第8話 空洞の針
「さて、ウィルソン! 今日は何の話をしようか? 金縁の鼻眼鏡をした美しき自転車乗りの話はしたかな? ボヘミアの背中の曲がった名馬シルヴァー・ブレイズに関する醜聞なんかは君好みの事件だと思うがね」
「いや、その二つとも少なくとも三回ずつは聴いた気がするよ。だったらサセックスの吸血鬼対バスカヴィル家の犬の方が面白かったな!」
「やれやれ、あれは推理など必要としなかった事件じゃないか! そんなに娯楽性を求めるのならば、ブルースパーティントン型設計図によって造られたグロリア・スコット号の最後の事件とかどうかね?」
「いいね! それは初めて聴く話だよ」
「しかし、あれは国家機密に関わる事件だからな──」
狭い船室から解放された私たちは船のデッキで落ち合うと、言葉の通じない船員たちが用意した食事に在り付きながらいつもと同じような会話を交わしていた。
今、私たちは四方見渡す限り海原しか見えない大西洋のど真ん中を航海している貨物船の中にいた。負けず嫌いなエルロック・ショルメの言葉を借りれば「アルセーヌ・ルパンからの贈り物を受け取ってやった」という事になるのだが。
そもそもはフランスの大富豪ジェーヴル伯爵から届いた電報に端を発する。ドーバー海峡を渡るべく定期船に乗り込んだ私とショルメだったが、その船はルパンの手によって偽装された〈イロンデル号〉というアフリカ行きの貿易船であった。途中で気づいたショルメは船長と交渉すべく試みたが全く言葉が通じず、実力行使に出ようとしたところ、荒っぽい海の男たちによって軟禁されてしまった。私物を全て押収された私とショルメは船員たちの監視の元、与えられた自由を満喫するしかする事がないのである。
「それにしてもルパンは今頃何を企んでいるのだろうか──」
ショルメは見えるはずもないフランスを見据えるかのように、水平線の彼方へと目をやった。
「〈あの女性〉は幸せに暮らしているだろうか──」
私はショルメの呟きを聞き逃さずに、ここぞとばかりに突っ込んでみた。
「ねえ君。前から気にはなっていたのだが、君の言う〈あの女性〉とは一体誰の事だね?」
この言葉に対して、ショルメが初めて動揺を示した。
「なっ、何の事だか解からんね! 儂がルパンの彼女に横恋慕しているとでも言いたいのか!」
恋愛の関して奥手なのがショルメの特徴の一つだ。もっとも齢五十の老人が色恋沙汰に縁の無い人生を送って来たのは一概に褒められる事だとは言えないが。
「ルパンの彼女か──君が出逢った女性と言えばミス・ネリー・アンダーダウンか、アリス・ドマン、シュザンヌ・ダンブルヴァルという事はさすがに無いだろうから、後はあのルパンの共犯者であった金髪の婦人──」
「クロティルド・デタンジュ嬢だ」
ショルメが年甲斐も無く恥ずかしげに婦人の名を告げた。
「そのデタンジュ嬢の一体何処が気に入ったんだね?」
「何処がだと?──あの女性と初めて逢ったのは彼女の父親の秘書として屋敷へ潜り込んだ時だ。儂と目が合った瞬間、彼女の瞳はこう語っていた『綺麗な目をしているのね』と。儂らの間には言葉は必要無かった。互いが産まれた時から失くしていた欠片を見つけ合った瞬間であったのだ! だが彼女の手はすでにルパンの為に赤く染められていた。『あなたの来るのが遅すぎたのよ。何故今になって現れたの?』と、彼女の哀しみに満ちた瞳はこう告げながら儂を責めた。儂は気の利いた台詞一つ返す事が出来なかったよ──」
この日のショルメは饒舌で、船旅の退屈を充分に満たしてくれた。
〈イロンデル号〉がシエラレオネ半島にあるフリータウンの港へと寄港すると、ショルメは船に残って私たちを見張っていた船員を身に付けていた高級時計で買収して自由を得た。私物を取り返して船から降りると、私とショルメは手分けしてフランス行きの船を探した。幸い大英帝国の一部であり英語が通じる土地の為、船はそれ程の苦労も無く発見する事が出来た。再び船上の旅人となった私たちではあったが今回は本物の客船であった為、快適な旅路となった。そんな中、最大の驚きはショルメが地元の若者を二人連れて来たことである。
「フランスの警察も当てにはならないからな。ルパンにはイギリスにだって部下がいる。奴に対抗する為には儂にも手足となって動いてくれる部下が必要なのだよ」
二人の名前はディメンションとストーンリヴァーといい、我々とは肌の色は違うが実直そうな青年たちであった。
船がフランスのル・アーヴルへと入港すると、早速ショルメは二人の若者に指示を与えて何処かへと送り出した。一方で私に向かってはこう言った。
「ねえ君、フランスへ来た以上依頼人へ挨拶するのが筋だとは思うのだがね。アンブリュメジーで起こった事件に関して今から取り掛かっても手遅れだよ。ルパンならすでに証拠を消しているだろうからね。そこで儂は暫く宿に籠って、ここ最近のルパンの行動に関する情報を集めて検証しようと思う。ジェーヴル伯爵には君から宜しく伝えてくれたまえ。捜査費用は無理かも知れんが、旅費だけでも貰って来る事を忘れないでおいてくれよ」
言いたい事だけを一方的に伝えると、ショルメは私の返事も待たずに拠点となる宿を探す為に何処かへと消えた。後には私と私の中の憤慨だけが残されていた──。
アンブリュメジーにあるジェーヴル伯爵館から戻った私は、ショルメから教えられていたホテル〈ラ・シャンブル・デ・ドモワゼル〉で彼と合流した。ショルメが上機嫌であったのは伯爵から受け取った依頼料の効果だけではないようであった。
「いやはや、予想以上の収穫があったよ! 実はあの二人をルパン一味へと潜り込ませたのさ。彼らは交互に得た情報を伝えてくれたが、その中で最も興味深いのはルパンの乳母であるヴィクトワールの居所を掴んだことだ。ルパンの奴め、まだ乳離れが出来ないらしく、いつも傍に置いているようだ。と言う事は奴のアジトもこの近隣に在るという事さ。君が居ない間に世間で話題の高校生探偵にも会って来たよ! いやいや、中々どうして見所のある少年だね。放っておいても彼ならばルパンのアジトを突き止めるだろう。ルパンの相手は彼とガニマール警部に任せて我々はその間隙を突いて、奴が貯め込んだお宝を奪い返してやろうじゃないか!」
「さすがはショームズさん。目の付け所が違いますね」
突然、室内に女性の声が響き、私とショームズは驚いて部屋の入り口へと目を向けた。すると扉の前にはホテルの従業員の服装をした金髪の若い美女が立っていた。
「誰だね、君は? ドアには鍵が掛かっていたはずだが、どうやって部屋の中へと入って来たんだい」
ショルメは椅子に腰掛けたまま言葉を紡ぎ、鷹揚とした態度で女と対峙しながら、目線で私に隣の部屋へと駆け込む様に指し示した。
私は女の視界から外れるようにじりじりと移動していたが、彼女は私に視線を向ける事もなく、朗らかな声音で言い放った。
「無駄ですわ、ウィルソン先生。先日ショームズさんがお留守の際にお邪魔して拳銃から銃弾は抜いておきましたから」
女がクスクスと笑う。それは魅惑的な笑みであった。私は彼女の話す英語から何処となくロシア訛りを感じ取った。
「ソニア・クリシノフか。儂の調査では悲劇的な死を遂げたという話だったがな」
ショルメの言葉を聴いて、女は一瞬驚いたかのように目を見張ると、突然狂ったように笑い始めた。ひとしきり笑い終えると、彼女は目元に浮かんだ涙を拭ってから話し始めた。
「そう、彼の中では私は死んだ事になっているのね。まあ確かに二度と会わないとは言ったけど。あなた方も知っての通り、彼は魅力的な男性だし、根は良い人よ。でも恋愛の相手としては最悪。身分を偽るたびに新しい恋が始まるのだとでも思っているのだわ。女は過去には拘らないけど、未来に誠実ではない男と一緒に暮らして行く事は出来ないのよ」
「つまり破局した、と言う訳だ。で、ルパンの元彼女が今更何の用事でイギリスの名探偵の元を訪れたのかね?」
ショルメの指摘を受けてソニアの顔が引き締まった。
「依頼よ。彼とよりを戻す必要が生じたの。協力して下さるかしら?」
ソニアの話では現在のルパンの彼女はジェーヴル伯爵の姪であるレイモンド・ド・サンヴェランであり、すでに偽名であるルイ・ヴァルメラとして結婚式も上げているそうだ。
「他の女と結婚しただと──」
その言葉にショルメは想像を絶する程の驚きを示した。ソニアが一応フォローする。
「まあ、私も彼が変装したスパルミエント大佐と結婚した事になっていた訳だし、彼自身はその前にもアンジェリク・ド・サルゾー・ヴェンドームと結婚してるわよ。今更驚く事でも無いけど──ねえ、どうしたの、彼?」
放心状態のショルメの様子を不思議に思ったソニアが私へと問いかけてくる。
私は仕方なくショルメにとっての〈あの女性〉の話を聴かせてやった。
「ああ、クロティルド・デタンジュね。そんなに気になるのならば調べれば良かったのに。私は彼と付き合い始めてから、すぐに昔の女たちと繋がっていないか調べたわ。私や周りの人間には不幸な出来事が起きて亡くなった、と言っていたけど今となってはどうかしらね? 案外失恋の痛手で独身のまま隠居生活を送っているかもしれないわよ──そうだ、こうしましょう! 私とルパンの仲を取り持ってくれたら、クロティルドを捜し出して紹介してあげるわ。報酬としては充分ではなくて?」
ソニアの提案にそれまで呆然としていたショルメの瞳に光が戻った。
「行こう! 多くの女性を不幸にしているルパンのアヴァンチュールに終止符を打ってくれるわ!」
私たちはソニアを連れて、ルパンの乳母であるヴィクトワールの暮らす農園へと訪れた。
娘のように可愛がっていた彼女との再会にヴィクトワールは喜びながらも、私たちの目的を聴くと顔を曇らせた。
「ようやく坊ちゃんが悪の道から足を洗って真っ当に生きると決めたのですよ。出来れば放っておいて貰えないかしらね」
「ヴィクトワール──私だって彼の改心を祝ってあげたいのは山々だけど、そうは行かない事情があるのよ」
ソニアは私たちに席を外させると何やら二人だけで話し始めた。
小屋の外へと追い出された私たちに聴こえたのは、ヴィクトワールの「まあ!」と「それはそうね」の二言だけであった。
再び小屋の中へと呼び込まれた時には、どんな魔法を使ったのかは知らないがルパンの乳母は私たちの味方となっていた。
ヴィクトワールによれば、アジトを放棄したルパンがレイモンドと共に彼女を迎えに来る手筈となっているそうだ。ショルメが呼び寄せた二人の部下が農園の外で見張りを務める中、私たちは和やかな雰囲気の中でヴィクトワールの料理を味わい、ルパンの来訪を待ち続けていた。
小一時間が過ぎた頃ストーンリヴァーの合図を受けて、私とショルメはヴィクトワールを連れ小屋の外へと出て行き、現れたルパンと対峙した。
「ヴィクトワール! 卑怯だぞ、ショルメ!」
ルパンが激高して叫ぶ。
「その名前で呼ぶなと言わなかったかな? まあいい──一つ言っておくが君の乳母は拉致されているわけでは無いぞ。自らの意志でここにいるのだ」
「なんだって? どういう事だ、ヴィクトワール?」
ルパンが困惑の表情を浮かべる。
「坊ちゃんに会って欲しい人がいるのですよ」
ヴィクトワールの呼び掛けを受けて、小屋の中からソニアが姿を現した。
「ソニア! 何故ここに──」
その時、ルパンの背後へと金髪の令嬢と理知的な顔付きの少年が駆け付けて来た。女性がレイモンドで、少年が高校生探偵であるイジドール・ボートルレであることは容易く推察出来た。
「お久しぶりね、ジャック。それともアルセーヌと呼んだ方が良かったかしら」
ソニアの呼び掛けに一番の反応を示したのはレイモンドであった。ルパンの隣りへと並び立つとドレスから小振りな拳銃を取り出した。
「よしてくれ、レイモンド! 彼女は昔の仲間だ。話し合いで解決出来る。そうだろう、ショームズ?」
「儂は雇われているだけだよ。依頼人である彼女を守るのも仕事の内さ」
見ればショルメも懐から拳銃を取り出していた。ただし、私はその銃に弾が入っていないのを知っている。
「なんだって言うんだ! ヴィクトワール! 僕の新しい人生の門出を祝ってくれると言っていたじゃないか!」
ルパンが大仰に乳母へと訴えかける。
「事情が変わったのですよ。レイモンド様の為にも今回の結婚は取りやめるべきなのです」
「やめる? 結婚を? 一体誰にアルセーヌ・ルパンの死を止める権利があるというんだ? 犯罪者ルパンは死に、青年貴族ルイ・ヴァルメラは愛する妻と共に生きて行くんだ!」
ルパンの弁論を遮ったのはソニアであった。
「あなたは条件を付けられる立場ではないわ。忘れないで、あなたは私と同じただの泥棒なのよ。名前だって人から盗んだ物でしかない。あなたはルイ・ヴァルメラでもなければジャック・ド・シャルムラースでもない。本当はアルセーヌ・ルパンですらないのだわ。ヴィクトワールだって本当の母親ではないし、私だってあなたの妻にはなれなかった。でもね──お腹にいる子は間違いなくあなたの子供なのよ!」
ソニアの告白にヴィクトワール以外の全員が衝撃を受けた。
「僕の──子供」
ルパンは困惑半分、喜び半分といった複雑な表情を浮かべている。
「そんな訳ですから、レイモンド様。今回のお話は無かった事に──」
ヴィクトワールがそう呼び掛けたが、レイモンドは決意を固めた表情を浮かべて拳銃を構えるとソニアへと狙いを付けた。
「嫌よ! 私はレイモンド・ヴァルメラ! ルイの妻なのよ! 私だって彼の子供を産むわ!」
激情を燃やすレイモンドへとソニアが寂しげな笑みを浮かべながら話し掛けた。
「私も同じように思っていた時期があったわ。あなたは知らないだろうけど、彼にはすでに他の女性との間に産まれた子供がいるのよ。その子たちよりも私の子供を愛してくれる、そう信じていたわ。でもね、それは間違ってる。だっていつかは私の子供だって、彼にとっては昔の女が産んだ子となってしまうのだわ。そうならない為には彼に責任を取って貰うしかない──」
「年貢の納め時という奴さ」
ショルメが皮肉を込めてルパンを見遣った。
ルパンはガックリと肩を落として地面へとしゃがみ込んだ。
「レイモンド──」
「いやっ! 聴きたくない!」
ルパンの呼び掛けを遮りながら、レイモンドが引き金を引いた!
弾道を予測していたソニアは咄嗟に伏せて事なきを得た。ショルメがレイモンドの注意を引く為に拳銃を構えながら前へと進み出る。
「儂に撃たせないでくれ。拳銃を捨てるんだ!」
「撃てばいいわ! ルイに捨てられるくらいなら死んだ方がマシよ!」
「そうか──ならば儂がレイモンド・ヴァルメラを抹殺してやろう」
ショルメが彼女へ向けて空砲を放つべく、指先に力を込めた。
「やめろ!」「ダメよ」「待て!」
ルパンとソニアの声が重なる。何故か私も虫の予感が働き、ショルメの弾道を遮るように飛び出していた。
次の瞬間、世界は真っ赤に染まった──。
「まあ、しかしソニアに一杯喰わされていたとは思わなかったな」
銃弾摘出手術が成功し快方へと向かうと、ショルメが私の病室へと見舞いに訪れた。
「銃弾を抜いていないのに抜いたと言い張るとは、やれやれ我々は少々お人好しすぎたかね? まあしかし君が無事でよかった! 親友を殺したとあってはさすがの儂でもやり切れんからね。事実、君が入院してから心配の余り一日十杯程度飲んでいたコーヒーを、一日十杯前後まで減らしたからな。ああ、そんな事よりあの後どうなったかを知りたいのかね? いいだろう、時間はたっぷりある。話してあげよう──まずはルパンだが、奴は乳母を連れて何処ともなく去って行ったよ。何故かって? レイモンドが心変わりをしたからさ! 彼女は情熱に突き動かされて恋に恋していた訳だが、愛していた男が尊敬に値しないドン・ファンであることに気づいて関係を断ち切ったのだよ。奇妙な事ではあるが、その姿を見ていた我が依頼人も子供を一人で育てる決意を固めたそうだ。奴から慰謝料と養育費を受け取ったらアメリカへ渡ると言っていたよ。可哀想な高校生探偵君は、目の前で繰り広げられた男女の愛憎劇に酷くショックを受けていたようだ。全く! 純真な若者の心を傷つけるとはルパンの奴め、許せんな! おっと、君に来客だよ。彼女の献身的な看病があってこその君の回復だとわざわざ儂が指摘せずとも知っておるよな? 儂も今からソニアと一緒に〈あの女性〉へと逢って来る。誠に世界は薔薇色に輝いているではないか!」
嬉々としながら病室を出て行くショルメと入れ代わりに入って来たのは──レイモンド・ド・サンヴェランであった。
──そして後に彼女はイギリスへと渡りレイモンド・ウィルソンとなり、レイモンド・ド・サンヴェランもレイモンド・ヴァルメラもこの世から消えて無くなった。
一方でクロティルド・デタンジュはショルメと再会後もクロティルド・デタンジュで在り続けた。その理由をわざわざここに書き記す必要などあるまい。
エルロック・ショルメ──ざまあみろ!
おわり
エルロック・ショルメの診療記録 南野洋二 @nannoyouji
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