#2 フュネラル・カルメン・プロ・エア

 時の流れは本当に、おくびょうる程に早い。もういっそ、「速い」の方を使用しても良いんじゃなかろうか。

 あっと言う間に月曜も放課後に為った。教室の清掃を早めに切り上げ、俺はいち別棟東館3階のtRPG部の部室へと足を運んだ。出席番号順で決められた俺等の清掃の為の班は、俺を含め全員がテキトー(「適当」ではなく)なので、教室の清掃が5分弱で終了すると云う速攻振りを発揮し、早々に解散と為る。実に素晴らしい。

 そんな訳で、俺が別棟3階の廊下を歩いているのは、だ掃除を励行している生徒がちらほら見受けられる程に先走ったタイミングだった。当然、tRPG部の部室内にも人影は無く、

いささか早過ぎたかぁ……」

 と独り言を呟く事と為った。とは云っても、ただ宮殿キューデン部長を待っているのは余りにも間抜けなので、一応部室のっ手を引いてみた。

「おっ?!」

 思わず声が出た。一欠片も期待していなかったが、引き戸は軽快に、向かって左に滑っていったのだ。金曜の下校時、施錠し忘れたのだろうか? 俺は記憶を掘り返す。金曜の活動終了時、梨乃さんからの誘いを受けた後、俺は宮殿部長が部室を施錠する場面シーンを見ている。と云う事は、れ以降、今の瞬間までに誰かが開錠した、と云う事に為る。非公認の合鍵を持っている梨乃さんの存在を真っ先に思い起こしたが、梨乃さんは今日欠席している事を思い出す。俺は何と無く薄気味悪い、もやもやしたものを感じつつ、室内に足を踏み入れた。其の儘、奥の副部室へと直行する。白い扉を開け、中に入る。無論、誰も居ない。居るはずも無い。

「やっぱりオレが一番乗りか……」

 本当に、何の気無しに漏れ出た言葉だった。

「悪ぃな、俺のが一番さきだ」

 声が聞こえた。確実に、聞こえた。俺は鍵の件もあいって、内心可成りビビっていた。室内をぐるりと見渡すが、此の狭い部屋の中に誰かしらが居たら、見逃す事はず無い。

 俺は足許から這い上がって来る鈍い恐怖を感じつつ、頬にそよぐ風の存在に気付いた。窓を見ると、僅かに開いていて、晴天のもとの爽やかな風が室内に吹き込んでいるのが確認出来る。

「……ん?」

 俺は注目した。窓枠の下の方から白い煙が立ち上り、なびく風に溶かされてゆく様が見て取れる。此の窓の外には、人一人が立っていられる程度のひさしの様な部分が在った筈だ。

「……誰っすか?」

 恐る恐る訊く。すると窓枠の下部からニョキっと影が出現した。

「よぉ」

 其の姿は先日、俺の前のめりを受け止めて呉れた3年の尾井駆流先輩だった。

「せ、先輩……何で、そんな所に……?」

 俺は駆流先輩と真面まともに話すのは初めてだな、と思いながら尋ねた。

「あぁ、一寸、一服する為に、な」

 そう言うと駆流先輩は、制服の胸ポケットに収めていたブリティッシュアメリカンタバコ製のKOOLクール・FKの包装箱ソフトパックを指でつまみ、俺に示した。

「1本、遣ろうか?」

いやめときます」

 俺は喫煙の勧めを丁重に断った。正直、しつこく勧誘されたら面倒だな、と思ったが、駆流先輩は其処迄馬鹿ではない様だ。

「そっか。あ、そうだ、此れ」

 駆流先輩はズボンの左ポケットをまさぐると、取り出した物を俺に投げて寄越した。俺は不器用に両手でキャッチし、手の中の物を見る。部室の鍵だった。

「悪ぃけど、其れ後で返却かえしといてんねぇか?」

 駆流先輩は若干の申し訳無さを漂わせた笑顔を顔に浮かべ、俺に依頼した。合点がてんが行った。部室は、先に来た駆流先輩が正規の鍵を持って来て開錠したのだ。然し、煙草タバコう為に職員室におもむき、正規鍵を入手するとは、大胆と云うか律儀と云うか……。恐らく駆流先輩は他の何処でも無く、tRPG部の副部室の軒先で喫う事を決め打ちしていたのだろう。

「えぇ、分かりました」

「サンキューな」

 そう言うと駆流先輩は窓枠を乗り越え、室内に戻って来た。

「じゃ、俺はそろそろおいとまするよ。彼奴アイツが来ると厄介やっかいだしな……」

 駆流先輩はかすかに苦み走った表情で言うと、一人掛けのソファに安置していた通学鞄を手に取り、立ち去ろうとした。ソファには鞄と云うヒントが存在したのだ。全く眼に入っていなかった。

「『彼奴』って、梨乃さんの事ですか?」

 俺は思わず訊いた。頭脳内の濾過器フィルタに引っ掛かった単語を、放置する事は出来なかった。

「え? あぁ、そうだけど……。何だよ、恐い顔すんなよ」

 駆流先輩は冗談めかして言った。俺は言われて初めて、自分が無意識にイカつい面持ちに為っている事を自覚した。いかんいかん。梨乃さんを護る事は大いに結構な事だが、ケン腰で相手に向かうのは間違っている。自重しなければ。

「あ……否、済いません。あの、何で梨乃さんが来ると『厄介』なんですか?」

 俺が気を取り直し、そう尋ねると、駆流先輩は面倒そうな顔をして、

「……あー……」

 と母音を発した。其の時だ。

 副部室の扉が静謐せいひつに開いた。其処に居たのは、真杜さんだった。

「……あ、尾井先輩、こんにちは」

 真杜さんはぺこりと頭を下げ、扉を閉めた。

「おぉ、真杜ちゃん。うぃっす」

 真杜さんは頭を上げると、ずいっと駆流先輩に近付き、鼻先を彼の首筋に寄せた。

「なっ、どうしたよ、真杜ちゃん?!」

 駆流先輩は驚き、しばし硬直した。俺も真杜さんの大胆な行動に凍り付いた。真杜さんはすんすんと鼻から吸気し、臭いをいでいる。やがて駆流先輩から身体を離すと、

「……先輩、喫いましたね?」

 独特のキツい眼でにらみ上げた。

「あ、ま……まぁ……」

 駆流先輩はタジタジと云った風情ふぜいですっかり大人しく為っている。

 其の瞬間だった。

「おぁざーっす!!」

 副部室の扉が快活に開いた。先ず初めに、俺は感心した。何ともはや、扉の開き方にも性格が現れるものなんだなぁ、と。次いで、俺は違和感を覚えた。

 全人類の元気の根源の様に後光が差している其の人は、紛れも無く、梨乃さんだった。違和感は、衝撃と疑問に分割ディヴァイドされ、並行して拡大エクスパンドしていく。

「梨乃ちゃんお疲れぃーっす」

 同じく純なる衝撃と際限無く膨張する疑問に、口を利けない真杜さんと俺を尻目に駆流先輩は梨乃さんと軽くハイタッチを交わした。

「……あれ、どした? 此の2人。急に墓石はかいしみてぇに為っちまったけど」

 唯一事情を知らない(と云うか、関与していない)駆流先輩はキョトンボーイと為った。

 俺と真杜さんが御影石グラニットと化したのも何ら不思議は無い。梨乃さんは、真杜さんの家で安静にしている筈なのだ。横に為っている筈なのだ。せっている筈なのだ。寝ている筈なのだ。此処に居る筈が、無いのだ。

「報告します! 五輪梨乃、完っ全っ復活しましたー!!」

 梨乃さんは咆哮ほうこうした。其の雄叫おたけびは、五輪梨乃復活の狼煙のろしだったのだろう。俺は其れを見つつ、改めて梨乃さんが変わり者ワイアーディである事、普通じょうしきとは大幅に異なっている事を実感した。通常の思考では、全快したからと云って、其の日の部活から復帰しよう、とは思わない筈だ。少なくとも俺なら、翌日から登校を再開しようと考える。だが、梨乃さんは違った。何処どこ迄も此の人は、果てし無く異端児なのだ。

「……え? 梨乃ちゃん、具合悪かったの?」

 駆流先輩が訊いた。真杜さんが答える。

「梨乃は……昨日風邪を引いて、今日は欠席してたんです……」

「あ、え? そうなの?」

 駆流先輩は梨乃さんに真相を問う。

「はい!」

「で、何? 元気に為ったから部活のぞきに来た、ってか?」

「はい!!」

 駆流先輩は破顔した。

「な、何で笑うんすか?!」

 梨乃さんは駆流先輩の爆笑振りに、流石にしゅうを感じたらしく、頬を染めて言った。

「いや……梨乃ちゃんらしいよ、何つうかさ。お前もそう思うだろ? 普通は治っても休んでる日は学校にゃ来ねぇって!」

「……ですね」

 俺は駆流先輩に賛同を求められ、苦笑を返した。其の通り、言う事無し。完全に同意だ。

「……そうですかぁ?」

 梨乃さんは不満顔で呟いた。駆流先輩の笑いも収まり、場は安穏を取り戻した。

「じゃあ、俺は帰るわ。邪魔したな」

 そう言って横をれ違った駆流先輩の制服のえりを、梨乃さんは背後から鷲掴わしづかんだ。詰襟つめえり風のカラー内蔵型の襟が喉仏の辺りに喰い込み、駆流先輩は苦しげなうめき声を上げた。

「ぐぇっ?! な、何すんだよ……」

「……先輩、また煙草喫いましたね?」

 梨乃さんの声の調子トーンは、驚く程冷たいものだった。俺の眼の開度が2割増しされる程に。

「……其れが、どうしたってんだよ……。さっきの真杜ちゃんもそうだけどなぁ、俺が煙草喫おうが喫わまいがどうだって良いだろうが!!」

「「どうだって良く、ない!!!」」

 梨乃さんと真杜さんの声が、綺麗に同調シンクロした。俺は感心したが、正直な所、急展開に付いて行けていなかった。俺置いてけぼりの儘、話は展開していく。

「……っ! ……節介せっかいなんだよ、お前等は!」

 拍手喝采オベイションモノの多重ステレオ音声ヴォイスにたじろいでいた駆流先輩は、梨乃さんと真杜さんからあからさまに眼をらし、そう吐きてた。

「……だ、逃げてるんですか?」

 真杜さんは悲痛に暮れた表情乍ら、えて挑発的プロヴォウケティヴな言葉選びをした。其れは効果覿面てきめんで、駆流先輩は一瞬赤熱した眼で真杜さんを見て、そして一度視線を逸らし、

「逃げて……ねぇよ……」

 と歯切れ悪く呟いた。数瞬前の熱笑振りが嘘の様だ。

「逃げてる訳じゃ、ねぇよ。俺はもう、辞めたんだよ……」

「じゃあ、諦めたんですね……?」

 今度は梨乃さんが、果敢に攻める。其の顔は真杜さんと同じく、哀しみに満ちている。

「ち……違ぇよ……。俺は、彼奴の……」

 其処で駆流先輩の声が途切れた。俺は駆流先輩を見遣る。左の手首にめた金属メタルバンドのカシオ計算機製の電波腕時計を右手で覆う様に握り締める駆流先輩は、んでいた。

「あの……」

 俺は耐え兼ねて、口を挟んだ。

「済みません、オ……自分、事情が分からなくて、話が見えないんすけど……」

「……あ! そっか、そうだよね! ウルフは1年だから知らないんだ、先輩の事」

 梨乃さんは重たい空気を振り切る様に明るい声で言った。

「んじゃ、話してあげる! 此のあたしにる高説、有り難く拝聴しなさい!!」

 拝聴しなさい、は日本語として可笑しいだろ、と俺は思い苦笑を浮かべたが、真杜さんも駆流先輩も強張った様な面持ちを一切崩さないので、直ぐ表情筋を操作し、顔を引き締めた。梨乃さんは息を一つ吐くと、語り始めた。

「……此れは、一人の音楽青年に訪れた、哀しいお話…………」


 以下、梨乃さんと真杜さん、そして本人から聞いた、駆流先輩に就いての話だ。


                  *


 尾井駆流は、中学時代に級友達とバンドを組み、ヴォーカルとギターを担当した。典型的な帰宅部で、授業が終われば即下校し、仲間と集ってつたなく楽器を弾き、ロックをがなった。結成にも、練習にも、継続にも、したる理由は無かった。

 継続の力、そして若さ故の集中力、熱量を味方に付け、中学を卒業する頃のバンドは、同年代と比較しても頭一つ抜ける程の実力アビリティを身に着けていた。高校入学を前にドア打擲ノックし、地元の極小さなライヴハウスで初の世間への発表の場を得た彼等に、数人の観客達と冗談からかい半分で舞台ステージを踏ませた従業員は度肝を抜かれた。彼等はあっと言う間に其のライヴハウスの常連バンドと為った。

 全員の家柄が決して裕福ではなかった為、揃って県立の学科技術高等学校へと進学した。学力的に、或いは専門学科を履修する事で将来の就職を有利にする為、等理由は様々ではあったが、其の一つに、科技高の部活動必須、という要素も有った。絶対行わねばならない部活の時間をバンドの練習に充てれば、練習も出来る上、部活の参加、と云う難題ノルマ解決クリア出来る、と云う表向きの理由も有ったが、其れ以上に駆流は、強制参加の部活動、と云う縛りが有れば、歳を重ねるに連れ離れゆくであろうメンバー達との練習の場を持ち続けられる、と考えていた。

 斯くしてバンドの一行は科技高の軽音楽部へと入部した。中学時代を共に過ごし、ずっと練習を重ねていたバンドは一種排他的な雰囲気を漂わせ、活動場所の音楽室を共有する他の部員達とは隔絶した活動をしていた。地元のライヴハウスの常連バンドである、と云う事実も、他の部員のひがみ、ねたみ、そねみ其の他諸々の感情を誘発したのだろうが、兎に角他の部員達とバンド一行は良好な関係では無かった。然し、駆流は其れでも良かった。むしろ、其れが良かった。バンドとしては、ライヴハウスでの本番と云う刺激的な場が在ったし、明らかな力量の差が有る他の部員と仲良く演奏、と云うのは甘ったれたお遊びに過ぎない、と感じられたからだ。「お遊戯会でちちり合うなんて、時間の浪費ムダだ、そんな怠慢をしている余裕が有るなら、更なる高みへの自己研鑽けんさんを重ねるべきだ」そう公言してはばからない駆流と他の部員達との対立は輪を掛けて深まっていった。

 そんな中、駆流は小学校時代からの幼馴染みであるとりやまかぜと交際を始めた。千風は云わば腐れ縁である駆流と同じ、科技高へと進学していた。腐れ縁故に駆流は意識していなかったが、千風はずっと駆流の事を想っていた。千風に告白されて初めて、駆流は幼馴染みの女子の恋情おもいを知った。バンドの練習、毎月一回ツキイチ周期ペースのライヴ、そして機材購入資金の為のバイトの合間をって、駆流は千風との逢瀬デートを重ねた。

 部活での軋轢あつれきは多少有るものの、バンドとしての活動も、千風との関係も、順風満帆だった。何もかもがきらめいていた、充実した日々――。


 青天の霹靂へきれきだった。此の言葉が此れ程迄に似合う状況は、其れ迄の駆流の人生にいて初めてだった。ライヴ終わりに報告を聞いた駆流は脳内が真っ白に為り、眼の前は真っ黒に為った。


 鳥部山千風が、亡くなった。


 2006年の12月24日、日曜の夕暮れ時、幹線道路沿いで中年女性がハンドルを握る中型ミニバンにかれ、即死だった。事故の原因は、運転手が車内カー空調エアコンを操作しようとした事にる前方不注意だった。


 突然、最愛の彼女をうしない、駆流は呆然自失状態だった。級友達が多数参列し、涙する葬儀会場でも、駆流は泣く事が出来なかった。唯、あらゆる出来事が、がらんどうに為った駆流の眼に映され乍らも、其のまま引っ掛かる事無く流れ去っていった。

 数日経ち、駆流は何気無く自室の机の引き出しを開けた。其処には、千風からもらった腕時計が転がっていた。数カ月前、ライヴに遅刻しそうに為った駆流に、「もっと時間を気にしなきゃ駄目だよ」と言ってプレゼントしてくれた物だった。店頭で値引きして、1万3000円程で購入したという其の腕時計が、皮肉にも千風からの最後の贈り物と為った。腕時計を手に取り、見詰める内に、千風との日々が、想い出が全て去来フラッシュバックして、重畳オーヴァーラップして、駆流は止め処無く、号泣した。


 愛する人を奪われた哀しみから、駆流は何時いつしか音楽から身を離す様に為っていた。常にものげな表情をした駆流はバンドの練習にも顔を出さなくなり、じきに退部届を提出した。

 恋人を喪い、情熱と熱中のけ口をも無くした駆流は、唯頽廃たいはいしていった。煙草は、そんな中、覚えた。下校時、無糖ブラックの缶珈琲コーヒーを飲み乍ら、煙草を吹かす、無為で頽廃的デカダンスな日々。

 かつてのバンドメンバーは、軽音部の他の部員と親しくなり、新たなバンドを結成した。

 もう、駆流には帰る場所も無い。何時の間にか、駆流は最も居心地の良い場所さえも、失っていたのだ。駆流の孤独は、加速してゆく。

 不摂生と不健康な生活、そして臨界点を迎えた精神は汪溢オーヴァーフロウし、駆流は体調を崩し、床にせってしまう。そんな時だった。


 駆流の視界に、千風の後ろ姿が映る様に為ったのは。


 体調は回復し、通学を再開しても、時折千風は背中を見せる様に為った。

 見間違える筈が無い。あれは、まごう事無く、千風だ。

 然し、周囲に其れを訴えても、「頭が可笑おかしく為った」「幻覚だろう」と言われ、真面まともに扱われないのは目に見えていた。

 そしてまた、駆流は抱え込んだ。元来、太っていなかったが、其の身体はせこけ、輪を掛けて細く為っていった。

 授業中にも、ふと眼を遣った校庭に千風が歩いていて、思わず立ち上がってしまい教師に注意されたり、廊下を歩いている最中、視線の先に千風の姿を見付けて後を追ったり、ふとした時に千風の名を呼んだり……と云う、はたから見れば奇行としか映らない行動を繰り返す内に、駆流の孤独はいやしていった――。


                  *


 駆流先輩はカシオの太陽光充電ソーラー電波腕時計を包み込む様にして左手首を握り締めていた。梨乃さんも眼に涙を溜めている。真杜さんは意外と涙もろいらしく、既にさめざめと泣いていた。

「俺は、音楽から逃げた訳でも、諦めた訳でも、無ぇ。唯、辞めたんだよ……」

 駆流先輩は苦み走った表情でそう呟いた。俺は何処と無く引っ掛かりを覚えていた。

 取り敢えず、問うてみる。

「先輩、何で、音楽から離れたんですか?」

「そ……そりゃあ、千風を思い出しちまうから、ツレぇからだよ……」

 俺の引っ掛かりは、高確度の疑問へと変貌へんぼうした。

「じゃあ、千風さんを思い出すのが辛いなら、何で形見の腕時計を、めてるんですか?」

 梨乃さんと真杜さんの顔が、ハッとした様な反応を見せた。

「形見を肌身離さず身に着けるなんて、片時かたときも忘れていない筈ですよね? なのに、千風さんを思い出すと辛いから音楽を辞めたんですか?」

 我乍ら、少々遣り過ぎか、とも思ったが、追及せずにはいられなかった。駆流先輩は痛い所を突かれた、と云う表情をして、軈て此の世で最悪の苦味バッドテイストを誇る苦虫を躍り喰いしている様な顔で話し始めた。

「……千風が逝く前の2日間、詰まり12月の23と24に、俺等はライヴハウス主催のイベントライヴが決まってたんだ。俺が其れを彼奴に報告したら……」

 駆流先輩は其処で「ふっ」と、万感が籠もった含み笑いを漏らした。

「彼奴も知らぬ間に色々溜め込んでたんだろうなぁ……。『イヴ位一緒に居てよ、私と音楽、どっちが大事なの?』なんて抜かしやがって……。俺ぁ叱り飛ばして遣ったんだよ、『何生意気ほざいてんだ、気取ってんじゃねぇ、指図すんじゃねぇ』ってな……。彼奴は……、俺等のライヴには毎回顔を見せて呉れてたんだけど、其の時ばかりは両日共に来てなかったな。で、2日目のライヴの後、舞台袖ウィングけたら、従業員スタッフから連絡を受けてな。『千風が、ねられた』って……」

 駆流先輩の双眸そうぼうからは、止め無く雫が溢れていた。

「其れが……、最後だったんだ。千風の……、二者択一が、俺に取っての、彼奴の最後の言葉なんだよ……。俺は、愛してた。紛れも無く、好きとか以上に、愛してたんだ。千風の事を……。そんな彼奴の、最後の言葉なんだよ……」

 駆流先輩は、自分に取っての千風さんの遺言ラスト・ワーズに応える為に、音楽から距離を置いたのだ。

 俺は押し黙った。一つたりとも、言葉が浮かばなかった。一欠片でも人情を持っているのならば、此れ以上駆流先輩をきゅうだん出来やしない筈だ。

 駆流先輩は右手の甲で両眼の周辺を数回こすると、憂いの混じった笑みを浮かべ、

「ははっ……。魔が差した、な。此処迄他人ヒトしゃべったのは、初めてだ」

 と呟き、浅く腰掛けていた黒い革張りのソファから立ち上がった。

「今度こそ帰るわ。…………また、顔出すよ」

 そう言い残し、駆流先輩は部屋を出て行った。

「魔が差した」のではなく、きっと駆流先輩の精神こころは、悲痛ペインを共有し得る理解者を求めていたのだ、そう俺は信じている。

「……あたし、いやだ」

 不意に、梨乃さんが声を漏らした。

「真杜も、だよね?」

 問われた真杜さんも潤った眼の儘、一つ頷いた。俺は可能な限り、脳内を埋め尽くすクエスチョンマークを表情に出さない事に尽力した。

「……ウルフは知らないと思うけど、去年の文化祭ガクサイで、先輩はライヴステージを披露したの。学祭って事で、普段ライヴハウスで遣ってる様な真剣ガチな内容じゃなかったみたいなんだけど、DJ OZMAオズマの『アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士アゲアゲ』ってあったじゃない? アレのロックアレンジ版とか、UVERworldウーバーの『SHAMROCKシャムロック』のカヴァーとか、女の先輩にヴォーカルを譲ってmihimaru GTミヒマルの『気分上々↑↑』のカヴァーとかを遣ってたのよ。それはそれは格好良くてね、其の後に遣ったオリジナル曲もちうたも半端無く凄かったのよ! なのに……、そんな先輩が音楽を辞めて、煙草喫って落魄おちぶれて……。そんなの、可笑しいよ! 見てらんないし、何より、先輩の才能アビリティに失礼だわ!」

 梨乃さんの力説は、俺の心をも動かした。梨乃さんに其処迄言わしめる程の演奏ステージ、単純に拝んでみたい。

「……オレも、見てみたいです。先輩の、晴れ舞台ステージを」

「じゃあ、決まりねっ!!」

 梨乃さんはせい良く立ち上がり、

「尾井駆流を復活させるプロジェクトカッコお節介かも知れないけどカッコとじ、略してOFPOSオフポス始動スタートよっ!!」

 一大計画の幕開けを宣言した。ぶっちゃけ、梨乃さんは「オフポス」を言いたかっただけなんじゃないか? と云う思いはぬぐいきれないが、兎にも角にも此の瞬間、歯車は噛み合い、廻り出したのだった。


 さて、始動したは良いものの、差し当たりず何から手を付けるべきなのか? 要点は2つだ。駆流先輩を奮い立たせ復帰させる事、そして駆流先輩が組んでいたバンドを再結成させる事だ。駆流先輩は既に帰宅してしまったので、取り敢えず嘗てバンドを組んでいたメンバーに会いに行こう、と云う話でまとまった。梨乃さんを始め、俺等3人が意気揚々と副部室を出ると、正部室の方には宮殿キューデン部長ブチョーこと先輩が居た。……正規派の人員は、ひょっとしたら彼等2人だけしか居ないのだろうか?

「尾井に、もう一度音楽をさせる気か?」

 俺等が部室を出ようとした其の時、背後から声が飛んできた。俺等は同時に振り返る。声の主は、宮殿部長だ。

「……そうですけど?」

 梨乃さんが慳貪けんどんに応対する。すると宮殿部長は予想に反して、

「そうか……。僕からも、頼むよ。僕ももう一度、彼の演奏している所を見てみたいんだ」

 と言って、頭を下げた。梨乃さんは面喰らった様で、

「え?! ちょ、どうしたの? 宮殿部長らしくもない!」

 と言い、宮殿部長に近寄った。言海先輩が椅子に腰を下ろした儘、補足する。

まさる君は尾井君の頽廃に自分も影響を及ぼしたんじゃないか、って悩んでるのよ。鳥部山さんが亡くなって、元気を失って、輝きも失せてきた尾井君に、長君は声を掛けたの。幽霊部員でも良いから、いっその事tRPG部に入らないか? って。ひとえに、部員数確保の為にね。其れ以降、尾井君は今迄みたいな感じでちょくちょくこっちに顔を出す様に為って、其れが結果的に尾井君を音楽から遠ざけてしまった遠因に為ってるんじゃないか、ってね」

 俺は感心する様な、納得する様な、そんな気持ちだった。宮殿部長が、此れ程思慮深い人だったとは。

「僕も彼が此の儘、くすぶり続けるのは納得行かないし、彼の赤々とした情熱が詰まったライヴを観たいんだ。彼はそう過ごす方がごく真っ当だと思うし、彼の在るべき姿なんじゃないか、と思う。だから、」

 宮殿部長は今迄見た事の無い程の真剣な瞳で梨乃さんを見詰めた。

「尾井が復活する為なら何だって遣るし、言って呉れればどんな雑用だろうが喜んでこなす。何なら正規側の人員を総動員してでも手伝う。だから、お願いだ。僕の代わりに、彼を復活させて呉れ。普段何だかんだ言って悪いが、斯う云う事は、正直五輪君にしか為し得ない事で、五輪君をいて他に適任は居ないと思うんだ。頼む」

 そう言って再び宮殿部長は頭を下げた。此処迄熱っぽく依頼されたら、誰しもが応えたくなるだろう。梨乃さんも其の例に漏れず、

「……宮殿部長の気持ち、しかと受け止めたわ。五臓六腑に銘じとく。絶対に、OFPOSプロジェクトは成功させてみせるわ。此の五輪梨乃の名にけて!!」

 と宣誓した。俺は僅かに感動の念を抱きつつ、先程の宮殿部長の発言から、正規派にも宮殿部長と言海先輩以外の部員が居る事を察知した。



「其れ、多分違うな。彼奴は、俺等から逃げたんだよ」

 俺等が聞いた話だと、駆流先輩の元バンド仲間は今現在、軽音楽部の部員を代わりに迎えて、新バンドとして活動していると云う事だった。だから俺等は軽音楽部室へと向かった。其処で出会った3年のべい禄輔ろくすけ先輩が話して呉れた内容は、然し俺等が聞いた話とは少し、否、可成り異なっていた。

「お前等が聞いた話だと、駆流アイツは鳥部山を思い出したくないから音楽から身を離した、って事だろ? なら、彼奴は嘘を吐いてる。良い奴ぶった美談で纏めようとしてんだよ」

 多分にトゲの有る口調だ。嫌悪がありありと伝わってきた。ひょっとしたらバンドの再建と云うのは、エラ障壁ハードルの高い種目イヴェントなのかも知れない。

「で……でも、駆流先輩は千風先輩との最後の会話に基づいて音楽を辞めた、って言ってましたけど」

 梨乃さんは食い下がった。塀巣先輩は少し黙った後、体裁を整える様に生意気小僧の如きわらいを浮かべ、

「……知らねぇな。そんなの、彼奴が出任せ吹いてるだけかも知んねぇだろ?」

 と吐き棄てた。すると沈黙を守っていた真杜さんが、一言、塀巣先輩に突き付けた。

「私達に対して先輩が吹いていない、と証明出来ますか? ……そんな事言ってたら、ろくな会話に為りませんよ」

 塀巣先輩が下唇を甘噛みするのを、俺は見た。差し俯いた塀巣先輩から、先程迄の勢いは感じられない。真杜さんは更に続ける。

「尾井先輩は、何故先輩方から逃げたんですか? 何を根拠に尾井先輩が嘘を吐き、美談に纏めようとしている、と迄言い切れるんですか? 詳細を、御教授頂けきたいです」

 台詞を辿ると、敬語を用いている分、抑制が効いている物言いに見える。が、実際の真杜さんは、元芸能人タレントあがりの某女性国会議員の如く切れ味鋭く、追い詰める様にまくし立てている。余りに一方的だ。真杜さんもまた、駆流先輩に対し並々ならぬ思いを抱いているのだろう。

「……まぁまぁ、そんなに責めないでよ。カケちゃんの話ならアタシも受け持つよ?」

 ソニー製のイヤホンを耳から外しつつ会話に新規参入してきた女子生徒はショートヘアで、女子用として設定されてはいるものの着用する生徒はいちじるしく少ないスラックスの制服を纏っている。可愛らしい、と云うよりかは格好カッコ良い、と形容されるだろう。然し一方で、一度ひとたび口を開けば其の印象は「快活で闊達かったつな少女」と上書きリライトされる筈だ。

「あぁ、アタシは3年のどう良夢音らむね以前まえのバンドでドラム叩いてたの。ま、今のバンドでもドラムだけどね」

 自己紹介を促すかの様な表情の真杜さんを察知したらしく、良夢音先輩はにこやかに名告なのった。

「ら、ラムネ先輩、駆流先輩の言ってた事は、本当なんですか?」

 梨乃さんが真杜さんに代わり、訊く。良夢音先輩は少々声音を落とトーンダウンして、語り出した。

「……実はね、アタシ達は空中分解する前から、バンドを解散して、新しいバンドを組もうと思ってたの。それも、カケちゃんを除いた形で、ね」

 此れには俺も驚いた。だが、俺以上に、梨乃さんと真杜さんは驚愕していた。

「え――……、な、何で…………」

「…………どうして?」

 梨乃さんも真杜さんも絶句している。塀巣先輩が声を上げた。

「彼奴はっ……独裁的ワンマンなんだっ! 俺等の意向コトなんかまるで気にしないし、大事な事は勝手に独断すきめるし、自分が上手いからって其の水準レヴェルを俺等に強要するし……、ずっとバンド組んでたけど、もううんざりだったんだよ!」

 飛び抜けた才能を持つ者は、時に傲慢ごうまんに為り、時に他人の思惑おもわくを差し置いてでも自分の思い描く結末を実現しようとするものだ。駆流先輩にもそう云った面が有るやも知れない。

「な……成る程……。で、其の旨を駆流先輩に言ったんですね?」

「うぅん」

 梨乃さんの言葉を、首を横に振って否定したのは、良夢音先輩だった。俺は眉根にしわを寄せた。横で話を聞いている真杜さんも同様の反応だ。彼等が伝えていないのなら、駆流先輩は逃避しようがない。バンド仲間が自分に不満を抱き、解散を検討している事など、知るよしも無いのだから。

「え、じゃあ、どうして……?」

 梨乃さんが訊く。俺等3人が一様に浮かべている疑問だ。

「俺等は、彼奴に言う心算だったんだ。あのクリスマスライヴの後に。でも、ライヴ前に俺等が楽屋で喋ってるのを、彼奴は偶然聞いちまったみたいでさ」

 そう語る塀巣先輩の言葉を、俺は未だ信用出来ない。駆流先輩が其の密談を耳にした、と云う証拠が明示されていない。真杜さんも同意見だった様で、

「其れ、尾井先輩が会話を耳に入れた、と云う証拠は有りますか?」

 と追及した。

「十中八九、間違い無いよ。アタシ達が楽屋から出た時に、其の前は落ちてなかったカケちゃんのピックが部屋の前に落ちてたし、其の後のリハでもカケちゃん、機嫌悪かったし。勿論もちろん、本番ではそんな感じはしなかったけど。カケちゃんは其処等辺、プロ意識高かったから」

 良夢音先輩の話は、俺の中での駆流先輩への評価を上げる結果となった。此れ迄毎日の様に時間を共にしてきた、云わば戦友達が自分に対して異論を唱え、バンドを解散する、と云う衝撃的な内容を聞いてしまってなお、本番では平常心を保ち、普段と遜色無い演奏パフォーマンスを見せた、と云うのだから。

「分かりました。では、恐らく尾井先輩は自らの原因に因ってバンドが解散の危機を迎えている、と云う事実を認識していた、と云う事ですね?」

「ああ、だから彼奴は逃げたんだ! 俺等に捨てられんのが怖くてな!!」

「アタシは、カケちゃんが言ってたのも嘘じゃないと思うけどな。カケちゃんが、チカちゃんが亡くなってチャチャな、想像も出来ない位の精神的打撃ショックを受けてたのは本当だし」

 良夢音先輩がそう言うと、塀巣先輩もしょうしょう、と云った感じだが、

「まぁ……確かにな」

 と同意した。数秒間の沈黙の後、此処で梨乃さんが本題に切り込んだ。

「先輩達、もう一度、駆流先輩と音楽、遣りませんか? 余計なお世話、ってのは重々承知です。でも、万が一にも再び、駆流先輩と同じ舞台ステージに立つ可能性が有るなら……、バンドを、復活させませんか? ……先輩達だって、駆流先輩をもう一度、輝かせたいと思うでしょ? 駆流先輩が此の儘、頽廃的な、燻ぶった生活を送って……其れで良いんですか?!」

 梨乃さんは熱っぽく主張した。俺には一瞬、2人の眼の色が変化した様に見えた。だが、結局は2人共、無言の儘だった。

「…………分かりました。御本人達に其の気が無いのなら、無理いする気は有りません。あたしにそんな効力は無いし、渋々再結成なんて往年の一発屋バンドみたいなショッパい真似させる訳にいきませんから」

 実際の所、梨乃さんがこんなにあっさりと引き下がるとは到底思えなかったが、梨乃さんは一旦、嘆願を取り下げた。塀巣先輩と良夢音先輩の俯いた顔が梨乃さんを目掛け前を向いた其の時、軽音楽部の部室である第2音楽室に足を踏み入れてから今迄、ずっと背景音BGMの様に流れていたハムバッカーPUピックアップ搭載のストラトキャスターの音色が途絶えた。余りにも違和感無く其の場に溶け込んでいたので、其の音が無くなった時は何が失われたのか一瞬判らなかった程だった。俺と梨乃さんはそんな違和感を覚えて眼を合わせ、互いに首をひねったが、真杜さんは全く意に介さない様で、

「じゃあ、尾井先輩と組む事は、もう今後、無いんですね?」

 と2人に念を押した。すると、2人の先輩の後ろから新たな声が飛んできた。

「だが、事情は変わった」

 そう言って会話に入って来たのは、たりとら先輩だった。良夢音先輩が振り返って彼の愛称ニックネームつぶやく。

「トラちゃん……」

「駆流の後継に組んだヴォーカルが、元居た軽音部の仲間と組んでいたバンドの方が良い、と言って先日、脱退しぬけてしまったんだ。今の俺達は、ヴォーカルの居ない似非えせバンドと化している。差し詰め、梅干しの無い日の丸弁当、と云った所だ」

 淡々とした口調で話す儀足先輩の首からぶら下がるエレキギターを見るに至って、俺はやっと彼がBGMの正体であった事に気が付いた。

「居るじゃないですか、梅干し!!」

 梨乃さんが嬉々とした声を発した。俺は一拍遅れて梨乃さんの言わんとする事に気付いた。我が意を得たり、と云った風情で儀足先輩が大きく頷いた。

「ああ、そうだ。もう、俺達が遣っていく道は、一つしか無い」

「冗談じゃねぇぞ!!」

 喰い気味のタイミングで塀巣先輩がえた。そして足元に置いていた鞄とベースケースを手に取り、俺と梨乃さんの間をき分け、風を切って部屋の出口へと突き進んだ。

「ロクちゃん!」

「待てロク!!」

 バンドメンバー2人の呼び掛けに、扉のっ手に手を掛けた儘、塀巣先輩は歩みを止めた。

「一晩考えて呉れ!! 俺達には何が、否誰が、必要なのか!!」

 儀足先輩の叫びは、塀巣先輩の心に届いたのだろうか。右肩にベースケースを引っ掛けた塀巣先輩は、

「もう……、元にゃ戻れねぇんだよ……」

 と呟き、第2音楽室を後にしていった。其の表情は、黒いベースケースに遮られ、見る事は出来なかった。


 俺等3人は、揃いも揃って陰鬱な表情でtRPG部の部室に帰還した。ソワソワと待っていたらしい宮殿部長にかくかくしかじかと中間報告をすると、

「そうか……。他のメンバーの思惑もあるんだな……」

 と至極残念そうに呟いた。梨乃さんはそんな宮殿部長を励ます様に声を上げた。

「否、でも未だ未だ此れからっす! 良夢音先輩と儀足先輩はバンドを復活させたいみたいだったし、塀巣先輩も心の底から駆流先輩を嫌ってる訳じゃなさそうだったし! きっと……、大丈夫、ですよ……」

 然し如何せん、根拠が欠片かけらも無いのに、其れをダシに激励しても効果は薄弱だ、と云う事を自覚したのか、後半の語気はユンボルフォークの軌跡と同様に急降下していった。

「いっその事、引き合わせちゃえば? 尾井君と、元のバンドのメンバーの子達を」

 行き詰まった場の雰囲気を打破したのは、何気無く放たれた言海先輩の此の一言だった。正しく天から与えられしいち蜘蛛クモの糸、或いは曇天どんてんの中に差す一筋の煌びやかな陽光の如く、現状に一石を投じる発想アイディアだった。

「ブレイクスルー!!」

 突如として叫ばれた梨乃さんの言葉は、言海先輩の提案を受けてのものだった様で、両の眼を一杯に開かせ、其の内の瞳を思いっ切り輝かせた、キラキラと音が立つ様な表情で、

「其れだよ言海さん!! 一番手っ取り早いわ、其れっ!! 本人同士で語り合えば、きっと擦れ違いも不和も修復されて上手く行くよ!! ねっ、ウルフもそう思うでしょっ!?」

 と俺に同意を求めた。俺は内心で梨乃さんに頭を下げつつも、

「そう上手く行くモンでしょうか……?」

 と懐疑的な意見を述べた。すると、

「私も、そうそう上手く行くとは思えないな」

 真杜さんも俺の見解に同調した。

「…………ぅ、むぅう~……」

 見る見る内に梨乃さんの眼の光輝ブリリアンスが失われていく。俺は胸を痛めた。が、其の心痛を以てしても、俺の脳内でバンド復活案の実現性の低さをひるがえす事は儘ならなかった。何しろ、先程塀巣先輩は「もう元には戻れない」と迄発言しているのだ。傍目で見るよりも深刻グレイヴ亀裂クラックが入っている事は疑い様が無いし、一度仲違いした者同士が関係を修復する事の難易度ディフィカルティは大多数の人が経験している事だろう。してや、俺には想像する事しか出来ないが、バンド活動と云えば全員が同じ目標を見据えて一丸と為って行うものだろうから、空中分解は即刻墜落に繋がる致命的フェイタルな事態であろう。

 そして、真杜さんはう続けた。

「でも、賭けるとすれば、もう其れしか無いとも思う」

 此の考えもまた、俺と同一だった。あのバンドは最早、赤の他人がどう斯う口を挟んでも、どうにも為らない状況に陥っている。ならば、薄い線だが望める可能性は唯一つ。すなわち、当事者間で解決して貰う事、此れのみだ。俺は黙って頷き、同意を示した。

「……そうだな、賭けてみるしかないか。尾井には僕から連絡を付けておくよ」

「済みません、お願いします。こっちはさっき梨乃が導先輩と連絡先を交換したので、其処からバンドメンバー側の面子メンツを呼び寄せます」

「ああ、宜しく頼むよ」

 テキパキと役割分担が済んだ所で、決定行為にたずさわれなかった梨乃さんが俺に愚痴グチってきた。

「ちぇっ。あの2人、肝心なトコであたしを村八分すハブるんだもん! 遣ってらんねぇっての!」

「まぁまぁ、そんな不貞腐やさぐれずに……」

 俺の肩を掴み、ばるんばるんと揺さぶって来る梨乃さんをなだめていると、其の様子を見ていた言海先輩が、

「ウルフ君、本当に五輪さんに好かれてるのねぇ」

 と言って流麗に笑った。

「いやいや、茶化さないで下さいよ……」

「否、今迄の五輪さんなら考えられなかったのよ、そんなに他人と、然も男子とくっ付くなんて、ね」

 俺が反応に困って、横目で梨乃さんを見ると、梨乃さんは恥ずかしげに俯き、頬を赤らめている。

 ……何なんだ? 斯う云う反応は新鮮だぞ?

「……もうっ!! 言海さんめてよっ!! 恥ずかしいじゃん!!」

 赤らめた顔を上げ、そう言う梨乃さんの横顔を、然し俺は打って変わって複雑な心境で眺めた。とある想像が、唐突に脳裏をかすめてしまったからだ。

 ――梨乃さんの其の反応には、ひょっとして此れ迄つちかってきた「偽りのキャラクター」が崩壊してしまう、と云うゆうも含まれているのだろうか?

 ……とか考えていると、つくづく物事を素直に見られない自分に辟易へきえきするのだが。

「じゃあ、明日の放課後、tRPG部室ここに集合、と云う事にしよう」

「了解です」

 つつが無く必要事項を決定し、交わす言葉も尽きた真杜さんと宮殿部長が俺等の様子をうかがっている。

「梨乃、其の旨、導先輩にメール送っといて呉れ」

「分かった」

 梨乃さんは早速P901iTVを取り出し、メール本文の作成に取り掛かり始めた。


 其の後、部活は解散と為り、俺は家へと直帰した。俺は別に何とも思わないのだが、世間一般的な論調にると、うら若く健全な高校生が寄り道もせず真っ直ぐ帰宅する、と云うのは地味で寂しいらしい。此の場合、「淋しい」の方がしっくり来るだろうか。まぁ、そんなどうでも良い事は置いといて。そう云う独りきりの時間も人生に於いては大切だ、と俺は思っている。

 俺は晩飯を喰いつつ、結局の所バンドの再生は上手く行かないだろうな、と思っていた。彼等のステージを見たい、と思ったのは本当だ。乗り掛かった船だから、どうせなら成功裏に終わらせたい、と云う思いは勿論ある。とは云え、俺等が今日訪れた時の第2音楽室――軽音部の部室の雰囲気は、正直言って終末感に溢れていた。

 室内には正規の部員達で組まれたバンドメンバー(詰まり其の他の部員、と云う事だが)は所用が有ったのか誰も居らず、の先輩3人衆が居るだけだった。塀巣先輩と良夢音先輩は各々おのおの離れた位置の席に座り、塀巣先輩は眼をつぶり俯いて何らかを熟考する様な気配で、良夢音先輩はカナル型のイヤホンを装着して、ぼーっと焦点を設定しない眼付きで前を向いて身体をゆらゆらと揺らしていた。儀足先輩だけがストラトをげて、恐らく反復練習なのだろうが、何らかの旋律メロディーつまいていた。丁度、部屋の入り口からは見えない所で弾いていたので、俺等はてっきり其の旋律が何かのBGMなのだ、と思い込んだのだ。俺等は辺り一杯に充満する倦怠感、或いは停滞感、とでも云おうか、そんなよどんだ空気にたじろいだが、差し当たり入り口から最も近く、手持ち無沙汰ぶさたに見えた塀巣先輩に声を掛けたのだった。

 バンドメンバー外の存在で、マイナス要素は言わず、常に明るい表情でバンドを応援し、時にバンドが前進する一寸ちょっとした切っ掛けヒントを与えて呉れる存在、そんな人の事を“モチベーションを与える人”、即ち“モチベーター”と云うらしい。く迄も俺の推測でしかないが、不満が鬱積した中、モチベーターである千風さんを喪い、更には其の才気と鋭気でバンドを牽引けんいんしてきた原動力たる駆流先輩を失った事で、バンドは停滞し、破滅崩壊寸前の状態に陥ってしまったのではないだろうか。俺は風呂に入りつつ、そう考えていた。



 愈々いよいよ勝負の時、詰まり翌日の放課後を迎えた。副部室に俺等3人と塀巣先輩を始めとする元バンドメンバー3人、更に駆流先輩を加えた7人が肩を寄せ合うのはいささか狭すぎるので、正部室にて話し合いを行う事と為った。無論、宮殿部長の大いなる協力が有ったのは言う迄も無く、正規派の部員達は取り敢えず何処かの空き教室を使用するらしい。

 俺がtRPG部室に到着した時、正部室には宮殿部長しか居なかった。俺が宮殿部長から、空き教室を借りるのに学校側と一悶着有った、とか正規派部員達の面倒は言海先輩に任せ、自らも此れからの話し合いに同席する、と云った話を聞いていると、真杜さんが顔を見せ、少々経って最後に梨乃さんが遣って来た。良夢音先輩を引き連れて。

「ロクちゃんとトラちゃんは?」

 tRPG部室に入るなり、辺りを見渡して良夢音さんは独り言の様に尋ねた。

「塀巣先輩と儀足先輩は未だ見えてません。駆流先輩も」

 俺がそう答えると、良夢音先輩は心底ゆうする様な表情で、

「カケちゃん……」

 と呟き、胸の辺りで両手の指を組み合わせた。

「大丈夫ですよ! 駆流先輩はきっと来ますから!」

「リノちゃん……」

「私も、理由は有りませんが、そんな気がしています」

「マモちゃん……。うん、そうだよね。アタシも、カケちゃんはきっと来て呉れる、って思ってるもん」

 やや有って、教室入り口の引き戸がガラッと開いた。否、「ガラッ」と云うのは俺の見た感じを表現した擬音語オノマトペであり、数年前に建造された新しい校舎の引き戸は恐らくアルミ製であろうサッシの上を滑らかスムーズに走る構造なのだが。閑話休題。

 其処に居たのは、儀足先輩、そして半ば彼に連行される様な形の塀巣先輩だった。部屋の中の計5名、10の瞳からの視線に2人は一瞬戸惑いを見せた。

「カケルは……未だ、か」

 ほど広くはない室内を見回して、直ぐに気を取り直した儀足先輩は言った。

「彼奴は来ねぇよ。どうせな」

 相変わらずの物言いは勿論、塀巣先輩だ。ズボンのポケットに手を突っ込み、斜め下を睨み付けて吐き捨てる。

「もう……終わりなん」

 言葉が途絶えた。空気が凍り付いた。塀巣先輩の両肩を掴んだのは、意外な事に、宮殿部長だった。

「っ! な、んだよ、手前テメェ!!」

「君は、本当に、そう思っているのか?」

「……あ?」

「本当に、心の底から、あのバンドは終わりだと、そう思っているのか?!」

「っ! ……っせぇな!! 関係無ぇだろうが、手前にゃよ!!」

「ああ、関係無いさ、僕はね! お節介で大きなお世話さ。其の程度分かっている! でも、君等が解散する、あのメンバーで活動しなくなる、と云うのなら、僕は黙っては居られない! 其れ程、僕は君等のバンドが好きなんだ!!

 其れに……僕は、極限リミット迄行き着いてもいないのに諦め、己の気持ちに嘘を吐く人物を見ていると、我慢がならないんだ」

 口角泡を吹き、捲し立てた宮殿部長は、後半一転して、強い語気は変わらず、然し若干落ち着いた風に言った。

「……おい、そりゃあ、俺が早々と諦めて、自分の心に嘘吐いてるって云う事か?」

「違うのか?」

 明確な圧力を掛けてくる塀巣先輩に一切ひるむ事無く、眼をらさずに向き合う宮殿部長の横顔には、失礼乍ら普段の彼からは感じ得ない格好良さが滲んでいた。一本筋の通った感の有る男と云うのは、得てして格好良い。

 そして、的を射た正論は、人を撃ち抜き、打ちのめし、黙らせる。塀巣先輩は二の句を継げずに、俯いて黙りこけた。

「……ロク、お前だって、音楽好きだろ? ベース、今更棄てらんないだろ? 頭ごなしに考えるのはもう辞めよう。此の3ヵ月で、俺等良く分かっただろ? カケルの重要さを」

 儀足先輩が優しい口調で声を掛ける。

「もう一回、遣り直してみよう。俺等、此の儘終わるのは、しっくり来ねぇよ。嫌な事ばっかじゃ無かっただろ? 俺等、此処迄、一丸に為って遣って来たじゃねぇかよ……」

 徐々に、儀足先輩の声が揺れる。塀巣先輩も首を真下に折り曲げて、両の肩を震わせている。宮殿部長は、もう塀巣先輩の肩から手を離し、熱い眼をしている。良夢音さんは時折すすり上げていて、真杜さんは既に涙の粒を零し、梨乃さんも其の瞳を潤ませている。

「……ああ、遣ろうぜ、俺等で」

 暫しの沈黙の後、塀巣先輩がそう声を発した。全員に温かい何かが込み上げる、其の時。

「おぃっす、話って何だよキューデン……」

 駆流先輩が喋りつつ入室した。部屋の中の面子メンツを視認した駆流先輩は、次の瞬間、身を翻し全力で走り出した。

「ちょ、先輩っ!!」

 間髪置かず、梨乃さんが駆流先輩を追って床板を蹴った。塀巣先輩、儀足先輩、良夢音先輩の3人がバンドの復活を決意した所で、肝心要の駆流先輩の意志が同調される訳では無いのだ。一件落着感が漂いかけたが、此の空気に騙されてはいけない。此れからが本番だ。

「やっぱ来たか、カケル……」

 感慨深げに儀足先輩は言った。否、今駆流先輩逃げましたけどね?

 誰からともなく廊下に出て、教室棟の方へ続く廊下をバタバタと駆けて行く2人の背中を追う。壁面に貼られた「廊下は走らない!」なんて旧態依然とした標語は最早意味を為さなかった。美しい姿勢フォームで疾駆する梨乃さんは、みるみる駆流先輩との差を詰めてゆく。

「彼奴、やっぱ衰えたよな。以前まえなら女に追い付かれる様な事ぁ無かったぜ」

 苦笑交じりに塀巣先輩はそう言ったのだが、先日の運動靴・スパイクをはかず未舗装路グラウンドでの梨乃さんの常人離れした脚力を知っている俺に言わせて貰えば、往年の駆流先輩でも断じて逃げ切るのは不可能だろう。彼女から逃げられるのは、一級の短距離選手だけだ。

 駆流先輩が梨乃さんにひっ捕らえられ、俺等の許に帰還して来るのに、1分と掛からなかった。

「キューデン……聞いてねぇぞ、こんなの……」

 恨めしげな表情で俯き気味に宮殿部長に愚痴る駆流先輩は、明らかに弱り切っていた――精神的に。確かに急激に全力疾走した事に因って息切れを起こし、肩で息をする様な状況にはある。が、其れは一時的なものであって、1分程度でどうにか為るだろう。然し此の精神の衰弱は恐らく、数分如きで回復可能なものではない。

「部長、話してなかったんですか? 尾井先輩に」

 真杜さんが追究すると、宮殿部長は後頭部に左手を回す、些か古典的な手振りポーズを見せた。

「いやぁ……メンバーが居ると言うと尻込みするかなぁ、と思って僕なりに配慮したんだが……」

 まぁ、然るべき配慮だとは思う。恐らく、駆流先輩は軽音部からの退部後、碌に顔を合わせる事も無かっただろうし、そう云う機会が有ったとしても、避けてきただろうから。

「カケちゃん、話が有るの」

 全員が長机を囲むパイプ椅子に腰を下ろした所で、切り出したのは良夢音先輩だった。儀足先輩が言葉を継ぐ。

「カケル、俺達と向き合って呉れ。頼む」

 駆流先輩はふぅ、と一息吐くと、逸らしていた視線を嘗ての戦友達に合わせ、真正面から見据えた。其れは、駆流先輩の覚悟を、表明していた。

「何時迄も、逃げてちゃ駄目だよな、梨乃ちゃん」

「え? あ、あたしですか?」

「どうせ、こんな事考えたのは梨乃ちゃんだろ?」

「え……あぁ、まぁ……」

「俺も、そろそろ決着ケリ付けねぇとな、って、思ってた所だったんだ。丁度良い機会だったよ。まぁ、余りにも行き成りだから条件反射的にバックレちまったけどな」

 駆流先輩は苦笑した。そりゃあ、自分をめんしようとしていた嘗てのバンド仲間が、決心も無く入った教室内に雁首がんくび揃えて待ち構えていたら、気も動顛どうてんしようと云うものだ。

ハラ割って、語らおうじゃねぇか」

 駆流先輩は確たる語気で言った。

 とは云え、塀巣先輩も儀足先輩も良夢音先輩も、何から話したら良いのやら、と云った風情で、しばしの沈黙が訪れた。俺等としては、願う結論は一つ。即ち、駆流先輩とバンドメンバーがしこりをほぐし、再び活動をする事だ。若干停滞した雰囲気を察知した梨乃さんは、自らが着火部品スパークプラグと為る事を選んだ。

「あの、一寸あたしから、良いですか?」

「あぁ、どうぞ」

 駆流先輩が応じる。

「駆流先輩、あたし達に嘘吐いてません?」

「へ?」

 余りにも不意打ちに繰り出された発言に、駆流先輩はねぐらを奇襲された雛鳥の様な顔をした。そして其れは同席する俺達にしても同感で、俺を含め全員が「おいおい何ブッ込んで呉れてんだよ」と云う、行く末を案じる表情に為ったのは言う迄も無い。梨乃さんは素晴らしく鮮やかな猫騙しを駆流先輩に見舞ったのだ。

「いや、だから……」

 此処で梨乃さんは言い淀んだ。其れは皆を当惑させる様な発言をしてしまった自責の念からなのか、其れとも此れから更に場を紛糾させる事に対する懸念からなのか、俺には判別出来ない。唯、何と無く此の瞬間、後者の様な気がした。

「その……塀巣先輩から聞いた話だと、駆流先輩は『千風先輩から音楽と自分の2択を迫られていたから』じゃなく『偶然聞いてしまったバンドの解散話に怖じ気付いてバンドを、音楽を辞めた』って事らしいんですけど」

「……チカちゃんが『どっちを取るか』なんて、言ってたの?」

「……まぁ、千風ちゃんが亡くなってから、俺達カケルと全く話してなかったからな」

 良夢音先輩と儀足先輩が言った。斯う云う「聞いてなかった」「知らなかった」と云う事柄の積み重ねが、人間関係に於ける齟齬そごに繋がっていくんだろうな、と俺は思った。

「……駆流先輩、お願いします」

 梨乃さんはだんまりを決め込む駆流先輩に話を振った。当人同士で自然な形で解決して貰いたい、と云うのも俺等の願いである。

「……梨乃ちゃん、些か丸投げだぞ、そりゃあ……」

 駆流先輩は少々面倒そうに言った。まぁ、確かに導入だけぶち上げておいて後は宜しく、では確かに丸投げ感著しい、とは俺も思ったが、然し梨乃さんはスパークプラグなのだ。大気と燃料の混合気を燃焼させる切っ掛けの役目なのだ。多少強引だが、筋違いではないだろう。

「えっと…………改めて話すのって、何か照れるな」

「フッ……まぁ、な」

「アタシ達、ずっと遣って来たけど、音楽の事以外で真面に話すのって、あんまり無かったもんね」

「何年振りか、だからな。無理も無いな」

 駆流先輩、塀巣先輩、良夢音先輩、儀足先輩の声が連なる。其の様子は、数カ月の断絶ブランクが有った様には到底思えなかった。少なくとも、俺には。

 駆流先輩は昨日、俺等に話して呉れた内容をつまんで語った。俺等よりずっと深い親睦が有る彼等は、駆流先輩の身に起きた事をまるで我が身の事の様に痛切極まる表情で聞いていた。

「…………俺には俺なりの、音楽から身を離した理由が有るんだ。其処は、解って呉れ」

 駆流先輩は数分続いた独白を此処で切った。バンドメンバー達は敢えて、特に声を上げない。駆流先輩をおもんぱかっているのか、其れとも彼等の間に言葉など要らないのか。

「でも、梨乃ちゃんが此奴等に聞いたって云う、俺抜きで新しいバンドを作る、って云う話を偶々聞いて、其れでバンドから距離を取った、って云う話も、……本当だ。悪い、此の前は意図的に黙ってたんだ」

 そう言うと駆流先輩は俺等に頭を下げた。梨乃さんが即座に反応する。

「いやいやっ、頭上げて下さい! 先輩は別に悪い事したんじゃないんだし……」

 俺も同じ思いだったので、首肯した。誰しも、他人に知られたくない、隠蔽いんぺいしたい様な、情けないと自覚する面や過去が有るものだ。

「恐く為ったんだよ。音楽が、同胞なかまが。俺は其の時迄、バンド活動は順風満帆だ、と思ってたんだ、心の底からな……。そう思ってたのが俺だけだったなんて……、もう遣ってけないな、と思ったよ。だから俺は逃げたんだ、向き合う事もせずにな」

 苦々しい顔で言い終えた駆流先輩は、斜め下、何も無い長机の天板を見詰めた。

「俺等さ……、新しいバンド、組んだんだよ」

 儀足先輩が口を開く。駆流先輩が下を向いた儘、返事をする。

「……知ってる」

「軽音部の2年で、ほら、だいって居ただろ? 彼奴をヴォーカルに据えてさ」

「……良いんじゃねぇの、彼奴其れなりに上手かったろ、歌唱うたもギターも」

「ああ。俺達としてはさ、何つぅか……カケルと違って、俺達の言う事を聞いて呉れる、言い方は悪いけど都合の良い、俺達が制御コントロール出来るヴォーカルが欲しかったんだよ」

「フハハ……気持ちは分かるわ」

「でもさ……やっぱ中々上手くは行かないんだよな」

「……ん?」

「要は、そんな無機的な動機で組んだバンドなんて上手く遣れる訳無ぇんだよ。遣ってて……楽しくねぇんだわ」

「そっか……」

「ああ。其れに……、いざ組んでみたら、大利って案外上手くないのな。下手じゃねぇんだけどさ」

「…………」

「今迄遣って来た歌が、曲目セットリストが出来ねぇんだよ。内心、落胆したね。おいおい、大丈夫か? って。……まぁ、俺達が軽音部から大利を引き抜いた形だから、面と向かっては言えなかったんだけどさ」

「…………」

「で、辞めちまった。大利の方から申し入れが有ってな。『もう遣ってけない』っつってさ。考えてみれば面白い構図だよ、ヴォーカルを捨てたバンドが、新たに迎えたヴォーカルに捨てられたんだからな」

「……で?」

「もう一度……、俺等と音楽、遣らねぇか?」

 待ち切れなくなった塀巣先輩が言った。駆流先輩は笑声の中のいら付きを隠さずに吐き捨てる。

「いやいや、巫山戯フザケた事抜かすなよ? お前等が俺を必要としなくなったんだろうが!」

 良夢音先輩が喰い下がる。

「でも、一度、他のメンバーを取ってみたから、気付けたの。アタシ達には、やっぱりカケちゃんが必要なんだ、って。欠かせないんだ、って!」

「俺達なりに考えたんだ。やっぱりお前が要るんだよ、此のバンドには。お前無しじゃ遣ってけないんだ! 今度は俺達も気合入れて遣ってくから、もうお前のワンマンに文句垂れるだけの俺達じゃないから! だから……頼む」

 儀足先輩は畳み掛ける様に言って頭を下げ、塀巣先輩と良夢音先輩も其れにならった。

「や……辞めて呉れよ、俺達の間柄で頭下げるとか、無いだろ? 其れに、俺は…………千風の言葉が……」

「夢を停める権利は、誰も持ってない……自分でさえも」

 不意に梨乃さんは譫言うわごとの様に呟いた。儀足先輩を始めとした3人が顔を上げ、全員が梨乃さんに注目する。梨乃さんは衆目を集めた事に気付き、取りつくろう様に、

「いや、そう思うんです、あたし。夢って……誰にも、何にも邪魔されないし、そう在るべきで……、しかすると、自分ですら停められないものなんじゃないかな……って」

 とはにかみ乍ら言った。俺は大多数の同年代と恐らく同様に、現段階で明確な夢と云うものを持っていなかったので、心底残念な事に、其の言葉に共感は出来なかった。

 そして梨乃さんは斯う続けた。

「千風さんは、本当に、先輩にギターを、音楽を辞めて欲しかったんでしょうか……?」

「そ……其れは……」

「きっと、そうじゃない。あの2択・・・・だって、本心じゃないと思うんです。千風さんも、もう一度先輩が舞台ステージに立つ姿、見たいと思ってる筈です……」

 暫し沈黙した駆流先輩から放たれた言葉は、葛藤の末に産み出された決意のほうだった。

「でも、俺……ずっとギター触ってないから腕も落ちてるし……」

 梨乃さんは其の言葉に込められたおきを感じて勢い付いた様で、此処ぞとばかりに押し通プッシュした。

「否、去年の学祭で観た先輩の演奏プレイ、そして演奏する姿ステージング、其れは其れはもう、凄かったです! あれだけの才能は、一寸やそっとじゃ衰えませんって! 一度ひとたびギターを手にすれば、また直ぐに元通り、否何時も以上に演奏出来る筈ですよ!」

「梨乃ちゃん……」

「そして何より、あたしが・・・・先輩の雄姿を見たいんです! 復活して欲しいんです!! あたしがそう望んでる以上、先輩は家に帰ったら即行ソッコーギターケース開けて相棒を掻き鳴らしてる筈です! 絶対!!」

 梨乃さんは何時もの調子で椅子に腰掛ける駆流先輩に迫った。眼前に拡がる梨乃さんの顔面を然として眺めていた駆流先輩は、軈て顔を逸らして笑い出した。

「な……何が可笑しいんです?!」

 笑われた梨乃さんは流石に恥ずかしく為ったらしく、照れた様に言った。

「いや、悪ぃ悪ぃ、メンな。でも決心付いたわ。有り難うな」

 梨乃さんに向き直った駆流先輩はそう言うと、嘗ての戦友3人に相対し、

「お前等、また遣って呉れるか? 俺を……ゆるして呉れるか? ワンマンで、思い上がってて、挙句逃げ出した、走り気味のギターヴォーカルを……?」

 と問い掛けた。

 返事こたえは、決まっていた。



「でも未だ第一段階に成功しただけよ。先輩達にステージに立って貰って、ライヴアクトして貰って初めてバンドの完全復活をぶち上げられるの!」

 駆流先輩達のバンドは梨乃さんの思惑通り、再結成(元々正式に解散していた訳では無いが)する事が決まり、早速各自練習に入る、と云う事で其の場はお開きと為った。副部室に入った俺は一仕事終えた感が有ったのだが、そんな俺の気抜けを察知したかの様に我等が発起人プロジェクトリーダーが宣言したのが先程の台詞だ。梨乃さん、他人の心を読むのは一寸遠慮して呉れませんか?

「じゃあ、此れからどうするんだ?」

 真杜さんが問う。俺は梨乃さんが其れに対する回答こたえを持ち合わせているのだろうか、と一瞬不安に思ったが、かん無き迄にゆうだった。

「フッフッフ……。もう算段は有るのよ。唯、其れを実現するには、許認可が要るわ。今から其れを取り付けて来るから。行くわよウルフ!!」

 チッチッチ、とばかりに右の人差し指を左右に振る梨乃さんに、俺は一抹の謎を感じた。然し、其れに就いて熟考する前に俺はまたしてもヒト型レッカー車に強制連行ドナドナされていた。

「あ……あの、今から何処に向かうんすか? てか何処に向かってるんすか?」

「決まってるでしょ。学校組織に於いて物事の許認可権を保有するのはどう云う奴等よ?」

「……ああ」

 俺は理解した。そして、俺は先程感じた一抹の疑問を梨乃さんにぶつけてみる。

「何か、梨乃さんらしくないっすよね? そう遣って正式に許諾を貰うって。梨乃さんだったらそう云うの関係無く強行ゴーオンしそうなモンですけど」

「馬鹿ね!」

 一喝された。

「今回の主役メインは誰よ? 先輩達のバンドでしょ? 人様が関わってんのに傍若無人には出来ないでしょうが。そりゃあ、例えばあたしがバンドを率いてギグを遣る、って為ったら当然ゲリラ的にぶち噛ますけどねっ。許可なんて取ってられないわよ、教師陣うえの顔色窺ってへいこら・・・・するなんて」

 まぁ、梨乃さんはどんな状況に於いても教師連中にへいこらする事は無さそうだが、と俺が思っている内に、目的地に着いた。

「頼もー!!」

 俺は既視感デジャヴを覚えた。威勢良く梨乃さん(と俺)がちんにゅうしていった職員室内は、前回とは異なり、放課後と云う事も有って教師たちの姿はまばらだった。だが、躊躇ためらう事無く梨乃さんが突き進む先に居る対象者ターゲットはまた、俺に既視感を与える人物だった。

「さほーセンセー!」

 笑顔満面の梨乃さんに指名された佐峰先生は暫く両手で握った白い大きめのマグカップを額に押し当てつつ黙想していたが、軈て覚悟を決めた様に、此方に造り上げられた微笑みを向けた。

「どうしたの? 五輪さん」

「あの、行き成りで悪いんですけど、今度のHRホームルームの時間に体育館アリーナを借りたいんですけど、空いてますかね?」

 言葉と裏腹に、悪いと思っている素振りは此れっぽっちも見せず、梨乃さんは訊いた。

「え……っと、一寸待ってね……。うーんと、確か……」

 自分に直接的に何某なにがしかの被害が訪れる様な内容では無いと分かり、ほっと安心した様子を隠し切れていない佐峰先生は、机上に置かれた備え付けのデスクトップPCを操作し始めた。

「ちょ……一寸待ってね。御免ね、あんまり慣れないから……」

 手当たり次第に目ぼしいフォルダを開いては消している佐峰先生を見て俺は、少し可哀想に思った。と、そんな佐峰先生の様子を見ていたのか、隣のデスクから助け舟が差し出された。

「あぁ、其処ですよ。其の先の『施設使用予定表』の、『アリーナ』の中に……。そう、其れです。……しかし君等、また妙な事くわだててんじゃないだろうね?」

 声の主は我等が1年機械科1組の主担任、たん和仁かずひと教諭だ。……先生、妙な事を企てる一味に俺を含めないで下さいよ。

「いやぁ、一寸ね。でも、今回のプロジェクトは結構真面まともなモノにする心算つもりだから。大丈夫!」

 梨乃さんは破顔一笑で答える。其の場に居る誰もが、其の満面の笑みに騙される事は無かったが。

 教授して貰ったエクセルファイルをダブルクリックし、右のほっそりした人差し指でマウスのホイールを転がし乍ら、佐峰先生は言った。

「えーっと、金曜の7時間目ね……。あ! 空いてるわよ」

「直ぐ押さえて下さい! 即! 可能な限り迅速にアズ・スーン・アズ・ポッシブル!!」

 20インチそこそこのTFT液晶画面にかじり付く様に乗り出して、梨乃さんは声を張る。

「わ……分かったわ。端似先生、此れの予約ってどう云う……?」

「あぁ、其の欄にウチの学級名を打ち込めば良いんですよ。其れが当日迄重複しなかったら本決まりで、万が一重複した場合は話し合いで決めるんです。まぁ、原則早い者勝ちなので、先に埋めちゃえばほぼ確定ですよ」

「さぁ押さえて下さい! 今! 出来得る限り最速でアズ・ファスト・アズ・ポッシブル!!」

「わ、分かったから! 一寸落ち着いて! ……ほら、此れでどう?」

 今迄空欄だった4月20日の7時間目のセルには「1M1」の記号が書き込まれている。無論、1年機械科メカニカル1組の略である。因みに普通科ジェネラルはG、電気科エレクトリカルはE、情報科インフォメイショナルはIが固有記号と為っている。

「あざーっす!!」

 梨乃さんは某芸人を髣髴ほうふつとさせる威勢の良さで感謝を示した。

「所で、五輪さんはどうするんだ?」

「はい?」

「いや、ウチの学級クラスで予約したから、君の所の学級は体育館使えないぞ?」

「ああ、そう云えばそうですよね」

 端似教諭の素朴な疑問に、佐峰先生も同調する。俺はと云うと、梨乃さんの計画を薄々理解し始めていたので、さして疑問には思わなかったが。

「あ、其れは大丈夫です。1年機械科エム1組に代表で体育館を押さえて貰って、全校生徒で利用する様に為るんで」

 俺は我が意を得たり、と内心で小さくガッツポーズを決めた。一方、常識の権化たる教師2名は半ば呆れ気味に驚いた。

「……やっぱり妙な催しを考えてるんだな?」

 端似教諭が突っ込むと、即座に梨乃さんは反論する。

「いやっ、今回のは端似先生も確実1000パーもろを上げて超絶大賛成間違い無しですから!!」

 得意満面で自信の化身と為った梨乃さんは、反射的に端似教諭が身をる程に顔を突き出し、言い切った。

「ほぉ、何なんだ? 其処迄言い切れるとは」

「其れはですねぇ…………」

 往年の1000万円を懸けたクイズ番組の正解発表前の顔黒ガングロ司会者の如く、梨乃さんは思いっ切り間を溜めた。其の儘120秒間のCMタイムに突入しそうな位だ。そして厳かなドラムロールは鳴り止み、暫しの静寂が訪れる。

「…………尾井先輩のバンドの復活ライヴですよ!!」

「な、何だってぇ――!!」と云う反応を梨乃さんは期待した様だが、実際そうはいかず、

「おぉ、そっか、成る程な。尾井君のバンドって上手く行ってなかったのか?」

 と云う至って平静な反応が返って来るのみだった。

「……センセー、ノリ悪いっすよぉー。其処は斯う、もっと大袈裟オーヴァーに……」

 と愚痴りつつ、端似教諭の肩を指先でつつく梨乃さんをたしなめ乍ら、我が担任は言った。

「コラめなさい。気安く触るんじゃない。……何と無く、想定の範囲内だったってだけだよ」

チクショー、次は絶対思い付けない銀河一奇抜なアイディアでギャフンと言わせてやる……っ」

 本気で悔しそうな眼をした梨乃さんは恨み節をごちている。僭越せんえつですが、「ギャフン」はうの昔に死語ですよ、梨乃さん。

「で……でもバンドのライヴなんて、許可が下りるんでしょうか? HRの時間に全校生徒を参加させて、なんて。其れに何て云うか、その、騒音面とかも」

 ぐぅの音も出ない完璧な正論で以て懐疑的意見を述べる佐峰先生は、矢張り公徳心こうとくしん標徴ひょうちょうである教職の鑑の様な存在である。……あ、でも此の人、生徒オレとキスしてたっけ。

 だが、此れに対する梨乃さんの回答アンサーは、決まり切っていたのだった。

「そんなん知らない!! あたしはあたしの価値観倫理観にのっとって物事を推進し実行するのみなんで!! 以上!」

 言いたい事だけ言い残し、梨乃さんは再び俺の手首を握り込み、其の場をずかずかと後にし始めた。梨乃さんの様な、強い言動であらゆる難題を突き崩していく政治家が此の国にも現れれば、閉塞感と絶望にまみれた社会だって、一寸はマシに為るであろう。

 そして、梨乃さんに就いて俺が感心するのは、最後、職員室を辞する際、

「御協力感謝します!! 有り難う御座いました!!」

 何だかんだ騒々しくそうし乍らも、最低限の礼儀は忘れない所だったりする。


 そして、俺等が職員室を後にしてから、

「それにしても、あんなに五輪さんを行動させる程、凄いんですか? その……尾井君って」

「あぁ、彼は凄いよ。僕なんか音楽的な事に関しては全くの素人だけど、そんな僕でも彼等がぬきんでてる事は解る。彼の舞台ステージ上の姿はねぇ……、燦々さんさんとしてるんだよ。何よりもバンドが、音楽が楽しい、って云うのが、もう如実に伝わって来るんだよ。若者が持つ無限の未来、可能性みたいなものを感じさせる煌めきに満ちてるんだ」

「へぇ……成る程……」

 と云う佐峰先生と端似教諭の会話が有った事を俺は知る由も無いし、

〈端似先生がこんなに熱く語ってるの、初めて見た……。端似先生って、意外と少年の心を宿す大人ヤング・アット・ハートなんだ……〉

 なんて事を佐峰先生が内心で思った事や、

「然し、尾井君のバンドが上手く行ってなかったとはなぁ……。想像も出来なかったなぁ」

 と端似教諭が独り言を漏らした事など、して知る筈も無かった。


「さ、あたし達も動いてくわよ!!」

 宣言は、tRPG部副部室へと戻り、俺が一仕事終わった、と息を吐いた瞬間、梨乃さんの口から飛び出したものだ。

「え、もう動いたじゃないですか。開催イヴェント会場は押さえたし、必然的に日取りも決まったし」

 俺は心底そう思って訊いた。すると梨乃さんははぁ~、と誇大に溜め息を吐き、

「ウルフ、アンタ本当にそう思ってんの?」

 と呆れた様に冷ややかな視線を向けてきた。

「え、えぇ……」

「まだまだね! 甘ちゃんにも程が有るってモンよ。Brixブリックス値が高いのはアヲハタジャムだけで間に合ってんだから!!」

 恐らく「アヲハタジャム」が言いたかっただけだろうと思われる、良く解らない突っ込みを俺に喰らわせ、梨乃さんは朗々ろうろうと自説の独演に突入した。

「良い?! 催事に不可欠な事って何よ? 会場の都合を付ける事? 其れもしかり! 出演者エンジャ予定スケジュールを押さえる事? 其れも然り! 開催の許認可を取る事? 其れも然り!  まぁ、あたしの場合はそんなまどろっこしいモンすっ飛ばすけどね! 日にちとか演者の豪奢かくとかそう云う戦略的ストラテジックな事? 其れもまた然り! でも一番大事な事が未だ出てない! 催しイヴェント事を成功裏に収める為に不可欠な事っ、其れは何か?! ……ズバリっ、宣伝でしょうが!! 喧伝けんでん、告知、広告コマーシャルよっ!!

 過去、事前告知アドヴァタイジングが上手くない、或いは行き渡らない為にとんした、乃至ないし満足に集客けっか出来だせずに閑古鳥カッコウが鳴きさらしておお失敗ゴケ烙印らくいんされた前例は数多あまた天体ほし全数かず程溢れ返ってるのよ! 過去人共の愚かな失策フェイルからあたし達は学ばねばならないの! じゃなきゃ彼等彼女等が浮かばれないってモンよ!! あたし達は単なるリードじゃないんだから、知恵を使わなきゃね!

 じゃあ、今回の場合の最も適切な宣伝媒体は何か?! 即ちっ、其れは紙媒体、もっと言えばチラシ、ビラ!! 此れしか無いわハイ決定異論の余地無し対抗意見は受け付けません!!

 何時だってねぇ、現実的な思考を失っちゃいけないわ! 其れ無しじゃ唯の机上の空理空論っ、絵に描いた餅っ、びょうの中のトラっ、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いたっ! ……言えたっ! 関係無いけどっ!!

 と……兎に角っ、現実的に考えて映像どうがでは全生徒にあまね伝播ひろめさせる媒体が無いし、費用コストも掛かるわ! 口コミバイラル広報活動マーケティングは費用的には圧倒的有利だけど、我々の場合、要らんひれがくっ付いたり、あらぬ方面迄広まったりするのは嫌なのよ! 発信側こっち制御コントロール出来ないってのが何より厄介やっかい! なので却下! 今回は、出来れば先輩達には内緒シークレット隠密ドッキリ的に遣りたいのよ!! 其の方が印象的ドラマティックでしょ?! 徹底的ドラスティック劇的ドラマティックに行かなきゃね、折角せっかく遣るなら!!

 どう?! 分かったでしょ?! 今回の事例ケースに一番合致マッチした手段は結局スーパー原始的アナログな紙媒体なのよOK?! じゃあ早速取り掛かるからねっ!!」

 ……独演とは、実に良く出来た単語である。独りがりに演説するのだ。だから“独演”と云う。まさしく今梨乃さんが止め処無いお喋り機関銃マシンガンと化していた一連の其れは、独演としか呼べなかった。要所要所で此方への問い掛けは有るものの其れは此方のこたえを欲してはいない。

 とは云え、梨乃さんの言う事も一理有る。むしろ、全面的に賛成だ。と云う俺の表情を読んだのか、梨乃さんは俺の顔を一瞥し、其の後、先程の交渉時は待機していた真杜さんに

「どう思う? 真杜」

 と問い掛けた。真杜さんは

「ああ、良いんじゃないか。……役割を分担しよう。其の方が各々それぞれの責任の所在ありかもはっきりして良いだろう。義務と責任が有った方が往々にして物事ははかどる、と云うものだ」

 と名参謀の如き含蓄がんちく有る金言を残した。俺は自分に責務が降り掛かるのは成るべく避けたかったが。

「うん、そうね。じゃあそうしましょ。……にしても、3人しか居ないんじゃ、制作作業なんて出来たモンじゃないわ。先ずは作業員スタッフ召集あつめからね!」

 俺は何と無く不安に思い、思わず尋ねていた。

「ちょ……一寸待って下さい梨乃さん、チラシって普通片羅ペラがみ1枚ですよね? 有っても両面印刷で2ページ分とかでしょ? そんなに人手要りますか? 3人位居れば充分じゃ……」

「あのね、小冊子パンフつくるのに3人じゃどう考えたって人材不足でしょうが。況してや〆切しめきり極限ギリガンバっても金曜日……じゃない製本しなきゃいけないから木曜の朝ね。あと正味2日無いのよ? 本来ならもう執筆ライティングに取り掛かってなきゃまずいのよ! 級に忙しく為るわよ?! 箆棒べらぼうに! 箆棒にべらんめぇよ!!」

 梨乃さん、発言する度に引っ掛かりフック残すの辞めて貰えません? と云う俺のしがない突っ込みはさて置き、小冊子だと? 聞いてないぞ、そんなの。内密シークレットライヴの本番は今週金曜日の7時間目、全学年グレード学級クラスHRホームルームとして学級活動に勤しむ一コマを使わせて貰う事が決定している。そして、現在いまは当該週の火曜の放課後である。……成る程、確かに箆棒だ。「箆棒にべらんめぇ」も何と無く意図ニュアンスは理解出来る。――然し、だ。

「何もパンフって云う程迄労力ちから入れなくても良いんじゃないですか?」

「否、必要なの」

「でも「必要なの!!」

 俺は口をつぐんだ。斯うなっては誰がどう言おうと意味を為さない。

「多分ウルフは知らないと思うけど……、駆流先輩、結構今、周囲まわりかれちゃってるのよ。ほら、先輩って千風先輩の幻影マボロシが見える、って言ってたじゃない? 其の所為で一見異常な言動を見せちゃって、同級生クラスメイトに、何て云うか言い辛いけど……、気味悪がられちゃってるの。

 でも其れって要は誤解じゃん? 先輩には本当に見えてんだから、そりゃあ変な反応リアクションしちゃう時も有るわよ。だから其の誤解を解く必要が有るの。で、其の為には一寸した小説的なね、しょうへんみたいなものが効果的クリティカルだと思うの。後は、まぁ言わずもがなの蛇足だけど、先輩達のバンドが如何いかに凄いか、其の活動を追った報告記事レポート、とかね。そんな、少し凝ったものを創れば、本番に向けて一寸でも誤解偏見を取り払えるかなぁ、って」

 俺は、少し、断じてほんの僅かだけど、感動していた。梨乃さんの駆流先輩への一途な敬意の念、そして心配しおもんぱかる気持ち、更には駆流先輩を何処迄も信じ抜く其の純真に対して。

「……分かりました。梨乃さんが信念に基づいているんなら、オレはもう異を唱えたりしません。全力で遣るだけです」

「ウルフ……」

「私も同感だ。尽力しよう。然し、確かに現状では余りにもあたまかずが足りない。先ずは人員の確保だな」

「話は聞かせて貰った!!」

 突如として閉まっていた副部室の扉が威勢良く開き、宮殿部長が乱入してきた。

「アンタ、また盗み聞き……っ」

「まぁまぁ、落ち着きたまえ。そう云う事なら我等tRPG部正規部員一同も全面的に協力させて貰おう。僕等が戦力に為るなら幾らでも使って呉れて一向に構わない」

「え……」

「改めて五輪君の熱意にほだされたよ。もとより僕は告げていただろう? 『尾井が音楽を遣るなら喜んで雑用もこなす、正規側を総動員しても構わない』と。さぁ、けっ会合だ!」

 宮殿部長に促され、正部室へと出ると、俺が今迄会っていなかった正規派部員が揃っていた。列挙すると3年の斎源律さいげんりつたか先輩、同じく3年の多々納ただのいん先輩(実は彼女は俺の級友である多々納ゆうの姉貴だった)、そして宮殿部長こと宮殿部長先輩、側近(或いは秘書と云って差し支え無いだろう)の伊苑言海先輩、以上の計4名がプロジェクトに加わり、パンフ作成の戦力と為る事が決定した。俺は此の時初めて、正規派部員が計4名しか居ない事を知った。

「……未だ足りないわね」

 梨乃さんは腕を組み、熟慮した上でそう言った。

「えっ?!」

 と驚く声は梨乃さん以外の一同のものだ。

「編集部員は多い方が良いわ。往々にして大は小を兼ねるものよ。人数は居るに越した事は無いわ。もう少し協力者を引っ張って来ましょう。ウルフ、行きなさい! 最低でも2人は見付けて来なさいよ!! 必達目標ノルマだからね!! あ、先輩達は今日は別に良いです。主に製本作業で八面はちめんろっ所じゃない位の大活躍して貰うんで。また後日、明後日位に声掛けますんで、其の時に全力出して下さいね!! ウルフ、何ぼーっと見てんのよ!? こっちは良いからさっさと掘り出スカウトして来なさいっ!!」

 斯うして俺は半ば追い払われる様に校内に放たれた。果たして協力して呉れる変わり者、もとい奇特な方など此の県立学科技術高校内にいらっしゃるのだろうか?


 居るものだ。たで喰う虫も好き好き、は少し逸れているか。人の心はおもての如し、とでも云おうか。十人十色、或いは千差万別? 兎に角、世の中には様々な人間が居る。

 当ても思い付きも無く、何気無く歩いていたら偶然にも馴染み深い1年機械科1組に辿り着いたのだった。室内を覗くと、人懐っこいが根底に厳しさを感じさせる名嘉なかよし奈留美なるみと、包容力の大きさと慈悲深さが内面から零れる所か溢れ切り、だだ漏れ状態の(要するに優しさが滲み出ている、と云う事だ。分かり辛いっすね、済んません)きく瑠子るこの2人の女子生徒が居た。此の2人は我等が1M1に取って唯2人の女子生徒である。

 完全なる余談だが、機械科とは旋盤せんばんと云う工作機械で鉄を削ったり、アセチレンガスや電気アークを用いて金属を熔接ようせつしたり、シャルピー試験法とか許容応力とか極限強さとか曲げモーメントがどうとか、僅かにダイオードとか、辛うじて16進数とかを習ったりする、女子の好む要素が著しく少ない、基本的にほぼ男子のみのむさ苦しシブい世界なのだ。ちまたの工業高校では共学にもかかわらず学級全員男子のみと云う、男女平等社会を全速で逆行する所もザラに在る。そんな機械科(と云うか工業系の科)に於いて女子生徒が2人も在籍している事自体が最早奇跡と呼んで差し支えない。

 俺が何をしていたのか、と声を掛けると、彼女達は特に何もしていない、と言った。もし何か手伝いを頼んだとしたら、遣って呉れるか? と問うたら、面白そうなら喜んで、との事だった。俺がかくかくしかじかと説明すると、2人は意外にも快諾して呉れた。

「丁度手持ち無沙汰だったし、其の上柿手君とウワサの五輪先輩との絡みが見れるなんて、行くに決まってるじゃん」

 とはtRPG部室へ向かう道中、意味深な笑みを浮かべた名嘉吉の言葉である。菊場でさえも同意する様に微笑んでいる。……面白がられているのは若干しゃくだが、まぁ此の際眼をつぶろう。兎にも角にも俺は此れでノルマを達成クリアしたのだ。

 俺が先程に比すると随分と軽快な足取りでtRPG部の部室に戻ると、目に見えて人影が増していた。

「あっ、ウルフ!! 遅いっ! ったく、どんだけ時間経ってると思ってんの?! 時間ときは一瞬でも、ううん、はん寂静じゃくじょうでも無駄にしちゃならないのよ?!」

 そんな叱責を受ける程、時間は掛かってないんだが……。俺は何とも云えぬ表情で、腕に嵌めたカシオ製の樹脂バンドの電波腕時計を見遣ると、辛うじて10分が経過した所だった。

「ハハッ、柿手君、教室の時と豪く違うじゃん。やっぱ弱いんだ、五輪先輩には。そ・れ・と・も~?」

 名嘉吉が茶化し感全開フルスロットルイジってくる。俺は早くも人選を誤ってしまったか、と後悔し始めた。

 人数が増えている、と云う事は、梨乃さん達も人材を引っ張って来たのだろう。其の面々を見ると、……正直云って、俺が予想した通りの面子メンツだった。茶華道部のらい奈子なこ先輩と茶華道部の一同、そして其の中には、矢張り此の数日の内に、ちゃっかり茶華道部員としてお馴染みと為っているようも居た。“嫌いな子”と云いつつも、梨乃さんの協力を拒まない奈子先輩は、矢張り梨乃さんに骨抜きにされているのだ。嫌よ嫌よも好きの内、ってか。

 まぁ、知らんけど。

「よぉ~し。まぁ此れだけ居れば問題無いでしょう! 今から皆には尾井駆流先輩と其のバンドに関する小冊子を創って貰います! 此れ、絶っ対に他言無用ね!! シメは木曜の朝! 其の後、此の全員の面子メンバーで製本作業に掛かって貰います! 記事は主にあたし達が書くから、皆は木曜からの製本作業に参加する事! 全校生徒の分を創る心算だから、場合に依っては夜討ち朝駆けに近い様な事態コトに為るとは思うけど、其れでも皆、遣って呉れるわね?」

 そう梨乃さんが問うた。勿論、皆承知の上で集ったのだから、反対意見が出る事は無く、一同頷いた。但し、満面に前向きな表情をしているのは梨乃さんと宮殿部長位だったが。

 繰り返しに為るが、主に人手が要るのは製本の際なので、大半の者は解散と為った。

 此処で不可思議な事が一つ。初対面と為る梨乃さんと真杜さんに対して紹介をする必要は有ったが、其れが済んでも何故か解散しようとしない陽香と名嘉吉、菊場の1年女子3人衆は副部室に居残ったのだ。

「おい、どうしたんだよ。もう解散だぞ?」

 俺は陽香に声を掛ける。其の発言範囲には当然、級友の女子2名も含まれている。

「あの、私も何か、手伝いたいんですけど、その……編集、とか」

 陽香が俺にではなく、窺う様な眼付きで梨乃さんを見つつ言う。

「そうそう! うち等もどうせ遣るなら記事の段階から手伝いたいっすよ。ね、るこっち?」

「あ、うん、そうですね。遣りたいです」

 名嘉吉と菊場も賛同する。

「へぇ~、そう。しゅしょうじゃない。偉い偉い。じゃあ手伝って貰いましょうか。良いわね? ウルフ」

 俺は唐突に問い掛けられて面喰らった。「偉い偉い」の時に梨乃さんが陽香の頭を撫でて、陽香が此の上無い程嬉しそうな反応をするのを眺めていて、話半分に聞き流していたからだ。

「え、はい? 何でオレが?」

「だって、アンタが一番いっちゃん目玉メイン小説ハナシ書くからじゃない。其れなりの、ううん、直木賞と乱歩賞と本屋大賞の選考委員が慟哭どうこくして全員総立ち大喝采スタンディングオヴェイションする様なもぉんの凄いモンあらわしなさいよ!! で、そんな超絶的エクストリームなモノ書くには補佐役アシスタントが居てしかるべきだと思うの。まぁ雑務ね、そう云うのを熟すのが。其処迄時間無いかもだけど。だからアシ遣って貰いたいのよ。そんな役回りでも、良い?」

「はい、是非!」

 名嘉吉が即答する。いやいや、俺は? 俺の意思は? そもそも、俺が書くの? 小説を?

 真杜さんと宮殿部長及び言海先輩、そして1年女子軍団が居る中で、俺は突如として強制作家デビューを決定されたのだ。云う迄も無く、自分の書いた文章を公衆の面前に晒す、と云うのは言い様も無い強烈な羞恥を伴うものであり、況してや小説的な架空性メイク・ビリーヴも含めなくてはならない、と云うのだ。先ず、俺にはそんな経験も無い。俺はあからさまに嫌そうな顔を作り、にべも無く拒否しようとした。だが其の瞬間、俺の心臓が一度、強く鼓動した。

 今思えば、其れは或る種の予感だったのかも知れない。

 良く良く考えてみたら、否、考える迄も無く、実は俺は計画の進行に関して一切の仕事はしていないのである。単に梨乃さんの後ろに(強制的ではあったが)付いていき、梨乃さんが体育館を押さえるのを見ていただけなのだ。

 俺の心臓が、もう一度唸った。

 此の計画プロジェクトの、梨乃さんの役に立ちたい。でなければ俺は、何も為さず、意味の無い、役立たずに為り果てる。其れは嫌だ……!

 確かに梨乃さんの指示は無茶振りだ。俺にそんな事がおおせられるとも到底思えない。だが、然し。遣らんでどうする? 遣れるだけの事を遣って初めて、「オレには無理っすよ~」と泣き言を垂れる資格を得るのではなかろうか?

 昨日、宮殿部長は言った。「リミット迄行き着いてもないのに諦め、自分に嘘を吐く人間は腹が立つ」と。俺は其れに合致してはいないか? 梨乃さんからの指令に挑戦もせず、其れを拒絶したら、自らの思念に背く事に為らないのか?

「ウルフ、アンタまさか……遣んないの?」

 梨乃さんのあからさまな挑発は完全なる駄目押しと為った。

「……遣りますよ。まぁ、果たせるかは分かりませんけど、遣るだけ遣ってみます」

 俺は宣言した。してしまった。もう、引き返せない。「へぇ、柿手君が小説書くんだ。どんなんに為るんだろう。読んでみたい!」と云う名嘉吉の発言や、「得附、大丈夫?」と云う陽香の憂慮を以てしても、俺の決心を揺るがせる事は叶わなかった。

「OK! 全力で全身全霊を懸けて掛かりなさい! 手書きだと色々メンドいから此のノーパソ使って書いてねっ」

 梨乃さんは壁面の備え付けの棚から黒いバッグを取り出し、俺に手渡した。チャックを開け、中を改めると、型落ちの地味なノートPCと交流/直流AC変換器アダプタ、鼠色のボール式マウスが見えた。俺はふと浮かんだ疑問を口にした。

「此れ、備品ですか?」

「あぁ、アンタの学年トコは未だ遣ってないのか。機械科の実習で使うのよ、其れ。PLCプログラムとかで。だから学校の備品だけど、部で持ってる訳じゃ無いわね。まぁ、そんな借り物だし、性能スペック的に化石りだから、今度また作戦練って部専用機買って貰える様にゴネてみるけどね」

 恐らく其の「専用PC購入催促ゴネ作戦」には俺も駆り出される事に為るだろうなぁ、どんな事に為るかなぁ、と考えてしまったものの、今はそんな事に頭を使っている場合ではない。先ず執筆に際して何が必要か、其れを洗い出さなければ。ド素人乍らも、何の当ても無く漠然と書き出しても袋小路に嵌まるだけ、と云うのだけは何と無く、本能的に解っていた。

「分かりました。此れ使えば良いんですね? じゃあ駆流先輩にもう一寸話聞いてきます」

 俺はPCバッグ片手に退室しようとした。すると梨乃さんが、

「いやいやいや!! 駄目ダメだめ! ちょい待って!」

 俺の両肩を掴み制止した。

「え? でも正直オレ、昨日の駆流先輩に就いての話ってあんまり覚えてないんですけど。実在の人物を基に書くんだったら間違いとか誤解が無い様にしないと失礼ダメだと思いますよ」

「否、そりゃそうなんだけど、あたし的には知らせたくないのよ、先輩に。だから取材的な事は勘弁して。昨日みたいな話が必要だったらあたしが代わりに話すから!」

 じゃあ先輩達にはどう遣ってライヴの開催を伝えるんだ、とか、抑もパンフ的な物を配布したら其れが先輩達の眼に届くんじゃないか、とか言いたい事は有ったが、一先ず黙った。

 そして俺は、再度梨乃さんの口から駆流先輩の話を聞いた。1年女子3人衆は初耳の為か、皆涙んでいた。事情を知る筈の宮殿部長と言海先輩も目頭を熱くさせていたし、時折補足フォローを入れていた真杜さんはポロポロと涙していた。矢張り真杜さんは涙脆い御仁なのだろう。俺は冷静に備忘録メモを取りつつ、実際問題、1年女子3人衆こいつらに補佐役を頼む事は無いだろうな、と確信していた。


「でも、先輩達にライヴの日時は伝えなきゃね。招聘オファーしてませんじゃ、話に為んないわ。行くよ、ウルフっ!」

 てのひらサイズのメモ帳を制服の胸ポケットにしまう暇も与えず、駆流先輩に就いての話をし終わった梨乃さんは俺を廊下へ連れ出した。其の儘別棟東館の廊下を突き進み、教室棟3階の廊下に雪崩なだれ込むと、暫くして再び左折し、別棟西館3階へと突撃する。俺は為すが儘で、どうやら牽引されるコツを掴んだらしい。他の何の役にも立たない、恐ろしい程にツブしの効かない特技だが。

 行き先は第2音楽室、軽音楽部の部室である。ギター、ベース、ドラムスの疾走感有る調和アンサンブルが僅かに漏れ聞こえる。が付く程の素人の俺でも実感出来る程に、水準レヴェルが高い。梨乃さんは暫く演奏に聴き入っていたが、軈て2度頷くと、戸を開け、入室していった。

「お、梨乃ちゃん」

 駆流先輩は俺等が部屋に入るなり、合図を出して演奏を止めさせ、梨乃さんと拳骨ゲンコツを突き合わせる米国式アメリカナイズな挨拶を交わした。余りに洗練された遣り取りなので、嘗て練習を重ねた物だろう、と俺は推察した。どんだけ暇だったんだ? 此の2人は。

「遣ってますね? 先輩達」

「ああ、其れも此れも梨乃ちゃんのお蔭だよ、マジで。恩に着るぜ」

 憑き物が落ちた様に爽やかな笑みを浮かべつつ駆流先輩はそう言うと、梨乃さんに軽く辞儀をした。他のメンバーも一様に晴れやかな表情で其れに倣った。

「や、辞めて下さいよぉ、そんな、あたしなんか何も遣ってないのに。反応リアクションに困りますってー」

 照れた梨乃さんは赤面しつつ言った。俺は梨乃さんに向けて極小さく呟いた。

「梨乃さん、本題に」

「うっさい! 分かってるっつぅの」

 一瞬でジト眼に豹変し、早口で呟き返した梨乃さんは、駆流先輩達に向き直り、斯う言った。

「先輩達のライヴ、金曜の7時間目に遣りますから!!」

 俺は唖然とした。其れじゃ何も内密シークレットライヴじゃねぇじゃん!! 俺が渾身の突っ込みをまそうかと思った矢先、梨乃さんは斯う続けた。

「1時間だけって云う限られた時間で、しか調整の手間セッティングも有るんで、5曲のみ、第1アリーナでお願いしたいんですけど。あ、観るのは宮殿部長と言海先輩と、あと此のウルフと真杜とあたし位なんで!」

 成る程、全校生徒を観客にする、と云う事だけ伏せておく算段か。考えてみれば、「ライヴをするよ」と言っておかなければ先輩達も何の準備もし得ない訳で。

 でも其れだと、猶更なおさら1つ、疑問が生じると思うんだが……。

「え、其の時間ってLHRロングホームルームだよね? 一応授業時間でしょ?」

 至極もっともな謎を良夢音先輩が口にした。他の3人も異口同音と云った感じで頷いている。

「其処はほら、まぁあたしが何とかするんで」

 まるっきり回答に為ってないだろ! と俺は思ったのだが、4名の先輩達は一斉に

「あぁ~」

 と間の抜けた声を発し、納得してしまった様だ。此れが、梨乃さんが過去1年間、珍妙な事を散々遣らかしてきた事実がまとう説得力か。最早何でも有りなのだ、梨乃さんと云う存在は県立学科技術高等学校に於いて。

「じゃあ、そんな事で宜しくお願いしますねっ! 期待してるんで! 以前まえみたいな最高のライヴ、見せて下さい!」

 梨乃さんはそう言いつつ部屋を去ろうとした。防音の為、二重に為っている内側の扉を俺等が出ようとした時、駆流先輩の力強い一言が飛んで来た。

「今迄以上の、最高ティップトップ最強インテンセスト最上級スーパーレイティヴライヴ、してやんよ!!」

 梨乃さんは心から嬉しそうに振り向くと、後ろを付いて行く俺越しに大きく、彼等に手を振った。


 其の後、解散と為り、即行で家に帰った俺は、早速古い日本電気NECのPCを起動し、文章を打ち込み始めた。成るべく創作的な描写は抑え、何方どちらかと云うと写実的なタッチで行こう、と決めた。と云うよりは、情感溢れる書き方など俺には出来る訳無い、と分かっていたので、そうする他無かったのだ。

 斯くして、予想通り四苦八苦して著したものの一部が先程の“*”で挟んだ部分だ。結局、学業の間隙かんげきを縫っての作業だった為、梨乃さんへの提出は木曜の早朝と為ってしまった。普段より30分程度早く家を出て、少し新鮮な気分で未だ人気の少ない校舎へ歩を進める。真っ先に向かうのは勿論、別棟東館3階、tRPG部の副部室だ。昨夜の内にCメールで連絡しておいたので、梨乃さんは既に到着していた。

「やっと出来たわね、ウルフ!! 早速見せて貰うわよ!」

 梨乃編集長は腕まくりをして使い古されたノートPCに組み合った。二度手間は避けたかったので、打ち損じタイプミスや文章校正はきっちり確認してきたから其の点は万全な筈だが……。矢張り、自分の書き著した物を人様に披露する、と云う事は真面な人間のする所業ではない、と改めて痛感した。梨乃さんが読み終わる迄の待機ウェイティング時間タイムが永遠の如く感じられる。

 ふと、梨乃さんの頬に一筋、液滴が伝い落ちた。俺は我が眼を疑ったが、まごう事無く、其れは涙だった。

「ウルフ……、良いじゃない。上出来よ! アンタ、凄いわね! 本気マジで才能あるんじゃないの?」

「あ、そ……そうっすかね……?」

 俺がぬか喜びした矢先だ。さり気無く頬を伝う雫を拭いつつ梨乃さんがマウスを操作し、

「でも、此処は削除カットした方が良いよねぇ~……」

『煙草は』から『吹かす』迄をドラッグし、色付けマークした。

「ああ、そうですよね……。教師陣センセーたちの眼に触れるかも知れませんし」

 俺も同意し、当該箇所にバックスペースキーが押下された。

「でも、其れ以外はまぁ完璧と言って良いんじゃない? 初見でも充分伝わると思うし、適度に創作フィクションも入ってて。特に此の最後のトコなんて、ちゃんとオチ付いてるじゃない!」

 俺は今度こそ心の中で某石松氏が由来のポーズを決めた。其の最後の所は、我乍ら物語に僅かな救いを付与出来た、と自負していた箇所だった。

「うん! じゃ、印刷ね! 昨日の内に端似先生と佐峰先生には協力を依頼しといたから! 恐らく放課後迄には大体のページが刷り上ってる筈だから、寄ってたかって製本ね!」

 梨乃さんはそう言ってPCを閉じ、其れを片手に意気揚々と部室を出ていく。此の用意周到さも、梨乃さんの専売特許である。俺は通学鞄を肩に提げ、編集長の背中を追った。


 今考えても、端似教諭と佐峰先生の苦労は計り知れない。非常な重労働だったろうし、況して通常のルーティン仕事ワークを熟しつつの作業だったのだ。何しろ2人は、空き時間を縫って、其の日の放課後迄に全校生徒+α分の1000部を両面印刷で4枚分、印刷室で複写コピー機と格闘して刷り上げて呉れたのだ。事実上、8000枚を刷ったのと同義である。梨乃さんも休み時間毎に印刷室に進捗を確認に行っていて、紙面ページ構成レイアウトにも指示をしていた様だ。因みに其の日、他の教師連中から「印刷室が占拠されている」と苦情が有ったらしい。至極妥当そりゃそうだろう。

 斯くして7時間目終了後、tRPG部の正部室の長机に積み上げられた1000枚の紙束×4個分セットの強大な迫力の前に、俺等は早くも心打ち砕かれそうに為っていた。

「何たじろいでんのよ?! 此の怪物共モンスターズ超絶的スペクタクル打倒サブヴァートしないと帰れないんだからね?! とっとと取っ払うわよ!!」

 有志で集った一同に其処迄ツラく当たりますか。開始前から陰惨に為る面々の中で、唯一気を吐く稀有けうで奇特(此の『奇』は奇怪とか奇天烈キテレツの『奇』だ)な存在が、俺が誘致スカウトした名嘉吉だった。

「はいっ!! 遣りましょうっ! 何から手ぇ付ければ良いんすか!?」

「おぉ!?! ノリ良いわねアンタ!! じゃあもう兎に角ページ順に組んでって! 唯其れだけの簡単な御仕事よ! そんで仕上げに此奴を、折る!! はい一丁上がり!!」

 内職の象徴的な朱色の護謨製ラテックス指サックを指先に装着した梨乃さんは捲し立てつつ早々と1部を組み上げた。てか、何時の間に付けたんすか? 指サックそれ

全員みんなの分有るから! さぁさぁ励んだ励んだ!!」

 首尾良く全ての掌に、何時の間にか仕入れてきた指サックを配布すると、梨乃さんは構わず作業に没頭していった。そんな梨乃さんの脇に、100円均一チェーン店のレジ袋を見付けた俺は、梨乃さんが人数分の指サックを購入する姿を思い描き、其の健気さ、甲斐甲斐しさに、ほんの少しだけ頬を緩ませた。

 嚮導者リーダーが勝手におっ始めてしまったので、後ろの者は其れに倣うしか無く、俺等は戸惑い乍らも製本作業を始めた。然し、慣れない手付きでおっかなびっくり遣る俺等の作業は捗らず、また骨法コツを掴むのにも少々時間が掛かりそうだった。

「全く、しょうがないなぁ」

「私達も手伝うから」

 事の成り行きを後方から見守っていた端似教諭と佐峰先生が、自前の物なのか俺等に配布された其れとは異なる色遣いカラーリングの指サックを装着し、身を乗り出してきた。ははぁ~ん、さては此の人達、存外乗り気だな?

 斯くして、何故か鼻歌交じりでノリノリの名嘉吉と、教職者の牽引力リーダーシップき出しにした2名の教師を筆頭に、選ばれし精鋭メンバー全員で放課後内職タイムへと突入していった。


 十数名が寄って集って取り組んだので、作業は案外早く終了した。とは云え、此れがあと数名少なかったら、と想像すると寒気がする程の辛い仕事ではあったが。気付けば下校時刻の間際、空は暗く為りかけていた。其れでも俺等は、何かを遣り遂げた小さな達成感からか、誰一人としてさっさと部屋を後にする者は居らず、皆が思い思いに冊子を眺めていた。俺はそんな周囲の光景を微笑ましく思い、一息吐き乍ら藁半紙で出来た小冊子に眼を落とした。自分の記事以外にどう云った内容が掲載されているのか、未だ知らなかったからだ。一体何時の間に調べたのか、駆流先輩達のバンドの持ち歌一覧とか、公演の記録等の来歴バイオグラフィや、ライヴハウスの店員へのインタビューなど、割と充実していた。其れを眺めている内に、一つ疑問が生まれた。

「で、梨乃さん、此れ、どう遣って配るんですか? 先輩達に知られない様に全校生徒に配布するのって中々難易度高いと思いますけど」

 短期間で驚く程親しく為った、名嘉吉と菊場、陽香の1年女子3人衆と談笑していた梨乃さんの背中がビクッと一度反応し、以降主だった返事は得られなかった。

「……未だ考えてないんすか」

「……う、煩いっ!! あたしだって色々忙しかったんだから!! 取材して記事書いてさぁ! 其れは後回しにしてたの!!」

「そうだそうだ! 少しは労われ!」

 名嘉吉が面白半分で同調の声を上げる。……俺は心底、お前を誘ったのを悔いるぜ、名嘉吉よ。梨乃さんが0.5人増えた様なモンだ。そしてお前自身は果たして労わられる程の仕事を為したのか? 俺のアシスタントとしては、一切の仕事をしてない(抑々与える仕事が無かった)んだが。

 俺は溜め息を吐きつつ、一つの案をじょうに載せる。

「部長、駆流先輩達って、朝練してますよね?」

 唐突に話を振る形に為ってしまったが、宮殿部長はよどみ無く返答した。

「ああ。彼等も明日の発表に向けて昼夜を問わず追い込みを掛けているからね。必然、早朝練習は勿論、昼休みも放課後も、遅く迄自主練習を重ねているよ。多分、今もね」

 俺は、飽く迄も成功の確率は低いが、と充分な前置きをした上で言った。

「第2音楽室の壁掛け時計を少し遅れさせておいて、先輩達が予鈴を聞いて慌ててHRきょうしつに来る迄に、当該学級では配布を終えておくんです。其れ以外の学級では、普通に朝のタイミングで配っておけば、先輩達には知られません。唯……」

「柿手君凄ーい! 良くそんな悪知恵が即興で働くね!」

 未だ喋っていた俺をけなす形で称賛なさったのは、お察しの通り名嘉吉だ。お褒めに預かり光栄ですよ、えぇ。余りに光栄過ぎて握り締めた拳が戦慄わななく程ですがね。

「でも確かに、案外良いかも知れないね」

 依琉さんが助け舟を出して呉れた。

「楽器遣ってる時は手元に携帯無いだろうし、壁に掛かってる時計を最初に見るんじゃない?」

「そうだな。確かに壁掛け時計が有れば、態々携帯を見る事は無いかもな」

 真杜さんも依琉さんに同調した。

「まぁ、賭けてみよっか!!」

 梨乃さんも賛同し、俺の意見は採択された。思えば、こんな感じで博奕バクチに出る事が此の件では多い気がする。俺は言い出しっぺであり乍らも大きな懸念を抱きつつ、早速駆流先輩達の根城アジトである軽音楽部の部室へ意気揚々と歩き出す梨乃さんの後ろを付いて行った。


「良い? あたしが打ち合わせのていで先輩達を入り口付近に呼び出すから、アンタはさり気無く部屋に入ってって、掏摸スリの常習犯の如くサラリと何事も無かったかの様に壁掛け時計を遅らせるの。分かったオーライ?」

 了解すると俺にりゃくだつが有るみたいだし、況して成功したあかつきには手癖有りの嫌疑を掛けられそうなので(要はイジられるのを避けたかったのだ)返す言葉を躊躇ためらったが、如何せん返答しないと事はどうにも動かない。大人が良く使う、了承し兼ねるのだが仕方無く言う、苦々しい「了解です」の言い方で以て俺は回答した。

 梨乃さんが二重扉の廊下側の扉のドアノブに手を掛けた。其の先の、部屋側のドアとの合間の空間は、正直言って少々狭苦しい。全ての方に平等に伝達し得ない事は心苦しいが敢えて云うと、図書室や視聴覚室、コンピュータルーム等に代表される土足禁止の特別教室の出入り口に設置されている下足場とでも云うのか、上履きを脱ぐ為の空間から靴箱を失くして少々狭くした様な、そんな感じの小部屋なのだ。

 だが、だっ室(こんな日本語が在ればぴったりなのだが)とでも云うべき其の空間に進入した俺と梨乃さんは、暫し室内にらんにゅうする事をしなかった。何故なら、第2音楽室内から漏れ聞こえる先輩達のバンドの楽曲に、大袈裟でなく、聴き入っていたからに他ならない。4人の緊密な関係性から繰り出される一体感と疾走感溢れるロックミュージックは、間違い無く俺の心をも共振ロックさせた。一体此れは何と云う曲なのだろうか? 紛う事無く先輩達の独自オリジナル楽曲ワークスではあるだろうが。

 そんな事に思いをふけらせる俺の両頬を、一足先に正気を取り戻した梨乃さんは2つの掌で圧迫ロックする。

「聴き惚れてる場合じゃないっしょ?! 早く行くわよ!!」

 貴女も人の事言えんでしょ、と云う言葉を飲み込み、俺は先陣を切る梨乃さんに続き、完成度の高い音が汪溢おういつする空間へ足を踏み入れた。俺達が入室する事で、此の素晴らしい演奏が止んでしまう事に勿体無さを覚え乍ら。

「おっ邪魔っしまーす!!」

 開口一番、声を張り上げた梨乃さんは、どの楽器の増幅器アンプにも優る声量で、先輩達の演奏を停めた。駆流先輩は軽く眼をき乍ら言う。

「……梨乃ちゃん、其の声量こえ凄ぇな。羨ましいわ、割と本気マジで」

「いやぁ、そんなお世辞止めて下さいよ。そんなにおだててもアメちゃん位しかあげれるモンなんて無いっすよ?」

 上着のポケットを探る振りをしつつ、そう返す梨乃さんの顔は満更でも無さそうに緩んでいる。良夢音先輩もはやし立てた。

「でもさ、リノちゃんの声って良く通るし、綺麗だし、其れでいて其の声量ヴォリュームでしょ? 此の前の朝礼での件で証明されたけどさ、本当ホント音楽で活かせるのに、勿体無いよ!」

「いやいや……」

「やっぱ歌い手変えるか?!」

女声フィメイルヴォーカルのバンドも悪くないな」

「おい! 冗談キツいぜ! ……冗談、だよな?」

 塀巣先輩と儀足先輩の言葉に、駆流先輩が反応する。然し其処にはギクシャクした緊張感は無く、駆流先輩が真顔でそう言い終わった一瞬後、4人の先輩達は揃って破顔した。矢張り、そう簡単には断ち切れない絆が有ったのだ、此の4人には。でなければ、こんな短期間に此れ程迄、気の置けない間柄を取り戻せる筈が無い。

 和気藹々あいあいとした雰囲気に水を差す事はしたくなかったが、油を売っている暇も俺等には、無い。実際問題、下校時刻の時限リミット迄は、チラ見した俺の電波腕時計にれば、もう15分を切っていた。

「梨乃さん、本題に」

「うっさい! 分かってるっつぅの」

 耳打ちした俺に顔を向け、梨乃さんは小声で制する。そんな俺等の模様を見て、良夢音先輩は、

「其れ、此の前も見たよー」

 と茶化した。意図せず俺等は、既視感デジャヴを演じてしまった様だ。何処と無く気恥ずかしく為り、俺は赤面したのだが、梨乃さんは仄かに頬を染めつつも、自らの務めを全うしようと話を切り出した。

「えっと、今日来たのはですね、先輩達に一寸当日の、ってか明日ですね、の事で相談が有りまして」

「ああ。どう云う?」

「済いません、一寸此方に集まって貰って……」

 梨乃さんは手早く先輩達を入口の方へ纏め上げると、俺に分かり易く目配せウィンクしてきた。そんな事したら勘付かれちゃいますって。

 俺は素早く部屋を見渡した。そして、白い防音壁の床面から2.5m位の位置に1つ、壁掛け時計が据えられているのを発見した。手近にあった机にじ登り、手を伸ばすと、時計には容易に手が届いた。少々まごついたかも知れないが、割とすんなり外す事も出来た。此処で俺は懸念材料に気付くが、取り敢えずは構わず裏面のつまみを手動調節モードにして釦を長押し、およそ5分だけ遅らせて自動モードに戻した。国産メーカーの直径30センチ程の現代的モダン簡素シンプルな時計を元通り、壁に刺さった洋灯吊金具フックねじに引っ掛けると、何食わぬ顔をして机から降り、梨乃さんを見た。梨乃さんは未だ先輩達と打ち合わせをしているらしく、真剣な表情で話している。

 正に一石二鳥じゃないか、俺は思った。内密ライヴと云う性質上、また本番迄の期間が無い事もあり、碌に(と云うか一度も)先輩達との会合の場を俺等は持てていなかったのだ。言わずもがな、舞台いたの上に立つ出演者えんじゃとのり合わせすら出来ていない様な催事イヴェントが上手く行く訳は無い。最低限、此れだけは、と云う要点はせめて伝えておかなければ。今回の作戦がしくも其の丁度良い頃合いタイミングに為ったのであれば、其れは一石二鳥に他ならない。……肝心の作戦の方は、成功の確率が著しく低いのが難点だが。

 俺は暫しの待ちの間、先輩達の相棒である楽器ギア達を眺めた。現役で演奏者バンドマンに愛用され、つい先程迄鳴いていた楽器をしげしげと観察出来る機会と云うのは、人生通してもそう無いだろう。

「其れ、安物やすモンだけどな」

 スタンドに立て掛けられたレスポールタイプのギターを眺める俺に、駆流先輩はさり気無く声を掛けてきた。

「最初に買った奴なんだよ、其れ。通販で2万しない位でさ。今はもう一寸良い奴も持ってるけど、曲作りとか慣らしの時は其れが具合良いんだよなぁ」

 成る程、矢張り楽器と云うのは感性と云うか、値段や品質、銘柄ブランドに左右されない面が有るのだ。仮令たとえ安物でも、気に入っていたり思い入れが有ったりするなら其れが自分に取っての最良ベストに為るだろうし、高価な品でも個体差等に因っては安価な品より満足が得られなかったりもするのだろう。其れは此の世に在る全ての物品に共通して云える事だ。

「んじゃ、そう云う事で! ほらウルフ、用が済んだらとっとと撤退すんのよ! 邪魔してる身なんだから!」

 俺をたしなめる形で、梨乃さんは退室の体裁を整えた。勿論、俺は不服だったが、無駄な事はしないに限るので、渋々従った。

「其れじゃ、先輩方、明日の『マグナム・オーパス』、期待してますからね!!」

 梨乃さんはそう言い残して、俺を引き連れ第2音楽室を後にした。故に其の直後、

「リノちゃん、最後に何か言ってたよね?」

「ああ、何だったんだ? 『マグナム何ちゃら』って」

「……成る程、中々粋な文句フレーズだな」

「トラ、さっきの分かったのか? どう云う意味だったんだ?」

「あぁ、『マグナム』ってのは『大きデカい酒瓶』って意味なんだけど、『オーパス』って云うのは『音楽作品』って意味なんだよ。で、『マグナム・オーパス』って繋げると、『芸術や文学の最高傑作・代表作』って云う意味に為るんだよ。詰まり、彼女は『明日のライヴを俺達の史上最高にしろ』って言ったんだ」

「な……成る程……。知らなかった……」

「五輪って、意外と賢いんだよな」

「ハハッ。そう迄言われちゃ、魅せて遣んねぇとな。一丁遣ったろうぜ、オイ!!」

「「「ッシャー!!」」」

「……と言いつつも、もう学校閉まる時間だな。一寸俺の家集まろうぜ。最後の煮詰め、遣りたいんだよ」

「「「当然!!」」」

 ……なんて会話が先輩達の間で交わされていた事など、俺は微塵も知らなかった。


 俺はtRPG部室へ意気揚々と戻る梨乃さんの背中に声を掛ける。俺が先程の作戦中に気付いた懸念材料に就いてだ。

「梨乃さん、あの時計、電波時計だったんで、ひょっとしたら夜の内に補正が掛かっちゃうかも知れないです。まぁそもそも、先輩達が壁掛け時計を基準としているかどうかも疑わしくはありますけど」

「大丈夫じゃないの? アンタ、各教室の時計、ちゃんと見た事有る?」

 俺は首を横に振る。

「全部おんなじメーカーの同機種おんなじヤツだけど、結構個々はバラついてるモンよ? 手動の調節が出来るんなら、人間様の恣意しい的な操作を優先させるんじゃないの? 確証ウラ取ってないけどさ」

「はぁ、そんなモンですかねぇ……。でも、先輩達があの時計を見て朝練を打ち止めるかも分からないっすよ? 駆流先輩なんて形見の腕時計してる位ですし、朝練の時も腕時計外してないかも」

「だから、言ったでしょ?! 賭けるしかないのよっ!! 其れしか無いんなら博奕バクチでも何でも打ってみなきゃ始まんないじゃない! 愚策だとしても策が有るのに実行しないのは、たい! 怠慢たいまん!! なまおこたりムロ心よ!!!」

「……え? 最後の『むろごころ』って何すか?」

「『むろ』はカタ仮名カナ、『ごころ』は漢字にして、上下に圧縮してみなさい!!」

「え? えーと……あっ! 『怠』ムロゴコロって事ですか?」

「そう! もう一寸早い段階で分かりなさいよ!! ……って違う! 何の話だっけ?!」

「あぁ、『愚策だとしても遣らないと』って奴ですか?」

「そう! 其れっ! アンタだって、そうは思うでしょっ?!」

「まぁ、そうですね……。でも、流石にアレはどうかと思いますけど……」

「アレ?」

 梨乃さんは歩みを進めつつ此方を向いて首を傾げた。

「その……、言わずもがなですけど、ライヴに関して全校生徒に口止めが必要ですよね。其の口止めの手段があの注意書きだけ、ってのは……」

 俺等が夜なべして……否、其れは言い過ぎだ。粉飾しもりすぎました、元い。

 俺等が苦戦しつつも完成させた膨大な部数の小冊子。其の裏表紙の下段には、大きく1つのこめじるしが打たれ、其の右側には斯う云った文章が印字されていた。

<本人達には、今回のライヴが全校生徒の前で披露する公開ライヴである事を告知していません。サプライズ感を与えたいので、全校生徒の皆さん、並びに教員・関係者の皆様、ここは一つ、本人達には内緒で、絶対秘密でお願いします!! プロジェクトリーダー・五輪梨乃より>

「此れで果たして、とく性が保たれますかねぇ……?」

 梨乃さんはあからさまにムッとした顔で、

「じゃあ、他に良い手段やりかた、有る? 有るんなら教えてよ」

 俺に鋭いきっさきを突き付けた。遣る方無く、押し黙る。梨乃さんはぜんとした眼で正面を見据え、言霊を込めて、言う。

「此れでも、あたしなりに考え抜いた最善策なの。後は信じるしかないわ」

 其処で梨乃さんは一転して俺に対しにっこりとした笑みを向け、

「信じる者は救われる! ……って、良く言うじゃない? あと、願えば叶う、とかさ!!」

 そう言い切った。俺は言い様の無い後ろめたさの様なものを感じて、梨乃さんから眼を逸らした。

 ……羨ましい。無邪気な迄に、心底そう言い切れる梨乃さんが、俺は本当に羨ましかった。

 他人だれかを信じる事、物事なにかを願う事。そう云った事をしなくなるのが即ち成長なのだ、大人に為ると云う事なのだ、と俺は思い込んでいた。勿論、そんな事は意識的に考え続ける様な事ではなく、何と無く漠然と脳裏に浮かぶ程度の事ではあるが、然し実際に俺は年々、日増しに、物事や人物を信じ抜く事、其れ等に願いを込める事を、しなくなっていた。出来なくなっていた。

 此の自覚が有るからこそ、俺は梨乃さんの底抜けに輝く笑顔から眼を逸らしたくなったのだ。

「大丈夫よ! 案外此の世界よのなか、捨てたモンじゃないのよ?」

 俺は残酷な迄に眩し過ぎる台詞に返す言葉を見出せず、黙りこくった。



 遂に此の日が遣って来た。何だか、思い返すと意外と長かった様な、そうでも無かった様な……と云う感じで判然としない。俺の経験から体得した真実として、“時間は現在進行形では短く、過去形では永くなる”と云う金言が有るが、まぁどうでも良い。回顧主義にふける暇は、もう何処にだって無いのだ。

 2007年4月20日、午前7時45分。今から数時間後、OFPOSオフポスなる珍奇な名称を持つプロジェクトが幕を閉じる。……完全なる余談だが、OFPオーエフピーじゃ駄目だったんだろうか?

 此の一週間、俺や梨乃さんが(勿論真杜さん達も)全力を尽くし、濃密で凝縮された活動をしてきた。事前の段取りは上々と言って良いだろう。7時間目の終了時、首尾良く終える事が出来るのか、其れはひとえに今日の俺等の働きにかっている。先ずは朝のSHR迄に小冊子を全校生徒に遍く配布する事。そして、昼休みを使ってアリーナへの機材搬入と各機器の調整。此れには駆流先輩達にも参加して貰う。何しろ演奏する本人達が居ない事には為し得ない作業だからだ。因みに昨日、梨乃さんが行った打ち合わせも、此の件に就いてだったらしい。そして本番、7時間目。更に放課後の機材の撤収。此れが大まかな俺等の本日の仕事メニューである。

「OK?! 皆集まったね!!」

 昨日製本した小冊子が折り畳み机の上にうずたかく積み上げられたtRPG部室に、俺と真杜さん、宮殿部長と言海先輩、正規派部員の斎源律先輩と舞音先輩、奈子先輩を筆頭とした茶華道部の数名、陽香と名嘉吉と菊場の1年女子3人衆、そして取り纏め役プロジェクトリーダーである梨乃さんが結集し、改めて気合い入れをする運びと為った。

愈々いよいよです! 到頭とうとうです! 遂に、です! 今日がほんチャン、決戦の日です! 結着が大団円と為るかは、今日次第です! 会場の準備・支度セッティングとか、機材の運び出しとか、まぁ当日に為って遣る事が何やかんや有りますけど、小冊子パンフ創って、あれ此れ動いて遣って来ました! 此処迄来たら絶っ対に成功させたいんで、皆、今日も宜しく、お願いしまっす!!」

 円陣を組む、と梨乃さんが言い出した時は中々気恥ずかしいものが有ったが、いざ組んでみると、此れ程一体感を高める行為は他に無いかも知れない、と思った。

 梨乃さんが敬語で宣言する、と云う事は、即ち相当に本気だ、と云う事である。梨乃さんのコアで燃え上がる赤熱の炎が其の身から放たれ、俺等メンバー全員を包み込んでいる様な、そんな気さえした。連帯感が強固に為り、宛らマイクロエマルションの如く渾然一体、一丸と為って、今日のプロジェクトに取り組む。そんな魔法の様なものに俺等全員が掛かった様な、不思議な結束だった。


 小冊子の配布は、俺と1年女子3人衆が1年生の各学級を、梨乃さんと真杜さん、そして奈子先輩と依琉さんを筆頭とする数名の茶華道部員が2年の各学級を、宮殿部長と言海先輩、正規派部員である斎源律先輩と舞音先輩が3年の各学級を担当し、普通科1組から順に配布してゆく横断ローラー作戦がられる。普通科1組から、と云う取り決めは特に為されていない。然し、普通科1組は各HRが集結する5階建ての教室棟の各階の西端に位置し、何と無く“普通科1組が学年の先頭だ”と云う様な校内の雰囲気が有るので、暗黙の了解的にそう云う事に落ち着いた。まぁ、思い返してみれば入学式での生徒の呼名も普通科1組からだった。種々の行事の度に矢面に立たされ、知らぬ間に最前線フロントラインを歩かされる其の姿が、潜在的に全校生徒の脳内に刷り込まれているのだろう。……なんて事は、後々梨乃さんが俺と交わす無意味な駄弁ダベりの中で口走った内容を借用したもので、純粋な俺の意見ではない。但し梨乃さんは其の時、「最前線シャープエンド」と殊更にイカした表現していたが。

「ほら、柿手君早く!」

「いやいや、名嘉吉そっちが先行けよ。何時もの威勢の良さは何処行ったんだよ?」

「えぇー、だって斯う云う時は普通、男子が先頭に立ってさぁ……」

「んな事言うなら、普通は女性レディー優先ファーストだろうが」

「え、えぇ~……」

 人見知りのが強い、と自覚する俺としては、同学年とは云え見知らぬ学級に先陣切って進入するのは御免こうむりたかった。其処で俺が頼ろうとしたのが、俺に対しグイグイ来る名嘉吉だった訳だが、どうやら此奴も人前は苦手の様で、数秒の遣り取りの内に泥仕合の様相を呈してきた。

「……もう!! 見てらんない!!」

 唐突に陽香が、菊場の腕の中に在った小冊子の束を引っ掴み、1G11年普通科1組の引き戸を全開に開け、「失礼します!!」と宣告し室内にずいずいと進んでゆく。俺なんかは特に、陽香の其の背中に豪胆さすら感じてしまったのだが、同じく呆然と立った儘の名嘉吉と俺が動作を取り戻すより先に、菊場が進撃する陽香の後を追っていった。俺等も数瞬置いて其れに倣う。

 1G1教室内は突然の朝の来訪者に、明らかに警戒感を表した。生徒間から談笑が消え去り、室内前方、教壇の方に耳目が集中する。俺は此れが嫌なのだ。自分と云う存在が注目される事、此れ程居心地の悪い事は無い。況してや此処は俺等機械科とは一切縁の無い普通科の教室――言ってしまえば領域エリア外の世界、昔乍らの付き合いが続く町内会に突如越して来た異端者、余所よそ者なのだ。

 然し陽香は物ともせず、堂々と話し出す。

「行き成り済みません。3年の尾井先輩が組んでるバンドのライヴが今日の7時間目にアリーナの方で有ります。是非、見に来て下さい!」

 言い終わると陽香は1列目の座席の生徒に列の人数分の小冊子を手渡していく。

「あ、でも、此の話、本人達には秘密にしてて下さいね? シークレットライヴって云う形式で遣るんで、もし顔見知りの人が居たら、其れだけ協力、お願いしまーす!」

 にこやかな笑顔と共に、手早く冊子を捌いていく。俺は其の凛とした姿を唯、隅の方で傍観するだけしか出来なかった。

 正味1分程度で配布と告知を完了させた陽香は、事が済んだら俺等を置き去りにしてスパッと退室していった。俺等は揃って、

「宜しくお願いしまーす」

 と、無意味にペコペコし乍ら覇気無く言いつつ、陽香の後を追って教室から脱出した。

 最後に教室を出た菊場が戸を閉めると、俺と名嘉吉は息を吐いた。何と云うか、陽香様々である。俺が情け無くも謝辞を述べようと陽香の表情を窺うと、彼女は相当赤面していた。

「よ……陽香、立派だったよ。俺が言うのもなんだけど」

 俺が無けなしの語彙ごいを振り絞って謝意を表すと、陽香は赤面した儘俺にジト眼を呉れ、

「得附が悪いんじゃん」

 と言った。俺が弁明しようと口を開くと同時に、

「早くしないとパンフ配れないじゃん。急がないと。私達に無駄に出来る時間なんて無いんだから! ……って、梨乃さんの受け売りだけど。兎に角、怖じ気付いてる場合じゃないの! ……得附は知ってるでしょ? 私だって人前に出るのは苦手なんだから」

 そう云う陽香の眼は気の所為か、潤んでいる。確かに、陽香は決して注目を浴びるのが得意ではない。隣近所で暮らし、小中と同じだった俺が其れを知らない筈は無く、其の意味で俺は、名嘉吉と菊場以上に驚きを感じている筈だ。陽香は頑張ったのだ。梨乃さんに感化されたからとは云え、自らの殻を打ち破り、見事に役目を果たした。其れに引き換え、俺はどうだ? さっき感じた結束感、使命感は嘘だったのか? 俺等に与えられし職務をまるで週2回の塵芥ゴミ出しの如く押し付け合い、貨幣にもする時間と云う貴重なものを浪費した。全く、とんだ阿呆だ、俺は。

「……そうだな。御免、悪かった」

 俺はそう言うと何の気無しに陽香の頭を右手で撫でた。陽香ははにかみ乍らも少し嬉しそうだった。

「じゃあ、今度はウチが配るよ!」

 陽香の勇敢な行為ブレイヴァリーに名嘉吉は俄然遣る気出ハッスルした様だ。菊場も珍しく眉尻を上げて頷いている。

 数分後、陽香の功績に因って、俺等の小冊子配布作戦は無事終了した。仕事を終え、俺がHRの自席に就くと、多々納に

「おい、なに女の子はべらせてんだよ~?」

 などと茶化された事や、学級内に2人しか居ない女子生徒と一緒に居る機会が此の一件を機に増加する俺の、級内での日常に暗雲が垂れ込めるのは――また別の話。


 其の日の授業は、正直言って身が入らなかった。幸い、金曜は俺が得意とする文系の授業ばかりで、一瞬でも気を抜くとテストでヤバい事に為りそうな数学Ⅰ・A等は無く、其の意味でも存分に身を入れない状態で居られた、と云う側面も有るのだが。

 4時間目の授業時間終了の鐘が鳴ると同時に、俺と名嘉吉と菊場は立ち上がり、他の生徒達が弁当を机上に広げている頃には、別棟東館3階の第2音楽室に集合していた。

さて、改めて言うけど」

 梨乃さんは集まったメンバー一同を見回して、再度の説明をした。

「今から、機材の搬出と、アリーナのセッティングを並行して行っていきます! 先ず、男手は重い機材をジャンジャン運び出す事! で、ナコっち達はアリーナのセッティングの手伝いをしててね! 放送部連中にも協力して貰うから、奴等と上手く遣って! で、残りの女子達は機材搬出の手伝い! 女の細腕でも持てるモンは一杯有るから、ガンガン動いてく事! 先輩達は必要な機材の指示と、アリーナでの音作りをお願いします! アリーナには『ライヴハウスZingジン‐陣‐』の店長の呂久田井ろくだいさんとスタッフの生出冨うでぷさんにお越し頂いてるんで、機材関係の調整は万全の態勢を敷いてます! なるべく早く終わらせて、昼食ランチ時間タイムもちゃんと確保したいと思ってるんで、目標完結時刻は20分後の12時35分! じゃ、皆で力合わせて、完璧な仕事マスターワークしましょう!!」

「ちょ、一寸待った!!」

 俺等が離散し、各々の作業に取り掛かろうとした所で、協力者であり、当事者であり乍ら或る意味蚊帳かやの外でもある駆流先輩が声を上げた。塀巣先輩、良夢音先輩、儀足先輩も同様に、怪訝けげんそうな表情をしている。

「何か凄い大掛かりな事に為ってないか? 語弊が有るかも知れないが、たかが梨乃ちゃんとかキューデンとかの何人かの前で遣るだけだろ? なのに『Zing』の店長ロクダイさん迄来て、調整セッティング手伝って呉れんのか? 一寸大袈裟過ぎるだろ?」

 1000人規模の、然も学校の体育館の様な造りの会場でのライヴは、パブリックアドレス装置システムの効果的な運用が切っては切り離せない。斯う云った事に疎い俺は、そんな事など露知らず、「楽器とアンプと全校集会の時の壇上のマイクが有れば大丈夫じゃね?」位に考えていたのだが、実に浅はかだった。数日前、宮殿部長の「放送部員に協力して貰わないとまずいのでは」と云う指摘が有る迄は、梨乃さんも其の重要性に思い至っていなかった様で、極秘にしておきたい……が装置の操作方法すら分からない俺等では手に余る、と云う現実的な問題の狭間で揺れた結果、放送部の中でも信頼出来る数名に協力を要請し、音楽的環境面の問題を打破する事を決定した。更に、梨乃さんが執筆した小冊子用の原稿の取材で知り合ったと云う、駆流先輩達が良く出演していたライヴハウスを経営する店長が、梨乃さんの取材を耳にして、半ば引退状態だった駆流先輩の音が聴けるなら何でも手を貸す、と直訴して下さった為、放送部員達と合同で音作りを行って貰える算段と為った。

 そんな経緯を俺は知っていたので何も驚かなかったが、図らずも伝えていなかった駆流先輩達は、突然浮上した馴染みの店長の名に違和感と驚愕を覚えたのだろう。

「実は、店長さんと少しお話する機会が有って、其の時に今日の話をしたんです。そしたら『学校の授業中だって関係無いから、是非見たい!』っておっしゃって呉れて、其れで音作りの協力もして貰える様に為ったんです」

 途中の部分は真偽疑わしいが、梨乃さんは出来得る限り違和感の無い様に説明した。其の説明に駆流先輩達はそこそこ納得した様で、

「ロクダイさんが手伝って、作って呉れる舞台ステージで遣れるんだ。猶更失敗出来ねぇぞ、今日は。最高に良いモンにして遣ろうぜ、オイ!!」

 とバンドメンバーにげきを飛ばした駆流先輩は、梨乃さんを始めとしたメンバー全員に

「今日は、宜しく頼む」

 と言うと、続いて、

「じゃあ男共、一寸室内なかに来て呉れ。此奴等を運んで貰いたいんだけど……」

 と声を掛けつつ第2音楽室内に消えて行った。

 俺は梨乃さんに其れと無く近寄り、

「本当にバレてないんですね、未だ。先輩達に内密ライヴの事」

 と耳打ちした。梨乃さんは得意そうな表情で言う。

「当然でしょ? 宮殿部長にもさっき確認取ったし。上手く行ったみたいよ、アンタの悪知恵。良く遣ったわ、目論見通りよ。本鈴チャイム寸前ギリギリ、きっちりパンフ配り終えてからHRきょうしつに来たみたいよ」

「何か『悪知恵』とか、語弊がハン無いんですけど……。でも、此れからバレちゃうかも」

「大丈夫!! なんたってプロジェクトリーダーであるあたし直々の『お願い』が込められてんだから、上手く行かない筈が無いわ!」

 俺のゆうを遮った梨乃さんは、前方を見据えた儘、小声で断言した。

「さ、作業に取っ掛かるわよ!」

 俺の背に掌底を喰らわせつつ、梨乃さんは発破を掛けた。俺は部屋の中へ進んでいく梨乃さんの後ろ姿を眺め乍ら、背中に残る掌の感触あとが熱を帯びてゆくのを感じ取っていた。


 俺等は早速機材搬出作業に取り掛かった。流れ上、俺と良夢音先輩がドラムセットを一緒に運ぶ事に為った。パールのバスドラムの片側を抱え乍ら、慎重に階段を下りてゆく。扱う物が扱う物なので、雑な運搬は出来ない。例えば此れが古紙回収に持っていく古新聞の束だとしたら、此処迄気を遣わないし、億劫おっくうに為ったら放り投げつつ運んでも良いだろうが、そうはいかない。此れは、下手したら機材の移動だけで20分程度は経過してしまうのではなかろうか? 俺は、また飯抜きかよ、と脳内で愚痴りつつ、眼前に在るメイプルシェルを眺めた。

 相当、年季が入っている。が、念入りに手入れがされている様で、草臥くたびれた感は無い。

「随分ボロいからねぇー、此のは」

 俺の思考を読んだかの様に、階段の2段上から良夢音先輩の声が降って来た。

「良夢音先輩の所有物モノなんですか?」

 俺は問う。良夢音先輩は首を横に振りつつ答えた。

「うぅん。此のコはねぇ、軽音部に代々き使われてる可哀想な備品ちゃん。アタシだって本当ホントは自分のセット欲しいよ? でもさ、ドラムセットって値が張るし、かさるし、こんな感じで移動が辛いし、中々買えないんだよねぇー」

「な……成る程」

 言われてみれば其の通りである。矢張り理想は自分専用のドラムセットを購入し、練習ブカツでも本番ライヴでも常に其れを叩く事だろうが、そう云った種々の現実的リアルな理由で難しいのだろう。

「あ、でもね! 頑張ってお金貯めて、スネアとクラッシュはアタシが買ったのを組み込んであるんだ! 後はペダルと勿論スティックね! まぁ、其れだけでも結構するのよねぇー」

「はぁ……」

 ドラムを、否、音楽自体を其れ程知らない俺は、スネアとかクラッシュとか言われても其の意味すら把握出来なかった。何とも曖昧な相槌あいづちを打つ事しか出来ず、アリーナ棟に到着した事も有って、良夢音先輩との会話は其処で打ち止めと為った。

 アリーナ内では、既にPAの調整が開始されており、マイクテストが行われていた。

「あ!! 呂久田井さん、おはよー御座いまっす!!」

「おぉ! 嬢ちゃん、お早う!」

 良夢音先輩きもりのスネアドラムを抱えた梨乃さんが、アリーナに入るなり業界流の挨拶を飛ばした。梨乃さんに乗っかり、粋な返答をした呂久田井店長は、中肉中背の中年男性だが、前髪を上げる為に額の辺りに巻いたバンダナが、何と無くロックンロール魂を感じさせる方だった。首からは勿論、入校許可証を提げている。

店長シャチョー、おざっす!!」

「お早う御座います」

「宜しくです!」

「あぁ! ロク、トラ、ラムちゃん、お早う! 漸く再始動か、えぇ?! 待ってたぜ、ホント!」

 3人の先輩方は親しげに会話を交わした。飽く迄も一見した印象だが、面倒見の良さそうな明るい小父おじさん、と云った人物だろうか。其処に、自らのギターを2本、携えた駆流先輩が遣って来た。

「ロクダイさん、おぁざっす」

「おっ! カケル、来たなぁ~おい! 待ち草臥れたぜ、なぁ」

「えぇ……。今日は何か済いません。梨乃ちゃんが我が儘言ったみたいで、態々ロクダイさんの手を煩わせてしまって……」

「いやいや、そうじゃねぇんだ。俺は唯、お前等が復活するって聞いたら居ても立っても居られなくなってな。俺から声掛けたんだよ、『何か手伝えるこたぇか?』ってな」

「ほ、本当ですか……?」

「ああ! 俺は飽く迄も一ファンとして、お前等のステージが見られるんなら手伝いたいと思ったから、此処へ来たんだ。俺は買ってんだよ、お前等の事。其の位には、な」

 此の時、俺の眼には、駆流先輩の瞳が熱い分泌液で潤んだ様に見えた。他の先輩方も同様に。然し、次の瞬間の駆流先輩の眼は、情熱と気概で燃えたぎっていた。

「有り難う御座います! 全身全霊、全力で遣るんで、お願いします!!」

 駆流先輩はバッと辞儀をした。他の3人も追従する。呂久田井店長はニカッと笑うと、

「よーし、其れでこそカケルだ、其れでこそお前等だ!! 最っ高の条件用意して遣る!! とっとと調整セッティング取っ掛かるぞ!! 先ずは楽器準備スタンバイしろ!!」

 とえて、場に発破を掛けると同時に緊張感を付与した。


 音作りサウンドチェックが始まる頃には、出入り口付近やアリーナ棟2階の狭隘な通路キャットウォーク野次馬ギャラリーがちらほら見受けられた。俺等がブレーメンの音楽隊宜しく楽器を手に校内を移動した事も、間違い無く客引き効果を生んでいるだろう。だが此の程度の人集ひとだかりなら、先輩達に何ら怪しがられる事も無い。寧ろ宣伝が上々である証左だ。

 ステージ上に整然と並んだ機材、楽器、そしてバンドメンバー。床面フロアから壇上を見上げると、なかなか精悍せいかんなバンドに見える。否、駆流先輩達の実力は其の見た目イメージを裏切る事など無い筈だ。

「じゃあ、『可能性のケモノ』を軽く……」

 マイクを通じて、駆流先輩が宣言し、良夢音先輩がスティックを打ち鳴らし合図カウントる。

 次の瞬間、疾走感と一体感に溢れたバンドの代表曲がアリーナに響き渡った。前奏が終わり、ヴォーカルが入る。軽く、とは言ったものの、まるで本番さながらの完成度だ。全員の演奏からは手抜きの感は感じられず、駆流先輩も声を張り上げている様に思える。後から知った話だが、上級者は練習リハーサル時に全力で歌い、本番時には8割方を目安に歌うのだと云う。其の方が己の限界を掴んだ上で本番に臨め、且つ余分な力みを除去出来る、らしい。駆流先輩の熱唱シャウトも、恐らくはそう云う意図のものだったのだろう。

「どう? 凄いっしょ? 先輩達」

 横に居た梨乃さんが右肘で俺の腕をつつく。

「ええ。此れは……凄いですね。迫力も……。オレ、職業プロ音楽家ミュージシャンのライヴって実際にナマで観た事無いんすけど、こんな感じなのかなぁ、って」

「でしょでしょ? 先輩あのヒト達は、本気マジ音楽活動あれでご飯食べてけると思うもん、あたし」

 そんな会話を交わし乍らも、俺の眼はせわしなく周辺を探っていた。俺の耳は、バンドの楽曲だけでなく、其れを構成する楽器の一つ一つの音量が細かく調整されている事に気付いていたからだ。其の現場、と云うか状況を覗いてみたくて、俺はきょろきょろしていたのだ。流石に梨乃さんも訝しげな視線を向けてきた。

「……何? 落ち着きが無いわねぇ」

「いや……音の調整とかって何処で遣ってるんですかね?」

「あぁ、其れなら彼処あそこでしょ? ほら、舞台ステージの横の、調整コントロールブース。彼処で生出冨さんと放送部員の2人が細かい操作してんのよ……。一応言っとくけど、今は邪魔しちゃ駄目よ? プロの仕事が為されてるんだから」

 梨乃さんが指差した先には、舞台の上手側に設置された小部屋が在った。今、其の扉は開かれていて、呂久田井店長がしきりにフロアと調整室を行き来している。俺は深い考えも無く、調整室の様子が見える所へ歩いて行った。

「ちょ、ウルフっ、駄目だってば!」

 声量は小さめに、梨乃さんが制止しつつ俺の後に続いて来た。

「いや、別に様子を眺めるだけですって」

 俺は振り返りつつ言う。

「あ、ウルフ、前っ!」

「え?」

 俺は何かにぶつかった。慌てて前方に視線を戻すと、先程の陽気さが全く失せ、いくさで仕事をする男の、険しい眼があった。俺は呂久田井店長に即座に謝罪した。

「あ……す、済みません! 御邪魔してしまって!」

 梨乃さんが「言わんこっちゃない」と後ろで溜め息を吐く様子が手に取る様に感じられた。だが呂久田井店長は厳しい表情を崩すと、

「いや、俺も夢中に為ってたからな、おあいだな」

 と言って笑い飛ばした。俺は取り敢えず胸を撫で下ろし、折角だ、とばかりに質問した。

「あの、店長さんは斯う云う体育館みたいな所の音響調整って遣った事有るんですか?」

「いやぁ、実は其れ程無いんだよ。だから俺も調整室あそこの中の機械は良く分からんよ。路樹ろきがそう云うのは精通してるから操作は任せて、俺は音を確認チェックして、な」

 話の流れから「ロキ」と云うのが調整室内で放送部員達と機器の操作に当たっている生出冨と云う人物の名前なのだ、と理解した。開け放たれた扉から覗ける室内では、青年と生徒2名が何やら操作盤に向き合っているのが見て取れる。機器操作を仕事としている生出冨さんの指導を、放送部員達が受けている、と云う様な構図だった。まぁ、放送部員達に取っては貴重な体験、良い勉強に為っただろうから、今後の催事では彼等の良いウェル仕事ジョブに期待しておこう。

「……もう少しミッドが強い方が良いか?」

 気付けば呂久田井店長は腕組みをして、険しい眼付きに戻っていた。腕を組んだ儘、調整室へと向かっていく。二言三言交わしたかと思うと、呂久田井店長は直ぐに引き返してきた。助言を受けた生出冨さんが放送部員達に何か話し乍ら、眼の前に無数に並ぶつまみの1つをくい、と僅かに回した(様に俺は見えた。俺の立ち位置からは些か距離が有るので、細かな手許迄は視認出来ないのだ)。すると確かに、スピーカーから届く音の臨場感が上がった気がする。口で説明する事は叶わないが、撮みを操作する前と後とでは、間違い無く後の方が“良い音”な気がする。俺は隣に戻って来た、バンダナを巻いた小父さんを、改めて尊敬した。職人技とも呼べる仕事を眼にすると、否応無く感心してしまうものだ。

 紛う事無く、彼等はプロだ。其れで稼いでいるのだ。飯を喰い、生計を立てているのだ。

「ん? どうした?」

 俺がけいの念を込めた目線を送っていると、呂久田井店長は其の熱視線に勘付いたらしく、俺に声を掛けた。

「あ、いや……あ! あの、此処の機械って、良い奴なんですか?」

 我乍ら、尋ね方に大人おとなが無い。まぁ、人間が咄嗟に出来る事なんか限られている。仕方無しょんない事だ。

「うーん、俺は良く分からんが……、割と充実してるんじゃないか? 少なくとも、朝礼なんかで校長とかのオヤジの声を垂れ流すだけじゃあ勿体無いわな。マイクもウチから持って来た結構上等な無線ワイヤレスの奴が使えるし。あ、そう云えば」

 呂久田井店長は其処で首を傾げた。

「何でカケルはワイヤレスじゃなきゃ駄目だ、なんて言ったんだろうなぁ。俺が偶々持って来てたから良かったものの。彼奴、普段は機材に注文なんか付けずに、有りモンで賄う奴なんだがなぁ」

 確かに其の話を聞いて、俺も疑問を感じた。が、バンドの演奏が終了し、音作りが完了した事も有り、其の引っ掛かりは俺の脳内で爾後じご、霧散してしまった。


 6時間目の授業が終了すると同時に、俺は教室を飛び出した。数瞬置いて、名嘉吉と菊場も俺の後を追う様にして廊下に駆け出してきた。遂に今からが本番ショウタイム、全生徒を動員するシークレットライヴの開幕だ。俺達は全校生徒ギャラリーより先回りして会場アリーナ入りし、最終的な段取りの確認をする手筈に為っている。駆流先輩達は俺等とほぼ同時にアリーナへ向かい始め、全校生徒は10分休憩やすみじかんの後、5分程度置いてアリーナへ移動をする予定スケジュールだ。此の辺りの根回しは全て梨乃さんが事前に済ませて呉れていた。

 1M11年機械科1組の教室は教室棟の5階に在る。2ヵ所設けられた内、西側の方を駆け降り、2フロア分下って階段を後にする。3年生の領地シマである3階に少しだけ足を踏み入れ、直ぐに折り返す。短い廊下の突き当たり、閉ざされた硝子ガラス戸の先は、アリーナ棟へと続く渡り廊下に為っている。床面は簀子すのこの如く腐食対策を施された木材が張られていて、頭上には簡便な雨除け的な屋根が備えてはあるが、側面は吹き曝しガラあきなので、雨脚が強い時は通行が禁止される、若干残念な渡り廊下である。今日は天候に恵まれているので遠慮せずに駆け抜ける。因みに、今俺が踏み締める此の床面は、丁度職員室の真上に位置しており、即ち此の渡り廊下は管理棟の屋上部分を活用している事に為る。行き着く所はアリーナ棟の3階。と云っても、3階はエレベータの乗降口と化しており、非常時や身障者しか使用出来ないエレベータは使わず、其の脇から走っている階段を降りていく。2階には第2アリーナが有るが、此処には用は無いので素通りして、其の儘1階迄駆け降りる。幾つか置かれたアリーナ用の下駄箱に履いていた靴を突っ込み、手に持っていたナイロン製の袋の中から体育館シューズを取り出し、履き替える。爪先をトントン遣り乍ら目線を上げると、其の先にかく場と第1アリーナそれぞれの入り口が在るが、迷わず広大な第1アリーナの内部へと歩を進める。

「遅いわよ!!」

 腰に両手を当て、仁王立ちで叱責を飛ばすのは勿論、梨乃さんだ。遅いも何も、俺はチャイムが鳴り終わると同時に、否正確に云えば其れよりも早く教室を抜け出て来たのだが……。1つ階が下だからと云っても、梨乃さんが斯うも余裕を持って俺等を待っている事が不思議でならない。俺は差し当たり、乱れきった息を整える事に注力した。

「は……早い、すね……梨乃さ……」

「人間ねぇ、何かを成し遂げようとする時には、普段じゃ考えらんない様な離れ業が出来るモンなのよ」

 其れはもっともだと俺も思うのだが、離れ業そういうのに光速で移動する事も含まれるとは、俺も知らなんだ。間も無く、宮殿部長と言海先輩、そして陽香、更に奈子先輩と茶華道部員達も到着し、最後のラスト打ち合わせミーティングが行われた。とは云え、

「まぁ、もう此処迄来たら、後は流れってものに委ねるしか無いでしょう!」

 と開口一番梨乃さんが発した通り、正直云って打ち合わせる内容も何も、最早無いのだった。準備やれること万端やった。後はもう、開演してからの話だ。

「おぃっす!」

 と、此処で駆流先輩達が遣って来た。同時に、7時間目の始業のチャイムが鳴り渡る。

「何か……悪ぃ事してるみたいだよな。斯う、授業時間中に俺等だけ抜け出して、さ」

 駆流先輩が言う。何言ってんすか、校内で平気な顔して煙草吹かしてた人の台詞じゃないっしょ。そう俺は突っ込みたかったのだが、まぁ俺と梨乃さんと真杜さんだけでなく、其の他の手前も有り、自粛した。横目で見ると、真杜さんも同じ様で、何やら言いたいのを堪えている風だった。

「なーに言ってんすか先輩? 先輩なんか、タバふぉっ」

 俺は咄嗟に梨乃さんの口を手で塞いだ。我乍ら良いファイン仕事プレイだ。先を行く梨乃さんの口を塞いだので、必然的に梨乃さんを背後から抱え込む様な形に為る。俺は其れがどう云う意味を為すか、否、どう云う風に・・・・・・他者の眼から映るか・・・・・・・・・、其処迄は考えが至らなかった。俺がほっと一息吐いていると、俺の腕の中に収まる梨乃さんが急速に、顔色を5月の第2日曜に母親に贈呈するナデシコ科の多年生観賞植物の如く染めていくのが見て取れた。

「おぉ~!! ウルフ君、遣るねぇ~!!」

「おぉ~!! 柿手君、強引~!!」

 依琉さんと名嘉吉の同期シンクロした茶々が入る頃には、流石に俺も現況のまずさを思い知っていた。

「ハハッ、どうしたよ? 行き成り公衆の面前でサカるなよ」

 塀巣先輩迄もが茶化してくる。俺は梨乃さんから音速マッハで身を離し、

「否、別に此れはそう云う意味では……」

 としどろもどろで身の潔白を証明しに掛かるも、

「えー、じゃあどう云う意味なのかな~? リノちゃん抱きすくめといてー?」

「「そうだそうだー!」」

「いっその事、2人抜け出して来ても良いんじゃない?」

「まぁ確かに2人共、此処迄一番頑張って来て呉れたからな」

 と云う、良夢音先輩、依琉さんと名嘉吉の2人組コンビ、言海先輩、宮殿部長の波状攻撃を前にしては、些か分が悪い――と云うか、勝ち目が無い。

 ところで陽香、さっきからビシビシ飛んで来てるお前のレーザー照射ビームは、2つ有る内のどっちの意味を示してんだ?

「ま、どうせだったら俺達の歌、聴いて欲しいけどな」

 儀足先輩でさえ、そんな事を言う。もう四面楚歌だ……。

「あ、もうそろそろ時間ですよ!」

 一声で俺の蛮行から皆の注目を逸らして呉れたのは、奈子先輩だった。そう、もたもたしていると直に全校生徒が列を為して遣って来てしまうのだ。そうだそうだ、と皆が慌ただしく配置に就く最中、奈子先輩が俺に「貸しが出来たわね?」とでも言わんばかりの目配せウィンクをして来た様に思えたが、俺の考え過ぎだろうか?

 後ろから全てを見守っていた真杜さんは、俺の肩に手を乗せ、

「お前の意図は解ったよ。正解だと思う」

 と言って呉れた。

「真杜さん……」

「でも、もっと別の最適解やりかたは有ったと思うけどな。声を上げて掻き消したり、話題を逸らすなり」

 真杜さん、俺の肩に指、り込んでますよ……? 飽く迄も穏やかに、笑顔を絶やさずに、真杜さんは握力を伝導してくる。其の方が、猶更なおさら恐い。

「まぁ、此の件に就いては後程、だな」

 ポン、と最後に俺の肩を叩き、真杜さんも配置に向かった。出来る事なら此のライヴ、終わって欲しくない。

「あ、あの……有り難ね、ウルフ」

 後ろから声がしたので振り向くと、一時よりは落ち着いたものの、未だ顔面が桜色に染まっている梨乃さんが居た。

「あたし、調子乗って、また言わんでも良い事口走っちゃうトコだった。其れを止めて呉れたんだよね? だから、有り難う」

 決して俺と視線を合わせず、斜め向こうを見つつ感謝の意を述べる梨乃さんは、上気する頬と相俟って、得も云われぬ可愛らしさを誇っていた。此の表情、此の仕種を眼の前で見せられて、墜ちない男は居ないだろう。そんな梨乃さんの姿は今、俺だけしか見られない。そう思うと、浅ましいと自覚しつつも、何処か誇らしかった。

「な……何、何時迄も見てんのよっ!!」

 梨乃さんは一転して、敵意を剥き出して俺に吼えかかる。どうやら俺は無意識に、梨乃さんに焦点を固定オートフォーカスしてしまっていた様だ。

「い……言っとくけどねっ、あたしそんなに簡単な女じゃないんだからっ!! 其処んトコ覚えときなさいよっ!! さっ、もう入って来ちゃうでしょ?! 配置に就く!!」

 梨乃さん、また顔、赤く為っちゃってますよ? そう俺が突っ込むより先に、梨乃さんは舞台袖ウィングに真っ直ぐ進んでいった。


 数分後、全校生徒が集い始めた。俺と梨乃さん以外のメンバーは、喧しい生徒達を鎮めさせ、統治する役目に就いている。何せ、此れは学校主導の催しじゃない。生徒が勝手に内輪で遣っている事に関して、教師陣は積極的に関与はして来ない。勿論、悪しき言動や風潮を帯びるものであれば、連中は全力で以て潰しに掛かって来るだろう。そうでは無いと云う事は、梨乃さんの破天荒さが或る程度は彼等に容認されている事と、駆流先輩達のバンド活動が並々ならぬものである事があの衆にも理解されている、と云う事の証だろう。

 とは云え生徒達に整列を促す事や、静粛を求める事程度は、手伝って下さっても良かったんじゃないでしょうかね? 後から聞いた話だと、端似教諭や佐峰先生を筆頭に、一部の教師は協力して呉れたらしいが、其れ以外は隅の方でだんまりを決め込んでいたと云う。

 まぁ今更、其れに関してどう斯う言う事も無いのだが。

 生徒達が落ち着く迄、俺と梨乃さん、そして駆流先輩達は調整室の逆サイドに位置する舞台袖の奥にしつらえてあった小部屋に籠もっていた。衣裳部屋的な扱いなのだろうか? 兎も角、此処なら或る程度は生徒連中の喧騒から隔離される為、俺等に取っては都合が良い。

 だが、先輩達にしてみれば、仲間内にしか披露しないのに、何故こんな隠れる様な真似をする必要が有るのか、と云った感じで、皆一様に怪訝な表情をしていた。

「なあ、早く遣ろうぜ。気兼ねする事ぁ無ぇんだろ?」

 と塀巣先輩。其れが実は、気兼ねする事が有るんですよ……。

「そうだよ! 早くしないと1時間終わっちゃうって!」

 良夢音先輩が続く。確かに正論ですが……。

「どうも、何か怪しいんだよなぁ……。此のライヴ自体が」

 儀足先輩は勘付き始めている。余り勘繰らないで頂きたい……。

「OKです!!」

 1年女子3人衆が小部屋の扉を開け、準備万端スタンバイを伝える。

「よぉっし! 行こうかぁ!!」

 景気付けに駆流先輩が吼える。其れを合図に、バンドメンバーがステージに向かい歩き出す。其の最中さなか、駆流先輩は俺に声を掛けた。

「恩に着るぜ。梨乃ちゃんが暴露しぶっちゃけそうに為ったの、止めて呉れたんだろ? さっきの」

「あ、えぇ、まぁ……」

「あ、そうだ。礼に此れ遣るよ。もう俺にゃ必要いらないモンだからな」

 制服の上着の下に着たYシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、駆流先輩は俺に放り投げた。

「え、でもオレ」

「悪ぃな。もし喫わねぇんなら、処分しといて呉れや」

 そう言って、ステージに立つべく前方に向き直った駆流先輩に、俺は一つ、心残りだった疑問をぶつけた。

「あ、あの。今更ですけど、1個訊いても良いっすか?」

「おぅ、何だ?」

「先輩達のバンドの、バンド名って何なんですか?」

 駆流先輩は振り向いて、驚き顔で言った。

「あれ? 知らなかったの、お前」

「ええ。そう云えば、聞いてなかったっす」

 駆流先輩は肩越しにニッと笑い、

「其れだよ」

 と俺を指差した。

「え?」

「そいつ。『Keep Only One Love』の略なんだよ。格好良いだろ? 其の由来が、さ」

 俺は右手で受け取った、緑色で「KOOL」と表記された煙草の箱に眼を落とした。俺は顔を上げると、壇上に上がる階段の途中に居る駆流先輩に向かってニカッと笑って、

「最高っす!!」

 と親指を立てた。駆流先輩はステージの方へ振り向きざまに、

「お前も、貫けよ」

 と呟いたのだが、此の時の俺には聞こえなかった。


                 *


 全くの静寂がアリーナ内に拡がっている。其れはまるで、嵐の前の静けさ。此の言葉フレーズが最もしっくり来る。そう、今から始まるのは、後の世に伝説として語り継がれる、奇跡のライヴ。五輪梨乃が命名した其の名は、「Incentive LIVE! ‐Magnum Opas‐」。モチベーターである鳥部山千風を喪い、停滞し、解散の危機にひんしていたKOOLが、新生KOOLとして復活の狼煙のろしを上げた、幻のライヴ。今、其の幕が開く――。


                  *


 下げていたどんちょうが、鈍重そうなモータの駆動音を伴って巻き上げられていく。各々の楽器の定位置で臨戦態勢の先輩達、言い換えれば立ち並ぶKOOLのメンバーの姿が、舞台袖に居る俺からは良く見える。同じく、隣で固唾を飲んで見守っている梨乃さんの押し殺した息遣いも伝わってくる。無論、梨乃さんは今でも先輩達に内密の件は露見していない、と信じきっているのだが、其れでも矢張り不安なものは不安な様だ。

 未だ照明が落とされた舞台上は暗い。袖は猶更だ。だから、幕が上がるに連れ、徐々に外から漏れ入ってくる光が強烈に眩しい。くらましの様だ。先程立て籠もっていた(恐らく)衣裳部屋も、壁の上方に幅狭く採られた窓から申し訳程度に入る外光しか光源が無かったので、俺達は案外長い時間、薄暗い世界に居続けていたのだ。ホワイトアウトしてゆく視界は、気障キザに云えば、限り無く果てしない未来が俺等の前に横たわるのをいんしているみたいだった。

 それにしても……。自棄やけに、外が静かだ。敢えて客席、と言い切ってしまおう。目論見通りならば、客席には約1000人にも上る生徒衆が集合している筈だ。なのに、こんなに静かなのか? 体育館の屋根が何らかの原因で鳴る、弾かれる様な音が聞こえてきそうな程だ。

 俺は一瞬、不安にさいなまれた。俺達は、未だ此の眼で全校生徒が集っている光景を見てはいない。もしそうなら1年女子3人衆が笑顔でOK出して来ないだろうからそんな訳無いのだが、ひょっとしたら客入りはまばらで、かんどりと化しているのではないだろうか。だとしたら、此のライヴは失敗だ。此れ迄の全てが、期待外れの空回り。

 そんなんじゃ、先輩達に示しが付かない。

 そんなんじゃ、梨乃さんが哀しい思いをしてしまう。

 そんな梨乃さんの姿を、俺は、見たくない。

 俺が何とも言い難い顔付きをしているのを、梨乃さんはどう感じ取ったのだろうか? 不意に梨乃さんは俺に、声を掛けた。囁く様に、然し確実に、俺だけに届く様に。

「ウルフ、覚悟しといて。今からスゴい景色、見したげるよ……!」

 俺は心奪われた。梨乃さんの凜とした、微動だに揺るがない、光の中の横顔に宿る自信に。


 幕が上がってゆく。俺等の眼前に、現実が、真実が、厳然たる事実が、映し出される。


 先ず届いたのは、耳をつんざく、と云って良いだろう、喝采かっさい。或いは、待ちびた後の期待感がパンパンに込められ、せきを切った様な観衆の声。其れが、物理法則を無視して、真っ白な眼の前から真っ先に伝わってきた。此の時点で、俺の不安は杞憂に終わった。

 軈て、視野が現実味を取り戻してゆく。再度、色を得た視界には、全校生徒が一様に舞台上を見上げ、一部のKOOLを知る生徒の熱を帯びた身振り手振り歓声、KOOLを知らない生徒達も、未だ見ぬバンドを前に惜しみない期待を込めた拍手をし、きらきらした眼をさせていた。間違い無く、人生でそう見られない、素晴らしい景色。改修リフォームを施した家屋を前にせずとも「何と云う事でしょう!」と感嘆の声を上げてしまう、目映まばゆい光景であった。

 然し、俺が真に感動したのは、其の光景に対してではない。

 俺が眼の前の想像を超える現況に呆気に取られる以上に、想像すらしていなかった先輩達は唯々、呆然と立ち尽くすだけだった。皆一様に気合の入っていた表情が、大きく開けられた口、見開かれた眼に因って、台無しに為っている。此れが意味するのは、詰まり。


 先輩達は、本当に全校生徒の前でライヴをする事を知らなかった、と云う事だ。


 改めて記すが、梨乃さんが全校生徒、即ち小冊子の読者に課した“お願い”は、口約束にも満たない、極めてぜいじゃくな、否もろ過ぎる代物だった。ひとれ(と云っても構わないだろう)してしまった俺なんかは、到底上手く行く筈が無い、と何処かで最初ハナから決め付けてしまっていたのだ。が、其れは実際、上手く行った。行ってしまった。

 願えば叶う、なんて綺麗事だ。俺も其れ位は分かってる。無責任な絵空事だ。そんな簡単なモンじゃ、ない。

 だが、願わなければ、抑も叶う筈もない。此れもまた俺は、事実なのだと思う。其の事を俺は、梨乃さんに教わった気がした。

「どう? あたし言ったでしょ? 『世の中、捨てたモンじゃない』って」

 俺は横に立つ梨乃さんを見た。梨乃さんの横顔は満足げで、客席の方を見詰めていた。そして俺に向き直り、

「信じてみるモンでしょ?」

 と言ってにっこりと笑った。俺は漠然ばくぜんと、そんな梨乃さんに、一生付いて行こう、と思った。斯う云う、奇跡ミラクルを起こせる人間は、そうは居ない。貴重ヴァリュアブルだ、と云ってしまうと語弊を生じてしまうのだろうか。当然、損得勘定で人付き合いをする心算はさらさら無い。そう云う諸々を超越オーヴァーした所で、梨乃さんに付き従おう。そう誓った。


 勘の良い駆流先輩は気付いたのだろう。

「そう云う事か……。彼奴等……」

 そう駆流先輩の口が動いた気がした。立ち尽くすバンドメンバー、歓声は鳴り止まない。

「おいおいおい!! どうしたよ『KOOL』?! ビビッてんじゃねぇーぞオイ!!」

 マイクを通して、駆流先輩が吼えた。ライヴの始まりだ。呆けていたメンバーが即座に、キッとした眼差しに戻る。駆流先輩のマイクパフォーマンスは続く。まるで自分自身に言い聞かせるかの様に。儀足先輩が弦を弾く。アンプを通して、スピーカーから聴衆を煽り立てる様な音色が響く。塀巣先輩もダウンピッキングで勢いを付ける。良夢音先輩は思い入れの有るクラッシュをバスドラムと共に鳴り渡らせる。渾然一体となった音色は、人々を駆り立て、音で以て聴衆を煽動する。観衆の拍手は、何時の間にかクラップの瞬間タイミングが揃って、BPMテンポ高めの手拍子へと変化していた。未だ1曲目は始まっていないのに、場は充分過ぎる程に盛り上がっていた。

「こんなんでビビッてちゃ、此の先なんて進めねぇぞ!」

 駆流先輩の其の一声を合図に、良夢音先輩に因るカウントが入る。此処から、とうの3曲連続演奏が始まった。


 1曲目は「bACEベイス rockロック」。此の曲は塀巣先輩に焦点フォーカスを当てた曲で、技巧的なベース演奏が特徴だ。激しい曲調で、幕開けに相応しい。実際、袖から見ていて、掴みは抜群だった。因みに、曲名は塀巣先輩の名前から取っているらしい。

 良夢音先輩のドラムソロで幕を開けた2曲目は、比較的ポップな「the CIDERサイダー アンド the LEMONADEレモネード」。此の曲の題名の由来は、サイダーとレモネードを英和辞典で引いて貰えば分かる筈だ。

 後奏から連続シームレスで繋がった3曲目は、駆流先輩も一切歌わずにギター演奏に専念する、所謂いわゆるインスト曲と云う奴で、題名タイトルは「Guitarist‘sギタリスツ WristリストTigerタイガー」。“儀足素虎”と云う名前から、「ギタリスト」と「リスト」を読み出し、更に“虎”から「タイガー」と云う単語を引っ張ってきて命名ネーミングした、らしい。其の名の通り、儀足先輩がリードギターからリズムギター迄を縦横無尽に熟し、其れに合わせて駆流先輩の腕前も見られる、正に「ギター奏者の腕に潜む猛虎」の如き技巧を堪能出来る、スピーディーな曲だ。

 3曲立て続けに、曲紹介も無い儘に自慢の持ち歌を観衆にぶつけたKOOLのライヴに、口を挟もうと云う無粋な輩は、もう存在しなかった。其れは詰まり、お堅い教師連中をも、実力を以て捻じ伏せた、黙りこくらせた、と云う事に相違無く、俺は誇らしく思った。もっとも、教師陣は具体的に反対を表明していた訳では無かったのだが、俺の中では彼等彼女等は校内の安寧と秩序の維持に背く叛乱リヴォルト分子エレメンツに就いては容赦無く破砕してくる悪役へヴィとしての偏見フィルターが掛かってしまっている為に、そう云う印象を抱いたのだろう。

 そう云ったものを抜きに、KOOLの演奏は兎に角圧倒的であった。


 そして、4曲目。駆流先輩は、漸くMCを入れた。

「皆さん! 聴いて呉れて、どうも有り難う御座います! あの、ひょっとしたら皆知ってるのかも知れないんだけど、俺達、こんな人数の前で遣る、って聞いてなかったんだ、本当に。で、行き成り放り込まれた此の環境下で、一体何処迄、俺達遣れんのか? って。此れは俺達、試されてんのかな、って、遣ってて思った。

 知ってる人も居るかとは思うんだけど、実は俺達、ほんの何日か前迄、実質解散状態だったんだ。一寸、此れも知ってる奴は居ると思うんだけど、俺の恋人が亡くなっちまって、で、其の彼女がKOOLこのバンドに取っても凄く重要な人物でさ。本当に……支えが無くなった様な、不安定な状態でさ。で、まぁ……こんな事言うのも恥ずかしいんだけどさ、俺って、可成り独り善がりワンマンな所が有ってさ。要するに、我が儘だったんだ、こと音楽に関しては。……音楽に関しては、だけだぜ?」

 此処で多くの観客が笑い、親しい一部の同級生からは茶々も飛んだ。

「まぁまぁ、そう云う事にしといてよ。で、そんな俺の落ち度も有って、更に彼女が逝っちまった。そんなこんなで、バンドは空中分解だ。――あぁ、もう此れで、終わりなんだな……、と。そう思ったら、まぁ、やさぐれて、な……。

 そんな俺達が――今週の月曜迄解散状態で顔合わせても口利かない状態レヴェルだった俺達が、だ。じゃあ何で今斯うして、ライヴ出来てんの? って事に為るだろ?

 此れもまぁ、知ってる人も居るんだろうけど、2年の五輪梨乃。此の娘のお蔭なんだ。否、本当に。アイツが居なかったら……、俺達をもう一回引き合わせて、『復活して呉れ』って、頼み込んで来なかったら……、俺達多分、ずっとあの儘だった。斯う遣って、もう一度再始動リスタートする事なんか、無かったと思うんだ。だから、梨乃ちゃんには、俺達本当に、言葉では言い切れない位、感謝してんだ。本当に、有り難う」

 そう言って、駆流先輩は俺と梨乃さんの方を向いて、すっと頭を下げた。塀巣先輩も、儀足先輩も、良夢音先輩は態々椅子スツールから腰を上げて、此方に辞儀をした。今思うと、舞台上では、観客からは全く見えないしもに向かって演者が礼をする、と云う一種異様な光景だったと思うが、此の時の俺はそんな事迄は考えが及ばなかった。正直言って、此れ迄の数日間を思い出し、当事者の偏重バイアスもあって、可成り胸が熱くなっていたのだ。

 隣の梨乃さんを見遣ると、照れた様な涙を堪えている様な、将又はたまた照れ隠しに微笑している様な、複雑な顔をしていた。恐らく、此処暫く他人に心から感謝される経験が無かっただろう梨乃さんは、戸惑っているのだ。どんな感情で、どんな表情をすれば良いのかが分からないのだ。俺は出来得る限りさり気無く、梨乃さんの背中に触れた。取り立てて意味は無い。梨乃さんは俺の手が触れた瞬間、ピクッと反応したが、俺を受け容れて呉れた。

 メンバーが舞台袖に向かって礼をしている間、アリーナ内は拍手に包まれていた。誰が主導した訳でもなく、誰が率先した訳でもなく、温もりに満ちた拍手が場内に響いていた。

 軈て駆流先輩は頭を上げ、MCトークを再開する。

「此のライヴには、本当に多くの方の協力が為されています。tRPG部の皆、本当に有り難う。他にも集まって呉れた女の子達、本当に、有り難う。そして、此のアリーナ内にこんなに良い音が鳴り響いてんのは、俺達が世話に為ってた、否、此れからも世話に為るライヴハウスのシャチョーさんと従業員スタッフの方のお蔭です。本当に、どうも有り難う御座います!

 そんな、俺達を支えて呉れた人達にてて、短い期間ではあったけど、何とか新曲をこしらえて、公開出来みせられるようにしました。こんな大観衆の前で遣るとは思ってなかったんで、正直作り込み甘い点は有ると思うけど、許して下さい。

 今、見て呉れている全ての方にも感謝を込めて――――『無題ブランク』」


 そして披露された、KOOLの新曲は、此れ迄とは一変して、優しく、穏やかで、温かい、緩やかスローな楽曲だった。駆流先輩はギターを肩から提げた儘弾かずに、両手でマイクスタンドに保持セットされた無線マイクを握り、時折眼を瞑り乍ら精一杯に感情を込めて歌う。他のメンバーは其の歌唱ヴォーカルを最大限活かす様に選び抜かれた音を紡ぐ。まるで歌声に寄り添うかの様に。歌詞は、先程語ったあらゆる人への感謝、そして此処から再び始動する自分達の未来への展望をも織り交ぜた内容で、客観的に聞いていても可成り感動的なものだった。実際、舞台袖から視認出来た範囲内でも、案外涙脆い真杜さんはボロボロだったし、其の隣に居る、生徒達を鎮めていた名残なごりで最前列から舞台を見上げる宮殿部長の眼も熱く潤んでいた。其の他の観客の生徒衆の中にも、幾名か目頭を押さえる者の姿が見えた。俺も、心が熱を帯びるのが自覚出来たし、隣の梨乃さんは、KOOLの復活を誰よりも望み、其れを成し遂げた1人として感極まるものが有ったのだろう、舞台上の先輩達の姿を食い入る様に見詰め乍らも、落涙を堪えるのにしんしている様に俺は見えた。


 各々の心が震えた分だけの拍手が鳴り渡り、軈て一段落した頃、駆流先輩がMCに入った。

「えっと……まぁ、それぞれ、一寸した失敗ミスは有ったんだけど、割合上手く行けた、と思います。聴いて呉れて皆、本当にどうも有り難う」

 そう言われた所で、俺には先程の演奏の何処にしくじりが有ったのか、皆目分からなかった。多分、聴衆の殆ども同様だったと思う。

「えー、こんなに素晴らしい時間も残り僅かです。と云う事で、次の曲が最後に為ります」

 観客の一部から不満や抗議ブーイングの声が上がる。然し、7時間目の終了時刻迄残り10分を切っている。教師連中の中にも、ちらほら腕時計を確認する様子が見受けられた。

「有り難いねぇ、俺等の演奏プレイを未だ見たい、と思って呉れる人が居るなんてね。でも、まぁそう残念がる事は無いよ。だって俺等は此れからも、活動オンガクを続けてくんだから。また何時でもステージを見に来て貰えれば、其の時俺等は斯うしてプレイしてるから。だから、今日のステージを見て、ほんの少しでも『此奴等、良いじゃん』とか思って呉れたなら、また何処かで、応援宜しくお願いします」

 駆流先輩の言葉には、心からの感謝が籠もっていた。少なくとも、俺にはそう感ぜられた。賛同の拍手が後に続く。良夢音先輩の優しく響くシンバルの連打に包まれ乍ら、駆流先輩は最後の曲紹介に入る。

5曲目ラストなんだけど、唯一カヴァー曲で行きたいと思います。何と云うか、此処暫くの俺の心情にピッタリな曲だったんで、皆さんにすすめる様な気持ちも込めて、送ります。――――UVERworldウーバーワールド『優しさの雫』」


 其れは、此れ以上無い、もう修飾する言葉すら見当たらない、最高の、素晴らしい、珠玉の演奏だった。斯うして後付けで種々の単語をつくろう程に安っぽくチープに為っていくので、出来ればうまい言葉で以て一発で表現したいのだが、残念乍ら実力ちから及ばず、今の俺に其れは叶わない。唯一つ言えるのは、此の時の「優しさの雫」は、もう二度と同等の物を再現する事は出来ない、特別なものだった、と云う事だ。何が此の時の演奏をそうさせたのか――駆流先輩の心理状況もそうだろうし、メンバー全員の活動再開への喜び、そんなバンドから滲み出る雰囲気も理由の一つだろう。そうした様々な要因が複合的マルティプルに絡み合い混ざり合い、「インセンティヴ・ライヴ! ‐マグナム・オーパス‐」の5曲目「優しさの雫(カヴァーVer.ヴァージョン)」は観客の、少なくとも俺の心には深く残る、史上最高マグナム・オーパスなライヴを締めくくるに相応ふさわしい演奏だった。


 歌い終わった駆流先輩は、気持ちが籠もる余り、泣いてしまっていた。曲終盤から感情が溢れ出し、涙乍らに歌っていた駆流先輩に、そしてそんな駆流先輩を支え切ったバンドに、更に出色の演奏を聞かせて呉れた事実に対する鳴り止まぬ拍手が、舞台上へ降り注いでいた。駆流先輩は両手でマイクスタンドに設置されたマイクを握り締め俯いていたが、ゆっくりと顔を上げると、泣いてしまった事に対する照れ笑いだろうか、はにかみを浮かべつつ、ワイヤレスマイクをスタンドから外し、締めのMCに入った。

「あの、有り難う――」

 其処で言葉は途絶えた。会場の拍手の量が僅かに鈍る。俺も、梨乃さんも、怪訝な表情をしていただろう。其の訝しがる視線の先の駆流先輩は、アリーナの舞台側から見て最奥部、詰まり出入り口の方をポカンと口を開けた儘、眼を見開いて見詰めている。

 突如、アリーナ内に爆音が鳴り響き、会場から完全に拍手が消えた。俺は其の音よりも、自らの眼に映る光景の方に意識を集中させていた。

 駆流先輩がギターを袈裟懸けさがけにげ、無線マイクを握り締めた儘ステージから飛び降り、ざわつく棒立ちの生徒達の列を掻き分け、走っている。一目散に、アリーナの出口を目掛けて。其の時の俺は解らなかったのだが、あの爆音は駆流先輩のギターとアンプを繋ぐ配線シールドが抜けた際に発せられたものだった、と後で知った。

 アリーナ内の誰もが、駆流先輩の一挙手一投足に注目している。軈て、観衆を掻き分けた駆流先輩は、アリーナの出入り口で足を止め、放心した様に突っ立っていた。そしてゆっくりと振り返り、口元に無線マイクを持っていく。計算づくでそうするとは思えない。予感めいた直感で無線マイクを選んだ駆流先輩は、矢張り何か・・持っているのだろう。

「今、後ろ姿しか、俺に見せなかった千風が……、俺の方を振り向いて、笑って呉れました。そして、幸せそうに、消えて行きました……」

 えつを堪え乍らそう言った駆流先輩は、浄化された様な、嬉しそうで幸福そうな顔をして涙を流していた。実の所、俺は忘れかけていたのだが、駆流先輩は千風さんの幻影が見えていたのだ。否、見えてしまっていた、と云う方が適切かも知れない。駆流先輩は其の所為で、はたから見たら奇行と思える言動を繰り返し、学級内で浮いた存在に為ってしまった、と云う話だった。其れは、駆流先輩を更なる孤独へ追い遣っていく要因だったのだ。斯う云ってしまうと駆流先輩や故人に失礼だが、駆流先輩は千風さんの幻影に悩まされていたのだ。無論、駆流先輩自身は彼女が見える事をんではいなかった。だが客観的に見るとそう云う事に為るのは確かだ。駆流先輩は現に風評ルーマー被害ハームこうむっているのだから。

 然し、もう駆流先輩は孤独ではない。再び、共に夢を追う仲間が周りに居る。そして、彼は走り出した。停滞した、倦怠の日々から脱却し、再び高みを目指して。其れこそが、駆流先輩の本来在るべき姿であり、また千風さんが望んだ姿である筈なのだ。俺には、千風さんが駆流先輩を導いた様に思えてならない。駆流先輩を回帰させる為に、彼女は彼にのみ姿を見せたのだ、と。

 そう思ったのは俺だけではなかったらしい。アリーナ内は再びの拍手と、小冊子に因って事情を把握していた観衆の涙の渦と化していた。



 内密シークレットライヴも無事閉幕し、ショートホームルームを挟んだ放課後、俺等は第1アリーナに居た。

 お祭り事は楽しい。然し、祭りと云うのは楽しい事のみではない。後片付け、と云うものが絶対に附いて廻るのだ。其れは、催事のはらむ宿命であると云っても過言ではない。呂久田井さん達ライヴハウスの従事者スタッフ含む俺等は梨乃さんの「ライヴは片付ける迄がライヴなんだからね!!」と云う一喝に焚き付けられ、未だ冷め遣らぬ、最高のライヴを成功させた達成感をエサに、比較的テキパキと撤収を完結させた。

「此れにて、無事全ての計画が終了出来ました! 此れも皆さんのご協力のお蔭です!! 本当に有り難う御座いました!! ではっ!!」

カンパーイ!!」

 tRPG部の部室に祝杯を挙げる歓声が木霊こだました。俺等が其の手に持つのは、青基調の複雑な面構成の紙パックに200ミリリットルじゅうてんされた森永乳業モリナガのリプトンミルクティーだ。因みに此れは、我等がtRPG部の顧問であり、また我が1年機械科1組の担任である端似教諭からの差し入れ、と云うかオゴりのものだ。其れ自体は思ってもみなかった事で、有り難く、とても感謝すべき事なのだが、ストローを吸う、と云う祝杯を喉に送り込む手段が何とも格好付かない。まぁ、そんな所もまた現実リアルだな、とは思うけど。せめてもの救いは、テトラ・プリズマ・アセプティックと云う名の紙容器がストローで充填液ミルクティーを吸引する際に空気が混ざり、情け無く恥ずかしい音を発する事がなかった点だろうか。

 皆、思い思いに歓談している。其の表情は明るく、上首尾に終えられた事に対する満ち足りた感が全開に表れている。勿論俺も満足感は有るのだが、皆のそう云う表情を見ていると一層の幸福感、と云うかそんな感情が増幅されて、何と云うか、まぁ、悪くない。

「そうだ、キューデン」

 ふと隣の方から、駆流先輩の呼び掛けの声が耳に入って来た。

「ああ、何だ?」

「あの……此れ、受け取って呉れねぇか?」

 駆流先輩が制服のポケットから取り出した、四つ折にされたA5程度のコピー用紙に刷られた内容は、俺にも何と無く分かった。宮殿部長は其れを一瞥し、

「了解。受け取るよ」

 と返答した。駆流先輩は済まなそうに、

「悪ぃな……」

 と言ったが、宮殿部長は全く意に介さない素振りで、

「良いさ。tRPG部ウチにも新入部員は入ったからね。……またバンド、遣るんだろ?」

 と穏やかに尋ねた。

「ああ。もう立ち止まらねぇし、恐れもしねぇ。逃げるのも、もう御免だ。俺は決めたぜ。軽音部に出戻る。厚顔無恥とさげすまれても構わねぇ。今度ばかりは、他の部員連中とも其れなりに上手く遣ってく心算だ。KOOLの練習の場として貴重だからな。其れを自ら見す見すぶち壊す真似は、もうしないぜ」

 力強く言い放つ駆流先輩の声は、ライヴ時とは異なり別段大きい訳では無かったが、部屋に居る全ての人物の耳目を集めていた。俺は駆流先輩の背後に、燃え盛る情熱と希望の炎を幻視した。

 駆流先輩も衆目を集めているのを自覚したのだろう。と云うか、舞台ステージ上で披露パフォームする者として、他人からの注目に鈍感である筈は無い。一段階声を大きくして、言った。

「其れも此れも、全ては梨乃ちゃんのお蔭だ。さっきも言ったけど、梨乃ちゃんが動いて呉れなかったら、俺、未だに燻ぶってただろうし、メンバーコイツらとも疎遠に為ってたと思う。マジで感謝しきれない。適当な言葉も見当たらねぇ。本当に、心から……有り難う」

 駆流先輩は、梨乃さんに深々と、そして可成りの時間、辞儀をした。其れは、何より雄弁に、駆流先輩の感謝の気持ちを物語っていた。

「あと、tRPG部の皆、茶華道部の手伝って呉れた皆、其れから1年の女の子達、皆の協力で、あんなに素晴らしいライヴコトが出来ました。もう此れ以外言葉が見つからないんだけどさ、本当に、心から、有り難う御座いました!!」

 再び、駆流先輩は深く、略直角に迄腰を折り曲げ、誠意の籠もった辞儀をすると、誰からともなく、拍手が湧き始めた。

「あっ、そうだ! 梨乃も何か挨拶しなよっ、プロジェクト? の終了記念でさ! 締めの一言コメントをさっ、ほらっ!!」

 あからさまに、今思い付きました感全開フルスロットルの、依琉さんに因る唐突なシメコメ要求には、流石の梨乃さんも参ったらしく、「えぇ、いやっ、ちょっ……」と拒否する素振りを見せていたが、名嘉吉の「まぁまぁそう言わずに! 無事完了したんですから!」と云う調子の良いおだてと、陽香と菊場の「折角ですから!」の波状攻撃、更には真杜さんの

「否、本人が嫌がってるのを無理強いするのは些か難が有るだろう。またと無い機会では有るけれど、此処は仕方無かろう」

 と云う本意とは真逆の、制止の衣を纏った焚き付けの言葉が駄目押しと為り、彼女等は

「気遣い有り難う、真杜。でも、やっぱりあたし一言挨拶しとくよ。折角ライヴが完遂出来たんだから」

 と梨乃さんに言わしめる事に成功した。俺は梨乃さんに気付かれない様に小さくガッツポーズを決め合う依琉さん達の団体戦に、彼女の操縦方法ハウ・トゥ・ライド・ハーを学んだ気がした。要約すると、無茶振りして、煽てて、「折角だから」等其れらしい理由を付加して(此の時複数でゴリ押しするとより効果的)、とどめに反意的にでも抑制して遣れば、おきの状態に為った梨乃さんの心理は其の抑止を振りほどいて炎を上げ燃え上がる、詰まり作戦成功、一丁上がりと云う寸法だ。……乗り熟す、と云う事は当人を騙す事に限り無く近似している為、何処と無く負い目を感じないでもないが、まぁ、一応、覚えておこう。

「えーっと、先ずは……何だろうな、お疲れ様でした! 色々大変な事も多かったと思うし、何しろ急な事だったんで、何やかんや突貫作業ロケットで突き抜けてったから、皆には苦労掛けちゃったと思います。私の思い付きに此処迄助力して貰って、本当に有り難いって感じてます。あの……、有り難う御座いました!」

 梨乃さんが頭を下げると同時に、真杜さんの涙腺が早くも決壊した。……猥雑わいざつな言葉で恐縮ですが、些か早漏過ぎやしませんか?

 おもてを上げた梨乃さんは、更に続けた。

「一人一人上げてったら際限キリ無いんだけど、出来る限り言わせて下さい! 先ずは、私の発案アイディアに乗って呉れて、最大級の援助をして呉れた宮殿部長と言海さんとtRPG部の先輩方! そして、あたしが無理矢理勧誘して来たのにテキパキ仕事して呉れたナコっちと依琉、及び茶華道部の心優しき仲間達ベイビーズ! 更に、あたしが執筆した記事の取材とか裏取りとかの補佐サポートをして呉れた、ヨーカとナルミとルコちゃん! 本当に助かった。有り難ね」

 謝意を込めて1年女子3人衆を見る梨乃さんは、其の目頭を熱くさせている様に見える。

 俺は此の時初めて、彼女等が梨乃さんの記事の補佐役アシスタントをしていた事を知った。本来は俺の担当した小説部分の補佐だったのだが、俺は取材の必要も無かったし(と云うか取材を禁じられていた)、抑も手伝いも要らなかったし(半分創作で、取材が無いと云うのなら独りシコシコと執筆すれば事足りるからだ)で、結局1年女子3人衆を使う事は無かったのだ。恐らく彼女等は俺が自分達を必要としていない事を悟って自発的に梨乃さんの許へ補助役をいに行ったのだろう。

 此の前、俺は名嘉吉に対して「労わられる程の仕事を為したのか?」と心の中でどくいた事を思い出した。撤回する。市場マーケットに流出した対象製品ターゲットを責任持って全品回収する。

 俺は分かっていなかったのだ。彼女達が確りと編集スタッフとして労力を払い、仕事を為した事を。「知らぬは恥」とは真実だ。俺は心中で平身低頭しきりであった。

「そして最後に……」

 梨乃さんが僅かに勿体もったいった。図らずも俺は、浅はかな期待をしてしまっていた。

「無茶苦茶な要求を呑んで、呆れもせずに尽力して下さった、端似先生と佐峰先生、本当にご協力、有り難う御座いました!! 拍手!!」

 全員が梨乃さんに従って2名の教師に拍手を送る中、俺は肩透かしを喰らい、軽くズッコケた。其れを名嘉吉に見られたのが運の尽き。

「梨乃さーん、柿手君がしょんぼりしちゃってまーす」

「否、別にしょんぼりしてねぇし」

「だってしょうがないでしょ? ウルフ。『キリが無いから出来る限り』個別に紹介してったんだから、端折はしょられる人が出て来ても」

「だから別にどうでも良いですって」

「悪かったわ、ウルフ。わざとだったの」

「態とかよ」

「嘘ウソ、御免ってウルフ。ねないで」

「拗ねてませんよ」

 俺に取っては屈辱以外の何ものでも無い此の遣り取りの間、当事者以外の人物はあまねく笑声を上げていた。俺は徐々に赤面していた。糞、全員後で取っちめて遣ろう。「笑わせる」と「笑われる」には大きな隔たりが有る。断じてニアリーイコールではない。

「いや、ウルフも良く遣って呉れたわ。感謝してる。お疲れ様」

 笑いのネタとしてイジってしまった事への謝罪なのか、梨乃さんは若干済まなそうな顔をし乍ら俺を労った。そんな顔したって俺は許しませんからね。何せ俺は天邪鬼あまのじゃくひねくれ者なんで。と口腔内で念じても、次の瞬間、満面の笑みを見せる梨乃さんを俺はあっさり許していた。どうも俺には彼女を恨む事は出来ないらしい。

「じゃあ君達、程々に。僕は帰るから。尾井君、塀巣君、儀足君、導さん、今日は良いもの見せて貰ったよ」

「有り難う御座いました」や「御馳走様でーす」等の声が飛び交う中、端似教諭は部室を後にしていった。次いで、

「じゃあ、私も戻るから。皆、余り残らない様にね。あと、KOOLの皆、素晴らしかったわ。此れからも頑張ってね」

 と云う言葉を残して、佐峰先生も部室から去っていった。

「皆、今日は本当に有り難うな。感謝してるぜ、愛してるよアイラビュー

 駆流先輩も流れに乗じる様に帰り支度を始め、ナップサックを背負って、此の名言を残した。……何故、唐突に「アイラビュー」だったのだろうか? 当人以外は、分からない。

「先輩達、帰っちゃうんですか?」

 と云う梨乃さんの問い掛けに対する駆流先輩の回答は、

「ああ、水差す様で悪いがな。今日の本番を終えて、早速課題が見えて来たんだ。今から反省会だよ。修正点テツアツい内に、って云うだろ?」

 俺等に一切ぐうの音も挟ませない、自己研鑽けんさんに励む男の模範回答だった。

「じゃあしょうがないですね……。頑張って下さい!」

「あぁ。もう俺は止まんねぇよ、此の儘行ける所迄突き進んで遣る。……其れも此れも全部引っくるめて梨乃ちゃんのお蔭なんだよ。俺は何度でも言うぜ。本当に、有り難う」

 お疲れ、と言い残して、駆流先輩は塀巣先輩、儀足先輩、良夢音先輩と共に下校していった。

「じゃあ、僕等も解散するよ。ライヴの計画に参加出来て、本当に良かったと思ってる。改めて、有り難う」

 宮殿部長の台詞に合わせ、言海先輩が会釈を寄越し、斎源律先輩と舞音先輩は明るく感謝の気持ちを述べた。

「いえいえっ、無理言って引き受けて貰ったのはあたしの方なんで! あたしこそ、皆さん本当にご助力有り難う御座いました!」

 そんな遣り取りの中で、tRPG部正規派メンバーも帰路に着いた。

「んじゃ、私達も部活に戻るから。じゃあね」

 ツンツンした言葉で素っ気無く別れを告げるのは、奈子先輩だ。

「うん。有り難う。お疲れ様」

 梨乃さんは何時に無く優しい声で奈子先輩と依琉さん、そして茶華道部員の有志達を送り出した。何かしらちょっかいを出されるだろう、と身構えていたらしき奈子先輩は拍子抜けした様で、少々残念そうに背を向けた(様に俺には見えた)。然し背を向けた儘、

「……良い経験出来た、此方こっちこそ有り難う」

 とぼそっと呟いた。ふと依琉さんを見ると、「素直じゃないねぇ~」と口パクと手振りで俺に告げてきた。俺は苦笑交じりの表情で返す。

「……んもぉ~うっ、ツンデレなそういう所がいじらしいんだからっ!!」

 常人とは思えない様な動きで奈子先輩に急接近しスキンシップを図る梨乃さんと、拒否し抵抗する素振りを見せつつも其れは完全なるそらだまりで、表情の端々に待望の喜悦が垣間見えている奈子先輩。俺は目覚めつつある性癖に辟易し乍らも抗えきれず、見て見ぬ振りで眺めていた。隣の方で陽香が後妻うわなり嫉妬ねたみの様な紅焔こうえんの火種と化しているが、一先ず放っておこう。自然ナチュラル鎮火プットアウトを待つのみだ。

 一頻りのイチャ付きが終わり、茶華道部の一行も部室から去り、取り残されたのは、俺と梨乃さんと真杜さん、そして名嘉吉と菊場のみと為った。嵐の前の静けさが期待と不安と漸増ぜんぞうする緊張感を伴うものなら、祭りの後の静けさはせきりょうと感傷と減衰する達成感を伴うもので、徐々に静けさを増してゆくtRPG部室には、もの哀しさが覆い被さっていた。

「……あたし達も帰ろっか!」

 そう言った梨乃さんの顔に少々前迄満ちていた充足感は薄らいでいて、俺は其の表情に何処か切なさを感じた。

 職員室に返却すべき正規の鍵で部室を施錠する梨乃さんに、俺は声を掛けた。

「オレ、本当ホント、感動しました。あのステージ上からの光景。やっぱり、信じてみるモンですね」

 梨乃さんを案じた俺の発言だったが、当の梨乃さんは俺が思っていた反応とは異なり、斜め下に拡がる虚空を見詰めて、ぽつりと呟いた。

「終わってみれば、案外普通の事だったのかなぁ……」

 俺は咄嗟に反論しようと思い、口を開いたが、一旦落ち着いて、冷静な声で言った。

「……そんな事、無いですよ。あれは、間違い無く、奇跡でした。……少なくともオレは、まごう事無き、現世に起こった奇跡だった、って本気で思ってますから」

 振り向いた梨乃さんは、哀愁を滲ませた、胸を締め付けられる様な、其れでいて飽く迄も可愛らしい笑みを浮かべていた。

「ウルフは、優しいね。……そんな事言われると、うっかり惚れそうに為るよ?」

 視線が、交差し、交錯する。絡み合って探り合う互いの眼が、徐々に拡大クローズアップされてゆく。

 何時か経験した感覚に近似している。が、俺はもう迂闊に流されない。俺が真剣な眼差しで口を開きかけた時、

「でも、ウルフは……佐峰先生、だもんね……」

 梨乃さんは俺から眼を逸らし、切なげに呟いた。

 そうだ、忘れていた。俺は、梨乃さんに佐峰教諭とのキスシーンを目撃されているのだ。

「い……否、あれは……」

 俺が誤解である旨を解こうと――詰まりは釈明しようとした、其の時。

「行きますよー?」

 と先行して廊下を進んでいた3人の中から名嘉吉が声を飛ばしてきた。

「……今行く!」

 声のした方へ振り向いて一言返すと、梨乃さんは再び俺に向き直り、うれいを消し去った何時もの笑顔で笑い掛けた。そして、梨乃さんは3人に追い付く為に駆けていった。其の梨乃さんの頬が仄かに色付いていた、と思うのは矢張り、俺のおごりなのだろうか。


 部室の鍵の返却の為、管理棟に在る職員室に立ち寄った後、少しばかり遠回りをして、第一アリーナの前を通り掛かる行程ルートを進んだ。現在、アリーナ内では幾つかの屋内競技系運動部が汗を流している。俺等が急いで撤収作業を進めたのも、彼等彼女等の練習の時間と場を奪いたくなかった(上に、彼等彼女等から送られる白い眼が耐えられなかった)からでもあった。現に、先程迄即席ライヴハウスだった面影は皆目無くなっている。俺は其れに、一抹のせきりょう感を覚えた。

「其れにしても、KOOLせんぱいたち格好良かったなぁ~」

 梨乃さんはうっとりした様子で呟いた。俺は其の表情に羨望せんぼう憧憬どうけい以上の感情が表れている様な気がして、正直言って、嫉妬した。

「そうっすね。楽器出来るとやっぱ格好良いっすよね! ま、どうせオレはリコーダー位しか出来ませんけど」

「何言ってんの?」

 と梨乃さんが真顔で返してきた。

「アンタは学校記念祭ガクサイで遣るバンドのメンバーなんだから、何かしら出来ないと困るわよ!? まさかバンドにリコーダーのパートを加える訳にはいかないでしょ?」

 事も無げに、平然と言う。

「え? いや……嘘、ですよね?」

本当マジよ」

「……本気マジですか?」

真剣マジよ」

「…………か、」

 俺は人前に出るのが苦手なのだ。其の上楽器など弾ける筈も無い。思わず叫びを上げる。

「勘弁して呉れえぇぇぇ!!」

「おぉ!! 凄い声量と声の張りね! ヴォーカルはウルフに取って貰おうかしら?」

「其れは絶対マジ止めてえぇぇぇ!!!」

 俺の悲鳴がアリーナ棟に木霊こだました。



 序でに、後日談をしておこうか。

 数日後の事だ。俺と梨乃さんと真杜さんが何時もの様に副部室でまったり雑談していると、不意に扉が開き、1人の生徒が入って来た。

「よぅ」

「……先輩!」

 梨乃さんが声を上げた。駆流先輩だ。

 駆流先輩はあのライヴ以降、一躍校内の超有名人スターと化してしまった。其れ迄、不可思議な言動で気味悪がられていた学級内でも、彼を取り巻く空気は様変わりした、と噂で聞いている。尤も、駆流先輩は千風さん逝去以前の状態に戻っただけなのだが。

 梨乃さんと真杜さんが挟み込む様に駆流先輩の左右から其の首筋に顔を近付ける。宛ら美少女ハーレムゲームの主人公状態の駆流先輩は、唐突な出迎えに流石に面喰らった様で、

「お、どうしたよ2人共……」

 とタジタジだ。数瞬其の儘の状態だった梨乃さんは、

「先輩、臭くなーい!!」

 と叫び声を上げた。真杜さんも首肯しているが、此れは果たして突っ込み待ちなのだろうか?

「梨乃さん、160Km/hキロのド直球ストレートは止めて下さい」

 取り敢えず、突っ込んでおいた。恐らく煙草臭の事なのだろうが、「臭くない」と言われた張本人はさぞ心中穏やかではないだろう。駆流先輩は、

「え? 俺、臭かったの?」

 とげんなりした表情で小さく言った。

「あぁ、あの、煙草の匂いがしないな、と思って」

 漸く言葉フレーズ選びチョイスの難に気付いた真杜さんが釈明する。

「あぁ、もう辞めたよ。此れからは本気で、否、今迄も本気だったけど、もっとずっと本気に為って、バンド遣ってくんだ。其れこそ、俺はKOOLで食ってきたいと思ってるし。身体にも悪いし咽喉のどにも悪いから、辞めた。やさぐれてる象徴あかしとして喫ってただけだから、俺自身別に好きで喫ってた訳じゃないしな。『KOOL』はバンド名に留めておいて、お役御免だ。ま、以前まえから『KOOL』だったけどな」

 そう言う駆流先輩の眼は、夢と情熱と将来の展望これからきらめいていた。

「あの、今日は何の用件で?」

 俺はしつけだなぁ、と自覚しつつも訊いた。

「何だよ、元部員は何か用が無いと来ちゃいけないのかよ?」

 駆流先輩は物腰柔らかく言った。然し、台詞だけを抽出すると、結構な不快感が表われている。俺は差し当たり、弁明の言葉を探り始める。

「あ、いや……そう云う訳じゃ……」

「ははは。良いんだよ、別に。そう気ぃ遣わんでも。楽に遣って呉れよ、此れからもたまに顔出すだろうからさ。末永く、上手く遣ろうや」

 駆流先輩は朗らかに笑いつつ言った。もう、以前の様な何処かしらに感じられる陰の様な印象は無い。憑き物が落ちた様だ、と思いかけて、俺は千風さんに対し無礼だ、と感じ、其の発想を打ち消した。

「此処は、俺の故郷ホームみたいなもんだからな。此処で過ごした何ヵ月かを、俺は忘れないし、忘れたくねぇ。だから此の部屋には来させて貰うぜ。何の用事も無くても、な」

 此の狭い部屋をぐるりと見回し乍ら、駆流先輩は言った。そして最後に、俺にウィンクを寄越した。

「済んません……」

「はは、だから良いって」

 駆流先輩が笑う。釣られて梨乃さんも笑顔だ。目尻に涙を湛えた、実は感動屋の真杜さんも微笑みを浮かべる。そんな皆を見て、俺も笑った。

「おーい、開けても良いかい?」

 合板を打擲ノックする音と同時に、扉の向こうから宮殿部長の声が飛んで来た。

「どーぞー」

 梨乃さんが答える。其の声を律儀に待ってから、扉は開いた。其の向こうに立っていたのは、宮殿部長と言海先輩、だけではなかった。

「有り難い事に、追加で新入部員が決定した。まぁ、もう顔馴染みだが、一応自己紹介を」

「はい!! 名嘉吉奈留美、柿手君と同じ1年機械科1組です! 宜しくお願いします!」

「えと、同じく1年機械科1組、菊場瑠子です。今後は部員として、宜しくお願いします」

 見慣れた級友が2人、其処に居た。まぁ、予想通り。一昔前の流行語で云うと、想定の範囲内、と云う奴だ。

「じゃあ早速、tRPGに就いて説明するから、正部室こちらの方へ……」

 宮殿部長がうやうやしく呼び掛ける前に、梨乃さんは2人を副部室に連れ込み、扉を閉めた。

「五輪君! また其方そっちに持っていくのか!」

 悲痛な宮殿部長の叫びを遮る様に、右手で名嘉吉の右耳を、左手で菊場の左耳を塞いだ梨乃さんは、2人の背後から

「はいはい、聞かなくて良いから。耳汚しで御免ね?」

 と遮断シャットアウトする様に言い聞かせた。其の模様を見ていた駆流先輩は、ふと腕時計を一瞥し、

「お、じゃあ俺は行くわ。また今度Zingでライヴ遣るから、見に来て呉れよ。招待するからさ、tRPG部の全員みんなを。詳しくはまた連絡するから」

 爽やかな笑顔を残し、駆流先輩は左手を振りつつ去っていった。其の手首に覗いた千風さんの形見のカシオ製の腕時計は、陰翳かげり無く綺麗に、目映まばゆく蛍光灯の光を反射した。


「あの、普段の活動ってどんな事をするんですか?」

 菊場が尋ねる。梨乃さんと真杜さんと俺は互いに眼を合わせ、返事にきゅうした。

「んー……まぁ、決まった活動ってのは何も無いんだけどね」

「成る程、反復ルーティン作業ワークは無いって事ですね! 刺激的じゃないっすか!」

 梨乃さんが捻り出した回答に対し、名嘉吉が両の瞳をキラめかせて言う。うーん、そんなに大層なモンじゃないんだが……。

「そんなに立派なものじゃないぞ? 唯喋ったり、茶華道部の方に顔出したり。此の間みたいに忙しく何かに取り組むって事は、まぁまれだな」

 余り期待値ハードルを上げられても困る、と流石に憂慮したのか、真杜さんが発言した。

「へぇ……そうなんですか」

 若干語気が落ちた名嘉吉は呟く様に返事した。俺としては、名嘉吉は此の程度のテンションで居て呉れた方が、気が休まるのだが。

「……あ。そうだ、柿手君、此れ」

 ざとい名嘉吉は、備え付けの棚に一部、置かれていたマグナム・オーパスの小冊子を見付け、手に取った。

「何だ?」

「此の小説の終幕ラスト、凄いよね! 良く思い付いたね、こんなの」

 まさか今に為って褒められるとは思わなかった。出し抜けに絶賛され、俺は照れた。

「うん! 良いね、此の終わり方。哀しいんだけど、少し救われる様な」

 斯う評したのは菊場だ。真杜さんも、其れに続く。

「ああ、同感だ。柿手にこんな文才が有ったなんてな。正直、驚いたよ」

「いやいや、そんな事……」

 煽てられれば、そりゃ悪い気はしない。俺は精一杯尋常を装いつつも、内心は舞い上がっていた。

「梨乃さんはどうですか? 凄くないっすか? 此れ」

 名嘉吉が梨乃さんに話を振る。脱稿直後に校閲チェックを受けた際、矢張り最終局面を褒められたが、改めて梨乃さんがどう思っているのかを聞くのは、妙に緊張する。

「……うん。素直に、良いと思う。良く考えたな、って」

 俺は天に舞い上がる様な気持ちを味わった。文字通り、精神が浮遊し成層圏ストラトスフィアを覗けそうな程だった。一方で相変わらず冷静ソウバーな自分も存在しており、次ぐ名嘉吉の言葉を聞き逃しはしなかった。

「どうやって考えたの? 此のオチ」

「え……どうやって、って言われても……俺にも分かんないさ、そんなの。何時の間にか思い付いてるモンだし」

 此れは嘘偽り無い本音だった。過去の自分の思考回路なんて理解する方が難しい。況して小説の執筆と云う特殊環境下での思考など思い返した所で説明しようも無いし、理解が追い付かないかも知れない。

 因みに、俺が書いた結末と云うのは、擦れ違いの果てに駆流先輩と喧嘩別れした千風さんは、KOOLが出演するライヴハウスへの道中でミニバンに撥ねられてしまい、たおれた先の方角に其のライヴハウスが在った、と云うもので、千風さんは最終的に駆流先輩のバンド活動を応援する事を決意し、仲違いの解消を図りにライヴハウスへ向かう途中だった、と云う意味合いだ。

 創作メイク・ビリーヴを含めた小説を、と云う発注オファーだったので、此の小説にはちょくちょく架空の内容が混入している。無論、此の結末も其の例に漏れない。俺は千風さんがライヴハウスへ向かう最中に轢かれてしまったのかどうかは知らない。だが、多少加飾しようと云う意図で、此の結末を練った。

「へぇー。やっぱり、小説書ける人って普通の思考回路とは違うのかなぁ?」

「そう云えば、尾井先輩も此の小説、良かったって言ってたな」

「そうだ!!」

 名嘉吉と真杜さんの声を掻き消すかの様に、梨乃さんは立ち上がり大声を発した。

「どうしたんすか?」

 俺が訊くと、梨乃さんは待ってましたとばかりに鼻を鳴らしつつご高説を垂れた。

「良い? ウルフ。部員が増える、と云う事は即ち、部活の団体としての規模が大きく為る、と云う事。そして、団体と云うのは規模が大きく為れば為る程、より一層の活動ドライヴ資金ファイナンスが必要と為るのよ!」

「はぁ」

「分からないの?! 詰まり、部員が増えたんなら部費も増えるのよ! 此れ社会の真理ね!!」

「まぁ実際は、そうばっかりでも無いと思いますけど……」

「馬鹿!! 水差さないの!」

「馬鹿、ってそんな」

「ウルフ、以前まえにあたしが言ってた事、覚えてるわよね?!」

「は、どれの事ですか?」

「ほら! 其のPCの事よ!!」

 そう言うと同時に、梨乃さんは備え付けの棚に眠る古い国産ノートパソコンが収まる黒いPCバッグを指差した。其れは俺が例の小説を執筆した際に使用した物だった。

「あんな化石ファスルじゃ碌にネットも見れないし、何かと遊べないのよ! ナルミとルコちゃんが入部しはいって呉れて部費が上がるとすれば、其の分で最新おニュー機種マシンを何台か買って貰うの!! そうすればより、我々の活動は円滑に為り、滞らなくなるわ!!」

 梨乃さんはグッと右の拳を握り込み、意気込んだ。

「おぉ! 良いっすねぇ! ウチも混ぜて下さい!」

 名嘉吉も梨乃さんに賛同した。確かに俺も、執筆で使用した際、余りの応答の遅さに若干苛立つ瞬間は有った。だから、正直、俺も大賛成だった。

「いやぁー、ナルミとルコちゃんのお蔭でパソコンを新調するってあたし達の悲願が達成出来るわ!! がとね!!」

 そう言うと梨乃さんはがばっと名嘉吉と菊場に抱き着き、2人一遍いっぺんに相手し始めた。

「わっ、梨乃さんっ、ちょ、くすぐった……っ」

「あっ……や、駄目ですってぇ……」

「まぁまぁ、そう言わずに! 遠慮しなくて良いから!」

 ……俺は完全に、梨乃さんの所為で性癖の持ち主セクシュアル・ディーヴィアントに為ってしまった。じゃなきゃ、女子が3人でいちゃこらしている此の図に、此処迄心拍数が亢進こうしんする筈が無い。精一杯、平常心を装い乍ら、俺は制止の声を掛けた。此れ以上は、俺が真面で居られない。

「辞めて下さいって! 大体、オレも今年度ことしの新入部員ですよ? もし部費が増額されるんなら、俺のお蔭でもあるんじゃないっすか?」

 ピタリと動作を停止した梨乃さんは、俺を見ると、

「何? ウルフ、アンタも混ぜて貰いたいの? 此のド助平スケベが!」

 などと巫山戯ふざけた事を口走った。全く、冤罪えんざいも良い所だ。……100パー真っ更な心で証言台から身の潔白を主張出来るか、と云うと、まぁ……舌をぶっこ抜くしか無くなるが。

「いや、そう云う事じゃなくて、……もう別に良いっすよ」

 釈明するのが面倒臭くなった。梨乃さんは笑い乍ら、声を上げた。

「冗談だって。んじゃ、新たな企画プロジェクト始動スタートね!!」

 名嘉吉は楽しそうだ。菊場も笑顔を浮かべている。真杜さんは温かい眼で一同を見守っている。そして、再びラージプロジェクトリーダー(因みに本田技研ホンダでは自動車の開発責任者の事を斯う呼称する)と為った梨乃さんは嬉しそうに満面の笑みを見せている。そんな皆を眺める俺も、きっと穏やかな表情をしているんだろう。

「新品ノートPCゴネ作戦、旗揚げよ!!」

「おぉー!!」

 ……幾ら何でも、もう少し企画の題名タイトルりましょうよ。俺は胸三寸さんずんで突っ込みを入れた。




 青春の蹉跌は、誰にだって起こり得る。此の事を俺は、駆流先輩から学んだ。

 そして、其れの回復可能性リカヴァビリティに就いても。即ち、何事も遣り直せる、と云う事だ。

 俺達は、幾度となく、間違える。しくじる。つまづく。しょうりの無い程に。

 でも、其れは仕方の無い事なのだ。今の俺なら、そう言える。前向きポジティヴな諦念を伴って。


 だが、遣り直せるのだ。取り戻せるのだ。心、気持ち、魂と云っても良いだろう、其れを喪わない限り、何遍なんべんでも。


 俺は、否俺達は、此れからも、どうしようも無い位に、しつする。

 でも、其の度に、再挙さいきょを図る。失敗エラーの度に。

「失敗は、挑戦する者にのみ訪れる。遣らない者には、失敗は無い」とある研究者エンジニアの言葉だ。俺は、此の言葉を知った時、強く共感した。


 失敗しても、躓いても、間違えても、挑戦する心意気は喪いたくない。

 俺達は、闘っているのだ、此の1分1秒を。

 其の気概だけは、失ってはいけない。失いたくない。


 そんな気持ちを胸に、俺は此れからの日々を送ってゆく――。

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