第8話

 月が昇る。

 対岸から現れた月は丸く、紅い。ゆらりゆらりと揺れ動く鏡池の水面に、濃い月光が伸びた。

 薄い紗の被衣を両手に掲げ、姿を覆い隠した娘が一人、池に入る。彼女が進むごとに、静かに池が波打ち、水面に浮かぶ光の道筋が歪んだ。

 白い装束は赤に染まる。娘の背後では篝火がてらてらと燃え盛っていた。火がはぜて、風が吹くたびに細かな火の粉が夜闇に散った。飛ばされた灯りは水の中にじわりと溶ける。

 威厳を携え五里の任を担った娘には後に続く供人の影もない。代わりとでも言うように、透き通った薄い紗が尾を引くように水面にたゆたった。

 池の岸では玲瓏と祝詞が詠みあげられる。

 いくら里人たちが水神を祀り呼ぼうと、彼の者が姿を現す気配はない。

 笛や太鼓が騒々しくかき鳴らされる中、妙はそろりと目を伏せた。


□■□


「やああああっ! やだ! やめてっ!!」

 伸ばした手すらあっさりと捻じ上げられて、少女は体を押さえこまれた。それでも、彼女は必死で体をくねらせ男の手から逃れようと抵抗し暴れた。

「妙」と鋭い叱責が落ちる。焦燥を帯びた声は、けれども少女の耳には届かなかった。彼女は「やめて、父上、やめてよ」と繰り返し乞うた。妙が前に進もうとするたびに、大きく跳ねた水が荒波を立てる。豪奢な着物が膝裏まで水に浸かるのも、妙は厭わなかった。ただ目の前に広がっている現に悲鳴を上げて、泣き叫ぶ。

「やだあっ! たるぎ! たるぎっ!」

 水が重い。思うように進まない足がもどかしい。後ろ手に捻じられた腕が痛かった。

 背できつく縄によって拘束された手首。少年は数人の大人たちに囲まれ、すでに鏡池の深部にほど近いところまで進んでいた。水は彼の腰まで迫ってきていた。

 慣れ親しんだ少女の声を耳にした彼は、鞭を打たれたように顔を上げ、歩いてきた池の淵を振り返る。己の肩越しに予想とたがわぬ少女の姿を見出してしまった弛祁は、瞠目した。

 瞬時、彼の顔に焦りがよぎったのを、少女は離れた場所から見ていた。

「たるぎ!」

「――馬鹿、来るなっ! 戻れ、妙! 戻れ!」

 弛祁は妙に向かって声を張り上げた。身をひねって乗り出した少年の頭に、すかさず重い石が振り落とされる。何かが陥没する重鈍な音が轟いた後、鳴り渡った水音と共に盛大な波が立って、彼は池に呑み込まれた。

「――っああああああああ!」

 妙は目を手で塞ぐこともできずに、流れていく光景を目の当たりにした。

 数人の大人たちが立つ場所には、もう少年の姿がなかった。

 慟哭が喉を突いて、胸をえぐる。ぼたぼたと目から零れ出る涙は、次々に池に吸い込まれた。水面にはほんのかすかな波紋しかたたない。



 いつかこの日が来てしまうことをずっと案じていた。屋敷の離れの奥敷きに誰が住まっているのか、垣間見てしまった時から。

 わずかに開いていた隙間は、昼餉が運び込まれたことですぐに閉じられた。

 数年前から、たびたび鏡池で会っていた少年を己の家で見つけてしまった妙は嬉しくて、嬉しくて――声をかけようと思ったのだ。近頃はめっきりと、池へ行っても会えないことが多くなってしまっていたから、少女の喜びはなおさら深いものだった。妙は顔を輝かせた。

「た――」

「なりません」

 傍に控えていた下女は、奥敷きへ足を向けようとした少女を制した。

「これより先は行ってはなりませんよ、姫様。もう随分と前から罪人の息子を奥敷きに捕えているそうです。御身が危険にさらされるやもしれません」

「罪人の息子?」

「はい。先の細呉さいごの里長を殺めたのだそうです。下手人はその場で打ち首となったそうなのですが公平をきすためにも、あの息子の方は処遇が決まるまで我が長が五里を代表して預かることになったと聞いております。全く……涼瑪すずめ様もほんにお人がいい……」

 どこか咎めるように下女はごちて、ささっと少女の背を押し離れるよう促した。妙はくるりと身を翻して、下女の手から逃げる。

「こら! お待ちなされ、姫様」

 背から掛かった声を気にも留めず、妙は奥敷きにいる少年のもとへ駆けた。けれども、いくばくも行かぬうちに衛士に阻まれ、たたらを踏むこととなった。

 おっと、と白髪頭の老年の衛士は危うくぶつかりそうになった少女の肩を支えて、立ち止まった。

「そんなに慌ててどうなすった、妙姫様」

かやじい。ねぇ、あの子、あの子はどうなるのっ!?」

「あの子?」

 首を捻った衛士は、少女の目線の方向を辿った先に何があるのかを悟って「ああ」と呟いた。

「妙姫様は、あの方を見なすったのか。あの方は水責めの刑に処されることが決まったばかりじゃ。今や、儂の他にああも見張りの衛士をつけられての。ほんにかわいそうになぁ。何も親の業を子にまで負わせることはなかろうて」

 もう目こぼししてやることも叶わん、と衛士は悲哀を滲ませて、そうぼやいた。

「まぁ、萱木かやき殿! 姫様にさようなことをわざわざ吹き込むなど!」

 追って来た下女は頬を紅潮させて、年老いた衛士を非難した。

 妙は呆然と立ち尽くした。下女が頭上で老衛士を叱責する声も、初めに萱木が口にした言葉以外は、ただ勝手に耳を行き過ぎただけだった。



「――っ……!」

 身を根こそぎ絞りとられるような激痛は、突如、妙に襲いかかった。月のものが来るときにも似た下腹部の鈍痛は、だが、常にある痛みをはるかに凌駕していた。

「妙!」

 倒れこむように水の中へうずくまった娘に、彼女の父は青ざめた。

 ぐったりと額に脂汗を浮かべ、腹部の着物をきつく握り込んだまま、妙は荒い息を繰り返す。かと思えば、ひゅっと奇妙な音を出して息を吸い込んだ少女は、奥歯を噛み締め、顔を歪ませたまま苦痛に耐えた。

 水底から煙がくゆるように鮮血が湧き上がる。

 妙はその様をおぼろげに目にしていた。

 驚愕に色を失くした父が、鏡池の淵でうろたえていた下女の名を呼ぶ怒号の中、妙の意識は途切れた。



 次に妙が目を覚ました時も、少女の下腹部にはゆるやかながら鈍痛が残っていた。全てが抜け落ちてしまった心地を覚え、彼女は天井に向かって少年の名を口にした。

「――妙! 気がついたんだね」

 かすかな床擦れを聞きつけた母は声を震わせて、娘の右手をとった。母は両手で握りしめた娘の手を頬に擦り寄せる。母の眦から零れた滴が、熱さを伴って妙の腕へと伝った。

「お前……っ! お前様っ! 妙が目を覚ましましたよ!」

 母は手を握りしめたまま、朗らかな顔で襖の外に向かって呼びかける。廊下に控えていた下女の一人が、すぐさま主へ知らせをやりに場を去ったのだろう。木板を滑り行く衣擦れが聞こえた。

「かわいそうにねぇ」と母は、妙の腕を擦りながら、娘に話しかけた。筋道がつくられてしまった頬の上を、また涙が滑り落ちた。

「妙、お前は母となっていたんだよ」

「…………い、た……?」

「捨ててしまおうかと思ったのだけれどね」

 母は、娘の背に手を回し、支え起こしてやった。未だ視点の定まらない妙の膝に綿布でくるんだ包みをいたわるように置く。包みを丁寧に解き開きながら、母は「お前くらいの年頃だとよくあることだ。だから気に病むんじゃないよ。お前はたった一人でよく守ったよ」と妙に話しかけた。

 開かれた布地に乗っていたのは赤黒いだけの血の塊だった。白い綿布の中で、血潮は広がりを止めて黒々と固まっていた。それだけだった。

 妙は際限まで眼を見開いて、形を成していない血の塊を見下ろした。

 熱い塊が胸を突き上げ、彼女を苛む。それは、嘔吐感にも似ていた。けれども、彼女がしたことは、結局のところ涙を流すことだけだった。

 布の包みを抱きしめてむせび泣く妙の背を母は何度もさすった。

 その時。

 ぴしゃり、と勢いよく襖が開け放たれた。開いた襖もそのままに、ずかずかと寝間に入って来た益斎の里長――涼瑪は妙の手から布包みを奪い取ると、醜い塊を固い木板に思い切り叩きつけた。

 妙は涙で汚れた顔で父を見上げる。涼瑪は容赦なく娘の頬をぶった。

「お前はっ……お前は何をしたのかわかっているのかっ!?」

 倒れて、床に手をついた妙の表情に恐怖はなかった。怒りに肩を震わせる父に詫びることもせず、彼女は父に奪われた包みに震える腕を伸ばす。

 しかし、父はそれを許したりはしなかった。娘の豊かな髪を力任せに引っ掴んで、彼女を止める。

「――っ!」

 突如髪を引かれて、無理やり頭を持ち上げられた妙はわずかに眉を歪ませ呻いた。引っ張られているせいで、顔の表皮が突っ張っる。

 里長の妻は、夫が他方で手にしている獲物が何であるかに気付いてさっと血相を変えた。夫の袖に必死に追い縋って、止める。

「お前様! お前様っ、どうかそれだけは……それだけはおやめください!

 ――ああっ……ああああああっ!」

 妻の渾身の懇願に耳も貸さず、涼瑪は手にした小刀で娘の髪をざっくりと切った。

 ふっと掻き消えた引力に、妙はまた床に倒れ込んだ。

 目の前で、ばらばらと濡れ羽の長い髪が散る。母がすすり泣く声を、妙はどこか遠くの場所から聞こえてくるもののように聞いていた。

 ぼんやりと、妙は己の髪を切った父を見上げる。そこには憎々しげに顔に幾筋もの皺を寄せ刻んだ父の姿があった。

 怒りを抑えた低い声音が寝間に淡と落ちる。

「出て行け。今すぐこの家から出て行け」

 涼瑪は小刀の刃を鞘に仕舞い、開け放したままの外を指し示す。

 それ以降は、もう見たくもないとでも言うように、彼はきつく目をつむった。

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