第17話 創業祭のマグロ

 酒飲みならば、避けては通れない戦いがある。

 食生活を万全にして胃の調子を整え、しばらくは飲酒も控えて体調を整えて臨みたい、と思う戦い。

 それが、行きつけの居酒屋の創業祭である。

 まず、創業祭期間中の一週間は、ビールがとても安くなる。生ビールの中ジョッキが半額である。

 さらに地場産の枝豆、人気の定番おつまみ牛すじ煮込みが三割引など、酒飲みには垂涎の価格設定が目白押しなのだ。

「さあ、早く行きましょう」

 落ち合うなり、さくらが言った。

「ええ。毎年この一週間はメチャクチャ混むから、開店時間を狙って行かないと座れる保証はないもんね」

 開店時間は夕方の五時。

 その時間に先んじて居酒屋に入れるのは、フリーランス稼業の強みである。

 二人は一番乗りで店に入り、顔なじみの店員や料理人にあいさつをして、いつものようにカウンターの隅に陣取った。

「いらっしゃい、早速来たわね」

 ママさんがお通しとおしぼりを持って来つつ、そう言って笑った。

「創業祭ですからね! おめでとうございます」

「はい、去年から一年間、楽しみに待っていました、おめでとうございます」

「あら、ありがとう。二人にはいっぱい来てもらったし、お世話にもなってるから、教は特にサービスしないといけないわね。飲みものはどうするの?」

 明美とさくらは、声を揃えて、

「生ビールを中ジョッキで!」

 と注文した。何しろ半額である。これを逃す手はない。

「あとは枝豆と、牛すじも頼んじゃう?」

「はい、もちろんです!」

「はい、すぐ持ってくるわね」

 笑顔のままそう言って、ママさんは新たに入ってきた客の応対に向かった。さすが創業祭、平時よりも客が入るペースが早い。

「明美さん、あとは何を頼みます?」

 そう訊きながら、さくらがメニューを手に取った。

 明美も一緒に、手書きの『本日のオススメ』のページに目を落とす。

「あ、天ぷら、美味しそうじゃないですか? 穴子とか稚鮎とかありますよ」

「いいね、美味しそう。でも、ビールなら天ぷらより唐揚げじゃない?」

「唐揚げ、確かに捨てがたいですね。鶏唐、頼みます?」

「鶏もいいけど、ここに気になるオススメがあるのよ」

「わ、活車エビの唐揚げ! すごく美味しそうですね!」

「でしょ?」

「是非頼みましょう!」

 殻までカラッと揚がったプリプリなエビを、頭ごとバリバリ食べる。そしてそれと合わせるビール。

 想像しただけで口の中が美味しくなってしまいそうだ。

「というわけで、ママさん、活車エビの唐揚げください」

 ビールと枝豆を運んできたママさんに、明美はそう声をかけた。

「あら、今日はお刺身はなしで揚げものにいくの?」

「まずは半額のビールを楽しまないと、ってことで」

「あらあら、お手柔らかにね。でも、マグロも創業祭価格でやってるから、それも食べていった方がいいわよ、自分で言うのもなんだけど、出血大サービスだから」

「あ、それは絶対に頼みます。でも、明美さんは、マグロを食べるときは日本酒が良いですよね、きっと」

「そうね、お刺身はなんであれ日本酒がいいかなあ」

「はいはい、じゃあ、まずは牛すじの煮込みがすぐに出ますから。活車エビの唐揚げも揚がり次第すぐ持ってきますから」

 枝豆、牛すじ煮込み、活車エビの唐揚げで半額ビールを散々堪能し、そしていざ、日本酒を頼んでマグロの盛り合わせを注文する。

 通常、赤身、中トロ、大トロの盛り合わせは二〇〇〇円弱くらいのお値段である。それでも決して高いとは思わない明美だが、今日は創業祭価格で一五〇〇円である。

 ちなみに、この店では、単品だと通常は中トロが一〇〇〇円、大トロが一三〇〇円である。通常の値段を知っていれば、出血サービスというのもあながち冗談ではないだろう。

「大特価なのに、量は据え置きなんですね」

 目の前に置かれた皿の上には、赤身も中トロも大トロも分厚くカットされてどーんと載っている。

「それはそうよ。いつもの盛りを知ってる常連さんにそんな小細工は通用しないし、初めてのお客さんにも減らした量でこんなものかって思われたらイヤだもの」

 何を言っているんだ、という顔で、ママさんは答えた。

「なるほど、確かに……」

「それにね、マグロに関しては、普段から赤字覚悟でお値段据え置きにしてる日だってあるのよ」

「えっ、そうなんですか?」

 驚いた顔で、さくらが訊く。

 明美にとっても、その発言はかなり意外だった。

「関東の人はね、マグロを食べてその店のお刺身の評価を決めるのよ。他のお刺身がどんなに美味しくても、マグロが美味しくないと、その店は『刺身が不味い店』って思われちゃうの」

「え、そんなことは……」

 言いかけて、明美は言葉を呑み込んだ。

 あるかもしれない。

 そう思ってしまったのだ。

 明美自身、必ず毎回マグロを頼むかというと、そんなことはない。季節の魚で美味しそうなものがあればそっちを優先するし、盛り合わせよりは単品で好きなものを頼むことの方が多いからだ。

 それでも。

 過去に「この店は外れだ、刺身がダメ」と思った店を思い返せば、確かにマグロの善し悪しで判断していたかもしれない。

「……ある、かも……」

 少なくとも、ないとは言い切れなかった。

「季節の魚だと、今日はたまたま仕入れが悪かったのかな、と思ってくれるお客さんも多いみたいなのよね。でも、マグロって通年で出している魚でしょう? 言ってみれば、美味しいのがあって当たり前なのかもしれないわね」

 さすがに明美は当たり前とまでは思わないが、冷凍技術なども発達したこのご時世では、仕入れのルートさえしっかりしていれば確保しやすい、というのはあるのかもしれない。目利きだけでなく、そうした人脈までもが今は飲食店の味の評価に直結するのかもしれなかった。

「だからね、これは赤字になるなあ、と思っても無理して良いところを仕入れないといけないときもあるの」

「なるほど……」

 気がつけば、六時を待たずしてすでに満席になってしまっている。馴染みの店員さんも、ひっきりなしに半額の生ビールを運んでテーブルの間を飛び回っていた。

 明美自身、この店の味には信頼感しかない。

 たぶん、今日この時間に座っている客の大半が、明美同様に感じており、その味を求めて足を運んできたのだろう。

 そして、これだけの人数の信頼を、目の前のマグロがずっと支えてきたに違いないのだ。

 一切れ、中トロをつまみ上げて、醤油につけてわさびと一緒に口の中へ。

 大トロとの差がほとんどないようにも思えるマグロの刺身は、舌の上でどんどん溶けていって、ほとんど噛む必要さえ感じさせず、純粋な旨味として口の中に広がっていく。

 美味しい、という言葉すら出ない。

 何かを喋って息を吐き出すのがもったいない。この香りと後味を口の中に閉じ込めて、一秒でも長く楽しんでいたい。

 そう思わせてくれる刺身だった。

 マグロの刺身を堪能する明美の顔を見て、ママさんは満足げに笑う。

「それだけ美味しそうに食べてくれると、私も嬉しいわ。ごゆっくりね」

 そして、他の常連客のところへ行って、会話の花をすぐに咲かせる。

 今日も、この店とママさんの評判と信用が積み上がっていく。

 美味いマグロと、お買い得価格の肴や生ビールがどんどん積み上げていく。

「これは、人気のお店にならないわけないですよね」

 そう言いながら、さくらも大トロを食べて、「んー!」と歓喜の声を上げている。

「ホントそれね。わたしたちも、それで通ってるんだもんね」

 そう返事をして、明美は日本酒を口に含んだ。

 マグロの後味だけで、日本酒がただただ美味い。

「良いお店を知ってることってさ、もしかしたらわたしたちが思っている以上の財産なのかもね」

 その呟きは、いつもの何割か増しの居酒屋の喧噪に溶けて、マグロの脂のように誰の耳にも届くことなく消えていくのだった。

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