第29話 All-or-nothing(後編)


 噎せ返るような紅の中、宗也は石段を駆け上がっていた。


 大昔に造られた大神宮の石段は、段差も幅も均一ではない。紀明はこの不安定な場所を修行場として好み、東雲も黄昏も、真剣を持って宗也を鍛えた。

 獅子の子落としもいいところ。木刀も峰打ちも、親子の選択肢にはなかった。


 三ノ鳥居を潜り境内を見渡した。風に吹かれて鳴く木々に、紀明が隠れていることは分かっている。

 肩で息をしながら、宗也は焦燥混じりに呼びかけた。


「ねえ、いるんでしょ。」


 師匠と呼ぶのも、父と呼ぶのも、正直どちらも宗也の中でしっくりこない。それは恐らく呼ばれる側も同じで、どうやっても紀明との距離が縮まることは無かった。


「殺せ、って、ほんとは何だったの。母さんは皇の人間だったの?その目だって自分のじゃないんだろ。昔はそんな色じゃ無かった。」


 紀明からの応答はない。ざあざあと喚く木々に、ひぐらしの声がするばかりだ。


「俺、何も聞いてこなかった。でもそれは、習うより自分で会得しろって言われたからだ。だからできるだけのこと、してきたつもりなんだけど。でももうそれだけじゃ駄目なんだ。今の俺じゃかなめを守れないんだよ。だからもっと、教えてしいのに…!」


 痺れを切らした宗也は声を張り上げる。


「出てきてよ父さん!!」


 風に紛れて、刃が空気を裂く音がした。


「ほんとはな、パパって呼んで欲しいんだ。」

「ぜったい嫌だ…ッ!」


 振りかかる脇差を、宗也は打刀で受けていた。

 圧し斬られてしまいそうなほど重い太刀筋。宗也はすぐさま横へと往なして距離を取る。


「その目、あと俺の記憶と、母さんの素性と………あとは…ッ、」


 距離は一瞬で詰められた。面食らう宗也の鳩尾には、紀明の肘がのめり込む。


 思わず丸めた上半身へ、更に手刀が振り下ろされた。鈍く重い衝撃。宗也はよろける体を気合で持たせた。が、紀明の回し蹴りによって狛犬の足元へ叩きつけられた。


「こっ…のクソ親父……!」


 余裕の笑みを浮かべる紀明。

 その手に握る脇差は、黄昏の紅が沁みていた。


 紅が眼前へと迫る。


 宗也はすんでのところで刃を避け、父の死角で打刀を懐刀へと変えた。そしてそれを喉元めがけて突き出す。が、完全に読まれていた。父の目元がゆるりと歪み、懐刀は虚しく空を突く。


 宗也は舌打ち混じりに懐刀を横へと滑らせながら、どうせ話などする気が無いのだろうと落胆を覗かせた。


「強くなりたいんだよ。昔あの社で言っただろ、力は正しく使えって。この力の使い道なんか、かなめ以外にある訳ないだろ!」

 

 藍へと移りゆく空に混じって、蛋白石の瞳が瞬きをする。


「お前が本気で望まなければ、その記憶は甦らなかった。」


 懐刀を止めるのは、父の素手。

 そのまま懐刀を奪い、刃を弓へ、滴る血液を破魔矢へ変えた。細い矢柄を螺旋状の青が彩っている。


呪術これは後で教える。先ずは冬也とうやに会うといい。」


 青く燃える教導の焔は、身構える暇さえ与えない。破魔矢は容赦なく宗也の腹を捕らえた。それは音緒から受けた古傷だ。


「お前の気概に見合う答えは奴が持っている。」


 矢柄の青が、苦痛を堪えた宗也の体に満ち渡る。

 本矧に括られた組紐までもが宗也を通過すると、急に体が軽くなった。


 宗也は治療を受けても尚、怪訝な顔で父を見た。


「冬也って?」

「お前の兄貴だ。」

「はっ?」


 宗也の背後で組紐がばらけ、夥しい量の切幣へと変化した。


 紀明は浅く笑ってから片手を挙げる。

 すると切幣の竜巻は軽々と宗也を持ち上げ、境内の左にある石鏡へ飛ばした。


「汝を知れ。」


 不明瞭な視界の中で、宗也は社のそばにある石鏡の鏡面が、漆のように艶めいているのを見た。つい先程まで、なんの変哲もない石だったのに。そんなことを考える頭から真っ逆さまに鏡面へと落とされる。その最中、再度父の涼しい声がした。


「五分で戻るかそのまま死ぬかだ。」




 呪術で飛ばされたのは、閉塞感に満ちた暗闇。


 自分を包む膜越しに聞こえる低い声。その声に反応した体は勝手に押し出されていく。丸まった体が外気に触れて身震いを起こした所で、宗也は誰かの記憶を追体験しているのだと気付く。


 ゆっくり開いた瞳に映る、ひとりの人間。


 彼は無表情のままこちらを凝視していた。恐らく宗也と同じ年頃の少年だ。


「……来るか、一緒に。」


 迷った後に、少年はたった今生まれ出た者を抱き上げた。彼の腕や頰には血飛沫が飛んでいる。抱えたまま出口へと向かう彼の背越しに見た部屋の中には、数多の同胞が事切れていた。


 宗也にはこの悲惨な状況が彼による殺戮と推測がつくが、この妖にはわからないらしい。彼の温もりに抱かれて安心していることだけが伝わっていた。


 少年は師匠であろう男の助言を受けて、廃墟だった社を一人で再建し、妖と自分の隠家にした。そこで妖はみるみるうちに成長し、少年によく懐いていった。


 妖が、鱗を煌めかせながら少年の周囲を浮遊する様を、宗也の意識は少し離れた場所で眺めていた。


 あの少年は紛れもなく紀明だ。

 そして妖は、父が言うところの兄で間違いない。紅狐といい音緒といい、妖は皆、言葉で話すより記憶を見せた方が早いと思うのだろう。父が冬也と呼んだ妖もまた、宗也にこの記憶を見せていた。

 

 少年が幾分大人びた頃、妖は立派な龍の姿になっていた。畏怖さえ感じるほど、清らかで雄大な霊気。それは妖が聖獣であることを物語っている。


 溢れんばかりの霊力を使って、青龍は童の姿を取った。ぴょこぴょこと跳ねる耳と尻尾は龍のままで、なんとも滑稽な見てくれだった。


 気づけばそれを可愛がる人間が増えていた。それが若かりし母・麻美であることも、宗也にはすぐ分かる。


 しかし青龍の記憶以上のことは分からない。

 どんな経緯で二人が連れ添っているのか、宗也は知らないままだ。それでも記憶は止め処なく流れていく。


 共に町へと降り立って、青龍は死地の平定に一役買った。自由に町を駆る視界の端には亀も居た。関守二人が三日で町を清めた絡繰はここにある。


 しかし間もなく町を出た。母は生まれたばかりの赤子を抱えていて、お包みにはしめ縄が巻かれていた。その赤子が自分だと認識すると、宗也の視点はそちらへ移っていった。


 ばあ。身振り手振りで童姿の青龍があやす。

 その瞳は蛋白石のように光を複雑に反射した。滑稽な青龍の化け姿は、赤子を大いに笑わせた。


 父のみと思っていたあの社には、必ず青龍の姿があった。父は青龍を冬也と呼んでいた。


 宗也に力の扱いを教えるのは殆ど冬也だった。

 父は好き勝手暴れる聖獣と神童を笑いながら、結界を強化して二人の遊び相手となっていた。


 そして、宗也が五歳を過ぎた頃。


 父は縦横無尽に社を駆け回る二人を呼び、行儀良く並んだ二人を見やった。宗也ばかりが成長して、二人の身長差は拳ひとつまで縮まっていた。


 父は冬也の、蛋白石の瞳を見て言った。


「宗也の荒魂を、預かっていてくれないか。」


 宗也は荒魂の性質が極めて強い。

 紀明は癇癪を起こす頻度や規模で確信を得ていた。通常なら術者数人がかりで鎮めるものを、父は聖獣に預けようとしている。


「荒魂を預かっている間、宗也は冬也を忘れるだろう。だがな、自分で鎮めなければ意味がないんだ。皇に委ねて、都合の良い駒にさせるわけにいかない。」


 冬也はあっさり承諾した。宗也が驚いてそちらを見れば、誇らしげに胸を張る冬也が居た。


「……お兄ちゃんだから、と言いたいらしい。」


 父は余韻に浸る暇さえ与えずに儀式を執り行った。宗也の半身である荒魂を預けた瞬間、冬也は本来の姿へと戻った。社に収まりきらない程に大きく蒼い龍だった。


 瞼の裏に、呼ぶ声が響く。


 薄く目を開けると、飛び込んで来たのは黒檀の瞳。浅葱色の艶髪をひとつに束ね、そばかす代わりの鱗を湛えて、人懐こい笑みを浮かべる童。彼こそ冬也である。


 かける言葉は見つからなかった。しかし冬也はさして気にせず、横たわる宗也の顔を見てはにこにこしていた。


「ことば、おぼえたの。すこし。外をみせてくれたから。」


 荒魂を守り、社に籠りきりになった冬也の慰みとして、父は瞳を交換したのだろう。冬也がいつか社を出るその日まで、退屈しないように。


 加えて、関守としてあの町を治める父にとって、神獣の瞳が見せる超自然的な景色は、鬼に金棒。常人的な強さにも合点がいった。が、宗也の思考を察した冬也は首を横へ振る。


「ずっとつよいよ。そうやのパパは。パパもじぶんで荒魂をしずめたの。」


 冬也の背後には祭壇がある。ここは山頂の社だ。祭壇には青銅鏡が丁寧に祀られている。誰がそうしているのか、宗也には一目瞭然。


「そうやもつよくなりたい?」


 見上げる黒檀の瞳を、宗也はじっと見返した。


「守りたい人がいる。」

「いっしょだね。」


 冬也は目を伏せて笑う。

 童に似つかわしくない穏な笑みを浮かべたまま、自身の首飾りを外した。


 勾玉を連ねた首飾りにはひとつだけ、拳ほどの珠が在る。触れるのを躊躇うほどに薄く、内側から陽のような淡い光を溢していた。


 荒魂と呼ぶにはあまりに温い珠。

 宗也は呆気に取られながら珠と冬也とを見た。


 おもむろに、冬也が首飾りごと珠を差し出す。

 戸惑いながら伸ばした宗也の手をすり抜けて、珠は胸元へ充てがわれた。


「どうか宗也が、清かな心にみちますように。」

 

 瞬間、自身の内部で霊気が爆ぜた。


 思わず膝をつくほどに重く熱い心。

 珠は解け、己へと還った魂が暴れ出す。宗也を中心に暴風が吹き、社を囲う注連縄が幾つも千切れて落ちた。

 

 張り裂けんばかりの鼓動が耳を打ち、目眩と共に父の言葉が脳裏に反復する。五分で戻るか、そのまま死ぬか。


 心から湧き上がる返答は、ふざけるなの一言。

 宗也は死に物狂いで自身を押さえつけた。


「………心者即一元未生之神明也。」


 霞に視界を奪われる前に、宗也は祭壇に置かれた鈴を手に取った。神楽鈴よりも大きく、金属で作られた紙垂のついたそれを力任せに鳴らし、双眸を閉じる。鈴は自身の皮膚を裂き、容赦なく清らかな音を打ちつけた。


「……元元而入元元、本本而依本心。登天報命、住日少宮。」


 瞼の裏に蠢く荒魂。蓮沼の雛によく似ていた。


 朱雀は宗也が化物になると言った。

 腐っても鯛、腐っても神獣。奴の言うことは正しかったのだと、のたうち回る自身を感じ思う。かなめが形代として穢れを祓い、父が瘴気を一掃しても尚、荒魂に強く共鳴する仄暗い影。


 宗也は自身を嘲笑う。

 聖獣に荒魂を預けたとなれば己に残るは和魂。百目鬼の挑発に容易く教室を暴風域にし、妖の術中に嵌り化物を吐き出し、一番大事な人間を傷付けておいて、何が幸わうものか。


「…生れ来ぬ先も生れて住る世も、まかるも神のふところのうち。」


 込み上げてくる嗚咽を何度も飲み込んだ。はち切れそうな程に灼けた喉で唱える祝詞が、ちぎれた注連縄を吹き上げて、新たな結界を作っていく。


「別都頓宜寿、まこと冥土の鳥ならば、峠に待ち居れ道連れに…。」


 全身が熱く流れる血流で震えた。肉壁を突き破らんとする荒魂の衝撃で、内側から血が爆ぜる。

 宗也はいつしか全身傷だらけになっていた。しかし血が滲み滑る持ち手を握りなおし、宗也は再度鈴を振るう。


 屈してはならない。

 必ず現世へ戻り、成さねばならないことがある。


「…大王の入るよと立てし石の戸は、我より外に聞く人もなし。」


 目眩によって天地を失っていた。

 今の宗也ではまともに地面を突くことは出来ない。それでも必死に鈴を振るった。金属で出来た薄い紙垂が手の甲を打ち、持ち手は更に血で滑る。


 しかしその清い音は、蠢く自身を揺らがせた。


「大王は日の少宮に今着いた。御戸開いて入るぞ嬉しや……!」


 がくんと、床についているはずの膝が折れる。

 自身の最奥へ。

 感覚でそう悟る宗也の鼓膜の奥で、翼の羽撃く音がした。


 眼前に迫るのは、墨を垂らしたような艶黒。


 自分の背丈を優に超える大きな鳥。

 太い嘴に鱗の頸。投げ出すように広げられた翼は、周囲の闇に透けて、骨格だけが浮き出ていた。静かな霊気を纏ったその鳥は、血みどろで膝をつく野坂宗也という人間が自身を委ねるに値するか、黒檀の瞳で見定めんとしている。


「……力は所詮、ただの力でしかない。」


 相槌のように足元を掠めた尻尾は、まるで孔雀のようだった。


「幸わうも災うも、それを決めるのは俺達だ。」


 痛みに軋む体を奮い起こして、宗也は雄鶏のような頭へと手を伸ばす。すると艶黒の鳥が、頰を宗也の掌へ擦り寄せた。


 呼応し、共鳴する。


 宗也の背で、真白の翼が静かに広げられた。

 真白の光が、艶黒の瞳へと移る。


「行こう。かなめが待ってる。」


 触れたところから融けだす二人。

 闇に馴染んだ漆黒の翼はいつしか、眩いばかりの清らな白を携えていた。

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