#2 フュネラル・カルメン・プロ・エア
時の流れは本当に、
あっと言う間に月曜も放課後に為った。教室の清掃を早めに切り上げ、俺は
そんな訳で、俺が別棟3階の廊下を歩いているのは、
「
と独り言を呟く事と為った。とは云っても、
「おっ?!」
思わず声が出た。一欠片も期待していなかったが、引き戸は軽快に、向かって左に滑っていったのだ。金曜の下校時、施錠し忘れたのだろうか? 俺は記憶を掘り返す。金曜の活動終了時、梨乃さんからの誘いを受けた後、俺は宮殿部長が部室を施錠する
「やっぱりオレが一番乗りか……」
本当に、何の気無しに漏れ出た言葉だった。
「悪ぃな、俺のが
声が聞こえた。確実に、聞こえた。俺は鍵の件も
俺は足許から這い上がって来る鈍い恐怖を感じつつ、頬に
「……ん?」
俺は注目した。窓枠の下の方から白い煙が立ち上り、
「……誰っすか?」
恐る恐る訊く。すると窓枠の下部からニョキっと影が出現した。
「よぉ」
其の姿は先日、俺の前のめりを受け止めて呉れた3年の尾井駆流先輩だった。
「せ、先輩……何で、そんな所に……?」
俺は駆流先輩と
「あぁ、一寸、一服する為に、な」
そう言うと駆流先輩は、制服の胸ポケットに収めていた
「1本、遣ろうか?」
「
俺は喫煙の勧めを丁重に断った。正直、しつこく勧誘されたら面倒だな、と思ったが、駆流先輩は其処迄馬鹿ではない様だ。
「そっか。あ、そうだ、此れ」
駆流先輩はズボンの左ポケットを
「悪ぃけど、其れ後で
駆流先輩は若干の申し訳無さを漂わせた笑顔を顔に浮かべ、俺に依頼した。
「えぇ、分かりました」
「サンキューな」
そう言うと駆流先輩は窓枠を乗り越え、室内に戻って来た。
「じゃ、俺はそろそろお
駆流先輩は
「『彼奴』って、梨乃さんの事ですか?」
俺は思わず訊いた。頭脳内の
「え? あぁ、そうだけど……。何だよ、恐い顔すんなよ」
駆流先輩は冗談めかして言った。俺は言われて初めて、自分が無意識に
「あ……否、済いません。あの、何で梨乃さんが来ると『厄介』なんですか?」
俺が気を取り直し、そう尋ねると、駆流先輩は面倒そうな顔をして、
「……あー……」
と母音を発した。其の時だ。
副部室の扉が
「……あ、尾井先輩、こんにちは」
真杜さんはぺこりと頭を下げ、扉を閉めた。
「おぉ、真杜ちゃん。うぃっす」
真杜さんは頭を上げると、ずいっと駆流先輩に近付き、鼻先を彼の首筋に寄せた。
「なっ、どうしたよ、真杜ちゃん?!」
駆流先輩は驚き、
「……先輩、喫いましたね?」
独特のキツい眼で
「あ、ま……まぁ……」
駆流先輩はタジタジと云った
其の瞬間だった。
「おぁざーっす!!」
副部室の扉が快活に開いた。先ず初めに、俺は感心した。何ともはや、扉の開き方にも性格が現れるものなんだなぁ、と。次いで、俺は違和感を覚えた。
全人類の元気の根源の様に後光が差している其の人は、紛れも無く、梨乃さんだった。違和感は、衝撃と疑問に
「梨乃ちゃんお疲れぃーっす」
同じく純なる衝撃と際限無く膨張する疑問に、口を利けない真杜さんと俺を尻目に駆流先輩は梨乃さんと軽くハイタッチを交わした。
「……あれ、どした? 此の2人。急に
唯一事情を知らない(と云うか、関与していない)駆流先輩はキョトンボーイと為った。
俺と真杜さんが
「報告します! 五輪梨乃、完っ全っ復活しましたー!!」
梨乃さんは
「……え? 梨乃ちゃん、具合悪かったの?」
駆流先輩が訊いた。真杜さんが答える。
「梨乃は……昨日風邪を引いて、今日は欠席してたんです……」
「あ、え? そうなの?」
駆流先輩は梨乃さんに真相を問う。
「はい!」
「で、何? 元気に為ったから部活
「はい!!」
駆流先輩は破顔した。
「な、何で笑うんすか?!」
梨乃さんは駆流先輩の爆笑振りに、流石に
「いや……梨乃ちゃんらしいよ、何つうかさ。お前もそう思うだろ? 普通は治っても休んでる日は学校にゃ来ねぇって!」
「……ですね」
俺は駆流先輩に賛同を求められ、苦笑を返した。其の通り、言う事無し。完全に同意だ。
「……そうですかぁ?」
梨乃さんは不満顔で呟いた。駆流先輩の笑いも収まり、場は安穏を取り戻した。
「じゃあ、俺は帰るわ。邪魔したな」
そう言って横を
「ぐぇっ?! な、何すんだよ……」
「……先輩、また煙草喫いましたね?」
梨乃さんの声の
「……其れが、どうしたってんだよ……。さっきの真杜ちゃんもそうだけどなぁ、俺が煙草喫おうが喫わまいがどうだって良いだろうが!!」
「「どうだって良く、ない!!!」」
梨乃さんと真杜さんの声が、綺麗に
「……っ! ……
「……
真杜さんは悲痛に暮れた表情乍ら、
「逃げて……ねぇよ……」
と歯切れ悪く呟いた。数瞬前の熱笑振りが嘘の様だ。
「逃げてる訳じゃ、ねぇよ。俺はもう、辞めたんだよ……」
「じゃあ、諦めたんですね……?」
今度は梨乃さんが、果敢に攻める。其の顔は真杜さんと同じく、哀しみに満ちている。
「ち……違ぇよ……。俺は、彼奴の……」
其処で駆流先輩の声が途切れた。俺は駆流先輩を見遣る。左の手首に
「あの……」
俺は耐え兼ねて、口を挟んだ。
「済みません、オ……自分、事情が分からなくて、話が見えないんすけど……」
「……あ! そっか、そうだよね! ウルフは1年だから知らないんだ、先輩の事」
梨乃さんは重たい空気を振り切る様に明るい声で言った。
「んじゃ、話してあげる! 此のあたしに
拝聴しなさい、は日本語として可笑しいだろ、と俺は思い苦笑を浮かべたが、真杜さんも駆流先輩も強張った様な面持ちを一切崩さないので、直ぐ表情筋を操作し、顔を引き締めた。梨乃さんは息を一つ吐くと、語り始めた。
「……此れは、一人の音楽青年に訪れた、哀しいお話…………」
以下、梨乃さんと真杜さん、そして本人から聞いた、駆流先輩に就いての話だ。
*
尾井駆流は、中学時代に級友達とバンドを組み、ヴォーカルとギターを担当した。典型的な帰宅部で、授業が終われば即下校し、仲間と集って
継続の力、そして若さ故の集中力、熱量を味方に付け、中学を卒業する頃のバンドは、同年代と比較しても頭一つ抜ける程の
全員の家柄が決して裕福ではなかった為、揃って県立の学科技術高等学校へと進学した。学力的に、或いは専門学科を履修する事で将来の就職を有利にする為、等理由は様々ではあったが、其の一つに、科技高の部活動必須、という要素も有った。絶対行わねばならない部活の時間をバンドの練習に充てれば、練習も出来る上、部活の参加、と云う
斯くしてバンドの一行は科技高の軽音楽部へと入部した。中学時代を共に過ごし、ずっと練習を重ねていたバンドは一種排他的な雰囲気を漂わせ、活動場所の音楽室を共有する他の部員達とは隔絶した活動をしていた。地元のライヴハウスの常連バンドである、と云う事実も、他の部員の
そんな中、駆流は小学校時代からの幼馴染みである
部活での
青天の
鳥部山千風が、亡くなった。
2006年の12月24日、日曜の夕暮れ時、幹線道路沿いで中年女性がハンドルを握る中型ミニバンに
突然、最愛の彼女を
数日経ち、駆流は何気無く自室の机の引き出しを開けた。其処には、千風から
愛する人を奪われた哀しみから、駆流は
恋人を喪い、情熱と熱中の
もう、駆流には帰る場所も無い。何時の間にか、駆流は最も居心地の良い場所さえも、失っていたのだ。駆流の孤独は、加速してゆく。
不摂生と不健康な生活、そして臨界点を迎えた精神は
駆流の視界に、千風の後ろ姿が映る様に為ったのは。
体調は回復し、通学を再開しても、時折千風は背中を見せる様に為った。
見間違える筈が無い。あれは、
然し、周囲に其れを訴えても、「頭が
そしてまた、駆流は抱え込んだ。元来、太っていなかったが、其の身体は
授業中にも、ふと眼を遣った校庭に千風が歩いていて、思わず立ち上がってしまい教師に注意されたり、廊下を歩いている最中、視線の先に千風の姿を見付けて後を追ったり、ふとした時に千風の名を呼んだり……と云う、
*
駆流先輩はカシオの
「俺は、音楽から逃げた訳でも、諦めた訳でも、無ぇ。唯、辞めたんだよ……」
駆流先輩は苦み走った表情でそう呟いた。俺は何処と無く引っ掛かりを覚えていた。
取り敢えず、問うてみる。
「先輩、何で、音楽から離れたんですか?」
「そ……そりゃあ、千風を思い出しちまうから、
俺の引っ掛かりは、高確度の疑問へと
「じゃあ、千風さんを思い出すのが辛いなら、何で
梨乃さんと真杜さんの顔が、ハッとした様な反応を見せた。
「形見を肌身離さず身に着けるなんて、
我乍ら、少々遣り過ぎか、とも思ったが、追及せずにはいられなかった。駆流先輩は痛い所を突かれた、と云う表情をして、軈て此の世で最悪の
「……千風が逝く前の2日間、詰まり12月の23と24に、俺等はライヴハウス主催のイベントライヴが決まってたんだ。俺が其れを彼奴に報告したら……」
駆流先輩は其処で「ふっ」と、万感が籠もった含み笑いを漏らした。
「彼奴も知らぬ間に色々溜め込んでたんだろうなぁ……。『イヴ位一緒に居てよ、私と音楽、どっちが大事なの?』なんて抜かしやがって……。俺ぁ叱り飛ばして遣ったんだよ、『何生意気ほざいてんだ、気取ってんじゃねぇ、指図すんじゃねぇ』ってな……。彼奴は……、俺等のライヴには毎回顔を見せて呉れてたんだけど、其の時ばかりは両日共に来てなかったな。で、2日目のライヴの後、
駆流先輩の
「其れが……、最後だったんだ。千風の……、二者択一が、俺に取っての、彼奴の最後の言葉なんだよ……。俺は、愛してた。紛れも無く、好きとか以上に、愛してたんだ。千風の事を……。そんな彼奴の、最後の言葉なんだよ……」
駆流先輩は、自分に取っての千風さんの
俺は押し黙った。一つたりとも、言葉が浮かばなかった。一欠片でも人情を持っているのならば、此れ以上駆流先輩を
駆流先輩は右手の甲で両眼の周辺を数回
「ははっ……。魔が差した、な。此処迄
と呟き、浅く腰掛けていた黒い革張りのソファから立ち上がった。
「今度こそ帰るわ。…………また、顔出すよ」
そう言い残し、駆流先輩は部屋を出て行った。
「魔が差した」のではなく、きっと駆流先輩の
「……あたし、
不意に、梨乃さんが声を漏らした。
「真杜も、だよね?」
問われた真杜さんも潤った眼の儘、一つ頷いた。俺は可能な限り、脳内を埋め尽くす
「……ウルフは知らないと思うけど、去年の
梨乃さんの力説は、俺の心をも動かした。梨乃さんに其処迄言わしめる程の
「……オレも、見てみたいです。先輩の、
「じゃあ、決まりねっ!!」
梨乃さんは
「尾井駆流を復活させるプロジェクト
一大計画の幕開けを宣言した。ぶっちゃけ、梨乃さんは「オフポス」を言いたかっただけなんじゃないか? と云う思いは
さて、始動したは良いものの、差し当たり
「尾井に、もう一度音楽をさせる気か?」
俺等が部室を出ようとした其の時、背後から声が飛んできた。俺等は同時に振り返る。声の主は、宮殿部長だ。
「……そうですけど?」
梨乃さんが
「そうか……。僕からも、頼むよ。僕ももう一度、彼の演奏している所を見てみたいんだ」
と言って、頭を下げた。梨乃さんは面喰らった様で、
「え?! ちょ、どうしたの? 宮殿部長らしくもない!」
と言い、宮殿部長に近寄った。言海先輩が椅子に腰を下ろした儘、補足する。
「
俺は感心する様な、納得する様な、そんな気持ちだった。宮殿部長が、此れ程思慮深い人だったとは。
「僕も彼が此の儘、
宮殿部長は今迄見た事の無い程の真剣な瞳で梨乃さんを見詰めた。
「尾井が復活する為なら何だって遣るし、言って呉れればどんな雑用だろうが喜んで
そう言って再び宮殿部長は頭を下げた。此処迄熱っぽく依頼されたら、誰しもが応えたくなるだろう。梨乃さんも其の例に漏れず、
「……宮殿部長の気持ち、
と宣誓した。俺は僅かに感動の念を抱きつつ、先程の宮殿部長の発言から、正規派にも宮殿部長と言海先輩以外の部員が居る事を察知した。
「其れ、多分違うな。彼奴は、俺等から逃げたんだよ」
俺等が聞いた話だと、駆流先輩の元バンド仲間は今現在、軽音楽部の部員を代わりに迎えて、新バンドとして活動していると云う事だった。だから俺等は軽音楽部室へと向かった。其処で出会った3年の
「お前等が聞いた話だと、
多分に
「で……でも、駆流先輩は千風先輩との最後の会話に基づいて音楽を辞めた、って言ってましたけど」
梨乃さんは食い下がった。塀巣先輩は少し黙った後、体裁を整える様に生意気小僧の如き
「……知らねぇな。そんなの、彼奴が出任せ吹いてるだけかも知んねぇだろ?」
と吐き棄てた。すると沈黙を守っていた真杜さんが、一言、塀巣先輩に突き付けた。
「私達に対して先輩が吹いていない、と証明出来ますか? ……そんな事言ってたら、
塀巣先輩が下唇を甘噛みするのを、俺は見た。差し俯いた塀巣先輩から、先程迄の勢いは感じられない。真杜さんは更に続ける。
「尾井先輩は、何故先輩方から逃げたんですか? 何を根拠に尾井先輩が嘘を吐き、美談に纏めようとしている、と迄言い切れるんですか? 詳細を、御教授頂けきたいです」
台詞を辿ると、敬語を用いている分、抑制が効いている物言いに見える。が、実際の真杜さんは、
「……まぁまぁ、そんなに責めないでよ。カケちゃんの話ならアタシも受け持つよ?」
ソニー製のイヤホンを耳から外しつつ会話に新規参入してきた女子生徒はショートヘアで、女子用として設定されてはいるものの着用する生徒は
「あぁ、アタシは3年の
自己紹介を促すかの様な表情の真杜さんを察知したらしく、良夢音先輩はにこやかに
「ら、ラムネ先輩、駆流先輩の言ってた事は、本当なんですか?」
梨乃さんが真杜さんに代わり、訊く。良夢音先輩は少々
「……実はね、アタシ達は空中分解する前から、バンドを解散して、新しいバンドを組もうと思ってたの。それも、カケちゃんを除いた形で、ね」
此れには俺も驚いた。だが、俺以上に、梨乃さんと真杜さんは驚愕していた。
「え――……、な、何で…………」
「…………どうして?」
梨乃さんも真杜さんも絶句している。塀巣先輩が声を上げた。
「彼奴はっ……
飛び抜けた才能を持つ者は、時に
「な……成る程……。で、其の旨を駆流先輩に言ったんですね?」
「うぅん」
梨乃さんの言葉を、首を横に振って否定したのは、良夢音先輩だった。俺は眉根に
「え、じゃあ、どうして……?」
梨乃さんが訊く。俺等3人が一様に浮かべている疑問だ。
「俺等は、彼奴に言う心算だったんだ。あのクリスマスライヴの後に。でも、ライヴ前に俺等が楽屋で喋ってるのを、彼奴は偶然聞いちまったみたいでさ」
そう語る塀巣先輩の言葉を、俺は未だ信用出来ない。駆流先輩が其の密談を耳にした、と云う証拠が明示されていない。真杜さんも同意見だった様で、
「其れ、尾井先輩が会話を耳に入れた、と云う証拠は有りますか?」
と追及した。
「十中八九、間違い無いよ。アタシ達が楽屋から出た時に、其の前は落ちてなかったカケちゃんのピックが部屋の前に落ちてたし、其の後のリハでもカケちゃん、機嫌悪かったし。
良夢音先輩の話は、俺の中での駆流先輩への評価を上げる結果となった。此れ迄毎日の様に時間を共にしてきた、云わば戦友達が自分に対して異論を唱え、バンドを解散する、と云う衝撃的な内容を聞いてしまって
「分かりました。では、恐らく尾井先輩は自らの原因に因ってバンドが解散の危機を迎えている、と云う事実を認識していた、と云う事ですね?」
「ああ、だから彼奴は逃げたんだ! 俺等に捨てられんのが怖くてな!!」
「アタシは、カケちゃんが言ってたのも嘘じゃないと思うけどな。カケちゃんが、チカちゃんが亡くなって
良夢音先輩がそう言うと、塀巣先輩も
「まぁ……確かにな」
と同意した。数秒間の沈黙の後、此処で梨乃さんが本題に切り込んだ。
「先輩達、もう一度、駆流先輩と音楽、遣りませんか? 余計なお世話、ってのは重々承知です。でも、万が一にも再び、駆流先輩と同じ
梨乃さんは熱っぽく主張した。俺には一瞬、2人の眼の色が変化した様に見えた。だが、結局は2人共、無言の儘だった。
「…………分かりました。御本人達に其の気が無いのなら、無理
実際の所、梨乃さんがこんなにあっさりと引き下がるとは到底思えなかったが、梨乃さんは一旦、嘆願を取り下げた。塀巣先輩と良夢音先輩の俯いた顔が梨乃さんを目掛け前を向いた其の時、軽音楽部の部室である第2音楽室に足を踏み入れてから今迄、ずっと
「じゃあ、尾井先輩と組む事は、もう今後、無いんですね?」
と2人に念を押した。すると、2人の先輩の後ろから新たな声が飛んできた。
「だが、事情は変わった」
そう言って会話に入って来たのは、
「トラちゃん……」
「駆流の後継に組んだヴォーカルが、元居た軽音部の仲間と組んでいたバンドの方が良い、と言って先日、
淡々とした口調で話す儀足先輩の首からぶら下がるエレキギターを見るに至って、俺はやっと彼がBGMの正体であった事に気が付いた。
「居るじゃないですか、梅干し!!」
梨乃さんが嬉々とした声を発した。俺は一拍遅れて梨乃さんの言わんとする事に気付いた。我が意を得たり、と云った風情で儀足先輩が大きく頷いた。
「ああ、そうだ。もう、俺達が遣っていく道は、一つしか無い」
「冗談じゃねぇぞ!!」
喰い気味のタイミングで塀巣先輩が
「ロクちゃん!」
「待てロク!!」
バンドメンバー2人の呼び掛けに、扉の
「一晩考えて呉れ!! 俺達には何が、否誰が、必要なのか!!」
儀足先輩の叫びは、塀巣先輩の心に届いたのだろうか。右肩にベースケースを引っ掛けた塀巣先輩は、
「もう……、元にゃ戻れねぇんだよ……」
と呟き、第2音楽室を後にしていった。其の表情は、黒いベースケースに遮られ、見る事は出来なかった。
俺等3人は、揃いも揃って陰鬱な表情でtRPG部の部室に帰還した。ソワソワと待っていたらしい宮殿部長にかくかくしかじかと中間報告をすると、
「そうか……。他のメンバーの思惑もあるんだな……」
と至極残念そうに呟いた。梨乃さんはそんな宮殿部長を励ます様に声を上げた。
「否、でも未だ未だ此れからっす! 良夢音先輩と儀足先輩はバンドを復活させたいみたいだったし、塀巣先輩も心の底から駆流先輩を嫌ってる訳じゃなさそうだったし! きっと……、大丈夫、ですよ……」
然し如何せん、根拠が
「いっその事、引き合わせちゃえば? 尾井君と、元のバンドのメンバーの子達を」
行き詰まった場の雰囲気を打破したのは、何気無く放たれた言海先輩の此の一言だった。正しく天から与えられし
「ブレイクスルー!!」
突如として叫ばれた梨乃さんの言葉は、言海先輩の提案を受けてのものだった様で、両の眼を一杯に開かせ、其の内の瞳を思いっ切り輝かせた、キラキラと音が立つ様な表情で、
「其れだよ言海さん!! 一番手っ取り早いわ、其れっ!! 本人同士で語り合えば、きっと擦れ違いも不和も修復されて上手く行くよ!! ねっ、ウルフもそう思うでしょっ!?」
と俺に同意を求めた。俺は内心で梨乃さんに頭を下げつつも、
「そう上手く行くモンでしょうか……?」
と懐疑的な意見を述べた。すると、
「私も、そうそう上手く行くとは思えないな」
真杜さんも俺の見解に同調した。
「…………ぅ、むぅう~……」
見る見る内に梨乃さんの眼の
そして、真杜さんは
「でも、賭けるとすれば、もう其れしか無いとも思う」
此の考えもまた、俺と同一だった。あのバンドは最早、赤の他人がどう斯う口を挟んでも、どうにも為らない状況に陥っている。ならば、薄い線だが望める可能性は唯一つ。
「……そうだな、賭けてみるしかないか。尾井には僕から連絡を付けておくよ」
「済みません、お願いします。こっちはさっき梨乃が導先輩と連絡先を交換したので、其処からバンドメンバー側の
「ああ、宜しく頼むよ」
テキパキと役割分担が済んだ所で、決定行為に
「ちぇっ。あの2人、肝心な
「まぁまぁ、そんな
俺の肩を掴み、ばるんばるんと揺さぶって来る梨乃さんを
「ウルフ君、本当に五輪さんに好かれてるのねぇ」
と言って流麗に笑った。
「いやいや、茶化さないで下さいよ……」
「否、今迄の五輪さんなら考えられなかったのよ、そんなに他人と、然も男子とくっ付くなんて、ね」
俺が反応に困って、横目で梨乃さんを見ると、梨乃さんは恥ずかしげに俯き、頬を赤らめている。
……何なんだ? 斯う云う反応は新鮮だぞ?
「……もうっ!! 言海さん
赤らめた顔を上げ、そう言う梨乃さんの横顔を、然し俺は打って変わって複雑な心境で眺めた。とある想像が、唐突に脳裏を
――梨乃さんの其の反応には、ひょっとして此れ迄
……とか考えていると、つくづく物事を素直に見られない自分に
「じゃあ、明日の放課後、
「了解です」
「梨乃、其の旨、導先輩にメール送っといて呉れ」
「分かった」
梨乃さんは早速P901iTVを取り出し、メール本文の作成に取り掛かり始めた。
其の後、部活は解散と為り、俺は家へと直帰した。俺は別に何とも思わないのだが、世間一般的な論調に
俺は晩飯を喰いつつ、結局の所バンドの再生は上手く行かないだろうな、と思っていた。彼等のステージを見たい、と思ったのは本当だ。乗り掛かった船だから、どうせなら成功裏に終わらせたい、と云う思いは勿論ある。とは云え、俺等が今日訪れた時の第2音楽室――軽音部の部室の雰囲気は、正直言って終末感に溢れていた。
室内には正規の部員達で組まれたバンドメンバー(詰まり其の他の部員、と云う事だが)は所用が有ったのか誰も居らず、
バンドメンバー外の存在で、マイナス要素は言わず、常に明るい表情でバンドを応援し、時にバンドが前進する
俺がtRPG部室に到着した時、正部室には宮殿部長しか居なかった。俺が宮殿部長から、空き教室を借りるのに学校側と一悶着有った、とか正規派部員達の面倒は言海先輩に任せ、自らも此れからの話し合いに同席する、と云った話を聞いていると、真杜さんが顔を見せ、少々経って最後に梨乃さんが遣って来た。良夢音先輩を引き連れて。
「ロクちゃんとトラちゃんは?」
tRPG部室に入るなり、辺りを見渡して良夢音さんは独り言の様に尋ねた。
「塀巣先輩と儀足先輩は未だ見えてません。駆流先輩も」
俺がそう答えると、良夢音先輩は心底
「カケちゃん……」
と呟き、胸の辺りで両手の指を組み合わせた。
「大丈夫ですよ! 駆流先輩はきっと来ますから!」
「リノちゃん……」
「私も、理由は有りませんが、そんな気がしています」
「マモちゃん……。うん、そうだよね。アタシも、カケちゃんはきっと来て呉れる、って思ってるもん」
其処に居たのは、儀足先輩、そして半ば彼に連行される様な形の塀巣先輩だった。部屋の中の計5名、10の瞳からの視線に2人は一瞬戸惑いを見せた。
「カケルは……未だ、か」
「彼奴は来ねぇよ。どうせな」
相変わらずの物言いは勿論、塀巣先輩だ。ズボンのポケットに手を突っ込み、斜め下を睨み付けて吐き捨てる。
「もう……終わりなん」
言葉が途絶えた。空気が凍り付いた。塀巣先輩の両肩を掴んだのは、意外な事に、宮殿部長だった。
「っ! な、んだよ、
「君は、本当に、そう思っているのか?」
「……あ?」
「本当に、心の底から、あのバンドは終わりだと、そう思っているのか?!」
「っ! ……っせぇな!! 関係無ぇだろうが、手前にゃよ!!」
「ああ、関係無いさ、僕はね! お節介で大きなお世話さ。其の程度分かっている! でも、君等が解散する、あのメンバーで活動しなくなる、と云うのなら、僕は黙っては居られない! 其れ程、僕は君等のバンドが好きなんだ!!
其れに……僕は、
口角泡を吹き、捲し立てた宮殿部長は、後半一転して、強い語気は変わらず、然し若干落ち着いた風に言った。
「……おい、そりゃあ、俺が早々と諦めて、自分の心に嘘吐いてるって云う事か?」
「違うのか?」
明確な圧力を掛けてくる塀巣先輩に一切
そして、的を射た正論は、人を撃ち抜き、打ちのめし、黙らせる。塀巣先輩は二の句を継げずに、俯いて黙りこけた。
「……ロク、お前だって、音楽好きだろ? ベース、今更棄てらんないだろ? 頭ごなしに考えるのはもう辞めよう。此の3ヵ月で、俺等良く分かっただろ? カケルの重要さを」
儀足先輩が優しい口調で声を掛ける。
「もう一回、遣り直してみよう。俺等、此の儘終わるのは、しっくり来ねぇよ。嫌な事ばっかじゃ無かっただろ? 俺等、此処迄、一丸に為って遣って来たじゃねぇかよ……」
徐々に、儀足先輩の声が揺れる。塀巣先輩も首を真下に折り曲げて、両の肩を震わせている。宮殿部長は、もう塀巣先輩の肩から手を離し、熱い眼をしている。良夢音さんは時折
「……ああ、遣ろうぜ、俺等で」
暫しの沈黙の後、塀巣先輩がそう声を発した。全員に温かい何かが込み上げる、其の時。
「おぃっす、話って何だよキューデン……」
駆流先輩が喋りつつ入室した。部屋の中の
「ちょ、先輩っ!!」
間髪置かず、梨乃さんが駆流先輩を追って床板を蹴った。塀巣先輩、儀足先輩、良夢音先輩の3人がバンドの復活を決意した所で、肝心要の駆流先輩の意志が同調される訳では無いのだ。一件落着感が漂いかけたが、此の空気に騙されてはいけない。此れからが本番だ。
「やっぱ来たか、カケル……」
感慨深げに儀足先輩は言った。否、今駆流先輩逃げましたけどね?
誰からともなく廊下に出て、教室棟の方へ続く廊下をバタバタと駆けて行く2人の背中を追う。壁面に貼られた「廊下は走らない!」なんて旧態依然とした標語は最早意味を為さなかった。美しい
「彼奴、やっぱ衰えたよな。
苦笑交じりに塀巣先輩はそう言ったのだが、先日の
駆流先輩が梨乃さんにひっ捕らえられ、俺等の許に帰還して来るのに、1分と掛からなかった。
「キューデン……聞いてねぇぞ、こんなの……」
恨めしげな表情で俯き気味に宮殿部長に愚痴る駆流先輩は、明らかに弱り切っていた――精神的に。確かに急激に全力疾走した事に因って息切れを起こし、肩で息をする様な状況にはある。が、其れは一時的なものであって、1分程度でどうにか為るだろう。然し此の精神の衰弱は恐らく、数分如きで回復可能なものではない。
「部長、話してなかったんですか? 尾井先輩に」
真杜さんが追究すると、宮殿部長は後頭部に左手を回す、些か古典的な
「いやぁ……メンバーが居ると言うと尻込みするかなぁ、と思って僕なりに配慮したんだが……」
まぁ、然るべき配慮だとは思う。恐らく、駆流先輩は軽音部からの退部後、碌に顔を合わせる事も無かっただろうし、そう云う機会が有ったとしても、避けてきただろうから。
「カケちゃん、話が有るの」
全員が長机を囲むパイプ椅子に腰を下ろした所で、切り出したのは良夢音先輩だった。儀足先輩が言葉を継ぐ。
「カケル、俺達と向き合って呉れ。頼む」
駆流先輩はふぅ、と一息吐くと、逸らしていた視線を嘗ての戦友達に合わせ、真正面から見据えた。其れは、駆流先輩の覚悟を、表明していた。
「何時迄も、逃げてちゃ駄目だよな、梨乃ちゃん」
「え? あ、あたしですか?」
「どうせ、こんな事考えたのは梨乃ちゃんだろ?」
「え……あぁ、まぁ……」
「俺も、そろそろ
駆流先輩は苦笑した。そりゃあ、自分を
「
駆流先輩は確たる語気で言った。
とは云え、塀巣先輩も儀足先輩も良夢音先輩も、何から話したら良いのやら、と云った風情で、
「あの、一寸あたしから、良いですか?」
「あぁ、どうぞ」
駆流先輩が応じる。
「駆流先輩、あたし達に嘘吐いてません?」
「へ?」
余りにも不意打ちに繰り出された発言に、駆流先輩は
「いや、だから……」
此処で梨乃さんは言い淀んだ。其れは皆を当惑させる様な発言をしてしまった自責の念からなのか、其れとも此れから更に場を紛糾させる事に対する懸念からなのか、俺には判別出来ない。唯、何と無く此の瞬間、後者の様な気がした。
「その……塀巣先輩から聞いた話だと、駆流先輩は『千風先輩から音楽と自分の2択を迫られていたから』じゃなく『偶然聞いてしまったバンドの解散話に怖じ気付いてバンドを、音楽を辞めた』って事らしいんですけど」
「……チカちゃんが『どっちを取るか』なんて、言ってたの?」
「……まぁ、千風ちゃんが亡くなってから、俺達カケルと全く話してなかったからな」
良夢音先輩と儀足先輩が言った。斯う云う「聞いてなかった」「知らなかった」と云う事柄の積み重ねが、人間関係に於ける
「……駆流先輩、お願いします」
梨乃さんはだんまりを決め込む駆流先輩に話を振った。当人同士で自然な形で解決して貰いたい、と云うのも俺等の願いである。
「……梨乃ちゃん、些か丸投げだぞ、そりゃあ……」
駆流先輩は少々面倒そうに言った。まぁ、確かに導入だけぶち上げておいて後は宜しく、では確かに丸投げ感著しい、とは俺も思ったが、然し梨乃さんはスパークプラグなのだ。大気と燃料の混合気を燃焼させる切っ掛けの役目なのだ。多少強引だが、筋違いではないだろう。
「えっと…………改めて話すのって、何か照れるな」
「フッ……まぁ、な」
「アタシ達、ずっと遣って来たけど、音楽の事以外で真面に話すのって、あんまり無かったもんね」
「何年振りか、だからな。無理も無いな」
駆流先輩、塀巣先輩、良夢音先輩、儀足先輩の声が連なる。其の様子は、数カ月の
駆流先輩は昨日、俺等に話して呉れた内容を
「…………俺には俺なりの、音楽から身を離した理由が有るんだ。其処は、解って呉れ」
駆流先輩は数分続いた独白を此処で切った。バンドメンバー達は敢えて、特に声を上げない。駆流先輩を
「でも、梨乃ちゃんが此奴等に聞いたって云う、俺抜きで新しいバンドを作る、って云う話を偶々聞いて、其れでバンドから距離を取った、って云う話も、……本当だ。悪い、此の前は意図的に黙ってたんだ」
そう言うと駆流先輩は俺等に頭を下げた。梨乃さんが即座に反応する。
「いやいやっ、頭上げて下さい! 先輩は別に悪い事したんじゃないんだし……」
俺も同じ思いだったので、首肯した。誰しも、他人に知られたくない、
「恐く為ったんだよ。音楽が、
苦々しい顔で言い終えた駆流先輩は、斜め下、何も無い長机の天板を見詰めた。
「俺等さ……、新しいバンド、組んだんだよ」
儀足先輩が口を開く。駆流先輩が下を向いた儘、返事をする。
「……知ってる」
「軽音部の2年で、ほら、
「……良いんじゃねぇの、彼奴其れなりに上手かったろ、
「ああ。俺達としてはさ、何つぅか……カケルと違って、俺達の言う事を聞いて呉れる、言い方は悪いけど都合の良い、俺達が
「フハハ……気持ちは分かるわ」
「でもさ……やっぱ中々上手くは行かないんだよな」
「……ん?」
「要は、そんな無機的な動機で組んだバンドなんて上手く遣れる訳無ぇんだよ。遣ってて……楽しくねぇんだわ」
「そっか……」
「ああ。其れに……、いざ組んでみたら、大利って案外上手くないのな。下手じゃねぇんだけどさ」
「…………」
「今迄遣って来た歌が、
「…………」
「で、辞めちまった。大利の方から申し入れが有ってな。『もう遣ってけない』っつってさ。考えてみれば面白い構図だよ、ヴォーカルを捨てたバンドが、新たに迎えたヴォーカルに捨てられたんだからな」
「……で?」
「もう一度……、俺等と音楽、遣らねぇか?」
待ち切れなくなった塀巣先輩が言った。駆流先輩は笑声の中の
「いやいや、
良夢音先輩が喰い下がる。
「でも、一度、他のメンバーを取ってみたから、気付けたの。アタシ達には、やっぱりカケちゃんが必要なんだ、って。欠かせないんだ、って!」
「俺達なりに考えたんだ。やっぱりお前が要るんだよ、此のバンドには。お前無しじゃ遣ってけないんだ! 今度は俺達も気合入れて遣ってくから、もうお前のワンマンに文句垂れるだけの俺達じゃないから! だから……頼む」
儀足先輩は畳み掛ける様に言って頭を下げ、塀巣先輩と良夢音先輩も其れに
「や……辞めて呉れよ、俺達の間柄で頭下げるとか、無いだろ? 其れに、俺は…………千風の言葉が……」
「夢を停める権利は、誰も持ってない……自分でさえも」
不意に梨乃さんは
「いや、そう思うんです、あたし。夢って……誰にも、何にも邪魔されないし、そう在るべきで……、
とはにかみ乍ら言った。俺は大多数の同年代と恐らく同様に、現段階で明確な夢と云うものを持っていなかったので、心底残念な事に、其の言葉に共感は出来なかった。
そして梨乃さんは斯う続けた。
「千風さんは、本当に、先輩にギターを、音楽を辞めて欲しかったんでしょうか……?」
「そ……其れは……」
「きっと、そうじゃない。
暫し沈黙した駆流先輩から放たれた言葉は、葛藤の末に産み出された決意の
「でも、俺……ずっとギター触ってないから腕も落ちてるし……」
梨乃さんは其の言葉に込められた
「否、去年の学祭で観た先輩の
「梨乃ちゃん……」
「そして何より、
梨乃さんは何時もの調子で椅子に腰掛ける駆流先輩に迫った。眼前に拡がる梨乃さんの顔面を
「な……何が可笑しいんです?!」
笑われた梨乃さんは流石に恥ずかしく為ったらしく、照れた様に言った。
「いや、悪ぃ悪ぃ、
梨乃さんに向き直った駆流先輩はそう言うと、嘗ての戦友3人に相対し、
「お前等、また遣って呉れるか? 俺を……
と問い掛けた。
「でも未だ第一段階に成功しただけよ。先輩達にステージに立って貰って、ライヴアクトして貰って初めてバンドの完全復活をぶち上げられるの!」
駆流先輩達のバンドは梨乃さんの思惑通り、再結成(元々正式に解散していた訳では無いが)する事が決まり、早速各自練習に入る、と云う事で其の場はお開きと為った。副部室に入った俺は一仕事終えた感が有ったのだが、そんな俺の気抜けを察知したかの様に我等が
「じゃあ、此れからどうするんだ?」
真杜さんが問う。俺は梨乃さんが其れに対する
「フッフッフ……。もう算段は有るのよ。唯、其れを実現するには、許認可が要るわ。今から其れを取り付けて来るから。行くわよウルフ!!」
チッチッチ、とばかりに右の人差し指を左右に振る梨乃さんに、俺は一抹の謎を感じた。然し、其れに就いて熟考する前に俺はまたしてもヒト型レッカー車に
「あ……あの、今から何処に向かうんすか? てか何処に向かってるんすか?」
「決まってるでしょ。学校組織に於いて物事の許認可権を保有するのはどう云う奴等よ?」
「……ああ」
俺は理解した。そして、俺は先程感じた一抹の疑問を梨乃さんにぶつけてみる。
「何か、梨乃さんらしくないっすよね? そう遣って正式に許諾を貰うって。梨乃さんだったらそう云うの関係無く
「馬鹿ね!」
一喝された。
「今回の
まぁ、梨乃さんはどんな状況に於いても教師連中にへいこらする事は無さそうだが、と俺が思っている内に、目的地に着いた。
「頼もー!!」
俺は
「さほーセンセー!」
笑顔満面の梨乃さんに指名された佐峰先生は暫く両手で握った白い大きめのマグカップを額に押し当てつつ黙想していたが、軈て覚悟を決めた様に、此方に造り上げられた微笑みを向けた。
「どうしたの? 五輪さん」
「あの、行き成りで悪いんですけど、今度の
言葉と裏腹に、悪いと思っている素振りは此れっぽっちも見せず、梨乃さんは訊いた。
「え……っと、一寸待ってね……。うーんと、確か……」
自分に直接的に
「ちょ……一寸待ってね。御免ね、あんまり慣れないから……」
手当たり次第に目ぼしいフォルダを開いては消している佐峰先生を見て俺は、少し可哀想に思った。と、そんな佐峰先生の様子を見ていたのか、隣の
「あぁ、其処ですよ。其の先の『施設使用予定表』の、『アリーナ』の中に……。そう、其れです。……しかし君等、また妙な事
声の主は我等が1年機械科1組の主担任、
「いやぁ、一寸ね。でも、今回のプロジェクトは結構
梨乃さんは破顔一笑で答える。其の場に居る誰もが、其の満面の笑みに騙される事は無かったが。
教授して貰ったエクセルファイルをダブルクリックし、右のほっそりした人差し指でマウスのホイールを転がし乍ら、佐峰先生は言った。
「えーっと、金曜の7時間目ね……。あ! 空いてるわよ」
「直ぐ押さえて下さい! 即!
20インチそこそこのTFT液晶画面に
「わ……分かったわ。端似先生、此れの予約ってどう云う……?」
「あぁ、其の欄にウチの学級名を打ち込めば良いんですよ。其れが当日迄重複しなかったら本決まりで、万が一重複した場合は話し合いで決めるんです。まぁ、原則早い者勝ちなので、先に埋めちゃえば
「さぁ押さえて下さい! 今!
「わ、分かったから! 一寸落ち着いて! ……ほら、此れでどう?」
今迄空欄だった4月20日の7時間目のセルには「1M1」の記号が書き込まれている。無論、1年
「あざーっす!!」
梨乃さんは某芸人を
「所で、五輪さんはどうするんだ?」
「はい?」
「いや、ウチの
「ああ、そう云えばそうですよね」
端似教諭の素朴な疑問に、佐峰先生も同調する。俺はと云うと、梨乃さんの計画を薄々理解し始めていたので、さして疑問には思わなかったが。
「あ、其れは大丈夫です。1年
俺は我が意を得たり、と内心で小さくガッツポーズを決めた。一方、常識の権化たる教師2名は半ば呆れ気味に驚いた。
「……やっぱり妙な催しを考えてるんだな?」
端似教諭が突っ込むと、即座に梨乃さんは反論する。
「いやっ、今回のは端似先生も確実1000
得意満面で自信の化身と為った梨乃さんは、反射的に端似教諭が身を
「ほぉ、何なんだ? 其処迄言い切れるとは」
「其れはですねぇ…………」
往年の1000万円を懸けたクイズ番組の正解発表前の
「…………尾井先輩のバンドの復活ライヴですよ!!」
「な、何だってぇ――!!」と云う反応を梨乃さんは期待した様だが、実際そうはいかず、
「おぉ、そっか、成る程な。尾井君のバンドって上手く行ってなかったのか?」
と云う至って平静な反応が返って来るのみだった。
「……センセー、ノリ悪いっすよぉー。其処は斯う、もっと
と愚痴りつつ、端似教諭の肩を指先で
「コラ
「
本気で悔しそうな眼をした梨乃さんは恨み節をごちている。
「で……でもバンドのライヴなんて、許可が下りるんでしょうか? HRの時間に全校生徒を参加させて、なんて。其れに何て云うか、その、騒音面とかも」
ぐぅの音も出ない完璧な正論で以て懐疑的意見を述べる佐峰先生は、矢張り
だが、此れに対する梨乃さんの
「そんなん知らない!! あたしはあたしの価値観倫理観に
言いたい事だけ言い残し、梨乃さんは再び俺の手首を握り込み、其の場をずかずかと後にし始めた。梨乃さんの様な、強い言動であらゆる難題を突き崩していく政治家が此の国にも現れれば、閉塞感と絶望に
そして、梨乃さんに就いて俺が感心するのは、最後、職員室を辞する際、
「御協力感謝します!! 有り難う御座いました!!」
何だかんだ騒々しく
そして、俺等が職員室を後にしてから、
「それにしても、あんなに五輪さんを行動させる程、凄いんですか? その……尾井君って」
「あぁ、彼は凄いよ。僕なんか音楽的な事に関しては全くの素人だけど、そんな僕でも彼等が
「へぇ……成る程……」
と云う佐峰先生と端似教諭の会話が有った事を俺は知る由も無いし、
〈端似先生がこんなに熱く語ってるの、初めて見た……。端似先生って、意外と
なんて事を佐峰先生が内心で思った事や、
「然し、尾井君のバンドが上手く行ってなかったとはなぁ……。想像も出来なかったなぁ」
と端似教諭が独り言を漏らした事など、
「さ、あたし達も動いてくわよ!!」
宣言は、tRPG部副部室へと戻り、俺が一仕事終わった、と息を吐いた瞬間、梨乃さんの口から飛び出したものだ。
「え、もう動いたじゃないですか。
俺は心底そう思って訊いた。すると梨乃さんははぁ~、と誇大に溜め息を吐き、
「ウルフ、アンタ本当にそう思ってんの?」
と呆れた様に冷ややかな視線を向けてきた。
「え、えぇ……」
「まだまだね! 甘ちゃんにも程が有るってモンよ。
恐らく「アヲハタジャム」が言いたかっただけだろうと思われる、良く解らない突っ込みを俺に喰らわせ、梨乃さんは
「良い?! 催事に不可欠な事って何よ? 会場の都合を付ける事? 其れも
過去、
じゃあ、今回の場合の最も適切な宣伝媒体は何か?! 即ちっ、其れは紙媒体、もっと言えばチラシ、ビラ!! 此れしか無いわハイ決定異論の余地無し対抗意見は受け付けません!!
何時だってねぇ、現実的な思考を失っちゃいけないわ! 其れ無しじゃ唯の机上の空理空論っ、絵に描いた餅っ、
と……兎に角っ、現実的に考えて
どう?! 分かったでしょ?! 今回の
……独演とは、実に良く出来た単語である。独り
とは云え、梨乃さんの言う事も一理有る。
「どう思う? 真杜」
と問い掛けた。真杜さんは
「ああ、良いんじゃないか。……役割を分担しよう。其の方が
と名参謀の如き
「うん、そうね。じゃあそうしましょ。……にしても、3人しか居ないんじゃ、制作作業なんて出来たモンじゃないわ。先ずは
俺は何と無く不安に思い、思わず尋ねていた。
「ちょ……一寸待って下さい梨乃さん、チラシって普通
「あのね、
梨乃さん、発言する度に
「何もパンフって云う程迄
「否、必要なの」
「でも「必要なの!!」
俺は口を
「多分ウルフは知らないと思うけど……、駆流先輩、結構今、
でも其れって要は誤解じゃん? 先輩には本当に見えてんだから、そりゃあ変な
俺は、少し、断じてほんの僅かだけど、感動していた。梨乃さんの駆流先輩への一途な敬意の念、そして心配し
「……分かりました。梨乃さんが信念に基づいているんなら、オレはもう異を唱えたりしません。全力で遣るだけです」
「ウルフ……」
「私も同感だ。尽力しよう。然し、確かに現状では余りにも
「話は聞かせて貰った!!」
突如として閉まっていた副部室の扉が威勢良く開き、宮殿部長が乱入してきた。
「アンタ、また盗み聞き……っ」
「まぁまぁ、落ち着き
「え……」
「改めて五輪君の熱意に
宮殿部長に促され、正部室へと出ると、俺が今迄会っていなかった正規派部員が揃っていた。列挙すると3年の
「……未だ足りないわね」
梨乃さんは腕を組み、熟慮した上でそう言った。
「えっ?!」
と驚く声は梨乃さん以外の一同のものだ。
「編集部員は多い方が良いわ。往々にして大は小を兼ねるものよ。人数は居るに越した事は無いわ。もう少し協力者を引っ張って来ましょう。ウルフ、行きなさい! 最低でも2人は見付けて来なさいよ!!
斯うして俺は半ば追い払われる様に校内に放たれた。果たして協力して呉れる変わり者、
居るものだ。
当ても思い付きも無く、何気無く歩いていたら偶然にも馴染み深い1年機械科1組に辿り着いたのだった。室内を覗くと、人懐っこいが根底に厳しさを感じさせる
完全なる余談だが、機械科とは
俺が何をしていたのか、と声を掛けると、彼女達は特に何もしていない、と言った。もし何か手伝いを頼んだとしたら、遣って呉れるか? と問うたら、面白そうなら喜んで、との事だった。俺がかくかくしかじかと説明すると、2人は意外にも快諾して呉れた。
「丁度手持ち無沙汰だったし、其の上柿手君と
とはtRPG部室へ向かう道中、意味深な笑みを浮かべた名嘉吉の言葉である。菊場でさえも同意する様に微笑んでいる。……面白がられているのは若干
俺が先程に比すると随分と軽快な足取りでtRPG部の部室に戻ると、目に見えて人影が増していた。
「あっ、ウルフ!! 遅いっ! ったく、どんだけ時間経ってると思ってんの?!
そんな叱責を受ける程、時間は掛かってないんだが……。俺は何とも云えぬ表情で、腕に嵌めたカシオ製の樹脂バンドの電波腕時計を見遣ると、辛うじて10分が経過した所だった。
「ハハッ、柿手君、教室の時と豪く違うじゃん。やっぱ弱いんだ、五輪先輩には。そ・れ・と・も~?」
名嘉吉が茶化し感
人数が増えている、と云う事は、梨乃さん達も人材を引っ張って来たのだろう。其の面々を見ると、……正直云って、俺が予想した通りの
まぁ、知らんけど。
「よぉ~し。まぁ此れだけ居れば問題無いでしょう! 今から皆には尾井駆流先輩と其のバンドに関する小冊子を創って貰います! 此れ、絶っ対に他言無用ね!!
そう梨乃さんが問うた。勿論、皆承知の上で集ったのだから、反対意見が出る事は無く、一同頷いた。但し、満面に前向きな表情をしているのは梨乃さんと宮殿部長位だったが。
繰り返しに為るが、主に人手が要るのは製本の際なので、大半の者は解散と為った。
此処で不可思議な事が一つ。初対面と為る梨乃さんと真杜さんに対して紹介をする必要は有ったが、其れが済んでも何故か解散しようとしない陽香と名嘉吉、菊場の1年女子3人衆は副部室に居残ったのだ。
「おい、どうしたんだよ。もう解散だぞ?」
俺は陽香に声を掛ける。其の発言範囲には当然、級友の女子2名も含まれている。
「あの、私も何か、手伝いたいんですけど、その……編集、とか」
陽香が俺にではなく、窺う様な眼付きで梨乃さんを見つつ言う。
「そうそう! うち等もどうせ遣るなら記事の段階から手伝いたいっすよ。ね、るこっち?」
「あ、うん、そうですね。遣りたいです」
名嘉吉と菊場も賛同する。
「へぇ~、そう。
俺は唐突に問い掛けられて面喰らった。「偉い偉い」の時に梨乃さんが陽香の頭を撫でて、陽香が此の上無い程嬉しそうな反応をするのを眺めていて、話半分に聞き流していたからだ。
「え、はい? 何でオレが?」
「だって、アンタが
「はい、是非!」
名嘉吉が即答する。いやいや、俺は? 俺の意思は?
真杜さんと宮殿部長及び言海先輩、そして1年女子軍団が居る中で、俺は突如として強制作家デビューを決定されたのだ。云う迄も無く、自分の書いた文章を公衆の面前に晒す、と云うのは言い様も無い強烈な羞恥を伴うものであり、況してや小説的な
今思えば、其れは或る種の予感だったのかも知れない。
良く良く考えてみたら、否、考える迄も無く、実は俺は計画の進行に関して一切の仕事はしていないのである。単に梨乃さんの後ろに(強制的ではあったが)付いていき、梨乃さんが体育館を押さえるのを見ていただけなのだ。
俺の心臓が、もう一度唸った。
此の
確かに梨乃さんの指示は無茶振りだ。俺にそんな事が
昨日、宮殿部長は言った。「リミット迄行き着いてもないのに諦め、自分に嘘を吐く人間は腹が立つ」と。俺は其れに合致してはいないか? 梨乃さんからの指令に挑戦もせず、其れを拒絶したら、自らの思念に背く事に為らないのか?
「ウルフ、アンタまさか……遣んないの?」
梨乃さんのあからさまな挑発は完全なる駄目押しと為った。
「……遣りますよ。まぁ、果たせるかは分かりませんけど、遣るだけ遣ってみます」
俺は宣言した。してしまった。もう、引き返せない。「へぇ、柿手君が小説書くんだ。どんなんに為るんだろう。読んでみたい!」と云う名嘉吉の発言や、「得附、大丈夫?」と云う陽香の憂慮を以てしても、俺の決心を揺るがせる事は叶わなかった。
「OK! 全力で全身全霊を懸けて掛かりなさい! 手書きだと色々メンドいから此のノーパソ使って書いてねっ」
梨乃さんは壁面の備え付けの棚から黒いバッグを取り出し、俺に手渡した。チャックを開け、中を改めると、型落ちの地味なノートPCと
「此れ、備品ですか?」
「あぁ、アンタの
恐らく其の「専用PC購入催促ゴネ作戦」には俺も駆り出される事に為るだろうなぁ、どんな事に為るかなぁ、と考えてしまったものの、今はそんな事に頭を使っている場合ではない。先ず執筆に際して何が必要か、其れを洗い出さなければ。ド素人乍らも、何の当ても無く漠然と書き出しても袋小路に嵌まるだけ、と云うのだけは何と無く、本能的に解っていた。
「分かりました。此れ使えば良いんですね? じゃあ駆流先輩にもう一寸話聞いてきます」
俺はPCバッグ片手に退室しようとした。すると梨乃さんが、
「いやいやいや!! 駄目ダメだめ! ちょい待って!」
俺の両肩を掴み制止した。
「え? でも正直オレ、昨日の駆流先輩に就いての話ってあんまり覚えてないんですけど。実在の人物を基に書くんだったら間違いとか誤解が無い様にしないと
「否、そりゃそうなんだけど、あたし的には知らせたくないのよ、先輩に。だから取材的な事は勘弁して。昨日みたいな話が必要だったらあたしが代わりに話すから!」
じゃあ先輩達にはどう遣ってライヴの開催を伝えるんだ、とか、抑もパンフ的な物を配布したら其れが先輩達の眼に届くんじゃないか、とか言いたい事は有ったが、一先ず黙った。
そして俺は、再度梨乃さんの口から駆流先輩の話を聞いた。1年女子3人衆は初耳の為か、皆涙
「でも、先輩達にライヴの日時は伝えなきゃね。
行き先は第2音楽室、軽音楽部の部室である。ギター、ベース、ドラムスの疾走感有る
「お、梨乃ちゃん」
駆流先輩は俺等が部屋に入るなり、合図を出して演奏を止めさせ、梨乃さんと
「遣ってますね? 先輩達」
「ああ、其れも此れも梨乃ちゃんのお蔭だよ、マジで。恩に着るぜ」
憑き物が落ちた様に爽やかな笑みを浮かべつつ駆流先輩はそう言うと、梨乃さんに軽く辞儀をした。他のメンバーも一様に晴れやかな表情で其れに倣った。
「や、辞めて下さいよぉ、そんな、あたしなんか何も遣ってないのに。
照れた梨乃さんは赤面しつつ言った。俺は梨乃さんに向けて極小さく呟いた。
「梨乃さん、本題に」
「うっさい! 分かってるっつぅの」
一瞬でジト眼に豹変し、早口で呟き返した梨乃さんは、駆流先輩達に向き直り、斯う言った。
「先輩達のライヴ、金曜の7時間目に遣りますから!!」
俺は唖然とした。其れじゃ何も
「1時間だけって云う限られた時間で、
成る程、全校生徒を観客にする、と云う事だけ伏せておく算段か。考えてみれば、「ライヴをするよ」と言っておかなければ先輩達も何の準備もし得ない訳で。
でも其れだと、
「え、其の時間って
至極
「其処はほら、まぁあたしが何とかするんで」
まるっきり回答に為ってないだろ! と俺は思ったのだが、4名の先輩達は一斉に
「あぁ~」
と間の抜けた声を発し、納得してしまった様だ。此れが、梨乃さんが過去1年間、珍妙な事を散々遣らかしてきた事実が
「じゃあ、そんな事で宜しくお願いしますねっ! 期待してるんで!
梨乃さんはそう言いつつ部屋を去ろうとした。防音の為、二重に為っている内側の扉を俺等が出ようとした時、駆流先輩の力強い一言が飛んで来た。
「今迄以上の、
梨乃さんは心から嬉しそうに振り向くと、後ろを付いて行く俺越しに大きく、彼等に手を振った。
其の後、解散と為り、即行で家に帰った俺は、早速古い
斯くして、予想通り四苦八苦して著したものの一部が先程の“*”で挟んだ部分だ。結局、学業の
「やっと出来たわね、ウルフ!! 早速見せて貰うわよ!」
梨乃編集長は腕
ふと、梨乃さんの頬に一筋、液滴が伝い落ちた。俺は我が眼を疑ったが、
「ウルフ……、良いじゃない。上出来よ! アンタ、凄いわね!
「あ、そ……そうっすかね……?」
俺が
「でも、此処は
『煙草は』から『吹かす』迄をドラッグし、
「ああ、そうですよね……。
俺も同意し、当該箇所に
「でも、其れ以外はまぁ完璧と言って良いんじゃない? 初見でも充分伝わると思うし、適度に
俺は今度こそ心の中で某石松氏が由来のポーズを決めた。其の最後の所は、我乍ら物語に僅かな救いを付与出来た、と自負していた箇所だった。
「うん! じゃ、印刷ね! 昨日の内に端似先生と佐峰先生には協力を依頼しといたから! 恐らく放課後迄には大体のページが刷り上ってる筈だから、寄って
梨乃さんはそう言ってPCを閉じ、其れを片手に意気揚々と部室を出ていく。此の用意周到さも、梨乃さんの専売特許である。俺は通学鞄を肩に提げ、編集長の背中を追った。
今考えても、端似教諭と佐峰先生の苦労は計り知れない。非常な重労働だったろうし、況して
斯くして7時間目終了後、tRPG部の正部室の長机に積み上げられた1000枚の紙束×4
「何たじろいでんのよ?! 此の
有志で集った一同に其処迄
「はいっ!! 遣りましょうっ! 何から手ぇ付ければ良いんすか!?」
「おぉ!?! ノリ良いわねアンタ!! じゃあもう兎に角
内職の象徴的な朱色の
「
首尾良く全ての掌に、何時の間にか仕入れてきた指サックを配布すると、梨乃さんは構わず作業に没頭していった。そんな梨乃さんの脇に、100円均一チェーン店のレジ袋を見付けた俺は、梨乃さんが人数分の指サックを購入する姿を思い描き、其の健気さ、甲斐甲斐しさに、ほんの少しだけ頬を緩ませた。
「全く、しょうがないなぁ」
「私達も手伝うから」
事の成り行きを後方から見守っていた端似教諭と佐峰先生が、自前の物なのか俺等に配布された其れとは異なる
斯くして、何故か鼻歌交じりでノリノリの名嘉吉と、教職者の
十数名が寄って集って取り組んだので、作業は案外早く終了した。とは云え、此れがあと数名少なかったら、と想像すると寒気がする程の辛い仕事ではあったが。気付けば下校時刻の間際、空は暗く為りかけていた。其れでも俺等は、何かを遣り遂げた小さな達成感からか、誰一人としてさっさと部屋を後にする者は居らず、皆が思い思いに冊子を眺めていた。俺はそんな周囲の光景を微笑ましく思い、一息吐き乍ら藁半紙で出来た小冊子に眼を落とした。自分の記事以外にどう云った内容が掲載されているのか、未だ知らなかったからだ。一体何時の間に調べたのか、駆流先輩達のバンドの持ち歌一覧とか、公演の記録等の
「で、梨乃さん、此れ、どう遣って配るんですか? 先輩達に知られない様に全校生徒に配布するのって中々難易度高いと思いますけど」
短期間で驚く程親しく為った、名嘉吉と菊場、陽香の1年女子3人衆と談笑していた梨乃さんの背中がビクッと一度反応し、以降主だった返事は得られなかった。
「……未だ考えてないんすか」
「……う、煩いっ!! あたしだって色々忙しかったんだから!! 取材して記事書いてさぁ! 其れは後回しにしてたの!!」
「そうだそうだ! 少しは労われ!」
名嘉吉が面白半分で同調の声を上げる。……俺は心底、お前を誘ったのを悔いるぜ、名嘉吉よ。梨乃さんが0.5人増えた様なモンだ。そしてお前自身は果たして労わられる程の仕事を為したのか? 俺のアシスタントとしては、一切の仕事をしてない(抑々与える仕事が無かった)んだが。
俺は溜め息を吐きつつ、一つの案を
「部長、駆流先輩達って、朝練してますよね?」
唐突に話を振る形に為ってしまったが、宮殿部長は
「ああ。彼等も明日の発表に向けて昼夜を問わず追い込みを掛けているからね。必然、早朝練習は勿論、昼休みも放課後も、遅く迄自主練習を重ねているよ。多分、今もね」
俺は、飽く迄も成功の確率は低いが、と充分な前置きをした上で言った。
「第2音楽室の壁掛け時計を少し遅れさせておいて、先輩達が予鈴を聞いて慌てて
「柿手君凄ーい! 良くそんな悪知恵が即興で働くね!」
未だ喋っていた俺を
「でも確かに、案外良いかも知れないね」
依琉さんが助け舟を出して呉れた。
「楽器遣ってる時は手元に携帯無いだろうし、壁に掛かってる時計を最初に見るんじゃない?」
「そうだな。確かに壁掛け時計が有れば、態々携帯を見る事は無いかもな」
真杜さんも依琉さんに同調した。
「まぁ、賭けてみよっか!!」
梨乃さんも賛同し、俺の意見は採択された。思えば、こんな感じで
「良い? あたしが打ち合わせの
了解すると俺に
梨乃さんが二重扉の廊下側の扉のドアノブに手を掛けた。其の先の、部屋側のドアとの合間の空間は、正直言って少々狭苦しい。全ての方に平等に伝達し得ない事は心苦しいが敢えて云うと、図書室や視聴覚室、コンピュータルーム等に代表される土足禁止の特別教室の出入り口に設置されている下足場とでも云うのか、上履きを脱ぐ為の空間から靴箱を失くして少々狭くした様な、そんな感じの小部屋なのだ。
だが、
そんな事に思いを
「聴き惚れてる場合じゃないっしょ?! 早く行くわよ!!」
貴女も人の事言えんでしょ、と云う言葉を飲み込み、俺は先陣を切る梨乃さんに続き、完成度の高い音が
「おっ邪魔っしまーす!!」
開口一番、声を張り上げた梨乃さんは、どの楽器の
「……梨乃ちゃん、其の
「いやぁ、そんなお世辞止めて下さいよ。そんなに
上着のポケットを探る振りをしつつ、そう返す梨乃さんの顔は満更でも無さそうに緩んでいる。良夢音先輩も
「でもさ、リノちゃんの声って良く通るし、綺麗だし、其れでいて其の
「いやいや……」
「やっぱ歌い手変えるか?!」
「
「おい! 冗談キツいぜ! ……冗談、だよな?」
塀巣先輩と儀足先輩の言葉に、駆流先輩が反応する。然し其処にはギクシャクした緊張感は無く、駆流先輩が真顔でそう言い終わった一瞬後、4人の先輩達は揃って破顔した。矢張り、そう簡単には断ち切れない絆が有ったのだ、此の4人には。でなければ、こんな短期間に此れ程迄、気の置けない間柄を取り戻せる筈が無い。
和気
「梨乃さん、本題に」
「うっさい! 分かってるっつぅの」
耳打ちした俺に顔を向け、梨乃さんは小声で制する。そんな俺等の模様を見て、良夢音先輩は、
「其れ、此の前も見たよー」
と茶化した。意図せず俺等は、
「えっと、今日来たのはですね、先輩達に一寸当日の、ってか明日ですね、の事で相談が有りまして」
「ああ。どう云う?」
「済いません、一寸此方に集まって貰って……」
梨乃さんは手早く先輩達を入口の方へ纏め上げると、俺に分かり易く
俺は素早く部屋を見渡した。そして、白い防音壁の床面から2.5m位の位置に1つ、壁掛け時計が据えられているのを発見した。手近にあった机に
正に一石二鳥じゃないか、俺は思った。内密ライヴと云う性質上、また本番迄の期間が無い事もあり、碌に(と云うか一度も)先輩達との会合の場を俺等は持てていなかったのだ。言わずもがな、
俺は暫しの待ちの間、先輩達の相棒である
「其れ、
スタンドに立て掛けられたレスポールタイプのギターを眺める俺に、駆流先輩はさり気無く声を掛けてきた。
「最初に買った奴なんだよ、其れ。通販で2万しない位でさ。今はもう一寸良い奴も持ってるけど、曲作りとか慣らしの時は其れが具合良いんだよなぁ」
成る程、矢張り楽器と云うのは感性と云うか、値段や品質、
「んじゃ、そう云う事で! ほらウルフ、用が済んだらとっとと撤退すんのよ! 邪魔してる身なんだから!」
俺を
「其れじゃ、先輩方、明日の『マグナム・オーパス』、期待してますからね!!」
梨乃さんはそう言い残して、俺を引き連れ第2音楽室を後にした。故に其の直後、
「リノちゃん、最後に何か言ってたよね?」
「ああ、何だったんだ? 『マグナム何ちゃら』って」
「……成る程、中々粋な
「トラ、さっきの分かったのか? どう云う意味だったんだ?」
「あぁ、『マグナム』ってのは『
「な……成る程……。知らなかった……」
「五輪って、意外と賢いんだよな」
「ハハッ。そう迄言われちゃ、魅せて遣んねぇとな。一丁遣ったろうぜ、オイ!!」
「「「ッシャー!!」」」
「……と言いつつも、もう学校閉まる時間だな。一寸俺の家集まろうぜ。最後の煮詰め、遣りたいんだよ」
「「「当然!!」」」
……なんて会話が先輩達の間で交わされていた事など、俺は微塵も知らなかった。
俺はtRPG部室へ意気揚々と戻る梨乃さんの背中に声を掛ける。俺が先程の作戦中に気付いた懸念材料に就いてだ。
「梨乃さん、あの時計、電波時計だったんで、ひょっとしたら夜の内に補正が掛かっちゃうかも知れないです。まぁ
「大丈夫じゃないの? アンタ、各教室の時計、ちゃんと見た事有る?」
俺は首を横に振る。
「全部おんなじメーカーの
「はぁ、そんなモンですかねぇ……。でも、先輩達があの時計を見て朝練を打ち止めるかも分からないっすよ? 駆流先輩なんて形見の腕時計してる位ですし、朝練の時も腕時計外してないかも」
「だから、言ったでしょ?! 賭けるしかないのよっ!! 其れしか無いんなら
「……え? 最後の『むろごころ』って何すか?」
「『むろ』は
「え? えーと……あっ!
「そう! もう一寸早い段階で分かりなさいよ!! ……って違う! 何の話だっけ?!」
「あぁ、『愚策だとしても遣らないと』って奴ですか?」
「そう! 其れっ! アンタだって、そうは思うでしょっ?!」
「まぁ、そうですね……。でも、流石にアレはどうかと思いますけど……」
「アレ?」
梨乃さんは歩みを進めつつ此方を向いて首を傾げた。
「その……、言わずもがなですけど、ライヴに関して全校生徒に口止めが必要ですよね。其の口止めの手段があの注意書きだけ、ってのは……」
俺等が夜なべして……否、其れは言い過ぎだ。
俺等が苦戦しつつも完成させた膨大な部数の小冊子。其の裏表紙の下段には、大きく1つの
<本人達には、今回のライヴが全校生徒の前で披露する公開ライヴである事を告知していません。サプライズ感を与えたいので、全校生徒の皆さん、並びに教員・関係者の皆様、ここは一つ、本人達には内緒で、絶対秘密でお願いします!! プロジェクトリーダー・五輪梨乃より>
「此れで果たして、
梨乃さんはあからさまにムッとした顔で、
「じゃあ、他に良い
俺に鋭い
「此れでも、あたしなりに考え抜いた最善策なの。後は信じるしかないわ」
其処で梨乃さんは一転して俺に対しにっこりとした笑みを向け、
「信じる者は救われる! ……って、良く言うじゃない? あと、願えば叶う、とかさ!!」
そう言い切った。俺は言い様の無い後ろめたさの様なものを感じて、梨乃さんから眼を逸らした。
……羨ましい。無邪気な迄に、心底そう言い切れる梨乃さんが、俺は本当に羨ましかった。
此の自覚が有るからこそ、俺は梨乃さんの底抜けに輝く笑顔から眼を逸らしたくなったのだ。
「大丈夫よ! 案外
俺は残酷な迄に眩し過ぎる台詞に返す言葉を見出せず、黙りこくった。
遂に此の日が遣って来た。何だか、思い返すと意外と長かった様な、そうでも無かった様な……と云う感じで判然としない。俺の経験から体得した真実として、“時間は現在進行形では短く、過去形では永くなる”と云う金言が有るが、まぁどうでも良い。回顧主義に
2007年4月20日、午前7時45分。今から数時間後、
此の一週間、俺や梨乃さんが(勿論真杜さん達も)全力を尽くし、濃密で凝縮された活動をしてきた。事前の段取りは上々と言って良いだろう。7時間目の終了時、首尾良く終える事が出来るのか、其れは
「OK?! 皆集まったね!!」
昨日製本した小冊子が折り畳み机の上に
「
円陣を組む、と梨乃さんが言い出した時は中々気恥ずかしいものが有ったが、いざ組んでみると、此れ程一体感を高める行為は他に無いかも知れない、と思った。
梨乃さんが敬語で宣言する、と云う事は、即ち相当に本気だ、と云う事である。梨乃さんの
小冊子の配布は、俺と1年女子3人衆が1年生の各学級を、梨乃さんと真杜さん、そして奈子先輩と依琉さんを筆頭とする数名の茶華道部員が2年の各学級を、宮殿部長と言海先輩、正規派部員である斎源律先輩と舞音先輩が3年の各学級を担当し、普通科1組から順に配布してゆく
「ほら、柿手君早く!」
「いやいや、
「えぇー、だって斯う云う時は普通、男子が先頭に立ってさぁ……」
「んな事言うなら、普通は
「え、えぇ~……」
人見知りの
「……もう!! 見てらんない!!」
唐突に陽香が、菊場の腕の中に在った小冊子の束を引っ掴み、
1G1教室内は突然の朝の来訪者に、明らかに警戒感を表した。生徒間から談笑が消え去り、室内前方、教壇の方に耳目が集中する。俺は此れが嫌なのだ。自分と云う存在が注目される事、此れ程居心地の悪い事は無い。況してや此処は俺等機械科とは一切縁の無い普通科の教室――言ってしまえば
然し陽香は物ともせず、堂々と話し出す。
「行き成り済みません。3年の尾井先輩が組んでるバンドのライヴが今日の7時間目にアリーナの方で有ります。是非、見に来て下さい!」
言い終わると陽香は1列目の座席の生徒に列の人数分の小冊子を手渡していく。
「あ、でも、此の話、本人達には秘密にしてて下さいね? シークレットライヴって云う形式で遣るんで、もし顔見知りの人が居たら、其れだけ協力、お願いしまーす!」
にこやかな笑顔と共に、手早く冊子を捌いていく。俺は其の凛とした姿を唯、隅の方で傍観するだけしか出来なかった。
正味1分程度で配布と告知を完了させた陽香は、事が済んだら俺等を置き去りにしてスパッと退室していった。俺等は揃って、
「宜しくお願いしまーす」
と、無意味にペコペコし乍ら覇気無く言いつつ、陽香の後を追って教室から脱出した。
最後に教室を出た菊場が戸を閉めると、俺と名嘉吉は息を吐いた。何と云うか、陽香様々である。俺が情け無くも謝辞を述べようと陽香の表情を窺うと、彼女は相当赤面していた。
「よ……陽香、立派だったよ。俺が言うのもなんだけど」
俺が無けなしの
「得附が悪いんじゃん」
と言った。俺が弁明しようと口を開くと同時に、
「早くしないとパンフ配れないじゃん。急がないと。私達に無駄に出来る時間なんて無いんだから! ……って、梨乃さんの受け売りだけど。兎に角、怖じ気付いてる場合じゃないの! ……得附は知ってるでしょ? 私だって人前に出るのは苦手なんだから」
そう云う陽香の眼は気の所為か、潤んでいる。確かに、陽香は決して注目を浴びるのが得意ではない。隣近所で暮らし、小中と同じだった俺が其れを知らない筈は無く、其の意味で俺は、名嘉吉と菊場以上に驚きを感じている筈だ。陽香は頑張ったのだ。梨乃さんに感化されたからとは云え、自らの殻を打ち破り、見事に役目を果たした。其れに引き換え、俺はどうだ? さっき感じた結束感、使命感は嘘だったのか? 俺等に与えられし職務をまるで週2回の
「……そうだな。御免、悪かった」
俺はそう言うと何の気無しに陽香の頭を右手で撫でた。陽香ははにかみ乍らも少し嬉しそうだった。
「じゃあ、今度はウチが配るよ!」
陽香の
数分後、陽香の功績に因って、俺等の小冊子配布作戦は無事終了した。仕事を終え、俺がHRの自席に就くと、多々納に
「おい、なに女の子
などと茶化された事や、学級内に2人しか居ない女子生徒と一緒に居る機会が此の一件を機に増加する俺の、級内での日常に暗雲が垂れ込めるのは――また別の話。
其の日の授業は、正直言って身が入らなかった。幸い、金曜は俺が得意とする文系の授業ばかりで、一瞬でも気を抜くとテストでヤバい事に為りそうな数学Ⅰ・A等は無く、其の意味でも存分に身を入れない状態で居られた、と云う側面も有るのだが。
4時間目の授業時間終了の鐘が鳴ると同時に、俺と名嘉吉と菊場は立ち上がり、他の生徒達が弁当を机上に広げている頃には、別棟東館3階の第2音楽室に集合していた。
「
梨乃さんは集まったメンバー一同を見回して、再度の説明をした。
「今から、機材の搬出と、アリーナのセッティングを並行して行っていきます! 先ず、男手は重い機材をジャンジャン運び出す事! で、ナコっち達はアリーナのセッティングの手伝いをしててね! 放送部連中にも協力して貰うから、奴等と上手く遣って! で、残りの女子達は機材搬出の手伝い! 女の細腕でも持てるモンは一杯有るから、ガンガン動いてく事! 先輩達は必要な機材の指示と、アリーナでの音作りをお願いします! アリーナには『ライヴハウス
「ちょ、一寸待った!!」
俺等が離散し、各々の作業に取り掛かろうとした所で、協力者であり、当事者であり乍ら或る意味
「何か凄い大掛かりな事に為ってないか? 語弊が有るかも知れないが、たかが梨乃ちゃんとかキューデンとかの何人かの前で遣るだけだろ? なのに
1000人規模の、然も学校の体育館の様な造りの会場でのライヴは、
そんな経緯を俺は知っていたので何も驚かなかったが、図らずも伝えていなかった駆流先輩達は、突然浮上した馴染みの店長の名に違和感と驚愕を覚えたのだろう。
「実は、店長さんと少しお話する機会が有って、其の時に今日の話をしたんです。そしたら『学校の授業中だって関係無いから、是非見たい!』って
途中の部分は真偽疑わしいが、梨乃さんは出来得る限り違和感の無い様に説明した。其の説明に駆流先輩達はそこそこ納得した様で、
「ロクダイさんが手伝って、作って呉れる
とバンドメンバーに
「今日は、宜しく頼む」
と言うと、続いて、
「じゃあ男共、一寸
と声を掛けつつ第2音楽室内に消えて行った。
俺は梨乃さんに其れと無く近寄り、
「本当にバレてないんですね、未だ。先輩達に内密ライヴの事」
と耳打ちした。梨乃さんは得意そうな表情で言う。
「当然でしょ? 宮殿部長にもさっき確認取ったし。上手く行ったみたいよ、アンタの悪知恵。良く遣ったわ、目論見通りよ。
「何か『悪知恵』とか、語弊が
「大丈夫!! なんたって
俺の
「さ、作業に取っ掛かるわよ!」
俺の背に掌底を喰らわせつつ、梨乃さんは発破を掛けた。俺は部屋の中へ進んでいく梨乃さんの後ろ姿を眺め乍ら、背中に残る掌の
俺等は早速機材搬出作業に取り掛かった。流れ上、俺と良夢音先輩がドラムセットを一緒に運ぶ事に為った。パールのバスドラムの片側を抱え乍ら、慎重に階段を下りてゆく。扱う物が扱う物なので、雑な運搬は出来ない。例えば此れが古紙回収に持っていく古新聞の束だとしたら、此処迄気を遣わないし、
相当、年季が入っている。が、念入りに手入れがされている様で、
「随分
俺の思考を読んだかの様に、階段の2段上から良夢音先輩の声が降って来た。
「良夢音先輩の
俺は問う。良夢音先輩は首を横に振りつつ答えた。
「うぅん。此のコはねぇ、軽音部に代々
「な……成る程」
言われてみれば其の通りである。矢張り理想は自分専用のドラムセットを購入し、
「あ、でもね! 頑張ってお金貯めて、スネアとクラッシュはアタシが買ったのを組み込んであるんだ! 後はペダルと勿論スティックね! まぁ、其れだけでも結構するのよねぇー」
「はぁ……」
ドラムを、否、音楽自体を其れ程知らない俺は、スネアとかクラッシュとか言われても其の意味すら把握出来なかった。何とも曖昧な
アリーナ内では、既にPAの調整が開始されており、マイクテストが行われていた。
「あ!! 呂久田井さん、おはよー御座いまっす!!」
「おぉ! 嬢ちゃん、お早う!」
良夢音先輩
「
「お早う御座います」
「宜しくです!」
「あぁ! ロク、トラ、ラムちゃん、お早う! 漸く再始動か、えぇ?! 待ってたぜ、ホント!」
3人の先輩方は親しげに会話を交わした。飽く迄も一見した印象だが、面倒見の良さそうな明るい
「ロクダイさん、おぁざっす」
「おっ! カケル、来たなぁ~おい! 待ち草臥れたぜ、なぁ」
「えぇ……。今日は何か済いません。梨乃ちゃんが我が儘言ったみたいで、態々ロクダイさんの手を煩わせてしまって……」
「いやいや、そうじゃねぇんだ。俺は唯、お前等が復活するって聞いたら居ても立っても居られなくなってな。俺から声掛けたんだよ、『何か手伝える
「ほ、本当ですか……?」
「ああ! 俺は飽く迄も一ファンとして、お前等のステージが見られるんなら手伝いたいと思ったから、此処へ来たんだ。俺は買ってんだよ、お前等の事。其の位には、な」
此の時、俺の眼には、駆流先輩の瞳が熱い分泌液で潤んだ様に見えた。他の先輩方も同様に。然し、次の瞬間の駆流先輩の眼は、情熱と気概で燃え
「有り難う御座います! 全身全霊、全力で遣るんで、お願いします!!」
駆流先輩はバッと辞儀をした。他の3人も追従する。呂久田井店長はニカッと笑うと、
「よーし、其れでこそカケルだ、其れでこそお前等だ!! 最っ高の条件用意して遣る!! とっとと
と
ステージ上に整然と並んだ機材、楽器、そしてバンドメンバー。
「じゃあ、『可能性のケモノ』を軽く……」
マイクを通じて、駆流先輩が宣言し、良夢音先輩が
次の瞬間、疾走感と一体感に溢れたバンドの代表曲がアリーナに響き渡った。前奏が終わり、ヴォーカルが入る。軽く、とは言ったものの、まるで本番さながらの完成度だ。全員の演奏からは手抜きの感は感じられず、駆流先輩も声を張り上げている様に思える。後から知った話だが、上級者は
「どう? 凄いっしょ? 先輩達」
横に居た梨乃さんが右肘で俺の腕を
「ええ。此れは……凄いですね。迫力も……。オレ、
「でしょでしょ?
そんな会話を交わし乍らも、俺の眼は
「……何? 落ち着きが無いわねぇ」
「いや……音の調整とかって何処で遣ってるんですかね?」
「あぁ、其れなら
梨乃さんが指差した先には、舞台の上手側に設置された小部屋が在った。今、其の扉は開かれていて、呂久田井店長が
「ちょ、ウルフっ、駄目だってば!」
声量は小さめに、梨乃さんが制止しつつ俺の後に続いて来た。
「いや、別に様子を眺めるだけですって」
俺は振り返りつつ言う。
「あ、ウルフ、前っ!」
「え?」
俺は何かにぶつかった。慌てて前方に視線を戻すと、先程の陽気さが全く失せ、
「あ……す、済みません! 御邪魔してしまって!」
梨乃さんが「言わんこっちゃない」と後ろで溜め息を吐く様子が手に取る様に感じられた。だが呂久田井店長は厳しい表情を崩すと、
「いや、俺も夢中に為ってたからな、お
と言って笑い飛ばした。俺は取り敢えず胸を撫で下ろし、折角だ、とばかりに質問した。
「あの、店長さんは斯う云う体育館みたいな所の音響調整って遣った事有るんですか?」
「いやぁ、実は其れ程無いんだよ。だから俺も
話の流れから「ロキ」と云うのが調整室内で放送部員達と機器の操作に当たっている生出冨と云う人物の名前なのだ、と理解した。開け放たれた扉から覗ける室内では、青年と生徒2名が何やら操作盤に向き合っているのが見て取れる。機器操作を仕事としている生出冨さんの指導を、放送部員達が受けている、と云う様な構図だった。まぁ、放送部員達に取っては貴重な体験、良い勉強に為っただろうから、今後の催事では彼等の
「……もう少しミッドが強い方が良いか?」
気付けば呂久田井店長は腕組みをして、険しい眼付きに戻っていた。腕を組んだ儘、調整室へと向かっていく。二言三言交わしたかと思うと、呂久田井店長は直ぐに引き返してきた。助言を受けた生出冨さんが放送部員達に何か話し乍ら、眼の前に無数に並ぶ
紛う事無く、彼等はプロだ。其れで稼いでいるのだ。飯を喰い、生計を立てているのだ。
「ん? どうした?」
俺が
「あ、いや……あ! あの、此処の機械って、良い奴なんですか?」
我乍ら、尋ね方に
「うーん、俺は良く分からんが……、割と充実してるんじゃないか? 少なくとも、朝礼なんかで校長とかのオヤジの声を垂れ流すだけじゃあ勿体無いわな。マイクもウチから持って来た結構上等な
呂久田井店長は其処で首を傾げた。
「何でカケルはワイヤレスじゃなきゃ駄目だ、なんて言ったんだろうなぁ。俺が偶々持って来てたから良かったものの。彼奴、普段は機材に注文なんか付けずに、有り
確かに其の話を聞いて、俺も疑問を感じた。が、バンドの演奏が終了し、音作りが完了した事も有り、其の引っ掛かりは俺の脳内で
6時間目の授業が終了すると同時に、俺は教室を飛び出した。数瞬置いて、名嘉吉と菊場も俺の後を追う様にして廊下に駆け出してきた。遂に今からが
「遅いわよ!!」
腰に両手を当て、仁王立ちで叱責を飛ばすのは勿論、梨乃さんだ。遅いも何も、俺はチャイムが鳴り終わると同時に、否正確に云えば其れよりも早く教室を抜け出て来たのだが……。1つ階が下だからと云っても、梨乃さんが斯うも余裕を持って俺等を待っている事が不思議でならない。俺は差し当たり、乱れきった息を整える事に注力した。
「は……早い、すね……梨乃さ……」
「人間ねぇ、何かを成し遂げようとする時には、普段じゃ考えらんない様な離れ業が出来るモンなのよ」
其れは
「まぁ、もう此処迄来たら、後は流れってものに委ねるしか無いでしょう!」
と開口一番梨乃さんが発した通り、正直云って打ち合わせる内容も何も、最早無いのだった。
「おぃっす!」
と、此処で駆流先輩達が遣って来た。同時に、7時間目の始業のチャイムが鳴り渡る。
「何か……悪ぃ事してるみたいだよな。斯う、授業時間中に俺等だけ抜け出して、さ」
駆流先輩が言う。何言ってんすか、校内で平気な顔して煙草吹かしてた人の台詞じゃないっしょ。そう俺は突っ込みたかったのだが、まぁ俺と梨乃さんと真杜さんだけでなく、其の他の手前も有り、自粛した。横目で見ると、真杜さんも同じ様で、何やら言いたいのを堪えている風だった。
「なーに言ってんすか先輩? 先輩なんか、タバふぉっ」
俺は咄嗟に梨乃さんの口を手で塞いだ。我乍ら
「おぉ~!! ウルフ君、遣るねぇ~!!」
「おぉ~!! 柿手君、強引~!!」
依琉さんと名嘉吉の
「ハハッ、どうしたよ? 行き成り公衆の面前で
塀巣先輩迄もが茶化してくる。俺は梨乃さんから
「否、別に此れはそう云う意味では……」
としどろもどろで身の潔白を証明しに掛かるも、
「えー、じゃあどう云う意味なのかな~? リノちゃん抱き
「「そうだそうだー!」」
「いっその事、2人抜け出して来ても良いんじゃない?」
「まぁ確かに2人共、此処迄一番頑張って来て呉れたからな」
と云う、良夢音先輩、依琉さんと名嘉吉の
ところで陽香、さっきからビシビシ飛んで来てるお前のレーザー
「ま、どうせだったら俺達の歌、聴いて欲しいけどな」
儀足先輩でさえ、そんな事を言う。もう四面楚歌だ……。
「あ、もうそろそろ時間ですよ!」
一声で俺の蛮行から皆の注目を逸らして呉れたのは、奈子先輩だった。そう、もたもたしていると直に全校生徒が列を為して遣って来てしまうのだ。そうだそうだ、と皆が慌ただしく配置に就く最中、奈子先輩が俺に「貸しが出来たわね?」とでも言わんばかりの
後ろから全てを見守っていた真杜さんは、俺の肩に手を乗せ、
「お前の意図は解ったよ。正解だと思う」
と言って呉れた。
「真杜さん……」
「でも、もっと別の
真杜さん、俺の肩に指、
「まぁ、此の件に就いては後程、だな」
ポン、と最後に俺の肩を叩き、真杜さんも配置に向かった。出来る事なら此のライヴ、終わって欲しくない。
「あ、あの……有り難ね、ウルフ」
後ろから声がしたので振り向くと、一時よりは落ち着いたものの、未だ顔面が桜色に染まっている梨乃さんが居た。
「あたし、調子乗って、また言わんでも良い事口走っちゃう
決して俺と視線を合わせず、斜め向こうを見つつ感謝の意を述べる梨乃さんは、上気する頬と相俟って、得も云われぬ可愛らしさを誇っていた。此の表情、此の仕種を眼の前で見せられて、墜ちない男は居ないだろう。そんな梨乃さんの姿は今、俺だけしか見られない。そう思うと、浅ましいと自覚しつつも、何処か誇らしかった。
「な……何、何時迄も見てんのよっ!!」
梨乃さんは一転して、敵意を剥き出して俺に吼えかかる。どうやら俺は無意識に、梨乃さんに
「い……言っとくけどねっ、あたしそんなに簡単な女じゃないんだからっ!! 其処ん
梨乃さん、また顔、赤く為っちゃってますよ? そう俺が突っ込むより先に、梨乃さんは
数分後、全校生徒が集い始めた。俺と梨乃さん以外のメンバーは、喧しい生徒達を鎮めさせ、統治する役目に就いている。何せ、此れは学校主導の催しじゃない。生徒が勝手に内輪で遣っている事に関して、教師陣は積極的に関与はして来ない。勿論、悪しき言動や風潮を帯びるものであれば、連中は全力で以て潰しに掛かって来るだろう。そうでは無いと云う事は、梨乃さんの破天荒さが或る程度は彼等に容認されている事と、駆流先輩達のバンド活動が並々ならぬものである事があの衆にも理解されている、と云う事の証だろう。
とは云え生徒達に整列を促す事や、静粛を求める事程度は、手伝って下さっても良かったんじゃないでしょうかね? 後から聞いた話だと、端似教諭や佐峰先生を筆頭に、一部の教師は協力して呉れたらしいが、其れ以外は隅の方でだんまりを決め込んでいたと云う。
まぁ今更、其れに関してどう斯う言う事も無いのだが。
生徒達が落ち着く迄、俺と梨乃さん、そして駆流先輩達は調整室の逆
だが、先輩達にしてみれば、仲間内にしか披露しないのに、何故こんな隠れる様な真似をする必要が有るのか、と云った感じで、皆一様に怪訝な表情をしていた。
「なあ、早く遣ろうぜ。気兼ねする事ぁ無ぇんだろ?」
と塀巣先輩。其れが実は、気兼ねする事が有るんですよ……。
「そうだよ! 早くしないと1時間終わっちゃうって!」
良夢音先輩が続く。確かに正論ですが……。
「どうも、何か怪しいんだよなぁ……。此のライヴ自体が」
儀足先輩は勘付き始めている。余り勘繰らないで頂きたい……。
「OKです!!」
1年女子3人衆が小部屋の扉を開け、
「よぉっし! 行こうかぁ!!」
景気付けに駆流先輩が吼える。其れを合図に、バンドメンバーがステージに向かい歩き出す。其の
「恩に着るぜ。梨乃ちゃんが
「あ、えぇ、まぁ……」
「あ、そうだ。礼に此れ遣るよ。もう俺にゃ
制服の上着の下に着たYシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、駆流先輩は俺に放り投げた。
「え、でもオレ」
「悪ぃな。もし喫わねぇんなら、処分しといて呉れや」
そう言って、ステージに立つべく前方に向き直った駆流先輩に、俺は一つ、心残りだった疑問をぶつけた。
「あ、あの。今更ですけど、1個訊いても良いっすか?」
「おぅ、何だ?」
「先輩達のバンドの、バンド名って何なんですか?」
駆流先輩は振り向いて、驚き顔で言った。
「あれ? 知らなかったの、お前」
「ええ。そう云えば、聞いてなかったっす」
駆流先輩は肩越しにニッと笑い、
「其れだよ」
と俺を指差した。
「え?」
「そいつ。『Keep Only One Love』の略なんだよ。格好良いだろ? 其の由来が、さ」
俺は右手で受け取った、緑色で「KOOL」と表記された煙草の箱に眼を落とした。俺は顔を上げると、壇上に上がる階段の途中に居る駆流先輩に向かってニカッと笑って、
「最高っす!!」
と親指を立てた。駆流先輩はステージの方へ振り向きざまに、
「お前も、貫けよ」
と呟いたのだが、此の時の俺には聞こえなかった。
*
全くの静寂がアリーナ内に拡がっている。其れはまるで、嵐の前の静けさ。此の
*
下げていた
未だ照明が落とされた舞台上は暗い。袖は猶更だ。だから、幕が上がるに連れ、徐々に外から漏れ入ってくる光が強烈に眩しい。
それにしても……。
俺は一瞬、不安に
そんなんじゃ、先輩達に示しが付かない。
そんなんじゃ、梨乃さんが哀しい思いをしてしまう。
そんな梨乃さんの姿を、俺は、見たくない。
俺が何とも言い難い顔付きをしているのを、梨乃さんはどう感じ取ったのだろうか? 不意に梨乃さんは俺に、声を掛けた。囁く様に、然し確実に、俺だけに届く様に。
「ウルフ、覚悟しといて。今から
俺は心奪われた。梨乃さんの凜とした、微動だに揺るがない、光の中の横顔に宿る自信に。
幕が上がってゆく。俺等の眼前に、現実が、真実が、厳然たる事実が、映し出される。
先ず届いたのは、耳を
軈て、視野が現実味を取り戻してゆく。再度、色を得た視界には、全校生徒が一様に舞台上を見上げ、一部のKOOLを知る生徒の熱を帯びた身振り手振り歓声、KOOLを知らない生徒達も、未だ見ぬバンドを前に惜しみない期待を込めた拍手をし、きらきらした眼をさせていた。間違い無く、人生でそう見られない、素晴らしい景色。
然し、俺が真に感動したのは、其の光景に対してではない。
俺が眼の前の想像を超える現況に呆気に取られる以上に、想像すらしていなかった先輩達は唯々、呆然と立ち尽くすだけだった。皆一様に気合の入っていた表情が、大きく開けられた口、見開かれた眼に因って、台無しに為っている。此れが意味するのは、詰まり。
先輩達は、本当に全校生徒の前でライヴをする事を知らなかった、と云う事だ。
改めて記すが、梨乃さんが全校生徒、即ち小冊子の読者に課した“お願い”は、口約束にも満たない、極めて
願えば叶う、なんて綺麗事だ。俺も其れ位は分かってる。無責任な絵空事だ。そんな簡単なモンじゃ、ない。
だが、願わなければ、抑も叶う筈もない。此れもまた俺は、事実なのだと思う。其の事を俺は、梨乃さんに教わった気がした。
「どう? あたし言ったでしょ? 『世の中、捨てたモンじゃない』って」
俺は横に立つ梨乃さんを見た。梨乃さんの横顔は満足げで、客席の方を見詰めていた。そして俺に向き直り、
「信じてみるモンでしょ?」
と言ってにっこりと笑った。俺は
勘の良い駆流先輩は気付いたのだろう。
「そう云う事か……。彼奴等……」
そう駆流先輩の口が動いた気がした。立ち尽くすバンドメンバー、歓声は鳴り止まない。
「おいおいおい!! どうしたよ『KOOL』?! ビビッてんじゃねぇーぞオイ!!」
マイクを通して、駆流先輩が吼えた。ライヴの始まりだ。呆けていたメンバーが即座に、キッとした眼差しに戻る。駆流先輩のマイクパフォーマンスは続く。まるで自分自身に言い聞かせるかの様に。儀足先輩が弦を弾く。アンプを通して、スピーカーから聴衆を煽り立てる様な音色が響く。塀巣先輩もダウンピッキングで勢いを付ける。良夢音先輩は思い入れの有るクラッシュをバスドラムと共に鳴り渡らせる。渾然一体となった音色は、人々を駆り立て、音で以て聴衆を煽動する。観衆の拍手は、何時の間にかクラップの
「こんなんでビビッてちゃ、此の先なんて進めねぇぞ!」
駆流先輩の其の一声を合図に、良夢音先輩に因るカウントが入る。此処から、
1曲目は「
良夢音先輩のドラムソロで幕を開けた2曲目は、比較的ポップな「
後奏から
3曲立て続けに、曲紹介も無い儘に自慢の持ち歌を観衆にぶつけたKOOLのライヴに、口を挟もうと云う無粋な輩は、もう存在しなかった。其れは詰まり、お堅い教師連中をも、実力を以て捻じ伏せた、黙りこくらせた、と云う事に相違無く、俺は誇らしく思った。
そう云ったものを抜きに、KOOLの演奏は兎に角圧倒的であった。
そして、4曲目。駆流先輩は、漸くMCを入れた。
「皆さん! 聴いて呉れて、どうも有り難う御座います! あの、ひょっとしたら皆知ってるのかも知れないんだけど、俺達、こんな人数の前で遣る、って聞いてなかったんだ、本当に。で、行き成り放り込まれた此の環境下で、一体何処迄、俺達遣れんのか? って。此れは俺達、試されてんのかな、って、遣ってて思った。
知ってる人も居るかとは思うんだけど、実は俺達、ほんの何日か前迄、実質解散状態だったんだ。一寸、此れも知ってる奴は居ると思うんだけど、俺の恋人が亡くなっちまって、で、其の彼女が
此処で多くの観客が笑い、親しい一部の同級生からは茶々も飛んだ。
「まぁまぁ、そう云う事にしといてよ。で、そんな俺の落ち度も有って、更に彼女が逝っちまった。そんなこんなで、バンドは空中分解だ。――あぁ、もう此れで、終わりなんだな……、と。そう思ったら、まぁ、やさぐれて、な……。
そんな俺達が――今週の月曜迄解散状態で顔合わせても口利かない
此れもまぁ、知ってる人も居るんだろうけど、2年の五輪梨乃。此の娘のお蔭なんだ。否、本当に。アイツが居なかったら……、俺達をもう一回引き合わせて、『復活して呉れ』って、頼み込んで来なかったら……、俺達多分、ずっとあの儘だった。斯う遣って、もう一度
そう言って、駆流先輩は俺と梨乃さんの方を向いて、すっと頭を下げた。塀巣先輩も、儀足先輩も、良夢音先輩は態々
隣の梨乃さんを見遣ると、照れた様な涙を堪えている様な、
メンバーが舞台袖に向かって礼をしている間、アリーナ内は拍手に包まれていた。誰が主導した訳でもなく、誰が率先した訳でもなく、温もりに満ちた拍手が場内に響いていた。
軈て駆流先輩は頭を上げ、
「此のライヴには、本当に多くの方の協力が為されています。tRPG部の皆、本当に有り難う。他にも集まって呉れた女の子達、本当に、有り難う。そして、此のアリーナ内にこんなに良い音が鳴り響いてんのは、俺達が世話に為ってた、否、此れからも世話に為るライヴハウスのシャチョーさんと
そんな、俺達を支えて呉れた人達に
今、見て呉れている全ての方にも感謝を込めて――――『
そして披露された、KOOLの新曲は、此れ迄とは一変して、優しく、穏やかで、温かい、
各々の心が震えた分だけの拍手が鳴り渡り、軈て一段落した頃、駆流先輩がMCに入った。
「えっと……まぁ、それぞれ、一寸した
そう言われた所で、俺には先程の演奏の何処にしくじりが有ったのか、皆目分からなかった。多分、聴衆の殆ども同様だったと思う。
「えー、こんなに素晴らしい時間も残り僅かです。と云う事で、次の曲が最後に為ります」
観客の一部から不満や
「有り難いねぇ、俺等の
駆流先輩の言葉には、心からの感謝が籠もっていた。少なくとも、俺にはそう感ぜられた。賛同の拍手が後に続く。良夢音先輩の優しく響くシンバルの連打に包まれ乍ら、駆流先輩は最後の曲紹介に入る。
「
其れは、此れ以上無い、もう修飾する言葉すら見当たらない、最高の、素晴らしい、珠玉の演奏だった。斯うして後付けで種々の単語を
歌い終わった駆流先輩は、気持ちが籠もる余り、泣いてしまっていた。曲終盤から感情が溢れ出し、涙乍らに歌っていた駆流先輩に、そしてそんな駆流先輩を支え切ったバンドに、更に出色の演奏を聞かせて呉れた事実に対する鳴り止まぬ拍手が、舞台上へ降り注いでいた。駆流先輩は両手でマイクスタンドに設置されたマイクを握り締め俯いていたが、ゆっくりと顔を上げると、泣いてしまった事に対する照れ笑いだろうか、はにかみを浮かべつつ、ワイヤレスマイクをスタンドから外し、締めのMCに入った。
「あの、有り難う――」
其処で言葉は途絶えた。会場の拍手の量が僅かに鈍る。俺も、梨乃さんも、怪訝な表情をしていただろう。其の訝しがる視線の先の駆流先輩は、アリーナの舞台側から見て最奥部、詰まり出入り口の方をポカンと口を開けた儘、眼を見開いて見詰めている。
突如、アリーナ内に爆音が鳴り響き、会場から完全に拍手が消えた。俺は其の音よりも、自らの眼に映る光景の方に意識を集中させていた。
駆流先輩がギターを
アリーナ内の誰もが、駆流先輩の一挙手一投足に注目している。軈て、観衆を掻き分けた駆流先輩は、アリーナの出入り口で足を止め、放心した様に突っ立っていた。そしてゆっくりと振り返り、口元に無線マイクを持っていく。計算づくでそうするとは思えない。予感めいた直感で無線マイクを選んだ駆流先輩は、矢張り
「今、後ろ姿しか、俺に見せなかった千風が……、俺の方を振り向いて、笑って呉れました。そして、幸せそうに、消えて行きました……」
然し、もう駆流先輩は孤独ではない。再び、共に夢を追う仲間が周りに居る。そして、彼は走り出した。停滞した、倦怠の日々から脱却し、再び高みを目指して。其れこそが、駆流先輩の本来在るべき姿であり、また千風さんが望んだ姿である筈なのだ。俺には、千風さんが駆流先輩を導いた様に思えてならない。駆流先輩を回帰させる為に、彼女は彼にのみ姿を見せたのだ、と。
そう思ったのは俺だけではなかったらしい。アリーナ内は再びの拍手と、小冊子に因って事情を把握していた観衆の涙の渦と化していた。
お祭り事は楽しい。然し、祭りと云うのは楽しい事のみではない。後片付け、と云うものが絶対に附いて廻るのだ。其れは、催事の
「此れにて、無事全ての計画が終了出来ました! 此れも皆さんのご協力のお蔭です!! 本当に有り難う御座いました!! ではっ!!」
「
tRPG部の部室に祝杯を挙げる歓声が
皆、思い思いに歓談している。其の表情は明るく、上首尾に終えられた事に対する満ち足りた感が全開に表れている。勿論俺も満足感は有るのだが、皆のそう云う表情を見ていると一層の幸福感、と云うかそんな感情が増幅されて、何と云うか、まぁ、悪くない。
「そうだ、キューデン」
ふと隣の方から、駆流先輩の呼び掛けの声が耳に入って来た。
「ああ、何だ?」
「あの……此れ、受け取って呉れねぇか?」
駆流先輩が制服のポケットから取り出した、四つ折にされたA5程度のコピー用紙に刷られた内容は、俺にも何と無く分かった。宮殿部長は其れを一瞥し、
「了解。受け取るよ」
と返答した。駆流先輩は済まなそうに、
「悪ぃな……」
と言ったが、宮殿部長は全く意に介さない素振りで、
「良いさ。
と穏やかに尋ねた。
「ああ。もう立ち止まらねぇし、恐れもしねぇ。逃げるのも、もう御免だ。俺は決めたぜ。軽音部に出戻る。厚顔無恥と
力強く言い放つ駆流先輩の声は、ライヴ時とは異なり別段大きい訳では無かったが、部屋に居る全ての人物の耳目を集めていた。俺は駆流先輩の背後に、燃え盛る情熱と希望の炎を幻視した。
駆流先輩も衆目を集めているのを自覚したのだろう。と云うか、
「其れも此れも、全ては梨乃ちゃんのお蔭だ。さっきも言ったけど、梨乃ちゃんが動いて呉れなかったら、俺、未だに燻ぶってただろうし、
駆流先輩は、梨乃さんに深々と、そして可成りの時間、辞儀をした。其れは、何より雄弁に、駆流先輩の感謝の気持ちを物語っていた。
「あと、tRPG部の皆、茶華道部の手伝って呉れた皆、其れから1年の女の子達、皆の協力で、あんなに素晴らしい
再び、駆流先輩は深く、略直角に迄腰を折り曲げ、誠意の籠もった辞儀をすると、誰からともなく、拍手が湧き始めた。
「あっ、そうだ! 梨乃も何か挨拶しなよっ、プロジェクト? の終了記念でさ! 締めの
あからさまに、今思い付きました感
「否、本人が嫌がってるのを無理強いするのは些か難が有るだろう。またと無い機会では有るけれど、此処は仕方無かろう」
と云う本意とは真逆の、制止の衣を纏った焚き付けの言葉が駄目押しと為り、彼女等は
「気遣い有り難う、真杜。でも、やっぱりあたし一言挨拶しとくよ。折角ライヴが完遂出来たんだから」
と梨乃さんに言わしめる事に成功した。俺は梨乃さんに気付かれない様に小さくガッツポーズを決め合う依琉さん達の団体戦に、
「えーっと、先ずは……何だろうな、お疲れ様でした! 色々大変な事も多かったと思うし、何しろ急な事だったんで、何やかんや
梨乃さんが頭を下げると同時に、真杜さんの涙腺が早くも決壊した。……
「一人一人上げてったら
謝意を込めて1年女子3人衆を見る梨乃さんは、其の目頭を熱くさせている様に見える。
俺は此の時初めて、彼女等が梨乃さんの記事の
此の前、俺は名嘉吉に対して「労わられる程の仕事を為したのか?」と心の中で
俺は分かっていなかったのだ。彼女達が確りと編集スタッフとして労力を払い、仕事を為した事を。「知らぬは恥」とは真実だ。俺は心中で平身低頭
「そして最後に……」
梨乃さんが僅かに
「無茶苦茶な要求を呑んで、呆れもせずに尽力して下さった、端似先生と佐峰先生、本当にご協力、有り難う御座いました!! 拍手!!」
全員が梨乃さんに従って2名の教師に拍手を送る中、俺は肩透かしを喰らい、軽くズッコケた。其れを名嘉吉に見られたのが運の尽き。
「梨乃さーん、柿手君がしょんぼりしちゃってまーす」
「否、別にしょんぼりしてねぇし」
「だってしょうがないでしょ? ウルフ。『キリが無いから出来る限り』個別に紹介してったんだから、
「だから別にどうでも良いですって」
「悪かったわ、ウルフ。
「態とかよ」
「嘘ウソ、御免ってウルフ。
「拗ねてませんよ」
俺に取っては屈辱以外の何ものでも無い此の遣り取りの間、当事者以外の人物は
「いや、ウルフも良く遣って呉れたわ。感謝してる。お疲れ様」
笑いの
「じゃあ君達、程々に。僕は帰るから。尾井君、塀巣君、儀足君、導さん、今日は良いもの見せて貰ったよ」
「有り難う御座いました」や「御馳走様でーす」等の声が飛び交う中、端似教諭は部室を後にしていった。次いで、
「じゃあ、私も戻るから。皆、余り残らない様にね。あと、KOOLの皆、素晴らしかったわ。此れからも頑張ってね」
と云う言葉を残して、佐峰先生も部室から去っていった。
「皆、今日は本当に有り難うな。感謝してるぜ、
駆流先輩も流れに乗じる様に帰り支度を始め、ナップサックを背負って、此の名言を残した。……何故、唐突に「アイラビュー」だったのだろうか? 当人以外は、分からない。
「先輩達、帰っちゃうんですか?」
と云う梨乃さんの問い掛けに対する駆流先輩の回答は、
「ああ、水差す様で悪いがな。今日の本番を終えて、早速課題が見えて来たんだ。今から反省会だよ。
俺等に一切ぐうの音も挟ませない、自己
「じゃあしょうがないですね……。頑張って下さい!」
「あぁ。もう俺は止まんねぇよ、此の儘行ける所迄突き進んで遣る。……其れも此れも全部引っ
お疲れ、と言い残して、駆流先輩は塀巣先輩、儀足先輩、良夢音先輩と共に下校していった。
「じゃあ、僕等も解散するよ。ライヴの計画に参加出来て、本当に良かったと思ってる。改めて、有り難う」
宮殿部長の台詞に合わせ、言海先輩が会釈を寄越し、斎源律先輩と舞音先輩は明るく感謝の気持ちを述べた。
「いえいえっ、無理言って引き受けて貰ったのはあたしの方なんで! あたしこそ、皆さん本当にご助力有り難う御座いました!」
そんな遣り取りの中で、tRPG部正規派メンバーも帰路に着いた。
「んじゃ、私達も部活に戻るから。じゃあね」
ツンツンした言葉で素っ気無く別れを告げるのは、奈子先輩だ。
「うん。有り難う。お疲れ様」
梨乃さんは何時に無く優しい声で奈子先輩と依琉さん、そして茶華道部員の有志達を送り出した。何かしらちょっかいを出されるだろう、と身構えていたらしき奈子先輩は拍子抜けした様で、少々残念そうに背を向けた(様に俺には見えた)。然し背を向けた儘、
「……良い経験出来た、
とぼそっと呟いた。ふと依琉さんを見ると、「素直じゃないねぇ~」と口パクと手振りで俺に告げてきた。俺は苦笑交じりの表情で返す。
「……んもぉ~うっ、
常人とは思えない様な動きで奈子先輩に急接近しスキンシップを図る梨乃さんと、拒否し抵抗する素振りを見せつつも其れは完全なる
一頻りのイチャ付きが終わり、茶華道部の一行も部室から去り、取り残されたのは、俺と梨乃さんと真杜さん、そして名嘉吉と菊場のみと為った。嵐の前の静けさが期待と不安と
「……あたし達も帰ろっか!」
そう言った梨乃さんの顔に少々前迄満ちていた充足感は薄らいでいて、俺は其の表情に何処か切なさを感じた。
職員室に返却すべき正規の鍵で部室を施錠する梨乃さんに、俺は声を掛けた。
「オレ、
梨乃さんを案じた俺の発言だったが、当の梨乃さんは俺が思っていた反応とは異なり、斜め下に拡がる虚空を見詰めて、ぽつりと呟いた。
「終わってみれば、案外普通の事だったのかなぁ……」
俺は咄嗟に反論しようと思い、口を開いたが、一旦落ち着いて、冷静な声で言った。
「……そんな事、無いですよ。あれは、間違い無く、奇跡でした。……少なくともオレは、
振り向いた梨乃さんは、哀愁を滲ませた、胸を締め付けられる様な、其れでいて飽く迄も可愛らしい笑みを浮かべていた。
「ウルフは、優しいね。……そんな事言われると、うっかり惚れそうに為るよ?」
視線が、交差し、交錯する。絡み合って探り合う互いの眼が、徐々に
何時か経験した感覚に近似している。が、俺はもう迂闊に流されない。俺が真剣な眼差しで口を開きかけた時、
「でも、ウルフは……佐峰先生、だもんね……」
梨乃さんは俺から眼を逸らし、切なげに呟いた。
そうだ、忘れていた。俺は、梨乃さんに佐峰教諭とのキスシーンを目撃されているのだ。
「い……否、あれは……」
俺が誤解である旨を解こうと――詰まりは釈明しようとした、其の時。
「行きますよー?」
と先行して廊下を進んでいた3人の中から名嘉吉が声を飛ばしてきた。
「……今行く!」
声のした方へ振り向いて一言返すと、梨乃さんは再び俺に向き直り、
部室の鍵の返却の為、管理棟に在る職員室に立ち寄った後、少しばかり遠回りをして、第一アリーナの前を通り掛かる
「其れにしても、
梨乃さんはうっとりした様子で呟いた。俺は其の表情に
「そうっすね。楽器出来るとやっぱ格好良いっすよね! ま、どうせオレはリコーダー位しか出来ませんけど」
「何言ってんの?」
と梨乃さんが真顔で返してきた。
「アンタは
事も無げに、平然と言う。
「え? いや……嘘、ですよね?」
「
「……
「
「…………か、」
俺は人前に出るのが苦手なのだ。其の上楽器など弾ける筈も無い。思わず叫びを上げる。
「勘弁して呉れえぇぇぇ!!」
「おぉ!! 凄い声量と声の張りね! ヴォーカルはウルフに取って貰おうかしら?」
「其れは
俺の悲鳴がアリーナ棟に
序でに、後日談をしておこうか。
数日後の事だ。俺と梨乃さんと真杜さんが何時もの様に副部室でまったり雑談していると、不意に扉が開き、1人の生徒が入って来た。
「よぅ」
「……先輩!」
梨乃さんが声を上げた。駆流先輩だ。
駆流先輩はあのライヴ以降、一躍校内の
梨乃さんと真杜さんが挟み込む様に駆流先輩の左右から其の首筋に顔を近付ける。宛ら
「お、どうしたよ2人共……」
とタジタジだ。数瞬其の儘の状態だった梨乃さんは、
「先輩、臭くなーい!!」
と叫び声を上げた。真杜さんも首肯しているが、此れは果たして突っ込み待ちなのだろうか?
「梨乃さん、160
取り敢えず、突っ込んでおいた。恐らく煙草臭の事なのだろうが、「臭くない」と言われた張本人は
「え? 俺、臭かったの?」
とげんなりした表情で小さく言った。
「あぁ、あの、煙草の匂いがしないな、と思って」
漸く
「あぁ、もう辞めたよ。此れからは本気で、否、今迄も本気だったけど、もっとずっと本気に為って、バンド遣ってくんだ。其れこそ、俺はKOOLで食ってきたいと思ってるし。身体にも悪いし
そう言う駆流先輩の眼は、夢と情熱と将来の
「あの、今日は何の用件で?」
俺は
「何だよ、元部員は何か用が無いと来ちゃいけないのかよ?」
駆流先輩は物腰柔らかく言った。然し、台詞だけを抽出すると、結構な不快感が表われている。俺は差し当たり、弁明の言葉を探り始める。
「あ、いや……そう云う訳じゃ……」
「ははは。良いんだよ、別に。そう気ぃ遣わんでも。楽に遣って呉れよ、此れからも
駆流先輩は朗らかに笑いつつ言った。もう、以前の様な何処かしらに感じられる陰の様な印象は無い。憑き物が落ちた様だ、と思いかけて、俺は千風さんに対し無礼だ、と感じ、其の発想を打ち消した。
「此処は、俺の
此の狭い部屋をぐるりと見回し乍ら、駆流先輩は言った。そして最後に、俺にウィンクを寄越した。
「済んません……」
「はは、だから良いって」
駆流先輩が笑う。釣られて梨乃さんも笑顔だ。目尻に涙を湛えた、実は感動屋の真杜さんも微笑みを浮かべる。そんな皆を見て、俺も笑った。
「おーい、開けても良いかい?」
合板を
「どーぞー」
梨乃さんが答える。其の声を律儀に待ってから、扉は開いた。其の向こうに立っていたのは、宮殿部長と言海先輩、だけではなかった。
「有り難い事に、追加で新入部員が決定した。まぁ、もう顔馴染みだが、一応自己紹介を」
「はい!! 名嘉吉奈留美、柿手君と同じ1年機械科1組です! 宜しくお願いします!」
「えと、同じく1年機械科1組、菊場瑠子です。今後は部員として、宜しくお願いします」
見慣れた級友が2人、其処に居た。まぁ、予想通り。一昔前の流行語で云うと、想定の範囲内、と云う奴だ。
「じゃあ早速、tRPGに就いて説明するから、
宮殿部長が
「五輪君! また
悲痛な宮殿部長の叫びを遮る様に、右手で名嘉吉の右耳を、左手で菊場の左耳を塞いだ梨乃さんは、2人の背後から
「はいはい、聞かなくて良いから。耳汚しで御免ね?」
と
「お、じゃあ俺は行くわ。また今度Zingでライヴ遣るから、見に来て呉れよ。招待するからさ、tRPG部の
爽やかな笑顔を残し、駆流先輩は左手を振りつつ去っていった。其の手首に覗いた千風さんの形見のカシオ製の腕時計は、
「あの、普段の活動ってどんな事をするんですか?」
菊場が尋ねる。梨乃さんと真杜さんと俺は互いに眼を合わせ、返事に
「んー……まぁ、決まった活動ってのは何も無いんだけどね」
「成る程、
梨乃さんが捻り出した回答に対し、名嘉吉が両の瞳を
「そんなに立派なものじゃないぞ? 唯喋ったり、茶華道部の方に顔出したり。此の間みたいに忙しく何かに取り組むって事は、まぁ
余り
「へぇ……そうなんですか」
若干語気が落ちた名嘉吉は呟く様に返事した。俺としては、名嘉吉は此の程度のテンションで居て呉れた方が、気が休まるのだが。
「……あ。そうだ、柿手君、此れ」
「何だ?」
「此の小説の
まさか今に為って褒められるとは思わなかった。出し抜けに絶賛され、俺は照れた。
「うん! 良いね、此の終わり方。哀しいんだけど、少し救われる様な」
斯う評したのは菊場だ。真杜さんも、其れに続く。
「ああ、同感だ。柿手にこんな文才が有ったなんてな。正直、驚いたよ」
「いやいや、そんな事……」
煽てられれば、そりゃ悪い気はしない。俺は精一杯尋常を装いつつも、内心は舞い上がっていた。
「梨乃さんはどうですか? 凄くないっすか? 此れ」
名嘉吉が梨乃さんに話を振る。脱稿直後に
「……うん。素直に、良いと思う。良く考えたな、って」
俺は天に舞い上がる様な気持ちを味わった。文字通り、精神が浮遊し
「どうやって考えたの? 此のオチ」
「え……どうやって、って言われても……俺にも分かんないさ、そんなの。何時の間にか思い付いてるモンだし」
此れは嘘偽り無い本音だった。過去の自分の思考回路なんて理解する方が難しい。況して小説の執筆と云う特殊環境下での思考など思い返した所で説明しようも無いし、理解が追い付かないかも知れない。
因みに、俺が書いた結末と云うのは、擦れ違いの果てに駆流先輩と喧嘩別れした千風さんは、KOOLが出演するライヴハウスへの道中でミニバンに撥ねられてしまい、
「へぇー。やっぱり、小説書ける人って普通の思考回路とは違うのかなぁ?」
「そう云えば、尾井先輩も此の小説、良かったって言ってたな」
「そうだ!!」
名嘉吉と真杜さんの声を掻き消すかの様に、梨乃さんは立ち上がり大声を発した。
「どうしたんすか?」
俺が訊くと、梨乃さんは待ってましたとばかりに鼻を鳴らしつつご高説を垂れた。
「良い? ウルフ。部員が増える、と云う事は即ち、部活の団体としての規模が大きく為る、と云う事。そして、団体と云うのは規模が大きく為れば為る程、より一層の
「はぁ」
「分からないの?! 詰まり、部員が増えたんなら部費も増えるのよ! 此れ社会の真理ね!!」
「まぁ実際は、そうばっかりでも無いと思いますけど……」
「馬鹿!! 水差さないの!」
「馬鹿、ってそんな」
「ウルフ、
「は、どれの事ですか?」
「ほら! 其のPCの事よ!!」
そう言うと同時に、梨乃さんは備え付けの棚に眠る古い国産ノートパソコンが収まる黒いPCバッグを指差した。其れは俺が例の小説を執筆した際に使用した物だった。
「あんな
梨乃さんはグッと右の拳を握り込み、意気込んだ。
「おぉ! 良いっすねぇ! ウチも混ぜて下さい!」
名嘉吉も梨乃さんに賛同した。確かに俺も、執筆で使用した際、余りの応答の遅さに若干苛立つ瞬間は有った。だから、正直、俺も大賛成だった。
「いやぁー、ナルミとルコちゃんのお蔭でパソコンを新調するってあたし達の悲願が達成出来るわ!!
そう言うと梨乃さんはがばっと名嘉吉と菊場に抱き着き、2人
「わっ、梨乃さんっ、ちょ、
「あっ……や、駄目ですってぇ……」
「まぁまぁ、そう言わずに! 遠慮しなくて良いから!」
……俺は完全に、梨乃さんの所為で
「辞めて下さいって! 大体、オレも
ピタリと動作を停止した梨乃さんは、俺を見ると、
「何? ウルフ、アンタも混ぜて貰いたいの? 此のド
などと
「いや、そう云う事じゃなくて、……もう別に良いっすよ」
釈明するのが面倒臭くなった。梨乃さんは笑い乍ら、声を上げた。
「冗談だって。んじゃ、新たな
名嘉吉は楽しそうだ。菊場も笑顔を浮かべている。真杜さんは温かい眼で一同を見守っている。そして、再び
「新品ノートPCゴネ作戦、旗揚げよ!!」
「おぉー!!」
……幾ら何でも、もう少し企画の
青春の蹉跌は、誰にだって起こり得る。此の事を俺は、駆流先輩から学んだ。
そして、其れの
俺達は、幾度となく、間違える。しくじる。
でも、其れは仕方の無い事なのだ。今の俺なら、そう言える。
だが、遣り直せるのだ。取り戻せるのだ。心、気持ち、魂と云っても良いだろう、其れを喪わない限り、
俺は、否俺達は、此れからも、どうしようも無い位に、
でも、其の度に、
「失敗は、挑戦する者にのみ訪れる。遣らない者には、失敗は無い」とある
失敗しても、躓いても、間違えても、挑戦する心意気は喪いたくない。
俺達は、闘っているのだ、此の1分1秒を。
其の気概だけは、失ってはいけない。失いたくない。
そんな気持ちを胸に、俺は此れからの日々を送ってゆく――。
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