。


 初対面ではあるが、彼女は自分達のことを良く知っている。椿は短く息を吐く。かち合う視線に滲んでいた緊張の色は、幾分薄らいで見えた。


「私の親も消えたんだ。といっても育児放棄だが。安斉章太郎という男が私を引き取った。あいつは家に帰れなくなったクー…玄宗のことも、勘当された紀明のことも、放っておけずに拾って来た。ああでも、麻美を殺して連れ帰ったのは紀明だったな。」

「……殺して?」


 蘭子は椿の背に触れたまま続ける。


「還魂起死。…椿、きみには心当たりがあるね。」


 少年の瞳が伏せられていくのを、蘭子は肩を抱きながら見ていた。



 椿の母は名を蛍といった。


 鬼でありながら呪術に明るく、人間に強い関心を抱いていた。現世とあわいとの往来の果てに、蛍は海辺の療養所で鹿嶋篤かじまあつしと出会う。


 篤は不治の病に冒されていた。


 死を待つだけの生活から抜け出して、彼は蛍に余命と自身の全てを捧げた。眼前の、強く美しい鬼に喰われる覚悟があった。


 生憎蛍は人を喰らう性質を持たなかった。篤は蛍の一部になることは叶わなかったが、二人を分け合った宝物には恵まれた。


 そうして得た幸福に、終わりが訪れる。


 篤の死期は刻一刻と迫る。憔悴しきった自分の手を取り微睡むのは愛する鬼と、その子ども。


 篤は蛍へ、一生のお願いをした。蛍の知り得る呪術を駆使して、自分を妖にしてほしいと。蛍は彼の手を取り頷いた。星のない夜だった。

 

 呪術は失敗に終わる。


 代償として父は命を落とし、母は忽然と姿を消した。駆けつけた警察はその惨状から殺人事件と断定した。容疑者は鹿嶋蛍。残された椿と巡は、児童養護施設へと預けられた。


 椿は施設で児童を傷付けた。不安定な情緒では、鬼の力を制御出来なかったのだ。兄につられるようにして、巡も鬼へと変化した。怪異を目の当たりにした施設員は、兄妹を最奥の部屋へと隔離した。


 それから数日後、一人の人間が兄妹を迎えにきた。吾妻渚だ。母の知人と名乗る青年は椿へ手を差し伸べて「一緒にお母さんを探そう」と言った。


 渚の手を取るのは巡だった。妹は単に、渚の背後で戯ける泪を気に入ったらしかった。


 巡が戸惑う椿の袖を離さないので、椿は渚の車に乗らざるを得なかった。そして今日まで、後見人と生活を共にしている。



 蘭子は目を細めて、椿を見た。


「渚は本気で会わせたがっているよ。」

「…あいつが会いたいだけでしょう。」


 溜め息混じりに逸らされる琥珀の瞳。


「渚は俺達を手掛かりだと思ってるだけです。」

「そんなに冷めた関係には見えないよ。」

「いくら恩人と言ったって、その子供を育てる義理はないでしょう。」

「渚は児童養護施設で育ったんだよ。」


 驚いて蘭子を見る琥珀の瞳。

 椿は渚の生い立ちについて何も聞いたことはなかった。蘭子は至極穏やかな口調で続ける。


「泪のことがあるからな。皆に気味悪がられたと言っていた。あいつは理解されない苦しみも、ひとりきりの寂しさもよく知っている。だから君達が施設へ預けられたと聞いて、すぐに迎えに行ったんだそうだ。」


 ちなみに私も一時期、施設にいたんだよ。

 そう呟く蘭子は悪戯っぽく口角を上げていた。ついでに赤毛をわしゃわしゃと撫でくりまわす。椿はされるがままだった。少年の耳が赤いのを、蘭子が言及することはなかった。

 

 乱した赤毛を手櫛で整えながら、蘭子が言う。


「椿、前にかなめを助けてくれたんだってな。あの子の霊気は、凄まじかったろう。」


 破天荒に校内を浄化して回ったあの霊気。

 椿は思い返しながら、引き気味に頷いた。


「あの霊力は前世から引っ張ってきたものだ。前世のかなめは、そこまでして紅狐を救いたいと思っているんだ。今回のことであの子がどんな犠牲を払うか、我々にも分からない。だがな、あの霊力がいずれ消えることだけは分かる。」


 蘭子は白衣を翻して、部屋の奥にある和綴の元へと歩みを進めた。


「かなめの件と並行して、死地の浄化が禁じられている訳を探っている。皇本部に神獣の憑依を黙っていたのは、これを邪魔されないためだ。」


 書物の山に触れようとした蘭子の手が止まる。

 椿は彼女の機微を悟って傍へ寄った。


「椿、きみも呪術に明るいのか。」

「…玄宗さんに教わったものくらいしか。」

「これが何かわかるか。」


 白衣のポケットへ両手を突っ込んで蘭子が問う。

 椿は書物を注視したが、特に変わった様子は見て取れなかった。


「昨日ちょうど、玄宗クーにこいつの話をしたところだ。たかが二匹の妖よりも、よっぽど厄介な人間がいるんだよ。…君達をここへ呼んだのは裏目だったかもしれないなぁ。」


 風のないこの部屋で、和綴の頁が一斉にはためきだした。


「渚。」

「居るよ。」


 声は椿の頭上から降る。

 見上げた渚は、堪えきれない探究心を口端に覗かせていた。そのくせ言葉だけは平静を装って、蘭子へと問いかける。


「呪術が発動する前に消してしまおうか?」

「正体を見たいし、あわよくば解析したいと、素直に言って良いんだぞ渚。皆撤退済なんだろう?」


 壁越しに聴こえていた談笑は完全に失せていた。

 室内に響くのは紙の捲れる音と、渚が握っている数珠が擦れ合う音。


「お前それ、」

「間違えて椿の持って来ちゃった。返す意味も込めて、おいでって言ったんだ。」

「……頼むからもう少ししっかりしてくれ。」

「善処はしてるんだけどねぇ。」


 数珠は大ぶりの鬼御影石で作られていて、黒の房が垂れている。椿は渚へガンをくれながら掌に置かれた数珠を握りしめた。


「建物を壊すわけにいかないね。椿、窓を開けてくれるかい。」


 椿は言われるがまま掃き出し窓を開ける。

 すると書物が一斉に外へと飛び出していく。書物が羽撃く室内はいつしか暴風に見舞われていた。

 

 見計ったように驟雨が降り出した。


 雨を受けた書物は黒々とした瘴気を吐き出す。

 それは黒煙のように周囲に立ち込めた。


「…ああ、本当に厄介なものに狙われてるねぇ。」


 低い笑みをこぼす渚は手印を結び始めていた。


「蘭子さん、玄宗さんに連絡しておいた方がいいかも知れない。恐らく禍呪かじゅだ。」

「応。」


 踵を返す蘭子も好戦的な笑みを浮かべていた。


 渚は手印から溢れた青白い光を纏いながら、白衣の胸ポケットから細長の瓶を取り出して、中の海水を自身へと振り掛けた。


「椿、兄さんと仲良くね。」


 そう呟いた彼は青白い光と共に白衣を翻し、颯爽と椿を追い抜いていく。彼の瑪瑙の双眸は、朱鷺色へと移り変わっていた。


「久々に手応えのある刺客やつが来たんじゃねえの?」


 泪だ。彼は縁側を踏み台にして大きく跳んだ。


 同時に白衣のポケットからガラスの小瓶をいくつも取り出して、小瓶同士をぶつけて割った。派手に溢れた中の雫が血液と共に雨へ混じり、妖気を内包した水は嵩を増して空中に漂う。そして泪はその水の上へと降り立った。

 

 瘴気はみるみるうちに形を作る。


 大きな体躯の四足獣。長い獣毛からのぞく虎爪が泥濘む地面を抉っていた。尻尾は大蛇となり、縦長の瞳孔は静かに泪を捉えた。しかし彼を狙う眼光は、尻尾の大蛇だけではない。


 漆黒の獣毛を持つ四足獣の顔は、猿。

 禍々しい瘴気を眼光に込めながら、不気味に笑う赤ら顔。


「鵺だ。」


 泪は鵺に向けていた鋭い眼差しを、椿へ移した。


「加勢は歓迎するが地面に立つなよ。」

「誰がお前と一緒に戦うかよ。」

「………。」

「………。」

「まあ別にぃ?ロクに戦えない坊ちゃんはそこに突っ立ってても良いけどなァ!!」

「あ?」

「あっれぇお前、雨嫌いなんだっけぇ?死んだ父ちゃんと逃げた母ちゃんのこと思い出すからァ。」


 椿の盛大な舌打ちが響く。

 しかしこれに怯む泪ではない。


「わざわざ鬼の血を封じてまで人間様の肩持つような腰抜けが?鵺なんて相手に出来ないよなァ。」


 波打つ空中の水。その上に立つ泪は、ひどく憎たらしい顔をしている。


「…むかつく。」


 青筋立てた椿が、驟雨の中へ飛び出した。

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