第9話
里長の命に反して、母は妙をかくまった。彼女が娘を閉じ込めたのは、奇しくも罪人の息子を隔離していた奥敷きであった。
妙は何をするでもなく、畳に寝転がり、死んだように日々を過ごした。
「妙姫様」と萱木が、襖の外から内へ呼びかける。しかし、返答はやはりなく、いつもと同じ繰り返しに、老年の衛士は軽く息をつくと静かに襖を開けた。
彼と一緒に内へ入った下女が、手のつけられていない朝餉を下げる。
言葉なく目を交わし、下女を見送った萱木は、そのまま部屋の内に残った。
うずくまって寝るも、妙の目は閉じられることはない。心を失ったかのように虚空を見つめ続ける少女を見るのは、老身にはいたく堪えた。
「……妙姫様。少しはものを腹に収めんことには、力も何も湧きやしませんよ」
萱木は、槍を部屋の入り口に立てかけると、妙の傍に寄り膝をついて、少女に諭しかける。
「あの方は、どんな時でも、きちんとお召し上がりになっていましたよ」
妙はぴくりと反応を示した。
だけれども、老衛士が気付くことはなかった。彼は、少女に話しかけながらも、反応が返らぬことを承知していたので、萱木の言葉はいつも独語でしかなかったのだ。
「儂が知らぬふりをしなければ、こんなことにはならなかったのかのぅ。まさか妙姫様と会っておったとは知らんなだ。二、三、後をつけてみた時はなんともなかったのじゃ。大岩に腰かけてぼうっと御池を見とるだけじゃった。あとは必ずお戻りになったから、ほんの数刻足らずの気晴らしくらいさせてあげたかったのじゃ。それが、まさかこんなことになろうとは……。ああ、おいたわしや、妙姫様。このじじが悪うござった。許しておくんなまし、許しておくんなまし」
萱木は手をつき床に額を押し当てると、深々と頭を下げ、妙に詫びた。
森閑とした部屋の中、そろそろと頭を上げた老衛士は、少女の不揃いな濡れ羽の髪を見、痛ましげに目を細めると、顔を伏せ部屋を後にした。
かたり、と音が鳴り、襖が閉まる。
再び一人となった部屋で、妙は心なく目線を辺りに巡らせてから、のっそりと起き上がった。
覚束ない足取りで、廊下に繋がる襖とは逆の半蔀へ向かうと、背伸びをして音をたてぬよう上部の半蔀を持ち上げる。
漏れ入る陽光が目に染みて、あまりの眩しさに妙は顔をしかめた。久しぶりに感じる陽の光だった。隙間風がふわりと短髪を巻き上げる。採光の為だけにつけられたこの屋敷の半蔀がつくる隙間は狭い。だが、線の細い少女なら難なく通れるくらいには隙間があった。
妙は両手を掲げ、下枠を掴むと、腕に力を込めた。けれども、数日来何も口にしていない少女に己の身を支えるだけの力が残っているはずもない。わずかに浮いただけで、再び座敷に足がついてしまった。
妙は唇を噛み、室内を見渡す。
誰に使われるでもなく、端に追いやられていた脇息に妙は目を止めた。それを踏み台にし、再び下枠に手を掛け、懸命によじ登る。半分程開いていた半蔀との合間に、妙は身をくぐらせ通り抜けると、後は落ちるように外へと降り立った。
「――たる、ぎっ」
少女は、ばしゃりばしゃりと水を跳ねさせて、池の中に入っていった。この場で消えた少年の名を繰り返して、あてもなく彼の姿を探す。
腰まで水に浸かっても、妙は構わず池の周りを見渡した。水を吸って重くなった衣服を引きずりながら、少女は澄んだ池の水を掻きわけて進む。
「弛祁、弛祁、どこにいるの」
涙が溢れて、世界が歪み始める。妙は手の甲で涙を払って、一つの変化も見逃さぬようにと、体を捻り、首を回しては、目を何度もあらゆる方向へ巡らせた。
少女が動くたびに、水音が立ち、波が広がり続ける。木立から吹く風は、やかましい虫の音を連れてくるだけだった。
「水神様になると言ったのに、どうして」
弛祁、と仰ぎ見た場所には、やはり少年の姿はなく、彼女自身も彼が死んだことを理解できないほどには幼くはなかった。
妙は弛祁が水神にはなれぬことを知っていたのだから。
ただ、彼女は弛祁を呑み込んだ鏡池に、彼の姿を探しに来ただけだったのだ。この見渡せるくらいしかない池の中ならば、彼の身体を見つけ出せるのではないかと思った。
「どこ、弛祁」
妙は池の中で立ちすくんで、嗚咽を漏らした。
次から次へと落ち続ける涙を少女は懸命に拭う。
背を撫ぜた風が、少女の身をぶるりと震わせた。水に浸り続けていたせいで、体の芯まで冷えていた。かちかちと鳴る歯が妙に余計寒さを感じさせた。
せめて土に弔ってやりたかった。こんなにも冷たい場所に弛祁はいるのだろうか、と思うと妙は悲しくてならなかった。
けれど、このままここにいては二度と彼とは会えぬだろう。
妙は硬く瞼をおろし、池の水底から目をそむけた。そうして、彼女は池から上がった。
ふらりふらりと少女は森の中をさまよい歩いた。もう家に戻ろうとは思えなかった。
彼女が地にうずくまることになったのは、突き出た木の根にけつまづいて転んだからだ。
だが、一度膝をついてしまうと、もう妙には立ち上がることができなくなった。地についた場所全てに根がはったかのように、妙の体はこれ以上動くことを拒んだ。
どれくらいの間、そうしていたのか妙にはわからない。
しかし、頭上から唐突に降って来た「大丈夫?」という問いに、妙は驚いて顔を上げた。心配そうにのぞきこんでくる己と変わらぬくらいの少女。体が冷えている分だけ、添えられた少女の手が温かく身に染みた。
何かがほどけるように、妙は再び涙していた。見つけられなかったことが悔しくて、悲しくて、苦しくて、妙は地面に爪を立てた。
名も知らぬ少女は、妙の手にそっと手を触れてきた。妙がすがっている地面の土から妙の手を取り上げるでもなく、ただ彼女はそっと手を添えてくれたのだ。
そればかりか、下女にならないかと、彼女は妙に微笑みかけた。
眼前にいる少女が提示してくれた内容に、妙は無心で頷いた。これでまた探しに行けると思った。
すがり握った己と変わらぬ少女の手は、有り難いことに土で汚れた手を優しく包み返してくれた。
「あなたは、だあれ? ねぇ、あなたの名は?」
しかし、幸運なことに彼女には聞き取れなかったらしい。そうと知った妙は、新たな名を名乗ったのだ。
たまゆら――玉響、と。
浅香だと言う少女に背を支えられて歩きながら、玉響は一度だけ鏡池のある方を振り返った。
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