第28話 All-or-nothing(前編)
瞼の裏に浮かぶのは、殺風景な女官の部屋。
石造りの室内で小さな蝋燭を灯して、彼女は机の下で丸まった自分を覗き込んでいた。
「初めから人でないことくらい分かっていました。だから出てらっしゃい。」
ついでに言えば机の下の生き物が威嚇しているのではなく、いつ怒られてもいいように身を竦めて構えていることも、彼女はお見通しだった。
彼女は昨日から一睡もせずに仕事を片付けていた。だから少し休めと言いにきたのに、亡き師匠から継いだ大事な仕事なのだと返す彼女の瞳はどこか切なくて、ならお前が眠るまでそばに居ると言い出したのは自分のほう。
最終的に我慢比べになった。船を漕いだ拍子に文字通り、化けの皮が剥がれてしまったのだ。
「ですがその姿を他の者に見られたら、それが終わりの合図ですよ、紅。」
こうこという名前に漢字を誂えたのは彼女だ。
このころ巷では狐が国を滅ぼしたという噂があって、彼女は自分を狐だと早合点していた。そして今も、暖をとる為と持ち込んだ毛布に包まっているせいで、彼女の誤解は解けていない。
「劉伯にはあなたの愛が必要です。あなたが気まぐれで寄り添っているのではないと分かっているつもりです。」
机の下を覗き込む代赭の瞳。
周囲は彼女を非情と言うけれど、高貴な身分に託けて
「大丈夫。ここにはもう、貴女の変幻を見破る程の術者は居ないのです。半端な術者では、
思わず手を伸ばしたくなるような、照れの混じった柔らかな表情。頰を掻く彼女の手の甲には火傷の古傷がある。彼女はいつも両手を大きな袖へと仕舞い込んでいた。
その手がこちらへ向いて、笑みを崩さないままの彼女が言った。
「……おいで。」
抱き締める彼女が、年相応の嬌声を漏らした。
彼女も人並みに、愛くるしいものは好きなのだろう。
そう。我ながら、本来の姿は愛くるしい。
しかし真白の毛艶に映える美しい縞模様も、まあるい耳も、宝石のような黄金の瞳も、彼女は何一つ気付かない。
たかが狐と思いやがって、と、舌打ちを飲み込んだのは、あまりにも嬉しそうに自分を抱きしめる彼女に免じてのことだった。
「…ふふ。これで私は、王妃の弱みを握ったわけですね。」
柄にもない軽口と共に椅子へもたれ掛かって、人より少し体温の高い自分を抱き抱えている。不公平だと目で訴えると、彼女はしばらくしてからふっと笑った。
「じゃあひとつだけ。内緒ですよ。」
彼女は身の上話を一切しない。宮中の誰に聞いても、彼女についての情報は得られなかった。あまりに誰も何も知らないので、紅狐はカスガイという人間の存在自体を疑い始めていた。
「私ね、ひとが怖いんです。」
とくとく揺れるこの心音を聴きながら、代赭の瞳は仄かに照らす蝋燭を眺めていた。
「だから貴女のように、愛を持って劉伯を支えることは出来ない。」
毛並みを撫でる手には、霊気が込められている。
彼女の清らかな力で、王宮どころか国全体が守られていることを、誰も知らないのだ。我々が果たすべき責務を、彼女は立派な術式を以って全うしていた。それを書き記し、誰の目にも触れない場所へと隠すのも彼女の仕事の一つらしかった。
「…怖いけれど、嫌いではないの。貴女達が姿も、心さえ寄せる理由が、分からないわけではないの。だからできる限りのことをするつもりです。」
彼女の奥に潜む恐怖を、それを押し込め奮い立つ心を、誰が理解してやるのだろう。
涙さえ仕舞い込んで、ひたすらに自身を投げ打つ彼女を、誰が支えてやるのだろう。
「夜明けは勇気が要るんです。火を灯し、服を脱がなければいけない。なら初めから眠らなければ良いかと、思ったり思わなかったり…。滝のほとりで微睡んでいるだけで、十分疲れは取れますし。あそこはまだ霊気に満ちている。…あと何年保つか、分かりませんが。」
何年保つかわからないのは、彼女も同じこと。
自分を抱き寄せる胸元から聞こえる心音は、時折外れた調子で跳ねている。この脆さが、彼女は人間という儚い生き物なのだと、痛感させる。
「私が起こしてやる。」
「いつでも春眠のあなたが?」
「着替えだってしてやるぞ。」
「帯のひとつも結べないのに。」
「簪はさせる。」
「さすための髪を結っているのは誰ですか。」
一人掛けの椅子に華奢と神獣。
紅狐は人の姿を取り戻していたが、椅子は微塵も軋まない。
彼女は体が小さいのだ。
正直彼女を見たとき、紅狐は変幻の規格を間違えたかと思った。けれど次に彼女と会った時、彼女はわざわざ踵の高い靴を履いて、しかもそれを着物の裾で隠していた。
そうやって外見だけでなく、無垢な本性さえ隠す彼女に、どっちが妖か分からないなと、内心笑ったのだ。
「私はお前のことも大好きだよ。」
彼女は本性だけでなく涙も隠す。
その証拠のひどい鼻声で、くすくすと笑いながら言った。
「劉伯が妬く前に寝所へ戻りなさい。今日は久々の休みですから、起こしになんていきませんよ。」
腕の中に、寝落ちたかなめを抱いている。
宗也は推測がついていた。
蓮沼でかなめが電池切れを起こし、代打として紅狐が表へ出てきたこと。
紅狐は頼みがあると言いながら、ここでは駄目だと首を振って、球体の音緒へ「朱雀を頼む」と伝えたのちに引っ込んだ。糸の切れた操り人形のように倒れ込む華奢な体は、一層濃い呪詛と強い脈動に覆われていた。
しんと静まりかえった野坂家の階段を上り、宗也は扉を開けるためにかなめを抱え直した。
脈打つ体内に燻る瘴気は、自分を看病した時に食らったものだろう。
「……。」
かなめは春よりずっと痩せた気がする。
今までこんな風に体を預けてくれはしなかったので比較のしようもないのだが、宗也は今朝の、薄い襦袢ひとつを纏ったかなめを思い返して確信を得ている。中学生手前まで一緒の風呂に入れられていたので、今更彼女の裸に戸惑いはしなかった。
向こうが同じ心持ちかと言われれば、そうではないらしい。朝の赤面を思い出し、宗也は笑いを殺しながらモノトーンのベッドにかなめを下ろす。
「…遠つ御祖の神、御照覧ましませ。」
呪いを打ち消せなくても、体内の瘴気を晴らすことは出来る。かなめが自分にしてくれたように、苦悶の渦から掬ってやりたかった。
「…祓い給え、清め給え。」
宗也が静かに手印を結ぶと、掌から清い霊気が溢れた。仄かに温く青白い光を、血の流れに沿わせる様にして指先に集中させる。余分に力を掛ければ、霊気は勢い余って空気中へ放たれてしまう。この細かい力の掛け方を、かなめはちっとも理解しない。
宗也は静かにかなめの首筋へ触れる。血管が透ける肌に、仄かな光が滲みていく。
「…神ながら守り給い、幸え給え。」
肌を通り越して血流に乗った霊気は、体を巡るうちに青白い光が失せて、燻っていた瘴気を打ち消した。これこそ、かなめが習得出来ない皇独自の治療法である。
無意識に強張っていた体の力が抜けて、彼女は横へと寝返りを打った。
深い眠りに落ちたかなめはひどく静かだ。
日中の彼女と比べれば正に静と動。この無機質な表情は、代赭の瞳が柔く微笑む様や、日光を含んで葡萄色に輝る艶髪を鮮明に思い出させて、却って恋しさを募らせる。
この溢れる想いを留めておく堰は、かなめが壊してしまった。
「…俺ね、嬉しかったんだよ。」
宗也は幼少期の記憶が極端に薄い。
唯一覚えているのは、神社で開かれたあの宴だ。人生最初の修行を終えて、町へと帰った日だった。
皇では、稀有な霊力を持って生まれた赤子を神童と呼ぶ。そして神童の霊気には二つの性質がある。
幸うものと、災うもの。
神童・野坂宗也の霊気は、荒魂の性質が極めて強かった。故に宗也は、生まれてからの五年間を社のなかで過ごした。町の大神宮ではなく、もっと高い山の上にある神社だ。何度聞こうが今日まで、両親は詳しい場所を教えてくれなかった。
がらんどうでの日々は退屈そのもの。
ここからいつ出られるのかと問えば、父は決まって「力をうまく扱えるようになったらな」と答えた。
駄々を捏ねると地が揺れて、社を囲う注連縄がいくつも千切れた。その度に父が祝詞らしき言葉を唱え、泣きじゃくる自分をあやした。
ある日、涙の退かない自分を見兼ねて、父は自分と同じだけの霊力を披露し、轟々と燃える炎のような力で社の梁を軋ませてみせた。
大きな音に身を竦ませた自分を抱きながら、父は業火を小火まで収めた。
見様見真似で霊気を操ってみると、存外上手くいった。すると父はその調子だと目を細めて頭を撫でくれた。大きな掌も、
いくつも季節が巡り、癇癪を起こさなくなった頃。宗也は父に手を引かれて社を後にした。
どこへ行くのかと問えば、町に帰るのだと言う。今日は月見酒だろうなと呟く父に、宗也の心は踊った。初めて聞く単語であったが、楽しい催しであることだけは察知していた。
森の中、少々急な下り坂の先に木造の古い鳥居があって、その下には母が居た。二人が鳥居を潜るのを待ってから、母は嬉々として宗也を抱きあげた。
ところが月見酒に人間はおらず、同じような社に案内され、おまけに訳の分からない衣装を着せられて、宗也はすっかり落胆した。
もう機嫌に任せて注連縄を千切ることも、石灯籠を崩すこともなかったが、だからといって跳ねて騒ぐ妖達の仲間に入る気もさらさらなかった。
そんな宗也のもとへ、かなめがやってきた。
きらきらした瞳で妖を見て、宗也が即興で出した真白の大袖を喜んだ。袖を翻してはしゃぐかなめを見て、宗也は心底ほっとしたのだ。
「この力が誰かの為になるって、教えてくれたのはかなめなんだよ。」
彼女は受け身にとどまらず、宗也とバディを組みたいとまで言った。幼児の戯言などではない。彼女は本気で開花を信じ、血の滲むような努力を続け、花開いた今、剣が峰に立たされている。
祭りまであと七日。
町が澄みきった所を狙って、かなめごと紅狐を
具体的な方法や手順を訊ねると、彼は「詳しいことは師匠に聞け」と答えた。煙草の残り香を纏いながら、「お前はもっと親父さんと話をした方が良いよ」とも言った。
父と息子、師匠と弟子。お互い多弁ではない。
数少ないやりとりは大抵噛み合わず、今回のことで決定的な遺恨を残した。宗也はあの蛋白石の様な、冷たい瞳を思い返す。
「……。」
殺せという言葉にも恐らく齟齬がある。
真意を訊くと同時に、人間が人間を間に放る術を教わらなければならない。そんなものは、宗也が読み漁ったどの呪術書にも載っていないのだ。
思い返せば父の扱う術はどれも、どの書物にも記載のないものだった。だとすれば全て独学もしくは禁手。前者であればまだ良いが、後者は厳しい罰則がある。それを恐れず日常的に扱っているのであれば、何か理由があるに違いないと宗也は思う。
父は得体こそ知れないが、いい加減な性分ではないのだ。しかし父の足りない言葉を必死に組合わせても、その意図に辿り着けない。それが尚更宗也を苛立たせる。昔はもう少し親切で、人間味があったはずなのに。宗也の脳裏には「力は正しく使え」と、黒檀の瞳を細めて自分の頭を撫でていた若い頃の父が浮かぶ。
「……。」
おかしい。
父のあの、複雑に光を反射させる蛋白石のような双眸。あれは後天的である。なぜ今まで気が付かなかったのだろうか。宗也は必死に幼少期の記憶を辿る。
しかしどれだけ必死に記憶を辿ろうとも、一向に思い出すことが出来ない。恐らく何かの術が掛かっているのだろう。宗也にとって推測は容易かった。
不意に、部屋の扉が開いた。
「帰ってたの?」
顔を出した母を見るなり、宗也は立ち上がる。
「母さんごめんかなめをお願い。」
一度かなめの頰を撫でてから、宗也は黒の羽織を翻して、夕暮れ迫る黄金の外へと駆け出した。
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