第10話
ざぁっと、風が木立を抜けて吹き荒れる。
先に口を切ったのは、弛祁だった。
弛祁は、溜息を吐きだすと、大岩の上から厳しい目で妙を見た。
「知っているなら、今すぐ屋敷へ帰るんだ」
「嫌よ」
「――妙!」
弛祁は聞き分けのない少女を叱り飛ばす。それは、彼が初めて口にした彼女の名だった。
妙はくしゃりと顔を歪める。けれども、彼女がとったのは、弛祁の言葉を無視した行動だった。
少女は苔むす大岩を手で掴むと、くぼみに足をかけ、登り始めた。
妙、と弛祁は悲愴を滲ませ声を張り上げる。澄んだ玉はいつの間にやら少年の掌から零れて、転がり、岩上のくぼみで足を止めていた。
岩の上へ登ってこようとする少女を見下ろして、彼は爪が痛むのも気付かず、ぎりと岩の面を握りしめる。
「やめろ、危ない。戻れと言っているだろう」
「嫌だ! 絶対に嫌っ!」
「妙……お願いだから」
「だって――」
言い募ろうとした次の瞬間、少女は足を滑らせた。
弛祁は息を呑む。
妙は、しかし、それでも、両腕を使って必死に岩にしがみついていた。宙をさまよう足を、新たに探し当てた足場にかけ、再び岩を這い、登り始める。
「だって私、こんな岩、一人で登れる。本当はずっと、一人でだって登れたんだから」
宣言と違わず、ついに岩場の上に立った少女は、そのままへたりと崩れるように弛祁の前へしゃがみこんだ。
ひくり、と彼女はしゃくりあげる。「妙」と弛祁は、手の甲で自身の涙を拭っている少女へ呼びかけ、だがその中途、知らず伸びていた己の手に気付き、握り潰した。
きつく握り込んだ拳をゆっくりと下しながら、弛祁は歯噛みし、目線をそらす。
つい、と彼の袖端を引いたのは、妙だった。彼女は、大きく息を吸い込んで、嗚咽を殺すと、「あのね」と言った。
妙は真っ向から、弛祁と対峙して泣き笑いを浮かべる。
「あのね、弛祁。私、花を咲かせたのよ。花を、……だっ、て、約束、約束を――」
「――――っ」
ひっく、と再びしゃくり上げた妙を、弛祁は両腕で引き寄せて力いっぱい抱きしめていた。
反った背が、きしきしと呻く。
びっくりするほど痛い力に、妙の胸にはほんの少しの可笑しさがこみ上げた。骨身など砕けてしまえばいいのかもしれないと思った。
弛祁の背に腕を回して、妙は、彼の衣を握りしめる。
とり囲む木々の色が濃い。
見上げた空は広く澄んでいた。
深い水の香を胸一杯にためて、彼らは目を閉じた。
匂い立つ水の香に、妙は瞼を押し開いた。
さえざえと澄み渡る夜の池は、妙にとっては馴染みの薄いもの。
けれども、鏡池に臨む、その心持ちは不思議と凪いでいた。
ずっと。
ずっと不思議だったことがある。
施された化粧は水に入ってしまえば、いとも簡単に流れてしまうというのに、何故人はわざわざ水神のもとへ上がる娘を美しく飾り立てるのか。
妙には、それがようやくわかったような気がした。
「弛祁、弛祁」
ほたほた、と顎を伝い落ちた滴が水面を打つ。煌々と照らされ揺れる昏い水面に鮮やかな波紋が円を描いていく。
水の社に入る場所はあの日の場所と同位。なのに、ここまできても、とうとう弛祁の姿を見つけ出すことはできなかった。
妙は一人涙した。だが、幼かった少女の頃のように声を荒げて泣き叫ぶことはしなかった。あれから、幾度もそうしてきたように、彼女は涙を拭うことすらできずに静かに泣いた。
袂に、あの日、結局譲り受けることになった玉の重みを感じる。大切なものだと聞いていた。だから、浅香たちに託し損ねたことだけが、心残りだった。
だけれど、共に持っていけば、かつて口にした通り、ここで共に守っていくことができるだろうか。
「弛祁……」と、妙は問うように彼の名を呼んだ。
夜気を含んだ風が池の上を吹きすぎる。薄い紗と共に、結われた濡れ羽の髪がかすかに風に舞い上がった。
「いいえ」と、娘はかぶりを振る。
ここに住まうのは彼ではないと、妙は知っていた。
ならば。
「水神様」
――どうかこれを真の宝玉と成してはくれないだろうか、と彼女は乞う。
月のさやけさが、池に満ちる。
水面にゆらめく月光の橋を見ながら、あの二人は無事に逃げられただろうか、と妙は思った。彼らが落ち合っているはずの小高い丘は、妙が立つ場所からちょうど真横に位置する。
しっかりと見極めることは叶わない。なので、妙はちらりと横目で一瞥した。
やはり、はっきりと姿を確認することはできなかった。けれど、そこに確かに二人の姿を見た気がして、妙は嬉しそうに微笑を浮かべた。
ドン、と一際大きく太鼓が打ち鳴らされる。
妙は、ゆるやかに目を閉じて、水底へと足を踏み入れた。
水に入る直前、娘の頬を最期の涙が伝い落ちたことに気付く者はなかった。
里人たちが去ってしまった後、中天まで登りきった月がひそやかに鏡池に映しだされた。
青白く色を変えたほのやかな月光の中で、沈みいった者たちは息を絶やした。
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