第3話 彼女を狙うもの(前編)


 帰りは夜中になると言っていた玄宗は、結局帰ってこなかった。

 次の日の朝も不在で、かなめは渋々ひとりで鍛錬をして、いつも通り宗也と二人で登校した。

 ちなみに汚された上履きは、昨日のうちに麻美がピカピカに磨いてくれていた。かなめはそれをそっと昇降口の床へ下ろし、ここにいない麻美に向けて礼を言いながら履いた。宗也はそんなかなめの様子を、真隣で眺めていた。


 そんな姿を見た生徒から呼び出されて、かなめは今、体育館の自販機前にいる。

 自分を囲む三人の女子生徒に、かなめはああまたか、と思って身構えた。身構えたのに、その力はあっけなく抜けていった。


「だから私は二人が付き合ってるの、最高だな!って思ったんだけども。」


 真剣な顔をしてこちらを見ているのは、湯川柚愛ゆかわゆあというクラスメイトで、両隣の女子生徒も鼻息荒く頷いていた。かなめは突然の熱弁にたじろぎながらも、先日の理科室での一件を弁解する。


「あれは、宗ちゃんが私を庇っただけだよ。」


 両サイドの女子生徒は、そんな訳がないだろうと言いたげな顔。しかし中央の柚愛は、かなめをまじまじと見つめてから言った。


「もっと邪険に追い返されるかと思ってた。噂は所詮噂だね。」

「噂?」

「流石に本人には言わないか。まあそんなのはどうでも良いのよ。」


 柚愛の、肩の少し上で切りそろえられた髪が揺れる。背が少し高くて、かなめが見上げた彼女は程よく日焼けをしていた。つり目で黒目がちの瞳が、溌剌と輝いている。


「じゃあ質問を変えよう。野坂君のこと、別に好きじゃないの?」


 かなめの眉が綺麗な八の字になった。


 二択であれば好きと答える。勿論だ。

 ただこれはあくまで、幼馴染として、同じ仕事を目指す同志としての好意。そう説明しても、信じる者は居なかった。


「私は宗ちゃんと一緒に……。」


 ピタ、とかなめの動きが止まる。

 かなめの言葉を待って、四つめの首が傾げられているからだ。


 彼女達の肩にまたがる黒い四肢。右端の生徒の首元に、もうひとつ頭があった。かなめはこれが、昨日消し損った生霊だとすぐに気付いた。

 塗りたくったような白い顔が、真っ黒い瞳を二つ携えて、ニタリと笑っていた。先日よりも人間らしく、こちらへ手を伸ばそうとしていた。


「邪魔ナモノ、全部教エテ。食べてアげル。」


 深く湿った声。かなめの背筋を駆け上がるように鳥肌が立つ。柚愛は心配そうに代赭の瞳を覗き込んだ。


「かなめちゃん?」

「ヘェ、お前、カナメって言ウノ。……カナメ、かなめ。おいデ。」


 深淵の闇を湛えたその腕が、かなめの喉元目掛けて迫っていた。


 ガコン!

 左から吹き飛ばされたプラスチックのゴミ箱と、青のそれを蹴り飛ばしたであろう男子生徒の左足が姿を見せた。


「さっきからうるさいんだけど。」


 ビリ、と空気が震えるほどの威圧的な霊気。

 かなめがそちらを向けば、そこには赤茶色の髪をして、制服を着崩した不良少年が立っていた。両手をズボンのポケットへ突っ込んで、琥珀色した瞳がこちらを睨みつけている。


 ホッとするかなめと対照的に、竦み上がるのは湯川を挟んで立っていた女子生徒二人と、その肩に乗る悪霊だった。


「鹿嶋君だ……!」

「おニだ…おにダ…!」


 柚愛に不良少年を怖がる様子はなかった。

 両隣の動揺っぷりに驚きながら、腕を引っ張る二人に連れられてその場を後にした。悪霊は女子生徒の肩を借りていたせいか、意に反した退却に抗えないようだ。


 悪霊は最後までかなめへ向かって手を伸ばし、名前を呼び続けていた。けたたましい叫び声が、かなめの頭に反響していた。


 姿が見えなくなって、かなめはやっと自身の震えに気づく。冷え切った手をひとりでさすっていると、横から声がした。


「お前松浦だろ。玄宗さんとこの。」


 蹴り飛ばしたゴミ箱を律儀に立て直す不良少年は、訝しげにこちらを見ていた。存外声音が高く、音緒とはまた別な柔らかさがあった。


「あなたは?」

「……鹿嶋椿かじまつばき。」


 かなめは大きく息を吐く。恐怖で強張っていた体の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。


 椿は渋々手を差し出した。

 かなめを起こす手が彼女の脇腹に触れた時、椿に伝わるのはうねるような脈動だった。椿の長い前髪からのぞく瞳が大きく見開かれて、彼はすぐに厳しい顔つきになる。


「お前呪われてんだろ。」


 ぽか、口と目を開けて、かなめは椿を見た。

 突拍子のない問いかけに、彼の華奢な体にもたれたまま、完全にフリーズしている。


「腹。」


 椿が触れた部分は、かなめにも不自然な鼓動を伝えていた。警鐘にも似たそれは、確かに脇腹から発信されている。


「さっきのやつだろうな。」


 かなめは慌ててシャツを捲った。

 腹部に見て取れるのは、広範囲のミミズ腫れだった。それは臍の傍から放射状に伸びていて、かなめはみるみるうちに青ざめた。


「今朝までこんなのなかったのに…!」


 椿は気まずそうに後ろを向いていた。

 背中でわちゃわちゃと喋っているかなめへ、返事をくれてやるか迷ったところで、どうやら自分宛の質問ではないことに気付く。


「紅狐、これ心当たりない?紅狐?寝てる?!」

「……お前何憑けてんの?」


 椿は顔を引きつらせていて、かなめはようやくハッとする。放課後の西日の中、しどろもどろに説明すると、今更紅狐の声がした。


「うるさい眠い。あいつらのことなら目の前の小僧で充分だ。私はまだ寝たい。」

「充分って?」

「そいつで充分祓えるということだ。おやすみ。」

「昔から思ってたけど紅狐寝すぎだよ!」

「そうやって少しずつ思い出せばいい。試しにお前が祓ってみるのはどうだ?じゃあな。」

「ちょっと!」


 椿には聞こえない声。

 彼に驚いた様子はないが、眉間に皺が寄っていた。かなめは椿と改めて目を合わせた。動じる様子のない彼は、霊能関係の人間なのだろうとかなめは思った。


「鹿嶋君って皇のひと?」

「妖との混血は皇に入れない。」

「妖とのハーフなの?」

「……ハーフって表現は初めて聞いたな。」


 椿の眉間に寄っていた皺が伸びる。

 かなめとさして身長の変わらない彼の、一重で大きな目元が優しく微笑んでいた。


「最近町の瘴気が濃い。その根源を探してる。松浦お前心当たりは?」

「…私達かもしれない。昨日もそうだったの。だとしたら、校舎全部を清めた方が早いかも。」

「さっきのあいつだけは仕留めた方がいい。…聞き出さずに名前を拾う奴なんて、滅多に居ないんだけどな。お前運が悪いな。」


 かなめは思いついたようにその場から駆け出す。

 放っておくわけにもいかず、しばらく迷った椿はその後を追いかけた。


「わたし今、呪符もなにも持ってないの。」


 かなめが向かったのは、二階にある家庭科室だった。静まりかえった教室に侵入して、かなめは戸棚を開ける。そして茶色の紙袋を抱えて、背後で首を傾げる椿へ向き直った。


「前、パパにお清めのこと聞いたら、塩でも撒いとけって言ってたの。」

「……それは、」


 適当にあしらわれてるんじゃないのか、とは言えない椿だった。塩を抱えて、やる気に満ち溢れたかなめの表情に、水を差す気力が削がれてしまった。


「でも私、勉強はしてるけど実践経験がないの。」


 かなめはぎょっとする椿もお構いなしに、目を閉じて意識を集中させた。

 かなめには瘴気の濃さが感覚で分かる。一際濃く放たれた瘴気を目指して、かなめは階段を駆け上がった。


 三階には音楽室が三つある。

 階段を駆け上がった正面にあるのが第一音楽室だ。吹奏楽部や音楽部が、唯一使用しない場所だった。彼らがわざわざ空き教室を使っているのは、この教室がと噂されているためだ。


 スパン、と勢い良く扉を開ける。

 かなめの視界に飛び込む悪霊。ドンピシャである。どうやら感覚は冴えているようだ。


「……ダァれ?」

「さっきの子じゃない…。」

「いいから祓えよ。そいつだって悪影響なんだから。」


 かなめに追いついた椿は、息ひとつ乱れていなかった。かなめは大きく呼吸しながら、抱えていた塩の茶袋を開ける。白い粒々を確認し、かなめは袋ごと悪霊へ投げつけた。


 目をまんまるくする椿も、清らかな霊気を含んだ塩に怯む悪霊も、かなめはひとつも見ていない。その目を固く閉じていた。


「……お前ありきの浄化だな…。」


 椿は呆けた顔で、消えゆく霊と、爆発的な霊気で悪霊を打ち消したかなめを交互に見ていた。正直塩なんか要らないんじゃないかと思えるほど、かなめの体内から、泉のように溢れる霊気。水紋が広がるように、瘴気を揺らがせて清めていた。


 かなめは霊が消えたことを確認して、再度目を閉じる。校舎には、トランペットや歌声や運動部の掛け声が響いていて、西日がよく降り注いでいた。肌を刺すような熱に混じって感じる瘴気。じりじりと重く湿った感覚だった。


「……次は二階だね。」


 かなめは椿から塩の袋を受け取りながら確認する。椿はかなめが目を瞑っている間に音楽室を一周していて、出入り口前にいるかなめの肩越しに廊下を見ていた。


「その前に後ろ。」

「後ろ?後ろね!」


 かなめはくるりと後ろを向いて、勢いよく塩をぶちまける。


 バサッ。ばらばら。


 かなめの手には何かを殴ったような、しっかりした感触が伝わっていた。霊や妖は気を高めて実体化すると、玄宗から聞いていた。校内に巣食う悪霊はすでに体を持ってしまったのかと、がっしりと瞑った瞳の中でかなめはため息をついた。


「……お前の連れがいるんだけど。」

「……えっ。」


 騒ぎを聞きつけてやってきたのは、悪霊でも妖でもない。宗也だった。恐る恐る目を開けたかなめは、みるみるうちに青ざめて、顔面に塩を食らって俯く宗也を見ていた。


「……何やってんの?」


 塩分は容赦なく粘膜から侵入して、宗也に激痛を与えていた。目を擦りながら、制服についた塩を払っている。ふつふつと沸き上がる感情を抑えながら、宗也は長い長い息を吐く。


 それと重なる椿のため息。それには安堵の色が滲み出ていて、彼は膝に手を置いて脱力していた。


「なあこいつどうなってんの?この短時間で呪われるわ塩ぶちまけるわ……お前よく一緒にいられんな……。」


 宗也が静かに目線をずらしてかなめを見ると、彼女は大層気まずそうにしていた。こういう時かなめは、一切人の顔を見なかった。悪戯を叱られている最中の犬みたいだ。


「後は全部連れに聞けよ。」

「連れ?」

「だってお前ら付き合ってんじゃないの。」


 かなめは全力で首を横に振った。恨めしそうに横目で見る宗也が見えないほど高速に。椿はそんなかなめに、何を今更取り繕うんだとでも言いたげな顔をしながら言った。


「どうでもいいから俺は帰るけど。」


 言い終わる前に、椿は二人を横切って階段へ到達していた。反射的に追いかけようと廊下へ出たかなめを止めるのは勿論宗也で、塩で赤くなった黒檀の瞳が心配そうにかなめを覗き込んでいた。


「呪いって昨日の話?」


 かなめは、宗也から目を離せないまま経緯を話す。呼び出しの内容は伏せて、霊に名前を知られたことと腹部の呪詛のこと、椿が助けに入ってくれたことまでを話した。話が進むほどに、宗也の眉間の皺は濃くなっていった。


「次からは真っ先に俺を呼びなよ。」


 かなめが了承することはなく、ぎこちなく視線を泳がせ始める。宗也は首を傾げながら、かなめの腕を包み続けていた。


「バディ組むんでしょ?もう周りなんて気にしてられないんだよ。」


 かなめがふと気配を感じて左を向くと、談笑と共に女子生徒の姿があった。慌てて宗也ごと音楽室の中へ引っ込んだ。ぐっと密着する体もお構いなしに、かなめは黙り込んで、廊下を過ぎていく足音に意識を集中させていた。


「……。」


 押し黙るのは宗也も同じだが、別に返答がなかったことへの拗ねではない。かなめの細い腹と背を挟むようにして手を添えて、呪詛の侵攻状況を探っている。宗也には、呪詛を中心に、かなめの霊気が吸い取られているように感じられた。


「あの、宗ちゃんここ学校……。」


 足音の過ぎ去った音楽室で、かなめが気まずそうに言う。誰かに見られては困るという抗議なのだろう。宗也は、かなめが受けた呼び出しについて、小さく鼻を鳴らした。呼び出されてする話なんて、高が知れている。正直、そんな野次はどうでもいい。

 かなめは周囲を気にするあまり、肝心なことを忘れている。


「学校じゃない場所で、誰もいなければいいの?」


 宗也はかなめの頰に手を添えて、その代赭の瞳をじっと見つめた。


 彼女の制止は、自身の感情によらないのだ。

 これは、宗也が普段なら問い詰めたりしない部分。宗也を焚きつけるのは、唐突に現れた不良少年に他ならなかった。


 黒檀の瞳に影を作る前髪は、小鼻にかかるほど伸びていた。後ろ髪もシャツの襟を擦っていた。宗也が、真夏に向かって髪を伸ばすのは、夏祭りのためだ。神社主催のそれで衣装を纏い、付け毛をしなければならないからだった。


 どれだけ間近で迫ってみても、かなめは顔を赤らめたりしなかった。それに起因する逃しようのない不満を、壁際のかなめへ押し付けるようにして距離を詰めていた。宗也はすぐにこの行動を後悔する。


 かなめの、この指先の震えと表情の強張りが何よりの答えなのだ。

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