25.そしてふたりになる

 目覚めると、吾は見知らぬ寝室のベッドに横たわっていた。


 後宮と比べればいたって質素な部屋だったが、清潔感にあふれていて心地よい。後宮よりもよほど落ち着く。


「生きてる?」


 見下ろすと子供の体に戻っていた。

 袈裟懸けさがけに斬られたはずの傷跡はなく、痛みも残っていない。


 だが、肩にかかる真紅の髪が、あの出来事が現実だったことを物語っていた。


聖痕せいこん?」


 吾が傷ひとつないまま生きていることは、神が起こした奇跡に違いない。

 しかし、癒えぬ傷とされる聖痕は、神の御業みわざをもってしても消えないものなのだろうか。


 いずれにしろ、紅の髪は吾にとって祝福でしかない。

 もしかしたら、女神がわざと残してくれたのかも知れない。


「目が覚めたか?」


 不意に呼びかけられた声に驚いて顔を上げる。

 そこには体格のいい壮年の男性が立っていた。顔立ちは整っており、何より鮮やかな紅の髪が目を引く。


「紅の騎士様?」


 吾の直感がそう告げていた。


「もはや吾にそう名乗る資格はない。だが、過去にそう呼ばれいてたのは事実だ」


「……おとうさま?」


 吾の言葉に、紅の騎士は大きく目を見開いた。

 次の瞬間には、その顔が泣き笑いにゆがむ。


 ベッドにひざをついた紅の騎士は、吾を力強く抱きしめた。


「姫……いや母から、そう聞いたのか?」


 耳元からとろけるような優しい声が聞こえてきた。


「はい。お母様は、ベルのお父様は紅の騎士様だと」


 吾を抱きしめる紅の騎士の体が、小刻みに震えている。


「そうか。キャスベル……いや、今日からはケイティと名乗りなさい。お前は吾の娘だ。我が愛しき娘、ケイティだ」


「はい。お父様」


 吾は力いっぱい、父を抱きしめた。

 その日、そのときから、吾はケイティとなった。




 そこは帝国の隣国にある、元レウォトの民が暮らす村のひとつだった。

 どうやら父はここで村長の役割を担っているらしい。


 この村は、それ自体がひとつの自警団を成していた。

 多くの馬と武器を保有し、日々、魔獣狩りに勤しんでいる。

 そして近隣の村にことあらば、すぐにでもせ参じる準備があるそうだ。


 村人の多くは、元レウォトの騎士団に所属していた者たちだ。

 そのため、騎士団長であった父が村長となるのは当然の流れだったのだろう。


 数日前、村に建てられた神殿の神殿長に神託が下った。

 レウォト王家ゆかりの娘をひとり、この村に託すこと、そして、女神自身は神界を去るため、もはや自分をまつる神殿は不要だとのことだった。


 その数日後、眠ったままの吾が御神体の前に突如として現れたらしい。


 吾の年格好、わずかに残る母の面影、そして何よりレウォト王家の直系としか思えない鮮やかな紅の髪から、吾が紅の姫の娘であると皆が確信した。


 中には吾の髪が紅いことを疑問視する者もいたそうだ。

 紅の姫の娘は獅子帝の血を引く黄金の髪をもつとちまたで噂されていたためだ。


 しかし、吾は後宮で隠されるように育てられていたため、その姿を目にした者は市井しせいにはほとんどいない。

 結果、黄金の髪という噂は、獅子帝が自分の血を引く娘だと印象づけるために広めた虚偽なのだろうと結論づけられた。


「この髪は女神様からいただいたものなのに!」


 不満を口にする吾を、父は笑ってなだめた。


「それは黙っているがいい。聖痕を残す者は『聖者』とあがめられる。面倒が増えるだけだ。よいな?」


「はぁい」


 当時の吾には、そのときの事情がよく飲み込めていなかった。


 村人の多くは、吾の髪が最初から紅だったと信じたかったのだ。

 吾が皇帝の娘ではなく、紅の騎士の本当の娘であると、帝国に囚われる前に紅の姫は身籠っていたのだと、そう信じ込みたかったのだ。




 村には吾と同い年くらいの子供はいなかった。

 もともと年齢の割に大人びていた吾は、大人たちに混じって日々を過ごした。

 村人たちは皆、吾を猫可愛がりした。


「ずいぶんと子供らしい顔をするようになったな。少し安心した」


 父にそう言われて、吾は自分の変化に気づいた。

 最近の吾は、よく笑うようになった。


 母を失ってすぐのころは、笑うことすらなくなっていた。

 吾が笑顔を取り戻したのは、女神様に出会えてからだ。

 今は、この村の大人が、女神様のような優しさを吾に与えてくれる。


 あの一件以来、吾は女神様の気配すら感じたことはない。

 復讐を果たしたことで、吾が女神様を感じられなくなったのだろうか。


 女神様は神界を去ると言っていた。

 神界を去った女神様は、どこへ行ってしまうのだろうか。


「神が自ら神界を去る、という話は聞いたことがないな。悪神がほかの神々から断罪されて中つ界に封じられた、という神話ならあるが……。確か、御使い様が愛を知り、自ら望んで人になったという逸話があったような?」


 神殿長様でも知らぬなら、この村でそれ以上に当てになる情報など得られるはずもない。


 女神様は、いつまでも吾と一緒にいてくれると言っていた。

 だから、きっと目に見えないだけで、今も吾のそばにいてくれるのだと思うことにした。




 その後、ほどなくして帝国が崩壊した。

 その余波は、この隣国にまで波及してきた。多くの難民が助けを求めて、この地域にまで押し寄せてきたのだ。


 しかし、この地域の村々だけでは、すべての難民を受け入れることなどできるはずもない。

 父の指導のもと、レウォトにゆかりのある者や、村の発展に役立つ人材を選別し、近隣の村々で分担して受け入れることになった。


 受け入れきれなかった難民たちには、最低限の食料や、移動中にも採取できる野草の知識を与え、より多くの者を受け入れられそうな街を目指してもらうことになった。


 肩を落として立ち去ってゆく難民の集団を目の当たりにして、吾は己の愚かさを思い知った。


『こんな国など滅んでしまえ』などと、よくも軽々しく思えたものだ。

 難民たちが直面している困窮の一因はまぎれもなく吾にあるのだ。


 そう、吾は『神の共犯者』だ。


「すべては神の思し召しだ。自らを責める必要はない。今はただ、この光景を忘れぬように、その記憶に刻み込むだけで充分だ」


 父は落ち込む吾の頭を優しくなでてくれた。


「いずれ、自ら答えを出す日が来る。保護者である吾が何かを言えば、それは強制力をもつ。ゆえに吾はこれ以上は何も言わぬ。自ら学べ。そして、信頼できる者の意見に耳を傾けよ」




 受け入れた難民の中には、紅の騎士としての父の旧知、多くの武人や知識人がいた。

 彼らは吾の教師役を買って出てくれた。

 今にして思えば、片田舎の村で享受きょうじゅするには贅沢すぎるほどの英才教育を吾は受けることになった。


「貴族としての知識を身に着けた上に、吾の口調もうつってしまった。もはや村娘では通用しまい。将来は元帝国貴族出身だとでも名乗るがいい。まあ王族も貴族の内だ。嘘ではあるまい」


 父はそう苦笑しながらも、吾がさまざまな知識を身に着けるたびにうれしそうにしていた。

 そんな父を見て、吾は学ぶことが好きになっていった。


「エデュに神罰が下って帝国が滅んだというのなら、その責任は帝国民にあるでしょう。特に政治に携わる貴族たちですね」


 吾にそう諭したのは、政治の知識を教授してくれた賢者だった。


「神罰が下るような者を帝にいただいていたのも間違いなら、その帝がいなくなった途端、国が滅ぶような状況を許していたのも間違いです。罰を下すことで不都合が生じるからといって、罪を見過ごしてよい道理などありません」


 しかし、吾は自分自身を許すことができなかった。


 まだ子供でしかなかった吾が難民のため、民のためにできることなど何もない。

 しかし、わずかばかりの罪滅ぼしであったとしても、将来は人々の役に立つことをしたいと考えるようになった。


「そうはいっても、お主の出自では、政治に携わるのはもちろん、武人として仕官することも難しかろうなぁ」


 悩みを打ち明けた吾に、軽い調子で応じたのは武術の師匠だ。


 一見するとただのぐうたら親父だが、腕だけは恐ろしく立つ。さらに武者修行と称して諸国を渡り歩いた経験をもつため、世事にも長けている。


「わかってる。学問で人助けは難しい。だが武術なら、とりあえず野盗を倒したり、魔獣を追い払ったりできる。だから、武術に励もうと思う」


「まあ確かに、武術の才なら学問よりは潰しがきくな。なんとなれば傭兵ようへいとか、冒険者とかで食いつなげるしな」


「冒険者?」


「知らんか? 迷宮を探索する者たちだ。もともとは太古の遺物目当てだったんだが……今は魔石の回収だけでもいい稼ぎになる」


「魔石? 魔道具に使う?」


「ああ。少し前まで、魔道具は魔力持ちが魔力を注入しながらでないと使い物にならなかった。魔石を使う魔道具は最近できたもんだ。この村にもいくつかあるだろ?」


「……ある。便利で役立つものばかりだ」


「魔道具は造り自体は単純だからな。いずれはもっと普及して、庶民の暮らしも便利になるぞ。なんせ簡単な魔術なら魔道具で代用できる。で、魔石の需要は増え続けるから、冒険者稼業は安泰だ」


「そうなのか?」


「これまで魔石は、魔術師が非常時の魔力回復に用いるだけだった。非常用なんで、基本、保存が効く大きな魔石にしか価値がない。だが、大きな魔石は迷宮の深いところまで潜らないと手に入らん。命がけだ」


「たしか迷宮は、深いところほど危険だと聞いた」


「そうだ。だが今なら、小さな魔石でも魔道具用として売れる。しかも人々の生活を豊かにする、つまり人の役に立つ仕事だ。腕自慢はみんな冒険者を志すようになる。もう戦争も傭兵も時代遅れだ。これからは魔石をより多く手にした国が富む。俺はそうにらんでいる」


「なるほど」


「でな、迷宮といえば辺境、辺境といえば魔獣や野盗の巣窟だ。万年兵力不足だった辺境に、これからは冒険者という戦力が根付く。辺境領主は格安で冒険者を雇えるわけだ。今から十年、いや、二十年の間は辺境が栄える時代が来るぞ」


「おお! さすが師匠、先見の明というやつだな!」


「あたぼうよ。剣を振り回すだけが兵法ではないぞ? 俺みたいな一流の兵法家は、いくさの流れ、そして時代の流れまで読むものよ。それでなければ、勝ち続けることなどできん」


「冒険者か。魔獣や野盗退治に魔石回収、人の役に立つ仕事ばかりだ。求められるのは腕っぷしだけ。すごくいい。ありがとう、師匠。いい話を聞いた」


 その日から、吾はよりいっそう武術の稽古に励むようになった。

 吾の中で、身を守る手段であった武術が、人の役に立つための手段に変わったのだ。


 単純なもので、将来目指すべき方向が決まると、途端に吾は精神的な落ち着きを得ることができた。

 父の目から見ても、それは同様だったようだ。


「ケイティ。お前に従者となる者をつけようと思う。今のお前ならば、あの娘を任せてもよいと思える」


 ある日、父がそう言って、吾と同い年くらいの娘を連れてきた。


「……きれい」


 その娘をひと目見て、吾は絶句した。

 この世のものとは思えないほどの美貌の少女だった。

 ただ、その少女の瞳は何も映していないように見え、吾は胸が締め付けられるような気持ちになった。


「確かに美しい。だが、この美しさは調合された毒だ」


「毒?」


「この少女の美貌は、見目麗しい男女を何代もかけ合わせて造られた。相手を油断させ、思考を混乱させるための毒として。帝国の暗部に潜んでいた、暗殺者ギルドの手でな」


「暗殺者ギルド?」


 そういうものが存在するという噂は聞いたことがある。しかし話半分どころか、完全な与太話のたぐいだと思っていた。


「ああ。帝国崩壊のごたごたで……全滅した。この少女は唯一の生き残りだ。だが、よほど辛い目に合ったのだろう、記憶を失っている。皮肉にも、身体に刻み込まれた殺しの技だけは忘れずに済んだようだ」


「そんな……」


 吾は目の前の少女に視線を戻した。


 少し痩せすぎではあるが、訓練が行き届いた均整のとれた筋肉のつき方をしている。

 まるで、磨き抜かれた美しい刀剣を思わせる肢体だ。


 だが、そこには師匠の持つ名刀のような躍動感のある美しさはない。

 ただただ人を殺すことに特化した、機能美があるだけだ。


「今は人を殺すだけの人形だが、死に際を助けた吾の言葉だけはよく聞く。おい娘、今からお前の主人はこのケイティだ。今よりケイティの命令だけを聞け。お前はケイティの影となり、付き従うのだ」


「わかった」


 その娘は表情ひとつ変えずに父の言葉に答えた。

 たしかに父の言うとおり、『人形』と呼ぶに相応しい反応の薄さだ。人間味が何も感じられない。


「父上、この娘の名前は?」


「ない。お前が名づけるのがよいと思ってな」


「吾が? 名づける?」


「ああ。好きな名前を与えるがよい」


 しばし考え、吾はひとつの名を思いついた。


「……ユリシャ」


 その名を告げた瞬間、少女がピクリと反応したのを吾は見逃さなかった。


「ケ、ケイティ!? よりによって、その名か?」


 父が戸惑うのも無理はない。それは母の幼名だった。母を懐かしんだ父が、ときおり無意識につぶやくことすらある名なのだ。

 そして何より、幼い日の母について語る女神様から、何度も聞かされた名だ。


「ほかに、ずっと一緒にいたいと思える名が思いつかない」


「うむ……まあよいだろう。お前がそうしたいなら、そうしなさい」


 仏頂面で承諾する父に、吾は笑いを堪える。


 そんな吾と父を、ユリシャは不思議そうに見ていた。

 薄い表情だが、少なくとも吾には不思議がっているように見えた。


 吾はユリシャに手を差し伸べた。


「お前の名はユリシャだ。よろしく、ユリシャ」


「よろしく?」


 差し出された手を凝視し、戸惑う表情を見せるユリシャ。


 そのわずかな表情の変化に、吾はうれしくなった。

『人形』であったこの娘の中に、何かがよみがえってゆく様子が、吾にはありありと感じられた。


 そう、おそらくは母の名をきっかけとして。


「まず最初に……私の友達なってくれないか? これは命令じゃないぞ」


「友達……」


 ユリシャの目に光が宿った。

 それは、吾のと同じ、澄んだまなこだ。


 だから吾は、ユリシャをずっと好きでいられると心から信じられた。


「ユリシャ。いつか吾と一緒に広い世界を見て回ろう。約束だ」


「……一緒?」


 吾はユリシャを抱きしめた。


「そう、吾とユリシャは一心同体。いつまでも一緒だ」


 ユリシャの腕がおずおずを吾の背中に回り、少しだけ力が込められる。


「いっしょ……約束、したから……」


 そして、吾とユリシャ、ふたりの物語が始まった。

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