#1 偽りの五輪梨乃
2007年の4月。俺の憂鬱は、土日の連休を挟んでも消えなかった。憂いの原因は到底、他人には話せないもので、独りで悶々と抱え込むしかなかった。
俺は金曜の放課後起きたあの「事件」の後、何度
何だかんだで月曜の日程も終わりかけていた。今日は学校全体が通常より早く放課と
とは云え、いざ催しが始まると、意外と趣向を凝らしている部が多く、中には教師陣も含む会場の爆笑を
俺は学ランのポケットの中で、折り畳み式の
担任にバレない様にケータイを取り出し、机の天板で前からの視線を遮る為引き出しに隠し、開き切った際に鳴る「パキッ」と云うヒンジの音に細心の注意を払いつつケータイを開け、
【部活見学、一緒に回らない!? そっちの教室の方で待ってるから】
俺はメール本文に眼を通し終わると直ぐ返信釦を押し、
【了解】
とだけ打ち込み、送信した。俺が学ランのポケットにそっと携帯を戻した丁度其の時、
「ねぇ、
此の“得附”というのは、変換機能で苦労する俺の下の名前だ。
「
「私も迷ってる……。候補は有るんだけどね」
「そっか……」
SHRが終わり、俺は陽香と落ち合った。取り敢えず、校舎内を見て廻る事にして、俺等は歩き出した。大勢の1年生が各
ぐるりと教室棟から
「
「うん、まぁね。
「へぇ……。決めたのか……」
「得附はどうするの?」
「いやぁ、
「そっか……。まぁでも、もう少し廻ってみようよ。何か見付かるかも知れないし」
「あぁ、そうだな。
別棟は実習棟とも云い、
そんな事は
別棟東館3階――。此の時、もしも俺が其処に居なければ、違っていたかも知れない。
……否、どっちにしろ“
ふと周囲を見渡した俺の眼に飛び込んだのは、見学者の為に貼ったと思われる「tRPG部」と書かれた手書きのポスターだった。俺は「tRPG」の意味が分からず、
「あれ?」
其の時、聞き慣れない声が左の方から飛んで来た。
「おーい!」
其の声が誰かを呼んでいるので、俺は
――――間違い無い。
訳も分からず佐峰先生と口付けた瞬間、俺が入室した際に閉めた襖が唐突に開いた。勢い良く、
其処に居たのは、右手に
って、そんな事抜かしてる場合じゃねぇよ! こりゃ
消え行く靴音を聞きつつ、
「あの赤いの、まさか……?」
「ええ、多分ムービーカメラでしょうね」
「
「はい、大分ヤバいですね」
「…………何で、その……、キス、しちゃったんだろうね?」
「さぁ、僕にも分かりませんけど……、
「…………」
決して互いを見ず、誰も居ない襖の辺りに視線を固定し乍ら、俺と佐峰先生は言葉を交わした。
「……
「言う訳無いっすよ」
佐峰先生が俺の方を向いて言ったので、俺も先生の眼を見返して答えた。
「じゃあ、また今度、話し合う、って事で良い?」
「
発言だけを追うとそうは感じられないが、今眼の前にいる佐峰先生は相当に
「……じゃあ、僕帰ります」
「あ……、うん」
「……失礼します」
俺は立ち上がり、浅く頭を下げてから退室した。其の時の俺の脚と云ったら、産まれたての仔馬や仔鹿の比では無く、ガクガクブルブル震えていたので、佐峰先生にもあっさり露顕してしまっていただろう。
帰宅した俺は、改めて其の実感が
其処に立ち、俺に声を掛けているのは、
「え、得附……知ってる人?」
陽香が
ヤバい、ヤバい、ヤバいぞ、此れは…………。俺の脳内は其の
もし此処で唐突に彼女が、
謹慎か?
停学か?
退学か?
佐峰先生はどう為る?
退職?
いやいや、
でも、もし彼女が
第三者に
そう為ったら俺は、停・退学?
先生は
―――――ああぁぁ、駄目だ!!!
どう考えても
此の間1、2秒だったろうか。俺の頭脳が
自分では
全く以てお手上げだ。自分を持て余す、とは
「ねぇ!!!」
怒鳴り声で俺は急速に
「近っ!! ……何なんですか?」
「『何なんですか』はこっちの
「あぁ……すいません」
彼女の顔を盗み見る。流石に世間体上
そんな彼女の含み笑いを浮かべた顔面が再び徐々に俺に近付いてくる。彼女は俺の右肩に両手を乗せ、其処を支点に思い切り背伸びをし、俺の右耳に口許を持っていった。
「ねぇ、佐峰先生とキスしてたでしょ?」
此の世の中で俺にしか聞こえない声で
「はい」
と
「じゃあ、
と邪気の無い
「……え?! ちょ、何処行くの!? 部活は?!」
陽香は驚きと不安の入り混じった声を、連行される俺に飛ばしてきた。何処へ行くかって? 其れは俺が一番聞きたいよ。
「あー……取り敢えず
俺は辛うじて答えた。彼女が「一寸」と言った以上、そう長くは為らないだろう、と思ったからだ。
今日はもう、此の一件が終わったら帰ろう。俺は先程の
どうやら俺が連行された先は、別棟東館二階の端に在る、
「……何なんすか? 行き成り」
「あたし、
俺の発言を寸分も聞かずに、彼女は勝手に名告って質問を返した。其の声は明るく、自信に満ち、悩みなんてこれっぽっちも無い、様に聞こえた。
「……オレは、柿手得附ですけど。てか、オレの質問に」
「へぇ、エツキ……。変わった名前ねぇ。
「『幾つ』って……?」
「学年よ! 何年か、って事。察しなさいよ其れ位!」
何故俺が怒られてんだ? 俺は根本的な疑問を感じた、が。
「……1年です。此の間入ったばっかの」
初め、「3年だけど?」等と
と云うより、眼の前の彼女には弁慶氏に取っての
「あ、そ」
俺の意に反し、
……何だ、此の
「あの……イツワさんは?」
俺はてっきり、彼女も学年を返すなりして、多少なりとも会話が交わされるだろう、と思い込んでいた。だから思いがけず訪れた空白に対して条件反射的にそう訊いたのだが、彼女は
「ねぇ」
ふと顔を上げた彼女は不意に声を掛けてきた。
「『カキテエツキ』ってどう書くの?」
不可思議に落ち込んだ心境の儘、俺は顔を上げ、答えた。
「果物の『柿』に手足の『手』で『柿手』、損得の『得』に
「ちょ、速いって! えーと……柿……手……で?」
俺は学ラン風の制服のポケットから
「此れです」
俺がauの携帯を差し出すと、彼女は
「そうだ! アンタ
俺もそう言われる迄全く発想に無かった。此の画面からサブメニューを展開すれば即座に赤外線送信が可能なのだ。
……然し、少し考えて俺は気付いた。俺が其れを発想の中に考慮しなかったのは至極当然だった。彼女がアドレス帳を編集しようとしている事を、俺は今迄知らなかったのだから。
「……うん、OK。じゃあ今度は私が送るから」
斯うして俺は彼女に
「あ、そうそう言ってなかったね。アンタを引っ張ってきたのはねぇ……」
彼女――以降「梨乃さん」と呼称する事とする――は、漸く本題へ突入しようとした。
「
梨乃さんは全く本題に突っ込んでいなかった。長々と
「つぅまぁりぃ~、アンタはtRPG部に
梨乃さんはライヴで情熱的に歌唱するロックバンドのヴォーカルの様に
「……え、其処にオレの意思は全く無いんすか?」
俺は梨乃さんの
「……あのねぇ、アンタ現況を理解してる? アンタは、あたしに何か言える立場なの?」
「……あたしは、アンタの――
小悪魔的な微笑を浮かべた。俺には全く以て完璧な悪魔にしか見えなかったが。ぐぅの音も出ない儘、豪い人に弱み掴まれちまったな、と俺は直感していた。
「…………分かりましたよ。
待機中の
「うん! 此れでノルマ達成だわ!」
起き抜けに
「あ、じゃあもう帰って良いわよ。明日辺り、また来て呉れれば」
「あの……」
俺は最後、心残りと迄は言わないが、引っ掛かっていた事項をぶつけてみた。
「何?」
「五輪さんって、何年なんですか?」
梨乃さんはキョトンとした表情をした後、柔らかく優しい笑みで
「2年」
と答えた。俺はまた、梨乃さんの笑顔に見惚れていた。何故だろう? 何故、輝く様な其の笑顔に、見惚れてしまうのだろう……?
「どしたの?」
意識を視野に下ろすと、梨乃さんは
「ぅわっ!!」
俺の心臓は確実に一瞬停止し、活動再開と同時に
「何でも無いっすよ」
と
「そう……。アンタ、結構『浪漫飛行へインザスカイ』するよね」
梨乃さんは自分の通学鞄を手に取ると、そう言った。
「……え?」
単純且つ純粋に意味が理解出来なかった俺は訊き返した。
「だから、よく
「あぁ…………」
自覚は無かったが、確かにそうかも知れない。
「あと、今後はあたしの事『梨乃』って呼ぶ事! 何か苦手なのよ、苗字で呼ばれるの」
「あ、はぁ……り、梨乃、さん……」
梨乃さんは満足げに頷き、
「うん、其れで良しっ! じゃっ、またね!」
スキップの様に軽やかな足取りで部屋の引き戸に近付き、梨乃さんは戸を開け放ち、此方に右手を振って印刷室を出て行こうとした。俺は何と声を掛ければ良いか分からず、唯ぼんやりと、右の腰に揺れる小さな赤い腰袋が印象的な梨乃さんの後ろ姿を見送っていた。すると、梨乃さんは俺の視界から消える間際、「あ」と云う母音と共にふと立ち止まり、
「アンタの渾名、『ウルフ』にするわ。あたしは今後、アンタの事そう呼ぶから。覚えときなさいよ?」
「得附」と云う俺の名前の漢字を読み替えて名付けたのだ、と俺が理解した時には、既に梨乃さんは視界から消え失せていた。
「あ! ねぇ得附、誰なの? あの
他の学年のものと離れた、遠い場所に在る1年生用の駐輪場へ辿り着いた俺に、陽香はそう声を掛けてきた。
よもや「
「あ、ねぇ! 無視すんなっ!」
俺は自分の自転車のシリンダー錠を開けた。前
「行くぞ」
俺はぶっきらぼうに言って、サドルに
「あ……待ってって」
俺の言葉を受け、陽香は慌てて自分の自転車に向かい、水色のシティサイクルに飛び乗った。
並走して、裏門的な位置付けである西門を抜けた。由緒ある神社を右手に、此の
此処で
ならば一体どう云う関係なのか? 一言、端的に云うなら、俺と陽香は小学校時代からの幼馴染だ。元々、俺が科技高から離れた地の出身で、校内に同じ中学出身の人物が
俺の
俺は此の春、専門学校を卒業して社会人と為った20歳の姉と同居している。今から俺が帰宅する部屋は姉の名義で借りられており、姉は2年制の専門学校に進学する際に実家から離れた此の地に出て、独り暮らししていた。然し、俺が偶々姉の住むアパートに比較的近い科技高に通学する事に為ったので、じゃあ
そんな事情が有るので、同じ屋根の下に暮らす同級生として、俺は陽香と通学を共にしているのだ。故に、俺と陽香は決して、断じてそんな関係ではない。
……と云うか、まぁ、そう云う事にしておかなければ今後に支障が出てくるので。
その内、アパートに到着した。所要時間45分程度の
駐輪場に愛車を収める。敷地の隅に追い遣られた、トタン
「んじゃ、またな」
「うん」
俺は別れの挨拶を交わすと、姉の部屋の玄関扉に備え付けられているシリンダー錠の鍵穴に
「おい、今『サヨナラ』しただろうが」
「うん。其れが?」
「『其れが』って……」
「だって、どうせ後でご飯食べに来るんだし……良いじゃん」
そう言って陽香は俺を退け、勝手に部屋の奥へ進んでいった。はぁ、と溜め息を吐き、俺はサムターンを横にし、施錠した。
その後は他愛も無い会話をしつつ時を過ごした。新境地である高校生活はどうだ、とか、中学時代の思い出とか、最近のテレビ番組の事とか、取り留めも無く、大して意味を為さない様な会話だ。然し、こんなどうって事無い話こそ、人生に於いて大切にしなければ為らないものなんじゃないか、と俺は何と無く感じている。
そう斯うする内、俺の姉で此の部屋の契約者である柿手乃亜音が帰宅した。
「
姉は黒い肩提げ鞄を床に置き、居間の机に就く陽香を目にすると、言った。
「えー? 『何だ』って何ですかノアネさーん」
不服そうな声を上げる陽香に姉は、
「否、
不意打ちな言動を
「得附、彼女居んの?」
何故か不安そう、且つ怒っている様な、器用な表情をしつつ訊いてくる陽香の視線を遣り過ごし乍ら、天然水を名告る白桃の
「居ねぇっつの。
「だ、だよね。然も得附の学級って女子2人しか居ないんだっけ?」
「あぁ。まぁ、そう云う意味で云えば競争率は高いな」
「そっか……」
「陽香ちゃん、何かバレバレだよー?」
姉が茶化した様に言うと、見る見る内に陽香の頬は紅潮していく。俺には姉の発言と陽香の反応がどう云う意味を為すのか、全く分からなかった。――少なくとも、此の時は。
陽香の両親が、娘が俺と姉の傍に居れば安心と云う様な事を言ったのは、過保護さを
或る意味当然とも云えるが、極普通の
「お願いします! お弁当、作って下さい!!」
と空の
まさか此れが両親陣営の真の狙いなのだろうか? であるならば、其の
そんな事を頭脳の片隅でのらくらと演算し乍ら、2ヵ月程前から愛用するエキゾチックオレンジと云う色名を頂戴した携帯電話を充電しつつEZwebで
「
「分かってるって、其れ位。一寸位なら良いんだよ。即爆発する訳じゃ無いんだし」
「でも」
「良いんだって! ヘタって
俺が語気を強めると、陽香はやれやれと云う素振りで溜め息を吐き、自分の赤いP703ⅰ
「
何の気無しに俺は訊いた。
「うん。ルコちゃんって云うの」
「ルコ?」
「そう。
成る程、どうやら此の世には、
「凄いんだよ、此の娘。もうね、脚は速いし細いのに筋肉質だし、運動は何でも出来るみたいだし」
「へぇ、そりゃ凄いな。スポーツウーマンって
「うん。陸上部って言ってたっけかな?
「ふーん。中体連に出るってだけでもう凄いじゃん。其の内全校朝礼とかで名前聞く様に為るかもな」
「うん、多分ね……」
陽香は其れきり、再び入力操作に没頭した。其の時、姉の声で食事の用意が出来た、との呼び掛けがあり、俺と陽香は胸中で神様仏様乃亜音様に最大限の謝意を唱えつつ、食卓に着いた。
食事を終えると、陽香は隣の部屋へ帰宅した。当たり前の様に3人分の食器を鼻歌交じりに洗う姉の後ろ姿を尻目に、俺は改めて頭が上がらねぇ、と痛感した。
余りの事に頭脳が思考するのを放棄していた様だが、床に就き眠りに入る間際に、俺の
然し人間と云うのは何とも都合良く……、否
時間と云うものは、どうしてこんなにも、すっ飛ぶ様な速さで過ぎ去っていくのだろうか。
決意した俺が把っ手に手を掛けた其の時、廊下の教室棟の方角から声がした。
「ウルフ~!!」
一発で判る。俺をそう呼ぶのは、現時点で彼女しか居ない。実際に呼び掛けられたのは初めてだったが、何故か満更でも無い気分だった。寧ろ妙にしっくりくる感じに違和感を覚えた程だ。
「あぁ、梨乃さん」
心細さを
「来て呉れたのは感謝するわ。ま、アンタには其れ以外の選択肢は無かったんだけどね」
と意地悪く言った。
「……あのっ」
俺が意気込んで昨夜の
「な、何ですか……」
思い切り背を
「込み入った話は後で。
と忠告し、先陣切って入室していった。俺は
此の時俺は、少し離れた距離で
室内は通常教室と同程度の広さで、部屋の中央には長机を組み合わせて正方形状に配置した大きな
「どーもー!!」
戸を開けた瞬間に快活な挨拶を飛ばした梨乃さんに反応したのは、長机の一辺に座る女子生徒だけだった。
「五輪さん、こんにちは。其の子は?」
椅子に腰を落ち着かせた儘、女子生徒は訊いた。口振りと雰囲気から察するに、彼女は梨乃さんより上、詰まり3年生であると思われた。
「良くぞ訊いて呉れました! ほらぁ、宮殿部長も
キューデンブチョー、梨乃さんはそう言った。部長刑事や富豪刑事の親戚の様なモンか? そう呼ばれた男子生徒は頑として向けていた背中を
「何度言ったら分かるんだ?! 僕は
一見聡明そうな、眼鏡を掛けた男子生徒は口角泡を飛ばす勢いで訂正の弁を
「で、隣の彼は誰だ? 部に取っての朗報とは……?」
宮殿部部長は首を傾げた。……駄目だ、ゴテゴテしてる。やっぱり以降、宮殿部長と表記しよう。断っておきますけど、
「宮殿部長、耳
「否、梨乃さん、オレの名前とウルフが逆じゃないすか? 普通」
ドン!! と某海洋冒険漫画みたいな効果音が付きそうな威勢の良い紹介を受けた俺は、
「気にしない気にしない!
梨乃さんは俺の突っ込みをこれっぽっちも物ともせず、逆に俺が小言を言われる展開と為った。因みに「まめったさ」と云うのは此の辺りの方言で「(精神的に)細かい」「
「……凄いな、君は。
「へ? ……否、唯突っ込んだだけなんで、其れが凄い事かは判んないですけど」
「凄い事よ。彼女、普段は誰の声にも耳を貸さないんだから。そんな彼女に指摘を入れる上に、彼女が其れに返答するなんて事した人が、
「え、えぇ……」
「だったら猶更よ。貴方は五輪さんの
「はぁ……。所でその、貴女は?」
「あぁ、未だ自己紹介を済ませていなかったわね。私は三年普通科二組の
そう言って女子生徒、
「えー、酷い言われよう。何か其れって、普段あたしが
梨乃さんはぶうたれた。言海先輩は慌てて、
「否、そう云う意味ではないのよ? いっその事、ああ云う表現をしただけでね……」
と弁明した。取り
「否、君は
宮殿部長は言海先輩の必死の
「長君、余計な事言わないの!」
と小声で
「いいえ、お構い無く。宮殿部長、其れは褒め言葉として受け取っとくわ。で? ウルフは入部確定なんだけど、其れに就いては?」
「あ、あぁ、そうだな! 歓迎する! とても有り難いよ! 有り難いが、然し……」
宮殿部長は
「何故
よもや彼は、全てを知っているのではなかろうか? 其の上で一芝居打っているのでは? 梨乃さんと宮殿部長が通じていれば、梨乃さんが俺(と佐峰先生)の秘密を
「……どうした? まさか、図星か?」
宮殿部長は真っ青な俺の顔を覗き込む様にして、訊いてきた。俺は梨乃さんの手前、素直に肯定する事も出来ず、あーだの、うーだの
「はいはい、もう良いでしょ! あたしはノルマ達成したからね! もう何の指図も受けないんだから!」
力強く宣言すると、俺の背中を両の
「ちょっ、待て! 彼は
「当然でしょ? あたしの
俺を盾にしてずんずんと
物理室や化学室の
其れ等以上に、ともすれば
然し俺の前に
「まぁ、話すとややこしいんだけど、あたし達の活動場所は基本的に
梨乃さんは俺を部屋の中に押し込むと、其の儘両手を俺の肩に置いて背後から話した。内心、異性の手が身体に触れている、と云う淡い興奮が俺の交感神経系と副交感神経系を
「其れは聞き捨てならないなぁ!」
斜め後ろから耳に入った声の主は、宮殿部長のものだった。
「……宮殿部長、盗み聞きは褒められたモンじゃないよ?」
うざったそうな表情を微塵も隠さずに宮殿部長に言葉を返す梨乃さんは、
「新入部員には、先ずは本流であるtRPGに就いてきっちり紹介すべきなんじゃないか?」
と云う宮殿部長を追い出し、
「扉が開いてたからいけなかったんだよね」
と呟くと正部室と連結する、此の部屋に唯一存在する扉をバタンと締めた。俺はそんな梨乃さんに
「あの……さっきから、てか昨日から気に為ってたんですけど、tRPGって何ですか?」
えぇー、と云った感じで、梨乃さんが面倒そうな顔をするのと、宮殿部長が嬉々とした表情で扉を全開にして乱入して来るのは
「其れなら是非此の宮殿部に」
「はいはい! あたしが遣っとくから
宮殿部長の
「全く……。彼奴何とか為んないのかしら」
と鼻息荒く悪態を吐いていた。
「tRPGってのはねぇ、テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲームの略で……」
俺は始まろうとしている梨乃さんの講釈に身構えた。
「……えーっとねぇ……」
……ん? 雲行きが怪しいな。
「何と云うか……」
梨乃さんはあからさまに眼を泳がせている。さては此の人、分かってないな?
次の瞬間、梨乃さんは打って変わって言い放った。
「……
俺は危うく、ギャグ漫画宜しくズッコケかけた。万が一俺が
「おい待て!! 何の説明にも為ってないぞ!」
宮殿部長が鍵の掛かった扉越しに糾弾の声を上げている。其の拳は塗装済みの
「……もぉ~、うっさいなぁ……」
梨乃さんは心底不機嫌な声で呟いた。数秒間黙った儘、右足で苛立ちの
「あ、あの、梨乃さん……?」
俺は再び予測不能の強制連行を喰らう事と為った。梨乃さんは
「ちょっ……五輪さん?! ウルフ君!? 何処行くの?!」
と云う言海先輩の声に耳も貸さず、最上級生2人をぶっ千切って廊下へと突き進んでいく。
……一つ判明したのは、俺の部内での呼称は「ウルフ」で
「ど……何処向かってるんすか?!」
秒速2mと云う、歩いてるんだか走ってるんだか判別出来ない
「良いから!」
梨乃さんは俺の発言をさも愚問であると
高速で過ぎ去る景色は俺の脳に、俺達が別棟から教室棟に突入した事を伝送してきた。其の儘の
そして行き成り梨乃さんは足を止め、右向け右をした。当然俺は梨乃さんの右手首と云う連結器を軸として今度こそジャックナイフを起こし、身体を大きく旋回させ乍ら、廊下のコンクリート打ちっ放しの壁に激突した。其の際、梨乃さんの右腕を捻じる形に為ったらしく、
「痛っ?! なに遊んでんの!
と喝を喰らう事と為った。……どう考えても俺に非が有るとは思えないのだが。
俺が過大な
「着いたわよ」
と梨乃さんは
「作法室……」
何気無く呟いた俺は数瞬の後、文字通り血の気が引いていくのを体感した。
そう、此処は俺が佐峰先生と一瞬の過ちを犯してしまった場所、そして隣の、何故か未だに連結装置を俺の手首から離して呉れない女子型レッカー車に其の瞬間を録られてしまった場所である。
「な……何で、此処に……?」
恐る恐る俺は訊いた。所が、梨乃さんはシャンプーの
「此処ね、さっきの副部室と同じ位の頻度で使ってる部屋なのよ。だから
「いや、ちょっ……!!」
恐るべき
「あの……一応
放課後の校舎内、と云う事で大した人数が居る訳では無いが、数人の人影が眼に入る程度ではある。まさか聞き耳を立てる様な悪趣味な
梨乃さんはキョトンとした後、にやぁ、と嫌らしい笑みを浮かべ、
「そうだねぇ~……こっち関連の話は、他に誰も居ない場所でした方が良いよねぇ~?」
覗き込む様に俺の顔を見てくる。……あぁ、何だろうな、どうも、此の人と居ると、何か……駄目だな。
俺が対処に困っていると、男子生徒2人組が通り掛かった。
「あれ、2年の五輪じゃん。一緒に居んの誰だ? まぁ俺はあんな奴と人付き合いは出来ねぇなぁ」
「俺もだ。彼奴だけは勘弁だな……」
彼等は声量を絞り、ひそひそと話した
然し、幾ら何でも其れは一寸酷過ぎやしないか。俺が取って付けた様な、云わば偽善的な義憤に駆られていると、梨乃さんは俺から顔を逸らし、
梨乃さんの顔から、勝ち気で強気な、独特の輝きが、消え失せた。
其れ以降の表情を窺い知る事は、今の俺の目線の高さからは不可能だが、其れは
俺の心中に、
俺が複雑な思いで突っ立っていると、不意に梨乃さんは顔を上げた。俺は幾らかの恐い物見たさを含有しつつ、其の表情を窺った。
「ま、其の件は後にしましょ。早速挨拶しなきゃ」
梨乃さんの顔面には今迄の、何かが
「あの、挨拶って……誰にですか?」
作法室は、確か茶華道部の部室だった筈だ。当然、室内には茶華道部員しか居ないだろう。其の方達に挨拶をする義理が有るのか? 至極真っ当な疑問だと思う。
「
成る程。然し
俺が考えていると、梨乃さんは先陣切って木製の引き戸を開け、せっせと
「たのもーー!!」
と威勢良く声を上げ乍ら襖を開け、室内に
室内には数名の女子生徒が居り、入部希望者を交えた通常活動が絶賛進行中だった。まぁ端的に言えば、矢張り誰がどう見ても闖入者である梨乃さん(と俺)は
「陽香……そっか、お前、
「得附?! ……と、昨日の……」
俺と陽香は略同時に声を上げていた。陽香の言葉が詰まったのは、梨乃さんの姓名を認知していなかったからだろう。梨乃さんはそんな俺達を意に介さない様子で、舐め回す様に室内を見渡し、
「おぉー、居るわねぇー!!
俺は思わず、元気良く言い放った梨乃さんの顔を二度見した。字面だけ追うと余りにも皮肉めいた発言だが、実際の梨乃さんには茶華道部を糾弾する意図は一切感じられず清々しい程で、一種の清廉ささえ見受けられた。俺は何と無く、梨乃さんを一段階深く理解出来た気がした。
彼女の言動のみを追う人間は、恐らく彼女を嫌うだろう。然し、彼女の近辺に属し、彼女の発言の真意を汲み取る事の出来た者は彼女に好感を抱く筈だ。要するに、梨乃さんは好き嫌いがはっきりきっぱり分断する、
「な! また行き成り現れたと思ったら何て事言うの?! 邪魔しないでよ!!」
「まぁまぁ、そう熱く為らないでよナコっちぃ。挨拶に来ただけだから」
此の部屋の中で最も強く反発した奈子先輩を
「ちょっ……止めてよっ! なっ……」
「ねぇ~ぇ、
「あっ……そっ其れっ……はっ、ごっ……語弊、がぁっ……」
四肢をアメーバの如くうねらせて奈子先輩を攻略していく梨乃さんと、
男なら誰しも助平ではあるが、自制の無い助平には為りたくないものである。
「
「らっ……めぇ……やらよぉ……っ」
紅潮、と云う言葉の
「おーおー、此の期に及んで未だ抗うかね? さっさとあたしに屈服なさい!!」
あの、梨乃さん、目的見失ってません?
俺がそう突っ込もうとした瞬間、廊下の方から猛烈な足音が響いてきて、直後バアァン! と派手に襖が開け放たれた。
「お前だな!?!」
俺が聞き取れたのは此処迄だ。早口で
綺麗な背負い投げを俺に喰らわせた。
……今考えても、宙を舞い畳に墜落した俺が完璧な受け身を取れたのは奇跡としか云い様が無い。此れ迄の俺の人生の中での柔道経験と云えば、中学の時、合計10時間程度受けた保健体育の授業での体験しかないのだ。にも拘らず、突然投げられて(抑も其れが可笑しいのだが)、
視界が
声に為らない声を上げ、俺は犯人の正体を見上げた。見慣れない、女子生徒だった。
「……
口にしたのは梨乃さんだった。梨乃さんは全動作を停止させ、唐突に自由を喰らった奈子先輩は畳にふにゃりと
「部長!?」
「大丈夫ですか?!」
「確りして下さい!!」
と、駆け寄った女子部員達が奈子先輩を気遣っている。あぁ、
「得附!? 大丈夫?!」
と陽香が俺の身体を揺さぶった。……あの、心配して呉れるのは嬉しいんだが、今俺の身体を
「あちゃー、遣っちまったみたいだねぇ~。一歩遅かったかぁー」
新たな声が俺の耳に届いた。廊下から室内を窺い、
「何此の
と呟いた。そりゃそうだろう。作法室内には、部屋の中央付近に大の字でぶっ倒れている
強い因縁の有る佐峰先生の出現が
目覚めると、其処は白い空間だった。自分が保健室の
「得附?!」
真っ先に飛び込んで来た声は、耳慣れた陽香のものだった。次いで、
「ウルフ……!」
此の声も、俺の中に早くも馴染み始めている。言わずもがな、梨乃さんの声だ。俺が首を左方向に
「得附、大丈夫?! 何処か違和感無い?!」
陽香は、
「ぁあ……、大丈夫、多分」
暫く喋っていなかったからか、喋り出しが
「ウルフ……御免なさいっ!!」
と大声で謝罪した。俺は上体を起こし、梨乃さんの
「否……、貴方が謝る事無いんじゃないですか?」
陽香が言葉の含有する意味とは裏腹に、噛み付く様に言う。お前、其の人に其の言葉遣いは、危険だぞ……?
「……一寸、自分語りに為っちゃうけど、付き合って呉れる?」
反して梨乃さんは目くじらを立てる事も無く、かと云って其の
「あたしとあの
「一心同体、って事ですね」
陽香が
「んー……って云うより、異体同心の方が近いのかな?」
陽香は異体同心を知らなかった様で、曖昧な返事をした。斯く云う俺も推測以外の何物でも無かったのだが。と云うか梨乃さん、一つ突っ込ませて頂くと、さっき自分で「一体」って言ってますよ……。まぁそんな無粋な事は口に出さないけど。
機嫌を損ねられても面倒だし。
「あたしと真杜は、昔から一緒に暮らしてるの。別に血の繋がりなんか無いんだけど、事情が有って、一つ屋根の下でね。だから必然、あたしと真杜は四六時中一緒な訳でさ。
「……あの、其れと今回の件にどう云った関係が有るんですか?」
陽香は再び鋭く切り込む。……頼む陽香、止めて呉れ。至近距離で見守る俺の精神が持たん。
「え、そ……其れは」
「私の言い方が
ザッと保健室の扉が開き、一人、登場人物が追加される。先程、俺の意識が途切れる寸前に、廊下から作法室内を覗き込み、
「私がさ、tRPG部の部室前で梨乃と其の子がキスしてるの見たから、緊急事態だ、って真杜に言いに行ったのよ。そしたら真杜、血相変えて『何処の
「「してないっ!!!」」
喰い気味に、梨乃さんと俺の声が
兎に角、さっきから陽香がぶっ刺してくる視線が痛くて仕方無いのだ。
「してないから、その……き、キスとか……。た、立ち位置の関係じゃないの? ほら、角度が良くなければそう見える事も有ったかも……」
梨乃さんが俺の思っていた事を
「へぇ~、
彼女が俺の顔をまじまじと見詰めつつ、言った。俺は頬に朱が差していくのを自覚しつつ、即答した。
「ほ、本当です。間違い無くしてません。
「あー、私?
終始明るく自己紹介した依琉さんは、
……陽香の
「……結局、悪いのは依琉じゃない。ちゃんと謝りなさいよ、ウルフに!」
梨乃さんが発言した事で、俺は身体を
「『ウルフ』って? 此の
依琉さんが疑問を口にした。現時点では俺と名付け親の梨乃さんしか知り得ない渾名なので至極真っ当だ。
「わ……私も、気に為ってたんですけど、『ウルフ』って、得附の事なんですか?」
「あのー、
梨乃さんはポケットから携帯電話を取り出し、電話帳画面を展開させ、皆の衆に開陳した。白い
「かきて……え……つき……? 変わった名前だねぇ」
「まぁ、私は知ってますけど」
依琉さんと陽香が順に言った。……
「んで、
梨乃さんは得意満面に胸を張った。
「成る程ね。んじゃあ私も今から『ウルフ』って呼ぶよ。ウルフ君、宜しくどーぞ!」
依琉さんは矢張り髪をシャランラさせて俺への挨拶をし直した。
「あ、はい……宜しくお願いします」
「所でさウルフ、此の娘は誰なの?
梨乃さんが俺に尋ねた。どうやら俺が目覚める迄に其の話題には為らなかった様だ。
「あ、あぁ……
陽香は俺の台詞に何処と無く、と云うかあからさまに不満げだったが、俺は敢えて気にしない。
「あ、そうなの。地元の友達って事ね。名前は?」
梨乃さんはそう言って促した。あ、俺、陽香の
「堂季……陽香です。宜しく……」
ふてぶてしい態度で陽香は言った。……お前、こんな
「ウルフ……さっきから一寸此の娘、素行が気に為るんだけど、斯う云う娘なの?」
流石に梨乃さんも看過出来なかったらしく、眉間に縦皺を寄せ、若干
「いやぁ……普段はこんなんじゃ無いんですけどねぇ……」
不穏な空気を感じ、俺は何とか平和的な着地点を模索した。
「へーぇ、じゃあ
自らを示す箇所を強調して梨乃さんは発音した。相当
「そう云う生意気な
梨乃さんは両腕を構え、四本脚の丸椅子に座する陽香に
「
唐突に叫んだ梨乃さんは、さっき奈子先輩に炸裂させた秘技を陽香に浴びせ掛けた。陽香の顔面から虚勢が消えるのには数秒と掛からなかった。そして嬌声が上がり出すのに、さして時間は必要としなかった。俺は見ていられなくなって、外方を向いた。
「てっきり私も、『付き合ってるんですぅ』とか言うのかと思ったのに」
赤面した俺に、依琉さんが話し掛けてきた。
「否、そう云う
「服従しなさーい!!」
「やっ……ひゃああああ……」
「へーえ、でもあの娘は何か腑に落ちてなそうだったけどねー」
「この
「あっちょっ……だ、駄目……っ! あ」
「そうなんですか、ねぇ……?」
「間違い無いよ! だからあの娘は梨乃を敵だと
「どーぉ? 観念する?」
「へぁ……ひゃ……」
「うーん……。オレは分からないっすけど……」
「……未だもう一押しね」
「ぁふぁっ……ら、や……」
「あははっ! やー、モテる男は大変だって事だよ! 何かと思い悩みなさい! 青春青春だよっ、ウルフ君!!」
依琉さんは立ち上がり、俺をびっと指差して邪気無き笑顔で言った。
「んじゃね~」
依琉さんは俺を指差した儘、
「何処行くんですか?」
「うん、私も部活出ないとねぇ~。茶華道部で副部長遣ってるから、私。tRPG部に入るんだったらまた直ぐ会う事に為ると思うから!」
じゃっ、と言って
其の時、引き戸が開き、俺をぶん投げたあの女子生徒が部屋に入ってきた。
「あ……真杜……」
コイーバ・ロブストスの
「梨乃、一寸出て行って呉れないか? 此の男と、少し話が有る」
緊張感の漂う声で告げた。俺の身体は、一瞬にして
「あ……う、うん……」
梨乃さんは宛らゲル状に為った陽香を肩で支えつつ、退室していった。俺は脳内の片隅で陽香を心配しつつ、本音は其れ所ではなかった。
尋常ではない威圧感が俺を呑み込み、背筋に汗が一滴垂れていく感覚を
短髪の女子高生はベッドに
「眼を逸らすな」
鋭く発せられた其の言葉に、俺は従う
……何秒経ったのだろうか? 女子生徒は俺を見透かす様な、
「もう良い。分かった」
と言った。……彼女は、霊能者か何かなのだろうか?
「お前、何て云うんだ?」
「え?」
「名前だ。名告れ」
「あの……柿手……得附って云います……」
俺はW47Tを開き、
「柿手、か……」
彼女はそう呟いたきり、黙り込んだ。俺は耐え兼ねて、
「
と訊いた。
「あぁ、済まない。相手に名告らせておいて自分が名告らないのは無礼だな。私は
ぺこ、と辞儀をする真杜さんの仕種は、此れ迄の
「あ、はい、宜しくお願いします」
「お前は」
俺の言葉を遮る勢いで、真杜さんは切り出した。
「梨乃の何だ?」
……何だ、と云われても、俺が訊きたい位だ。
「梨乃と、公衆面前で……口付けをした、と聞いたが」
…………何か、随分
「してないですって! 誤解なんですよ、藍田先輩の見間違いなんですよ!」
取り敢えず、こんな感じでどうだろうか。他にも色々釈明したい部分は有るが。
「本当か?」
「本当です!」
「間違い無いか?」
「間違いないです!」
「絶対か?」
「絶対です!」
「事実か?」
「事実……じゃないんです!! 信じて下さい!」
真杜さんは押し黙った。俺は此処ぞとばかりに、
「オレは、tRPG部の入部希望の一年です。梨乃さんが茶華道部の方達にオレを紹介しよう、って事で作法室に行っただけです。本当に、其れ以外の何でもないです! 確かに、可愛らしい
盛大に墓穴を掘った。掘削機の先端がポルト・アレグレから顔を出す程の。途中で気付いたものの、もう後戻りも誤魔化しも効かない地点だった。
「い……否、ち、違くてっ!!」
俺は失地回復に努めようとしたが、真杜さんは突然破顔し、
「否、別に私は梨乃を好いている者が居ようと、其れ自体は構わない。寧ろ、
其処で真杜さんは言葉を止め、トマトを放り投げたら真っ二つにする比類の無い切れ味を誇る真剣の如き眼差しを俺に飛ばし、
「信用に値する人物か否か、梨乃と接触させても良い人物なのかは、
絶対零度の冷徹さを伴って、俺に言葉を突き付けた。まるで、俺の覚悟を試すかの様に。要求されている覚悟が何を意味するか、此の時は分からなかったが、俺は
「まぁ、私の見立てでは、お前は嘘を吐く様な人間ではなさそうだ。そう堅苦しく為るな」
そう言った真杜さんの表情が
「実は私も、tRPG部に所属しているんだ。柿手、お前がtRPG部に入部し、そして我々半幽霊部員派として活動するであろう以上、今からする話は確実に聞いて貰う。そして、此の話は他言無用だ。約束出来るか?」
再び顔付きを引き締めた真杜さんに釣られて、俺も真剣な面持ちに為って頷いた。
「私は梨乃と同居している。梨乃が私の実家に預けられている形だ」
「はい、一緒に住んでる、って云うのはさっき梨乃さんから聞きました」
「そうか。……で、梨乃は母親を亡くしている。5歳の頃、だったかな?」
「え……」
何処を見ても一点の曇りの無い様な梨乃さんの顔を思い出し、俺は驚いた。彼女にそんな“薄幸要素”が存在するとは到底思えなかったからだ。
「梨乃の母親は、不慮の事故で亡くなった。そして、梨乃の父親は、妻を溺愛していた。大袈裟に言えば、運命に翻弄された夫婦と娘の物語、だ。梨乃の父親は、最愛の妻を唐突に亡くし、甚大な精神的
俺は
「事態が事態だから、仕方無い。私の家で梨乃を預かる事に為った。其れ以前から、梨乃とは家族
真杜さんは懐かしむ様な顔で窓の方を見遣った。窓は真っ白な耐火性のカーテンが覆っていたが、窓が開いているのだろう、時折カーテンが
「実は、梨乃の母親が亡くなる前の晩、私は梨乃の母親から或る
真杜さんは
「私は其の言葉は、梨乃の母親の遺言だったんだ、と思っている。誰が何と言おうと、な。だから私は、其の遺言を守るんだ。
強靭な、超硬合金の如き意志を、真杜さんは垣間見せた。俺は唯、口を半開きにして聞き入るだけだった。
「…………悪いな、出会ったばかりでこんな重苦しい話を聞かせて。然し、梨乃と近しく接する人間には、必ず聞いて貰う事なんだ。だから煙たがらないで呉れよ?」
真杜さんはそう言うと美しい微笑みを見せた。
「……だから私は、梨乃を傷付けたり、危害を加えようとする輩には容赦しない。其れがどんなに、梨乃と親密な人間でも、だ。其れだけは、肝に銘じておいて呉れ」
穏やかな微笑みの儘、真杜さんは両の眼に
真杜さんと別れた俺は、一旦tRPG部室に寄り、放ってあった自分の通学鞄を手にすると、宮殿部長と言海先輩に構わず、其の儘帰路に就いた。頭脳が混乱していた。俺の
自転車を漕いでいても、俺の気は
真杜さんとの対面以降、陽香の姿を見掛けなかった事と、梨乃さんと「込み入った話」をし損ねた事を思い出したのは、帰宅して私服に袖を通した時だった。因みに、陽香が帰って来たのは俺が帰宅してから一時間程経ってからで、相当梨乃さんに骨抜きにされたらしく、夕飯の最中も頬は上気した儘だった。其れと無く梨乃さんに就いて訊いてみた所、
「あの人は、何か……凄いね。可愛いし、強引だし、大胆だし……。一寸、思い出しちゃった……」
との事で、まぁ何だ、白けてくる程に態度が変容していた。何はともあれ、陽香の梨乃さんに対する変な嫉妬みたいな感情は綺麗さっぱり浄化された様で、俺は小さく安心した。其れにしても、梨乃さんは陽香にどんな
……そう考えて、俺は自分に芽生えつつある新たなる
翌日の昼休み、其のCメールは、差出人不明の状態で俺の東芝製端末に受信された。
【緊急招集! 今すぐtRPG部の副部室に集合! 来なかった場合は、腹か首をくくることになるんじゃない?】
恐ろしすぎる文面の
差出人が分からない状態ではあったが、其の送り主が誰であるかは瞬時の特定が可能であった。人気の少ない昼休み中の別棟の其の部屋の前に佇んでいたのは、矢張り、梨乃さんだった。腕を組み、
「遅いわよ! 何ちんたらしてんの?! もっと斯う、飛脚が『
ワープ可能なドアが有るなら飛脚じゃなくても大して移動時間は変わりませんよ、と俺が礼儀として突っ込むと、梨乃さんは苛付いた表情から一瞬、真顔に為り、そして照れ隠しの笑顔へと表情を変化させた。其の
「……で、何なんですか? 用件は。昼喰おうとしてたんですから」
俺は小さく咳払いをして気を取り直すと、訊いた。すると梨乃さんは背伸びをして俺の肩に左腕を回し、
「昨日、何で帰っちゃったのよ? 真杜と話した後」
某みさえママ宜しく、俺の側頭部に右拳を当て、其の
「い、痛っ! 痛ぇっすよ!!」
梨乃さんは俺が喚くとピタリと動作を停止させ、
「未だ、済んでない話が、有るでしょお?」
何処か
「良いから、さっさと入りなさい」
梨乃さんは制服のポケットから鍵を取り出し、開錠した。近頃人気のキャラクターが
「ウルフ、此の世は便利なのよ、実に。
との回答だった。要するに、無断で合鍵を作らせた、と云う事だろう。何故「無断で」と断言するのか、と云えば、生徒に学校の教室の合鍵を複製する許可を下す関係者など常識的に考えれば居る筈が無いからである。
真っ直ぐに部屋の奥の副部室の入り口へ進むと、梨乃さんは白い扉を開け放った。続いて入室した俺がドアノブを引くと、調整の効いたドアクローザーのお蔭で、アクリルの嵌め殺し窓が付いた扉は音も無く閉まった。
「訊きたい事、有るんじゃないの?」
梨乃さんは明かりの点いていない部屋で、大きく取られた窓から入って来る陽光を背に、
「え……と、じゃあ、
梨乃さんは
「見せてないわ。
後半を意味深に発音した。
「確実に、在るんですね、その……動画のデータは」
「うん」
梨乃さんは何の躊躇いも無く言った。恐らく、事実なのだろう。あの時、梨乃さんのハンディカメラは
「何で、あの時カメラを……?」
俺は素朴な疑問を呈した。梨乃さんが予知能力か何かの持ち主か、決定的瞬間を収められる、と云う
すると梨乃さんは腰の辺りに提げたベージュの腰袋から黒い
「此れね、父さんからの
しんみりと話し出した。俺は其の落差に一瞬付いていけず、精神的前のめり状態に為った。然し、直ぐに其のテンションに順応し、
「……朋尾先輩から聞きましたけど、梨乃さんのお父さんって、音信不通なんじゃ……?」
と返した。……「お父さん」とか、
「うん、でも真杜のお父さんから渡されたの。『父さんから、
しっとりとした雰囲気に一瞬流されかけたが、梨乃さんの言葉は俺の疑問には答えていない。俺の怪訝な表情に気付いたのか、梨乃さんは、
「でね、折角貰ったんだし、やっぱ
と語った。後半、歯切れが悪いのは、梨乃さんが赤面したからであろう。斯う云っちゃ何だが、此の人はキス程度で恥じらう人なのか。思えば昨日、依琉さんとそう云う話に為った時も梨乃さんは恥じらっていた。更に云えば、カメラを録った其の後も、梨乃さんは赤面して去ってったっけ……。
「
俺の継ぐ言葉を遮る様に梨乃さんは言った。
「……え?」
「データを消せ、って事でしょ? 其れには応じられませーん」
梨乃さんは悪魔、それも最上級の大魔王の如き悪い笑顔を浮かべている。
「……何故です?」
俺にはそう言うしかなかった。本当に、理由が解らなかったのだ。
「だって……此れさえ在ればアンタと佐峰先生が意の儘、って訳でしょ? そんな
言い切られた。俺は改めて思った。豪い相手に弱み握られちまったなぁ……、と。
「其れに、此のザクティも
そう言われると、俺は二の句が継げない。
「佐峰先生にも何かして貰いましょう! そうねぇ…………あ! 良い事思い付いた!」
熟考の末、梨乃さんは何らかの
あの日以来、俺は佐峰先生とは会っていなかった。昨日も、気絶する寸前に見掛けただけで会話はしていない。俺は連絡先を知らないし、先生も俺と個人的な連絡を取ろうにも、其の術が無いのだろう。
「思い付いたが吉日! 善は急げ! 行くわよ、ウルフ!!」
昨日、宮殿部長が梨乃さんを“直情径行唯我独尊を地で行く鉄砲玉”と評していたが、正に的を射ていると思う。ダーツで云うならダブルブルって奴か。梨乃さんは俺の手首をまたしても鷲掴み、意気揚々と部室を後にする。かと思いきや、部屋を出ると意外にも施錠の為に立ち止まり、無認可の
梨乃さんの足が向かった方向は案の定“管理棟”と呼ばれる職員室や校長室、事務室とか進路指導室などが詰め込まれた、教室棟とアリーナ棟を結ぶ役割を果たしている建屋だった。勿論其の中でも、梨乃さんのお目当ては豪く広い床面積が確保された職員室だ。整然と数多の事務用机が並ぶ様は、さっぱりした内装も影響して、宛ら中堅IT企業のオフィスである。
「おっ邪魔っしまーす!!」
比較的絞られた音量で校内放送のJポップが掛かる中、穏やかな休憩を満喫している職員一同に自分の到来を告知すべく、引き戸を開けるなり梨乃さんは加減を知らないのではないか、と疑う程の声量で挨拶を飛ばした。何事か、と一気に騒然と為る職員室内は、然し梨乃さんの姿を眼に入れた教師から順に囁きが消え、ざわついた声は
それにしても、何だろう。教員連中の反応が薄いのが気に為る。
梨乃さんの奇行は教職員全員の知る所であり、慣れたもの――或いは何時ものだ、と云う僅かに諦念を含有した態度に見て取れた。または、唯単に梨乃さんの目的であろう
梨乃さんは職員室内も我が物顔で闊歩し、梨乃さんが過ぎ去った後の先生達は安堵の溜め息を一様に漏らしている。……ひょっとしたら、彼女は常に、絶大な孤独感と取っ組み合っているのかも知れない――と、梨乃さんの後を付いて行き乍ら思った。
今の状態を
職員室内が安堵と緊張の
「
佐峰先生は、例の件もあって頬を硬直させている。当事者である所の俺も同伴しているのでは猶更、気が気ではないだろう。
因みに俺は、何故か其処迄気不味さは感じなかった。
佐峰先生は応じたくない筈だが、生徒に声を掛けられ、然も衆人環視の中では
「どんな要件?」
と返答した。俺はそんな先生の様子が見ていられなく為り、眼を逸らした。すると、我等が1年機械科1組の主担任で機械科教諭の
「おぉ、柿手君。大丈夫だったか? 昨日は」
「え……えぇ、まぁ……」
俺は理解した。昨日、真杜さんに背負い投げを喰らった後、気付いたら俺は保健室に転がっていた。作法室には男手が居なかったから、誰かしらの手を借りる事と為る。
推測だが、真杜さんは昨日保健室に顔を出す前にこってり絞られていたに違いない。
「まぁ……その、何だ……苦労するかとは思うが、基本的には
端似教諭はそう言い残し、紙コップを手にして席を離れた。果たして俺は何を頼まれたのだろう……? と疑問に思いつつも、職員室を出ようとしている梨乃さんと佐峰先生の後を追った。
管理棟北側の
「先生? 先ず貴女には拒否権は有りません。其の事は肝に銘じておく様に。ライㇳ?」
梨乃さんは佐峰先生の眼前に自らの顔面を近付け、ぴしぴしと虚空に人差し指を突き刺し乍ら言った。
「……えぇ」
佐峰先生は不承不承乍ら頷いた。其の表情は不満げではあるが、内心は何を言われるのか分かったものでは無いので、恐らく佐峰先生の背筋には幾筋もの
「では……発っ表ぅします!」
梨乃さんは往年の某バラエティ特番での大物司会者の如く、大袈裟に抑揚を付けた口調で宣言した。思わず生唾を飲み込む佐峰先生と俺。梨乃さんは大きく息を吸い込み、発表を噛ました。
「先生には、tRPG部の副顧問に為って頂きます!!」
俺は「何だそんな事か」と胸を撫で下ろしたのだが、教職に於ける顧問と云う役割の実態を知る佐峰教諭は反発した。
「……あのね、私はもう既に茶華道部の顧問を務めてるの。其れなのに加えて他の部活の面倒を見ろって言われても、一寸勘弁して貰いたいわ」
「あのねぇ、先生」
角を
「初めに言ったでしょ? 貴女には拒否権は無いの。存在しないの。在り得ないの。其処ん所を理解して下さいよ。我等の
敢えて憎たらしく、そして威圧的に迫る梨乃さんに、赤面しつつ下唇を噛む佐峰先生は、誠に失礼乍ら、可愛らしかった。当人は其れ所でないのだろうが。
「で、でも……、tRPG部には既に正顧問である端似先生が居られるじゃない。其れなのに、私が副顧問に為った所で、何もする事が無いと思うけど?」
「良いから従いなさい!! 動画ファイルばら撒くわよ?! 困るのはアンタだけじゃない、アンタの親族もウルフや其の親族、学校関係者、数え切れない人間に影響は波及していくわ! ……そう為っても良いの? アンタ一人が僅かに苦労するか、
「……分かったわ……」
佐峰先生は観念して屈服した。完膚無き迄に畏縮しきっており、圧倒的な迄に理不尽な梨乃さんに従うしか術が無かった、と云う方が適切だろうか。此れから何を押し付けられるのか、胸中の容量を軽く
「じゃあ先生、携帯出して?」
一転してにこやかに微笑み、天使の化身の如き表情をする梨乃さんに、俺は見惚れつつも底知れぬ恐ろしさを覚えた。
「…………」
強張った表情でポケットから白いシャープ製の端末を取り出した佐峰先生の右手から其れを強奪した梨乃さんは、先ず自らのポケットに蔵っていた白いパナソニック製のDoCoMo端末から赤外線通信に因り
「梨乃さんって、携帯2台持ちなんですか?」
と訊いた。梨乃さんは手許を注視した儘、間髪入れずに答えた。
「見れば解るでしょ?
そう言って梨乃さんは佐峰先生にウィンクを飛ばしつつ、810SHを返却した。と思いきや俺に向き直り、
「
と左の掌を俺に突き出し、催促した。DoCoMoとauの二台持ちと云い、
俺が学ラン風の制服のポケットから橙色の二つ折り端末を取り出し、梨乃さんに手渡すと、梨乃さんは京セラ製の
「あ、あたしがW41K持ってるの、他言無用だからね! あたしが『教えたい』と思った人にしか知らせてないんだから。先生も!」
俺にW47Tを返しつつ梨乃さんは言った。俺は、其の「教えたいと思った人」に自分が選出された事に対して
云う迄も無く、2007年の我等が県立学科技術高校は基本的に携帯電話の持ち込みは禁じられている。だが、其の禁止事項が在校生の事情には全く合致していない事は明々白々である。防犯対策に為る事も有り、保護者も積極的に携帯電話を
「んじゃあ宜しくねっ、佐峰副顧問!」
梨乃さんはそう言い残し、踊り場から抜け出ていく。生徒の携帯電話使用を指摘する事も出来ず、悔しさ半分、恐怖半分で携帯を両手で握り締め立ち尽くす佐峰先生を
「あの、何で佐峰先生をtRPG部の副顧問にしたんですか?」
俺は先を歩く梨乃さんに
「
梨乃さんは大股で歩き乍ら言った。……はて、此れは一体どう云う意味なんだ? 俺が読解に苦労している様を横目で見た梨乃さんは、
「……じゃあ、
あぁ、そう云う事か。俺は
「梨乃さん、佐峰先生をタクシー代わりに使う気ですか……」
「うん。アッシーちゃんに為って貰おうかな、って!」
一切の邪気が無い、純度100%の笑顔で梨乃さんは言い放った。まぁ、強いて言うなら「アッシー君」ってのは此のご時世、どうかと思うけど。
「あ、死語だった?」
「ええ、大分前にお亡くなりに為ってると思いますよ、其れ」
自分から振っておいた癖に、梨乃さんは頬を染めて
「べ、別に良いでしょそんな事っ! 生意気なのよ、ウルフの癖にっ!」
等と
「否、死語って言い出したのは梨乃さんでしょ? オレからは何も言ってないじゃないですか」
と返答して遣った。すると梨乃さんは
「うっさい
とあらぬ中傷をして直ぐ横の教室に突入していった。どうやら此処は2年機械科1組の
「あの、解散で良いですか?」
俺が梨乃さんの背中に訊くと、
「はい解散っ!!」
と云う声と共に威勢良く引き戸が閉まった。独り上級学年の廊下に取り残された俺は、投げ掛けられる複数の視線を感じ、急速に
あっと言う間に放課後だ。俺が別棟東館3階のtRPG部の部室に入ると、待ち構えていた様に宮殿部長と言海先輩が立っていた。
「大丈夫だったか? 柿手君!」
「昨日何か色々事件が有ったみたいだけど……?」
相次いで訊かれた。自分達の所属する部活の後輩の女子生徒が入部予定の新入生を背負い投げた、となれば、此の反応も何ら不思議ではない。
「あぁ、まぁ……平気ですよ」
当たり障り無い
「五輪君もそうだが、あの朋尾君も負けず劣らず、困り者だなぁ」
はぁ、と溜め息を吐き乍ら、宮殿部長は
「五輪さんの事に為るといっその事、眼の色が変わっちゃうから、朋尾さんは」
「それにしても、一本背負いはどうかしてるだろう……」
若干事実と異なっている。俺が受けたのは背負い投げだ。一本背負いなんぞを喰らっていたら、俺は受け身なんて一切出来なかっただろう。
「ま、まぁ、ウルフ君もいっその事、無事だったんだし……ねぇ?」
言海先輩は救いを求めて俺に話を振った。確かに、他人の
「え、えぇ。僕は大丈夫なんで……。所で、梨乃さんって随分変わり者扱いされてますけど、今迄どんな事を仕出かしてきたんですか?」
言海先輩はあちゃー、と云う顔をした。俺は其の理由が分からなかった。
「五輪君はねぇ、先ず入学早々、教師に暴言を吐いて注目を浴びてね、其の時点で教師陣には目を付けられていたね。後は、大きいのはやっぱりあれかな? 部活荒らし」
「部活荒らし?」
「ああ。tRPG部に入部後にね、退屈したのか知らんが、五輪君が朋尾君と一緒に他の部活の活動に乱入する事を幾度か遣ったんだ。題して『tRPG部
「インベイジョン?」
「ああ」
宮殿部長は一応、周囲を見回して、梨乃さん本人が居ない事を確認してから、続けた。
「彼女が言うには、
「あ、あぁ……」
俺は漸く理解した。言海先輩があちゃー顔をした理由を。俺は再度、方向修正を図った。
「と……所で、tRPG部の顧問って、端似先生だったんですね」
「ああ、そうだが。其れがどうかしたか?」
「端似先生、
宮殿部長は眼鏡の縁を光らせ乍ら人差し指で押し上げ、言った。
「其れはな……、
「ちょ、長君失礼でしょ?!」
言海先輩が突っ込みを入れる。此の2人はこんな具合で関係性が完成されているのだろう。然し、宮殿部長も見た目とは裏腹に遠慮の無い物言いをする御仁だと思う。其の意味では、俺からすると彼も充分変人だ。
「はぁ……」
「少し昔話に為るがね……、僕は1年の時に此の部を立ち上げたんだが、其の時に中々教師陣に理解を得られなくてね、片っ端から教師達に頼み込んでいったんだ。其の中で端似教諭だけが引き受けて呉れた。後に為って、僕も訊いてみたんだよ。『何故了承して下さったんですか?』とね。すると、彼は一言『楽そうだったから』と宣った。工作部等の機械科系の部活動は大会や発表会前に為ると遅く迄居残ったり、土日返上で作業する事も多いらしくてね。『他の部活の顧問をしていれば、そっちの仕事が有る、と言って抜けられるだろう?』と、僕に得意そうに言ったもんだ。もう一つ、『誰も引き受けない事って、遣ってみたいと思わないか?』と僕に笑い掛けたな。まぁそんな訳で、変わり者の彼が、我がtRPG部の顧問と相為ったんだ」
そんな
「へぇ~、そーだったんだぁ~」
背後から声がした。俺が振り返ると、当然の如く、其処には梨乃さんが居た。直ぐ横には真杜さんも居る。
「そんな歴史が有ったんだねぇ~。勉強に為ったわ。宮殿部長も頑張ったのねぇ」
梨乃さんが
因みに、弁当は最初に副部室に入った瞬間から食べ始めた。
翌日木曜日は、朝のHRが潰れ、代わりに全校集会が行われた。何とも中途半端な
集会の内容も、取り立てて特筆すべき事は無く、本当に何故今日行われるのか
アリーナに並ぶ無数の生徒の列、其の中の中央付近から、
「ハナシ長いオトコ嫌――――い!!!!!」
人生の大先輩の有り難い御話を、フェーズ理論で云う所のフェーズⅡ、
其の声は紛れも無く、2年機械科1組在籍、tRPG部所属の、五輪梨乃のものだった。
4時間目終了後、詰まり昼休み、またしても俺のW47TはCメールを受信した。
【ウルフ、もし良かったら、今から副部室まで来てもらえる?】
俺は其の文面に何か異様なものを感じ、喰い始めようとしていた弁当を再びほったらかし、携帯を握り締めて別棟東館3階へと直行した。当然乍らtRPG部室は鍵が掛かっておらず、引き戸を開けた俺は迷わず副部室へと歩を進めた。
「梨乃さん……?」
軽量な板で出来た白い扉を開け、俺が室内に入ると、一人掛けのソファに腰を下ろし、背中を丸めて両膝を抱き、
「あ……ウルフ、来て呉れたんだ……。御免ね……?」
俺は驚愕した。だが、其れは表情に出る事は無く、外見上は
俺の中での、梨乃さんの
「…………どうしたんですか、梨乃さん……」
情け無く気の利かない事に、数回喉を鳴らした後、俺は斯う声を掛ける事しか出来なかった。
「朝の集会の奴、気付いた……?」
梨乃さんは若干乍ら声の
「え、えぇ。あれ、良かったですよ。会心の一撃ですね。傑作でした!」
俺は湿っぽい空気を明るくしようと努めた。
「そう……? じゃあ、遣って、良かった……のかな?」
どうやら俺には除湿の才能は無いらしい。梨乃さんは相変わらず沈み込んだ儘だ。
「まぁ、座ってよ……」
俺は梨乃さんに促される儘、手近なソファに腰掛ける。梨乃さんはへへ、と笑うと、
「怒られちった……こっ
と呟いた。俺は胸が締め付けられる様な苦しさに
「あたしはさ……、良かれと思って遣ってんだよ? 此れでも……。でも、解っては貰えないんだよね、中々」
俺は今にも
「…………無理、しなくても良いっすよ」
気付いた時には、口走っていた。半自動的に溢れ出しているので、言葉遣いが粗野だが、仕方無い。
「……え?」
「たかが数日しか見てないっすけど、オレが思うに……梨乃さん、無理して
梨乃さんは押し黙っている。俺は自分の胸の
「そりゃ人間だから、
梨乃さんの肩が、震えている。
「オレ、未だ梨乃さんと出会って日が浅いから良く分かんないっすけど、梨乃さん、ガッチガチに
「う……るふぅ……っ」
梨乃さんが顔を上げた。幾筋もの涙が頬を伝っている。
「……話なら聞きますよ。オレ、案外聞き上手だし」
梨乃さんは一拍置いて泣き乍ら微笑み、
「其れって、自分で言う事じゃないっしょ」
と
「あたしね……、本質的に誰からも好かれないんだよね……。基本的に誰からも愛されないって云うかさ……」
梨乃さんは独白し始めた。俺は、
「そんな事無いっすよ!!」
……とは、言えなかった。即応したかったのだが、何故か
「ほら、あたしさ、真杜の家に
俺は小さく曖昧に
「小っちゃい頃から、友達なんて真杜と依琉位しか出来なかったしさ。だから、あたしは人には好かれないんだ、って。だから独りで生きてく為には手に職付けなきゃ、って事で機械科に居るんだけどさ。……其れは
梨乃さんは喋る内にも止め処無く涙を溢れさせ、そして言葉を詰まらせた。
推測にしか過ぎないが、彼女は其の生き方を選択した所為で、余計に傷付いた事も有っただろう。相当に、苦しんだ筈だ。相当に、悩んで、
然し、偽りの性格と云うものは、
俺は自然と梨乃さんを抱き締めようとした。だが、
「今は良いっすよ、泣いて……飾らないで……。其れから、
梨乃さんは幾度となく頷いて、嗚咽を漏らした。
暫く泣いていた梨乃さんは、深呼吸を一つすると、
「有り
と言ってブラウスの袖で涙を拭い、
「ふっっかぁーつ!」
と勢い良く宣言して立ち上がり、伸びをした。
「もう大丈夫。世話掛けたね。戻って良いわよ、ウルフ」
そう言う梨乃さんは普段と全く遜色無く、“何時も通りの梨乃さん”が其処に居た。俺は何故か嬉しくなって、梨乃さんに笑顔を返し、教室へ戻った。弁当はまた喰いそびれた。
7時間目の体育の授業が決定打と為って、
「おっと……大丈夫か?」
部屋の中から出てきた男子生徒に身体を支えられ、俺は危うく転倒を免れた。
「あ……、済みません」
俺は自立状態を回復して一歩距離を取り、相手の顔を見た。
「……お前が例の新入部員?」
微笑を浮かべ、髪を伸ばした、爽やかだが何処か憂いが有る男だ。此処で俺は気付く。何故、此の男は副部室内に居たのだろう? もしかすると、梨乃さんと真杜さん以外にもtRPG部には幽霊的存在の部員が居るのだろうか?
そして俺は思い至る。其れらしい疑問を
「どうしたんですか? 先輩」
全く以て、手に負えない感情だ。
「あ、ウルフ! さ、入りなさい」
俺の姿を眼に入れるなり、ずいっと室内から腕を伸ばし、俺の手首を掴む梨乃さん。俺の理不尽な感情はあっさりと消え去り、ほんの微かな幸福感が心中を
「おーおー、随分気に入られてんじゃねぇか、新人!」
男子生徒は澄ました顔を破顔させ、俺の肩をポン、と叩いた。
「じゃあ、俺行くわ。邪魔しても悪ぃし」
爽やかに言い残すと、宮殿部長と
俺を前のめりの惨劇から救って呉れた彼の名は、
「あの人は偶に顔を出す位だけど、まぁ気難しい人じゃないから、ウルフも仲良く遣ってよ!」
そんな風に言う梨乃さんの声も、人間の生存本能の前では無力に等しかった。空腹に
「あの……、済みませんオレ、今日昼喰ってないんですよ。今から一寸弁当喰っても良いっすかね?」
梨乃さんの喋りが一段落した隙を見計らって、俺は言い放った。話の
「2日連続だな。食事を抜くのは身体に良くないぞ。何か有ったのか? 昼に」
説教臭さの有る発言をしたのは、此の
「ええ、まぁ、そのー……」
俺は上手い事お茶を濁そうと、図らずも嘗ての総理大臣みたいな台詞で二の句を探した。
「ウールフくーん!!」
鼓膜が爆ぜるんじゃないか、とばかりの声量で梨乃さんが俺の真横で叫び、俺の肩に腕を回すと、
「何も無いでしょー、別に!」
と満面の笑顔を俺の横顔3
「いや、その……」
俺が
「何も無いでしょう、別に……」
張り詰めたピアノ線の如き鋭さを伴った眼で、寸分
「……まぁ良いが……、兎も角、褒められた事じゃない。余り無理するなよ?」
空気を読んだのか、真杜さんはそう言って場を収めて呉れた。俺は今更乍ら梨乃さんの過剰な反応に疑問を抱きつつ、姉特製の弁当の蓋を開けた。
「探検に繰り出すわよ!!」
弁当を平らげた俺に待っていたのは、高らかに宣言された梨乃さんに因る市中引き廻しの刑であった。探検も何も、一年以上此の学校に居るでしょう、と云う俺の真っ当且つ面白味
「極端だろう?」
梨乃さんが肩で風を切り裂いて廊下を闊歩する後ろをスリップストリームで付いていく俺に、真杜さんがひっそりと話し掛けてきた。
「え?」
何と無く、梨乃さんに聞こえない方が良い、と思ったので、俺は顔を半分だけ真杜さんの方へ向け、小声で応対した。
「朝礼の件、知ってるよな? 彼奴、朝の件の後、校長やら教頭やら学年主任やら総出の中こっ酷く叱られたみたいでさ、昼休み迄滅多に無い位落ち込んでたんだよ。まぁ正確には梨乃と同じ
微笑みを浮かべた真杜さんは小声で言った。俺は昼休み、自分が梨乃さんに対して偉そうに講釈を垂れたのが
「そう云う所が、より一層護らなきゃ、って思う
真杜さんは柔和な表情の中に厳粛な気配を漂わせて、言った。俺は、真杜さんが本気で、梨乃さんを日夜護ろうとしている事、護っている事を改めて思い知った。
「でも、そんな梨乃を快く思わない連中も、居る」
真杜さんの表情から穏やかさが、徐々に消え失せていく。
「得附、お前は正直、どう思ってる? あの
俺は暫し考えた。そして真っ直ぐ、梨乃さんの後ろ姿を眺め乍ら言った。
「オレは……良いと思いますよ。ああ云う人が居ても」
真杜さんは嬉しそうに笑みを浮かべ、
「そう言って呉れる限り、お前は私の仲間だ。言い換えると、私はお前の味方だ。此れからも梨乃を頼むぞ」
と激励し、俺の肩を叩いた。柔道
そうそう、忘れない内に特筆すべき事を記しておこう。道中、梨乃さんは何時ぞやのtRPG部
俺と真杜さんが運動場の傍らで見守っていると、梨乃さんは
「此の中で一番速い奴、出て来いやぁ!!」
と一昔前の
「
手旗を振り上げ、火蓋を切った部員に合わせ、ゴール地点に立つ部員が
「五輪と走ってた
「あぁ、確か徳井橋って云う娘だっけ?」
と云う会話を聞いた。何時か陽香が言っていた、中体連に出場したと云う俊足少女と梨乃さんの対戦相手の女子部員が同一人物である事を俺が知るのは、未だ先の事だ。
一瞬にして退屈と倦怠に
「なぁ、柿手ってさ、五輪先輩とどんな関係なん?」
此処数日で他愛も無い事を喋り合う様に為った級友の一人、
「そうそう! 昨日の朝礼の時の女の先輩だろ? アレ凄かったよなぁ!」
多々納の隣に座する
「昨日五輪先輩が色んな部活に顔出してたらしいけどさ、其の隣にもう一人2年の女の先輩と
多々納は追及してきた。俺は内心、面倒臭さを感じつつも、素直に答えた。
「あぁ、別に、あの人は部活の先輩だよ。昨日はあの人の我が儘に付き合わされただけ」
へぇー、と空虚な反応を示す級友達。二酸化炭素が抜けきり、単なる人工甘味料と着色料の水溶液と化した炭酸飲料の様な味気無さに、俺は肩透かしを喰った。
「お前、結構有名人に為ってんぞ、校内でさ」
ふと、布通之木は俺の顔を見て、言った。
「変わり
確かに其の通りだ。俺は純粋に納得した。と同時に、布通之木が意外と心理を突く慧眼の持ち主である事に軽く驚いていた。上から目線の物言いだが、正直見直した。
「ああ……そうだな。まぁ気ぃ付けるよ」
俺はそう返答した。言い終えた語尾に、HR開始のチャイムが覆い被さり、俺達の井戸端会議は一旦お開きと為った。
――想えば此の遣り取りが切っ掛けだろうか。俺の心の中で、仄かで微かで僅かな、梨乃さんに対する確たる理由の無い嫌悪が生まれたのは。そして此の、理由の無い馬鹿げた嫌悪が、梨乃さんを傷付け、真杜さんを激昂させ、俺自身を後悔
本日の出張先は恒例の作法室のみで、未だ3日ほどしか経っていないが、着実に日常と化しつつあるtRPG部幽霊部員としての活動は円満に終焉を迎えた。――そう思い、胸を撫で下ろしかけた俺は要するに、まだまだ甘い、と云う事なのだろう。
窓際に在る
「真杜、一寸先に帰ってて? ウルフと話が有るからさ」
既に薄暗い屋外の所為で鏡と化した窓に映る自分を見詰めつつ、言った。気を抜いていた俺の心臓は、危うく一旦停止しそうに為った。
「私が居ると不都合な話題なのか?」
「い……否、そう云う訳じゃないけど……、お願い、ね?」
窓の方から振り返り、額の前で両手をパン、と合わせた梨乃さんは、此れ以上無い程の清純派スマイルで真杜さんを陥落しに掛かった。恐らく、梨乃さんが下手に出る相手は、少なくとも此の校内に於いては、真杜さん以外に居ないだろう。
「……分かった。でも、孰れ話して呉れよ。隠し事は無しだ。其れに……私だけ
にこりと微笑する真杜さんと、真杜さんを見遣る梨乃さんの間に、俺は堅牢で強固で深遠な信頼関係を見た、気がした。否、そんな気に為っただけで、実際的には複数の人間の外見を見ただけで当該人物同士の信頼関係など分かり得る筈も無いのだが。
そして頼りに為る、味方である真杜さんが退室した事で、俺と梨乃さんは二人きり、相対する事に為ってしまった。前述した通り、根拠の無い、馬鹿げた嫌悪を仄かに梨乃さんに抱いていた俺は、梨乃さんと二人で居る事に対し、若干
「ウルフ! 明日一日あたしに付き合いなさい!!」
と云う、本来なら涙を浮かべて
「……良いですよ。何処行くんですか?」
と、素っ気無い返事をしてしまった。今思い返しても、此の時の俺だけは殴り飛ばして遣りたい。左側頭部にハイキックを喰らわせて数m後方へ吹っ飛ばし「愚か者!」と一喝して遣りたい。
「其れは明日のお楽しみー! 明日は明日の風が吹くんだから!」
るんるんと云う効果音が背後に現れそうな程上機嫌な梨乃さんを見るのは、今思えば数少ない事態で、詰まり此の時の俺は至極勿体無い事をしている訳であり、其の意味でも俺は上段蹴りを繰り出したい衝動に駆られる。右足が
「待ち合わせはどうします?」
と、面倒臭そうに、否、面倒臭がっていると思わせたい素振りで梨乃さんに問う俺の態度を思い出すだけで
「ウルフは何処等辺に住んでんの?」
梨乃さんは俺の胸糞悪い態度を全く意に介さずに返答した。斯う云う時、梨乃さんの大雑把な性格は助かる。……まぁ、其の大雑把な性格も、演技である可能性は否定出来ないのだが。
「えっ!? 本当に? すっごい近いよ! じゃあさ、あそこ分かる? あの団地の真ん中の公園!」
俺が姉の住むアパートの住所を町名迄言うと、梨乃さんは更に機嫌を良くし、場所を指定した。
「OK? OK! じゃあ其処に、9時集合ね!」
右手の
「朝ですか? 早いっすね……」
「何言ってんの?! 大して早くないでしょ! 平日と比べたら!」
「ま……まぁ、そうっすけど……。休日はゆっくりしたいなぁ……、なんて」
「甘ったれてんじゃないわよ!!」
俺が言い終わる寸前に梨乃さんの怒号がかっ飛んだ。
「此のあたしのお
「はぁ……」
俺はうんざりとした仕種で遣り過ごし、帰路に就こうとした。
「んじゃ、明日の9時ですね。オレ、今日はもう帰りま」
「あっ、一寸待って!!」
梨乃さんは去り行く俺の左腕を掴み、思い切り引っ張った。進行方向とは真逆のモーメントが加わった俺の肩が悲鳴を上げたが、其の叫びは梨乃さんに届く筈も無い。
「な、何すか……」
「明日、
「は、はぁ……」
「じゃっ、宜しくね!」
俺を引き留めた梨乃さんは、俺を差し措いて部屋を後にした。後に残された俺は、夕陽が差し込む副部室の中で、何故梨乃さんは其れ程迄に自転車の
「おーい、柿手君? 未だ帰らないかい?」
正部室での活動を終え、言海先輩と共に部室を施錠しようとする宮殿部長が俺に声を掛けた。果たして、彼等正式な活動をしている側には他の部員は居るのだろうか? そう思ったが、抑も半幽霊部員側の人員の全貌も知らないのに、正規部員側の人員など知る由も無く、主に精神面で明日に備えておきたい俺は即座に返事をし、金曜
何故、梨乃さんは俺に自転車のメンテを念入りにする事を命じたのか。其れは、朝が来て、俺が待ち合わせ場所に訪れれば、自ずと理解出来るのであった。
土曜の朝、俺が眼を覚ましたのは朝8時を若干
布団を抜け出し、
「おはよっ。あ、ねぇ得附、今日何も予定無いでしょ?」
26インチの
「何だよ失敬だな。まるで俺が休みに何もする事が無い暇人みたいじゃんか」
「え、だってそうでしょ?」
「ぅぐ……。でも今日は先約が有るから、悪いけど」
「あ、そうなの? 新しい
「否、梨乃さんだけどね」
言い終わってから、後悔した。
「え……梨乃、さん……?」
陽香の頬が見る見る紅潮していく。俺は思い知った。一度放った発言は、二度と「無かった事」には出来ないのだ。
「ね、ねぇ……梨乃さんと何処行くの? 何するの? ってか、梨乃さん、あれ以降私に関わって来ないんだけど、どうなってんの?」
知らねぇよ! 俺が言えるのは其の一言だけだった。何時の間にか、俺が陽香に嫉妬される立場に為ってんだが、一体どう云う事だよ? 可笑しな話だ、実に。
「……其れは本人に訊いて呉れ。所で、お前は何か用事有ったのか?」
「え? ……いや、もし得附が暇なら、
無愛想に言う陽香。矢張り俺は、言わんでも良い事を口にしてしまった様だ。
「良いよ、別に。どうしても、って云う訳じゃ無いしさ。梨乃さんと何処へでも行って何でもすりゃ良いじゃんか!」
やっぱり、此の状況は可笑しいぜ。何で俺が
待ち合わせの時間迄は少々早い。俺は、昨日梨乃さんに言われてはいたものの未だ遣っていなかった自転車のメンテを敢行する事にした。時間的余裕が無ければ、最悪其の儘出発してしまえば良いや、と思っていたのだが、未だ午前8時20分だ。言い訳の理由が無い。仕方無い、時間潰しだ。そう思って、玄関から持って来た空気入れを
午前8時半、俺は団地公園に到着した。前後のタイヤに空気を注入し、チェーンに
「……あ」
焼きそばパンを
「は……早いじゃん」
ボーイッシュな中にも可愛らしさを備えた服装の梨乃さんは、誇張では無く、輝いて見えた。後光が差していた。然し、当の梨乃さんの表情は浮かない。俺は得体の知れない違和感を覚えつつも、青い
「どうしたんですか? オレ、未だ来ちゃいけなかったっすか?」
梨乃さんの反応から、俺が梨乃さんより前に待ち合わせの場所に居た事、詰まり先を越された事が面白くないのだろう、と俺は予想して、訊いた。梨乃さんは俺がそんな予想をした事に勘付いた様子で、自分の心情を読まれた事が輪に掛けて
「う……煩いっ!! ウルフの癖にっ!」
と理不尽な
「えっと……じゃあ、済いませんでした」
俺が
「良いわ。許す! じゃあ行くわよ!!」
と宣誓し、俺に自転車に跨る様に促した。俺が愛機のサドルに身体を預けると、梨乃さんはリアキャリアに飛び乗ってきた。
「え、わ! り、梨乃さん?!」
幸い、両脚スタンドを掛けてあったので、転倒する事は無かったが、其れでも身に危険を覚える程の揺れがブリヂストンサイクル製のアルサスを、そして其れに乗る俺を襲った。俺が、梨乃さんの登場時から感じていた違和感の正体に気付いたのも、丁度此の
「あの、梨乃さん、自転車は……?」
俺の肩越しの梨乃さんは
「何が? 此れでしょ、チャリは」
と俺達が乗っかっているアルサスを指差した。
「否、そうじゃなくて、梨乃さんのチャリは?」
「へ? 無いわよんなもん。真杜ん家に行けば在るけど」
「……あー……」
俺は梨乃さんの意図を漸く理解し、溜め息交じりの母音を漏らした。
「梨乃さんはオレの後ろに乗って移動するんすね……」
俺はてっきり梨乃さんも自転車に乗って移動し、2台が並走する様な形式で進行するものとばかり思い込んでいた。然し、梨乃さんは初めから、アルサスのリアキャリアに座り、2人乗りをしようと云う
「そうよ? 文句有る?」
至極当然、と云う表情で梨乃さんは言った。文句、と云うか、自転車の
然し梨乃さんに刃向かっても、完全なる時間の無駄にしか為らない事を俺は知っていた。何と云っても彼女は、猪突猛進直情径行唯我独尊の五輪梨乃なのだ。現代に生きる人類として最低限の賢さは持ち合わせている、と自負する所の俺は、だから数分後、梨乃さんの気配を背中に感じ乍ら、普段より明らかに強い踏力でペダルを漕いでいた。
正直言って、此れから先、
其れ迄賑わっていた店内は、各々の客達が思い思いに食べ、飲み、喋っていたのだが、天井に数個、散り散りに埋め込まれたスピーカーからふと、或る曲が流れて来た。すると次第に客が発生させる物音が減っていき、軈て曲の終盤では客達は完全に曲に聴き入っていて、店内には店員が器を洗う音しか響いていなかった。男声の弾き語り曲で、間奏に入るハーモニカが良い音色を聴かせる曲だった。俺は“歌”と云うのは途轍も無い力を持っているんだなぁ、と改めて思い知らされ、
俺が何故、記念すべき梨乃さんとのデート、と云って差し支えない此の日の出来事を其れ程覚えていないか、と云うと……緊張や肉体的疲労の所為も有るだろうが、矢張り何より、俺が此の翌日、梨乃さんに対して試みた愚行に就いてが脳内を占領し、記憶定着の邪魔をしたからなのだろうか。
発端は、土曜の解散間際だった。一日中、梨乃さんをリアキャリアに搭載して自転車を漕いで移動した俺は、意外な程に疲弊していた。団地公園に戻る道すがら、俺はだんだんと苛付き始めていた。何故、土曜の休日に、俺はこんなにも疲れてるんだろう?
其れも此れも、全ては梨乃さんの所為である。何しろ今日の外出は、梨乃さんの発案に因るものなのだから。俺はペダルを踏み込む力に薄い
「ありがとねっ! 今日は楽しかったよ。また機会が有れば、こんなのも良いかもね……」
団地公園で別れ際、梨乃さんはそう言った。梨乃さんに取っては社交辞令を含有させた、何の気無しに放った言葉だったのかも知れないが、疲労から梨乃さんに苛付きを覚えていた俺は、前日覚えた他人の発言から端を発した理由の無い嫌悪も
梨乃さんに
そして、次の瞬間、俺はあの台詞を、口にしていた。
「明日とか、どうですか?」
「……えっ?」
梨乃さんは眼を丸くした。行き成り、俺の方から誘いを掛けるとは思っていなかったのだろう。
「いや、梨乃さんが空いてれば、の話ですけど。オレも、今日は楽しかったし……。もっと梨乃さんと話したいし……。って、一寸恥ずかしいっすけど……」
良くもまぁ、こんな
梨乃さんは赤く為って、然し口調は相変わらず、
「い、良いわ! アンタがそんなに言うなら、明日も付き合って遣るわよ!!」
と言い放ったが、内から湧き上がって来る、そこはかとない嬉しさを隠しきれてはいなかった。俺はそんな梨乃さんを見るに至り、自分が此れから為そうとしている事に対して一抹の罪悪意識を覚えたが、此れは梨乃さんに対する復讐なんだ、と自らに言い聞かせ、罪悪感を振り切った。
「じゃあ、明日の朝、此処で良いですか? そうですね……、今日と同じ9時にしましょうか?」
俺の提案に、梨乃さんは僅かに眉を
「でも……ウルフ、休みの日は朝ゆっくりしたいって……」
と懸念した。
「あ……、覚えてたんですね……」
俺の心中に、後ろめたさがじわじわと広まってくる。大雑把に思えて、意外と繊細な人なのだ、五輪梨乃と云う人は。今だからこそ俺はそう言えるが、此の時の俺はそんな事は一切
然し俺も、此処迄来て退くに退けなかった。薄ら寒い心で
「いえ、良いんすよ、9時にしましょう」
と声を絞り出した。最早俺の胸中に復讐心や敵対心、嫌悪感等は無く、唯々、意地と自尊心に
「ん、分かった、9時ね。了解!」
と答えて、赤いW41Kに何やら打ち込んでいる。スケジュール帳代わりだろうか?
「……何――」
俺は無意識に呟いていた。「何してんだ、オレは」と言い掛け、慌てて口を噤んだ。其れを口にしたら俺の負けだ。
「え?」
梨乃さんが俺の呟きを耳に入れ、訊き返してきた。何で聞き流して呉れなかったんだ、と一瞬思ってしまった俺は、矢張り相当、
「な……何しよっかなぁ、明日。何かしたい事有ります?」
苦し紛れにしては上等だろう。俺は梨乃さんに話を振った。
「うーん、何か有るかなぁ。……てか! アンタが
「ご……
俺の苦し紛れは、思ったより上手くなかった様だ。梨乃さんの言葉に納得し乍らも、一抹の面倒さを感じてしまった俺の心理は、どれだけ浅ましいのだろう。人の心は万華鏡とは、そう云う意味で全く良く云ったものだ。同時にあらゆる側面を、感情を含有している。
「か……考えておきますよ。じゃあ、今日の所は此れで……」
一抹の面倒臭さに背中を押された俺は、梨乃さんに別れを告げた。自転車には乗らず、押して歩き、帰路に就こうとする。
「うん……じゃあ、明日ね」
そう言った梨乃さんも、一歩踏み出し、歩き出す。俺は先に公園の出入り口から出て、数m後を梨乃さんが追従した。公園を出て、二度交差点を過ぎても、其の関係性は変わりなかった。
「ウルフ、家、こっちなの……?」
梨乃さんが後ろから声を投げ掛けてきた。俺は振り向いて、
「ええ、後一寸行った所です」
と言った。愛想が悪く為らない様に気を配り乍ら。
「え……そうなの!? あたしの、ってか真杜の家も直ぐ其処なのよ!!」
自分が日々寝泊まりする
「そう……なんすか」
俺の返答は心情に引っ張られてぎこちなく為る。益々淀んでゆく俺の心は
此の時の俺には、其の選択肢は見えなかったのである。
「あ、ほら! アレよアレ!!」
梨乃さんが一際明るい声を上げる。俺は梨乃さんを直視出来なかった。其の声が、言動が、眩し過ぎて。辛うじて視界に入れた梨乃さんの右人差し指の先を見遣ると、道幅5mの市道沿いに構えられた一軒家が眼に入った。其の家の右側には
真杜さんの家は、豪邸ではなく、かと云ってせせこましい分譲住宅と云う風でもない。中庸な一般的2階建て住宅、と云った感じだ。家の周囲を取り囲む白く塗られた塀の一部が切れていて、其処が車の出入り口と為っている。自家用車は其処から敷地内に入り、邸宅の1階を部分的に
梨乃さんは、きぃ……と
「此処が真杜ん家! あたしが住んでる、家」
と紹介して呉れた。俺は最早じっとしているのが苦痛な程の精神状態に陥っていた。
「本当に近いっすね。俺の姉貴のアパートも直ぐ其処なんすよ。……じゃっ」
御座成りな、何も込められていない台詞を口にし、俺は逃げる様に立ち去った。
「あっ、ちょ、ウルフ……?」
梨乃さんの怪訝そうな声が耳に届いたものの、俺は其れを意図的に脳内から排斥し、アルサスに飛び乗り、
其の後、何を喰ったのか、陽香は
翌朝、俺が眼を覚ましたのは10時前だった。俺は無言で陽香にEメールを送信した。即座に返信が来て、身支度を整えた俺は、小一時間後、陽香と共に繁華街へ向かう私鉄系の路線バスに揺られていた。
俺が考えた、馬鹿で、
俺は梨乃さんに対して架空の待ち合わせをし、其れを意図的にすっぽかし、梨乃さんに待ち
そんな
そして俺は、罪悪感と後ろめたさと後悔を既に抱え込んだ儘、其れを決行したのだ。救い様が無い。……救われるべき価値も無い。
「得附、今日、つまんなかった……? 其れとも疲れてる? 大丈夫?」
と、あらぬ心配迄させてしまう始末だった。前日の土曜、映画の話を出したのは陽香だったが、今日誘ったのは俺の方なのに。――嗚呼、今思い返しても胸が痛む。キリキリと引き攣れる様な痛みだ。俺は此の謀反で、一体何人の心を
俺は本当に、地獄に
午後4時過ぎに、俺は帰宅した。其の前から徐々に降り出した雨は、どんどん雨足を増して、午後9時と為った今や、豪雨と云って差し支えない状況に為っていた。俺は何気無い風を装って、コンビニに行って来るとだけ姉に言い残して
「あれ?」
俺の両眼は、薄暗い市道の先に、仁王立ちする人間の姿を捉えた。傘は差していない。偏屈な奴だ、と自分を棚に上げて思っている内に、其の人物の人相が視認出来る位置迄来ていた。
「真杜……さん?」
が、其の刹那、
俺の身体は宙を舞っていた。
偶然とは、二度起きないからそう呼ばれるのだ。今度ばかりは奇跡的に受け身を取る事も出来ず、俺は背中からしこたま
突然の出来事だった。
「な……何、するんです……?」
酷い驚きと、全身至る所から送られてくる痛覚に、俺は立ち上がる事が出来ず、呻きつつ無様に舗装路上に転がるしかなかった。然し、俺は
雨に降られ乍ら、黙った儘立ち尽くし俺を見下ろしていた真杜さんだったが、ゆらりと身体を動かし、俺を跨ぎ、俺の下腹の辺りでしゃがみ込んだ。真杜さんの黒髪から、雨の雫が俺に滴って来た。其の儘両手を伸ばし、俺が着ているパーカーの
はぁはぁと、荒く息を吐く真杜さん。当然、俺を背負い投げただけでは息が上がる程に
「……お前、梨乃とあの公園で待ち合わせしたそうだな」
低く、抑えた声で真杜さんが訊く。俺は気圧されつつも、辛うじて答える。
「……はい……」
「何故、来なかった?」
「あ、そ……其れは……」
「梨乃は!! 朝の9時からずっと!! ずっと公園で待ってたんだよ!! お前の事を!!!」
真杜さんの顔が、
「……済いませんでした。急用が」
「メールの一つ位入れられるだろう!!? 私は、そんな言い訳が聞きたいんじゃないんだよ!!」
俺は、此処で初めて、実感を伴った後悔を覚えた。胸元を掴む真杜さんの手が、震えている。
「……此の雨の中で、此の気温だ。梨乃は、今、高熱出して寝込んでる」
「…………え?」
俺の頭脳は真っ白に為った。
「こんなに、雨、降ってるのに、待ち続けてた……んですか?」
此の台詞を紡ぐのに、俺は数秒を要した。其れ程の
「ああ。お前を信頼してたから、な」
「そんな…………」
俺は視力を失った。眼の前が真っ暗に為り、何も見えない。もしも俺が自動小銃を所持していたら躊躇無く頭蓋を撃ち抜いただろうし、脇差に短刀が収まっていたら、
「もしも、お前が意図的に梨乃を待たせたんだとしたら、私は何をするか、分からないぞ?」
俺は黙って眼を伏せた。此の時は、もう既に真杜さんは俺に手を出していて、発言に矛盾が生じている事に就いては、微塵も思い至らなかった。
「……此の瞬間、私のお前に対する信頼、信用は崩れ去った。其れで、良いな?」
「……はい」
俺は
「早く私の家に来い。否、行け、か。兎に角、梨乃に顔を見せろ。其れが、今お前に出来る、
真杜さんが言い終わると同時に、俺は身体を
「って……」
「あ、す……済いません!!」
「否、大丈夫だ。私は良いから早く行け!」
「は……はいっ!!」
俺は全力で駆け出した。一刻も早く、梨乃さんに謝罪したい。全身がバラバラに為るんじゃないか、と思う程、
俺は、最低な奴だ――。
門扉を乱暴に開け放つ。悲鳴の様な金属音が雨音の中に響いた。俺は構わず玄関扉に
「階段上がれ!! 2階の角部屋だ!!」
背後から届いた真杜さんの声に俺は天啓を受け、眼の前に伸びる階段を急ぎ焦り駆け上がった。階下では、恐らく真杜さんの両親なのだろう、「何だ何だ?」「どうしたの?!」と云う様な騒乱が繰り拡がっている様だ。当たり前だろう。俺を追って来て呉れた真杜さんに階下の騒ぎは一任し、俺は階段を上り切った。梨乃さんの部屋は、扉に掛けられた手作り感溢れる表札のお蔭で直ぐに発見出来た。小学生時分の作品だろうか。こんな夜分に唐突に、
部屋に入ると、常夜灯、俗に云う豆球が
俺は其処で漸く僅かだけ落ち着きを取り戻し、一度深呼吸をした。
「だ……誰?」
緊張感を伴った、硬質な声が届く。が、そんな梨乃さんの声は、熱を出して
ぱっ、と明るくなる室内。急激な
「え、ウルフ……? 何で……」
「否、あの……」
俺は言葉に詰まった。何をどう説明すれば良いのか、此処へ来て
「あれ? え?! ウルフ、ずぶ濡れじゃない! 風邪、引いちゃうよ?」
「!! 梨乃さん…………」
俺は猛烈に、強烈に、梨乃さんを抱き
「…………え、ど、どうしたの……?」
俺の中の
梨乃さんが困惑している。どうすれば良いのか、対処に苦慮しているのが見て取れる。でも、
「梨乃、一寸良いか?」
真杜さんが部屋に入って来た。両親を遣り過ごし、ドアの外で様子を窺っていた様だ。
「あ、うん……」
「
真杜さんは濡れしょぼたれた俺の左腕を掴んだ。飽和状態の袖の布地からじんわりと伝わる真杜さんの掌の体温が、俺に何よりの安心感を与えて呉れた。梨乃さんは目まぐるしい展開に驚きつつも、
「うん、良いけど……」
と呟く様に応じた。俺は終始
「私が連れ帰ってから、ずっとあんな感じだ。何か、
真杜さんは、俺を責めている。
否、解っている。真杜さんは決してそう云う意図で発言した訳では無い事など。真杜さんは何故俺が待ち惚けを喰らわせたのか、理由は知らない筈だ。だから、復讐と云う概念は真杜さんの中には存在しない筈である。其れに多分、真杜さんは性格的に、そんな遠回しな
「……どうだ? 謝ったのか?」
「……いえ……」
「じゃあ、お前がした事が、どんな事だったのか、お前自身は分かったか?」
「……はい……」
俺が呼気を漏らす様な声量で一言ずつ返事をすると、ふぅ、と真杜さんは息を吐いた。
「良いか、良く聞けよ」
「……はい」
真杜さんの声の
「
斜め下を向いていた真杜さんは一拍置き、視線を天井の方へ向ける。
「そして、彼奴は学んだ。心の底から信じるのは、自分が
俺は思った。梨乃さんは、何て繊細で……何て哀しい人なんだろう。
きっと、不器用なのだ。
痛い程に過度な純粋は、時に不器用と為って、当事者の人生すら左右してしまう。
「…………だからこそ、私達は、彼奴を、裏切っちゃいけない」
俺の瞳孔が、微かに開いた、気がした。
「彼奴に信じられた者は、絶対に彼奴を裏切っちゃ駄目なんだ。そう云う義務を負うんだ」
真杜さんの言う事を、理解出来ない、とか、詭弁だ、と思う方も居るだろう。恐らく、常人には理解し難い筈だ。然し、俺には痛い位、良く分かった。鋭利に、深く、突き刺さる程に。
「まぁ、私も昔に、梨乃を傷付けた事が有ってな。そう云った苦い経験から学び、獲得したものなんだ」
真杜さんは、苦み走った微笑みを浮かべ、そう言った。
「其れが分かるなら、私はお前を、
真杜さんは苦笑する様な面持ちの儘、そう続けた。
「…………はい」
「ん?」
「オレ、もう梨乃さんを欺いたり、傷付けたり、しません」
「……そうか」
「絶対に……!」
俺は言った。其れは、宣言と云って差し支えないものだった。
「……分かった。私はお前を、赦すよ」
「真杜さん……」
「其れがどう云う事か、解るよな?」
「はい」
「もう二度と、過ちは繰り返すな……!!」
たじろぐ程に真摯な瞳で、真杜さんは俺を見詰めた。だが俺も、もう
「……うん」
真杜さんは俺から視線を外し、眼を瞑った。
「じゃあ、今日の所はもう帰れ。全身ずぶ濡れじゃ、お前も風邪を引き兼ねん」
と言った。俺は真杜さんの前髪から垂れる水滴を見逃さず、
「真杜さんも、ですよ」
と返した。真杜さんは一瞬驚いた顔付きをした後、思い出した様に微笑んで、言った。
「ああ、そうだな」
俺達は暫し、笑い合った。俺の眼からは既に涙は引いていた。
「最後に、彼奴に一言、掛けて来い」
「はい、そうします」
真杜さんに背中を押され、俺は再び梨乃さんの部屋に入った。
「……ねぇ、何の話だったの?」
「否、何でも無いっす……」
「其れより、さっきどうしたのよ? 泣いてたけど……」
「あ、否、その、あれは……、一寸、不安定だったんです、気持ちが」
「そう、なの? まぁ良いけど……」
「……梨乃さん」
俺は意を決した。
「今日、待たせてしまって、……本当に、済みませんでした!」
俺は辞儀をした。恐らく、今迄の人生で最も美しく、角度が決まっている辞儀だったろう。
「や、止めてよお辞儀なんか。頭上げてって」
俺が顔を上げると、優しく愛らしい笑顔を浮かべる梨乃さんが居た。
「あたしは大丈夫だから。怒ってもないし。まぁ、来れないんなら、連絡は欲しかったけどね」
俺の左胸の辺り、丁度胸板の上の方だろうか、其処の内部で何かが引き攣れる様な、苦しく鋭い痛みが走った。此れが、切なさ、と云うものだろうか。何とも形容し難い、不思議な痛覚だ。良く小説や歌詞で見る様な“胸の痛み”と云う
「…………済いませんでした……」
俺は再び、目頭が熱く為るのを自覚した。
「じゃあ、オレもう帰ります。夜分に済いません、押し掛けちゃって……」
「ううん。んじゃ、また学校で!!」
梨乃さんは、満面の笑みを浮かべた。其の最高の表情に、
「……はい、身体、自愛して下さい」
部屋を出ると、真杜さんは居なかった。俺が玄関に現れるのに当たって、ご両親の関心を逸らす為なのだろう。俺はそう判断し、抜き足差し足で几帳面なコソ泥の如く静寂に紛れて、朋尾家を脱出した。
結局、俺は言えなかった。俺が、梨乃さんを欺いた事を。其処迄意図していなかったものの、結果的には、俺が、梨乃さんに風邪を引かせた事を。
けれど俺は、其れが正解なのではないか、と今は思っている。もしも俺が、其の事実を梨乃さんに告白したのなら、其れは
知らなくて良い事、人に伝えない方が良い事、と云うのは、此の世に確実に在る。
俺は空を見上げた。まるで嵐の様に荒れ狂っていた天候は見事に収まり、所々に星さえ瞬く程に晴れ渡り、澄んだ夜空が拡がっていた。唯一異なっていたのは、俺の心には、後悔と云う決して消えやしない、大きく群れを為した黒雲が浮かんでいる事だった。
月曜、俺は若干の
「お早う」
「あ、お……お早う、御座います……」
俺の言葉の歯切れが悪くなったのも無理は無い。其の人物は、
「あ、あの……梨乃さんは……?」
真杜さんは意に反してにこりと優しい微笑を浮かべると、
「梨乃は、一応大事を取って、今日一日は欠席だ。今は家で寝てるよ。でも今朝は熱も下がってきてたし、
「あ、そ……そう、ですか……」
俺は改めて自らの愚かさを呪った。世界で一番の愚か者だ。俺の基準からすれば、北朝鮮の独裁一族も、最悪なテロ宗教団体も、此の時点から約一年後に歩行者天国に突撃し最悪な形で名を知らしめた某死刑囚も、俺の足許には及ばない。何人
激しく話が逸れてしまった。斯う云うのは自重しなければ。何か、色々済みません。
「案ずるな。明日には復帰するさ」
真杜さんが俺を気遣って肩を叩いて呉れる。俺は其の配慮に落涙しそうに為ったが、其処は意地でも涙の決壊を食い止めた。此の時間帯の教室棟の玄関口は、登校して来る生徒達が引っ切り無しに往来する。当然、俺等の周りには俺等を避けて通行する、同様の装飾を身に纏った同年代の連中がわんさか居る訳で、そんな環境下で泣きでもしたら皆の衆の関心を嫌と云う程に引く事は明白だ。
「じゃあな。……余り、悔やむなよ。人間、失敗するモンなんだからな」
真杜さんはそう言い残し、人並みに埋没し、消え去っていった。俺は独り、取り残され、暫く生徒衆の進行を
俺が思い出した様に歩き出し、1年機械科1組の教室に着いたのは、始業の
「なぁ、柿手! お前さ、さっき朋尾先輩と一緒に居たよな? あれも五輪先輩繋がりだろ?」
興味津々と云った面持ちで俺に声を掛ける多々納。……前言撤回だ。矢鱈と梨乃さんの事を
「ああ。其れ以外に接点無ぇだろ? 普通」
言い終えて、ハッとした。幾ら何でも、口調がキツ過ぎる。俺は恐る恐る反応を窺った。
「いや、まぁそうだけどさ。何話してたのかなぁ、ってな」
多々納は何事も無いかの様に会話を継続してきた。俺は内心、胸を撫で下ろす。
「いや……別に、大した事は。
今迄黙っていた布通之木が口を開く。
「いや、さっきもお前、結構注目集めてたんだぜ? 気付いてたか知らんけど。五輪先輩の
「ご忠告、有り難う」
俺は椅子に座ろうとした中腰の姿勢の儘、布通之木の言葉を
「でもオレは、梨乃さんの傍に居たいんだ。真杜さんと一緒に、梨乃さんを護ってくんだ」
俺は言い放った。最悪、布通之木に嫌われても良い、そう覚悟し乍ら。
言ってしまった事で、何か吹っ切れた。同時に、有言実行の気合いが漲った。声に出す、と云う事は
そして俺は予想外に声を張ってしまったらしく、元からそんなに騒がしくはなかった学級内での注目は一手に俺に集まっていた。前述の通り、梨乃さんの存在は朝礼事件を経て全校生徒に
俺は瞬間に照れて腰を下ろし、ふと布通之木の様子を窺い見た。布通之木は若干呆れた様な反応だったが、
「……ま、お前が
と口の端だけの笑いを呉れた。室内が、由来が定かでない拍手に包まれている異常な状況の中、副担の佐峰先生を連れて入室してきた端似教諭は、
「さ、朝読書だ。静かにしなさーい」
と言って手をパンパン、と叩き、静粛を召喚した。
俺は決めた。何故かは分からない。其の根拠は此れから、探していけば良い。
――今だって其れを見付ける為の道中だ。
俺は、真杜さんと共に、梨乃さんを護っていく。
俺は、梨乃さんの傍に居る――。
<#1 了>
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