第7話

 白粉は、はたり、はたりとはたかれた。細やかな白い微粒が荒れた肌を覆い隠し、綺麗にならしてゆく。浅香は玉響の身支度を手伝う手を止め、感嘆を漏らした。

「……綺麗」

 浅香の称賛を受け、玉響は苦笑にも似た微笑を浮かべる。

 今、浅香の豊かだった長い髪は短く切り取られ、代わりに玉響の短髪に丁寧に編み込まれていた。決してほどけ落ちぬようにと結わえられた豊かな髪が、玉響の肩から背へとゆるやかに流れる。口元に差された紅が艶やかに色を添えたことで、玉響の表情はぱっと明るく華やかなものとなっていた。

 浅香を逃す上で、玉響は自分が浅香の代わりとなって儀式に出ることを提案した。贄となる娘の存在だけはどうしてもごまかしのきかぬものであったからだ。

 水神のもとへと渡る娘には、儀式の前、身支度の為の天幕が張られる。彼女たちのいるこの天幕は外界から閉ざされた空間であった。贄となる神聖な娘が指定した女以外の里人の出入りが禁じられているだけでなく、月の出の時分となり娘が天幕の外へと出た後には夫となる水神の許可なく誰かと語らうことも許されない。薄く長い紗の被衣で姿を覆われた娘は、例え中身が入れ替わっていたとしても一目で見分けられることはないだろう。

 彼女たちは、古来より引き継がれてきた伝統の手法を逆手に取ることにした。浅香と玉響の最も顕著な違いは髪の長さのみ。浅香は小刀で手早く己の長い髪を切り落とすと、玉響の短い髪へと結わえたのだ。

 浅香は玉響の姿に見入っていた。儀式の衣装を身に纏った玉響の姿は例えようもなく美しかった。天女というものがいたのなら、こういうものであろうと浅香は思った。玉響が纏う希薄さが、彼女の神々しさを増していた。

 しばらくどこか違う場所を見続けていた玉響は、浅香の視線に気づいて口を開こうとした。

 しかしその時、天幕の外から声がかかった。内はもう薄暗い。陽が完全に沈んだのだ。

「さぁ、浅香様。もう下女は天幕の外に出なければならないようです。どうぞお気をしっかりと持って。きっと大丈夫ですから」

「だけど……」

「浅香様」

 別れの時となって逡巡を見せ始めた浅香に、玉響はぴしゃりと言った。対する主人を厳しい目で見据える。

「よいですか、浅香様。三津蔵の家に白羽が立ったのは、私があの家に住まわせてもらっていたからです。最も水神に近しい私があの場にいたからなのですよ。それ以外に理由はないのです」

 今にも泣き出しそうな浅香に向かって、玉響は優しく苦笑した。隠しきれぬ荒れのある掌で、玉響は浅香の両頬を包み込む。

「浅香様、私は私のあるべき場所へ行くのです。だから、あなたもあなたがあるべき場所に。幸せになってくださいね。私も兄もそう願っていますから」

 さぁ、と浅香はとうとう玉響に追い出されるようにして天幕から出た。一度だけ、もう中は見えない天幕を振り返る。そうして、彼女はその場を離れた。

 浅香はなるべく己の顔を隠すようにして歩いた。しかし、奴婢の身分を示す短髪の女に今更目を向ける者はいない。彼女は儀式を見物に来ている里人たちの間を抜けると、庫侘が待っているという場所に向かって駆け出した。



「庫侘!」

 浅香は懸命に丘を登りながら、頂上で待っている若者に向かって呼びかけた。丘を登ってくるのが誰であるか、庫侘はすぐに気付いて地を蹴ると、丘を駆け下りた。両手を伸ばすことすらもどかしく感じながら彼は浅香の体を抱きすくめる。

「浅香、浅香か?」

 彼の問いに答えるべく、浅香は庫侘の腕の中で何度も何度も首を縦に振って頷いた。ぎゅうと体を抱きしめられている力が増す。辺りにはもう陽の名残さえ消えかけていた。淡青の空の片隅で最後の薄桃の灯りがふつりと消える。

「来ないかと思った。またあの時のように。もう半ば諦めかけていた」

 ここに確かに存在するのだと、そう確かめるように庫侘は浅香を抱く力により一層力を込めた。

 よかった、よかった、と彼はうわ言のように同じ言葉を繰り返す。浅香は、自身も庫侘のことをしっかりと抱きしめ返しながら、この場にいる己の存在を実感していた。

 ふと、浅香は彼の肩越しに地平の果てより登りはじめた月を見て、身を震わせた。ぽっかりと空に浮かぶのは、赤みを帯びた大きな満月である。

「どうした? 顔が真っ青だ」

 がたがたと震えだした浅香に気付いた庫侘は、腕をほどいて彼女から体を離し、言った。彼女を気遣う無骨な掌が、浅香の額に噴き出た冷や汗を拭う。

「私……私は何ということを……」

 眼下に広がりうねる大河と、それに繋がる鏡池を浅香は見下ろした。風が吹き抜けて、短くなった髪が容易にさらわれ、舞い上がる。

 風にあおられるように、ふらりと傾いだ浅香の体を、庫侘が慌てて支え持った。

「一体どうしたと言うんだ。よほど恐い目にあったのだね」

 心配そうに背を撫でてくれる庫侘に対して、浅香はかぶりを振った。浅く、息をつぐ。

「違う……違うのよ。私は知っているの。知っていたのよ。玉響は水神様の妹なんかではない。それは有り得ないの」

 ああっ、と悲鳴を上げて浅香は体を折った。彼女の言葉に庫侘は驚いて目を見開く。

「しかし、玉響は確かに水神の宝玉を持っていたではないか。玉響は玉を手にのせて、自分は水神の妹だと言ったんだ。私はこの目で確かに見たよ」

「あんなものっ――大屋敷くらいの家にある者なら誰だって用意できるわ。玉響は……いいえ、あれはたゆ。あのこは、益斎えきせの里長の娘だった妙姫なのよ。私は初めて会った時――あの池のほとりで玉響に出会った時、すぐに妙姫だとわかったの。わかっていて知らぬふりをしていたの」

 浅香は妙がなぜ髪を切られて奴婢に落とされたのか、その理由を聞き知っていた。益斎ノ里は、樽山からは隣里、亜露をまたいだ場所にある。実質的な交流は樽山と益斎の間にはほとんどない。益斎の長姫に関する噂も亜露を挟んで流れてきたものらしかった。

 見たこともない、けれども己と同じ年ごろの他里の長の姫の話。大人たちが噂話に興じているその場に居合わせた浅香は、その話を又聞いたのだ。

 妙は益斎の里長である父が軟禁していたはずの罪人の息子と通じていたと言う。それが、露見して彼女は髪を切られた。

 鏡池に傍近い森の中で初めて少女に会った時、浅香は直感的に気付いてしまった。これが、あの噂の妙姫なのだろうと。

 なぜかずぶぬれに濡れている彼女が哀れでならなかった。切られてもなお美しい濡れ羽の髪が羨ましくてならなかった。

 浅香は迷わず手を差し伸べた。己の心の大半を占めているものが何かを分かっていながらも動かずにはいられなかった。

 救うふりをして、憐れむふりをして、浅香は同情と言う名の愉悦を手に入れてしまったのだ。

 浅香はぽつりぽつりと己の罪を庫侘に話した。それでも、庫侘は「行こう」と浅香の手をとった。

 迷いなく引かれた手に、浅香は信じられぬ思いで庫侘を見上げる。

「きっとそれだけでは玉響をずっと傍に置いておくことはできなかったはずだよ、浅香」

「でも、きっとずっと大半がそうだったわ。だからずっと玉響に傍にいて欲しかったのよ。なのに、玉響が身代わりになると言った時、私は『これで助かる』と思ってしまった。恐ろしかったの。ずっと、十年前に見た光景が頭から離れなくて……水の社に上がることを拒んで我を失った娘がどうなったのか……私はよく知っている。だから、恐ろしくて、恐ろしくてたまらなかったの。だけど、それを玉響に押し付けてしまった……」

 浅香は体をわななかせた。浅香を落ち着かせようと、庫侘は彼女の肩に手を置き、「いいかい、浅香」と静かに言った。

「このことを他の者たちは誰も知らないんだ」

「けれど、私は本当になんということを」

 浅香は空いている片手で自身の口を覆った。その拍子に切りそろえられた髪が肩から落ちてさらりと揺れる。

 庫侘は一度握った手を離しはしなかった。彼は、もう一度彼女の手を掴む手に力を込めて引き導く。

「行こう。少なくとも玉響は己が何者であるか知った上で、私たちを逃してくれたのだから。ならば、私たちだけはしっかりと生きなければ」

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