#1 偽りの五輪梨乃

 2007年の4月。俺の憂鬱は、土日の連休を挟んでも消えなかった。憂いの原因は到底、他人には話せないもので、独りで悶々と抱え込むしかなかった。いくの場の良く解らない雰囲気ムードに浮かされたといえども、教師とキスした、と禁忌的タブーな事実は揺るぎない。そして……。

 俺は金曜の放課後起きたあの「事件」の後、何度いたか分からない溜め息を漏らした。

 何だかんだで月曜の日程も終わりかけていた。今日は学校全体が通常より早く放課とるが、代わりに新入生全員が強制参加させられる「部活動紹介」なる行事イヴェントが催される。俺が一昨々日さきおととい入学したの県立学科技術高校――通称“科技カギコー”は、生徒全員原則部活動加入と云う規則が有る為、何方どっちにしろ俺等新入生は部活動紹介を参考にし、加入する部を決定しなければならない。其れ故の新入生強制参加なのだが、無気力無感動と評される典型的な高校生ばかりに思える級友クラスメイト達は「早く帰らせろよー」等と口々に愚痴っていた。実際、学年全体もそう思っていたらしく、会場と為った体育館1階(何故か「第1アリーナ」と呼ばれている)は行事開始前、面倒臭ぇ、早く終われと云う雰囲気に包まれている様に感じた。

 とは云え、いざ催しが始まると、意外と趣向を凝らしている部が多く、中には教師陣も含む会場の爆笑をさらった部も有り、結果的には倦怠けんたい、無気力の塊だった俺等1年生は予想外に楽しんで、体育館を後にしたのだった。


 俺は学ランのポケットの中で、折り畳み式の携帯電話ケータイに親指をし入れ、少しだけ広げた。すると振動器ヴァイブレータが等間隔に2度作動した。のケータイには、着信やメール受信が有った後に本体を開くと振動器ヴァイブが動作し、着信等を報知する機能が備わっている。今、俺のケータイにはメールが受信されているか、電話着信が有ったと云う事だ。

 担任にバレない様にケータイを取り出し、机の天板で前からの視線を遮る為引き出しに隠し、開き切った際に鳴る「パキッ」と云うヒンジの音に細心の注意を払いつつケータイを開け、メイン画面ディスプレイを観た。待ち受け画面に「Eメールあり 1件」と表示されている。メールの差出人はどうようだった。陽香は此の学校で数少ないオナチューの同級生で、普通科四組に在籍している。県立学科技術高校は普通科が一学年に4学級クラス、機械科が2学級、電気科と情報科が1学級ずつ有る、普通高と工業高のあいの子の様な高校である。すなわち、「学科」の意味する所が一般的な普通校のはんちゅうである普通科、「技術」が意味するのは機械科を筆頭にした工業高校の分野エリアである専門科であり、故に「学科技術高校」なのだ。

【部活見学、一緒に回らない!? そっちの教室の方で待ってるから】

 俺はメール本文に眼を通し終わると直ぐ返信釦を押し、

【了解】

 とだけ打ち込み、送信した。俺が学ランのポケットにそっと携帯を戻した丁度其の時、部活動紹介イヴェントの後半部分パートに当たる「部活動自由見学」に備えて事前に解散する為、ショートホームルームを始める号令が掛かった。


「ねぇ、つきはどの部活にする?」

 此の“得附”というのは、変換機能で苦労する俺の下の名前だ。

いや、オレはだ……。でも、アレはだな、運動部は高校じゃ何と無く……。陽香おまえはどうすんだ?」

「私も迷ってる……。候補は有るんだけどね」

「そっか……」

 SHRが終わり、俺は陽香と落ち合った。取り敢えず、校舎内を見て廻る事にして、俺等は歩き出した。大勢の1年生が各フロアにわらわらと居たが、九割以上が同性同士でツルんでおり、異性ようかと見回っている俺は途中、何となく気恥しくなったが、どうせ誰も俺等なんぞ気にしてはいないだろう、と意識的に開き直る事にした。

 ぐるりと教室棟から別棟べっとうまで冷やかして回ったが、大した成果は得られなかった。別棟3階の無駄に幅広い廊下の片隅で、俺等は立ち止まった。

何処どこにするよ、決まった?」

「うん、まぁね。茶華さかどう部にしようかな、と。元々第一トップ候補だったし」

「へぇ……。決めたのか……」

「得附はどうするの?」

「いやぁ、今一イマイチピンと来るが無くて困ってんだよ……」

「そっか……。まぁでも、もう少し廻ってみようよ。何か見付かるかも知れないし」

「あぁ、そうだな。別棟3階このあたりは見てないし」

 別棟は実習棟とも云い、かんで見ると全体はコの字形をしており、2階と3階の両端が教室棟に連結している。また、連接している教室棟が北側に在るので、建物の両側が東館・西館と云う呼び名で便宜上分けられている。ちなみに3階だけは建屋の奥の方が繋がっておらず、此のフロアだけはイコールの様な構造つくりだ。

 そんな事はさてき、俺等は別棟東館の3階に居た。

 別棟東館3階――。此の時、もしも俺が其処に居なければ、違っていたかも知れない。

 ……否、どっちにしろ“遅かれ早かれスーナー・オア・レイター”だったのだろう。俺は、いや俺と佐峰先生は、逃れられない運命だったのだ――――。

 ふと周囲を見渡した俺の眼に飛び込んだのは、見学者の為に貼ったと思われる「tRPG部」と書かれた手書きのポスターだった。俺は「tRPG」の意味が分からず、しばし考えた。――RPGなら分かる。ロール・プレイング・ゲームだ。しかし、「t」が謎だ。小文字である意味も分からない。……いずれにしろ、珍しい部活であるのは確かだな――。

「あれ?」

 其の時、聞き慣れない声が左の方から飛んで来た。

「おーい!」

 其の声が誰かを呼んでいるので、俺は其方そちらを見遣った。声の主を眼で捉えた俺は、息を呑んだ。直後、取り乱して叫びそうに為るのを辛うじて抑制し、再び見直す。

 ――――間違い無い。あの人・・・だ。


 訳も分からず佐峰先生と口付けた瞬間、俺が入室した際に閉めた襖が唐突に開いた。勢い良く、間合いタイミングを計ったかの様に。俺と佐峰先生は数秒前と同じく何方とも無く、然し今度は打って変わって素早く、顔を離して襖の方を向いた。

 其処に居たのは、右手に赤い何か・・・・保持ホールドした女子生徒だった。女子生徒は自分が持っている何か・・から視線を此方に移し、呆然と突っ立っていた。暫し、3人の間の空気が凍り付いた。其の間俺は辛うじて、彼女が保持している赤い物体・・・・が、手持ち型ハンディ動画ムービー撮影機カメラである事を見抜く事が出来た――。

 って、そんな事抜かしてる場合じゃねぇよ! こりゃヤバい、と思い始めた途端、彼女は頬を軽く紅潮させ、あからさまに「エラモン目撃してしまった!」と云う表情をし乍らきびすを返し、何処かへ走り去ってしまった。

 消え行く靴音を聞きつつ、

「あの赤いの、まさか……?」

「ええ、多分ムービーカメラでしょうね」

まずいね……」

「はい、大分ヤバいですね」

「…………何で、その……、キス、しちゃったんだろうね?」

「さぁ、僕にも分かりませんけど……、いて言えば、雰囲気に浮かされた、って事に為るんすかね……」

「…………」

 決して互いを見ず、誰も居ない襖の辺りに視線を固定し乍ら、俺と佐峰先生は言葉を交わした。

「……かく、此の件は誰にも言わないでね」

「言う訳無いっすよ」

 佐峰先生が俺の方を向いて言ったので、俺も先生の眼を見返して答えた。

「じゃあ、また今度、話し合う、って事で良い?」

了解しわかりました」

 発言だけを追うとそうは感じられないが、今眼の前にいる佐峰先生は相当におびえている様だった。顔面蒼白で、正座した膝の上にえられた握りこぶしは小刻みに震えていた。此処で俺も「大丈夫ですよ」位の事をキリッとした顔で言えれば良いのだが、如何いかんせん俺も内心動顛どうてんしていた。ビビっていたのだ。

「……じゃあ、僕帰ります」

「あ……、うん」

「……失礼します」

 俺は立ち上がり、浅く頭を下げてから退室した。其の時の俺の脚と云ったら、産まれたての仔馬や仔鹿の比では無く、ガクガクブルブル震えていたので、佐峰先生にもあっさり露顕してしまっていただろう。

 帰宅した俺は、改めて其の実感が沸々ふつふつと湧いてきて、思いわずらった後、諦めに似た感覚の止め無い溜め息と共に週末を過ごし、今に至るのだ――――。


 其処に立ち、俺に声を掛けているのは、まごかた無く例の赤いムービーカメラの女子生徒だった。

「え、得附……知ってる人?」

 陽香がげんそうに小声で尋ねてきた。が、最早俺に答える程の余裕は無い。過去経験した事の無い水準レヴェルの動揺が俺を襲い、其れは激動と呼んでも差し支えない程だった。

 ヤバい、ヤバい、ヤバいぞ、此れは…………。俺の脳内は其の単語フレーズで埋め尽くされ、溢れんばかりだった。

 もし此処で唐突に彼女が、内蔵フラッシュメモリなりSDカードなりにバッチリ残っている(であろう)「佐峰先生とのキスシーン動画ムービー」を見せてきたら、俺はどう為る?

 謹慎か?

 停学か?

 退学か?

 佐峰先生はどう為る?

 退職?

 免職クビ

 いやいや、突然動画の公開いきなりは無いだろう。

 でも、もし彼女が動かぬ証拠ムービーの存在を陽香の前で仄めかしたら?

 第三者に漏洩ろうえいしたら事態の危険度は跳ね上がる。

 やが人伝ひとづてに情報は走り、学校中に露顕すバレる?

 そう為ったら俺は、停・退学?

 先生はクビ

 ―――――ああぁぁ、駄目だ!!!

 どう考えても否定的ネガティブ悲劇的バッド結末エンドしか浮かばねぇ……!!


 此の間1、2秒だったろうか。俺の頭脳がかつて無い程超高速ハイパーレヴで働いているのが自覚出来た。まるで暴走オーヴァードライヴする演算装置コンピュータの様だ。

 自分では制御コントロールが利かず、何が何だか分からない。一方、もう一人の自分が上から、わたわたしている自分を眺めている様な感覚もあり、自分が真っ二つに分裂していく様だった。

 全く以てお手上げだ。自分を持て余す、とはまさしく現況いまの様な時に用いるのだろう。

「ねぇ!!!」

 怒鳴り声で俺は急速に現実めのまえに引き戻された。

 けん縦皺たてじわを寄せた例の女子生徒の顔が、俺の鼻先数センチの所に在った。俺は其れ・・が何かを認識すると同時に、可及的速やかに後退あとずさった。

「近っ!! ……何なんですか?」

「『何なんですか』はこっちの台詞セリフでしょうが! ったく、『おーい』って声掛けただけで行き成り機能停止フリーズしやがって!!」

「あぁ……すいません」

 彼女の顔を盗み見る。流石に世間体上よろしくない場面を目撃された相手、それも異性の顔をまじまじと見られる程の無神経さを俺は持ち合わせていなかったのだ。そうして瞬間的に視野の端で捉えた彼女の顔は、頭一つ抜けて可愛いと思える程の造形を誇っていた。

 そんな彼女の含み笑いを浮かべた顔面が再び徐々に俺に近付いてくる。彼女は俺の右肩に両手を乗せ、其処を支点に思い切り背伸びをし、俺の右耳に口許を持っていった。

「ねぇ、佐峰先生とキスしてたでしょ?」

 此の世の中で俺にしか聞こえない声でささやいた彼女は、すっと俺から離れ、定位置かの如く俺の正面に戻り、俺の返答を待った。陽香はかたわらで不安そうな面持ちで俺と彼女の様子をうかがっている。俺は観念し、眼を閉じて力無く、

「はい」

 とつぶやく様に答えた。此れから俺はどう為ってしまうのか……。漠然たる不安を抱えた俺に、未だ名も知らぬ彼女は、

「じゃあ、一寸ちょっといて来て!」

 と邪気の無い満面フルフェイスの笑みで言った。其の笑顔は俺の胸の奥底に引っ掛かり、何時迄も消えはしなかった。そんな表情に見惚みとれている内に、彼女は俺の左腕を掴み、引っ張っていく。

「……え?! ちょ、何処行くの!? 部活は?!」

 陽香は驚きと不安の入り混じった声を、連行される俺に飛ばしてきた。何処へ行くかって? 其れは俺が一番聞きたいよ。

「あー……取り敢えず自転車チャリ置き場で待ってて!」

 俺は辛うじて答えた。彼女が「一寸」と言った以上、そう長くは為らないだろう、と思ったからだ。

 今日はもう、此の一件が終わったら帰ろう。俺は先程の頭脳エンジン過回転オーヴァーレヴで、すっかり精神的に参ってしまっていたのだ。


 どうやら俺が連行された先は、別棟東館二階の端に在る、業務オフィス用の複写コピー機が数台据え置かれている印刷室の様だ。此の部屋の前に伸びる廊下の先は、空中渡り廊下で教室棟と繋がっている。部屋は窓が無い事もあいって、閉塞感が強い。長方形の室内はギリギリ10畳位の広さで、複写機が4台と、壁際のラックに積まれたコピー用紙やら藁半わらばんやらの大量の紙束、それと無機質な事務机が1つ在るだけの部屋だ。

「……何なんすか? 行き成り」

「あたし、いつ輪梨乃わりの。アンタは?」

 俺の発言を寸分も聞かずに、彼女は勝手に名告って質問を返した。其の声は明るく、自信に満ち、悩みなんてこれっぽっちも無い、様に聞こえた。

「……オレは、柿手得附ですけど。てか、オレの質問に」

「へぇ、エツキ……。変わった名前ねぇ。何年生いくつ?」

「『幾つ』って……?」

「学年よ! 何年か、って事。察しなさいよ其れ位!」

 何故俺が怒られてんだ? 俺は根本的な疑問を感じた、が。

「……1年です。此の間入ったばっかの」

 初め、「3年だけど?」等とうそぶいて、えらそうにしてんじゃねーぞコラ的な空気をかもし出そうか、と考えた。が、此の人が万が一最上級生だったら全く効果を発揮しない事に思い至り、不服乍らも素直に答える事にした。渋々感を目一杯演出するのが肝要キモだ。

 と云うより、眼の前の彼女には弁慶氏に取っての臑脛すねはぎの比では無い程の豪い弱みを握られている、と云う精神的なメンタルパワー関係バランスも多分に影響している事には反論の余地が無い。安牌あんパイを取っておいた方が良い、と云う俺のこすい保守精神が存分に働いてしまった。

「あ、そ」

 俺の意に反し、呆気あっけ無い程素っ気無い反応を見せた彼女は、制服のポケットから白い携帯電話を取り出し、黙り込んで何やら操作し始めた。

 ……何だ、此の現状放置プレイは?

「あの……イツワさんは?」

 俺はてっきり、彼女も学年を返すなりして、多少なりとも会話が交わされるだろう、と思い込んでいた。だから思いがけず訪れた空白に対して条件反射的にそう訊いたのだが、彼女はなお黙々と携帯を操るだけで、此方に一切の興味も向ける事は無かった。俺は急速に虚しく為って、唯うつむいた。

「ねぇ」

 ふと顔を上げた彼女は不意に声を掛けてきた。

「『カキテエツキ』ってどう書くの?」

 不可思議に落ち込んだ心境の儘、俺は顔を上げ、答えた。

「果物の『柿』に手足の『手』で『柿手』、損得の『得』にこざとへんの附属の『附』で『得附』って読みます」

「ちょ、速いって! えーと……柿……手……で?」

 俺は学ラン風の制服のポケットからオレンジ色をした東芝製の携帯を取り出し、中央釦を1回押下しメインメニューを表示、其の状態で0キーを押し、自局番号プロフィール画面を展開させ、其れを彼女に見せた。其処には携帯電話番号からメールアドレス、そして俺の姓名フルネームが漢字ではっきり記されている。

「此れです」

 俺がauの携帯を差し出すと、彼女はひらめいた! とばかりに眼をキラめかせ、言った。

「そうだ! アンタプロフィールそれ赤外線で送りなさいよ! 其れが一番早いわ! 何で気付かなかったんだろ?! あたしもまだまだね!」

 俺もそう言われる迄全く発想に無かった。此の画面からサブメニューを展開すれば即座に赤外線送信が可能なのだ。

 ……然し、少し考えて俺は気付いた。俺が其れを発想の中に考慮しなかったのは至極当然だった。彼女がアドレス帳を編集しようとしている事を、俺は今迄知らなかったのだから。

「……うん、OK。じゃあ今度は私が送るから」

 斯うして俺は彼女に個人情報プロフィールを送り、彼女から個人情報を受け取った。俺がポケットにW47Tケータイしまうと、

「あ、そうそう言ってなかったね。アンタを引っ張ってきたのはねぇ……」

 彼女――以降「梨乃さん」と呼称する事とする――は、漸く本題へ突入しようとした。

県立学科技術ウチの高校ってね、仮令たとえ幽霊部員ユーレイでも所属人数が多いトコに部費が多く配分プラスされるのよ。ほら、他の部も結構、てか可成り勧誘に力入ってるでしょ? まぁ此れは知ってると思うけど、ウチの高校って原則生徒全員部活加入じゃない。当然、目当てって云うか、遣りたい部活が無い、って奴も出て来るのよ。勿論もちろん『部活なんて面倒メンド臭くて遣りたくない』とか『部活なんかよりバイトで金稼ぐぜ!』って奴もね。そう云う奴等をき集めて部を存続させたり、部費を多く稼ごう、って部が意外と多いのよ。特に文化部に顕著けんちょね。で、文化部等そーゆートコは幽霊部員黙認しみとめちゃってるから『まぁ良いかそーユートコで』っつう奴も多いワケ。こんな感じかな? ウチの高校の部活動の現状と傾向。分かった?」

 梨乃さんは全く本題に突っ込んでいなかった。長々とまくし立てたのに、だ。俺としては県立学科技術高等学校わがこうの部活動に関する実状を語られても、只管ひたすら反応に苦悩するのみだ。なので俺は回答アンサーとして一度頷いた後、「詰まり?」と訊いた。

「つぅまぁりぃ~、アンタはtRPG部に入部すはいるって事よ。唯其れだけ。此れはもう決定事項にして既定事項だから。天地が引っ繰り返っても神様ジーザスってオッサン食卓テーブルソルトを『黒い』って言おうと、未来えいごう絶対不可侵なのよOK?」

 梨乃さんはライヴで情熱的に歌唱するロックバンドのヴォーカルの様に大袈裟オーヴァーな身振り手振りをしつつ早口で宣言した。……疲れないんすか? そんな話し方。

「……え、其処にオレの意思は全く無いんすか?」

 俺は梨乃さんの所作アクションに就いての感想を封印して返答した。すると梨乃さんの眼の色が変わり、周りに誰も居ないにもかかわらず、俺に耳打ちしてきた。

「……あのねぇ、アンタ現況を理解してる? アンタは、あたしに何か言える立場なの?」

 わざとらしく勿体もったいって間を溜めると、

「……あたしは、アンタの――いやアンタと佐峰先生センセーの『秘密』、物理的に・・・・持ってんのよ?」

 小悪魔的な微笑を浮かべた。俺には全く以て完璧な悪魔にしか見えなかったが。ぐぅの音も出ない儘、豪い人に弱み掴まれちまったな、と俺は直感していた。

「…………分かりましたよ。入部しはいります、tRPG部」

 待機中のオフィスオートメイション機器が低周波の唸り声を上げる中、暫し黙り込んだ末に渋々言うと、梨乃さんは

「うん! 此れでノルマ達成だわ!」

 起き抜けに寝台ベッド上で両腕を天蓋てんがいに突き上げ伸びをする様な、将又はたまた自軍の勝利をきんじゃくやくする将校の様な反応をした。恐らく、幾人かは入部させろ、と云う様な指令が下っていたのだろう。

「あ、じゃあもう帰って良いわよ。明日辺り、また来て呉れれば」

「あの……」

 俺は最後、心残りと迄は言わないが、引っ掛かっていた事項をぶつけてみた。

「何?」

「五輪さんって、何年なんですか?」

 梨乃さんはキョトンとした表情をした後、柔らかく優しい笑みで

「2年」

 と答えた。俺はまた、梨乃さんの笑顔に見惚れていた。何故だろう? 何故、輝く様な其の笑顔に、見惚れてしまうのだろう……?

「どしたの?」

 意識を視野に下ろすと、梨乃さんは既視感デジャヴの如く俺の鼻先10cmセンチの所で、俺の顔をまじまじとのぞき込んでいた。

「ぅわっ!!」

 俺の心臓は確実に一瞬停止し、活動再開と同時に後退あとずさった。手遅れ感は否めない……と云うか確定的だが、俺は平静を装い、

「何でも無いっすよ」

 と外方そっぽを向いて言った。外方向く時点で平静じゃないだろ、俺。恐らく紅潮しているだろう頬を意識し乍ら脳内で自己セルフ突っ込みを入れた。

「そう……。アンタ、結構『浪漫飛行へインザスカイ』するよね」

 梨乃さんは自分の通学鞄を手に取ると、そう言った。

「……え?」

 単純且つ純粋に意味が理解出来なかった俺は訊き返した。

「だから、よく解脱めのまえからトリップするよね、って事」

「あぁ…………」

 自覚は無かったが、確かにそうかも知れない。ことに、今日、梨乃さんこのヒトの前では。

「あと、今後はあたしの事『梨乃』って呼ぶ事! 何か苦手なのよ、苗字で呼ばれるの」

「あ、はぁ……り、梨乃、さん……」

 梨乃さんは満足げに頷き、

「うん、其れで良しっ! じゃっ、またね!」

 スキップの様に軽やかな足取りで部屋の引き戸に近付き、梨乃さんは戸を開け放ち、此方に右手を振って印刷室を出て行こうとした。俺は何と声を掛ければ良いか分からず、唯ぼんやりと、右の腰に揺れる小さな赤い腰袋が印象的な梨乃さんの後ろ姿を見送っていた。すると、梨乃さんは俺の視界から消える間際、「あ」と云う母音と共にふと立ち止まり、

「アンタの渾名、『ウルフ』にするわ。あたしは今後、アンタの事そう呼ぶから。覚えときなさいよ?」

 「得附」と云う俺の名前の漢字を読み替えて名付けたのだ、と俺が理解した時には、既に梨乃さんは視界から消え失せていた。


「あ! ねぇ得附、誰なの? あのヒト

 他の学年のものと離れた、遠い場所に在る1年生用の駐輪場へ辿り着いた俺に、陽香はそう声を掛けてきた。

 よもや「佐峰先生きょうしとキスしてたのを動画でられて弱み握られた先輩」などと馬鹿正直には言えまい。「いや、一寸ね……」と誤魔化した。陽香は今一つ腑に落ちない様だったが、俺は敢えて構わず機械科1組の区画に歩を進めた。

「あ、ねぇ! 無視すんなっ!」

 俺は自分の自転車のシリンダー錠を開けた。前かご藍色ネイビー肩提げショルダーバッグを縦に突っ込むと、右足で両脚スタンドを払い飛ばし、通路に愛車を引っ張り出す。

「行くぞ」

 俺はぶっきらぼうに言って、サドルにまたがった。軽快車のくせに骨格フレームの後部にサスペンションが組み込まれた愛車は、尻から掛けられる俺の荷重をしなやかに受け止め、僅かに車体を沈めた。

「あ……待ってって」

 俺の言葉を受け、陽香は慌てて自分の自転車に向かい、水色のシティサイクルに飛び乗った。

 並走して、裏門的な位置付けである西門を抜けた。由緒ある神社を右手に、此の界隈かいわいでは唯一の私鉄の線路を左手に見乍ら道を進む。温暖で、雲量1割程度に晴れ渡った春の中部地方を吹き抜ける風は、色でたとえるなら薄い緑色、或いは水色に限り無く近い青、と云った所だろう。兎に角、腐る程に爽やかだった。

 此処であらかじめ念の為断っておくが、俺と陽香は付き合ってはいない。此れはまぎれも無い、99・999999999%イレヴン・ナインの超高純度を誇る事実であり、全ての生命がいずれ死と云うしゅうえんを迎えるのと同じ程の真実だ。では何故、此れ程迄に爽快な空気感の中を男女2人で並走しているのか、と云うと、其れは俺等の帰る先が一緒の建物であるからに他ならない。だが、俺と陽香との間に血縁関係は無い。じゃあお前等は同棲してるのか? と突っ込まれそうなので速攻で其の可能性も否定しておこう。

 ならば一体どう云う関係なのか? 一言、端的に云うなら、俺と陽香は小学校時代からの幼馴染だ。元々、俺が科技高から離れた地の出身で、校内に同じ中学出身の人物がほぼ居ない事は先述しているが、堂季陽香は数少ない同郷の同級生なのだ。同じ建物、と云うのも其処に関連してくる。

 俺の言葉ワード選びチョイスに難が有ったのだろう。要は「行き着く先が同じ建屋」詰まり「同じアパート(の別の部屋)に住んでいる」と云う事だ。

 俺は此の春、専門学校を卒業して社会人と為った20歳の姉と同居している。今から俺が帰宅する部屋は姉の名義で借りられており、姉は2年制の専門学校に進学する際に実家から離れた此の地に出て、独り暮らししていた。然し、俺が偶々姉の住むアパートに比較的近い科技高に通学する事に為ったので、じゃあ乃亜音のあね(此れが姉の名前だ。俺に負けず劣らず、何処か違和感の有る名付けネーミングである)の所に住みなさい、と云う命が両親から下ったのだ。心配性な両親としては、姉が独り暮らしをする事に因る(主に異性関係の)種々のいざこざトラブルを未然に防ぐ遠隔監視スパイ役としての投入と云う意味も有ったらしいが……。

 くして、俺は姉のアパートに下宿の様な形式スタイルを取る事に為った。其の話は直ぐ、近所に住み、半ば家族ぐるみの付き合いと為っていた陽香の両親の耳にも入る事に為る。共に入試を受け、無事合格したので当然ではあるが、俺と同時に科技高への入学が確定した陽香を同じアパートに住まわせば「乃亜音ちゃんも得附君も居るし安心」とのたまい、陽香の両親は幸いな事に空室が有った姉のアパートの一室を借りる契約をしたのだった。

 そんな事情が有るので、同じ屋根の下に暮らす同級生として、俺は陽香と通学を共にしているのだ。故に、俺と陽香は決して、断じてそんな関係ではない。

 ……と云うか、まぁ、そう云う事にしておかなければ今後に支障が出てくるので。


 その内、アパートに到着した。所要時間45分程度の道程みちのりだった。俺の愛車であるブリヂストンのアルサスで、陽香の漕ぐ速度に合わせての時間だ。俺が独りで、時間と云う逃れられないアンストッパブル怪物モンスターに追われている朝なら、あと10分近くは短縮出来るだろう。其の位の距離が在る。

 駐輪場に愛車を収める。敷地の隅に追い遣られた、トタンきの小さい自転車置き場は、普通の自転車ママチャリを6台も入れると一杯に為ってしまう。幸い、此のアパートには其れ程自転車所有者が多くないらしく、大体1台分の余裕が常に有る状態だ。なので今の所、俺と陽香は楽々駐輪する事が出来ている。

「んじゃ、またな」

「うん」

 俺は別れの挨拶を交わすと、姉の部屋の玄関扉に備え付けられているシリンダー錠の鍵穴にキーを差し込み、タンブラーを内筒に収め、デッドボルトを解除させ、鍵を引き抜いた。ドアノブを手に取り、扉を開ける。姉は仕事に行っている為、室内には誰も居ない。靴を脱ぎ、サムターンを回そうと振り返ると、三和土たたきに陽香が立っていた。

「おい、今『サヨナラ』しただろうが」

「うん。其れが?」

「『其れが』って……」

「だって、どうせ後でご飯食べに来るんだし……良いじゃん」

 そう言って陽香は俺を退け、勝手に部屋の奥へ進んでいった。はぁ、と溜め息を吐き、俺はサムターンを横にし、施錠した。


 その後は他愛も無い会話をしつつ時を過ごした。新境地である高校生活はどうだ、とか、中学時代の思い出とか、最近のテレビ番組の事とか、取り留めも無く、大して意味を為さない様な会話だ。然し、こんなどうって事無い話こそ、人生に於いて大切にしなければ為らないものなんじゃないか、と俺は何と無く感じている。

 そう斯うする内、俺の姉で此の部屋の契約者である柿手乃亜音が帰宅した。

唯今ただいま……あ、何だ陽香ちゃんか。今晩は」

 姉は黒い肩提げ鞄を床に置き、居間の机に就く陽香を目にすると、言った。

「えー? 『何だ』って何ですかノアネさーん」

 不服そうな声を上げる陽香に姉は、

「否、しかして得附が彼女連れ込んでんのかなぁー、って」

 不意打ちな言動をましたので、俺は口内に含んだ清涼飲料水を噴き出しそうに為った。陽香の通学用の靴なんて見慣れてる筈だ。他人の物と見間違える事なんて無いだろうが、姉貴!

「得附、彼女居んの?」

 何故か不安そう、且つ怒っている様な、器用な表情をしつつ訊いてくる陽香の視線を遣り過ごし乍ら、天然水を名告る白桃の香りフレイヴァーが若干付いただけの砂糖水をえんした俺は返答した。

「居ねぇっつの。そもそ学級クラス内に未だ喋る奴もろくに居ねぇし、そんな状態で彼女なんて出来る訳無ぇだろ?」

「だ、だよね。然も得附の学級って女子2人しか居ないんだっけ?」

「あぁ。まぁ、そう云う意味で云えば競争率は高いな」

「そっか……」

「陽香ちゃん、何かバレバレだよー?」

 姉が茶化した様に言うと、見る見る内に陽香の頬は紅潮していく。俺には姉の発言と陽香の反応がどう云う意味を為すのか、全く分からなかった。――少なくとも、此の時は。


 陽香の両親が、娘が俺と姉の傍に居れば安心と云う様な事を言ったのは、過保護さをかばい通せなかったから、と云うだけではなく、どちらかと云うと実生活を考慮した面の方が大きかったらしい。

 或る意味当然とも云えるが、極普通の3次元スリーディー実在人物リアルガールである陽香は完璧に家事をこなす事は出来ず、してや高校に通い乍らの独り暮らしでは自炊さえままならない事は目映まばゆい程に明白だった。俺は中学時代割と、陽香を含む連中と共に居る事が多かったので言えるのだが、アイツは家事の出来る人間タイプではなかった。少なくとも俺の見てきた範囲では、母親の家事を手伝うと云う事も無かった。と為れば必然的に隣の部屋の「ノアネさん」を頼る事が多くなり、此処数日は夕食時には必ずウチに遣って来る有り様だ。辛うじて朝食と昼食用の弁当は自前でまかなっている様だが、其れが最後の矜持プライドとでも云う所だろうか。それだって此の間は寝過ごしたらしく、俺が朝食をむさぼりだした頃に押し掛けてきて、

「お願いします! お弁当、作って下さい!!」

 と空の愛用マイ弁当箱を姉に献上しつつ土下座をぶちカマす、なんて事も有ったが。まぁ最低限、弁当を自前でこしらえられるならほど問題無いだろう。そう云えば、洗濯は自分で熟している様だ。もっとも、幾ら家族ぐるみの付き合いとは云え、自分の洋服や、あまつさえ下着の洗濯を依頼してくる様では色々と心配に為ってしまうが。

 く言う俺はと云うと、家の事は全て姉に任せきりだ。陽香に対し、決して偉そうな事は言えない。だから内心は、姉に頭が上がらない。昼間は仕事(入社したてで何かと覚える事も多く、大変な筈だ)をして、学生の俺より帰宅が遅いにもかかわらず、炊事洗濯其の他陽香の支援サポート含め諸々を愚痴一つ零さずに遣り遂げて呉れているのだ。よく親戚に「出来たお姉さんが居て良いねぇ」等と言われるが、実際一緒に暮らす様に為って改めて其の言葉を噛み締めている。此れ程迄に全速フル回転の日常生活を送っていれば、過保護な両親の懸念材料である異性交遊等、抑もする暇が無いだろう。

 まさか此れが両親陣営の真の狙いなのだろうか? であるならば、其の目論見もくろみは現状、大成功だ。現に俺は一月ひとつき近く同じ部屋の中で生活を共にしている訳だが、全く男の影は見当たらない。此れでも心から感謝しているのだ、姉には。否、本当にマジで心の底からボトムオブマイハート

 そんな事を頭脳の片隅でのらくらと演算し乍ら、2ヵ月程前から愛用するエキゾチックオレンジと云う色名を頂戴した携帯電話を充電しつつEZwebで情報ネット閲覧サーフィンをする俺に、陽香が声を掛けてきた。

ながら充電そういうのって悪いんでしょ? ケータイに」

「分かってるって、其れ位。一寸位なら良いんだよ。即爆発する訳じゃ無いんだし」

「でも」

「良いんだって! ヘタってち悪くなってきたら電池パック替えりゃ良いんだから」

 俺が語気を強めると、陽香はやれやれと云う素振りで溜め息を吐き、自分の赤いP703ⅰμミューに眼を落とし、せっせとメール文面の入力を再開した。

級友クラスメイトか?」

 何の気無しに俺は訊いた。

「うん。ルコちゃんって云うの」

「ルコ?」

「そう。とくはしことって云う娘なんだけど。流琴ちゃん、だからルコちゃん」

 成る程、どうやら此の世には、摩訶まか不思議な姓名を持つやからが俺と姉以外にも居るらしい。

「凄いんだよ、此の娘。もうね、脚は速いし細いのに筋肉質だし、運動は何でも出来るみたいだし」

「へぇ、そりゃ凄いな。スポーツウーマンってトコか」

「うん。陸上部って言ってたっけかな? 全日本中学校陸上競技選手権大会ちゅうたいれんで可成り良い所迄行ったって」

「ふーん。中体連に出るってだけでもう凄いじゃん。其の内全校朝礼とかで名前聞く様に為るかもな」

「うん、多分ね……」

 陽香は其れきり、再び入力操作に没頭した。其の時、姉の声で食事の用意が出来た、との呼び掛けがあり、俺と陽香は胸中で神様仏様乃亜音様に最大限の謝意を唱えつつ、食卓に着いた。


 食事を終えると、陽香は隣の部屋へ帰宅した。当たり前の様に3人分の食器を鼻歌交じりに洗う姉の後ろ姿を尻目に、俺は改めて頭が上がらねぇ、と痛感した。


 余りの事に頭脳が思考するのを放棄していた様だが、床に就き眠りに入る間際に、俺ののうに一つ、巨大な不安が再燃した。其れは詰まり、梨乃さんは動画ムービーファイルの存在を仄めかしたものの、其れの第三者への開陳に対しては何ら保障サポートをしていない事に就いて、である。其の火焔ほのおは瞬く間に俺の脳裏をしょうらんし、しょうじんし、しょうざんした。甚大過ぎる不安に眼が冴え、微睡まどろみの中で生じた眠気も暴風雨ハリケーンの中の亜鉛鍍鉄板トタン屋根の様にあっさりとがれ飛び、此の儘一睡も出来ないのか、と思った。

 然し人間と云うのは何とも都合良く……、否便べんに出来ているものだ。俺は何時いつの間にか眠りに落ち、そして何時の間にか朝を迎えていた。



 時間と云うものは、どうしてこんなにも、すっ飛ぶ様な速さで過ぎ去っていくのだろうか。たまに不安に為る。そんな訳で、文字通りあっと云う間に俺は翌日の放課後を迎えていた。おぼろげな脳内の校内案内図を辿り、何とか自力でtRPG部の部室に辿り着いた。入り口の引き戸に据えられため殺しの窓から、それと無く内部を覗いた所、梨乃さんの姿は無い様だった。此処で俺は思い悩む羽目に為る。よくよく考える迄も無く、俺は梨乃さん以外の部員を知らないのだ。大体、此の「tRPG謎のアルファベット部」がどんな活動をするのかすら、俺は一切知らない。そんな状態の新入生が梨乃さんと云う媒介人なかだちの居ない部屋に乗り込んでみても、室内には不意打ちの飛び込み営業マンが訪れた時の様な混乱が広がるのみだろう。どうしたものか……と暫し考えた俺は、意を決し、入室する事にした。此の儘此処で突っ立っていても、現況は何ら変わらない。現状は自分おのれで変えていくものなのだ! と、後に俺が好きに為るバンドのヴォーカルも歌っている。

 決意した俺が把っ手に手を掛けた其の時、廊下の教室棟の方角から声がした。

「ウルフ~!!」

 一発で判る。俺をそう呼ぶのは、現時点で彼女しか居ない。実際に呼び掛けられたのは初めてだったが、何故か満更でも無い気分だった。寧ろ妙にしっくりくる感じに違和感を覚えた程だ。

「あぁ、梨乃さん」

 心細さを鼓舞こぶして蛮勇ばんゆうふるおうとしていた俺に取って、梨乃さんの降臨は正に天の加護であった。普段これっぽっちも信じていない、はだけた白い布をまとう中年男性に感謝しつつ、ほっとした声を上げた俺だったが、危ない危ない、真の敵は眼の前の彼女の方なのだった。其れを思い出した時、教室から急いで駆けて来たらしく、軽く息切れていた梨乃さんは俺の前で肩幅に広げた膝に両手を突き、前かがみに為って呼吸を整えていた。そして勢い良く上体を起こすと、

「来て呉れたのは感謝するわ。ま、アンタには其れ以外の選択肢は無かったんだけどね」

 と意地悪く言った。

「……あのっ」

 俺が意気込んで昨夜の懊悩おうのうの原因に就いて迫ろうとすると、梨乃さんは自分の顔を俺に目掛けてぐっと近付けてきた。異常接近した梨乃さんの顔面に面喰らった俺は全身のサーボモータに急制動を命じ、危うく正面衝突の大惨事を避けた。……まぁ、ぶつかったらぶつかったで異性との触れ合いに為るな……と云うきょうざつ的発想が一切無かったか、と問われると、俺は舌を噛み千切るより他無くなるのだが。

「な、何ですか……」

 思い切り背をらせる俺に、梨乃さんは

「込み入った話は後で。室内なかで、落ち着いてからね。アンタの考えてる事位分かるんだから」

 と忠告し、先陣切って入室していった。俺はぜんとし乍らも数秒後、サーボモータに再び電圧を掛け、梨乃さんの後を付いて行く動作を取った。

 此の時俺は、少し離れた距離で顛末てんまつを目撃していた2年の女子生徒が「緊急事態だ……」と呟いて小走りに去って行った事に気付けなかった。


 室内は通常教室と同程度の広さで、部屋の中央には長机を組み合わせて正方形状に配置した大きな平面空間フィールドが拡がっている。其の長机の塊を囲む様に数脚のパイプ椅子が配置されており、他には扉付きのスチールラックと、一般教室に在る極普通の机と椅子のセットが幾つか在るだけだ。

「どーもー!!」

 戸を開けた瞬間に快活な挨拶を飛ばした梨乃さんに反応したのは、長机の一辺に座る女子生徒だけだった。

「五輪さん、こんにちは。其の子は?」

 椅子に腰を落ち着かせた儘、女子生徒は訊いた。口振りと雰囲気から察するに、彼女は梨乃さんより上、詰まり3年生であると思われた。

「良くぞ訊いて呉れました! ほらぁ、宮殿部長も鹿十シカト決め込んでないで何か反応しなよっ。部にとって間違い無く10⁶%メガパー朗報なんだから!」

 キューデンブチョー、梨乃さんはそう言った。部長刑事や富豪刑事の親戚の様なモンか? そう呼ばれた男子生徒は頑として向けていた背中をじり回し、漸く此方に顔を向けた。

「何度言ったら分かるんだ?! 僕はキュー殿デンチョーじゃなく宮殿みやどのまさるだ! 確かに、此のtRPG部の部長ではあるが!」

 一見聡明そうな、眼鏡を掛けた男子生徒は口角泡を飛ばす勢いで訂正の弁をたけった。梨乃さんはそんな宮殿部部長の様子を見て、「バッチリ! 100点満点の自己紹介!」と嬉しそうにしている。確かに、何処か説明臭い台詞セリフではあったが……。

「で、隣の彼は誰だ? 部に取っての朗報とは……?」

 宮殿部部長は首を傾げた。……駄目だ、ゴテゴテしてる。やっぱり以降、宮殿部長と表記しよう。断っておきますけど、宮殿部長コレは呼び捨てを意味してる訳じゃ無くて、キューデンブチョーを表してますからね、部長。

「宮殿部長、耳穿ぽじってぎゅう徹底洗浄して有毛細胞ビンッビンにさせて良ぉぉく聞きなさい! 此奴コイツは我等がtRPG部の新入部員、柿手得附ことウルフ君です!!」

「否、梨乃さん、オレの名前とウルフが逆じゃないすか? 普通」

 ドン!! と某海洋冒険漫画みたいな効果音が付きそうな威勢の良い紹介を受けた俺は、ぼくに突っ込みを入れた。すると何故か宮殿部長と女子生徒は眼を丸くした。何が可笑おかしいのだろうか?

「気にしない気にしない! っちゃいわねぇ、オトコにまめったさ・・・・・は要らないのよ?!」

 梨乃さんは俺の突っ込みをこれっぽっちも物ともせず、逆に俺が小言を言われる展開と為った。因みに「まめったさ」と云うのは此の辺りの方言で「(精神的に)細かい」「さいな事迄気を配る、良く動いて働く」と云う様な意味合いを持つ形容詞の名詞形だ。要は「細けぇ事ぁ良いんだよ!」と云う事なのだろう。そんな分析(と呼べる程のものでもないが)をしていた俺に、心底驚嘆した様子で宮殿部長が話し掛けてきた。

「……凄いな、君は。此の・・五輪君に突っ込みを入れられるのか」

「へ? ……否、唯突っ込んだだけなんで、其れが凄い事かは判んないですけど」

「凄い事よ。彼女、普段は誰の声にも耳を貸さないんだから。そんな彼女に指摘を入れる上に、彼女が其れに返答するなんて事した人が、いまかつて居たのかしら? 然も貴方、新入生でしょう?」

「え、えぇ……」

「だったら猶更よ。貴方は五輪さんの眼鏡めがねかなった逸材、と云う訳ね」

「はぁ……。所でその、貴女は?」

「あぁ、未だ自己紹介を済ませていなかったわね。私は三年普通科二組の苑言そのことよ。いっその事、言海って呼んで呉れて構わないわ」

 そう言って女子生徒、もとい言海先輩は上品な微笑を浮かべた。

「えー、酷い言われよう。何か其れって、普段あたしがちゃちゃ取っ付きにくい変人みたいじゃないです?」

 梨乃さんはぶうたれた。言海先輩は慌てて、

「否、そう云う意味ではないのよ? いっその事、ああ云う表現をしただけでね……」

 と弁明した。取りつくろってる感満載フルロードではあるが。

「否、君はまごう事無く超が付く程の変人だね。鉄砲玉の如く突き進む、直情径行唯我独尊を地で行く人だ。良くも悪くも、ね」

 宮殿部長は言海先輩の必死の繕いフォローを無に帰した。言海先輩は

「長君、余計な事言わないの!」

 と小声でたしなめたが、誠に残念乍ら、其れもささや女将おかみの如く筒抜けだった。然し梨乃さんは意に介さぬ素振りで続ける。

「いいえ、お構い無く。宮殿部長、其れは褒め言葉として受け取っとくわ。で? ウルフは入部確定なんだけど、其れに就いては?」

「あ、あぁ、そうだな! 歓迎する! とても有り難いよ! 有り難いが、然し……」

 宮殿部長は米国制作アメリカン家庭ホーム喜劇コメディに有りがちな、大袈裟オーヴァーな手振りをし乍ら俺に近付き、声量ヴォリュームを絞って耳打ちした。

「何故tRPG部ウチなんだ? 他の部も盛んに勧誘しやっている中で。何か彼女に弱みでも握られたのか?」

 宮殿部長このヒト、中々鋭いな。僭越せんえつ乍ら俺は見直した。が、程無く一つの可能性に思い当たった。

 よもや彼は、全てを知っているのではなかろうか? 其の上で一芝居打っているのでは? 梨乃さんと宮殿部長が通じていれば、梨乃さんが俺(と佐峰先生)の秘密を把持はじしている事を彼が認知していても何ら不思議は無い。と云うか、梨乃さんと宮殿部長の人間関係は計り知れないが、仮にも部員と部長の関係性なのだ、通じていない筈は無い。俺の顔色は疾風しっぷうとうの勢いで寒色に変化していき、さながらスバル・インプレッサWRX STIがまとうWRブルーマイカの如き色に為っている事だろう。

「……どうした? まさか、図星か?」

 宮殿部長は真っ青な俺の顔を覗き込む様にして、訊いてきた。俺は梨乃さんの手前、素直に肯定する事も出来ず、あーだの、うーだのうめきつつ、梨乃さんの反応をうかがった。言海先輩と会話していた梨乃さんは、何時の間にか此方の話に聞き耳を立てていた様で、

「はいはい、もう良いでしょ! あたしはノルマ達成したからね! もう何の指図も受けないんだから!」

 力強く宣言すると、俺の背中を両のてのひらで押してずいずいと進ませた。

「ちょっ、待て! 彼は其方そっち側なのか?」

「当然でしょ? あたしの漁獲高プレイなんだから!」

 俺を盾にしてずんずんとばく進する梨乃さん、そして宮殿部長の会話内容に少なからぬ疑問を感じつつも、動く肉壁と為った俺は部屋の右隅に在る扉の中へ為すすべ無く吸い込まれていった。

 物理室や化学室のぐ横に付随している準備室と云う名の部屋が大抵何処の学校にも在ると思うが、正しく今入室した小部屋はそんな感じで、隣の教室より3分の1程度狭い。建造当初からの備え付けであると思われる、壁の片面に走る真っ白な棚が閉塞感を増す一番の戦犯だ。何処から拾って来たのか、古びた1人掛けのソファが2脚、無造作に配置され、奥には同じ色の3人掛けのものが置かれている。

 其れ等以上に、ともすれば索漠さくばくと表現し得る程にのほほんとした、田舎(と云っても此の街より数段劣るだけで、充分に地方都市ではあるが)で凡庸ぼんような学校生活を送ってきた俺を軽く驚愕させたのは、小部屋の奥、窓際に安置された背の低い木製本棚の上に鎮座する古いブラウン管テレビだった。勿論もちろん、此れと云った産業の無いさびれた地方都市たる我が地元の母校にも、各教室に1台はテレビが備え付けられていた。小学校の教室の片隅に足踏みリードオルガンが在る様に。だが其の電視台は黒いAVラックに落下防止のベルトでがんがらめにされた、公共放送の教育チャンネルを映すだけの人畜無害な黒い箱だった。

 然し俺の前にしますのは、ベージュゴールドの外板パネルおごられた14インチ程度の三洋電機製の旧式ブラウン管テレビで、きょうたいの上に据え置かれた朝日電器エルパ製のアナログアンテナとあいって、内密に持ち込まれたイリーガル感満載の代物だ。要するに教育を主としない、娯楽目的のテレビが学校舎内まなびやに存在すると云う事に、俺は背徳的なたかぶりをほのかに覚えたのだった。VHFとUHFのアナログ放送波を拾う其のアンテナは、自分の能力を誇示する様に長く細い両腕を斜め上方に目一杯拡げていて、壁に埋め込まれたアンテナ線に繋げられていない、非公式に使用している感がより増幅されて感じられた。

「まぁ、話すとややこしいんだけど、あたし達の活動場所は基本的に此方こっちの部屋だから。ほら、tRPG部ウチみたいな文化部系は幽霊部員ユーレイ希望者アプリカンツの隠れみのに為ってるって話、したでしょ? ウチにも当然、tRPGが遣りたくて入ってくる奴と、そうじゃなくて何処でも良いから取り敢えず所属しました、って集団グループに分かれてんのよ。まぁ此れは大概のユーレイ受け入れ系文化部に云える事だけどね。で、tRPGを遣りたい連中は、勿論其れが此の部の本筋だから、さっき居た正部室で活動するのよ。一方、あたし達は云うなればそうろう、間借りしてる身だから、此方の副部室を根城トーチカとしてんの。んで、アンタはあたし達側だから、明日からは正部室となりのへやをぶっ千切ちぎって此方に来なさいよ?」

 梨乃さんは俺を部屋の中に押し込むと、其の儘両手を俺の肩に置いて背後から話した。内心、異性の手が身体に触れている、と云う淡い興奮が俺の交感神経系と副交感神経系を一遍いっぺんくすぐって、正直話半分気もそぞろだったが、其れでも幾つか引っ掛かる箇所が有った。其れ等に就いて俺が声を上げようとした瞬間、先に誰かの声が上がった。

「其れは聞き捨てならないなぁ!」

 斜め後ろから耳に入った声の主は、宮殿部長のものだった。

「……宮殿部長、盗み聞きは褒められたモンじゃないよ?」

 うざったそうな表情を微塵も隠さずに宮殿部長に言葉を返す梨乃さんは、

「新入部員には、先ずは本流であるtRPGに就いてきっちり紹介すべきなんじゃないか?」

 と云う宮殿部長を追い出し、

「扉が開いてたからいけなかったんだよね」

 と呟くと正部室と連結する、此の部屋に唯一存在する扉をバタンと締めた。俺はそんな梨乃さんに躊躇ためらいつつ訊いた。

「あの……さっきから、てか昨日から気に為ってたんですけど、tRPGって何ですか?」

 えぇー、と云った感じで、梨乃さんが面倒そうな顔をするのと、宮殿部長が嬉々とした表情で扉を全開にして乱入して来るのはほぼ同時だった。

「其れなら是非此の宮殿部に」

「はいはい! あたしが遣っとくから説明それは! 出てけ!!」

 宮殿部長の揚々ようようたる発言を遮断インターセプトして、無理矢理追い払った梨乃さんはサムターンを回し、扉の鍵を掛けた。ガチャッ、と云う秘めやかな音は、俺と梨乃さんが密室に2人きりに為ったのだ、と云う事実を浮き彫りにして俺に突き付けた。……何か、さっきから俺、異常に過敏だな……。然し其れは偽らざる事実なのだからどうしようもない。一方の梨乃さんはそんな些事さじは全く気にしていない様子で、

「全く……。彼奴何とか為んないのかしら」

 と鼻息荒く悪態を吐いていた。

「tRPGってのはねぇ、テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲームの略で……」

 俺は始まろうとしている梨乃さんの講釈に身構えた。

「……えーっとねぇ……」

 ……ん? 雲行きが怪しいな。

「何と云うか……」

 梨乃さんはあからさまに眼を泳がせている。さては此の人、分かってないな?

 次の瞬間、梨乃さんは打って変わって言い放った。

「……Wikipediaウィキペディアってるから、読んどきなさい! 『tRPGこもじティーのアールピージー』で検索! 其れで概要は解るわ!」

 俺は危うく、ギャグ漫画宜しくズッコケかけた。万が一俺がXYツーディーの世界に居たならば、靴の路面把握グリップ力は途端に失われ、派手に転倒している事だろう。すんでの所でそう為らなかったのは、俺がひとえに3次元の世界に生を受けていたからに他ならない。

「おい待て!! 何の説明にも為ってないぞ!」

 宮殿部長が鍵の掛かった扉越しに糾弾の声を上げている。其の拳は塗装済みの化粧板ボードが張られた合板を連打しており、狭く密閉された空間である準備室内には矢鱈と打撃音が響いていた。

「……もぉ~、うっさいなぁ……」

 梨乃さんは心底不機嫌な声で呟いた。数秒間黙った儘、右足で苛立ちの拍子ビートを刻むと、唐突に俺の手首を掴み、ずんずんと進み出した。

「あ、あの、梨乃さん……?」

 俺は再び予測不能の強制連行を喰らう事と為った。梨乃さんはれつつも内鍵を開錠し、右手で俺の左手首を把持した儘勢い良く扉を開け放った。扉の向こう側で抗議プロテスト活動デモを張っていた宮殿部長はあわれ、襲い掛かった化粧板に弾き飛ばされてリノリウム張りの床に転げ伸びた。梨乃さんは地べたにつくばう宮殿部長には清々しい程に眼を呉れず、数分前入室した正部室の引き戸に進み、

「ちょっ……五輪さん?! ウルフ君!? 何処行くの?!」

 と云う言海先輩の声に耳も貸さず、最上級生2人をぶっ千切って廊下へと突き進んでいく。

 ……一つ判明したのは、俺の部内での呼称は「ウルフ」で確定ファイナルアンサーの様だ、と云う事だ。過ぎ去り行く部室の方から何か宮殿部長の呻きが聞こえた様な気がしたが、気にしない事にしよう。と云うか、此の時の俺に、そう云った周囲の環境に迄気を回す程の余裕は残ってはおらず、

「ど……何処向かってるんすか?!」

 秒速2mと云う、歩いてるんだか走ってるんだか判別出来ない程度レヴェルの速度で俺を牽引レッカーするあらヒト型ヒューマノイド起重機付き自動車ブレイクダウン・ローリーに質問を投じるのが精一杯だった。腕と云う名の巻揚げ機ウィンチが俺の全身を引っ張り、手指の形をしたフックが俺の手首を離さない。正しく牽引連行ドナ・ドナと云う言葉がしっくりくる状況下に、俺は居た。

「良いから!」

 梨乃さんは俺の発言をさも愚問であると唾棄だきする勢いで、はん寂静じゃくじょうの内に遮断シャットした。どうやら俺には、自らのく先を知る権利すら存在しないらしい。

 高速で過ぎ去る景色は俺の脳に、俺達が別棟から教室棟に突入した事を伝送してきた。其の儘の勢力ペース保持キープして一段飛ばしで教室棟東階段をワンフロア分下りると、梨乃さんはキュッ、と茶色い通学用靴モカシンの底を鳴らし右折した。当然俺の身体も振り回されつつ右方へ向かう。宛ら牽引車トラクター被牽引車トレーラーの関係性だ。ジャックナイフ現象に陥りそうに為る程、俺の身体は慣性にじゅうりんされ、危うく被服実習室の壁面に側突する所だった。ナイキに権利ライセンスフィーを支払って製造したのであろう安物の黒い運動靴スニーカー(と云いつつも、此の靴で全力疾走する事は難しい。人工皮革製の紐靴は伸縮性に劣り、更に通気性も皆無だ)の大して意味の無いパターンられた護謨ゴム底が良質なファイン仕事プレイをしたお蔭で何とか回避出来たが。

 そして行き成り梨乃さんは足を止め、右向け右をした。当然俺は梨乃さんの右手首と云う連結器を軸として今度こそジャックナイフを起こし、身体を大きく旋回させ乍ら、廊下のコンクリート打ちっ放しの壁に激突した。其の際、梨乃さんの右腕を捻じる形に為ったらしく、

「痛っ?! なに遊んでんの! しっかりしなさいよ!」

 と喝を喰らう事と為った。……どう考えても俺に非が有るとは思えないのだが。

 俺が過大な慣性モーメントイナーシャに因る被害を受けた左腕をさすりつつしょうしょう梨乃さんのお叱りを甘受かんじゅしていると、

「着いたわよ」

 と梨乃さんは慳貪けんどんに告げた。俺は教室名の書かれた表札を見る。

「作法室……」

 何気無く呟いた俺は数瞬の後、文字通り血の気が引いていくのを体感した。

 そう、此処は俺が佐峰先生と一瞬の過ちを犯してしまった場所、そして隣の、何故か未だに連結装置を俺の手首から離して呉れない女子型レッカー車に其の瞬間を録られてしまった場所である。

「な……何で、此処に……?」

 恐る恐る俺は訊いた。所が、梨乃さんはシャンプーのTVテレビCFコマーシャルフィルムで頭を左右に振る女性の、緑の黒髪の如くさらりと、

「此処ね、さっきの副部室と同じ位の頻度で使ってる部屋なのよ。だから此の前もふらっと来てみた・・・・・・・・・・・・んだけど」

「いや、ちょっ……!!」

 恐るべきよどみなさで危険な発言を始めたので俺は面喰らい、全力で制止に掛かった。辺りを眼だけで見回す。

「あの……一応他人ヒトも居るんで、止めて下さいよ」

 放課後の校舎内、と云う事で大した人数が居る訳では無いが、数人の人影が眼に入る程度ではある。まさか聞き耳を立てる様な悪趣味なヤカラが居るとは思えないが、用心に越した事は無い。完全に密閉された2人きりの空間でなければ、話を切り出して貰いたくなかった。

 梨乃さんはキョトンとした後、にやぁ、と嫌らしい笑みを浮かべ、

「そうだねぇ~……こっち関連の話は、他に誰も居ない場所でした方が良いよねぇ~?」

 覗き込む様に俺の顔を見てくる。……あぁ、何だろうな、どうも、此の人と居ると、何か……駄目だな。

 俺が対処に困っていると、男子生徒2人組が通り掛かった。

「あれ、2年の五輪じゃん。一緒に居んの誰だ? まぁ俺はあんな奴と人付き合いは出来ねぇなぁ」

「俺もだ。彼奴だけは勘弁だな……」

 彼等は声量を絞り、ひそひそと話した心算つもりだった様だが、生憎あいにく全て此方に届いていた。先程、言海先輩が梨乃さんの事を「誰の言う事も聞かず、指摘される事も其れに返す事も無い」と言い、宮殿部長もきっぱりと「変人」と評していたが、矢張り其れは本当の様だ。少なくとも、周囲の評判はすこぶる悪いらしい。

 然し、幾ら何でも其れは一寸酷過ぎやしないか。俺が取って付けた様な、云わば偽善的な義憤に駆られていると、梨乃さんは俺から顔を逸らし、うつむき加減に為った。俺の眼は、其の瞬間の表情を見逃さなかった。

 梨乃さんの顔から、勝ち気で強気な、独特の輝きが、消え失せた。

 其れ以降の表情を窺い知る事は、今の俺の目線の高さからは不可能だが、其れはして知るべし、と云うものであろう。

 俺の心中に、おきくすぶり出した。火種は、言わずもがなだろう。何処と無くしおらしく為った梨乃さんを見たら、どんな男性ヤローでもこんな気持ちを抱く筈だ。然し、其の火を燃え上がらせ、感情をたぎらせて彼等の胸座むなぐら鷲掴わしづかみに行く程の蛮勇と気質を俺は持ち合わせていなかった。そんな荒ぶれない性質たちが良いのか悪いのかは、判らないが。

 俺が複雑な思いで突っ立っていると、不意に梨乃さんは顔を上げた。俺は幾らかの恐い物見たさを含有しつつ、其の表情を窺った。

「ま、其の件は後にしましょ。早速挨拶しなきゃ」

 梨乃さんの顔面には今迄の、何かがみなぎる表情が戻っている。俺はりゅういんを下げつつも、其の発言に違和感を覚えた。

「あの、挨拶って……誰にですか?」

 作法室は、確か茶華道部の部室だった筈だ。当然、室内には茶華道部員しか居ないだろう。其の方達に挨拶をする義理が有るのか? 至極真っ当な疑問だと思う。

作法室ココを部室にしてる茶華道部の衆によ。言ったじゃない、此処も良く使ってるって。だから茶華道部の達も顔見知りなのよ。或る意味、第二のtRPG部幽霊派の一員メンバーと云っても過言じゃないわ!」

 成る程。然し梨乃さんこのヒトの事だ、恐らく活動中の茶華道部員の中にちんにゅうして無理矢理入植したのだろう。茶華道部員達の中には、快くない者も少なからず居る筈だ。果たして梨乃さんは、そんな気不味い環境下を居場所として過ごし続けてきたのだろうか? 俺の脳裏に、先程の輝きを失った梨乃さんの顔が去来フラッシュバックした。

 俺が考えていると、梨乃さんは先陣切って木製の引き戸を開け、せっせと通学靴ローファーを脱ぎ、

「たのもーー!!」

 と威勢良く声を上げ乍ら襖を開け、室内にらんにゅうしていく。俺は慌てて後を追う。

 室内には数名の女子生徒が居り、入部希望者を交えた通常活動が絶賛進行中だった。まぁ端的に言えば、矢張り誰がどう見ても闖入者である梨乃さん(と俺)は邪魔者ディスターバー以外の何者でも無く、茶華道部員と思われる数名の女子生徒はあからさまな嫌悪の色を、数名は諦念を交えた色を眼に浮かべている。残りの数名は呆気に取られた様な、キョトンとした表情だ。恐らく彼女等が俺と同じ新入生で、入部希望者達なのだろう。そしてそんなキョトンガールズの中に、俺は見知った顔を見出した。

「陽香……そっか、お前、茶華道部ここに入るのか」

「得附?! ……と、昨日の……」

 俺と陽香は略同時に声を上げていた。陽香の言葉が詰まったのは、梨乃さんの姓名を認知していなかったからだろう。梨乃さんはそんな俺達を意に介さない様子で、舐め回す様に室内を見渡し、

「おぉー、居るわねぇー!! 新入部員あたらしいこ沢山いっぱい! 羨ましい限りだわ、あたし達は地道に道く1年坊を狙撃スナイプして陥落ゲットしてかなきゃ人が集まんないのに、茶華道この部は唯作法室ここに在るだけでこんなにうら若き可憐な1年女子達フレッシャーズこぞまくるなんて!」

 俺は思わず、元気良く言い放った梨乃さんの顔を二度見した。字面だけ追うと余りにも皮肉めいた発言だが、実際の梨乃さんには茶華道部を糾弾する意図は一切感じられず清々しい程で、一種の清廉ささえ見受けられた。俺は何と無く、梨乃さんを一段階深く理解出来た気がした。

 彼女の言動のみを追う人間は、恐らく彼女を嫌うだろう。然し、彼女の近辺に属し、彼女の発言の真意を汲み取る事の出来た者は彼女に好感を抱く筈だ。要するに、梨乃さんは好き嫌いがはっきりきっぱり分断する、切れ刃ナイフエッジの様な存在なのだ。手慣れていて危険性を理解している者には、単なるひんやりとした金属片でしかない。然し、そう云った事象を何ら認識しない人々に取っては、梨乃さんはそっと触れただけで肌をぎ肉を斬られる、超々危険なヒト型の刀剣なのだ。

「な! また行き成り現れたと思ったら何て事言うの?! 邪魔しないでよ!!」

 亢進的ヒステリックな声を上げたのは、2年生のらい奈子なこ先輩だ。此の時の俺は当然、其の名前を知る由は無いが、まぁその……進行上の都合だ。

「まぁまぁ、そう熱く為らないでよナコっちぃ。挨拶に来ただけだから」

 此の部屋の中で最も強く反発した奈子先輩を籠絡ろうらくする様に、瞬歩で近付いた梨乃さんは軟体動物の様に奈子先輩に絡み付いた。

「ちょっ……止めてよっ! なっ……」

「ねぇ~ぇ、tRPG部幽霊連中あたし茶華道部員達ナコっちの仲じゃぁん。折角此れからも末永ぁく交流おつきあいしていこうと思って寄ったのにぃ、其処迄邪険にする事無いんじゃなぁい?」

「あっ……そっ其れっ……はっ、ごっ……語弊、がぁっ……」

 四肢をアメーバの如くうねらせて奈子先輩を攻略していく梨乃さんと、からめ捕られてちかけている奈子先輩のきょうたいを、俺は直視出来なかった。少し前に気付いたのだが、此の部屋には俺しか男が居ない。其れだけでも異性慣れしていない俺には赤面モノなのだが、其の環境下で高度なハイ手技テクニックふるわせて搦め捕る梨乃さんと、最早たいと呼べる程の姿と為った奈子先輩を見ていられる程、俺は恥知らずな助平スケベでは無かった。

 男なら誰しも助平ではあるが、自制の無い助平には為りたくないものである。

tRPG部あたしも苦労して新入部員を確保ゲットしたからぁ、御披露目おひろめしようと思って来たのにさぁーあ?」

「らっ……めぇ……やらよぉ……っ」

 紅潮、と云う言葉のはんちゅうを優に超越する程、林檎スティッカーかん者の如く顔面全体をあかく染め上げた奈子先輩は、目尻から涙を流しつつもなお抵抗レジスタンスの素振りを崩さない。然し其の力は、か細い腕を動かす程の強さは無く、辛うじてパタパタと肘から先を上下させるだけに留まった。指先は救助を求める様に、か弱く戦慄わなないている。

「おーおー、此の期に及んで未だ抗うかね? さっさとあたしに屈服なさい!!」

 あの、梨乃さん、目的見失ってません? そくながついでに言うと、梨乃さんは苦労して俺を入部させた訳じゃ無いでしょ?

 俺がそう突っ込もうとした瞬間、廊下の方から猛烈な足音が響いてきて、直後バアァン! と派手に襖が開け放たれた。

「お前だな!?!」

 俺が聞き取れたのは此処迄だ。早口で標的ターゲットを特定した其れ・・は、靴も脱がずに和室に上がると、驚いて振り向きかけた俺の学ランの第一釦辺りをむんずと掴み、持ち上げ、


 綺麗な背負い投げを俺に喰らわせた。


 ……今考えても、宙を舞い畳に墜落した俺が完璧な受け身を取れたのは奇跡としか云い様が無い。此れ迄の俺の人生の中での柔道経験と云えば、中学の時、合計10時間程度受けた保健体育の授業での体験しかないのだ。にも拘らず、突然投げられて(抑も其れが可笑しいのだが)、とっに受け身が成功したのは、矢張り神の御加護、奇跡としか表し様が無い。さもなくば此の時、俺は病院送りだっただろう。其れ位、強烈な一撃必殺技だった。

 視界がはげしくブレた。おう感がり上がる。背中から胸に抜けていく、鮮やかで鈍い痛み。

 声に為らない声を上げ、俺は犯人の正体を見上げた。見慣れない、女子生徒だった。

「……もり!?!」

 口にしたのは梨乃さんだった。梨乃さんは全動作を停止させ、唐突に自由を喰らった奈子先輩は畳にふにゃりとくずおれた。

「部長!?」

「大丈夫ですか?!」

「確りして下さい!!」

 と、駆け寄った女子部員達が奈子先輩を気遣っている。あぁ、奈子先輩このヒト、茶華道部の部長だったんだ……。俺が途切れ途切れの意識の中で案外冷静に思っていると、

「得附!? 大丈夫?!」

 と陽香が俺の身体を揺さぶった。……あの、心配して呉れるのは嬉しいんだが、今俺の身体を揺動するのは差しひかえて呉れないか……?

「あちゃー、遣っちまったみたいだねぇ~。一歩遅かったかぁー」

 新たな声が俺の耳に届いた。廊下から室内を窺い、典型的ステレオタイプに後頭部を掻いている、此れまた女子生徒だ。其の背後に偶々通り掛かったのだろうか、佐峰先生が現れ、

「何此の惨状カオス……」

 と呟いた。そりゃそうだろう。作法室内には、部屋の中央付近に大の字でぶっ倒れている男子生徒オレと、憤慨した様子で仁王立ちする土足の短髪ショートカットの女子生徒、其の女子生徒を驚愕の眼で見上げている梨乃さんに、俺を心配し俺の胴体を揺する陽香、反対側の方では奈子先輩が赤面の上、全身を痙攣けいれんさせ乍ら半失神状態で転がっており、周囲を茶華道部員達が不安げに取り囲み、部屋の隅ではキョトンガールズ達が唖然呆然と硬直し、部屋の前には半笑いで頭を掻く女子生徒が立っている。俺でも顔を引き攣らせ、同じ台詞を吐いているだろう。……というか佐峰先生、再会がこんな形で済みません……。

 強い因縁の有る佐峰先生の出現が決定打ダメおしと為って、どうやら俺の心身は許容範囲を超越してしまったらしい。此処で俺の記憶は途絶えた――。



 目覚めると、其処は白い空間だった。自分が保健室の寝台ベッドの上に横たわっているのだ、と云う現状を把握するのに数秒掛かった。

「得附?!」

 真っ先に飛び込んで来た声は、耳慣れた陽香のものだった。次いで、

「ウルフ……!」

 此の声も、俺の中に早くも馴染み始めている。言わずもがな、梨乃さんの声だ。俺が首を左方向にかしげると、2人の姿が視認出来た。

「得附、大丈夫?! 何処か違和感無い?!」

 陽香は、あんねん撹拌かくはんされ、混淆こんこうされた紛然ふんぜんたるおもちで問うた。俺は其の言葉を受け数秒、無言で全身を点検チェックした。自己診断機能ダイアグノーシスは、不具合箇所無しフォールトレスと云う結果リザルトを弾き出した。

「ぁあ……、大丈夫、多分」

 暫く喋っていなかったからか、喋り出しがかすれた。すると、梨乃さんが唐突に起立し、

「ウルフ……御免なさいっ!!」

 と大声で謝罪した。俺は上体を起こし、梨乃さんの旋毛つむじを眺めつつ、何故彼女が謝るのだろう? と疑問を抱いた。と同時に、梨乃さんこのヒトが謝罪するなんて事が有り得るのか、とほんの若干の驚愕錯愕アストニッシュメントが脳裡を掠めた。

「否……、貴方が謝る事無いんじゃないですか?」

 陽香が言葉の含有する意味とは裏腹に、噛み付く様に言う。お前、其の人に其の言葉遣いは、危険だぞ……?

「……一寸、自分語りに為っちゃうけど、付き合って呉れる?」

 反して梨乃さんは目くじらを立てる事も無く、かと云って其のかどを弱める事も無く、斜め下を見詰めつつ、話し出した。俺がもし、其の部位の床材ならば、俺は瞬殺で射貫いぬかれていただろう。其の視線に、複数の意味で。梨乃さんの得も云われぬ、迫力と表現すべきたたずまいに、陽香も押し黙って頷いた。

「あたしとあのは、同義なの。一体なの。……真杜って云うんだけど、あたしは真杜で、真杜はあたしなの。だから、謝る。真杜が遣った事は、あたしが遣った事でもある……そう言って差し支えないから」

「一心同体、って事ですね」

 陽香があいの手を入れる。梨乃さんは首を捻り、

「んー……って云うより、異体同心の方が近いのかな?」

 陽香は異体同心を知らなかった様で、曖昧な返事をした。斯く云う俺も推測以外の何物でも無かったのだが。と云うか梨乃さん、一つ突っ込ませて頂くと、さっき自分で「一体」って言ってますよ……。まぁそんな無粋な事は口に出さないけど。

 機嫌を損ねられても面倒だし。

「あたしと真杜は、昔から一緒に暮らしてるの。別に血の繋がりなんか無いんだけど、事情が有って、一つ屋根の下でね。だから必然、あたしと真杜は四六時中一緒な訳でさ。同学年タメだし、姉妹キョーダイ……否、二卵性双生児みたいな? そんな関係なの。で、真杜は何かとあたしを守ろうとして呉れるのよ。まぁ、小学生時分ならまだしも、未だにね。……何て云うんだろうなぁ、過保護って云うか。まぁ確かに、助けて貰ってる事も沢山有るんだけどね?」

「……あの、其れと今回の件にどう云った関係が有るんですか?」

 陽香は再び鋭く切り込む。……頼む陽香、止めて呉れ。至近距離で見守る俺の精神が持たん。

「え、そ……其れは」

「私の言い方がまずかったのかなぁ~?」

 ザッと保健室の扉が開き、一人、登場人物が追加される。先程、俺の意識が途切れる寸前に、廊下から作法室内を覗き込み、THPRてへぺろしていたあの・・女子生徒だ。

「私がさ、tRPG部の部室前で梨乃と其の子がキスしてるの見たから、緊急事態だ、って真杜に言いに行ったのよ。そしたら真杜、血相変えて『何処の下衆ゲスだ?!』って走り出して……。tRPG部の部室には宮殿キューデンさんが転がってるだけだし、じゃあ作法室だ、って。私が着いた時にはもう、ね。でもさ、幾ら何でも梨乃、あんな公衆の場所トコでキスなんて」

「「してないっ!!!」」

 喰い気味に、梨乃さんと俺の声が重なハモった。確かに、先程寸前の事態ニアミスには陥った。然し、断じて無い・・。其れは、「煙草タバコは人体に悪影響を及ぼす」と云うのと同じ位の事実で、「人類が存続する以上いさかいは無くならない」と云うのと同程度の真実だ。離れた位置から、角度に因っては誤解される事も有り得たかも知れないが。

 兎に角、さっきから陽香がぶっ刺してくる視線が痛くて仕方無いのだ。

「してないから、その……き、キスとか……。た、立ち位置の関係じゃないの? ほら、角度が良くなければそう見える事も有ったかも……」

 梨乃さんが俺の思っていた事をほぼ其のままの形で代弁して呉れた。然し、梨乃さんが此れ程しどろもどろに為るとは、一寸意外だった。

「へぇ~、本当ホントに? キミぃ、真実マジバナ聞かせてよ?」

 彼女が俺の顔をまじまじと見詰めつつ、言った。俺は頬に朱が差していくのを自覚しつつ、即答した。

「ほ、本当です。間違い無くしてません。八百万やおよろずの神に誓います。……ところで、お名前は?」

「あー、私? あい田依琉だいる、2年普通科4組ね。今後ともどーぞ宜しく!」

 終始明るく自己紹介した依琉さんは、ロングヘアをさらりと躍らせる様な軽い辞儀をすると、満面の笑みを浮かべた。さっぱりした印象の天真爛漫な美少女と云った所だろうか。正直、梨乃さんに負けず劣らず魅力的な容姿だ。

 ……陽香の双眸そうぼうから放射される不可視光線が俺の身体を打ち抜きそうだ。俺は依琉さんから視線を外し、陽香と云う名の付いたレーザー加工機の様子を窺った。声を当てるなら「むぅぅ~っ」と云った台詞がしっくり来る感じだ。

「……結局、悪いのは依琉じゃない。ちゃんと謝りなさいよ、ウルフに!」

 梨乃さんが発言した事で、俺は身体をえぐられる様なにらみから解放された。俺への恨めしい様な視線は一応の終息を見る事と為り、陰で一息吐いていると、

「『ウルフ』って? 此のの名前なの?」

 依琉さんが疑問を口にした。現時点では俺と名付け親の梨乃さんしか知り得ない渾名なので至極真っ当だ。

「わ……私も、気に為ってたんですけど、『ウルフ』って、得附の事なんですか?」

 前頭葉フロンタル・ローブに引っ掛かっていたモヤモヤを解消する好機チャンスと踏んだのか、陽香も積極的に喰い付いた。

「あのー、此奴コイツ斯う云う名前なのね」

 梨乃さんはポケットから携帯電話を取り出し、電話帳画面を展開させ、皆の衆に開陳した。白いDoCoMoドコモ端末の液晶画面は、俺の姓名フルネームを浮かび上がらせている。

「かきて……え……つき……? 変わった名前だねぇ」

「まぁ、私は知ってますけど」

 依琉さんと陽香が順に言った。……陽香コイツには一度、粛清が要るのかも知れない。

「んで、名前の漢字の読み方を変えると『ウルフ』に為る訳ね!」

 梨乃さんは得意満面に胸を張った。

「成る程ね。んじゃあ私も今から『ウルフ』って呼ぶよ。ウルフ君、宜しくどーぞ!」

 依琉さんは矢張り髪をシャランラさせて俺への挨拶をし直した。

「あ、はい……宜しくお願いします」

「所でさウルフ、此の娘は誰なの? 普通ただの茶華道部の入部希望の娘かと思ったらちゃっかり此処に居るし」

 梨乃さんが俺に尋ねた。どうやら俺が目覚める迄に其の話題には為らなかった様だ。

「あ、あぁ……陽香コイツは一緒の中学から来た幼馴染みなんですよ。オレ達、一寸遠くの地元から科技高ココ入学しはいったもんで、お互い環境がっこうに慣れる迄は一緒に居る事も多いと思うんですけど」

 陽香は俺の台詞に何処と無く、と云うかあからさまに不満げだったが、俺は敢えて気にしない。

「あ、そうなの。地元の友達って事ね。名前は?」

 梨乃さんはそう言って促した。あ、俺、陽香の姓名なまえを紹介し忘れてたな。今気付いた。

「堂季……陽香です。宜しく……」

 ふてぶてしい態度で陽香は言った。……お前、こんなキャラだっけ?

「ウルフ……さっきから一寸此の娘、素行が気に為るんだけど、斯う云う娘なの?」

 流石に梨乃さんも看過出来なかったらしく、眉間に縦皺を寄せ、若干短刀ドスの利いた声で俺に尋ねる。

「いやぁ……普段はこんなんじゃ無いんですけどねぇ……」

 不穏な空気を感じ、俺は何とか平和的な着地点を模索した。

「へーぇ、じゃあ態々わざわざ此のあたし・・・・・の前でこんな態度を取ってるって事ね……」

 自らを示す箇所を強調して梨乃さんは発音した。相当しゃくさわったらしい。

「そう云う生意気な仔猫キティちゃんには、しつけが必要よねぇ~」

 梨乃さんは両腕を構え、四本脚の丸椅子に座する陽香ににじり寄った。陽香の身体を、梨乃さんの影が覆ってゆく。陽香は猶も、叛骨はんこつ的な眼を見せている。おいおい、俺は別に女の抗争キャットファイトは見たくないぞ……。

てんちゅー!!!」

 唐突に叫んだ梨乃さんは、さっき奈子先輩に炸裂させた秘技を陽香に浴びせ掛けた。陽香の顔面から虚勢が消えるのには数秒と掛からなかった。そして嬌声が上がり出すのに、さして時間は必要としなかった。俺は見ていられなくなって、外方を向いた。

「てっきり私も、『付き合ってるんですぅ』とか言うのかと思ったのに」

 赤面した俺に、依琉さんが話し掛けてきた。

「否、そう云う関係モンじゃないんで」

「服従しなさーい!!」

「やっ……ひゃああああ……」

「へーえ、でもあの娘は何か腑に落ちてなそうだったけどねー」

「このメス猫がー!!」

「あっちょっ……だ、駄目……っ! あ」

「そうなんですか、ねぇ……?」

「間違い無いよ! だからあの娘は梨乃を敵だと見做みなしたんじゃないかな?!」

「どーぉ? 観念する?」

「へぁ……ひゃ……」

「うーん……。オレは分からないっすけど……」

「……未だもう一押しね」

「ぁふぁっ……ら、や……」

「あははっ! やー、モテる男は大変だって事だよ! 何かと思い悩みなさい! 青春青春だよっ、ウルフ君!!」

 依琉さんは立ち上がり、俺をびっと指差して邪気無き笑顔で言った。

「んじゃね~」

 依琉さんは俺を指差した儘、後退あとずさっていく。俺は何の気無しに訊いてみた。

「何処行くんですか?」

「うん、私も部活出ないとねぇ~。茶華道部で副部長遣ってるから、私。tRPG部に入るんだったらまた直ぐ会う事に為ると思うから!」

 じゃっ、と言ってめ殺しのり硝子が入った真っ白な引き戸を閉め、依琉さんは消え去った。成る程、梨乃さんの理解者らしきあの人が副部長ならば、茶華道部も梨乃さんに取って其れ程敵地アウェイではないのかも知れない。俺が納得して、ふと目を移すと、其処には制服の上着が脱げかけ、スカートが皺くちゃに為ってとろけきった陽香と、まるでバスローブを羽織って葉巻コイーバくゆらせん程に満足げな表情を浮かべる梨乃さんの姿が在った。どうやら陽香は梨乃さんに蹂躙され尽くしたらしい。俺はむずがゆい心情に、良く分からない溜め息を吐いた。

 其の時、引き戸が開き、俺をぶん投げたあの女子生徒が部屋に入ってきた。

「あ……真杜……」

 コイーバ・ロブストスの馥郁ふくいくたる香りを堪能していた梨乃さんは一転、一気に大人しく為った。真杜さんは室内を見渡すと、

「梨乃、一寸出て行って呉れないか? 此の男と、少し話が有る」

 緊張感の漂う声で告げた。俺の身体は、一瞬にしてこわった。何しろ、ついさっき俺は彼女に有無を云わさぬ芸術的な背負い投げを喰らっているのだ。反射的に俺の身体が身構えるのはきっと、自然の摂理と云うものだろう。

「あ……う、うん……」

 梨乃さんは宛らゲル状に為った陽香を肩で支えつつ、退室していった。俺は脳内の片隅で陽香を心配しつつ、本音は其れ所ではなかった。

 尋常ではない威圧感が俺を呑み込み、背筋に汗が一滴垂れていく感覚を自棄やけに鮮明に感じていた。俺の精神が感じている圧迫プレッシャーが其れを助長させている事は間違い無い。

 短髪の女子高生はベッドに胡坐あぐらく俺の眼の前迄近付くと、中腰に為り、俺と目線を合わせた。躊躇ためらいの無い、ちょくせつ眼力がんりきに耐えきれず、俺は眼を逸らした。

「眼を逸らすな」

 鋭く発せられた其の言葉に、俺は従うほか無かった。渋々、再び眼を合わせる。

 ……何秒経ったのだろうか? 女子生徒は俺を見透かす様な、徹頭徹てっとうてつ透徹とうてつした眼をつぶり、

「もう良い。分かった」

 と言った。……彼女は、霊能者か何かなのだろうか?

「お前、何て云うんだ?」

「え?」

「名前だ。名告れ」

「あの……柿手……得附って云います……」

 俺はW47Tを開き、自局表示プロフィール画面を見せつつ、言った。

「柿手、か……」

 彼女はそう呟いたきり、黙り込んだ。俺は耐え兼ねて、

貴女あなたは……お名前は?」

 と訊いた。

「あぁ、済まない。相手に名告らせておいて自分が名告らないのは無礼だな。私はとも真杜と云う」

 ぺこ、と辞儀をする真杜さんの仕種は、此れ迄の心証イメージに反して可愛らしい女子そのものであり、俺は眼の前の人物と先程作法室で俺を背負い投げた人物が同一なのか、自分の後頭葉を疑った。

「あ、はい、宜しくお願いします」

「お前は」

 俺の言葉を遮る勢いで、真杜さんは切り出した。

「梨乃の何だ?」

 ……何だ、と云われても、俺が訊きたい位だ。

「梨乃と、公衆面前で……口付けをした、と聞いたが」

 …………何か、随分莫大ばくだいひれが付いてんな。否、伝聞は依琉さんしか介していない筈だから、依琉さんが元凶だ。マジで遣って呉れたな、あの先輩アマ

「してないですって! 誤解なんですよ、藍田先輩の見間違いなんですよ!」

 取り敢えず、こんな感じでどうだろうか。他にも色々釈明したい部分は有るが。

「本当か?」

「本当です!」

「間違い無いか?」

「間違いないです!」

「絶対か?」

「絶対です!」

「事実か?」

「事実……じゃないんです!! 信じて下さい!」

 真杜さんは押し黙った。俺は此処ぞとばかりに、

「オレは、tRPG部の入部希望の一年です。梨乃さんが茶華道部の方達にオレを紹介しよう、って事で作法室に行っただけです。本当に、其れ以外の何でもないです! 確かに、可愛らしい女性ヒトだなぁ、とは……思って、ますけど……」

 盛大に墓穴を掘った。掘削機の先端がポルト・アレグレから顔を出す程の。途中で気付いたものの、もう後戻りも誤魔化しも効かない地点だった。

「い……否、ち、違くてっ!!」

 俺は失地回復に努めようとしたが、真杜さんは突然破顔し、

「否、別に私は梨乃を好いている者が居ようと、其れ自体は構わない。寧ろ、彼奴アイツが親しまれている証でもあるから、大歓迎さ。だから硬くなったり、臆する事は無いんだ。但し」

 其処で真杜さんは言葉を止め、トマトを放り投げたら真っ二つにする比類の無い切れ味を誇る真剣の如き眼差しを俺に飛ばし、

「信用に値する人物か否か、梨乃と接触させても良い人物なのかは、此方こちらで判断させて貰うが、な」

 絶対零度の冷徹さを伴って、俺に言葉を突き付けた。まるで、俺の覚悟を試すかの様に。要求されている覚悟が何を意味するか、此の時は分からなかったが、俺は気圧けおされて息を呑んだ。

「まぁ、私の見立てでは、お前は嘘を吐く様な人間ではなさそうだ。そう堅苦しく為るな」

 そう言った真杜さんの表情がやわらかくなったので、俺は無意識に止めていた息を吐き出した。

「実は私も、tRPG部に所属しているんだ。柿手、お前がtRPG部に入部し、そして我々半幽霊部員派として活動するであろう以上、今からする話は確実に聞いて貰う。そして、此の話は他言無用だ。約束出来るか?」

 再び顔付きを引き締めた真杜さんに釣られて、俺も真剣な面持ちに為って頷いた。

「私は梨乃と同居している。梨乃が私の実家に預けられている形だ」

「はい、一緒に住んでる、って云うのはさっき梨乃さんから聞きました」

「そうか。……で、梨乃は母親を亡くしている。5歳の頃、だったかな?」

「え……」

 何処を見ても一点の曇りの無い様な梨乃さんの顔を思い出し、俺は驚いた。彼女にそんな“薄幸要素”が存在するとは到底思えなかったからだ。

「梨乃の母親は、不慮の事故で亡くなった。そして、梨乃の父親は、妻を溺愛していた。大袈裟に言えば、運命に翻弄された夫婦と娘の物語、だ。梨乃の父親は、最愛の妻を唐突に亡くし、甚大な精神的打撃ショックを受けた。仕事も手に付かず、呆然自失の状態だ。無論、梨乃の世話さえも、な。軈て、梨乃の父親は行方をくらました。私の家に梨乃を置いて」

 俺は唯々ただただ、真杜さんの話を聞いていた。何と反応して良いのか、見当も付かなかった。

「事態が事態だから、仕方無い。私の家で梨乃を預かる事に為った。其れ以前から、梨乃とは家族ぐるみで付き合いが有ったからな。まぁ、私は梨乃の父親を見た事は無いんだが。然し其れは、私に取って好都合だった。何故なら、梨乃を護る事が容易に為ったからだ」

 真杜さんは懐かしむ様な顔で窓の方を見遣った。窓は真っ白な耐火性のカーテンが覆っていたが、窓が開いているのだろう、時折カーテンが微風そよかぜなびいている。

「実は、梨乃の母親が亡くなる前の晩、私は梨乃の母親から或る言伝ことづてをされていた。『真杜ちゃん、梨乃を護って遣ってね』と。そして其の次の日、梨乃の母親は他界した……」

 真杜さんはそよぐカーテンを軽く睨み付けた。

「私は其の言葉は、梨乃の母親の遺言だったんだ、と思っている。誰が何と言おうと、な。だから私は、其の遺言を守るんだ。仮令たとえ梨乃に煙たがられようと、過保護だと思われようと、梨乃を護る事は、私と梨乃の母親との約束であり、私の使命でもあるんだ……!」

 強靭な、超硬合金の如き意志を、真杜さんは垣間見せた。俺は唯、口を半開きにして聞き入るだけだった。

「…………悪いな、出会ったばかりでこんな重苦しい話を聞かせて。然し、梨乃と近しく接する人間には、必ず聞いて貰う事なんだ。だから煙たがらないで呉れよ?」

 真杜さんはそう言うと美しい微笑みを見せた。

「……だから私は、梨乃を傷付けたり、危害を加えようとする輩には容赦しない。其れがどんなに、梨乃と親密な人間でも、だ。其れだけは、肝に銘じておいて呉れ」

 穏やかな微笑みの儘、真杜さんは両の眼にあおほのおを燻らせた。俺は唾を飲み込んだ。此れが、「覚悟」なのか……。俺は茫然とした儘「はい……」と頷くしかなかった。


 真杜さんと別れた俺は、一旦tRPG部室に寄り、放ってあった自分の通学鞄を手にすると、宮殿部長と言海先輩に構わず、其の儘帰路に就いた。頭脳が混乱していた。俺の性能スペックではさばき切れない情報が入力され、脳味噌データフォルダ容量キャパシティ汪溢オーヴァーフロウ寸前だったのだ。

 自転車を漕いでいても、俺の気はそぞろだった。唯、何の気無しに眺めた沈みかけの太陽が放つ暖色系の空は、何処と無く俺の心中に引っ掛かった。

 真杜さんとの対面以降、陽香の姿を見掛けなかった事と、梨乃さんと「込み入った話」をし損ねた事を思い出したのは、帰宅して私服に袖を通した時だった。因みに、陽香が帰って来たのは俺が帰宅してから一時間程経ってからで、相当梨乃さんに骨抜きにされたらしく、夕飯の最中も頬は上気した儘だった。其れと無く梨乃さんに就いて訊いてみた所、

「あの人は、何か……凄いね。可愛いし、強引だし、大胆だし……。一寸、思い出しちゃった……」

 との事で、まぁ何だ、白けてくる程に態度が変容していた。何はともあれ、陽香の梨乃さんに対する変な嫉妬みたいな感情は綺麗さっぱり浄化された様で、俺は小さく安心した。其れにしても、梨乃さんは陽香にどんなテクを駆使したのだろうか? ひょっとすると、梨乃さんはああ云う手段を用いて、周囲の敵対的な女子達を制圧してきたのかも知れない。

 ……そう考えて、俺は自分に芽生えつつある新たなる性癖ハビット幕開けテイクオフに勘付いた。が、見て見ぬ振りをした。



 翌日の昼休み、其のCメールは、差出人不明の状態で俺の東芝製端末に受信された。

【緊急招集! 今すぐtRPG部の副部室に集合! 来なかった場合は、腹か首をくくることになるんじゃない?】

 恐ろしすぎる文面の召集令状あかがみを見て、俺の取るべき態度は決定されていた。開き掛けていた弁当箱を若干惜しみつつ、俺は一目散に別棟東館3階へとオレンジ色の携帯W47Tを握り締めて直行した。

 差出人が分からない状態ではあったが、其の送り主が誰であるかは瞬時の特定が可能であった。人気の少ない昼休み中の別棟の其の部屋の前に佇んでいたのは、矢張り、梨乃さんだった。腕を組み、かかとを軸に爪先を床面にタッピングして、苛付きを全身で表現している。

「遅いわよ! 何ちんたらしてんの?! もっと斯う、飛脚が『何処でもエニウェアドア』使う位の速さで来なさいよ!」

 ワープ可能なドアが有るなら飛脚じゃなくても大して移動時間は変わりませんよ、と俺が礼儀として突っ込むと、梨乃さんは苛付いた表情から一瞬、真顔に為り、そして照れ隠しの笑顔へと表情を変化させた。其の動的ダイナミック可塑かそ性に俺の胸に在る拍節器メトロノーム亢進こうしんしていくのだった。

「……で、何なんですか? 用件は。昼喰おうとしてたんですから」

 俺は小さく咳払いをして気を取り直すと、訊いた。すると梨乃さんは背伸びをして俺の肩に左腕を回し、

「昨日、何で帰っちゃったのよ? 真杜と話した後」

 某みさえママ宜しく、俺の側頭部に右拳を当て、其のとがりを旋転スクリューしてきた。

「い、痛っ! 痛ぇっすよ!!」

 梨乃さんは俺が喚くとピタリと動作を停止させ、

「未だ、済んでない話が、有るでしょお?」

 何処かなまめかしくもある声で、言った。俺は其の声に赤面しつつも、内心は青めていた。あかあおが、俺の精神を侵食していく――と云うのは流石に気障キザに過ぎるか。

「良いから、さっさと入りなさい」

 梨乃さんは制服のポケットから鍵を取り出し、開錠した。近頃人気のキャラクターがかたどられた熱可塑性エラストマーTPE製のキーホルダーがあしらわれた其れは明らかに学校の備品ではなく、梨乃さんに其れを問うと、

「ウルフ、此の世は便利なのよ、実に。専門業者プロフェッショナルが其処等辺にごまんと居るわ」

 との回答だった。要するに、無断で合鍵を作らせた、と云う事だろう。何故「無断で」と断言するのか、と云えば、生徒に学校の教室の合鍵を複製する許可を下す関係者など常識的に考えれば居る筈が無いからである。

 真っ直ぐに部屋の奥の副部室の入り口へ進むと、梨乃さんは白い扉を開け放った。続いて入室した俺がドアノブを引くと、調整の効いたドアクローザーのお蔭で、アクリルの嵌め殺し窓が付いた扉は音も無く閉まった。

「訊きたい事、有るんじゃないの?」

 梨乃さんは明かりの点いていない部屋で、大きく取られた窓から入って来る陽光を背に、つやの有る声で俺を促した。

「え……と、じゃあ、ず……、あの動画ムービー、誰にも見せてないですよね?」

 梨乃さんは勿体もったい付けているのか、若干めた後、

「見せてないわ。今の所は・・・・、ね」

 後半を意味深に発音した。

「確実に、在るんですね、その……動画のデータは」

「うん」

 梨乃さんは何の躊躇いも無く言った。恐らく、事実なのだろう。あの時、梨乃さんのハンディカメラは録画REC状態にあった訳だ。

「何で、あの時カメラを……?」

 俺は素朴な疑問を呈した。梨乃さんが予知能力か何かの持ち主か、決定的瞬間を収められる、と云う素っ破抜きスクープ写真屋カメラマン感性センスを含有している、とかそう云う事だとしか思えない。

 すると梨乃さんは腰の辺りに提げたベージュの腰袋から黒い耐衝撃クッション小袋ケースを手に取り、中から例の赤いカメラを取り出して、

「此れね、父さんからの贈り物プレゼントなの……」

 しんみりと話し出した。俺は其の落差に一瞬付いていけず、精神的前のめり状態に為った。然し、直ぐに其のテンションに順応し、

「……朋尾先輩から聞きましたけど、梨乃さんのお父さんって、音信不通なんじゃ……?」

 と返した。……「お父さん」とか、めとりの許諾を取る新郎じゃないんだから、と脳内で突っ込みを入れつつ。

「うん、でも真杜のお父さんから渡されたの。『父さんから、誕生日記念品たんプレが宅配便で届いたから』って……。だから、あたしは父さんに会ってないんだけど。でも、此のXactiザクティは父さんからの贈り物だから、形見じゃないけど、常に持ってるんだ……」

 しっとりとした雰囲気に一瞬流されかけたが、梨乃さんの言葉は俺の疑問には答えていない。俺の怪訝な表情に気付いたのか、梨乃さんは、

「でね、折角貰ったんだし、やっぱ道具モノだから、使ってあげないと、って事で、最近良く撮影まわしてんのよ。色んな時に、色んな場所で。だから、あの日も偶々、ちらっと作法室でも覗きに行こうかな、って思ったらさ、ねぇ……アンタ達がその……」

 と語った。後半、歯切れが悪いのは、梨乃さんが赤面したからであろう。斯う云っちゃ何だが、此の人はキス程度で恥じらう人なのか。思えば昨日、依琉さんとそう云う話に為った時も梨乃さんは恥じらっていた。更に云えば、カメラを録った其の後も、梨乃さんは赤面して去ってったっけ……。

みな迄言わんでも大丈夫です。成る程……、じゃあ、僕もtRPG部に入る事ですし、其のデータファイルは消去デリートして「出来ません」

 俺の継ぐ言葉を遮る様に梨乃さんは言った。

「……え?」

「データを消せ、って事でしょ? 其れには応じられませーん」

 梨乃さんは悪魔、それも最上級の大魔王の如き悪い笑顔を浮かべている。

「……何故です?」

 俺にはそう言うしかなかった。本当に、理由が解らなかったのだ。

「だって……此れさえ在ればアンタと佐峰先生が意の儘、って訳でしょ? そんな飛び道具キラーコンテンツ消去ポイする訳無いじゃない!」

 言い切られた。俺は改めて思った。豪い相手に弱み握られちまったなぁ……、と。

「其れに、此のザクティも記録済なかのデータもあたしの所有物モンよ? どうしようとあたしの勝手でしょ、違うライㇳ?」

 そう言われると、俺は二の句が継げない。其の通りザッツライトだ。

「佐峰先生にも何かして貰いましょう! そうねぇ…………あ! 良い事思い付いた!」

 熟考の末、梨乃さんは何らかの妙案アイディア着想ジェネレイトした様だ。まぁ間違い無く、「良い事」ではないだろう。少なくとも、俺と佐峰先生に取っては。

 あの日以来、俺は佐峰先生とは会っていなかった。昨日も、気絶する寸前に見掛けただけで会話はしていない。俺は連絡先を知らないし、先生も俺と個人的な連絡を取ろうにも、其の術が無いのだろう。

「思い付いたが吉日! 善は急げ! 行くわよ、ウルフ!!」

 昨日、宮殿部長が梨乃さんを“直情径行唯我独尊を地で行く鉄砲玉”と評していたが、正に的を射ていると思う。ダーツで云うならダブルブルって奴か。梨乃さんは俺の手首をまたしても鷲掴み、意気揚々と部室を後にする。かと思いきや、部屋を出ると意外にも施錠の為に立ち止まり、無認可の合鍵スペアキーをポケットに蔵った後で、競歩の様な速度で俺を引っ張っていく。まるで大気と云う不可視な壁面を切り崩し、切り拓いていくかの様な力強さを伴って。


 梨乃さんの足が向かった方向は案の定“管理棟”と呼ばれる職員室や校長室、事務室とか進路指導室などが詰め込まれた、教室棟とアリーナ棟を結ぶ役割を果たしている建屋だった。勿論其の中でも、梨乃さんのお目当ては豪く広い床面積が確保された職員室だ。整然と数多の事務用机が並ぶ様は、さっぱりした内装も影響して、宛ら中堅IT企業のオフィスである。

「おっ邪魔っしまーす!!」

 比較的絞られた音量で校内放送のJポップが掛かる中、穏やかな休憩を満喫している職員一同に自分の到来を告知すべく、引き戸を開けるなり梨乃さんは加減を知らないのではないか、と疑う程の声量で挨拶を飛ばした。何事か、と一気に騒然と為る職員室内は、然し梨乃さんの姿を眼に入れた教師から順に囁きが消え、ざわついた声はさざなみが引いていく様に安穏を取り戻していった。

 それにしても、何だろう。教員連中の反応が薄いのが気に為る。

 梨乃さんの奇行は教職員全員の知る所であり、慣れたもの――或いは何時ものだ、と云う僅かに諦念を含有した態度に見て取れた。または、唯単に梨乃さんの目的であろう該当者ターゲットに対応してもらおう、と云った事なかれ主義なのか、しくは単純な無視なのか。

 梨乃さんは職員室内も我が物顔で闊歩し、梨乃さんが過ぎ去った後の先生達は安堵の溜め息を一様に漏らしている。……ひょっとしたら、彼女は常に、絶大な孤独感と取っ組み合っているのかも知れない――と、梨乃さんの後を付いて行き乍ら思った。

 今の状態をバンザメ、或いは金魚のフン、と揶揄やゆされても1ミクロンも反論の余地は無く、起訴事実を全面的に認めるしかない。其の内校内中に“超風変わりな女子生徒の後に付き従う手下A”として存在感を発揮してしまうかも知れない。……認識のされ方に難が有り過ぎる。

 職員室内が安堵と緊張のぜ状態を呈する中、遂に梨乃さんの足は止まった。心做しか、否確実に、誰の許で梨乃さんが停止したか、殆どの室内に居た教師達が気にしている。其の相手は勿論、佐峰先生に外ならなかった。

先生センセー! ちょいとお話が有って。良いです?」

 佐峰先生は、例の件もあって頬を硬直させている。当事者である所の俺も同伴しているのでは猶更、気が気ではないだろう。

 因みに俺は、何故か其処迄気不味さは感じなかった。

 佐峰先生は応じたくない筈だが、生徒に声を掛けられ、然も衆人環視の中では徹頭徹尾パーフェクト鹿十シカトを決め込む訳にもいかず、両手で包み込む様にマグカップを把持した儘、強張った声で

「どんな要件?」

 と返答した。俺はそんな先生の様子が見ていられなく為り、眼を逸らした。すると、我等が1年機械科1組の主担任で機械科教諭のたん和仁かずひと先生が居り、眼が合った。どうも職員室内の席順は、担任学級毎に纏められている様で、端似教諭は佐峰先生の隣の席に座っていたのだ。

「おぉ、柿手君。大丈夫だったか? 昨日は」

「え……えぇ、まぁ……」

 俺は理解した。昨日、真杜さんに背負い投げを喰らった後、気付いたら俺は保健室に転がっていた。作法室には男手が居なかったから、誰かしらの手を借りる事と為る。ひっきょう、話は大事おおごとに為っていく。教職員達の間で情報は駆け巡るだろう。特に担任する生徒が上級生に投げられた、と為れば端似教諭には真っ先に話が行くのは自明だ。そして今朝のSHRに端似教諭は所用で来られなかった(代わりに佐峰先生が担当した)ので、今俺に声を掛けたのだ。

 推測だが、真杜さんは昨日保健室に顔を出す前にこってり絞られていたに違いない。

「まぁ……その、何だ……苦労するかとは思うが、基本的には彼女コイツ等は悪い奴じゃない。其れだけは覚えといて遣って呉れ。頼んだぞ」

 端似教諭はそう言い残し、紙コップを手にして席を離れた。果たして俺は何を頼まれたのだろう……? と疑問に思いつつも、職員室を出ようとしている梨乃さんと佐峰先生の後を追った。


 管理棟北側の洒落じゃれた階段の踊り場に、梨乃さんと佐峰先生と俺は居た。佐峰先生は窓際の手摺りに背中を付け、僅かに仰け反る様な姿勢だ。一方の梨乃さんは優位者の余裕からか、腰に手を当て、傲慢さを滲ませている。宛ら“蛇に睨まれた蛙”状態だ。擬人化実写版と云っても差し支えない。

「先生? 先ず貴女には拒否権は有りません。其の事は肝に銘じておく様に。ライㇳ?」

 梨乃さんは佐峰先生の眼前に自らの顔面を近付け、ぴしぴしと虚空に人差し指を突き刺し乍ら言った。

「……えぇ」

 佐峰先生は不承不承乍ら頷いた。其の表情は不満げではあるが、内心は何を言われるのか分かったものでは無いので、恐らく佐峰先生の背筋には幾筋もの冷やコールドスウェットが走っている事だろう。傍で聞いている俺でさえ背中が冷える様な感覚を味わっているのだから、本人の不安感たるや察するに余りある。

「では……発っ表ぅします!」

 梨乃さんは往年の某バラエティ特番での大物司会者の如く、大袈裟に抑揚を付けた口調で宣言した。思わず生唾を飲み込む佐峰先生と俺。梨乃さんは大きく息を吸い込み、発表を噛ました。

「先生には、tRPG部の副顧問に為って頂きます!!」

 俺は「何だそんな事か」と胸を撫で下ろしたのだが、教職に於ける顧問と云う役割の実態を知る佐峰教諭は反発した。

「……あのね、私はもう既に茶華道部の顧問を務めてるの。其れなのに加えて他の部活の面倒を見ろって言われても、一寸勘弁して貰いたいわ」

「あのねぇ、先生」

 角をめて拒絶した佐峰先生をなだめる様に、梨乃さんは糾弾する声を上げる。

「初めに言ったでしょ? 貴女には拒否権は無いの。存在しないの。在り得ないの。其処ん所を理解して下さいよ。我等の崇高すうこうなるきょうどう者たる『先生センセー』なんだから、物分かりが良い、賢い所を見せて下さいよ」

 敢えて憎たらしく、そして威圧的に迫る梨乃さんに、赤面しつつ下唇を噛む佐峰先生は、誠に失礼乍ら、可愛らしかった。当人は其れ所でないのだろうが。

「で、でも……、tRPG部には既に正顧問である端似先生が居られるじゃない。其れなのに、私が副顧問に為った所で、何もする事が無いと思うけど?」

 ひるみつつも、佐峰先生は果敢に反論した。と云うか、傍から聞いていても、其れは全くの正論だった。梨乃さんにしても、正論を返された事を自認したのか、今にも舌打ちをしそうな表情を見せた後、身振り手振りボディ・ランゲージを交えつつ、斯う怒鳴った。

「良いから従いなさい!! 動画ファイルばら撒くわよ?! 困るのはアンタだけじゃない、アンタの親族もウルフや其の親族、学校関係者、数え切れない人間に影響は波及していくわ! ……そう為っても良いの? アンタ一人が僅かに苦労するか、あまの他人に迷惑掛けるか。分別ふんべつ有る大人なら答えは一択でしょうが!!」

 恫喝どうかつ其の物だ。しきものにかれたかの様な迫力の梨乃さんに、佐峰先生は気持ちで勝つ事は叶わず、半泣き状態に追い込まれている。俺は梨乃さんの発した怒声が誰かしらに聞かれてはいないか、と肝を冷やし乍ら周囲を窺った。が、幸いな事に人影は見当たらない。

「……分かったわ……」

 佐峰先生は観念して屈服した。完膚無き迄に畏縮しきっており、圧倒的な迄に理不尽な梨乃さんに従うしか術が無かった、と云う方が適切だろうか。此れから何を押し付けられるのか、胸中の容量を軽く汪溢おういつする程の不安感を抱く佐峰先生には、酷似した立場である俺でさえもあわれみを感じざるを得なかった。

「じゃあ先生、携帯出して?」

 一転してにこやかに微笑み、天使の化身の如き表情をする梨乃さんに、俺は見惚れつつも底知れぬ恐ろしさを覚えた。

「…………」

 強張った表情でポケットから白いシャープ製の端末を取り出した佐峰先生の右手から其れを強奪した梨乃さんは、先ず自らのポケットに蔵っていた白いパナソニック製のDoCoMo端末から赤外線通信に因り自局情報プロフィールを送り込むと、Xactiが入っているベージュの腰袋から赤い携帯電話を取り出し、再び赤外線に乗せて自局情報を送信し、SoftBankの白い携帯電話に受信させた。俺は先程、梨乃さんから無記名のCメールが送信された事を思い出し、

「梨乃さんって、携帯2台持ちなんですか?」

 と訊いた。梨乃さんは手許を注視した儘、間髪入れずに答えた。

「見れば解るでしょ? W41Kコレは極身近な人間との連絡にのみ使ってるの。普通に使うのはP901iTVキューマルイチだけどね。此れから基本的にあたしからの連絡は此奴から送るんで、宜しくね? 先生」

 そう言って梨乃さんは佐峰先生にウィンクを飛ばしつつ、810SHを返却した。と思いきや俺に向き直り、

ついでにアンタにも教えといて遣るから。いちいち差出人が誰なのか判らないCメールを受け取らせるのも気が引けるし。ほら、W47Tヨンナナティー出しなさいよ」

 と左の掌を俺に突き出し、催促した。DoCoMoとauの二台持ちと云い、一昨日おととい一度見ただけの俺の携帯の端末名をさらりと口にする事と云い、どうやら梨乃さんは携帯電話愛好家のが有る。まぁ、斯く云う俺も愛機W47Tを親に購入して貰うに当たり、色々な機種を検討したのが原因なのか、携帯電話の機種・性能スペックマニアを自認する所だが。

 俺が学ラン風の制服のポケットから橙色の二つ折り端末を取り出し、梨乃さんに手渡すと、梨乃さんは京セラ製の高性能ハイスペック端末から赤外線通信IrDAでプロフィールを送出し、俺の東芝製端末は其れを受け止めた。

「あ、あたしがW41K持ってるの、他言無用だからね! あたしが『教えたい』と思った人にしか知らせてないんだから。先生も!」

 俺にW47Tを返しつつ梨乃さんは言った。俺は、其の「教えたいと思った人」に自分が選出された事に対してにわかな喜びを覚えつつ、そう云えば先程から校内、と云うか教師の眼前で堂々と携帯電話を取り扱っている事を思い、米粒未満の罪悪感が脳裏を掠めた。

 云う迄も無く、2007年の我等が県立学科技術高校は基本的に携帯電話の持ち込みは禁じられている。だが、其の禁止事項が在校生の事情には全く合致していない事は明々白々である。防犯対策に為る事も有り、保護者も積極的に携帯電話をじょに持ち歩かせたい、と云う要望も日に日に大きくなっている。そんな実情も有り、近年は学校側も態度を軟化させ、“携帯電話等持込申請書”なる書類ペラがみに一筆すれば(電源を切った)携帯を持ち込んでも良い事には為っている。学校側としては、電源オフの状態で、常に鞄またはロッカーに蔵っておく事を厳守させるべき限度ラインとしているが、勿論其れは理想論だ。実際其れを律儀に守っているのはスズメの涙程度の数の生徒のみであり、大半の生徒は斯うして電源を入れた儘、常に所持している。抑々、電源を切ってあったり電池バッテリーを外してあったりした場合、有事の際とっに使用する事は叶わず、またGPS探知も儘ならず、存在意義が大幅に減少してしまう。意味無しに為ってしまうのだ。故に生徒達も電源を入れた儘所持する事に対し、大した罪悪意識を感じていない。其れが、俺が米粒程度の罪悪感しか覚えなかった所以ゆえんである。

「んじゃあ宜しくねっ、佐峰副顧問!」

 梨乃さんはそう言い残し、踊り場から抜け出ていく。生徒の携帯電話使用を指摘する事も出来ず、悔しさ半分、恐怖半分で携帯を両手で握り締め立ち尽くす佐峰先生をいたわる言葉も浮かばず、「最低だ」と自覚しつつ、俺は其の場から逃げ出す様に梨乃さんの後を追った。

「あの、何で佐峰先生をtRPG部の副顧問にしたんですか?」

 俺は先を歩く梨乃さんにすがる様に問い掛けた。梨乃さんの早歩きは競歩日本代表と遜色無いのではないか、と思う程で、俺も可成り懸命に足を運んでいるのだが中々横に並べず、仕方無く後ろから声を飛ばしたのだ。

佐峰先生あのヒトは、中に入って座るだけで何処どこ迄も簡単に移動出来る魔法の遣い手なのよ? そんな特殊能力、利用しない手は無いでしょ!」

 梨乃さんは大股で歩き乍ら言った。……はて、此れは一体どう云う意味なんだ? 俺が読解に苦労している様を横目で見た梨乃さんは、

「……じゃあ、手懸かりヒントね。其の魔法の遣い手は、世の中にごまんと居るわ。社会人に取って必須の資格の一つだからね。そして、あたし達は未だ其の魔法を使う事を許されていない。……さ、もう分かったでしょ?」

 あぁ、そう云う事か。俺はひらめいた。然し、と云う事は……。

「梨乃さん、佐峰先生をタクシー代わりに使う気ですか……」

「うん。アッシーちゃんに為って貰おうかな、って!」

 一切の邪気が無い、純度100%の笑顔で梨乃さんは言い放った。まぁ、強いて言うなら「アッシー君」ってのは此のご時世、どうかと思うけど。

「あ、死語だった?」

「ええ、大分前にお亡くなりに為ってると思いますよ、其れ」

 自分から振っておいた癖に、梨乃さんは頬を染めて

「べ、別に良いでしょそんな事っ! 生意気なのよ、ウルフの癖にっ!」

 等とおっしゃるので、

「否、死語って言い出したのは梨乃さんでしょ? オレからは何も言ってないじゃないですか」

 と返答して遣った。すると梨乃さんは

「うっさい阿呆アホ!!」

 とあらぬ中傷をして直ぐ横の教室に突入していった。どうやら此処は2年機械科1組の教室HRの様だ。

「あの、解散で良いですか?」

 俺が梨乃さんの背中に訊くと、

「はい解散っ!!」

 と云う声と共に威勢良く引き戸が閉まった。独り上級学年の廊下に取り残された俺は、投げ掛けられる複数の視線を感じ、急速に敵地アウェー感を覚えて、足早に立ち去った。5階の1年機械科1組へ向かう途中、そう云えば昼飯を喰いそびれていた事を思い出し、左手首に嵌めた腕時計を一瞥したが、何やかんやで5時間目迄は然程猶予が無く、席に着いた俺は1グラムも軽くなっていない弁当箱を溜め息と共にナイキのショルダーバッグに蔵い込んだ。


 あっと言う間に放課後だ。俺が別棟東館3階のtRPG部の部室に入ると、待ち構えていた様に宮殿部長と言海先輩が立っていた。

「大丈夫だったか? 柿手君!」

「昨日何か色々事件が有ったみたいだけど……?」

 相次いで訊かれた。自分達の所属する部活の後輩の女子生徒が入部予定の新入生を背負い投げた、となれば、此の反応も何ら不思議ではない。

「あぁ、まぁ……平気ですよ」

 当たり障り無い按配あんばいで返答した。余り其の辺りを穿ほじくられても面倒だな、と思っていたら、俺の気持ちを察知したのか、宮殿部長の方で話題を変えて呉れた。

「五輪君もそうだが、あの朋尾君も負けず劣らず、困り者だなぁ」

 はぁ、と溜め息を吐き乍ら、宮殿部長は愚痴グチこぼした。言海先輩が受け応える。

「五輪さんの事に為るといっその事、眼の色が変わっちゃうから、朋尾さんは」

「それにしても、一本背負いはどうかしてるだろう……」

 若干事実と異なっている。俺が受けたのは背負い投げだ。一本背負いなんぞを喰らっていたら、俺は受け身なんて一切出来なかっただろう。

「ま、まぁ、ウルフ君もいっその事、無事だったんだし……ねぇ?」

 言海先輩は救いを求めて俺に話を振った。確かに、他人の恨み節コンプレイントを延々聞いているのは、正直シンドい。いわんや梨乃さんと真杜さんに就いてなら、猶更だ。

「え、えぇ。僕は大丈夫なんで……。所で、梨乃さんって随分変わり者扱いされてますけど、今迄どんな事を仕出かしてきたんですか?」

 言海先輩はあちゃー、と云う顔をした。俺は其の理由が分からなかった。

「五輪君はねぇ、先ず入学早々、教師に暴言を吐いて注目を浴びてね、其の時点で教師陣には目を付けられていたね。後は、大きいのはやっぱりあれかな? 部活荒らし」

「部活荒らし?」

「ああ。tRPG部に入部後にね、退屈したのか知らんが、五輪君が朋尾君と一緒に他の部活の活動に乱入する事を幾度か遣ったんだ。題して『tRPG部の侵略インヴェイジョン』」

「インベイジョン?」

「ああ」

 宮殿部長は一応、周囲を見回して、梨乃さん本人が居ない事を確認してから、続けた。

「彼女が言うには、tRPG部このブカツは相当地味らしい。まぁ、そりゃあ僕とて派手できらびやかで華々しい部活だとは思っちゃいないさ。でも僕は其れで良いんだよ。地味でも、自分の好きな事が出来る場所にしたかったんだからね。だが、彼女は自分でtRPG部を選んでおき乍ら、其れが許せなかった様でね。『tRPG部がより一層注目される様に』との事で、他の部活の通常活動中に乱入していって、無理矢理練習に参加したりして散々暴れ回った後に『tRPG部から来ました、五輪梨乃です。tRPG部を宜しく』と言って去って行くんだ。此れを遣られた部活が、堪ったモンじゃないって事で僕に抗議が殺到してね。そりゃそうだろうな。其処には既に決まった部活に所属している生徒しか居ないんだから、勧誘スカウト引き抜き行為ヘッドハントにしか思えないし、抑も通常のレギュラー活動ワークを邪魔されてる上で、そう云う事を言っていく訳だから。僕にしても、五輪君が勝手に独断で行っていた行為だから把握もしていないし、止めても真面まともに取り合って呉れないから、此れには本当に困ってね……」

「あ、あぁ……」

 俺は漸く理解した。言海先輩があちゃー顔をした理由を。俺は再度、方向修正を図った。

「と……所で、tRPG部の顧問って、端似先生だったんですね」

「ああ、そうだが。其れがどうかしたか?」

「端似先生、1年機械科1組ウチの担任なんですよ。で、端似先生って機械科の教師じゃないですか。なのに何でtRPG部の顧問なのかな? って思って。普通、斯う云う文化部系じゃなくて、工作部とか、自動車部とか、そっちなんじゃないかな、と」

 宮殿部長は眼鏡の縁を光らせ乍ら人差し指で押し上げ、言った。

「其れはな……、端似教諭あのヒト変人ストレンジャーだからだよ」

「ちょ、長君失礼でしょ?!」

 言海先輩が突っ込みを入れる。此の2人はこんな具合で関係性が完成されているのだろう。然し、宮殿部長も見た目とは裏腹に遠慮の無い物言いをする御仁だと思う。其の意味では、俺からすると彼も充分変人だ。

「はぁ……」

「少し昔話に為るがね……、僕は1年の時に此の部を立ち上げたんだが、其の時に中々教師陣に理解を得られなくてね、片っ端から教師達に頼み込んでいったんだ。其の中で端似教諭だけが引き受けて呉れた。後に為って、僕も訊いてみたんだよ。『何故了承して下さったんですか?』とね。すると、彼は一言『楽そうだったから』と宣った。工作部等の機械科系の部活動は大会や発表会前に為ると遅く迄居残ったり、土日返上で作業する事も多いらしくてね。『他の部活の顧問をしていれば、そっちの仕事が有る、と言って抜けられるだろう?』と、僕に得意そうに言ったもんだ。もう一つ、『誰も引き受けない事って、遣ってみたいと思わないか?』と僕に笑い掛けたな。まぁそんな訳で、変わり者の彼が、我がtRPG部の顧問と相為ったんだ」

 そんな秘話エピソードが有ったのか。確かに端似教諭は、何処か一風変わった雰囲気を纏っている印象は有ったが……。

「へぇ~、そーだったんだぁ~」

 背後から声がした。俺が振り返ると、当然の如く、其処には梨乃さんが居た。直ぐ横には真杜さんも居る。

「そんな歴史が有ったんだねぇ~。勉強に為ったわ。宮殿部長も頑張ったのねぇ」

 梨乃さんがあざけりの色をふんだんに吹き付けて言う。本人には然程卑下ひげする意図は無いのだろうけど。でも、梨乃さんの言う事も尤もだ。宮殿部長が当時行動アクションを起こさなければ、今のtRPG部は無いのだから。

 爾後じご、俺は梨乃さんに引っ張られ、真杜さんと共に3人で副部室に籠もり、放課後の充実した部活時間タイムを過ごした。具体的に云うと、梨乃さんが機関銃マシンガンの如く止め処無く喋り、真杜さんは相槌を打ち、途中で茶華道部を冷やかしに出向き、其処でも梨乃さんはあれこれと喋り、真杜さんは相槌を打ち、依琉さんは話題を広げ、奈子先輩は体験入部の新入生達を相手し乍ら依琉さんを注意し、梨乃さんを糾弾した。陽香も例に漏れず其の場に居たが、昨日とは大幅に梨乃さんを見る眼の色が違っていた(陽香よ、一幼馴染みとして、俺はお前が心配だ)。そして、良き所でtRPG部の副部室に戻り、また梨乃さんは喋り、真杜さんは話を聞き、三洋のブラウン管テレビがキテレツ大百科の再放送を垂れ流し始めた辺りで部活動はお開きに為った。俺は殆ど、話を聞き、彼女等を眺めているだけであったが、不思議と退屈はしなかった。

 因みに、弁当は最初に副部室に入った瞬間から食べ始めた。



 翌日木曜日は、朝のHRが潰れ、代わりに全校集会が行われた。何とも中途半端な時期タイミングでの集会ではあるが、単なる新入生である俺には何故今全校集会がもよおされるのかの見当が付く筈も無く、漸く世間話程度は出来る様に為ってきた級友と「だりぃよなぁ」等と無気力且つ無意味な会話をしつつアリーナ棟一階に拡がる第一アリーナに吸い込まれていった。

 集会の内容も、取り立てて特筆すべき事は無く、本当に何故今日行われるのかはなはだ疑問に思う所だったが、集会も終盤に差し掛かった所、校長の訓辞が開始から15分を経過し、第一アリーナ全体が暗い倦怠感で覆われていた頃――其れは、起きた。

 アリーナに並ぶ無数の生徒の列、其の中の中央付近から、


「ハナシ長いオトコ嫌――――い!!!!!」


 拡声器スピーカーから聞こえる低いたん絡みの声を掻き消す、超級の叫び声シャウトが、アリーナ内に木霊こだました。アリーナ内は一瞬の静寂の後、ぜん笑いに包まれ、そして爆笑の坩堝るつぼと化した。

 人生の大先輩の有り難い御話を、フェーズ理論で云う所のフェーズⅡ、夢現つサブノーマルの状態で耳に入れていた俺は、其のシャウトに因って大脳を瞬時に覚醒させられた。

 其の声は紛れも無く、2年機械科1組在籍、tRPG部所属の、五輪梨乃のものだった。


 4時間目終了後、詰まり昼休み、またしても俺のW47TはCメールを受信した。

【ウルフ、もし良かったら、今から副部室まで来てもらえる?】

 俺は其の文面に何か異様なものを感じ、喰い始めようとしていた弁当を再びほったらかし、携帯を握り締めて別棟東館3階へと直行した。当然乍らtRPG部室は鍵が掛かっておらず、引き戸を開けた俺は迷わず副部室へと歩を進めた。

「梨乃さん……?」

 軽量な板で出来た白い扉を開け、俺が室内に入ると、一人掛けのソファに腰を下ろし、背中を丸めて両膝を抱き、うなれる少女の姿が見受けられた。

「あ……ウルフ、来て呉れたんだ……。御免ね……?」

 俺は驚愕した。だが、其れは表情に出る事は無く、外見上はかすかに両眼の開度が増しただけだろう。俺が思うに、人間は本当に驚いた時、表情筋を操る電気信号など放出する余裕は無いのではなかろうか。だから“驚愕の面持ち”と云うのは本来存在しない筈なのだ。

 かん休題。俺が眼を見開いたのは、梨乃さんの睫毛まつげを、涙が濡らしていたからである。辛うじて落涙はしていないが、今にも其の涙腺分泌液は可憐な頬をすいしていきそうだ。

 俺の中での、梨乃さんの印象イメージに、涙は、全く以て不釣り合いだった。

「…………どうしたんですか、梨乃さん……」

 情け無く気の利かない事に、数回喉を鳴らした後、俺は斯う声を掛ける事しか出来なかった。

「朝の集会の奴、気付いた……?」

 梨乃さんは若干乍ら声の調子トーンを上げて話した。

「え、えぇ。あれ、良かったですよ。会心の一撃ですね。傑作でした!」

 俺は湿っぽい空気を明るくしようと努めた。除湿ドライ運転を強いられる空調機エアコンの苦労が理解出来た気がした。

「そう……? じゃあ、遣って、良かった……のかな?」

 どうやら俺には除湿の才能は無いらしい。梨乃さんは相変わらず沈み込んだ儘だ。

「まぁ、座ってよ……」

 俺は梨乃さんに促される儘、手近なソファに腰掛ける。梨乃さんはへへ、と笑うと、

「怒られちった……こっぴどく」

 と呟いた。俺は胸が締め付けられる様な苦しさにさいなまれ、梨乃さんに見られない様に僅かに顔を逸らし、軽くしかつらをした。

「あたしはさ……、良かれと思って遣ってんだよ? 此れでも……。でも、解っては貰えないんだよね、中々」

 俺は今にも口腔こうくうから溢れ出しそうに為る心苦しさを辛うじて耐えていたのだが、

「…………無理、しなくても良いっすよ」

 気付いた時には、口走っていた。半自動的に溢れ出しているので、言葉遣いが粗野だが、仕方無い。

「……え?」

「たかが数日しか見てないっすけど、オレが思うに……梨乃さん、無理して性格キャラ作ってるでしょ……? 梨乃さんの明朗快活で唯我独尊で天真爛漫らんまんで自由奔放で傍若無人で無鉄砲で鉄砲玉な性格は、偽りのキャラクター・・・・・・だ。……違いますか?」

 梨乃さんは押し黙っている。俺は自分の胸のうち、其の苦しみを解き放つ様に言葉をつむぐ。

「そりゃ人間だから、何時如何いついかなる時も自分を飾らない、裸一貫ネイキッドでいるなんて事、出来ませんよ。でも、自分を捻じ曲げて、擦り減らして迄、キャラクターを演じなくても良いんじゃないっすかね?」

 梨乃さんの肩が、震えている。

「オレ、未だ梨乃さんと出会って日が浅いから良く分かんないっすけど、梨乃さん、ガッチガチによろい着込んで武装して、社会セカイと闘ってる様な、そんな気がするんすよ、上手く言えないけど。だから、たまには其の鎧、脱いでも良いんじゃないっすか? ……重たいでしょ」

「う……るふぅ……っ」

 梨乃さんが顔を上げた。幾筋もの涙が頬を伝っている。

「……話なら聞きますよ。オレ、案外聞き上手だし」

 梨乃さんは一拍置いて泣き乍ら微笑み、

「其れって、自分で言う事じゃないっしょ」

 とほのかに震える声で言った。数秒間、静寂が室内に訪れる。

「あたしね……、本質的に誰からも好かれないんだよね……。基本的に誰からも愛されないって云うかさ……」

 梨乃さんは独白し始めた。俺は、

「そんな事無いっすよ!!」

 ……とは、言えなかった。即応したかったのだが、何故か躊躇ためらわれた。

「ほら、あたしさ、真杜の家にそうろうしてるじゃない? でさ、幾ら親友の家族とは云え、結局は他人じゃない。そう感じさせられる事が、同じ屋根の下で生活くらしてれば、そりゃ、有る訳じゃん……?」

 俺は小さく曖昧にうめいた。半端な気持ちの儘、上辺だけで首肯しゅこうする事は、俺には出来兼ねた。

「小っちゃい頃から、友達なんて真杜と依琉位しか出来なかったしさ。だから、あたしは人には好かれないんだ、って。だから独りで生きてく為には手に職付けなきゃ、って事で機械科に居るんだけどさ。……其れはさてき、どうせ誰にも好かれないんなら、嫌われても良いから自分の好きに遣ろう、って、好きな様に振る舞おう、って……誓盟しきめたの。だってさ、どうせ嫌われる人達の為に、其れをかえりみてへいこらするなんて、馬鹿みたいじゃない? だから、あたし、そう遣って……生きて…………っ」

 梨乃さんは喋る内にも止め処無く涙を溢れさせ、そして言葉を詰まらせた。

 推測にしか過ぎないが、彼女は其の生き方を選択した所為で、余計に傷付いた事も有っただろう。相当に、苦しんだ筈だ。相当に、悩んで、もがいて、あえいで、痛心つうしんを積み重ねて……其れでも、今日迄生きて来たのだ。

 然し、偽りの性格と云うものは、裏付けバックボーンとぼしく、また強度も無い為、ふとした、些細な事でかいしてしまう。此の前、意図せず本人の耳に入る様な声で陰口を言われた際にも、其の予兆は有った。そして今日、校長に喧嘩を売った事で、恐らく可成りの数の大人に絞られたのだろう。其の最中、元来が生真面目な性分の梨乃さんは自らのかた行く末をも案じてしまった――そう云う事だろう。

 俺は自然と梨乃さんを抱き締めようとした。だが、すんでの所で自分は未だ其の域に達していないと云う思いが芽生えて辛うじて自制し、梨乃さんの左肩に手を置くにとどめた。

「今は良いっすよ、泣いて……飾らないで……。其れから、再出発リスタートすれば良いじゃないっすか」

 梨乃さんは幾度となく頷いて、嗚咽を漏らした。


 暫く泣いていた梨乃さんは、深呼吸を一つすると、

「有りがとね、ウルフ。何か、情け無いトコ見せちゃった」

 と言ってブラウスの袖で涙を拭い、

「ふっっかぁーつ!」

 と勢い良く宣言して立ち上がり、伸びをした。

「もう大丈夫。世話掛けたね。戻って良いわよ、ウルフ」

 そう言う梨乃さんは普段と全く遜色無く、“何時も通りの梨乃さん”が其処に居た。俺は何故か嬉しくなって、梨乃さんに笑顔を返し、教室へ戻った。弁当はまた喰いそびれた。



 7時間目の体育の授業が決定打と為って、燃料警告灯エンプティーランプが点灯し始めてから数十kmキロ走行した自動車の様にガス欠寸前に陥った俺は、ふらふらとした足取りでtRPG部部室に辿り着いた。宮殿部長と言海先輩との挨拶もそこそこに正部室を通り抜け、副部室の扉のに指を掛けた瞬間、中から戸が開き、俺は肩透かしを喰らった。足元が覚束おぼつかない俺は思わず前のめりに倒れ込みそうに為った。此の命が尽きる瞬間ときには前のめりにたおれたいものだが、昼飯を抜いた空腹状態の放課後に安っぽい扉の前で前のめりたくはない。

「おっと……大丈夫か?」

 部屋の中から出てきた男子生徒に身体を支えられ、俺は危うく転倒を免れた。

「あ……、済みません」

 俺は自立状態を回復して一歩距離を取り、相手の顔を見た。

「……お前が例の新入部員?」

 微笑を浮かべ、髪を伸ばした、爽やかだが何処か憂いが有る男だ。此処で俺は気付く。何故、此の男は副部室内に居たのだろう? もしかすると、梨乃さんと真杜さん以外にもtRPG部には幽霊的存在の部員が居るのだろうか?

 そして俺は思い至る。其れらしい疑問を身代わりスケープゴートにした、自分の中の奥底で燻ぶる此の感情に。

「どうしたんですか? 先輩」

 円滑スムーズに退室しなかった男子生徒を見て、何事か、と梨乃さんが様子を窺いに副部室の奥から現れた。梨乃さんの顔を見て、俺の奥底の感情は燃焼範囲を拡大させていく。其のごうは、まるで山火事だ。僅かな切っ掛けから際限無く燃え拡がり、辺り一面をようゆうし、完全鎮火は難しい。何時迄も燻ぶり続け、ふとした拍子に再燃し出す。

 全く以て、手に負えない感情だ。

「あ、ウルフ! さ、入りなさい」

 俺の姿を眼に入れるなり、ずいっと室内から腕を伸ばし、俺の手首を掴む梨乃さん。俺の理不尽な感情はあっさりと消え去り、ほんの微かな幸福感が心中をともしていく。

「おーおー、随分気に入られてんじゃねぇか、新人!」

 男子生徒は澄ました顔を破顔させ、俺の肩をポン、と叩いた。

「じゃあ、俺行くわ。邪魔しても悪ぃし」

 爽やかに言い残すと、宮殿部長と対等語タメぐちで親しげに何らか喋り合った後、部室から姿を消した。俺は其れを見届け乍ら、彼の残り香が煙草の匂いである事に気付いた。


 俺を前のめりの惨劇から救って呉れた彼の名は、尾井おい駆流かけると云うらしい。3年普通科3組の生徒で、tRPG部の幽霊部員メンバーの一員だそうだ。

「あの人は偶に顔を出す位だけど、まぁ気難しい人じゃないから、ウルフも仲良く遣ってよ!」

 そんな風に言う梨乃さんの声も、人間の生存本能の前では無力に等しかった。空腹にさいなまれた俺は、馬耳東風の言い回し其の儘に、相槌を適当に打ちつつも肝心の内容はかみの耳からしもの耳へ淀み無く歪み無く垂れ流している状況で、脳内は弁当を喰らう事で一杯に為っていた。

「あの……、済みませんオレ、今日昼喰ってないんですよ。今から一寸弁当喰っても良いっすかね?」

 梨乃さんの喋りが一段落した隙を見計らって、俺は言い放った。話の間隙かんげきを射抜く能力は俺にも未だ備わっていた。と云うか、逆に云えば此の程度が限界だった。

「2日連続だな。食事を抜くのは身体に良くないぞ。何か有ったのか? 昼に」

 説教臭さの有る発言をしたのは、此の3人メンツの中では勿論、真杜さんだった。

「ええ、まぁ、そのー……」

 俺は上手い事お茶を濁そうと、図らずも嘗ての総理大臣みたいな台詞で二の句を探した。

「ウールフくーん!!」

 鼓膜が爆ぜるんじゃないか、とばかりの声量で梨乃さんが俺の真横で叫び、俺の肩に腕を回すと、

「何も無いでしょー、別に!」

 と満面の笑顔を俺の横顔3cmセンチ迄近付けて、言った。

「いや、その……」

 俺がくちもると、梨乃さんは俺の肩に回した腕に力を込め、左肩を掴む手の握力を増大させ、まと雰囲気オーラで俺の首を右に捻じ曲げさせると、

「何も無いでしょう、別に……」

 張り詰めたピアノ線の如き鋭さを伴った眼で、寸分たがわぬ台詞を180度異なる声音で発した。得も云われぬはくに俺は気圧けおされ、体中を縮こまらせて「はい」と蚊の鳴く様な声で答えた。蚊の鳴き声なんて聞いた事は無いが、実に合致マッチした形容だ、と改めて思う。梨乃さんの黒く輝く瞳に映り込んだ俺は、正しく蛇に見込まれた蛙、しくは鷹の前の雀、或いは猫の前の鼠、と云った風情で、実に情け無いツラをしている。全く、俺はカなのかカエルなのかスズメなのかネズミなのか。少なくとも、どうやら人間ヒューマンではないらしい。

「……まぁ良いが……、兎も角、褒められた事じゃない。余り無理するなよ?」

 空気を読んだのか、真杜さんはそう言って場を収めて呉れた。俺は今更乍ら梨乃さんの過剰な反応に疑問を抱きつつ、姉特製の弁当の蓋を開けた。


「探検に繰り出すわよ!!」

 弁当を平らげた俺に待っていたのは、高らかに宣言された梨乃さんに因る市中引き廻しの刑であった。探検も何も、一年以上此の学校に居るでしょう、と云う俺の真っ当且つ面白味皆無0%の突っ込みは清々しい程に往なスルーされた。梨乃さんは昼休みの憂鬱機嫌メランコリックも何処へやら、完全に復調していて、はたで見ている限り此れ迄でも最強スプリーム水準レヴェルハイ気圧テンションを誇っていた。

「極端だろう?」

 梨乃さんが肩で風を切り裂いて廊下を闊歩する後ろをスリップストリームで付いていく俺に、真杜さんがひっそりと話し掛けてきた。

「え?」

 何と無く、梨乃さんに聞こえない方が良い、と思ったので、俺は顔を半分だけ真杜さんの方へ向け、小声で応対した。

「朝礼の件、知ってるよな? 彼奴、朝の件の後、校長やら教頭やら学年主任やら総出の中こっ酷く叱られたみたいでさ、昼休み迄滅多に無い位落ち込んでたんだよ。まぁ正確には梨乃と同じ学級クラスの奴から聞いたんだけどな。で、昼休み明けから午前中凹んでたのを取り返すかの様にハイテンションに為って復活を遂げたんだとさ。全く以て、極端だよな」

 微笑みを浮かべた真杜さんは小声で言った。俺は昼休み、自分が梨乃さんに対して偉そうに講釈を垂れたのが露顕しバレたのか、と思い肝を冷やしたが、其れは杞憂だった様だ。

「そう云う所が、より一層護らなきゃ、って思う所以ゆえんでもあるんだけどな」

 真杜さんは柔和な表情の中に厳粛な気配を漂わせて、言った。俺は、真杜さんが本気で、梨乃さんを日夜護ろうとしている事、護っている事を改めて思い知った。

「でも、そんな梨乃を快く思わない連中も、居る」

 真杜さんの表情から穏やかさが、徐々に消え失せていく。

「得附、お前は正直、どう思ってる? あの奇矯エキセントリック厄介ピーキーな高2女子を」

 俺は暫し考えた。そして真っ直ぐ、梨乃さんの後ろ姿を眺め乍ら言った。

「オレは……良いと思いますよ。ああ云う人が居ても」

 真杜さんは嬉しそうに笑みを浮かべ、

「そう言って呉れる限り、お前は私の仲間だ。言い換えると、私はお前の味方だ。此れからも梨乃を頼むぞ」

 と激励し、俺の肩を叩いた。柔道乃至ないし空手仕込みの力が籠もった平手は俺の右肩に予想以上の打撃を与えた。其の痛みには何か重たいものが含まれている――俺はそう受け止めた。


 そうそう、忘れない内に特筆すべき事を記しておこう。道中、梨乃さんは何時ぞやのtRPG部の侵略インヴェイジョンの再現の様に、運動場グラウンドに出て屋外系運動部にも突撃したのだが、其処で俺は梨乃さんのとんでもない身体能力をかい見る事と為ったのだ。

 俺と真杜さんが運動場の傍らで見守っていると、梨乃さんはしつけにも陸上部の練習に乱入していき、

「此の中で一番速い奴、出て来いやぁ!!」

 と一昔前の大晦日おおみそかの風物詩的な元格闘家の如きたけびを上げ(丁寧ていねい動作ポーズ付きで)、嘗ての悪行を思ったのか、忌々しげに思える程、面倒そうに対応した部長であろう男子生徒は一人の女子部員を呼び寄せた。

 くして、見てる此方が平謝りしたく為る程、迷惑がった表情を浮かべる短距離選手達の練習をき止め、急遽設営された100mの特設スペシャル舞台トラックの第1競技路レーンには女子部員が、第2レーンには制服姿の儘の梨乃さんがクラウチングの姿勢を取る事と為った。其の異様な光景に、活動中の筈の他部活の生徒も一時中断とばかりに集まり始め、一寸した観客ギャラリーの山が構成されるに至り、俺と真杜さんも其の中に紛れ込んだ。

用意よーい……ドン!!」

 手旗を振り上げ、火蓋を切った部員に合わせ、ゴール地点に立つ部員が計測器ストップウォッチを押す。スターティングブロック代わりに、陸上部員が履いている靴を蹴り、弾かれる様に飛び出した二人は、瞬く間に最高速トップスピードへと加速していく。大気を切り裂く弾丸の様な二人はあっと云う間にゴールへと駆け抜けてゆくが、僅かに梨乃さんが離されていく。距離が延びる程にじりじり拡がる二人の差は、最終的には数mの差に為っていた。便べん的にゴール地点の部員が読み上げた記録タイムは、女子部員は勿論、梨乃さんも異次元の脚力の持ち主である事を証明して見せた。梨乃さんは悔しがっていたが、何処か清々しさに満ち溢れていた。走る事で何かを発散したかったのだろう。

 催し物ビッグイヴェントが終了し、ざわざわと散り散りに為っていくギャラリー達の雑踏の中に、

「五輪と走ってたって1年のすげはえぇって奴だろ? ハン無い記録だったな」

「あぁ、確か徳井橋って云う娘だっけ?」

 と云う会話を聞いた。何時か陽香が言っていた、中体連に出場したと云う俊足少女と梨乃さんの対戦相手の女子部員が同一人物である事を俺が知るのは、未だ先の事だ。


 一瞬にして退屈と倦怠に席捲せっけんされていた全校生徒の爆笑をさらった梨乃さんの知名度は、必然として其れ迄よりも一層高まり、新入りである我が学年にも余す所無く隅々迄浸透している事を、ありとあらゆる部活動を弾丸物見遊山トラヴェリングした俺は身をもって体感した。そして以前、俺が危惧した通り、“あの・・五輪梨乃の隣に居る謎の1年生”と云う名目で、俺の知名度も関知し得ない所で右肩上がりの鰻昇り、宛ら鯉の滝登り状態だったのだ。



「なぁ、柿手ってさ、五輪先輩とどんな関係なん?」

 此処数日で他愛も無い事を喋り合う様に為った級友の一人、多々納ただのゆうが俺に問い掛けたのは、翌日金曜の朝のHR前だった。

「そうそう! 昨日の朝礼の時の女の先輩だろ? アレ凄かったよなぁ!」

 多々納の隣に座する布通之木ふつのき夕雄ゆうゆうも此の話題に喰い付いた。彼もまた、数日前より話す様に為った級友である。

「昨日五輪先輩が色んな部活に顔出してたらしいけどさ、其の隣にもう一人2年の女の先輩と柿手おまえが付き従ってたって聞いたけど。確かにウチにも来てたな、お前等」

 多々納は追及してきた。俺は内心、面倒臭さを感じつつも、素直に答えた。

「あぁ、別に、あの人は部活の先輩だよ。昨日はあの人の我が儘に付き合わされただけ」

 へぇー、と空虚な反応を示す級友達。二酸化炭素が抜けきり、単なる人工甘味料と着色料の水溶液と化した炭酸飲料の様な味気無さに、俺は肩透かしを喰った。

「お前、結構有名人に為ってんぞ、校内でさ」

 ふと、布通之木は俺の顔を見て、言った。

「変わりモンの……五輪? 先輩だっけ、其の人と行動を共にしてる、って云うだけで上級生センパイ達には一寸した事件らしくてさ。ま、だからと云って別に何かの標的ターゲットに為ったりはしないとは思うけどさ、注目を集めるってのは何かと面倒だからな」

 確かに其の通りだ。俺は純粋に納得した。と同時に、布通之木が意外と心理を突く慧眼の持ち主である事に軽く驚いていた。上から目線の物言いだが、正直見直した。

「ああ……そうだな。まぁ気ぃ付けるよ」

 俺はそう返答した。言い終えた語尾に、HR開始のチャイムが覆い被さり、俺達の井戸端会議は一旦お開きと為った。

 ――想えば此の遣り取りが切っ掛けだろうか。俺の心の中で、仄かで微かで僅かな、梨乃さんに対する確たる理由の無い嫌悪が生まれたのは。そして此の、理由の無い馬鹿げた嫌悪が、梨乃さんを傷付け、真杜さんを激昂させ、俺自身を後悔ざんの奈落へ叩き込む事に為るのだ。


 本日の出張先は恒例の作法室のみで、未だ3日ほどしか経っていないが、着実に日常と化しつつあるtRPG部幽霊部員としての活動は円満に終焉を迎えた。――そう思い、胸を撫で下ろしかけた俺は要するに、まだまだ甘い、と云う事なのだろう。

 窓際に在る三洋電機サンヨーの小型ブラウン管テレビの電源を落とした梨乃さんは、

「真杜、一寸先に帰ってて? ウルフと話が有るからさ」

 既に薄暗い屋外の所為で鏡と化した窓に映る自分を見詰めつつ、言った。気を抜いていた俺の心臓は、危うく一旦停止しそうに為った。

「私が居ると不都合な話題なのか?」

「い……否、そう云う訳じゃないけど……、お願い、ね?」

 窓の方から振り返り、額の前で両手をパン、と合わせた梨乃さんは、此れ以上無い程の清純派スマイルで真杜さんを陥落しに掛かった。恐らく、梨乃さんが下手に出る相手は、少なくとも此の校内に於いては、真杜さん以外に居ないだろう。

「……分かった。でも、孰れ話して呉れよ。隠し事は無しだ。其れに……私だけ蚊帳かやの外と云うのは寂しいしな」

 にこりと微笑する真杜さんと、真杜さんを見遣る梨乃さんの間に、俺は堅牢で強固で深遠な信頼関係を見た、気がした。否、そんな気に為っただけで、実際的には複数の人間の外見を見ただけで当該人物同士の信頼関係など分かり得る筈も無いのだが。

 そして頼りに為る、味方である真杜さんが退室した事で、俺と梨乃さんは二人きり、相対する事に為ってしまった。前述した通り、根拠の無い、馬鹿げた嫌悪を仄かに梨乃さんに抱いていた俺は、梨乃さんと二人で居る事に対し、若干億劫おっくうだった。だから頬を赤らめた梨乃さんに、

「ウルフ! 明日一日あたしに付き合いなさい!!」

 と云う、本来なら涙を浮かべてび喜ぶべきお誘いを頂戴しても、

「……良いですよ。何処行くんですか?」

 と、素っ気無い返事をしてしまった。今思い返しても、此の時の俺だけは殴り飛ばして遣りたい。左側頭部にハイキックを喰らわせて数m後方へ吹っ飛ばし「愚か者!」と一喝して遣りたい。

「其れは明日のお楽しみー! 明日は明日の風が吹くんだから!」

 るんるんと云う効果音が背後に現れそうな程上機嫌な梨乃さんを見るのは、今思えば数少ない事態で、詰まり此の時の俺は至極勿体無い事をしている訳であり、其の意味でも俺は上段蹴りを繰り出したい衝動に駆られる。右足がうずくぜ。

「待ち合わせはどうします?」

 と、面倒臭そうに、否、面倒臭がっていると思わせたい素振りで梨乃さんに問う俺の態度を思い出すだけでむしが胃から食道に掛けてを駆けずり回っている様な気分に為る。非常に不愉快だ。そんなんだから俺は数日後、梨乃さんを傷付け、そして俺自身に決して消える事も癒える事も無い心痛を伴う過ちを犯しちまうんだ!

「ウルフは何処等辺に住んでんの?」

 梨乃さんは俺の胸糞悪い態度を全く意に介さずに返答した。斯う云う時、梨乃さんの大雑把な性格は助かる。……まぁ、其の大雑把な性格も、演技である可能性は否定出来ないのだが。

「えっ!? 本当に? すっごい近いよ! じゃあさ、あそこ分かる? あの団地の真ん中の公園!」

 俺が姉の住むアパートの住所を町名迄言うと、梨乃さんは更に機嫌を良くし、場所を指定した。くだんの公園は、姉のアパートから自転車で数分足らずの場所に在り、未だ新参者である俺も、辛うじて其の場所を理解出来た。

「OK? OK! じゃあ其処に、9時集合ね!」

 右手のたなごころの前に親指を隠した左手を示し、9の手振りジェスチャーをする梨乃さんを見て、俺は内心微笑んだ。何処迄可愛らしいんだ、此の人は。

「朝ですか? 早いっすね……」

「何言ってんの?! 大して早くないでしょ! 平日と比べたら!」

「ま……まぁ、そうっすけど……。休日はゆっくりしたいなぁ……、なんて」

「甘ったれてんじゃないわよ!!」

 俺が言い終わる寸前に梨乃さんの怒号がかっ飛んだ。

「此のあたしのおとも出来んのよ!? 『ぎょうこうです有り難いです』位の気分で居なさいよ!!」

「はぁ……」

 俺はうんざりとした仕種で遣り過ごし、帰路に就こうとした。

「んじゃ、明日の9時ですね。オレ、今日はもう帰りま」

「あっ、一寸待って!!」

 梨乃さんは去り行く俺の左腕を掴み、思い切り引っ張った。進行方向とは真逆のモーメントが加わった俺の肩が悲鳴を上げたが、其の叫びは梨乃さんに届く筈も無い。

「な、何すか……」

「明日、自転車チャリ移動だからね! タイヤチューブに空気エア入れてチェーン張って潤滑油アブラも差しといてねっ!」

「は、はぁ……」

「じゃっ、宜しくね!」

 俺を引き留めた梨乃さんは、俺を差し措いて部屋を後にした。後に残された俺は、夕陽が差し込む副部室の中で、何故梨乃さんは其れ程迄に自転車の手入れメンテナンスを念入りにする様にことづけたのだろうか? と云う疑問を抱える事と為った。

「おーい、柿手君? 未だ帰らないかい?」

 正部室での活動を終え、言海先輩と共に部室を施錠しようとする宮殿部長が俺に声を掛けた。果たして、彼等正式な活動をしている側には他の部員は居るのだろうか? そう思ったが、抑も半幽霊部員側の人員の全貌も知らないのに、正規部員側の人員など知る由も無く、主に精神面で明日に備えておきたい俺は即座に返事をし、金曜日暮ひぐれの県立学科技術高校を後にした。


 何故、梨乃さんは俺に自転車のメンテを念入りにする事を命じたのか。其れは、朝が来て、俺が待ち合わせ場所に訪れれば、自ずと理解出来るのであった。



 土曜の朝、俺が眼を覚ましたのは朝8時を若干超過オーヴァーした頃だった。前日の夜、俺は「良く良く考えれば、此れは人生初の『デート』と云うものではないか?」と云う事実に漸く思い至り、制御し様の無い昂りに包み込まれた所為で中々寝付けなかった。中学時代に陽香と出掛けた事は有るが、其の時は男女2人きり、と云う事は少なくとも俺は全く意識しておらず、飽く迄友人と遊びに行く、程度の感覚でしかなかった。と云う事は、矢張り実質的に、異性と休日に2人きりで出掛ける、と云う経験は俺の人生に於いて初の事態であり、遠足前夜の小学生男子、或いは友人達とオリエンタルランドの敷地へ向かい夢の国の住人に為る前日の中学生女子と同様に、俺がすんなりと入眠出来なかったのも致し方あるまい。

 布団を抜け出し、寝惚ねぼまなこに覚醒しきっていない頭脳でリビングに向かった俺は、其処に陽香の姿を見た。俺は取り立てて驚く事も無く、陽香に無愛想な声で「おはよう」と投げ掛けた。陽香が休日に姉の部屋アパートに現れる事は恒例と為っていたので、寧ろ此奴が居なかった方が、俺は違和感を覚えていただろう。

「おはよっ。あ、ねぇ得附、今日何も予定無いでしょ?」

 26インチの松下電器パナソニック製液晶テレビから俺に視線を映した陽香は、ロールパンを齧り乍ら訊いてきた。

「何だよ失敬だな。まるで俺が休みに何もする事が無い暇人みたいじゃんか」

「え、だってそうでしょ?」

「ぅぐ……。でも今日は先約が有るから、悪いけど」

「あ、そうなの? 新しい学級クラス友人ヒトとか?」

「否、梨乃さんだけどね」

 言い終わってから、後悔した。

「え……梨乃、さん……?」

 陽香の頬が見る見る紅潮していく。俺は思い知った。一度放った発言は、二度と「無かった事」には出来ないのだ。

「ね、ねぇ……梨乃さんと何処行くの? 何するの? ってか、梨乃さん、あれ以降私に関わって来ないんだけど、どうなってんの?」

 知らねぇよ! 俺が言えるのは其の一言だけだった。何時の間にか、俺が陽香に嫉妬される立場に為ってんだが、一体どう云う事だよ? 可笑しな話だ、実に。

「……其れは本人に訊いて呉れ。所で、お前は何か用事有ったのか?」

「え? ……いや、もし得附が暇なら、米国ハリウッド映画で面白そうなの公開しやってるから観に行かない? って思ったんだけど」

 無愛想に言う陽香。矢張り俺は、言わんでも良い事を口にしてしまった様だ。

「良いよ、別に。どうしても、って云う訳じゃ無いしさ。梨乃さんと何処へでも行って何でもすりゃ良いじゃんか!」

 やっぱり、此の状況は可笑しいぜ。何で俺がねたまれてんだよ。俺は此の環境から抜け出したくて、一旦自分の部屋に戻り、手早く着替えて身支度を済ませると、焼きそばパンが入った個装ビニール袋を引っ掴み、足早に家を後にした。

 待ち合わせの時間迄は少々早い。俺は、昨日梨乃さんに言われてはいたものの未だ遣っていなかった自転車のメンテを敢行する事にした。時間的余裕が無ければ、最悪其の儘出発してしまえば良いや、と思っていたのだが、未だ午前8時20分だ。言い訳の理由が無い。仕方無い、時間潰しだ。そう思って、玄関から持って来た空気入れを用意セットした。


 午前8時半、俺は団地公園に到着した。前後のタイヤに空気を注入し、チェーンに呉工業のクレCRC5‐56を吹き付けるだけだったので、然程時間潰しにも為らなかった。チェーンの張り方は、今一つ良く分からないし、姉の家には碌に工具も無いので諦めた。

「……あ」

 焼きそばパンをしゃくし終わった頃、ふと声が聞こえたので、其の出所に顔を向けると、

「は……早いじゃん」

 ボーイッシュな中にも可愛らしさを備えた服装の梨乃さんは、誇張では無く、輝いて見えた。後光が差していた。然し、当の梨乃さんの表情は浮かない。俺は得体の知れない違和感を覚えつつも、青い塗料ペンキが塗ったくられた木製のベンチから立ち上がり、梨乃さんに声を掛けた。

「どうしたんですか? オレ、未だ来ちゃいけなかったっすか?」

 梨乃さんの反応から、俺が梨乃さんより前に待ち合わせの場所に居た事、詰まり先を越された事が面白くないのだろう、と俺は予想して、訊いた。梨乃さんは俺がそんな予想をした事に勘付いた様子で、自分の心情を読まれた事が輪に掛けてしゃくさわったらしく、

「う……煩いっ!! ウルフの癖にっ!」

 と理不尽な罵詈ばりを飛ばしてくる。俺は肩をすくめて遣り過ごした。そんな俺の姿を眼に入れた梨乃さんは猶更怒りを燃やした様で、肩をいからせ全身で憤りを表現する。背後にはメラメラと燃焼する朱色の火焔ほのおが幻視出来る。

「えっと……じゃあ、済いませんでした」

 俺が御座成おざなりの代表例の様な謝罪を口にすると、梨乃さんは背後の火の手を消し飛ばし、

「良いわ。許す! じゃあ行くわよ!!」

 と宣誓し、俺に自転車に跨る様に促した。俺が愛機のサドルに身体を預けると、梨乃さんはリアキャリアに飛び乗ってきた。

「え、わ! り、梨乃さん?!」

 幸い、両脚スタンドを掛けてあったので、転倒する事は無かったが、其れでも身に危険を覚える程の揺れがブリヂストンサイクル製のアルサスを、そして其れに乗る俺を襲った。俺が、梨乃さんの登場時から感じていた違和感の正体に気付いたのも、丁度此の瞬間タイミングであった。

「あの、梨乃さん、自転車は……?」

 俺の肩越しの梨乃さんはハテナを顔面一杯に表示し、

「何が? 此れでしょ、チャリは」

 と俺達が乗っかっているアルサスを指差した。

「否、そうじゃなくて、梨乃さんのチャリは?」

「へ? 無いわよんなもん。真杜ん家に行けば在るけど」

「……あー……」

 俺は梨乃さんの意図を漸く理解し、溜め息交じりの母音を漏らした。

「梨乃さんはオレの後ろに乗って移動するんすね……」

 俺はてっきり梨乃さんも自転車に乗って移動し、2台が並走する様な形式で進行するものとばかり思い込んでいた。然し、梨乃さんは初めから、アルサスのリアキャリアに座り、2人乗りをしようと云う魂胆はらだったのだ。だから昨日、帰り際俺に自転車の手入れを命じたのだ。唯一の移動手段に不備が無い様に。

「そうよ? 文句有る?」

 至極当然、と云う表情で梨乃さんは言った。文句、と云うか、自転車の2人乗りタンデムは道交法か条例辺りに引っ掛かるであろう違反行為だし、何より梨乃さんは俺の労力を頼りに移動しようとしているのだ。二つ返事で納得出来る程、俺は広い心も体力的な余裕も持ち合わせてはいなかった。

 然し梨乃さんに刃向かっても、完全なる時間の無駄にしか為らない事を俺は知っていた。何と云っても彼女は、猪突猛進直情径行唯我独尊の五輪梨乃なのだ。現代に生きる人類として最低限の賢さは持ち合わせている、と自負する所の俺は、だから数分後、梨乃さんの気配を背中に感じ乍ら、普段より明らかに強い踏力でペダルを漕いでいた。


 正直言って、此れから先、肝心かんじんかなめのお出掛け部分を、俺は余り覚えていない。断片的に、ショッピングモールをぶらついたり、交番の前を通り掛かったら警官に注意されたり、大掛かりな噴水の在る公園で休憩したりした記憶が残るだけだ。唯一鮮明に残っているのは、正午過ぎ、昼食を取りに訪れた若干洒落たラーメン店で食事中に聴いた有線放送のとある曲に関する事だった。

 其れ迄賑わっていた店内は、各々の客達が思い思いに食べ、飲み、喋っていたのだが、天井に数個、散り散りに埋め込まれたスピーカーからふと、或る曲が流れて来た。すると次第に客が発生させる物音が減っていき、軈て曲の終盤では客達は完全に曲に聴き入っていて、店内には店員が器を洗う音しか響いていなかった。男声の弾き語り曲で、間奏に入るハーモニカが良い音色を聴かせる曲だった。俺は“歌”と云うのは途轍も無い力を持っているんだなぁ、と改めて思い知らされ、精神的カルチャー衝撃ショックを受けたのだ。梨乃さんも同感だった様で、食後暫くは其の話題で持ち切りだった、と記憶している。


 俺が何故、記念すべき梨乃さんとのデート、と云って差し支えない此の日の出来事を其れ程覚えていないか、と云うと……緊張や肉体的疲労の所為も有るだろうが、矢張り何より、俺が此の翌日、梨乃さんに対して試みた愚行に就いてが脳内を占領し、記憶定着の邪魔をしたからなのだろうか。


 発端は、土曜の解散間際だった。一日中、梨乃さんをリアキャリアに搭載して自転車を漕いで移動した俺は、意外な程に疲弊していた。団地公園に戻る道すがら、俺はだんだんと苛付き始めていた。何故、土曜の休日に、俺はこんなにも疲れてるんだろう?

 其れも此れも、全ては梨乃さんの所為である。何しろ今日の外出は、梨乃さんの発案に因るものなのだから。俺はペダルを踏み込む力に薄いうらみを感じつつ、永久に続く両脚の回転運動ペダリングに徒労を感じていた。

「ありがとねっ! 今日は楽しかったよ。また機会が有れば、こんなのも良いかもね……」

 団地公園で別れ際、梨乃さんはそう言った。梨乃さんに取っては社交辞令を含有させた、何の気無しに放った言葉だったのかも知れないが、疲労から梨乃さんに苛付きを覚えていた俺は、前日覚えた他人の発言から端を発した理由の無い嫌悪もぜにして、苛立ちの炎を燃え上がらせた。其れはあっさりと、いとも容易たやすく、俺の梨乃さんに対する好意を凌駕してしまった。

 梨乃さんになんかの仕返しをして遣りたい……そんな事を、思ってしまったのだ。

 そして、次の瞬間、俺はあの台詞を、口にしていた。


「明日とか、どうですか?」


「……えっ?」

 梨乃さんは眼を丸くした。行き成り、俺の方から誘いを掛けるとは思っていなかったのだろう。しかも翌日に、だ。俺は冷え切ってい乍ら何処か冷静を欠いた頭脳を意識しつつ、大して考えてもいない言葉フレーズを口に乗せていた。

「いや、梨乃さんが空いてれば、の話ですけど。オレも、今日は楽しかったし……。もっと梨乃さんと話したいし……。って、一寸恥ずかしいっすけど……」

 良くもまぁ、こんな即興のインスタント軽口がペラペラと放てるものだ。俺は自分に半ば呆れてもいた。……今思えば、此の時の俺の言葉は、偽り等ではなく、正真正銘濁りの無い本音だったのだが、其れに気付けるには、もう少し時間が要った。

 梨乃さんは赤く為って、然し口調は相変わらず、

「い、良いわ! アンタがそんなに言うなら、明日も付き合って遣るわよ!!」

 と言い放ったが、内から湧き上がって来る、そこはかとない嬉しさを隠しきれてはいなかった。俺はそんな梨乃さんを見るに至り、自分が此れから為そうとしている事に対して一抹の罪悪意識を覚えたが、此れは梨乃さんに対する復讐なんだ、と自らに言い聞かせ、罪悪感を振り切った。

「じゃあ、明日の朝、此処で良いですか? そうですね……、今日と同じ9時にしましょうか?」

 俺の提案に、梨乃さんは僅かに眉をひそめ、

「でも……ウルフ、休みの日は朝ゆっくりしたいって……」

 と懸念した。

「あ……、覚えてたんですね……」

 俺の心中に、後ろめたさがじわじわと広まってくる。大雑把に思えて、意外と繊細な人なのだ、五輪梨乃と云う人は。今だからこそ俺はそう言えるが、此の時の俺はそんな事は一切合切がっさい解っていなかった。

 然し俺も、此処迄来て退くに退けなかった。薄ら寒い心で

「いえ、良いんすよ、9時にしましょう」

 と声を絞り出した。最早俺の胸中に復讐心や敵対心、嫌悪感等は無く、唯々、意地と自尊心にって突き動かされていた。乾いた心で俺は、極力演技臭さを抜いた微笑を顔面に張り付けた。梨乃さんは向かいで明朗な声で、

「ん、分かった、9時ね。了解!」

 と答えて、赤いW41Kに何やら打ち込んでいる。スケジュール帳代わりだろうか?

「……何――」

 俺は無意識に呟いていた。「何してんだ、オレは」と言い掛け、慌てて口を噤んだ。其れを口にしたら俺の負けだ。

「え?」

 梨乃さんが俺の呟きを耳に入れ、訊き返してきた。何で聞き流して呉れなかったんだ、と一瞬思ってしまった俺は、矢張り相当、反吐ヘドが出る程に自分勝手な奴なんだろう。

「な……何しよっかなぁ、明日。何かしたい事有ります?」

 苦し紛れにしては上等だろう。俺は梨乃さんに話を振った。

「うーん、何か有るかなぁ。……てか! アンタが発案者プロポーザーでしょうが! そう云うのは言い出しっぺが責任持って考えんのよ!!」

「ご……もっとも……」

 俺の苦し紛れは、思ったより上手くなかった様だ。梨乃さんの言葉に納得し乍らも、一抹の面倒さを感じてしまった俺の心理は、どれだけ浅ましいのだろう。人の心は万華鏡とは、そう云う意味で全く良く云ったものだ。同時にあらゆる側面を、感情を含有している。

「か……考えておきますよ。じゃあ、今日の所は此れで……」

 一抹の面倒臭さに背中を押された俺は、梨乃さんに別れを告げた。自転車には乗らず、押して歩き、帰路に就こうとする。

「うん……じゃあ、明日ね」

 そう言った梨乃さんも、一歩踏み出し、歩き出す。俺は先に公園の出入り口から出て、数m後を梨乃さんが追従した。公園を出て、二度交差点を過ぎても、其の関係性は変わりなかった。

「ウルフ、家、こっちなの……?」

 梨乃さんが後ろから声を投げ掛けてきた。俺は振り向いて、

「ええ、後一寸行った所です」

 と言った。愛想が悪く為らない様に気を配り乍ら。

「え……そうなの!? あたしの、ってか真杜の家も直ぐ其処なのよ!!」

 自分が日々寝泊まりする住居すまいを、素直に自分の家と言えない梨乃さんを、俺はびんだと思った。上から目線の同情じゃない。心からの切なさを伴って、俺は梨乃さんを不憫だと思った。

「そう……なんすか」

 俺の返答は心情に引っ張られてぎこちなく為る。益々淀んでゆく俺の心は河川底質ヘドロの様だった。そんなに心を病むならめれば良いのに。今ぐ「明日の約束は無かった事にして下さい」って言えば良いのに。

 此の時の俺には、其の選択肢は見えなかったのである。

「あ、ほら! アレよアレ!!」

 梨乃さんが一際明るい声を上げる。俺は梨乃さんを直視出来なかった。其の声が、言動が、眩し過ぎて。辛うじて視界に入れた梨乃さんの右人差し指の先を見遣ると、道幅5mの市道沿いに構えられた一軒家が眼に入った。其の家の右側にはつきめ駐車場が、左側には何処かの会社の倉庫が在る為、必然的に其の一軒家のみが候補として挙がった。

 真杜さんの家は、豪邸ではなく、かと云ってせせこましい分譲住宅と云う風でもない。中庸な一般的2階建て住宅、と云った感じだ。家の周囲を取り囲む白く塗られた塀の一部が切れていて、其処が車の出入り口と為っている。自家用車は其処から敷地内に入り、邸宅の1階を部分的にえぐった様な状態で造られた車庫に収まる事に為る。車庫の入り口の横には片開きの門扉が備わり、其の先に玄関扉が在った。

 梨乃さんは、きぃ……とCRC5‐56一吹きワンプッシュした方が良い様な音を立てて開いた門扉の中に入り、

「此処が真杜ん家! あたしが住んでる、家」

 と紹介して呉れた。俺は最早じっとしているのが苦痛な程の精神状態に陥っていた。

「本当に近いっすね。俺の姉貴のアパートも直ぐ其処なんすよ。……じゃっ」

 御座成りな、何も込められていない台詞を口にし、俺は逃げる様に立ち去った。

「あっ、ちょ、ウルフ……?」

 梨乃さんの怪訝そうな声が耳に届いたものの、俺は其れを意図的に脳内から排斥し、アルサスに飛び乗り、立ち漕ぎダンシングした。其処から姉のアパート迄は数100mの距離だったが、信じられない程早く到着した。俺は駐輪場にアルサスを安置し、肩で息をし乍ら俯き、地面のアスファルトを見詰めた。


 其の後、何を喰ったのか、陽香は晩餐ばんさんの場に居たのか、どんなテレビ番組を観て、何時とこに就いたのか、定かではない。俺は罪悪感相手に孤独な格闘を繰り広げており、取っ組み合いに必死だったからだ。がっぷり四つの取り組みは、俺がノンレム睡眠に落ちる迄続いた。



 翌朝、俺が眼を覚ましたのは10時前だった。俺は無言で陽香にEメールを送信した。即座に返信が来て、身支度を整えた俺は、小一時間後、陽香と共に繁華街へ向かう私鉄系の路線バスに揺られていた。


 俺が考えた、馬鹿で、下衆ゲスで、クズで、阿呆アホで、最低で、最悪で、わいしょうで、卑屈で、卑怯で、冷徹で、我が儘で脳無しで間抜けで自意識過剰ジカジョークソれで――……制止が入ったので此れ位にするが、兎に角、俺のくわだてた梨乃さんへの復讐、乃至ないしささやかなほんは、斯うだ。


 俺は梨乃さんに対して架空の待ち合わせをし、其れを意図的にすっぽかし、梨乃さんに待ちぼうけを喰らわす。そして俺は陽香と2人で街の映画館へ出掛ける――。


 そんな筋書きシナリオだ。本当に、どうしようも無い野郎だ、俺は。高確率で、梨乃さんとの交友が断絶される、余りにもハイリスクな、其れでいて誰も得しないノーリターンな計画プランだ。無論、待ち惚けを喰らっている間、俺が他の女友達ようかと遊んでいる事を、梨乃さんは知る由も無い。当て付けめいた、俺の完全なる自己満足だ。

 そして俺は、罪悪感と後ろめたさと後悔を既に抱え込んだ儘、其れを決行したのだ。救い様が無い。……救われるべき価値も無い。

 あまつさえ、其のひつの故意、もとい100パーの故意に対する懺悔の念から、折角の日曜の陽香との映画鑑賞及び外食、繁華街散策を俺は完全なる心ここに在らず状態で過ごし、帰りのバスの車中で陽香に、

「得附、今日、つまんなかった……? 其れとも疲れてる? 大丈夫?」

 と、あらぬ心配迄させてしまう始末だった。前日の土曜、映画の話を出したのは陽香だったが、今日誘ったのは俺の方なのに。――嗚呼、今思い返しても胸が痛む。キリキリと引き攣れる様な痛みだ。俺は此の謀反で、一体何人の心をけがし、踏みにじったのだろう。悔やんでも悔やみ切れない。後悔先に立たず、と云うのは紛れも無い、永遠の真理だ。

 俺は本当に、地獄にちた方が良いヤカラなんだ――。


 午後4時過ぎに、俺は帰宅した。其の前から徐々に降り出した雨は、どんどん雨足を増して、午後9時と為った今や、豪雨と云って差し支えない状況に為っていた。俺は何気無い風を装って、コンビニに行って来るとだけ姉に言い残して部屋アパートを出た。風も強く、暴風雨と為った環境下で安いビニール傘が俺を護れる訳も無く、コンビニで取り敢えず120円也の粒ガムを購入し、帰路に着く頃にはお猪口ちょこ状態に陥り、傘としてのていを為していなかった。潔く雨に降られる事にした俺の足は、然し姉のアパートとは異なる方角へと向いていた。団地公園に着いた俺は、辺りを見渡す。夜のとばりが下り、風雨にさらされた公園には当然乍ら人影は無く、中央に立つ外灯の青白い光がか弱く、幾つか在る遊具を照らすのみだった。俺は雨に濡れ乍ら一息吐き、家路に就いた。「犯人は現場に必ず現れる、戻って来る」と刑事ドラマで耳にした事が有る。其れが真実かは別として、俺は其の犯罪者の心情心理が、何と無く理解出来てしまった気がした。

「あれ?」

 俺の両眼は、薄暗い市道の先に、仁王立ちする人間の姿を捉えた。傘は差していない。偏屈な奴だ、と自分を棚に上げて思っている内に、其の人物の人相が視認出来る位置迄来ていた。

「真杜……さん?」

 たらいを引っ繰り返した様な雨の中、黒っぽい服を着た真杜さんは、ずぶ濡れで僅かに俯いている。濡れそぼり、垂れ下がった前髪に隠された其の両眼が、三白眼さんぱくがんに為って俺を見詰めている事に気付いたのは、何か声を掛けようと真杜さんの射程距離内テリトリーに進入した頃だった。俺は漸く真杜さんから立ち上る、殺気めいた雰囲気を感じ取り、後退あとずさろうとした。

 が、其の刹那、


 俺の身体は宙を舞っていた。


 偶然とは、二度起きないからそう呼ばれるのだ。今度ばかりは奇跡的に受け身を取る事も出来ず、俺は背中からしこたま舗装路アスファルトに身体を打ち付けられた。真杜さんのせめてもの情けで、襟首を握り締めて呉れていたお蔭で辛うじて後頭部が路上に激突する事は免れた。

 突然の出来事だった。

「な……何、するんです……?」

 酷い驚きと、全身至る所から送られてくる痛覚に、俺は立ち上がる事が出来ず、呻きつつ無様に舗装路上に転がるしかなかった。然し、俺はのうの片隅で、何故真杜さんがこんな暴挙に打って出たのか、胸に手を当てる迄も無く、理由が想像出来ていた。頬に墜ちる雨粒が、自棄やけに強く感じる。

 雨に降られ乍ら、黙った儘立ち尽くし俺を見下ろしていた真杜さんだったが、ゆらりと身体を動かし、俺を跨ぎ、俺の下腹の辺りでしゃがみ込んだ。真杜さんの黒髪から、雨の雫が俺に滴って来た。其の儘両手を伸ばし、俺が着ているパーカーの胸座むなぐらを掴む。襟元を引っ張られた俺は、真杜さんの怒りに震える顔面と相まみえる事と為った。

 はぁはぁと、荒く息を吐く真杜さん。当然、俺を背負い投げただけでは息が上がる程にへいしたりはしないだろう。どちらかと云うと、堪え切れないふんの所為で息が漏れている、と云った方が正確だ。激烈な感情が揺らめく真杜さんの瞳を、俺は直視出来なかった。

「……お前、梨乃とあの公園で待ち合わせしたそうだな」

 低く、抑えた声で真杜さんが訊く。俺は気圧されつつも、辛うじて答える。

「……はい……」

「何故、来なかった?」

「あ、そ……其れは……」

「梨乃は!! 朝の9時からずっと!! ずっと公園で待ってたんだよ!! お前の事を!!!」

 真杜さんの顔が、一際ひときわ大きく俺の眼球に映し出される。鼻先が触れ合いそうな距離だ。

「……済いませんでした。急用が」

「メールの一つ位入れられるだろう!!? 私は、そんな言い訳が聞きたいんじゃないんだよ!!」

 俺は、此処で初めて、実感を伴った後悔を覚えた。胸元を掴む真杜さんの手が、震えている。

「……此の雨の中で、此の気温だ。梨乃は、今、高熱出して寝込んでる」

「…………え?」

 俺の頭脳は真っ白に為った。

「こんなに、雨、降ってるのに、待ち続けてた……んですか?」

 此の台詞を紡ぐのに、俺は数秒を要した。其れ程の混乱パニック状態にあったのだ。唇が戦慄わなないて仕方無い。

「ああ。お前を信頼してたから、な」

「そんな…………」

 俺は視力を失った。眼の前が真っ暗に為り、何も見えない。もしも俺が自動小銃を所持していたら躊躇無く頭蓋を撃ち抜いただろうし、脇差に短刀が収まっていたら、かいしゃく無しで即座に割腹していただろう。後悔の余り、自殺したくなったのは、此れが生涯で初めてだった。

「もしも、お前が意図的に梨乃を待たせたんだとしたら、私は何をするか、分からないぞ?」

 俺は黙って眼を伏せた。此の時は、もう既に真杜さんは俺に手を出していて、発言に矛盾が生じている事に就いては、微塵も思い至らなかった。

「……此の瞬間、私のお前に対する信頼、信用は崩れ去った。其れで、良いな?」

「……はい」

 俺ははい錯愕さくがく駭魄がいはくに打ちひしがれていた。頬を、用捨ようしゃしゃく無く清冽せいれつな雨粒と生温かい涕泪ているいが綯い交ぜに為り流れ落ちていく。軽い気持ち、と云うか深く考えていなかった謀反こういが、こんな結果を招くなんて…………。

「早く私の家に来い。否、行け、か。兎に角、梨乃に顔を見せろ。其れが、今お前に出来る、贖罪つぐないだ」

 真杜さんが言い終わると同時に、俺は身体をね起こした。必然、俺に馬乗りに為っていた真杜さんは弾き飛ばされ、派手な音を立てて雨水の躍るアスファルトに尻餅を突いた。

「って……」

「あ、す……済いません!!」

「否、大丈夫だ。私は良いから早く行け!」

「は……はいっ!!」

 俺は全力で駆け出した。一刻も早く、梨乃さんに謝罪したい。全身がバラバラに為るんじゃないか、と思う程、我武がむしゃに走った。無駄な動作が多く、陸上競技的な面から見たら噴飯ふんぱんモノな姿勢フォームしゃ二無二にむに走った。「あれ? そう云えば彼奴、私の家知ってんのか?」と云う真杜さんの呟きは、俺の耳に入る事は無かった。

 俺は、最低な奴だ――。

 ていを垂れ流し、遥か上空から自由フリー落下フォールしてくる水滴に全身を撃たれ乍ら、俺は一目散、真杜さんの家へひた走った。


 門扉を乱暴に開け放つ。悲鳴の様な金属音が雨音の中に響いた。俺は構わず玄関扉にかぶり付く。何も考えず把っ手ドアノブを引くと、何事も無いかの様に、扉は注文に対し忠実に開いた。今思うと可成り不用心だと思うのだが、其の時の俺にはそんな余裕有る発想は無い。玄関でれつつも靴を脱ぎ捨てると、玄関マットを濡れそぼった靴下で数回、地団駄を踏む様に踏み付け、其処で俺は動作を停止した。そうせざるを得なかった。

「階段上がれ!! 2階の角部屋だ!!」

 背後から届いた真杜さんの声に俺は天啓を受け、眼の前に伸びる階段を急ぎ焦り駆け上がった。階下では、恐らく真杜さんの両親なのだろう、「何だ何だ?」「どうしたの?!」と云う様な騒乱が繰り拡がっている様だ。当たり前だろう。俺を追って来て呉れた真杜さんに階下の騒ぎは一任し、俺は階段を上り切った。梨乃さんの部屋は、扉に掛けられた手作り感溢れる表札のお蔭で直ぐに発見出来た。小学生時分の作品だろうか。こんな夜分に唐突に、他人ひとの家にずぶ濡れで押し掛け(其れ以前に不法侵入なのだが)、挙句ドタバタと駆けずり回って申し訳無い、と思いつつも足音を構わず、俺は梨乃さんの部屋へ突進した。

 部屋に入ると、常夜灯、俗に云う豆球がいているだけだった。だから、仄暗い橙色の空間が在るだけで、梨乃さんが何処に居るか、眼の慣れない俺には分からなかった。然し、行き成りのちんにゅう者に室内の空気が一挙に張り詰めるのは、雨と汗と涙にまみれた頬が感じ取った。

 俺は其処で漸く僅かだけ落ち着きを取り戻し、一度深呼吸をした。

「だ……誰?」

 緊張感を伴った、硬質な声が届く。が、そんな梨乃さんの声は、熱を出してせっている所為か、何処か弱々しい。俺は其の声にも云われぬ心痛を感じつつ、丁度眼の前に垂れ下がっていた電灯のスウィッチに繋がれた紐を、意を決して二度、引き下ろした。

 ぱっ、と明るくなる室内。急激な輝度ルクスの上昇に眼球は付いていけず、俺の視界はホワイトアウトした。

「え、ウルフ……? 何で……」

 虹彩ダイアフラムを絞った俺の眼球が捉えた梨乃さんは、ひたいに冷却湿布を貼り、掛け蒲団ぶとんくるまりつつ寝台ベッドに横たわっており、顛顔でんがおで俺を見上げていた。

「否、あの……」

 俺は言葉に詰まった。何をどう説明すれば良いのか、此処へ来て出来損ないポンコツの俺の頭脳は解答こたえを出せなかった。正しく其の生物の様に小賢しい俺は濡れ鼠と為って、梨乃さんの部屋の板張りの床フローリングに水溜まりを作っている。其の様子を見た梨乃さんは駭然がいぜんの面持ちで俺に声を掛けた。

「あれ? え?! ウルフ、ずぶ濡れじゃない! 風邪、引いちゃうよ?」

「!! 梨乃さん…………」

 俺は猛烈に、強烈に、梨乃さんを抱きすくめたい衝動アージュに駆られた。此れ程の感覚は、生まれて初めてだった。が、俺は未だ其の域に達していない。今の俺に其れをする資格は無い。其処は自覚していた。

「…………え、ど、どうしたの……?」

 俺の中の接点スウィッチ印加されたかの様に、目頭に熱が込み上げ、不意に落涙する。湧き上がる衝動が涙と云う形式で溢れてきて、仕方無かった。もう、どうしようも無い。俺は自らを悔い、責め、唯只管ひたすら、棒立ちの儘、泣いていた。

 梨乃さんが困惑している。どうすれば良いのか、対処に苦慮しているのが見て取れる。でも、コイツが止まんないんすよ。お願いだから、俺に関する事で、俺を見て、そんなツラしないで下さいよ……!

「梨乃、一寸良いか?」

 真杜さんが部屋に入って来た。両親を遣り過ごし、ドアの外で様子を窺っていた様だ。

「あ、うん……」

得附コイツ、借りてくぞ」

 真杜さんは濡れしょぼたれた俺の左腕を掴んだ。飽和状態の袖の布地からじんわりと伝わる真杜さんの掌の体温が、俺に何よりの安心感を与えて呉れた。梨乃さんは目まぐるしい展開に驚きつつも、

「うん、良いけど……」

 と呟く様に応じた。俺は終始むせび泣き乍ら真杜さんに腕を引っ張られ、梨乃さんの部屋から強制退場させられた。真杜さんが木製のドアをカチャリ、と閉める。

「私が連れ帰ってから、ずっとあんな感じだ。何か、梨乃アイツらしくないだろ?」

 真杜さんは、俺を責めている。なじっている。そう感じた。お前が小賢しい、自己満足的な復讐を履行したばかりに、梨乃は元気を失くし、何時もの様に振る舞えないのだ、と。

 否、解っている。真杜さんは決してそう云う意図で発言した訳では無い事など。真杜さんは何故俺が待ち惚けを喰らわせたのか、理由は知らない筈だ。だから、復讐と云う概念は真杜さんの中には存在しない筈である。其れに多分、真杜さんは性格的に、そんな遠回しな詰問きつもんはしないと思われるし、万一俺の真意を知っていたとしたら、俺は多分リアルに息の根を止められている。

「……どうだ? 謝ったのか?」

「……いえ……」

「じゃあ、お前がした事が、どんな事だったのか、お前自身は分かったか?」

「……はい……」

 俺が呼気を漏らす様な声量で一言ずつ返事をすると、ふぅ、と真杜さんは息を吐いた。

「良いか、良く聞けよ」

「……はい」

 真杜さんの声の調子トーンが変わった。俺はゆっくりと大気を吸い込み、ひくつく腹筋に圧を加え、肚を据えた。

梨乃アイツの、他人ヒトを信じる純粋さを、めちゃいけない。彼奴アイツは、他人を疑わないんだ。信用するんだ、愚直な程に。だからこそ、或いは必然か、傷付いた事も数知れない。其れが彼奴の心の闇の一因にも為っている。まぁ、其れだけの所為ではないが」

 斜め下を向いていた真杜さんは一拍置き、視線を天井の方へ向ける。

「そして、彼奴は学んだ。心の底から信じるのは、自分がりすぐった奴だけにしよう、と。そして、自分が信じるに値すると選りすぐった奴に関しては、絶対疑わない様にしよう、と」

 俺は思った。梨乃さんは、何て繊細で……何て哀しい人なんだろう。

 きっと、不器用なのだ。

 痛い程に過度な純粋は、時に不器用と為って、当事者の人生すら左右してしまう。

「…………だからこそ、私達は、彼奴を、裏切っちゃいけない」

 俺の瞳孔が、微かに開いた、気がした。

「彼奴に信じられた者は、絶対に彼奴を裏切っちゃ駄目なんだ。そう云う義務を負うんだ」

 真杜さんの言う事を、理解出来ない、とか、詭弁だ、と思う方も居るだろう。恐らく、常人には理解し難い筈だ。然し、俺には痛い位、良く分かった。鋭利に、深く、突き刺さる程に。

「まぁ、私も昔に、梨乃を傷付けた事が有ってな。そう云った苦い経験から学び、獲得したものなんだ」

 真杜さんは、苦み走った微笑みを浮かべ、そう言った。

「其れが分かるなら、私はお前を、ゆるして遣る。まぁ、私が赦さんでも、梨乃はお前と以前まえと何も変わらず接するだろうけどな」

 真杜さんは苦笑する様な面持ちの儘、そう続けた。

「…………はい」

「ん?」

「オレ、もう梨乃さんを欺いたり、傷付けたり、しません」

「……そうか」

「絶対に……!」

 俺は言った。其れは、宣言と云って差し支えないものだった。

「……分かった。私はお前を、赦すよ」

「真杜さん……」

「其れがどう云う事か、解るよな?」

「はい」

「もう二度と、過ちは繰り返すな……!!」

 たじろぐ程に真摯な瞳で、真杜さんは俺を見詰めた。だが俺も、もう覚悟ハラを決めたのだ。精一杯の気持ちを込めて、真杜さんを見返した。

「……うん」

 真杜さんは俺から視線を外し、眼を瞑った。ややあって眼を開くと、

「じゃあ、今日の所はもう帰れ。全身ずぶ濡れじゃ、お前も風邪を引き兼ねん」

 と言った。俺は真杜さんの前髪から垂れる水滴を見逃さず、

「真杜さんも、ですよ」

 と返した。真杜さんは一瞬驚いた顔付きをした後、思い出した様に微笑んで、言った。

「ああ、そうだな」

 俺達は暫し、笑い合った。俺の眼からは既に涙は引いていた。

「最後に、彼奴に一言、掛けて来い」

「はい、そうします」

 真杜さんに背中を押され、俺は再び梨乃さんの部屋に入った。

「……ねぇ、何の話だったの?」

「否、何でも無いっす……」

「其れより、さっきどうしたのよ? 泣いてたけど……」

「あ、否、その、あれは……、一寸、不安定だったんです、気持ちが」

「そう、なの? まぁ良いけど……」

「……梨乃さん」

 俺は意を決した。

「今日、待たせてしまって、……本当に、済みませんでした!」

 俺は辞儀をした。恐らく、今迄の人生で最も美しく、角度が決まっている辞儀だったろう。

「や、止めてよお辞儀なんか。頭上げてって」

 俺が顔を上げると、優しく愛らしい笑顔を浮かべる梨乃さんが居た。

「あたしは大丈夫だから。怒ってもないし。まぁ、来れないんなら、連絡は欲しかったけどね」

 俺の左胸の辺り、丁度胸板の上の方だろうか、其処の内部で何かが引き攣れる様な、苦しく鋭い痛みが走った。此れが、切なさ、と云うものだろうか。何とも形容し難い、不思議な痛覚だ。良く小説や歌詞で見る様な“胸の痛み”と云う語句フレーズは、此れの事だったのだ。

「…………済いませんでした……」

 俺は再び、目頭が熱く為るのを自覚した。こらえきれないし、居たたまれなかった。

「じゃあ、オレもう帰ります。夜分に済いません、押し掛けちゃって……」

「ううん。んじゃ、また学校で!!」

 梨乃さんは、満面の笑みを浮かべた。其の最高の表情に、さいは一切感じられない。真杜さんの「義務を負う」と云う発言が脳裡に過ぎりフラッシュバックし、俺の心臓が大きく唸った。

「……はい、身体、自愛して下さい」


 部屋を出ると、真杜さんは居なかった。俺が玄関に現れるのに当たって、ご両親の関心を逸らす為なのだろう。俺はそう判断し、抜き足差し足で几帳面なコソ泥の如く静寂に紛れて、朋尾家を脱出した。


 結局、俺は言えなかった。俺が、梨乃さんを欺いた事を。其処迄意図していなかったものの、結果的には、俺が、梨乃さんに風邪を引かせた事を。

 けれど俺は、其れが正解なのではないか、と今は思っている。もしも俺が、其の事実を梨乃さんに告白したのなら、其れは悪戯いたずらに、且つ恐ろしい程に、梨乃さんを傷付ける事に為るからだ。多分、真杜さんも此の考えには同調して呉れるだろう、と思っている。

 知らなくて良い事、人に伝えない方が良い事、と云うのは、此の世に確実に在る。

 俺は空を見上げた。まるで嵐の様に荒れ狂っていた天候は見事に収まり、所々に星さえ瞬く程に晴れ渡り、澄んだ夜空が拡がっていた。唯一異なっていたのは、俺の心には、後悔と云う決して消えやしない、大きく群れを為した黒雲が浮かんでいる事だった。



 月曜、俺は若干の咽喉のどの痛みと鼻水の湧出を感じ乍ら、駐輪場からエントランスホールと呼称される教室棟の出入り口へと歩を進めていた。余談だが、此のエントランスホール、と云うのは、元々靴箱を設置する為の空間だったのだが、設計時の詰めの甘さに因り、全校生徒分の靴箱を配置する広さが無い事が判明し、急遽上履きを廃し一足制を導入する事で靴箱の不備を回避し、其の空間をエントランスホールと銘打っただだっ広い場所とした、らしい。俺が人伝ひとづてに聞いた話なので真相は分からないが、何処と無く信憑性は有る。そんな事を思い浮かべ乍ら校舎に入ると、見覚えの有る顔が向かいから近付いて来た。

「お早う」

「あ、お……お早う、御座います……」

 俺の言葉の歯切れが悪くなったのも無理は無い。其の人物は、昨夜ゆうべ再び俺を背負い投げた真杜さん其の人だったからだ。俺は彼女の隣に居ても可笑しくない人物の不在に不安を覚え、思わず質問していた。

「あ、あの……梨乃さんは……?」

 真杜さんは意に反してにこりと優しい微笑を浮かべると、まるい口調で返答した。

「梨乃は、一応大事を取って、今日一日は欠席だ。今は家で寝てるよ。でも今朝は熱も下がってきてたし、小康状態なおりかけって感じだな」

「あ、そ……そう、ですか……」

 俺は改めて自らの愚かさを呪った。世界で一番の愚か者だ。俺の基準からすれば、北朝鮮の独裁一族も、最悪なテロ宗教団体も、此の時点から約一年後に歩行者天国に突撃し最悪な形で名を知らしめた某死刑囚も、俺の足許には及ばない。何人殺害ころしたか、では罪は決まらない。どれだけ人間ヒトの心を傷付けたかでこそ、罪は決まるべきである。全くの個人的な意見ではあるが、其の意味で俺は、精神鑑定や責任能力とか云うものは滅すれば良いと思う。どう云う精神疾患や精神状況であったとしても、遣った事は遣った事なのだ。当人が責任を取らないでどうすんだよ!

 激しく話が逸れてしまった。斯う云うのは自重しなければ。何か、色々済みません。

「案ずるな。明日には復帰するさ」

 真杜さんが俺を気遣って肩を叩いて呉れる。俺は其の配慮に落涙しそうに為ったが、其処は意地でも涙の決壊を食い止めた。此の時間帯の教室棟の玄関口は、登校して来る生徒達が引っ切り無しに往来する。当然、俺等の周りには俺等を避けて通行する、同様の装飾を身に纏った同年代の連中がわんさか居る訳で、そんな環境下で泣きでもしたら皆の衆の関心を嫌と云う程に引く事は明白だ。

「じゃあな。……余り、悔やむなよ。人間、失敗するモンなんだからな」

 真杜さんはそう言い残し、人並みに埋没し、消え去っていった。俺は独り、取り残され、暫く生徒衆の進行をがいし続けた。


 俺が思い出した様に歩き出し、1年機械科1組の教室に着いたのは、始業のチャイムが鳴るほんの少し前だった。席に就く俺に、恒例の多々納と布通之木の2人組が話し掛けに遣って来た。未だ席替えがり行われず、五十音順の儘の席順では、奴等の席は結構離れているが、其れでも駄弁ダベりに繰り出して来て呉れるのは、嬉しいし、有り難い。

「なぁ、柿手! お前さ、さっき朋尾先輩と一緒に居たよな? あれも五輪先輩繋がりだろ?」

 興味津々と云った面持ちで俺に声を掛ける多々納。……前言撤回だ。矢鱈と梨乃さんの事を穿鑿せんさくされるのは、今は気に喰わない。俺は鞄をリノリウム張りの床に置き乍ら、投げ遣りに答える。

「ああ。其れ以外に接点無ぇだろ? 普通」

 言い終えて、ハッとした。幾ら何でも、口調がキツ過ぎる。俺は恐る恐る反応を窺った。

「いや、まぁそうだけどさ。何話してたのかなぁ、ってな」

 多々納は何事も無いかの様に会話を継続してきた。俺は内心、胸を撫で下ろす。

「いや……別に、大した事は。他人ヒトに話す迄も無い事だよ」

 今迄黙っていた布通之木が口を開く。

「いや、さっきもお前、結構注目集めてたんだぜ? 気付いてたか知らんけど。五輪先輩の側近・・である……朋尾先輩、だっけ? 其の人と2人で何か喋ってる、ってさ。前も言ったけど、あんまりそう云う目立つのはさ……」

「ご忠告、有り難う」

 俺は椅子に座ろうとした中腰の姿勢の儘、布通之木の言葉を遮断インターセプトした。

「でもオレは、梨乃さんの傍に居たいんだ。真杜さんと一緒に、梨乃さんを護ってくんだ」

 俺は言い放った。最悪、布通之木に嫌われても良い、そう覚悟し乍ら。現在いまの俺に取っての最優先事項モストプライオリティは間違い無く梨乃さんに関してであり、其れは何がどうあろうと揺るぎ無いものであったから。

 言ってしまった事で、何か吹っ切れた。同時に、有言実行の気合いが漲った。声に出す、と云う事はすなわち他人に聞かれる、と云う事で、他人に聞かれたからには遣りおおせねば、と云う気にも為る。「口に出さないと何も叶わない。口にも出せない夢は何も叶わない」と云う、或るアーティストの言葉が有るが、全く以て其の通りだ。

 そして俺は予想外に声を張ってしまったらしく、元からそんなに騒がしくはなかった学級内での注目は一手に俺に集まっていた。前述の通り、梨乃さんの存在は朝礼事件を経て全校生徒にあまねでんしており、そんな有名人に俺は級友クラスメイト一同の前で告白めいた宣言をしてしまったのだ。感心している様な、静かな歓声が上がり出し、同時に何処からとも無く拍手が巻き起こった。一部からははやし立てる様な指笛の様な音すら聞こえた。

 俺は瞬間に照れて腰を下ろし、ふと布通之木の様子を窺い見た。布通之木は若干呆れた様な反応だったが、

「……ま、お前が決断しきめたんなら其れで良いんじゃね?」

 と口の端だけの笑いを呉れた。室内が、由来が定かでない拍手に包まれている異常な状況の中、副担の佐峰先生を連れて入室してきた端似教諭は、げん100%の眼差しを灯台の探照灯サーチライトの如くぐるりと万遍まんべん無く室内に巡らすと、

「さ、朝読書だ。静かにしなさーい」

 と言って手をパンパン、と叩き、静粛を召喚した。




 俺は決めた。何故かは分からない。其の根拠は此れから、探していけば良い。

 ――今だって其れを見付ける為の道中だ。


 俺は、真杜さんと共に、梨乃さんを護っていく。

 俺は、梨乃さんの傍に居る――。


                            <#1 了>

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